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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2007-12-14-Friday ブログの開始

マジックの古書店オープン

小学校6年生(1970年)の時に、札幌に居る8歳上の従兄弟から「シカゴの四つ玉」という指の間に挟んだボールが増減する手品のタネをもらったことがキッカケになってマジックを始めた。

帯広という北海道の片田舎には先生になってくれるような達人は居なかったし、当時はまだビデオやDVD等の映像物は無かったから、本で覚えるしか方法が無かったのである。

足を前に伸ばして床に坐り、拡げた本のページを足の指で押さえて、壁に立て掛けた大きな鏡に自分の手を写しながら練習をしたものだ。

ビデオ等の映像なら10秒間で説明できるカード(トランプ)の持ち方も、本なら4ページほどを費やしてしまう。やたらと時間が掛かる練習方法であった。

元々、活字中毒で本に囲まれていないと落ち着かない性格だから、大学生の時は毎週の様に、神田神保町を始めとする古書店街を巡って歩いたものだ。卒業してからは所謂「大人買い」で収集に拍車が掛かった。

学生時代にお世話になったプロマジシャン・ジミー忍(聖忍)師が13年前に51歳という若さでお亡くなりになってしまったが、師も多数マジック関係の書籍を収集されておられた。「マジック博物館」を作って欲しいとの師の遺言で蔵書が私の所に送られてきたが、これまでは忙しさにかまけて整理が出来ていなかったのである。

今年3月末にまちづくり事業の「北の屋台」から卒業したので、ようやく整理に乗り出し、会社の一室に「マジック図書館(蔵書約5千冊)」を開設した。更にダブって持っている350冊ほどをリストアップしてマジック専門の古書店をオープンさせることにもした。

まだまだ未整理の本が多いが、少しずつリストも増やしていこうと思っている。映像で覚えるご時世にに本とは時代遅れだと言われるだろうが、本には愛着があってどうしても離れる気にはなれない。しょせんマニアの心理はマニアでない者には理解不能なのだと思う。私が死んだらマジックに興味の無い妻は果たしてこの本のコレクションをどうするつもりなのだろうか?

こんなことは心配してもしょうがない!

トコトンやってやるさ!


■2007-12-15-Saturday ブログのテーマ

マジック歴37年:こう書くとよっぽど上手いのだろうな!と思われる様に錯覚させるのがマジシャンの手の内である。

全ての情報を出さずに客が勝手に良い方向に推測する様に巧みに誘導する(マジックの専門用語ではミスディレクションという)のである。

最近では政治家もこの手を稚拙にマネする様であるが、年金問題の公約で新聞を騒がせている「言葉足らず」とゴッチャにされては困るのである。レベルが違うのだ。

マジックを趣味とする人間として悔しいのは、新聞などでは「手品・奇術・マジック」という言葉を「ごまかす」「騙す」という意味に使っていることである。

マジックは不思議を媒介とした素晴らしい総合エンターテインメントなのである。騙している訳ではなく、不思議を演出して楽しませているのに不等な扱いを受けている。

どうやら日本人はマジックに対して偏見を持っているようだ。

人間の脳みそはサプライズを感じると活性化するという類のことを脳科学者の茂木健一郎氏も言っていたと思うが不思議な現象を見せるマジックは脳を活性化させるのである。

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■2007-12-17-Monday 映画

15日の土曜日に夫婦で映画を見に行った。何と仲の良い夫婦なのだろうか!(自分で言ってりゃ世話がない)

映画館が「夫婦50歳割引」というサービスを行っていることを先月の鑑賞時に初めて知った。夫婦どちらかの年齢が50歳以上(遂にそんな年齢になってしまったか・・・)で夫婦二人で一緒に同じ映画を見るなら二人で2000円という料金設定なのである。

一般入場料金が一人1800円だから二人で1600円もの割引になるとてもお得な料金だ。

シネマコンプレックスだから沢山の映画が同時にかかっているが、それぞれが別々の映画を見ることは対象外なのだ。二人一緒に同じ映画というところがミソなのである。

どんな映画を見たいのか男女の好みは分かれがちだ。

私は映画はストレス発散の為に見たいので、スカッとする単純な活劇モノが好きである。見終わった後で???となる様な考えさせられる内容の映画はあまり好みではない。

夫婦一緒に映画を見るにはこの第一関門の好みの一致が難しいのである。

私は今回「アイ・アム・レジェンド」を見たいと言ったのだが妻はあまり気乗りしていないようであった。インターネット上で事前に調べたら個人の批評が「つまらなかった」とか「金返せ」などと載っていたからきっと面白くないと思う、と言うのである。映画の評価はしょせん主観だし、それぞれの好みの問題だ!人の批評なんかそんなの関係ねぇ〜!と強引に見に行った(他に見たいものが無かったし・・・)。

結果は面白かった!

映画ナンてものは楽しければそれでイイのだ!

映画の中では、主人公が愛犬とともに一人だけNYで生き残る云々という内容なのだが、見終わった後で夫婦で、もし自分がこんな状況になって我が家の駄犬サニー(ラブラドールレトリバー)くんとだけになったらどうなるだろうね?と話し合った(チャンと会話がある夫婦なのですよ!)。

どうしようもない駄犬だけれども、きっと存在するだけで慰めてくれるのだろうなぁという共通した意見に収まった。

帰宅後にサニーくんをしっかりと抱きしめた。彼は意味も判らずキョトンとしていたが・・・

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■2007-12-18-Tuesday 朝の食卓

先日のブログ「映画」で我が家の駄犬サニーくんの件に少々触れたが・・・

サニーくんの事を全く知らない人が読んでも意味が判らなかったことと思うし、道外の方には初見でもあるので、北海道新聞社の朝刊の「朝の食卓」というコラム欄に私が執筆(2003.01〜2006.12)した全37編の中のサニーくんについて書いたコラム2編をそのまま掲載する事にする。少しは事情が判ることと思う。

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■2007-12-19-Wednesday 今年の漢字

「人の為」と書いて偽りと読む!

今年の漢字に「偽」という字が選ばれた。食品にまつわる偽装が多かったということなのだろう。

人が口にするものに危険なものを混ぜるという行為は許される事ではなく、これは論外だが、他人に頼り切るというのもかなり問題があるのではないだろうか?

私が小さい頃に食べ物に関して親に言われたのは「落ちている物は絶対に食べてはいけません(不明なものは危険だから)。自分で落とした物は洗って食べなさい(もったいないから)。」であった。

昔は賞味期限なんてものは無かったから、臭いを嗅いだり、少量を口に入れてみて味が変わっていないか確かめてから食べていた。自分の五感を信じて食べられるか、食べられないのか自己責任で判断していたのだ。万が一腹を壊したら自分の判断が誤っていたのだからと諦めもつく。

現代のようにいわば他人が決めた賞味期限に振り回されて、それを鵜呑みにして自分の感覚を磨く事を止めてしまえば、ますます他人依存の世の中になってしまうのではないだろうか。

私は賞味期限は不要だと思っている。

表示は製造年月日だけで良いのではないかと思う!

これだけ世の中が他人依存化し、そして何か問題が起こったら徹底的にメディア等に叩かれるから、メーカー側は恐くなって、賞味期限を短めに設定することになるだろう。そうすると消費者側はまだ充分に食べられるものなのに賞味期限が過ぎたからと自分で確かめもしないで捨てることになるだろう。

なんとモッタイナイことか。

日本国内でそんなことに慣らされてしまえば、途上国を旅する事など出来なくなるではないか。日本の表示は世界標準ではない!

グルメブームなどと言われているが、自分の舌で食べられるか否かの判断も出来ない奴がグルメなんかであるはずがないではないか。落語の「酢豆腐」と同じように知ったかぶりをしているだけだ。

製造者側が企業倫理として安全で安心なものを提供するのは当然のことだとしても、過剰な規制はよろしくないと考える。

銃の規制がこんなにデタラメなのは大問題だが・・・


■2007-12-20-Thursday 地球環境問題

十勝に地球環境問題を専門に扱う大学の設立を計ったのは1992年のことだった。

ここ最近、世界的に地球環境問題への関心が急激に集まって来ていると感じる。

今から16年前の1991年に帯広商工会議所が十勝に大学を創りたいと言い出した。帯広には「帯広畜産大学」・「大谷短期大学」の2校が在ったが、地元の人間が入れなかった(国立二期校、農畜産系)り、女子短期大学であったりというということから、新しく大学を設立しようと呼び掛けたのである。

その大きな理由は経済面であった。東京や札幌に子供を出すと、授業料、生活費、旅費その他の出費が嵩み、親のスネが細くなり、地元での買い物などが抑制される。帯広に大学があればそれらの出費がなくなり、学生も地元で暮らせばバイトをしたりして経済が活性化する。という類の考え方であった。

その活動に協力せよ!との要請が帯広青年会議所(JC)におこなわれた。商工会議所と青年会議所は名称は似ているが何の関係も無い団体である。だが帯広市のような人口17万人程度の小さな町では、親が商工会議所の議員で息子が青年会議所のメンバーという構図がごく普通になる。断ることは難しい状況であったと思われる。

91年8月にJCの例会で「公立大学設置問題を考える」を開催して取り組み始めたのである。因みにこの年の私は都市環境委員会の委員長を務めており、環境問題に関わりを持った年でもあった。

翌92年には大学問題委員会が作られて私も委員として配属され、そこで地球環境問題を扱う「十勝国際環境大学」を創ろうと提唱したのである。

93,94年(JCは毎年全役員が入替るので活動の継続性には難点がある)はこの活動は下火になってしまった。

95年の理事長から私に副理事長として「国際環境大学構想プロジェクト」を担当して欲しいとの要請を受けて積極的に活動を再開した。

地球環境問題を科学的に研究する大学ではなく。ISO14000Sなどの環境マネジメントの出来る人材を輩出する大学を創ろうとしたのである。

ところが・・・

当時の世相は「環境問題は経済活動の邪魔」「エコロジーとエコノミーは言葉は似ているが相反する活動」などというような時代で、地元のお偉方からも環境問題など勉強しても意味が無いと、まったく相手にしてもらえなかった。

先を見通すことは難しい!だからその時にピークのモノを追いかけてしまうのであろう。長期のプロジェクトでは予測が大切だと思うのである。頭の固い人間は長期プロジェクトには向かない。

2001年に開学する予定であったから、最初の卒業生を輩出するのは2005年になる。その時に卒業する学生が就職できるような大学でなければ学生は集まらない。どの大学だって少子化で苦しんでいるのに、経済学部や文学部などのありふれた大学を創っても・・・

今また、商工会議所が大学問題を言い始めた。あの時に思い切って地球環境問題を扱う「国際環境大学」を創っていたならどうなっていただろうか?

少なくとも世界的な話題にはなっていただろうな、今年のノーベル平和賞は・・・と夢想する今日この頃なのである。


■2007-12-21-Friday 十勝環境ラボラトリー

環境大学が頓挫して、十勝環境ラボラトリーが誕生!

さて、昨日のつづき

95年は青年会議所(JC)の副理事長として「国際環境大学構想プロジェクト」の推進に1年間精力的に努めた。しかし1年間では出来る事には限りがあり、やり残したことが沢山あるから翌96年は時のJC三役に働きかけて「国際環境大学構想特別委員会」を設置してもらい異例の特別委員長として更なる活動を行なった。

行政や商工会議所に創ってくれと陳情するだけでは「人頼み」になってしまう。大学は金が無いから創れないとしても、自分達で出来る事を同時平行して行おうと考えたのであるが・・・、青年会議所という組織も活動をスピーディーに行うには手続きが結構煩わしいのである。一つの事業の承認を得るのに2〜3回の会議を経なければならないのである。既に提案してからは4年が過ぎているし、精力的に活動を開始してからも1年間が経過している。

強力な大学教授達等や企業の協力者も現れた。協力者してくれる相手にJCに諮るから一二ヶ月間待ってくれなどとはとても言えるものではない。

そこで、別組織を立ち上げることにした。それが「十勝環境ラボラトリー」なのである。

創設にあたって、まず理念を作った。

「21世紀型の大学を創り出そう」「十勝を安全で安心な食料とエネルギーを自給他足できる場所にしよう」「十勝から新しい価値観とライフスタイルを発信することで地球環境問題に貢献しよう」ということだった。

21世紀型の大学とは十勝に暮らす人達全員が学生(高校を卒業した18歳の人だけが入る所ではない)、有用なプロジェクトを興してそれを推進することで地域力を強化する、教授は協力者たちが務めるというものである。

十勝で作り出すことの出来る安全で安心なエネルギー(電気など)で動く自動車や生産できる農耕機具、暖まることのできる住宅を開発し、脱化石燃料化を図ろうというものである。一般の住民の生活は使用する道具を動かすエネルギーが替わるだけで大きな変化が伴わないから移行し易いと考えた(当時は環境問題に対してアレルギー的な拒否反応が多かった)のである。

十勝は日本国内でも著しく石油に頼っている地域である。十勝で生産出来ない石油にいつまでも頼っていては、石油の価格が高騰したり、生産量が減ったりしたら十勝はたちまちヘタバッテ(当時のお偉方はそんなことは起こりえないと言っていたが現在は?・・・)しまう。幸いにも十勝は日照時間が長く、温泉が出るし、河や海もあるし、バイオも使えるから石油に代わるエネルギーで暮らせる様にしよう!

この目標を達成する為に同時に以下の9つのプロジェクトを6年間の期限付きで開始したのである。

①場所カーP(日産自動車と協働) ②場所環境住宅P(早稲田大学石山修武研究室と協働) ③国際環境大学公開講座 ④食文化環境P ⑤田園ライフスタイルP ⑥環境童話制作P ⑦十勝川水系調査P ⑧新聞紙上セミナー ⑨都市構想P

(つづく)


■2007-12-22-Saturday アンコール・ワット

本年11月初旬にカンボジアのアンコール遺跡調査の第一人者、石澤良昭上智大学学長(帯広市出身)から3回目のご招待を受けた!

その時の模様をレポートするが、まずは順を追って前回2回目のご招待時に地元の十勝毎日新聞社から依頼を受けて書いたレポートから紹介する。

2004年1月28日(水)掲載

NHKのプロジェクトXという人気番組でも取り上げられたアンコール・ワットの修復を現地の人々に指導している上智大学の石澤良昭教授のお招きでカンボジアのアンコール遺跡群を一昨年に続いて再訪した。

前回(2001年12月)の訪問は私達のグループ「十勝場所と環境ラボラトリー」の公開講座に帯広出身の石澤教授を講師として招き、懇親会の席上で同窓(帯広三条高校・上智大学出身)でもある浅野祐一(浅野カメラ堂社長)さんが先生の活動に感銘して自動車の寄贈を申し出たことによる。その「自動車の寄贈式をカンボジアでやるから、きっかけを作ったお前も同行せよ」と言われた。何せアンコール遺跡研究の世界的権威から案内頂けるのだから、ある意味で最高に贅沢な視察だ。何をさておいてもと喜んで参加したのであった。

今回の訪問は昨年(2002年)の11月初旬に石澤教授が墓参りで帰勝した際に、浅野さん、越前博雅(丸越会長)さんと私の三人で教授を囲んで会食をした際に、酔って気前の良くなった浅野さんが「先生、次は何を寄贈しましょうか?」と言い出したことによる。その申し出に教授は「えっ?本当に何でも良いのですか?」と心配そうに尋ねたのであったが「私にまかせてください。何でも必要な物を贈りますよ!」と胸を叩いて力強く言い切ったのであった。「では、お言葉に甘えまして石積み作業用に小型のクレーンが必要なのですが・・・」と教授、「分かりました。良いですよ」と値段も判らないのに引き受けて「坂本!すぐに調べて対応しておくように!」と私がその作業を仰せつかってしまったのだ。

早速、調べて報告に行ったが金額は自動車の倍以上。「本当に良いのですか?」と私が尋ねると「男が一旦口にした以上、約束は守る。すぐに手配して寄贈しろ!」という事になり、2003年2月末には手続きを終え、3月には現地に到着し、整備・訓練の後6月より石積み作業を開始したとのこと。

教授から今回も気候の良いこの季節に寄贈式を行うので来て欲しいとの要請に、前回とは違う遺跡を案内してほしいとの要望をし、女性2名と大分から参加の2名を加えた一行七名で12月18日からカンボジアを訪れた。


■2007-12-23-Sunday アンコール・ワット 2

十勝毎日新聞 2004年1月29日(木)掲載

石澤良昭上智大学教授はアンコール・ワットの西参道の修復を現地のカンボジア人達に指導し、修復のノウハウを伝えることで、たとえ自分達が居なくなっても事後はカンボジア人自らの力で遺跡の修復を自力で出来るように「カンボジア人による、カンボジア人のための、カンボジアの遺跡保存修復」をと尽力されている方だ。

どこかの国がやっている、金を出すだけのODAや、自分たちだけで作業してノウハウを現地の人に伝えない修復は言わばその場限りの貢献であり、俺達がやってやったんだという自己満足にしか過ぎないものなのではないかと思う。

カンボジアと日本では気候風土も大きく異なる、日本で有効な技術であってもそれがそのままカンボジアで即有効とは限らない。その場所の社会や文化と切り離した文化遺産の保存は意味が無いと思う。私達のグループ(BakaLabo)の活動理念である「場所論」にも通じる考え方だと感じた。

自国の財産を自分達の力で修復し、遺跡を文化財としての観光資源とすることで自国を潤わせる、現地の人が誇りを持てる活動であるところが素晴らしいと思う。

寄贈式は12月18日の午後にアンコール・ワットの西参道の作業場にテントを張り、カンボジア仏式の僧侶五名によるおごそかな読経のなか厳粛に儀式がとりおこなわれた。寄贈者と受贈者が共にクレーンを贈ります、戴きましたと仏陀の御前で宣誓し合い、作業の安全を祈るのである。

今回浅野さんが寄贈した小型クレーンも自動車と同じに「浅野号」と命名された。これまでの石積み作業の能率を4倍にしてくれたし、なにより石を持ち上げる肉体的な負担が軽くなったと、日本人より華奢な体格のカンボジア人作業員達が感謝していた。既に6月の作業開始から重さ350Kgの石を300個積み上げたそうだ。

石を手で加工する伝統的技術を復活させる一方で、重たい石の運搬には効率的な機械を使用する。これによって余分な労力の軽減ができ作業の安全性も向上した。実り多い貢献であると感じた。


■2007-12-24-Monday アンコール・ワット 3

2004年1月30日 十勝毎日新聞掲載 「ベン・メリア寺院」

前回(2001年12月)の視察とは別に、普通の観光客が行けないような遺跡に案内いただきたいと石澤教授にあらかじめお願いをしていた。

2003年12月19日午前6時、まだ外が暗い中、三台の車でホテルを出発した。最初の目的地はアンコール・ワットから東に約60㎞の所に位置する「ベン・メリア寺院」である。

途中にすれ違う車の数は数台ほど、カンボジアはまだまだ自動車は少ない。シェムリアップの街中は二三人乗りのバイクや自転者で溢れかえっているが、郊外ではほとんど見かけることもない。道路の舗装(簡易舗装)も街の中心部だけ、前回寄贈したワゴン車の浅野号は赤い砂埃を巻き上げながら片道2時間の凸凹道を快調に走り続けた。

カンボジアの一般家庭にトイレは無い。道路沿いの食堂ですらほとんど無いのが実状であり、都会に暮らす人間にとって、生理現象の処理は一大事である。カンボジアではちょっと草薮に入って用を足すというわけにはいかない。草薮は地雷や蛇が恐ろしいからだ。こんなことなら昨夜のビールは控え目にしておけば良かったと悔やまれた。

ベン・メリア寺院一帯はポル・ポト派の支配下にあり1970年以降には保存・修復がおこなわれていなかったために再び密林に覆われてしまい、少し前までは遺跡の中を見ることが出来なかったが、樹木を伐採、整理してようやく見る事が可能になったばかりの遺跡である。気分はまさしく探検隊だ。

ベン・メリア寺院は「東のアンコール」と言われる所で寺院の規模はアンコール・ワットより少し小さいだけ、幅45メートルの環濠を持ち、周囲は4.2キロである。造営年代もアンコール・ワットより20年程早い十一世紀末〜十二世紀始め。設計図、配置図、塔堂構成、回廊などもほとんど同形式である。「この寺院で技術や技法を発展させて、アンコール・ワットを造ったのではないかと推測されている」と石澤教授の解説。こんな学術的な解説付きのとっても贅沢な視察なのである。


■2007-12-25-Tuesday アンコール・ワット 4

2004年1月31日 十勝毎日新聞掲載 「聖地プノン・クレーン丘陵」

次に訪れたのは、アンコール・ワットの北東約40キロに位置するプノン・クレーン丘陵。1960年に新しく発見された遺跡で、石切り場でもあった。

再び酷い凸凹道を1時間ほど走って到着した。石澤教授は「移動の間はお疲れでしょうから眠っていても良いですよ」と言ったが、とても眠れたものではない。むちうち症にならないように気をつけながら手すりをがっちりと握りしめていた。

見渡す限り平らなこの地域で、唯一頭が突き出ているのが標高487メートルのプノン・クレーン丘陵である。これからこの山に登るのだと言う。

山の入り口には、食堂とみやげ物屋が並んでいる。石澤教授も「この前までは無かったのに」と驚いていた。人が来るようになると店ができるのは万国共通の現象なのだ。

カンボジアの人はこの山を、ヒンズー教の聖山「須弥山(しゅみせん)」に、この山を源流とするシェムリアップ川を聖河ガンガー(ガンジス川)にみたてたという。

50分かけて山道を登ると小さな滝があった。その上流の河底の岩に神々が彫られている。プノン・クレーン丘陵にはもともと土着の精霊信仰があったが、「アンコール朝の創建者ジャヤヴァルマン2世(在位・802−834)は即位にあたりこの地で儀式を執り行って神から王位を授けられた、いわゆる王権神授で王権を確立した」と石澤教授から解説を受ける(これほど詳しいガイドはいない)。

王たちは即位するとすぐに大寺院・都城・王宮の三点セットを建設しなければならない。この三点が揃ってはじめて王たる証が整う。しかし、二十六人いる王の内で完成させたのはたった四人しかいないという。王になるのもしんどいものだ。

少し上流に行ったらヴィシュヌ神の見事な彫刻があるという。行ってみたら何と削り取られ、盗まれているではないか。「9月に来た時にはあったのに・・・」と石澤教授も呆然とし、ひどいことをする奴がいるものだ、と怒っていた。何でも金、金、金で平気で文化遺産を破壊する。買う奴がいるから盗む奴も出てくるのだ。嘆かわしいことだ。

いささか気分を害して丘陵を後にした。


■2007-12-26-Wednesday アンコール・ワット 5

2004年2月3日 十勝毎日新聞掲載 「ライトアップしたアンコール・ワット」

滞在中、幸いにも「アンコールの夜・2003」というアンコール・ワットをライトアップする三日間だけのイベントに遭遇した。アンコール・ワットの裏側にあたる東側正面にステージを造り、フランス人による現代舞踊とカンボジア人による民族舞踊を演じるイベントだ。

観客席はさらに東外側に造られているのでライトアップされたアンコール・ワットを背景にした舞台となっている。初日(19日)の舞台は主賓としてフン・セン首相が招かれていたが、到着が三十分遅れたために暗い中(始まるまではライトアップしていない)を何のアナウンスもないままに待たされた(あっても意味は聞き取れないのだが)。さすがにカンボジアでも12月は冬だけあって半そでのTシャツだけでは肌寒い。「早く始めて」とブツブツ言っていたのだが、演技が始まりライトアップされた瞬間、その幻想的な美しさに感動した。かつてのアンコール・ワットは金で覆われ黄金色に輝いていたという。照明で浮かび上がった姿はその面影を彷彿とさせてくれた。

ボーッとして背景のライトアップされたアンコール・ワットばかりを眺めていて、演技はほとんど見ていない。演技が背景のすごさについていっていないのだ。こんなすごい背景の舞台で演じるのは大変なことだなぁと感じた。

翌朝、シェムリアップ市内の「オールド・マーケット」という市場に出かけた。生活に必要なありとあらゆるものが売られている。自分で取ってきたのであろう果物や魚などを並べて売っている姿はじつに活気にあふれていた。値段は交渉次第。なぜそんなに安くなるのか理解できないほど値段がどんどんと下がっていく。一緒に行ったある人は交渉している内に錯覚を起こし、かえって最初よりも高く買ってしまった。それほど金銭感覚が麻痺してしまう。

帰国の際の空港での待ち時間がやたらと長いので手続きを終えた後に、近くに出来た(まだ完成していないのに客を入れている)ばかりの「民族文化村」に行くことにした。かなりお金をかけた施設だが、しょせんは贋物でしかない。本物の遺跡を見た後で訪れてもまったく意味が無い施設だ。もっと別な事にお金をかけたほうが良いのにと感じただけだった。


■2007-12-27-Thursday アンコール・ワット 6

2004年2月4日 十勝毎日新聞掲載 「生活」

二度目のカンボジアは大きく変わっていた。シェムリアップの空港は新しくなり、街中に向かう道沿いには次々と新しいホテルが建築中だ。

終戦直後の日本もこんな状態に近かったのであろうと思う。しかし、1950年代との大きな違いは、特に電気製品の進歩が象徴しているように感じる。あの当時はいくらお金を出したってビデオや携帯電話は製品になどなっていなかった。カンボジアの田舎はまだ電気も無く、テレビはおろか照明すらない一方、都会のホテルにはコンピュータをはじめとする最新の電気製品が揃い、携帯電話(線を引くより効率的なので普及している)で話す現地の人達がいる。都会と田舎の落差が激しく、しかも金さえあれば最新の技術が手に入るのだ。

カンボジア人の平均的収入は日本円にして一日180円前後だそうだ。ホテルで働く現地の人にアメリカに旅行に行ったつもりでチップを一ドル払うと二人からもらっただけで日給以上の収入になってしまう。

ちょっとしたサービスの提供で簡単に大金(カンボジアの価値で)が手に入る。貧富の差はますます拡大していくと思われる。活気があるのは認めるが、かつての日本が歩んできたような道を辿ることが果たして本当の幸せなのだろうか。

遺跡の近くでは、子供達が絵葉書や本などの土産物を手に持って観光客に売りに来る。大人が売っても売れないから、子供を使って商売をさせているのだ。売り上げは大人に全部取り上げられる。買っても仕方が無い物だし、お金だけ恵む行為は失礼だ。少しでも子供達に報いたいと思い、クリスマスも近いことだしと日本から飴を十種類十個ずつ入れた袋を五十個作って持参した。子供達に配ったところ皆とても喜んでくれた。さすがに大人も飴は取り上げないらしい。でも本当は紙と鉛筆のほうが良かったのかもしれない。

カンボジアでは米は一期作、自分たちが食べる分以上は作らないそうだ。そこら中においしい果物がなり、川には魚が泳ぎ、気温が高いから冬でも着の身着のままでいられる。家も雨風を防ぐ最低限の屋根と壁があれば良い。つまり衣食住全てが満たされているのだ。

何が本当の幸せなのかは死ぬ瞬間まで分からない。そんなことを感じた旅であった。


■2007-12-28-Friday 帯広って良いところだなぁ〜

22日(土)に釧路から長男(18歳)が、翌23日(日)には東京から次女(19歳)が帰郷した。

次女はとかち帯広空港に着くなり「ジンギスカンが食べたい」と言う。私が大学生だった頃はまず真っ先に「母親が作った料理が食べたい」と言ったものだったが・・・

料理を作る手間が省けるから、妻が反対する筈はない。「食べ終わったら皆で温泉に行こう!」と付け加えることも忘れなかった!

帯広のジンギスカンは安くて美味い!

近所の「焼肉平和園」は日曜日にはいつも超満員だから早目の5時半に行ったのだが、既に駐車場は満杯で、1時間以上の待ち時間だという。誰しも考えることは一緒のようだ!

平和園の「ジンギスカン定食」は『ジンギスカン肉1人前・ライス・味噌汁・漬物・フルーツ』が付いてたったの520円なのである。肉が一人前では少ないから、定食をベースにして他の肉を追加するのだが、ジンギスカンの並は一人前310円という安さなのである。因みに平和園のメニューではジンギスカンは上(510円)・中(410円)・並(310円)となっているのだが、値段が高ければ美味いというものではないのである。帯広に暮らしている「通」は並を注文するのであ〜る。ジンギスカンの上中並は脂身の量(部位)で決まる。脂が少ないほうが値段は高いのであるが、実は脂が多いほうが甘くて美味しいのだ。羊肉の脂は食べても肥らない(モデルの人たちがそう言って食べていた)そうだから、並の脂身が多いほうが、安くて美味くて健康に良いということになるのである。

1時間も待てない(十勝人は待つのが苦手)ので、別の「北海道」というジンギスカン専門店に行って食べてきた。この店もまた美味いのだ。お腹一杯に食べた後には、一休みしてから温泉である!

十勝は何処を掘っても温泉が出るから、帯広の銭湯は全部が温泉(サウナ付き)なのである。しかも、帯広の泉質は日本ではここだけ、世界でも二箇所にしかないという「植物性のモール温泉」なのである。ウィスキーの様な茶色でヌルヌルして肌に良く、湯冷めしない泉質だ。他の日本の温泉の泉質は「鉱物性」であるからアレルギーの人には向かないが、モール温泉はアトピーの治療にも効果があるらしい。銭湯だから料金は390円ポッキリである。回数券を買えば一回たった351円で入れるのである。

最近の石油高では、自宅でお風呂を沸かすより、温泉の銭湯に行ったほうがはるかに安上がりである。ジンギスカンと温泉を堪能しても料金は一人1200円足らずである。帯広って良いところだなぁ〜!


■2007-12-29-Saturday マジック 1

マジシャンは「人類史上2番目に古い職業」と言われている。

ここらでマジックに関する薀蓄を一席!

因みに一番古い職業は「売春」である。商売の「商」という文字は字源辞典によると「女陰、子供の生まれるところ」とあるので中国では・・・

古代エジプトの魔術師や日本では邪馬台国の卑弥呼などのシャーマン等もマジシャンの分類に入ると言われている。大英博物館所蔵の「ウェストカー・パピルス」(B.C.1700年頃、3800年前)には「第4王朝時代に3人の魔術師がマジック(おもちゃのワニを本物に変えた。ガチョウの首を切ってまた元に戻した)を演じた」という記録が残っている。また、中部エジプトの「ベニ・ハッサン」という村の洞窟には「カップ&ボール」というマジックを演じている壁画がある。

日本では奈良時代(729年頃)に中国(唐)から「散楽」が伝来し、朝廷公演の余興として演じられたという記録が残っている。「刀を呑む術」「火を吐く術」等、手品・手妻の呼称も古く「遊芸起源」という書物には、「後花園天皇の御代(1429-1463年)に滝川正蔵という手妻師がいて手品の興行をした」ことが載っている。1543年にポルトガルからトランプが渡来し「うんすん加留多(かるた)天正加留多」などと言われていた。

19世紀(1840年頃〜)になると近代奇術の父と言われる「ロベール・ウーダン(フランス)」が活躍する。この人はマジックを活用してアフリカ大使にもなった人物である。

日本に於ける近代奇術は1880年頃から「松旭斎天一(しょうきょくさい てんいち)」が活躍、1901年には渡米公演までしたのである。日本に於けるマジシャン本流の系統はこの天一の弟子たちなのである。図にすると下記の系統になる。

松旭斎天一 → 松旭斎天二

      → 松旭斎天勝 

      → 松旭斎天洋 → ①引田天功

      → 石田天海    ②島田晴夫

                ③八田加寿雄

                ④ジミー忍(聖忍)

                ⑤バーディーコヤマ

                ⑥Mr.マリック(松尾昭)

天一の弟子で愛人でもあった天勝は一世を風靡した大人気女性マジシャンであった、当時はテレビなど無い時代だから、顔など誰も判かりゃしないと日本全国に大勢のニセモノ達が横行したのであった。

天一・天勝一座でともに活躍した天洋(天一の甥っ子)昭和6年に三越で奇術道具の実演販売を開始する。これが後に「天洋奇術研究所」になり更に㈱テンヨー(デパートでマジックの実演販売)になっていく。このテンヨーの実演販売員(ディーラー)から引田天功らが育っていくのである。因みに私の師匠のジミー忍(聖忍)師もこの系統(テンヨーのディラー→プロマジシャン)なのである。


■2007-12-30-Sunday マジック 2

マジックの薀蓄話「マジックと映画の関係」

マジックは映画とも深い関わりがあったのである。

1895年12月28日にリュミエール(オーギュスト&ルイ)兄弟によって初めてスクリーンに上映され、記録映画として歩み始めた映画に、様々なトリックや物語を導入して今日の映画の基礎を築いたのがジョルジュ・メリエス(1861—1938)である。リュミエール兄弟がドキュメンタリー(記録映画)の開祖、メリエスはフィクション(劇映画)の開祖と言われている。

ジョルジュ・メリエスはかつてイギリスに留学していた。芝居を楽しむほどにはまだ英語を理解していなかった彼は、言葉が解らなくても楽しめるマジックを上演している「エジプシャン・ホール(註)」に足繁く通うようになる。当時魔術師マスケリンが運営していたこの劇場では、マジック以外にも幻想的な舞台作品も上演されており、メリエスは完全にマジックの虜になって、1884年にパリに戻ってからマジシャンになるのである。

ロベール・ウーダン(フランス)が1845年にパリに「ロベール・ウーダン劇場」を設立しマジックが演じられていた。この劇場を1888年にマジシャンになったジョルジュ・メリエスが所有、経営するようになった。リュミエール兄弟(映画シネマトグラフの発明者)は当初この劇場の最上部を借りてシネマトグラフの実験を行っていたと言われている。メリエスはたぶんこの実験を見ていたのであろう。メリエスはこの第一回目の上映会(1895.12.28)に招待され「動く映像」に度肝を抜かれ、シネマトグラフの機械(撮影機兼映写機)を売ってくれと懇願するが断られる。しかし、メリエスは何等かの装置を使用して1896年4月4日からロベール・ウーダン劇場でエジソンのフィルムを上映し始めるのである。

1896年3月にロバート・ウィリアム・ポールがアニマトグラフ(別名シアトログラフ)を販売し始めると何台かを手に入れたと言われている。メリエスはリシュアン・ルーロスと共同でこの装置を改造して映画撮影機(映写機兼用)を作り、1896年9月2日に特許を取得する。これが「キネトグラフ・ロベール・ウーダン」と呼ばれる装置である。その後この装置を使ってマジックの要素を取り入れた不思議なトリック映画(月世界旅行、婦人の雲隠れ等など)を多数(500本以上)製作・監督・上演した。

メリエスはリュミエール兄弟やエジソンのような映画の発明者ではないが、今日の映画の基礎を作った人とも言えるのである。

(註)エジプシャン・ホール:イギリスのロンドンでは1873年に「エジプト館(イギリスの神秘の殿堂)」をジョン・N・マスケリンが設立。


■2007-12-31-Monday 2007年を振り返って

私にとっての今年一番の大きな出来事は「北の屋台」を卒業したこと!

3月末日をもって1999年から7年間に亘って関わった「北の屋台」事業から卒業をした。実質的には昨年の12月中旬には(12月末日付けで「十勝場所と環境ラボラトリー」の10年間の活動も終了した)辞めていたので既に丸一年が過ぎた事になる。新聞をはじめとするメディアにも様々な憶測記事を書かれたが、詳細をお知らせする事はもうしばらく控えておきたいと思う。ここでは「現理事者らとの運営方針に大きなズレが生じた」とだけに留めておく。

北の屋台を辞めてから生活面では大きな変化があった。

「酒量」が極端に減ったのである。

専務理事時代にはほとんど毎日のように北の屋台に視察に来た人たちを、案内し、解説をしながら一緒に屋台でお酒を飲みながら且つ食べていたのだ。

私は自分で言うのもおこがましいが割りと几帳面な性格で、毎日、手帳に日記的な(行事、食事のメニュー、飲酒の有無、など等の)書き込みをしてデータ分析しているのである。屋台を始めた1999~2006年の7年間の飲酒をした日を年間平均すると300日程にもなり、飲まなかった日は65日程度しかないという生活を7年間も続けていたから、さすがに肝臓が参ってしまい、昨年の8月末には体調を崩して全身にジンマシンが出たのである。

体型もすっかりメタボリックになってしまった。

依頼を引き受ける講演も国から拝命した「観光カリスマ」「地域活性化伝道師」「地域中小企業サポーター」「大学の非常勤講師」などの関係だけに絞ったのだが、相変わらず月2回以上の講演をおこなっている。しかし、北の屋台を辞めたお陰で、帯広に居る時の夜はかなり暇になったのである。今年は、お酒を飲んだ日が120日で、飲まなかった日が245日になった。しかも温泉に入った日が254日もあったので体調もすこぶる良くなったのである。以前は酒を飲んで酔わなければ眠れないと思い込んでいたのだが、酒を飲まずに温泉に入って汗を掻いて寝るという健康的な生活になったのである。

今思うと、酒を飲んで酔っ払って寝るという行為は「睡眠」ではなくて「昏睡」に近かったのではないだろうか?(寝ても疲れが取れなかったから)

温泉に入ることで基礎代謝が活発になって発汗がよくなった。ラーメンや温かい蕎麦などを食べると頭のてっぺんから汗が流れ出てくるようになったのだ。(残念ながら体型はまだ元のままであるが・・・)。

北の屋台の専務理事時代は午前中だけ自分の会社の仕事をして、午後からはほとんど北の屋台の仕事をしていたから、自分の会社は妻(常務)に任せきりであった。7年間の妻の苦労に報いる意味で一緒に海外旅行(7月末に上海・11月初旬にカンボジア)に行った。私たち夫婦は会社も一緒(もちろん家も一緒)だから、ほとんど毎日四六時中顔を合わせている。小学校・高校(中学校と大学は別)の同級生でもあるのに、友人等に「よく二人で会話する話題が尽きないね」と言われる。子供たちもあきれるほどの仲が良い夫婦なのである。

コンピュータのことにはあまり詳しくなくて、このブログもソフトを業者に依頼して入れてもらった。CPの機能を過大評価していて、「書き溜め」が出来ると思い込んでいた。いわゆるカレンダーと時計の機能があってその日付になったら自動的にアップしてくれるもんだと思い込んでいたのである。自分で書いたブログを自分で読むことなどないから気が付かなかったのであるが、「先日付で書いている」との指摘を受けて気が付いた次第。今後は先日付でアップしないようにする。