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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-01-01-Tuesday 2008年の年頭に思うこと!

皆さま!明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。

今年は子年!十二支の初めの年ですから、今年から人類の新たな生き方が始まることを大いに期待しております。

特に地球環境問題に関しては、人類は既にギリギリの崖っぷちに立っていると感じております。このままの生き方をあと一歩でも進めてしまえば、崖から転落してしまうのではないかという危機感で一杯です。そんな中、アメリカの大統領選挙の争点の一つに地球環境問題が取り沙汰されてきたことは一つの明かりかもしれません。

私が環境問題に始めて触れた1992年当時から見ると隔絶の感がするほど一般の市民の関心は高まったように感じますが、政治家や大企業家の方々の関心はまだまだ低すぎると思います。いや、むしろ京都会議の時よりも後退しているようにすら感じます。

「日本の農業は補助金漬けになっていて非効率だからやめてしまえ」、「日本は自動車などの工業製品で金を稼いで、儲けたお金で途上国の農畜水産物を買ってあげれば良い。その方が途上国の為にもなる。」等という類の事を何度も聞いてきました。

日本はたかだか60年程前に、「人間は食べなければ生きていけないという飢餓状況を経験した」はずなのにもう忘れてしまったのでしょうか?本当の飢餓状態が来た時にお金では買えないのが食べ物だったのではなかったでしょうか?東京の人間は着物などを田舎の農家に持っていって闇で食べ物を分けてもらっていたのではなかったでしょうか?お金は食べられません。お腹は膨れません。政府の統制だけでは国民全てを満足に食べさせられません。

日本の食料自給率は40%を切ったといわれていますが、私はこの数字を信じてはいません。実際にはもっともっと低いと思っています。ましてや政治はますます農業を壊滅させる方向に向かっているようにすら感じています。

世界的な食料不足になった時に、外交の下手くそな日本国政府が世界中から食べ物などを集められる訳がないとも思っています。世界中が飢餓に陥った時にはお金など何の役にも立たないと思うのです。

ですから北海道の農業は絶対に守らなければならないと強く感じています。

昨年は「KY」という言葉が流行りました。「空気が読めない」という意味だそうです。日本人の悪いところは全体に流されやすいことではないかと思っています。環境問題がトレンドになると、右も左も環境、環境と騒ぎ出します。

その対応の仕方があまりにもヒステリックで全国一律になってしまうことに危惧を感じています。

日本は南北に長いのです。北海道と沖縄では対応の仕方は変わってしかるべきであると思うのです。例えば、自動車のアイドリングの問題があります。冬に−20℃にもなる北海道の十勝で駐車中にアイドリングをストップすることは、その他の問題が出てくることになると思うのです。ましてや走行中の赤信号時にエンジンを切るなどということを北海道でも励行しようというのは寒冷地の実態を理解していない人たちが言うことです。こういう一部のヒステリックな対応が環境問題を敬遠させてきた原因の一つにも挙げられると思います。

「王様は裸だ!」と叫んだ子供は、いわば周りの空気が読めない子供だったのだと思います。空気を読めないことと、読んだ上で他の行動を取る事は別の話だとも思うのです。

それぞれの地域(場所)に合った活動を、それぞれが行うことが大切なのではないでしょうか?

私は今年、環境問題に力を入れて活動して行きたいと考えています。どうぞよろしくお願い致します。


■2008-01-02-Wednesday 正月二日に思う!

年々、正月らしさが失われて行く。

今年の正月休みはカレンダーの関係で6連休(12月29日〜1月3日)にした。4日は仕事初めだが翌5,6日とまた連休になる。9連休にすることも可能であったが、長期休暇にしたからといって何処に出掛ける訳でもない。料金は高くて、混んでいて、サービスも悪いから出掛ける気にもならないのだ。

昨年は30日(日)に一日で45センチもの大雪が降ったから、年末は「雪かき」で腰は痛くなるし、五十肩はぶり返すしで全身筋肉痛で散々であった。

若い内の筋肉痛はすぐ翌日にきたものだが、年を取ると2日後にやってくるようになった。今年は元旦から身体が痛い。筋肉痛まで歳に合わせてスローモーになっているらしい。

テレビ番組はつまらないし、年始の挨拶なんてものもとんとご無沙汰である。一応、帯広神社にはお参りに行ったがそれだけである。

正月といえば、わが家では百人一首であった。北海道の百人一首は独特で、「下の句かるた」と言われるものだ。下の句を読んで下の句(木製の札)を取るから、句を暗記する必要が無いので誰でも簡単に出来る。基本的には「いろはカルタ」などの絵のカルタと一緒だ。その「百人一首」も最近はやったことがない。

子供たちも大学生や高校生にもなると親と居るより友達と遊ぶ方が楽しいようで少し寂しい。

ショッピングセンターでは元旦から売り出しをやっているが、それでは普段の日とまるで変わりがないではないか。福袋なんていう在庫一掃セールのモノを買いたいとは思わない。欲しくも無い物を安いからといって買う人の気持ちが理解できないでいる。晴れ着を着ている人も少なくなった。年々、情緒が失われていくようで悲しい気分だ!

このまま季節感や行事が失われていくのだろうか?正月早々酒の飲み過ぎからか少々愚痴っぽくなっているようである。

昨年の12月11日に札幌のフォーラムで一緒になったフリーキャスターの林美香子さんからお土産にお米を頂いた。林さんは私も入会している「スローフード・フレンズ帯広」のメンバーなのであるが、フレンズの有志らでお米を作ったものを3合ほどお裾分けしてくれたのだ。

十勝でお米はほとんど生産していないから、十勝の住民は北海道米を食べようという機運が一際薄いようである。ほかならぬ我が家もずっとコシヒカリを食べていた。

頂いたお米を食べてみたら、モチモチッとした食感で一粒づつがとてもしっかりしている。家族中の人間が皆「美味しい!」と驚いた。さっそく林さんに銘柄を訊ねてみると「おぼろづき」という品種であるという。遅ればせながらわが家も今年から「米チェン」をすることになったのである。

ここでも「思い込み」が邪魔をしていた。食べた事もない北海道米をまずいと決め付けていたのである。やはり食わず嫌いはヨロシクナイと実感した次第である。

北海道米はテレビCMにお金を掛けるよりも、試しに食べてもらう事の方が効果が大きいのではないかと思う。

私も今年は皆に口コミで北海道米の宣伝をすることにしよう!


■2008-01-03-Thursday カンボジア紀行 1

2007年11月24日(土)十勝毎日新聞掲載

カンボジアのアンコール遺跡調査の第一人者、石澤良昭上智大学学長から11月2・3日にカンボジアのシュムリアップで開催された「シハヌーク・イオン博物館」の落成式典と「アンコール・ワット西参道第一工区」の完成式典に、帯広から浅野祐一さん(アサノカメラ堂会長)と坂本和昭(坂本ビル社長)の二人が招待された。現地での模様を4回にわたって坂本和昭が報告する。

浅野さんと私が上智大学関係のご招待でカンボジアを訪問したのは、最初が2001年12月、2回目が2003年12月、そして今回で3回目になる。

何故に3回もご招待を受けているのかという理由に関しては前回の訪問時のレポート(勝毎2004年1月28日〜2月4日掲載)に詳細を書いているので今回は簡略にするが、1995年に帯広市の大学設置促進期成会の委員として石澤先生との知己を得た私は、96年3月から始めた「十勝環境ラボラトリー」の公開講座の講師として、2000年7月に石澤先生の生まれ故郷の帯広にお招きした。その時に聴講した浅野さんが、三条高校・上智大学の先輩でもある石澤先生の活動に感銘し、アンコール・ワット修復工事の人の移動に必要な自動車を01年に、石積みに必要なクレーン車を03年に寄贈し、それぞれ現地で寄贈式を開催したのであった。今回のご招待はこれまでの2回とは違う趣旨によるものであり、渡航費用も上智大が負担するものであった。以下に詳しくレポートする。

NHKの「プロジェクトX」という人気番組にも取り上げられたが、上智大学は石澤先生を中心に1982年からアンコール遺跡修復保存活動に携わってきた。「カンボジア人による、カンボジア人のための、カンボジアの遺跡保存修復」をモットーに、91年からは遺跡を守る現地の保存官・中堅幹部・石工などの人材養成をしてきたのである。他の国がおこなっている遺跡の保存修復作業で働くカンボジアの人たちはいわば単なる肉体労働者であり、保存修復のためのノウハウの伝達や人材育成にはつながらないその場限りの貢献でしかない。一方、上智大学がおこなっていることは遺跡修復の知識・技術をカンボジア人に習得してもらうという遠大なそして現地カンボジアにとっても「自分の国は自らが立て直さなければ意味がない」との気概を伝えるとても有意義な貢献なのである。

その意味深い活動の中で2001年に上智大学が保存修復を担当する仏教寺院バンテアイ・クデイ遺跡(アンコール・ワットの東北約6㎞に位置)の中で現地のカンボジア研修生に対する考古発掘の研修作業を実施している最中に偶然にも274体の仏像を発掘したのである。この274体という大量の廃仏行為はアンコール王朝末期にも、仏教からヒンズー教への宗旨変更を指示した強力な王さまの権力が存在していたことを示しており、従来まで言われていた王権が衰退したからアンコール王朝が滅亡したというプロセスを覆す歴史的な大発見へとつながったのである。この世紀の大発見は有意義な活動をされている石澤先生への仏様(上智大学はカソリックだから神様かな?)からの贈り物なのかもしれない。


■2008-01-04-Friday カンボジア紀行 2

2007年12月1日(土)十勝毎日新聞掲載「シハヌーク・イオン博物館」

2001年にバンテアイ・クデイ遺跡から発見された274体の仏像はこれまでシュムリアップ市内にある「上智大学アジア人材養成研修センター」に保管され、一般には公開されていなかった。2002年にここを訪ねてこの光景を見たイオンの岡田卓也会長が「仏様をもとの状態に戻して差し上げたい」との思いから寄付を申し出て「シハヌーク・イオン博物館」の建設へとなったのである。敷地(13,140㎡)はカンボジア政府が無償提供し、名称にもシハヌーク国王(当時)の名前を付け、国旗を掲げることの承諾も得た。日本名称は「シハヌーク・イオン博物館」と名付けたのだが、英語名は「Preah Norodom Sihanouk-Angkor Museum」と表記されている。さすがに、正式には国王陛下(現在は前国王)の名前と一企業の名前を並列で表記は出来ないという配慮なのであろう。

11月2日の午前8時から予定されているこの博物館の落成式典に出席する為に、7時にホテルを出発した。博物館と宿泊しているホテルとはバスで7分程度の距離でしかないのだが、現国王のシハモニ殿下(シハヌークの息子)がご出席されるので早目に行って着席待機して出迎えなければならないのである。式典はカンボジア時間(十勝時間と同じで予定の時間がいつも遅れるらしい)で30分遅れて8時半から始まった。クーラーの無い中を正装(スーツにネクタイ姿)で椅子に坐ってただ待っているのはさすがにつらかったが、国王より後から会場入りするような非礼なことなどできはしない。

沿道には国王や前国王の顔写真の入った額やカンボジア国旗や日章旗をもった人々が大勢並んでいる。王室に対する尊敬の念はたいへんに強いようである。

式典ではお坊さんの読経、両国の国歌斉唱、民俗舞踊のアプサラダンス、出席要人のスピーチと続いたのだが、スピーチの最初にシュムリアップ州知事が、国王を前にしてここぞとばかりに自分の功績を延々と述べ続けた、どこの国にも似たような人物がいるものである。私はまだ日本の天皇陛下を身近に拝見したことがないのに、カンボジア国王を目の前で拝見してお言葉を聞けたというのはなんだか不思議な感じがした。国王は55歳でまだ独身ということだが、さすがに上品で威厳がある。最後に東儀秀樹さん親子3人の雅楽による博物館のイメージソング「幻想のアプサラ」の演奏も聞けたので州知事の挨拶以外はすべて満足した式典であった。

建物は鉄筋コンクリート2階建て(2,533㎡)で建設費に一億三千万円掛かったという、日本で同様のものを建てたら8〜10倍は掛かるかもしれない。フランス人のデザインで、アンコール・ワットの5つの尖塔を模したらしい。色は赤っぽい朱色とでも表現したらよいのだろうか、カンボジアの風景にマッチしていると感じた。この博物館は上智大学とイオンがカンボジア王国に寄贈し、開館後はアプサラ(アンコール地域遺跡整備機構)が管理・運営する。カンボジア人の入場は無料で、自国の文化を誇りに思うようになってくれれば嬉しいということである。観光客からの入場料収入はカンボジアの遺跡の保存修復事業などに活用されるという、寄付とはこういうものであって欲しいものだ。


■2008-01-05-Saturday カンボジア紀行 3

2007年12月8日(土)十勝毎日新聞掲載「アンコール・ワット西参道」

翌11月3日は「アンコール・ワット西参道第一工区完成式典」に出席した。前日の博物館の落成式典と同じく政府要人(副首相)が出席するから正装で出迎えるというので、時間も同じ7時にホテルを出発した。アンコール・ワットの参道を渡った左側の場所の屋外にテントを張って会場を設営してある。会場には2400人の現地の老若男女の方がすでに待機しており、私たち一行を出迎えてくれた。恐らく一時間以上も前から待機していたのではないかと思われる。会場の奥には装飾を施したテントが張ってあり、そこの椅子に座れと言う。帯広からの一行以外は式典で勲章の授与を受けるVIPであるから当然のことにしても、なんだか場違いなところに居る感じがしたが、カンボジアの大勢の人たちの前でカンボジアの政府要人たちと一緒に並んで座るという機会はそうそうあるものではないからと諦めて席に着いた。

我々の席にはテントが張ってあるから直射日光は浴びないがやはり外は暑い。2400人に日本人代表に思われているのかと思うと緊張して冷や汗も一緒に出てきた。式典の開始時間は例によって30分ほど遅れたが、読経、国歌斉唱、アプサラダンス、スピーチと順調に続いた。心配していたシュムリアップ州知事のスピーチも、この式典には国王陛下のご臨席がないためか短く終わった。式典終了後には昼食レセプションとのわずかの合間にタ・プロムという遺跡の観光が待っている。この分なら予定よりも早く終わるのではないかと期待していたら・・・。最後のスピーカーであるソック・アン副首相兼閣僚評議会担当大臣閣下が延々と70分間も熱っぽく演説し続けたのである。クメール語であるから話している内容は検討もつかないし、お尻は痛くなってくるし、観光の時間は少なくなってくるしで周囲の人たちのイライラが手に取るように分かった。隣に座っていたカンボジア政府の人たちも呆れていた様子である。後から通訳の人に聞いたら、選挙が近いとかで、上智大学の事業とはまったく関係のない義父のフン・セン首相の手柄話をしていたようなのである。話の長い人が嫌われるのはどこの国も同じだ。少しは空気を読んでもらいたいものである。

アンコール・ワット西参道に向かって右側はフランスが現代の技術を使って修復したので100年程度しか持たないと言われているが、上智大学が修復した左側(今回工事が完了したのは奥側半分)は、カンボジア人の石工や中堅幹部などを養成し、技術とノウハウを現地の人たちに伝えたために時間は掛かったがアンコール・ワット建設時と同じ手法を使っているので何百年も持つと言われている。出来上がった石積みも実に見事な美しさである。石を削る技術を石工に習得させ、石を積む肉体作業には現代の機械力のクレーンを使う実に合理的な方法なのである。現地スタッフが充実してきたから今後の修復作業の時間は格段に短縮されるであろう。この作業に貢献するクレーン車を寄贈したのが、ほかならぬ浅野祐一さんなのである。西参道の横にはこの「浅野号」が飾られ、その雄姿が夕陽に映えていた。


■2008-01-06-Sunday カンボジア紀行 4

2007年12月15日(土)十勝毎日新聞掲載 「発展?!」

今回でカンボジアは3回目の訪問になったが、最初の6年前とは随分と変化が感じられた。まず、空港の建物が行く度に変わっていた。初めはとても小さな空港、2回目は新しい建物で多少は大きくなった。しかし今回4年振りに行くと立派な空港に変身していたのである。観光客の入り込み数が01年当時は40万人程度であったが、毎年40%ずつ増え続けて昨年は200万人になったそうだ。ホテルも次々と立派なものが建っていて驚く。しかし、その分、道路、水道、電気などのインフラ整備が追いついていない。6年前はほとんど舗装されていなかったし、大型バスなどは見かけもしなかった。自動車は少なく、バイクも数えるほどしか走っていなかったのに今では道路を横断するのが恐いほどの数が走っている。信号機も4年前には2個だったが、交通渋滞が起きて収拾がつかなくなって5個に増えたとのこと、相変わらずバイクの3人乗りは普通で、中には家族7人で乗る中国雑技団も真っ青という剛の者もいるとのことである。

遺跡というご先祖様が残してくれた貴重な遺産を使って観光事業で発展するのは結構なことだが、急激な発展は人心を荒廃させてしまうのではなかろうかと心配している。特に市内と郊外との差を感じた。前回の訪問時に、観光地では子供たちが「10枚で1ドル!安いよ!」と本や絵葉書を持って寄って来た。買っても荷物になるし、お金を恵んでも親が取ってしまうと言うので、お菓子なら親も取らないだろうと、小さなビニール袋に10個ずつのキャンディを詰めて50袋を用意して持って行き、子供たちに行く先々で配って歩いて喜ばれた。当時の子供たちは皆、はにかんで「サンキュウ」と言ってその場を嬉しそうに離れていったものだ。今回も150袋を用意してトランクの半分をお菓子で一杯にして訪れたのだが、子供たちの反応が前回とは明らかに異なっていた。観光客の多く来る場所の子供たちは1個上げたら、もう1個よこせと要求するし、まだもらっていないと嘘を言うようになったのである。仲間で分け合うという気持ちが薄らいでしまったのであろうか。少々ショックであった。また子供たちの語学力には驚かされた。日、韓、英、仏の4ヶ国語を使い分けているのである。語彙も格段に増えていて「おに〜さん、かっこいいね〜」「若いおね〜さん、かわいいね〜」などとお世辞まで使うのである。語学を習得するには生活が掛かっている方が格段に上達が早いようである。普段カッコ良いなどと言われたことのない浅野さんは喜んで絵葉書を購入していたが、実は彼等が売っているものの方が町の土産屋で売っているものよりも安くて質が良いのであった。石澤先生が彼等の生活を助けるためにご自身が書いた解説本を与えていたのである。石澤先生の顔を知らない現地の子供が一生懸命に本人にその本を売りつけようとして、「その本は私が書いた本だよ」と説明していたという話をガイドさんから聞いた。微笑ましい様子が窺われるエピソードだ。カンボジアは賄賂が横行する国として世界ワースト3に入るとも言われている。子供たちには純真さを失わずに成長してもらいたいと思った今回の訪問であった。


■2008-01-07-Monday 当たり年?!

昨年は何か妙な「別れ」の年であったから、今年は当たり年になるような予感がしていた!その予感が正月早々に的中してしまった!

5日(土)13:35、長崎屋駅前店一階の駐車場出口付近で車をぶつけられたのだ。出庫専用の出口なのに前に停車して居た軽自動車が、何と突然すごい勢いでバックして来たのである。車間距離は2m弱、クラクションを鳴らしたが間に合わず、右側前方のライトやバンパー等が激しく壊れてしまったのである。

相手は若い母親と幼い子供、隣接する市民文化ホールで14:00から始まる子供向けの催しもの(人形劇)を観る為に車を止める場所を探していたとのこと。開演時間がせまっていたから慌ててしまい、間違って出口側に出てしまったので駐車場内に戻ろうとしてバックしたと言うのである。

出口であるから当然一方通行である。まさかバックしてくる車があるとは考えてもいなかったので避けようもなかった。ぶつかる寸前に身構えてブレーキを力一杯に踏んでいたからこちらの方の損傷が大きかったように思う。

私が車から降りて「何でこんな場所でいきなりバックするんだ!」と大きな声で怒ったので、子供たちが、パパでも怒るんだねとビックリしていた。

当方は5人家族の内、その時に同乗していたのは私と長女と長男の3人であった。家族で長崎屋の道路向かいの蕎麦屋で昼食を取ろうと皆で出掛けたのだが、妻と次女が長崎屋内で証明写真を撮りたいというので2人を降ろし、蕎麦屋で待ち合わせをすることにして分かれ、蕎麦屋に向かう出口でぶつけられたのだ。直に妻に携帯で電話して蕎麦屋ではなく出口側に来てくれと連絡したので妻と次女が飛んで来た。

私が運転していたのは妻の車であるから、てっきり妻が怒り出すのかと思ったのだが、意外にも冷静に「お子さんに怪我はなかったですか?」と相手を気遣っていたのであった。自分で運転していなかったし、同乗もしていなかったから当事者意識が薄くて冷静に対応したのであろう。しかし、自宅に戻ってからは・・・、

正月で土曜日の午後ということもあって保険会社との連絡もなかなか取れない。修理は一週間以上も掛かるというし、代車も月曜日でなければ手配が出来ないということが判明したのは20:00過ぎのことであった。翌日は子供たちが帰るので空港まで送るのに妻の車が無いのはかなり不便である。この時点で、妻の怒りが段々と表に出てきたのである。怒る相手はすでに居ないから、目の前に居る私に矛先が向いてくる。妻が運転していたら一体どうなっていたのだろうか?・・・

運転していたのが私だったのが、相手にとっては幸運であった。

子供たちが、車が当たったのだから宝くじを買ったら当たるかもね?と言うので早速ロト6を買ってみた。

当たり年だから本当に当たるかもね!


■2008-01-08-Tuesday 場所に合った車!

正月早々に車をぶつけられた話は昨日書いた。

代車がくるまでは、冬にはめったに運転しない私の車を使うしかない。何故、私の車を冬には運転しないのかと言えば、大きくてフロントノーズが長く、後輪駆動で横滑りするから、十勝の凍結した冬道には不向きだと感じているからである(駐車場も雪で狭くなっている)。

昨年の12月30日に一日に45cmもの降雪があった。これだけまとまって降ると雪を捨てる場所が無くなり、道路の四つ角を含めて道路沿いは全て雪の壁(1.5m近い)になってしまう。走行している道路から別の道路に入る時(右左折)や横断する時などは、極端に見通しが悪くて不安になる。

私の車は運転席と先端のバンパーとの距離がある所謂「フロントノーズの長い」車なので、四つ角の雪山越しに道路状況を見る為には、車の鼻先をかなり道路まで出さなければ見ることが出来ないのである。

もし、二車線(雪山で1.5車線に減っている)を2台並んで走っている車がいて、一時停止の道路から車の鼻先がニョッと出てきたら非常に危険な状態になる事は簡単に想像出来る。しかも路面は凍結してスケートリンク状態(ツルツル)だから直に止まれる訳ではない。凍結道路での急ブレーキ・急ハンドルは車がスピンするからとても危険な行為なのだ。運転している当方も、鼻先を出される先方もドキッとしてまことに心臓に良くないことになる。

その点、妻の車は、鼻先が短く、前輪駆動車だから冬道の運転では前述したようなことは少ないのである。

元々、車に関心が薄くて、自動車は動けば良いと思っていた人間なのだが、義父が「高齢になったから免許証を返上して車の運転を止める」と2004年の7月に言い出した。義父の車はドイツの高級車BMWの730iで走行距離も17000kmしか走っていない。もったいないからと譲り受けることにしたのである。

私は自動車が好きではないから運転も好きではないが、さすがにこの車が素晴らしいことは判る。夏の間の運転は実に快適なのである。しかし、走行距離は現在30000kmをようやく越えたところだ。1年間に3000km程しか運転しないのである(私の自慢は20年間無事故、無違反なのだが、皆からは運転しないから当たり前だと言われている)。

いつも給油するガソリンスタンドの店員さんから、譲ってほしいと懇願されるがまだまだ買い換える気にはならない車だ。

2006年12月末日で活動を終えた「十勝場所と環境ラボラトリー」で「場所に合った車」の開発をする「場所カー・プロジェクト」という活動を日産自動車と協働でおこなっていた。『十勝で作り出すエネルギー(電気)で動く、十勝の風土に合った車の開発』を目指したのである。残念ながら未完成に終わってしまった事業であった。

雪が多く、寒くて凍結した今年の冬道を走っていると、「場所に合った車」というものが環境問題だけではなく、安全面からも必要だと改めて感じたのであった。


■2008-01-09-Wednesday ペット

妹の家で飼っている犬(雄:ラッキー)が6日(日)午前に死んだ。

わが家と同じ犬種のラブラドール・レトリバーで歳も同じ12歳である。わが家のサニー&バニーと同じショップで購入した犬だ。

昨年の暮れからもうダメだと言っていたのだが、犬は律儀だから、妹夫婦の3人の子供たちが全員、正月に自宅に戻って来るのを待って、その顔を見てから死のうと思ったのかもしれない。子供たち全員がまたそれぞれに帰った翌日に死んだのだ。

妹は所謂「ペットロス症候群」というやつでかなりガックリきているようである。さすがに12年も一緒に暮らしていると家族の一員と同じになる。

わが家の2匹の犬の内、バニー(黒ラブのメス)の方はここ1、2年ほどは病気がちで子宮膿症で手術をしたり、肝臓の薬を常用したりしている。犬には保険が無いからとにかく金が掛かるのである。バニーはとても「おりこうさん」で注射の時も手術の時もおとなしく施術させるので、獣医さんからも「良い犬だねぇ〜」と褒められる犬だ。

もう一匹のサニー(イエローラブのオス)は方はいたって元気だ。まるでカンガルーなのではないかと思うほど元気にピョンピョンと飛び跳ねている。

犬の年齢は人間の6〜7倍ほど早く老けるというから人間ならゆうに70歳を越えているのではないかと思うのだが、とにかくサニーは元気である。

年に一度の狂犬病の予防注射の時に犬猫病院に行くだけだ。この時はいつもの散歩コースを離れて連れて行くのだが、病院の前までは「いつもの道とは違うなぁ〜」とウキウキとして元気に歩くのだが、病院の中に入ろうとすると急に一年前を思い出すらしく、座り込んで動こうとしなくなる。臆病な犬で注射がとにかく大嫌いなのである。

獣医の先生に手伝ってもらいながら抱きかかえるようにして病院の診察室の中に入れ、診察台の上に乗せると今度はブルブルと震え出すのである。毎年、先生に「なんだ図体ばかりデカクても弱虫なんだなぁ〜」と笑われながら注射を打ってもらうのだ。

病院の待合室で、旦那には薬局の市販の薬で済ませても、愛犬はシッカリと病院にかけるというオバサンがいた。人間のほうが粗雑に扱われている夫婦もいるのである(わが家ももう間もなくかな・・・)。

サニーは最近、良く「しゃべる」様になった。本人(犬)はちゃんと人間の言葉を話しているつもりなのではないだろうか?さすがに12年も一緒に暮らすと、こちらも、「散歩に連れて行け〜」「腹減ったゾ〜」「水くれ〜」などと、大体は言わんとする事が判るようになってきた。犬ともちゃんとコミュニケーションが取れるのである。

サニー&バニーと後、何年一緒に暮らせるのか?やっぱり死んだらガックリくるのだろうかなぁ〜?

ところで最近、環境問題でスーパーなどのレジ袋を廃止して、マイバックにしようという動きがある。まことに結構なことだが、誰でもレジ袋を二次使用しないで捨てているという訳ではない。わが家では犬の散歩時の糞処理に活躍しているのである。

それなのに「環境問題のことを言っているくせにマイバックを持たずにレジ袋を貰っている」と言う人がいるのは困りものだ。

日本人はレジ袋が悪いとなると、目くじら立てて一斉に同じ方向に、しかもヒステリックに向かう癖があるように感じる。

先日も気象庁の地球観測船の燃料削減などという本末転倒な問題が出てきたが、地球環境はもっと大きな視点で考えてもらいたいものだ。もちろん個人が出来ることを自ら行うことが重要なのであるが、それぞれの事情によって状況も違うのであるから、何でもかんでも一律に同じにという考え方には同意できない。

わが家ではレジ袋もちゃんと活用しているのだから。


■2008-01-10-Thursday テレビの時代は終わった!?

正月にテレビを漫然(シッカリと見ていたわけではない)と点けていたら、お笑い芸人が出演する番組が、それもクイズ番組がやたらと多いと感じた。

しかもそのクイズ番組では、頭が悪いことを売りにする、所謂「おバカ」なタレントが跋扈しているようなのである。(ある意味では知性を競うクイズ番組で笑いを取るということは画期的な発想の転換かも知れないが・・・)

「頭が良い風に見せかけるのには、それなりの努力が必要だが、おバカを装うのは勉強しなくても良いから楽だね」と言ったら、妻が、「タレントが唯のおバカなだけなら生き残ってはいけない。いかに面白く間違えるかを考えながら答えなければ、番組に使ってもらえないから、むしろ頭が良いのではないか」と言うのである。いくらキャラクターをたてるのが全盛の時代でも「おバカキャラ」を売れる為にたてるのだろうか?単なる天然馬鹿だと思うのだが・・・

私も芸人(マジシャン)を目指した人間の端くれとして、芸能界(演芸)のことには少々関心があるが、最近の芸人は芸人としての矜持が足りないと思う。お笑い芸人だって、昔は「笑わせる」のであって「笑われる」存在ではなかったはずだ。

一体いつからこんなに芸人の質が落ちてしまったのだろうか?

私は、「素人(しろうと)をいじくりだしてから」だと思うのである。素人の「リアクションやハプニング」の方が、計算された芸や熟練の芸よりも受けるようになってきた為なのであろう。

テレビ局も素人を使えば「只」だから制作費が抑えられるし、視聴率も取れるしと、安易な方向に向かっているように思えるのである。

それに、最近の芸能界は芸人のほうがドンドンと素人化してきているようにも見える。芸のない「芸NO人」や落語の出来ない「落伍家」ばかりである。

番組も「楽屋落ちトーク番組」や「お笑いクイズ番組」や「失敗を集めたハプニング集番組」ばかりの芸能人達が仲間内でただジャレ合っているだけの番組になって、私にとってテレビはとてもつまらないものになってしまった。

テレビでは「マジック」も禁じ手(御法度)の「カメラトリック」を使うマジシャンが増えてきて、何でも有りの世界になりつつある(この件は後日詳しく書く)。

「ドラマ」もビデオに録画して後からCMを飛ばして見る人が増えているそうだから、スポンサーも段々と減っていくだろう。

安易に慣れると堕落するのである。ここらでもう一度コンセプトから作り直す必要があるのかもしれない。

地上波デジタル放送が、もうすぐ始まり、番組数が飛躍的に増えても、チャンネルを次々と変えていく「ザッピング」が増えるだけのように思う。むしろチャンネル数を減らしてもっと良質な番組を作らないと、このまま行ったら(同じ視覚に頼る媒体として)インターネットや携帯電話などに駆逐されてしまう運命かも・・・、ジャンルが異なる(聴覚)ラジオの様には生き残れないかもしれない。


■2008-01-11-Friday マジックの種明かし

マジックの一番重要な要素は「不思議」である。

「不思議」とは中国の数の単位の「不可思議」を短縮した言葉である。「不可思議」は二番目に大きな単位(10の64乗)でゼロが64個も付くから、大き過ぎて想像もできないということを表わしている。因みに一番大きな単位は「無量大数」(10の68乗)。

「不思議」がマジックの生命であるから、マジック界にはサーストンの三原則といわれる掟がある。

①種明かしをしてはいけない。

②同じマジックを繰り返し演じてはいけない。

③これから起こる現象をあらかじめ説明してはいけない。

この三つはどれも「不思議さ」を保つ為に必要とされている。『たまに演出上は、さも種明かしをしている様に見せて実は種明かしをしていない演じ方(サッカートリックという)や方法(手法や技法)を変えて同じようなマジックを演じたり、観客の注意をわざと別の方向に注目させる為にあらかじめ(実際とは異なる)現象を述べることもある』

驚きを新鮮にするということが重要なのである。

日本人の特にインテリ層に多いのが、マジックのタネが判らなかったら怒り出したり、不機嫌になったりするタイプの人達である。

タネや仕掛けが判らないと、馬鹿にされた様に感じるのであろう。こういう輩はエンターテインメントとは何ぞやということをまるで理解していない無粋な奴であるといえる。

マジックは演芸であり、また芸術でもある。なのにマジックだけ「タネ」を聞いただけで全てを理解したかのように満足する。

どんな演芸でも「コツ」はある。しかし、「コツ」と「タネ」は違うのである。「タネ」が判ったからといってマジックが即、演じられる訳ではない。

例えばミュージカルの舞台を見て感動し、「どうして踊れるの、どうして歌えるの」と演技者に聞くだろうか?

「練習しているからだ」とか「才能だ」としか答えようがないではないか。

「歌詞」が判っただけで上手く歌えるのだろうか?「振り」が判っただけで上手く踊れるのだろうか?

マジックは不思議なことを見せて観客に喜んでもらう総合エンターテインメント(喜怒哀楽+不思議も表現できるから次元が高い)なのである、ということを日本人の観客にもっと解かってもらいたいと思う。

マジックだってタネが全てなのではない。タネはせいぜい50%程度にしか過ぎないのだ。むしろタネ以外の演出や口上や服装など等が大きく作用するのである。デパートに売っているマジックを買って来て、説明書に書いてあるやり方だけを演じても、技量によって差が出るし、オリジナルの素晴らしい演出方法を考えだせば、まったく違ったマジックにもなりうるのである。

同じ事が「まちづくり」でも行われているのが日本である。「北の屋台」のやり方が判っただけで上手く出来ると思っているのである。表面に現れていることだけを見て、深層にあることをまるで見ていないのだ。

「マジック」も「まちづくり」もそんなに簡単なものではないのだよ。


■2008-01-12-Saturday わが母校出身の芸能人

わが母校、帯広柏葉高校の出身者には有名な3人の芸能人がいる。(以下敬称略)

一人目は歌手の「中島みゆき(美雪)(1952年生)」である。彼女は柏葉20期(1967〜1970)3年E組の卒業生である。彼女は帯広時代があまり好きではないらしく、自身では「札幌出身」と言っているようである。彼女の祖父は「中島武市」といい、「みつわ屋」という呉服店を経営する実業家であり、帯広商工会議所の会頭(1943.9~1950.11)や市議会議長を務めた政財界のドンでもあった。柏葉高校の国道38号線を挟んだ南側には帯広開拓の祖「依田勉三」の銅像が建っている「中島公園」があるが、この公園は武市が帯広市に寄贈したものである。

父は初め勤務医であったが、1963年に帯広市で産婦人科医を開業した。(因みに帯広小学校→第三中学校→柏葉高校は私と同じ学歴である。)

みゆきは札幌の藤女子大学に進学するが、大学4年生の時に教職の単位を取得する為に母校の柏葉高校に教育実習に訪れた。その時に教わった1年生(1973年)が私たち柏葉26期生(1973〜1976)なのであった。1975年の第六回世界歌謡祭に出場し、「時代」でグランプリを受賞して一躍有名歌手になった。番組を見て、「あっ、あの○○なお姉さんだ!」とびっくりしたものだ。その後1979年からはラジオの「オールナイトニッポン」のパーソナリティとしても活躍した。同じ十勝出身(足寄町:足寄高校出身)の歌手「松山千春(1955年生)」との掛け合いは笑えた。(因みに千春は足寄高校時代はバスケット部であったが、当時の柏葉高校はインターハイに出場するほどの強豪校であったから足寄高校は一度も柏葉には勝てなかったそうだ。)

二人目は「吉田美和(1965年生)」Dreams Come True のヴォーカルである。十勝ワインで有名な池田町の出身で、柏葉高校に進学した。彼女は柏葉34期(1981〜1984)3年E組の卒業生である。彼女は高校在学中からバンドを作り、オリジナル曲を歌う目立った存在であったらしい。彼女の卒業記念コンサートはわが社「坂本ビル(当時はサニーデパートという名称であった)」の六階の大ホールを使って行われたのである。

彼女の当時のバンド仲間が私の親戚(弟の嫁の兄)になった。本人は言及していないが噂では「未来予想図」の歌詞の相手が彼であったらしい・・・。彼の結婚式の時に吉田美和から電報が入り、「何でだ?」と話題になったのであった。

三人目は芸能人ではないが、それに近い存在として「安住紳一郎(1973年生)」TBSアナウンサーをあげたい。彼は柏葉42期(1989〜1992)3年E組の卒業生である。昨年の8月にTBSで放送された「アイスガールズ」というシンクロナイズド・フィギュア・スケートの大会のメインキャスターに起用されていた。このフィギュア選手の中に、わが家の長女がいて、安住アナと帯広出身ということで親しくしてもらったとのメールが入っていた。

三人ともに何がしかの縁があるようだ。

不思議なことにこの三人は皆、「柏葉高校3年E組」の卒業生なのである。

わが母校からこういった才能ある有名人が出てくれることは嬉しいことだ。柏葉高校出身ではないが、松山千春を含めると、中島みゆき・吉田美和の3人の素晴らしいアーチストが同じ十勝出身なのは、この豊かな平原が生み出した才能なのだと思う。次の世代が飛び出す事を期待している。


■2008-01-13-Sunday ペーパーキャプテン

私は小型船舶操縦免許の一級を取得している。

小型船舶とは重さが20t未満、長さが24m未満の船のことである。

最初に四級を取得したのは1988年であるから20年も前だ。2003年に法律が改正されて、講習を受けたら自動的に二級にしてくれるという連絡が入った。その講習会場で「今なら筆記試験に合格したら一級免許が取得できる」というので、二級でいるよりも一級の方がカッコイイなという理由だけで翌年に試験を受けたら合格してしまったのだ(二級は海岸から5海里(約9km)までしか操縦出来ないが、一級は無制限である)。

内陸地で海や湖が無い帯広なのに何で船舶免許が必要なのか疑問に思うであろう。その通り、全く不必要なのだ。

告白すると、実は船を操縦したのは実技試験(1988年)の時の阿寒湖での一回きりで、免許取得後は一度も船を操縦したことがない、ペーパーキャプテンなのである。

では、なんで船舶免許など取得した(させられたと言う方が近い表現かもしれない)のかお教えしよう。

私は1987年に帯広青年会議所(帯広JC)に入会した。同期入会したメンバーに8歳年上の医者がいたのだが、この医者が大の加山雄三ファンで彼にに憧れて、自分で船を所有していたのだ。伊豆に船を係留し乗り回していたのだが、この年、親の病院の跡を継ぐ為に帯広に戻って来たのであった。

自身の船を十勝の広尾港に運んで来て、係留し、十勝でも船釣りを楽しむ計画であった。自分が釣りを楽しむ為には、船を操縦する人間が大勢居てくれた方が良い。自分の父親や兄にも船舶免許を取得させて家族で釣りを楽しみたいとの思いであったのだ。

しかし、帯広には船の免許を取得する為の教室がない。北海道では小樽や函館など海沿いの大きな街でしか講習会が開催されないのである。講師を呼んでくるには最低10名の受講者が必要なのだというのである。そこで半場強制的に講習を受けさせられたというのが実情だ。

以来、一度も船を操縦することなく、筆記試験だけで一級免許を取得してしまったというわけである。GPSなどの機械が発達して操縦が楽になったということなのだろう。

機関士を乗せたら世界一周も出来る資格なのに、本当にペーパーキャプテンで良いのだろうか?

でも私以外に誰も必要の無い免許など取る奴もいないか!


■2008-01-14-Monday 人間万事塞翁が馬 1

私の本業はビルの賃貸管理業である。そして、私の人生訓は「人間万事塞翁が馬」である。幾度も塞翁のような経験をしてきたからだ。

現在の「坂本ビル」が建っている帯広市西2条南9丁目16・18番地に1925年に祖父が移ってきて「坂本勝玉堂」を開業したのが現在地での商売の始まりである(詳細はHPの年表参照)。祖父は山梨県の出身で、最初の商売は判子屋であった。その後にその技術を使って十勝石細工工芸品の販売から電材屋や洋装店などをやっていたりした。1927年生まれの父は戦争に行くのが嫌で、当時少なかった教員になれば戦争に行かずに済むかもしれないと北大臨時教員養成所に入ったのだが、学生時代に社交ダンスに凝って、後年ダンス教師の資格をとった。卒業後何年かは帯広の中学校や高校で教員をやったが、どうしてもダンスをやりたくて退職し、1950年に祖父に頼み込んで店の二階をダンスホールに改造して「ダンスホール坂本会館」を開業したのである。(堅物の祖父がよくダンスホールの開業を許可したなと当時の話題になったそうだが、父は末っ子だし祖父が41歳の時の子だったから可愛くてしょうがなかったのだろう)当時は娯楽が少なかったから大流行したようで連日超満員であったようだ。渡辺淳一の小説「冬の花火」にも「坂本会館」が出てくるが、帯広の社交場だったようで、いまだに「お宅の会館で出会って結婚した」という人に出くわすほどである。

(父と母は1955年に結婚するが、母は留萌市で「ダイマル洋装店」を経営する上野家から嫁に来た。当初は洋装店の部門を伸ばすつもりで母と結婚したようであるが、強力なライバルの店が隣に出来ると、サッサと洋装店を廃業してしまうのである。時代に合わせて商売を変えていくのが103年も我が家が続いてきた大きな要因かもしれない。)

このダンスホールから火が出たのである。タバコの火が客席のソファーに落ちてそこから燃え出したようである。ホールだから空間が広く、防音の為に壁に「おがくず」を詰めていたから焚き付けと同じである、だから火はアッという間に燃え広がった。全焼である。1967年11月26日、私が小学校4年生の時であった。

この時の西2条南9丁目は立て続けに4件の火事があった年で、町内会でお祓いをしたくらい火事が続いたのである。不幸中の幸いか、我が家の火事では死傷者はゼロで類焼もしなかった。我が家の後に火事になった隣の店の火事の時には、我が家の跡地が緩衝地になったお陰で類焼を免れたと周りの店から感謝されるくらいであった。(でも、先に我が家が焼けていなかったら、西2条南9丁目全部が丸焼けになって再開発されていたかもしれない)何が幸いするかは分からないものだ。

1969年、この跡地に父が地下一階、地上7階建てのビルを建設した。寄り合い百貨店方式で運営する「サニーデパート」である。父は最初、相当に苦労をした。テナントがなかなか入らなかったのである。悪いことは重なるもので経理部長に建設資金を全額横領されてしまった。まさに踏んだり蹴ったりである。

弱気になった父はビルを売り払って別な仕事をすることを考えるが、こんな時に女は強いものである。母が開き直って、「いざとなったら家族7人くらい、洋装で喰わせることが出来るから、最後まで諦めないで!」と父にはっぱをかけたのである。それで奮起した父はテナントを何とか埋めて経営は徐々に安定してきた。(つづく)


■2008-01-15-Tuesday 人間万事塞翁が馬 2

私は高校生の時に、将来プロマジシャンになりたいという目標を持った。

とにかくマジックに夢中になって、授業中も教師の話は上の空、一生懸命にマジックのネタを考案しては、東京のマジック用品販売会社「トリックス」に投稿を繰り返していた。この会社で私に親切に対応してくれたのが「布目貫一」先生で、布目先生は「浪曲奇術」という分野を創設した方として有名であった(競馬解説で有名な井崎脩五郎氏は子息)、残念ながら私が投稿したマジックのネタは一つも採用にならなかったが、あまりに熱心に投稿してくるから、「上京する機会があったら一度顔を出しなさい」と誘ってくれたので、高校2年生の時の修学旅行の時(5人のグループ行動であったが嫌がる4人を強引に連れて行った)に訪ねて行ったのであった。

トリックスは神田神保町2丁目にあったので、大学受験で上京した時も毎日の様に通っては道具を購入していた。帯広の自宅に戻る時にマジックの道具を一杯買い込んで帰ったので、父に「お前は一体何をしに行っていたんだ」と怒られたものだ。こんなことをしていたから最初に受験した大学は全部落ちてしまった。

父に「勉強し直して良い大学に入学するから一浪させてくれ」と頼んだら、「お前が、勉強などする訳がない。一年後は確実に今より頭が悪くなっているから、今からでも入学試験のある大学を探してとにかく入学しろ」と言われたのである。さすがは父親である。息子の性分を良く判っていた。きっと一浪していたら大学には入らなかった(入れなかった)かもしれない。(駒澤大学の二次募集があることが判って受験したが、受験日と重なり、高校の卒業式には出られなかった。)

入学が決まって上京すると、大学の入学式が始まる以前から、神保町の布目先生の所に通い出した。この店はプロマジシャンたちが道具を買いに来るプロショップといわれる場所なのだ。そこに居るだけで楽しくてしょうがなかった。

そんな客の中に当時はまだアマチュアであった「堤芳郎」さんがいた。4・5月と六本木に作曲家「いずみたく」の所有するビルの地下の「アトリエ・フォンテーヌ」という小劇場で「引田天功のマジック道場」という催しがある。プロとアマチュアが競演するから「君も参加しないか?」と誘われたのである。「まだ舞台経験も無いし、いきなりそんな舞台には上がれない」と固辞したのだが、「それなら私の助手(後見)をやってくれ」ということになり、「助手ならば」と引き受けたのだ・・・。

堤さんから、引田天功の弟弟子でジミー忍というマジシャンが舞台監督をやるので一緒に下北沢の自宅に挨拶に行こうということになった。当時私は下馬という三軒茶屋の近くに下宿していた。まだ地下鉄の二子玉川線が開通する前だったので、三軒茶屋からバスに乗って渋谷に出て、井の頭線に乗り換えて下北沢駅で降りた。駅で待ち合わせて(堤さんは池袋)二人でジミー師の自宅に向かったのである。初めてプロマジシャンの自宅に行くので、かなり緊張したことを憶えている。

北海道の片田舎から上京したばかりのマジシャン志望の青年としては、「引田天功」というのはすごいビッグネームである。上京したばかりで一緒の舞台に立てるかもしれないというのはものすごい幸運だと感じたのである。

ジミー師の第一印象はとても恐そうな人であった。挨拶すると「駒大か。私もコマダだ」と冗談を言った。師の本名は「駒田忍」というのである。「何処に住んでいるか」と聞くので「三茶の近くの下馬です」と答えると、「どうやってここに来たのか」と問う、前述したルートを説明したら、ゲラゲラと笑い出したのである。

下北沢と三軒茶屋は歩いても15分程度の距離で、しかも一本道であるというのだ。わざわざバスと電車を使ってお金を掛けて遠回りして来たのかと言うのである。上京してすぐだから土地勘もなく、公共交通機関の路線でしか移動ができなかったのである。

でもなぜだかそれがキッカケで気に入られて「これからは家も近いからどんどん遊びに来なさい」ということになったのだ。

何度か通う内に、「お前も演技者として舞台に立て」と言われたのである。それから猛特訓を繰り返して1976年4月26日の「引田天功マジック道場」が私の初舞台となったのであった。(つづく)


■2008-01-16-Wednesday マジック 学生時代編 1

このアトリエフォンテーヌの舞台で引田天功の助手を務めたのが板倉満里子、後の、「朝風まり」であり二代目「引田天功」である。

彼女は私よりも一歳年下であるが、芸能界に入りたくて高校を中退して、親戚(天功師のマネージャーの森氏)が居る引田天功事務所に入ってきたのだ。だから彼女とは1976年の同期ということになるのであるが、この時点では彼女はまったくマジックは出来なかったのである。

彼女が後に「朝風まり」という芸名で1978年にデビューする前にジミー忍先生の自宅にマジックを習いに来ていた時には私も同席していたのである。

何故に初代天功さんが彼女に直接教えなかったのかといえば、天功さんはこの時期はマジックには不熱心で日本テレビ系での脱出マジックや催眠術にばかり関心がいっていたのである。だから、この時には私にとって引田天功という人はマジシャンではなく、有名な芸能人という感覚になっていた。

大学4年生の秋に、帯広に戻って(就職活動と称すると公然と授業をサボれる)「プロマジシャンになりたい」と父に言ったら、「バカヤロー」の一言だけで終わってしまった。このまま東京に戻したら本当にマジシャンになるのではないかと心配した父は、卒業試験の時だけ東京に戻し、それ以外は帯広の父の会社で働かされた(就活など当然やっていないから卒業しても雇ってくれる会社は既になかった)のである。

高校依頼の夢はこの時一瞬にして潰えたのであった。

しかし、旧知のマジシャン達からは「君はプロにならずに、今の職業に就いて正解だったね」と皆から言われる。一体どういう意味なのであろうか?・・・

私が大学4年生の1979年12月31日の大晦日に初代の天功師は45歳という若さで亡くなったがこの時に二代目襲名をジミー忍師と彼女が競うのである。

初代が亡くなる前に天功事務所を抜けていた彼女と森マネージャー(当時天功師には2億円と噂される借金があったようである)であったがテレビ朝日をバックに付けて1980年12月から二代目引田天功を名乗るようになった。

ジミー忍師は「引田忍」と改名し、「いずみたく」さん等と組んで「マジックミュージカル」という新分野を創り、全国各地を講演してまわったのである。後に「聖忍」と改名する。

(1995年に横浜で開催されたFISMというマジックの世界大会を見に行った時に、師の姿が見えなかったので連絡を入れたら、「顔を見せに来い」と言う。すぐにタクシーを飛ばして世田谷の千歳船橋にある「魔法の小箱」という師夫妻が経営する店に行ったら、「身体の具合があまり良くない」と言うのである。それでその年の秋に療養の為に十勝に夫妻をご招待することにしたのだ。トマムや然別湖などで一週間ほどのんびりと過ごしてもらった。

そのお礼に「マジックを演じる」と言ってくれたので、自宅に仲間を呼んでパーティを開催した。そのマジックを演じている時に「指先の感覚が無い」と嘆かれたのでビックリして、東京に戻ったらすぐに医者に掛かった方が良いとアドバイスしたのである。師は脳腫瘍と肺がんであった。結局これが最後の旅行になった。師は1996年5月11日に53歳という若さで亡くなってしまったのである。)

初代天功師には「利志美(としみ)」さんという助手(運転手)の人が居たが、彼も「引田」の名を貰ったのだが、「チャイナ・リング」という昔からある金属性の輪を何本か繋げる見栄えのしないマジックぐらいしか出来なくて芸能界から去っていったのであった。

私が学生時代に渋谷の東急デパートの東横店で「テンヨー」というマジック販売会社のディラーをやっていたのが「松尾昭(後のミスター・マリック)」である。テンヨーがマジックの百科事典の「ターベルコース」の翻訳本全8巻の内の第一巻を1976年に出版するというので渋谷のデパートに予約に行ったのが彼との出会いであった。後に彼はディラー仲間4人で五反田にマジックショップ「マリック」を開店する。ミスター・マリックの芸名の由来はこの店の名称から来ている。この店にも良く出入りをして、大学の後輩達を紹介したりしたものである。

マジシャンはゲームやパズルが好きである。私も大好きで、学生時代に札幌のいとこから教えられた「バックギャモン」というゲームにはまってしまった。このバックギャモンの販売普及をしていたのが「テンヨー」なのである。

大学を卒業してから、父に頼み込んで父の会社「サニーデパート」の一角に「マジック・コーナー」を造らせて貰った。さすがにそれくらいは許可しないと何をしでかすか判らないとでも思ったのであろうか、それとも自分が「ダンスホール」を祖父に開業させて貰った時のことを思い出したのであろうか。

このマジックコーナーの開店でテンヨーの人達との繋がりが出来た。でも、彼等と会ってもこの時期は全員マジックよりもバックギャモンに夢中で会えばこのゲームばかりをプレイしていたものだ。

温泉地に全国各地からプレイヤーが集合して徹夜で地区対抗の大会をやったりしたものである。(つづく)


■2008-01-17-Thursday マジック 学生時代編 2

駒澤大学に入学して最初に行なったことは「手品奇術研究会」に入会したことだ。

大学案内には「マジッククラブ」があるとは載っていなかったので、自分で創設するつもりでいたのだが、入学式の会場に向かう途中に「手品」の看板のある出店を見つけて、入学式に出席する前に入会申し込みをしたのである。

申し込み時に「小学校の時からマジックをやっている」と言ったら、ものすごく期待されてしまい戸惑ってしまった。先輩達は皆、大学に入ってからマジックを始めた人ばかりだったからだ。入学式の間中「しまった。マジックを教えてもらえることは少ないかな、早まったかな」とも考えたのだが、クラブ活動をするのも面白いかと思い直してそのまま入会することにしたのである。

4・5月は「引田天功のマジック道場」への出演があるので、大学のクラブの練習はそこそこにして、ジミー忍師の自宅に通って稽古をしていた。その内に事情を知らないクラブのヘッドである3年生の幹事長の河合一博さんと副幹事長の西村道治さん(わが部では部長とは呼ばないのである)の2人が、他のメンバーに示しがつかないからと、付き合いの悪い生意気な後輩である私に意見をしに来たのである。事情を説明すると、逆に是非ともジミー忍師に会いたいから紹介しろと師の自宅までくっ付いて来たのだった。

当時の駒澤大学のマジッククラブは、「(関東)大学奇術連盟」(早稲田、慶應、明治2、中央、法政2、立教、日大芸、日大歯、神奈川など10校12クラブが参加していた)と言う団体に入りたかったのであるが、技術が不足しているという理由で入会を認められていなかったのである。先輩達は相当悔しい気持ちを持ってクラブのレベルアップをしたいと考えていたのである。

ジミー師も「(学生が)助手として手伝ってもらえるなら」と駒澤大学手品奇術研究会(KMC)とジミー忍師との長い付き合いが始まったのであった。

私は「お坊ちゃま」だから辛い下積みの仕事は、3年生の先輩2人にちゃっかり任せて、もっぱら師の自宅でビデオを見ながらマジックの研究をしていたのである。先輩が卒業してしまった後にはすぐに一年後輩の伊藤好喜くんを引き込んで下働きをさせていた。一番楽をして、一番良い思いをしていたのが私なのであった。

ジミー師の影響を受けた3年生の2人の幹部は1976年11月19日(金)に渋谷東京都児童会館ホールで開催した発表会「第5回マジックショー」では司会を「駒澤大学放送研究会」に依頼し、BGMを「駒澤大学軽音楽部ジャズ研究会」に依頼して全員の演目をジャズの生演奏をバックにして演ずるという画期的な試みを行なった。私も一年生ながらオープニングの演目と第一部のトリを「ステッキのプロダクション」で演じた。集団で何かをやり遂げる事の楽しさや達成感を感じたものだ。

翌1977年12月1日(木)渋谷東京都児童開館ホールで開催した2年生時の発表会「第6回マジックショー」の第2部で、私が考案・演出をした「ストーリー性のあるマジック」の実験を行った。「洒落たレストラン」という場所設定で、店員と客の数人が交互に物語に添ったマジックを展開していくのだ。私はレストランのボーイの役で、ビールやワインを沢山取り出すマジックを演じた。当時としては斬新な企画と演出で評判も上々であった。

これに気を良くした私は、来年(3年生時)の発表会ではもっと面白い実験をやろうと、1年前から「ストーリー性のあるマジック」「キャラクターに演じさせるマジック」「従来型のマジック」の三部構成にしよう等と色々と考え出し始めたのである。

もう一方で長年の懸案だった「大学奇術連盟」への加入問題を解決しなければならなかった。そんな折に、専修大学マジッククラブの薩洋一さん、岡嶋良明さんという同年代の仲間と知り合ったのである。意気投合した三人は「SOSトリオ」と称して、「大学奇術連盟」に対抗する新しい団体を立ち上げようという話になっていった。関東には大学奇術連盟に入れてもらえない大学が10校ほどもあったのだ。これらのマジッククラブの人達に呼び掛けを始めたところ、最初に千葉大学の長尾年恭さんが賛同してくれて、彼の人脈から東京大学、東京女子、工学院、学習院など7校が参加してくれることになった。半年間ほどの準備期間を終え、最初の結成式を1979年5月12日に駒澤大学の教室で開催し「Magic Communityマークル」と名付けた団体を旗揚げして、初代の会長には駒大の一年後輩の伊藤好喜くんを就けた。12月13日には新宿四谷公会堂で「第一回マークル合同発表会」を開催するまでになったのである。

伊藤くんにはジミー師の助手をやらせ、私の後継者にするべくマジックの指導もしたのだが・・・

1年間の準備を行なって万全の体制で臨んだ3年生時の発表会が、彼の思わぬ行動でメチャメチャになってしまったのである。(つづく)


■2008-01-18-Friday マジック 学生時代編 3

いよいよ3年生としての発表会「第七回ザ・マジカルミステリーショー」を1979年11月16日(木)渋谷東京都児童会館ホールで迎えた。

一年前から3年生の幹部である鈴木宏保・田中良男・大西孝和との4人で綿密に企画を立てたマジックショーは3部構成にした。

まず、オープニングは伊藤君、大きな(180×90㎝)3枚のトランプの壁の中から登場してミリオンカード(手から何枚もトランプが出現するマジック)、最後に噴水カード(箱の中からトランプが大量に吹き上がるマジック)を終えると、後ろの黒幕全体がトランプの幕(90×45の大きさのトランプ100枚繋げて幕状にしたものを吊るす)に変化して終了という手筈であった。しかし、当日まで伊藤君がトランプ幕の製作をさぼって、本番直前のリハーサル時点でも実験が出来ずにいたので、最後の幕が変化する部分は急遽カットせざるを得なかった。やむを得ず、演技の最初から背景幕としてトランプの幕を張ったままでオープニングを行ったのである。背景が大きなトランプの幕の前で、小さなトランプを出してもインパクトが弱いから、オープニングの観客の度肝を抜く目論見は見事に外れてしまったのである。

第一部は前年に実験した「ストーリー性のあるマジック」で場所設定は「春の公園」1組の恋人、恋人のいない4人の男性、恋人のいない3人の女性の3組がそれぞれマジックを演じていく、最後に公園一杯に花を咲かせて終わりというマジックであった。背景をマジックに使うというアイデアで、これはなかなか好評であった。

第二部は新しい試みで「キャラクターに演じさせるマジック」である。キャラクターとして私が選んだのは「魔女」「せむし男」「ドラキュラ」「雪女」「番町皿屋敷のお菊」の五人の『おばけ』であった。

魔女は「ダンシングケーン」というマジックを応用して箒が空中を飛び回るマジック、せむし男は「四つ玉」というマジックを応用して魂に見立てた玉を増やしたり減らしたりするマジック、ドラキュラは棺桶から登場し「ゾンビボール」というマジックを応用した頭骸骨が空中に浮かぶマジック、雪女は歌舞伎のくもの糸と「ファンテンシルク」というマジックを応用した余韻を感じさせるマジックで最後に雪女が解けて消える場面では雪が解ける様にゆっくりと消える方法を考案して大好評を博した、お菊は井戸から登場して皿を沢山出すマジックを演じた。この第二部は大変に評判が良くて舞台の袖で見ていても感動したくらいである。

第三部の3年生4人は普通のスタイルのマジシャンがマジックを演じるものである。「時計」「電球」「帽子」と来て、最後に私はトリとして「鳩出し&ステッキ」を演じた。鳩出しはアマチュアマジシャン憧れの演目なのである。マジシャンは魔法使いではないから、取り出す鳩は普段から飼育していなければならない。演技では6羽の鳩を出すのだが予備を含めて10羽の鳩を購入し、アパートで飼育していた。猫にやられたり寒さで死んだりと大変な思いをしながら飼育していたのである。

ジミー忍師も「まずは全部自分で考えろ」と最初は一切指導してもらえなかった。試行錯誤を繰り返し、ルーティンを考えては師の前で見せることを何度もしながら、少しずつ演技が固まっていった。最後には得意のステッキのマジックと融合させたオリジナルのルーティンを完成させたのである。本番直前のリハーサルでも完璧な演技であった。

生き物を使うマジックは演じる直前までセッティングが出来ないという時間的制約の難しさがある。だから、セッティングにはとても気を使っていた。

本番の前日に最後のアドバイスをもらう為にジミー師の自宅に伊藤君と訪ねた。次年度に鳩出しを演じる彼にも覚えさせる為に手伝わせていたからである。演技はOKをもらった。師からは鳩の羽を切って洗った方が良いとアドバイスを受けてアパートに戻った。すぐに羽は洗ったのだが切らなかった。羽が長い方が見栄えが良いし、調教しているから客席に飛んでいく心配がなかったからである。

本番の出番が迫ってきた。アクシデントが発生したら困るからいつもよりも5分早目にセッティングを開始したのである。鳩の装着を始めたら、なんと伊藤君がハサミで一羽の鳩の羽を切り出したのである。「何をするんだ!バカヤロー!」と怒鳴ったのだが、時すでに遅し、悪い時に悪い事は重なるもので、よりにもよって彼が羽を切ってしまった一羽の鳩は、出した後に助手が構えるステッキまで飛ばして止まる様に調教した鳩なのであった。(つづく)


■2008-01-19-Saturday マジック 学生時代編 4

プロマジシャンへの夢をこのショーに賭けていた私は、

有名プロマジシャン、テレビ局のスタッフ、各大学のマジッククラブ員、アマチュアマジシャン、母親や姉、高校時代の同級生で東京の大学に進学していた友人などをこのショーに大勢招待していたのである。卒業したクラブのOBたちも大勢観に来ていた。リハーサルでの演技も完璧で、本番直前までは自信満々であったのだが・・・

生き物を扱うマジックは難しい。あまり早くにセッティングしてしまうと鳩が弱ってしまって羽ばたかなかったり、時には死んでしまう事もあるからだ。

しかし、どんなアクシデントが起きても大丈夫なように、いつも時間的余裕を持ってセッティングを開始していた。今回の本番では念には念を入れて、それを更に五分早めて開始したのだ。

伊藤君が羽を切った鳩が、私が取り出した後に助手に手渡すだけの鳩なら何の問題もなかった。

だが、よりにもよって、あろうことか『取り出した鳩を3mほど離れたところに立っている助手に向かって放り出すと、鳩が飛んでいって助手の差し出すステッキにピタッと止まる様に調教した鳩』の羽を切ってしまったのである。

「バカヤロー、本番直前に何て事をするんだ!」と怒ったら、彼は「だって昨日、先生が羽を切れって言ったジャン!」とケロッとして言った。「切るならもっと前に自分で切っている」と怒ったのだが・・・

とにかく、残された時間内で何とかしなくてはならない。怒っている暇は無いのである。演技中盤の見せ場で、鳩が飛ばなくては演技が繋がらなくなってしまう。時間にはまだ余裕があったので羽を切ってしまった鳩がキチンと止まってくれるか楽屋で実験をしたのだ。

ところが運の悪い時というのはアクシデントが重なるもので、私の前の演技者の演技時間がいつもより短縮されて終わってしまったのである。彼は本番で緊張するタイプであった。

アマチュアの発表会では良くあることなのである。

それでも、ほぼ時間通り(30秒遅れで)にセッティングを終了し、楽屋から舞台に向かう途中で、私がまだ舞台に立っていないのに幕が開いてしまったのである。3年生全員が演技する第三部の時には代役の監督を後輩の2年生にやらせていたのだ。ステージ上の確認作業無しに幕が開いてしまい、助手の一年生の女の子2人が舞台上でオロオロしている。すぐに一旦幕を下ろさせて、板付き(初めから舞台に立っている出方)で、舞台中央に立ってから再び幕を開けさせた。

気を取り直してさっそうとマジックを始めたら、右側のズボンのポケットに入れているはずの小さく丸めたシルクのハンカチが無い事に気が付いた。舞台の袖に落としてしまったのである。このハンカチは演技の前半部分で重要な役割を果たす小道具なのである。これが無いとルーティンが繋がらなくなってしまうのだ(替わりのシルクを用意していなかった私が悪いのだが)。「さぁ、どうしよう!」と慌てたが、途中で止めるわけにはいかない。咄嗟にその場で考えながら、そしてその場でルーティンを変更しながら、演技を続けるしかなかったのである。

その状況を助手の2人はまるで把握していない。

小声で助手に囁きかけながら「次はこうやるぞ」「次はこうだ」と指示を出したが、オロオロするばかり、そりゃぁそうだろう。それまでに演じてきた演技と全く違うことを急にその場でやれと一年生の女の子に言ったって対応など出来るはずもなかった。

私の演技もとにかく散々な出来であった。最後は消した筈の鳩が再び登場する爆笑の結末に終わってしまったのである。

「私のこれまでの3年間は一体なんだったのだろう?」と大ショックであった。第一部と第二部、特に雪女は高い評価を受けた。考案者・演出者としては大満足なのだが、演技者としては人生最低の出来であったから、打ち上げの時も放心状態が続いたのであった。

この時すでに私のプロマジシャンへの道は塞がってしまったのかもしれない。


■2008-01-20-Sunday 人間万事塞翁が馬3

大学では授業にはほとんど出ることなくマジックばかりに明け暮れていた。

正午頃に起きてブランチを食べ、3時に銭湯に行って一番風呂に入る。5時頃に大学に行って7時頃までマジッククラブの練習、夕食後にジミー師の自宅に行ってマジックの研究、もしくは師の助手としてのバイトをやって、夜中の2時頃に帰宅というような生活パターンであったのだ。いまだに「単位が足りない!卒業できない!」という夢でうなされることがあるほどである。何とか無事に大学を卒業した(4年で卒業出来たのはマジックだと言われている)私は、(プロマジシャンになろうと思って就職活動などしていなかったから)父の会社に入るしかなかった。父の会社「坂本ビル株式会社」は1969年10月にオープンした寄合百貨店サニーデパートを運営していたが、オープン以来1977年まではテナントが埋まらずに苦労の連続であった。

私がまだ大学2年生時の1977年にサニーデパート4階のほぼワンフロアー全部(約200坪)を帯広市内の老舗書店が借りてくれて帯広で一番大きな本屋が誕生した。巨大本屋の集客力は抜群でいわゆるシャワー効果というやつで下の階のファッション関係のテナントも大賑わい、ビルも入居率100%で大盛況であった。この頃から1983年までの6年間が我が社の全盛時代であったように思う。

当時の西2条南9丁目は我が社の向かい側に、藤丸デパート・金市館・長崎屋の大型店があり、横には帯広千秋庵(現:六花亭)や篠河洋装店、とくら洋装店など個性的な店が集まっていた十勝一番の繁華街であった。1975年に西3条南9丁目にイトーヨーカドーがオープンし相乗効果で更に中心街は盛況になっていったのである。

帯広では買い物に行くことを「まちに行く」という表現をしていたが、この「まち」とはすなわち西2条南9丁目のことを指していたのである。

ヨーカドーや郊外に進出したニチイ(1979年オープン)に対抗する為、向かいにあった藤丸デパートが1982年3月、一丁北側の8丁目に大きな再開発ビルを建てて移動した。その旧藤丸ビルには北海道拓殖銀行が入ったのであった。

それまで帯広にライバルの少なかった貸しビル業界であったが、人が中心街に集まってくれば、古い建物を取り壊して新しくビルを建てたくなるのが人情だ。1983年になると次々と新しいビルが中心街に建ったのである。だが、貸しビルを建ててもテナントがそうそうあるわけではない。そこで新しいビルはサニーデパートのテナントに目をつけて引き抜きに掛かってきたのである。そして遂にサニーデパートの3階でファンシーグッズを販売していた会社を引き抜いていったのであった。

このファンシー会社は1976年に某自動車会社のディーラーをやっていた当時28歳の男性が嫁さんと心機一転、「会社を起こしたい」と父のところに飛び込みでやってきて一番初めはわずか一坪の店からスタートしたのである。本屋に来る中高生の客層とマッチして、相乗効果で本屋もこのファンシーグッズ販売の店も共に大盛況を続けていったのである。店をドンドンと大きくしていき、しまいには3階フロアーの半分を埋めるほどにまでなっていたのだ。

そのファンシー店を新しいビルのデベロッパーが、問屋などに手を回して1983年のオープンの時に引き抜いたのである。

引き抜かれたサニーデパートの方も相乗効果が薄れて本屋は客が減り始めてきたし、空いた場所(3階)は容易に埋まらない状態が続いたのである。

引き抜かれて新しいビルに移ったこのファンシー店も、単独での集客力は弱かったから客はほとんど入らなかった。やがては、この新しいビルの家賃も払えない状態に陥って結局は退店、夫婦は離婚、本人は札幌に行ったが、後年、自らを殺してしまった。

結局、この引き抜きは誰も得をしなかったのである。ただ、前途有望な人間の未来を潰しただけの無責任な引き抜き劇であったのだ。


■2008-01-21-Monday 人間万事塞翁が馬4

3階の半分がガラリと抜けた状態になった1983年からサニーデパートは客足が落ちてきた。

このままではいけないと、3階のワンフロアー全部を若者の起業者向けに小割りにリニューアルして安く貸し出すことにしたのである。しかし、抜けたファンシー店のような集客をすることはできなかった。本屋も客が減ってきたから、1984年3月には面積の半分を返上すると言ってきたのである。どうやらこの辺りから中心街の衰退が始まったように感じる。ビルの供給が急激に過剰となった為にどのビルもテナントが充分に埋まらなくなってガラガラのビルばかりになってきたのである。そうこうするうちにサニーデパート内のテナントもガタガタし始めた。複数のビルに出店していたテナントが店舗の集約を始めたのである。それもヨーカドーやニチイなどの管外資本の大型店に集中して。

もはやワンフロアーだけの中途半端なリニューアルでは客足は戻ってこない。何か抜本的な転換をしなければならないと考えていたのである。そんな1986年5月に長女が生まれて「サニーデパートを子供のビル」に変えようと思い付いた。早速、社長(父)の許可を貰って調査研究に入ったのであった。

世はすでに少子高齢化が言われていた時代である。そんな中で「子供の数が減るのに子供用品のビルに変えるなんて無謀だ」と残っているテナント全員から非難されたのである。

私は、『少子化で子供の数は減るが、高齢化によって両親と更にその両親(爺婆)が生きている時代になった。子供は自分の物を自分で買う訳ではなく親達に買ってもらうのだから、財布の数は6つに増えることになる。大人と違って子供はドンドンと成長していくから買い控えはできずに毎年買い換えをしなければならない。サイズの変わらない年寄りの物を売るより子供の物を売ったほうが楽しいし夢がある。本店では大人の用品を、サニーデパートでは子供の用品を揃えれば客の満足度も上がる。』と説明して歩いたのであるが、28歳の若造の言うことなど誰も相手にしてくれなかった。追い風になると思って協力していた「津川雅彦氏のサンタランド構想」も頓挫してしまった。最初は賛成していた社長(父)も「お前一人だけで事業が出来る訳ではない。協力者が居て初めて出来るのだ。協力者が現れない現状では断念するしかない」と言って、ついにこの「こどものデパート」構想は水泡に帰したのであった。

この子供ビルの構想の時に、こんな出来事があった。サニーデパートは津川雅彦氏が関係していた「チルドレンミュージアム」の帯広店になるかも知れないという噂が出てきたのである。実際に「原宿のチルドレンミュージアム店」に入居している大手テナントの社長達が、津川雅彦氏のサンタランド構想に賛同して頻繁に帯広を訪れていたからだ。私はサンタランドの事務局を手伝っていたから、私のビルにも数人が出入りしていたのである。

とある帯広の大手の洋服屋が「あなたのビルには、私のところの子供服部門が入居してあげるから、あのメーカーを入れるのは止めなさい」と言ってきたのである。結局は入居するつもりが全く無い、ただの妨害工作だった。この洋服屋はライバルが出て来るという情報を得ると色々な場所(ビル)で同じ事を何度も繰り返しては妨害していたのである。こういう商売倫理観が欠落している企業はある時期には他人を蹴落として儲けられるかもしれないが、こんな企業が長続きするものではない。

案の定、何年か後には倒産してしまった。「天網恢恢祖にして漏らさず」なのである。


■2008-01-22-Tuesday 人間万事塞翁が馬5

サニーデパートはどん底の状態になった。

地階は(1985年から)空いたままだし、5階の美容室も1987年1月に退店した。3階のファンシー店の退店(1983年)以降少しずつ店舗の縮小を続けてきた4階の本屋も、ついに1988年3月には結局全部門が退店して向かいのビルの1階に移転してしまった。

それと機を合わせるようにしてほぼ同時に2階ワンフロアー全部を使っていたファッション店が退店、1階の半分の面積を占めるファッション関連店舗、数店も退店してしまい、1988年はまさしく櫛の歯が抜けるがごとくにビル全体の入居率は10%程度にまで落ち込んでしまったのである。

何とか早急にテナントを誘致しなくては、このままでは倒産しかねない。あらゆるチャンネル、人脈を使って東奔西走し、数十社との入居交渉をおこなっていった。

デパートなどとはとても恥ずかしくて名乗っていられる様な状態ではないし、もはや物販だけではテナントを見つけることは不可能だと感じて「サニービル」と名称を変更し、5階ワンフロアーを3月から「塾」に貸すことに、6月からは地階のワンフロアーを「居酒屋」に貸すことにした。

夏には1階の半分と2階全フロアーを借りてくれる大型スポーツ店を見つける事が出来たが、このスポーツ店と契約を結ぶには1階にバラバラに残ったテナント数店を北側半分に集約する交渉をまとめなければならない。何とかテナントの協力を取り付け大型スポーツ店との契約にこぎつけ9月1日にオープンすることが出来たのである。

この時点では何とか地・1・2・5階を埋めることが出来たものの、3・4階は依然として閉鎖したまま、一息ついて何とか食べていけることは出来るが将来展望も開けない情けない状態が続いたのであった。

市内のビルの供給過剰状態は依然として改善されないどころか、1990年11月には帯広駅南側に長崎屋が巨大な店舗を建てて移転し、サニーの向かいにあった長崎屋が入居していたビルが空きビルになって、ますます貸しビルの供給過剰状態が増えたのである。中心街のビルはどのビルもテナントが少ないガラガラの状態であった。

1991年11月に社長である父が突然倒れた。肝臓癌の末期で余命3ヶ月との医者の診断であった(実際には半年持ちこたえた)が、1992年5月2日に亡くなってしまった。

そんなバタバタしている状況の中で(1992年5月)今度はスポーツ店が丸ごと引き抜かれてしまったのである。

父である社長が亡くなって、再び倒産の危機が訪れた。サニービルのテナントは5階の塾も退店(1993年4月)して、サニービル内はガラガラで再びどん底の状態に戻ったのである。

『こちらは旅費を掛けて、交渉し、帯広の優位性を説いて、出店してもらうのである。だが折角入居してもらっても、オープンの翌日には「サニービルよりも家賃を安くするから移転しないか?」という他ビルからの攻勢が始まるのだ。』そんなことで移動させられるなら他のビルにとって、こんな経費の安いことはない。新規テナントも、もともと義理があって帯広に出店している訳ではないから、家賃等が安い方が良いと簡単にソロバンをはじいて移転して行く。物販店は、什器備品を取り外すのが容易で簡単に移動することが出来てしまうのである。

入居したテナントを横取りされてしまうのはもう御免である。なんとか簡単に引き抜かれない方法はないものかと、あれこれと思案する日々が続いたのであった。

そんなある時、地下の居酒屋の社長が、飲食店ビルに変えてはどうかと言ってきたのである。


■2008-01-23-Wednesday 人間万事塞翁が馬6

飲食店は物販店などに較べると賃貸料が安目である。

しかし、飲食店は厨房(上下水道・ガス等の配管、床の防水工事など)に経費を掛けるので、物販店の様に什器備品を運んだら簡単に移動できるという訳にはいかない。「そうか、飲食店ビルにしてしまえば引き抜きは難しくなるな!」と思ったのだが、サニーデパートというくらいだから、元々飲食店ビル用の設備はしていないのである。給排水、冷暖房、電気や給排気などの消防設備も大掛かりな大改造をしなければならないのである。また法律上では用途変更やら何やら書面上もとても面倒な作業をしなければならないのだ。

改築に掛かる費用は気軽に工面出来るような金額ではないから、金融機関と交渉して莫大な金額を借りなければならない。

「前社長が亡くなり、後を継いだ新社長が先代を超えようと焦って、すぐに新事業に手を出し、会社をダメにした例を数多く見てきた」から一年間(1992.5〜1993.5)は「死んだ振り」して大人しく周りの人達の言動を眺める事にして、自分の頭の中だけで計画を組み立てていた。

このままでは明日にも倒産かという切羽詰った状況だったのだが、何故だか不思議と冷静であった。「人生成るようにしか成らん!」と開き直っていたのである。

サニービルの東側隣接地126坪の土地に祖父が1929年頃に建てた二軒長屋の2棟4軒分の貸し家があった。1967年11月の火災の時にも延焼を免れた建物である。このテナント3軒(1店舗は1棟を使用)が相次いで(1994年1月・11月、1997年9月)退去すると言ってきたのである。この木造貸し店舗がサニービルの東側を塞いでいたので、暗い2m幅の通路(二軒長屋の真ん中の通路)しか取れずに、これまでビル東側に展開している飲食店街とのつながりが悪かったのであるが、これを取り壊したことで見通しが良くなってビルの通り抜け客が増えたのである。父の生前に長年の懸案事項であった貸家建物の問題が、父が死んだ直後に解決したのであるから皮肉なものである。

1994年4月末の父の三周忌を終えた後から、飲食店ビルへの本格的な変更に着手した。サニービル全体を飲食店ビルにするには、1階に数店残っている物販店には退店してもらわなければならない。最後まで残ってくれた方々に、こちらから「退店して欲しい」と言うことはとても心苦しいことであったが、交渉を開始し、了承を取り付け、契約を終了させていった。

改築工事は大工事であった。2台のエレベーターを付け替え、地階〜5階まであったエスカレーターを撤去して、その床穴を埋めて貸し出し面積を拡げ、使い勝手を良くした。

設備等も入替えを済ませて飲食店ビルへの衣替えを大々的に開始したのである。

事前の広報も抜かりなくおこなった。友人の新聞記者に「ビルの名称をサニービルから坂本ビルに変更する。その理由は物販ビルから飲食ビルへの大変身である。」と言って記事にして大きく取り上げてもらったのである。効果は抜群であった。すぐに大手の居酒屋チェーン店の社長数人がじきじきに訪ねて来て、ワンフロアー全部を借りたいと申し出てくれたのであった。そうなると地階・1階・2階・3階の4層にワンフローアー約200坪ずつの巨大な居酒屋が4軒入ったビルが誕生することになる。こんな集積をしたビルは当時の日本にはまだなかったのである。

ところがここでまた問題が発生したのだ。


■2008-01-24-Thursday 人間万事塞翁が馬7

あろうことか、地階の居酒屋の社長からクレームが付いたのである。

「飲食店ビルにしたら良い」とアドバイスしてくれた社長だったのだが、「同じ職種の大型居酒屋はうち一軒だけで良い。他はレストランや食堂、バーやスナックなどを入れたら良い。」という意味だったと言うのである。

新しく入居を打診してきた方の社長らは「同業種が集まる事で相乗効果が上がるから、居酒屋が一つのビルに固まった方が良い」と言うのである。おそらく他社には負けないという自信がそれぞれにあったのであろう。もし我が社が断って隣のビルに出店された場合でもライバルであることは同じであるし、防ぎようはない。であるならば、帯広のお客が『まずは「坂本ビル」の前で待ち合わせる』という様な風潮を作り出し、同じビルの中で切磋琢磨する方がお客にとっても良いことになるのではないかと考えたのである。

ところが、地階の居酒屋の社長の剣幕は納まらない。「自分が開拓した客を新規の居酒屋に奪われるから絶対に認めない」と猛反発してきたのである。いわゆる既得権という奴を持ち出してきたのだ。

私は飲食業の事に関しては良く判っていなかったから、飲食や食品関係に携わる方々にアドバイスを求めた。社長であった父が亡くなって、会社のことを相談する人が居なくなってしまったからである。ほとんどの人が「前から居てくれているテナントさんの言うことを尊重したほうが良い。」「坂本ビルのワンフロアー全部(約200坪)を使う巨大な居酒屋が4軒も同じビルの中で営業するのは無理だ。共倒れになるから止めた方が良い。」と言うのである。

昔から他人にダメだと言われると、逆にムラムラと闘争心が涌いてくるタイプだから「そうかそれならやってやろう!」と決心したのであった。

我が社は「ビル賃貸業」である。「借りていただいてナンボ、使っていただいてナンボなのである」「空けておくことは罪なのだ」という哲学(のようなもの)が湧き出てきて、信念を持ってことに当たることが出来たのである。

腹をくくって、地階の居酒屋の社長が住んでいる街に出向き、説得をおこなった。しかし、その場ではガンとして了承はしてもらえない。二度目に出向いた時に少し柔軟な態度になってきた。三度目になると条件闘争に変化した。結局、出入口の整備、看板の位置や大きさなどを優遇することでなんとか折り合いがついたのであった。

私としては、ビルはガラガラの状態だし、すでに貸し家も取り壊して家賃収入もゼロにしてしまっているから、まさに背水の陣で、生活が掛かっているのだから命懸けである。

仕事上は父の生前に専務としてやっていた事とそう大きな違いが有るわけではないのに、社長となるとこうも責任の度合いが違うのかと、改めて感じさせられた。

専務時代は即断即決しなければならない重要な話し合いの場に社長の名代で出席している場合でも「社長の許可が必要だから若干の猶予が欲しい」と時間稼ぎをして、その間にシュミレーションすることが出来たのだが、社長となるとそうはいかないのだ。相手も「社長になったんだから、今すぐ決められるだろう?」と即断即決を迫ってくる。社長業とは結構つらいものだなぁと感じたものであった。

ともあれ1995年4月5日に新生坂本ビルは飲食店ビルとして入居率を100%にして甦ったのである。


■2008-01-25-Friday 社史を書く

ここまで、過去の内容を書いてきて、ふと思った。

帯広の開拓の始まりを、依田勉三の率いた「晩成社」からだとすると、入植の始まりは1883(明治16)年のことであるから、今年で125年と云うことになる。そんな帯広で創業100年以上の会社が、はたして何社ある(残っている)のであろうか?

恐らく片手で数える程しかないのであろうと思う。

我が社は祖父が十勝(池田利別)で創業して今年で104年目(1904年明治37年創業)、帯広に移ってからは103年目になる。

そこで、来年の創業105年を記念して社史(のようなもの)を刊行できないかと急に思いついたのである。

一遍に書く事は難しい。何から手を付けたら良いのかも判らなくなる。しかし、このブログ上で毎日1000〜1200字程度の文章を書く事なら可能に思えてきた。

一年365日×1000字なら一冊の本にするには充分過ぎる分量だ。歴史的なことばかりを書いてもブログがつまらなくなるから、無関係の雑感的なことも書いていきたい。最終的に不要な分を省いて編集すれば一年後には丁度良い分量になるだろうと思う。

思い立ったら吉日。早速今日から、始めることにする。

まずは祖父「勝」(1886.9.1—1953.1.19)のことについて書き始めたいと思う。

父は末っ子で祖父が41歳の時に生まれた子であり、祖父は67歳で亡くなったから、父も祖父の過去についてはあまり詳しくは知らなかった様である。母は祖父が亡くなってから嫁いで(1955.4.13)来たので祖父との面識はまるで無い。

私が子供の頃に父と一緒にお風呂に入ると、必ず我が家の昔の話を何度も聞かされて育った(たぶん私に跡取り息子としての教育をしていたつもりなのであろう)ので、私が憶えている範囲(ところどころは想像力で補って)で書いていくことを最初にお断わりしておく。

祖父「勝」の生家は「山梨県北巨摩郡安都玉村」で農業をしていた坂本繁八・かめの、の長男として1886年9月1日に生まれた。一人っ子であった。祖父は農家になるのが嫌で、水晶加工や印鑑を彫る技術を身に付ける為に甲府に通っていた。1900年13歳頃のある日のこと、その店に北海道から藁筵(わらむしろ)一杯に入った「黒い石」が届いた。黒曜石という縄文時代の矢じり等の石器に使われている石である。「北海道の十勝という場所には、この黒曜石がゴロゴロとそこ等辺りに落ちているらしい」という話に目を輝かせて「北海道に行けば、この石がいたるところに転がっている。それなら、この石を活用すれば材料費が掛からないから儲かるのではないか?」と考えた祖父は、まずは北海道の十勝へ下見に行く事を決め、翌1901年14歳の時に初めて十勝に入ったのであった。今考えてもものすごく行動的な人だったなぁと思う。

祖父の生まれ育った山梨の北巨摩郡は平たい場所が無い山間の村である。十勝平野の広大さにすっかり心を奪われ、自分の名前が入った地名に縁を感じた祖父は移住を決断する。下見に訪れた十勝池田利別で同郷の山梨の出身者を探したところ金物屋をやっている「カネヨ佐藤喜与丸商店」という店があったので、この店に世話になる約束を取り付けた祖父は、一旦山梨に戻って準備をしてから再び北海道の十勝を目指したのであった。ちなみに同じ頃、この佐藤喜与丸商店に草鞋を脱いだ同郷のものが多くいて、池田町駅前の「米倉屋」もその一人である。

わが家にある北海道庁殖民部発行の明治36年版「北海道渡航案内図」(額装して会社に飾ってある)によると、甲府—青森間は汽車が走っていたが、青森−函館—広尾—大津間(料金表によると函館—大津間の料金は三円)は船で渡るしかなかった。大津から十勝川を遡り(陸路がまだ整備されていなかった)、池田利別に入るのである。十勝川と利別川の合流地点であった利別の方が地の利がよく、当時は帯広よりも栄えていたのである。

今から27年前の1981年に父が、私と一緒に我が家のルーツを辿っておきたいと言い出した。甲府の取引先に依頼して、我が家に残っていた祖父の戸籍謄本の住所(当時の地名の安都玉村が高根町に変更されていたので判らなかった)から祖父の生家を割り出してもらい、訪ねる約束を取り付けたと言うのである。11月に親子2人で山梨に向かったのであった。


■2008-01-26-Saturday 坂本勝玉堂1

祖父は山梨の生家とはまったくの没交渉であったという。

なぜ、やりとりが無くなったのか?11月に訪ねた祖父の生家の後を継いでいる坂本家の人に話を聞いた。

祖父は北海道への渡航費用を捻出する為に、勝手に田畑の一部(さすがに全部は売らなかった)を売り払って資金を作ったのだと言う。更に、祖父は本家の一人っ子であったにも関わらず、家の跡を継がずに北海道に行ってしまったので、仕方なく分家から養子をもらい、坂本家を今日まで繋げてきたのだと。

祖父の側から言わせると、帯広で成功したので両親を北海道に呼び寄せようとしたのだが「蝦夷地なんぞに行けるか」と拒否されたということになっている。立場が変わると解釈も変わるものである。

祖父は1904(明治37)年18歳で北海道中川郡凋寒村大字凋寒村字利別太大通六丁目十九番地に印判店「坂本勝玉堂」を開業した。父は生前、祖父が最初に店を開いたこの場所を探したいと言っていたのだが住所が判らなかったのである。この住所は、父の死後に私が古い資料を整理していて、油紙に包まれた祖父の古い(1933(大正8)年発行)戸籍謄本を発見したのであるが、その中に書かれていたことで判明したのだ。

この戸籍謄本の発見によってこれまで不明であったことがいくつか判ったのであるが、たった三代100年のことでもこれだけの謎があったのだから、記録はしっかりと残しておく必要があると感じた。

帯広の発展には鉄道の開通が大きな要因となっているが、この鉄道の建設はまず旭川—帯広間の「十勝線」が1897(明治30)年6月に旭川側から着工した。次に釧路—帯広間の「釧路線」が1900(明治33)年4月に釧路側から着工して、共に帯広に向けて線路の敷設が始まったのである。「十勝線」は狩勝峠のトンネルの難工事に手間取り工事が予定より大幅に遅れていた。

「釧路線」は1904年12月には利別まで開通し、翌1905年10月には帯広まで開通した。

帯広—釧路間の交通は便利になったが、大都市札幌や北海道の入り口函館へ続く「十勝線」は「狩勝トンネル」が未完成でまだ帯広には通じていなかった。1907(明治40)年9月にようやく十勝線と釧路線が繋がり、これによって帯広の立地条件は格段に上がっていくのである。明治39年末の人口を比較すると、利別(凋寒村)は7165人、帯広は4249人、十勝の中で一番栄えていたのが利別であった。後の「網走線」の分岐点予定地も明治40年の着工の際には隣の池田に移されてしまい利別はしだいに寂れていったのである。

祖父は、これからは帯広だと考え、1905年の釧路線の帯広開通に合わせて、帯広町西2条南4丁目20番地に店舗を移転し、印鑑以外に十勝石細工品、カレンダーや団扇等の商売も始めたのである。

ここで「十勝石」という名称が出てくる。父からは祖父が黒曜石を十勝石と名付けたらしいと聞かされていたのだが、2007年12月26日の北海道新聞の日曜版に「幕末の探検家、松浦武四郎の十勝日誌の中に「トカチ石」の記述が見える。これが最初の記録らしい」と載っていたので、早速「十勝日誌(1858安政5年)」を調べてみると確かに「此処トカチ石(黒石)の名品有て、中州に舟を繋げて是を探すに、暫時に十余を拾ひたり。中に虎斑(とらふ)白筋の二種有。尤も愛すべき物也。」という記述を見つけた。つまり、祖父は名付け親ではなく名を広めた人間であったということだ。祖父はこの「黒い石の輝きに心を奪われ」全国各地に(北海道物産展のはしりか)出向いては十勝石の普及に努めたのだと父に語っていた。

因みに十勝石細工品は明治31年頃に十勝監獄の分監御用商人林長太郎が囚徒に加工させ、売り出したのが始まりと言われている。

皇太子(後の大正天皇)が1911(明治44)年9月2日に帯広に行啓された折に、お買い上げになった二種類は馬一頭と十勝石細工品(硯2面、兎文鎮2個)であったが、この十勝石細工を謹製したのが祖父であった。尚、この時には他にも十勝石2個を十勝国各町村連名で贈っている。この年(明治44年10月5日)の帯広興信所発行の商工業家所得税負担額表に「坂本勝、六円」の記述が見られる。


■2008-01-27-Sunday 坂本勝玉堂2

鉄道の開通によって帯広は大きく変貌する。

鉄道の停車場(駅)が出来る位置によっては、その後の市街地発展に与える影響が大きいのは今日でも同じといえる。明治30年代の帯広も停車場(駅)がどこに出来るかという噂話が起きる度に、その近辺の土地の買占めが起きた。停車場は最終的には噂話にも上がらなかった西2条南12丁目辺りに本決定するのだが、この場所の近くには退官したばかりの諏訪鹿三前河西支庁長が広大な面積を占めて農場を経営していたから、当時は様々な風評が飛び交ったと言われている。

西2条の発展にはもう一つの阻害要因、裁判所用地の問題があった。1898(明治31)年に帯広が道庁から受領した裁判所用地は最初17161坪もあった。西2条西側・西3条・西4条東側の8・9丁目全部(現藤丸8個分に相当)である。1918(大正7)年にこの用地が縮小され、翌8年に開放、競売された。この裁判所用地が西2条通に面していた為に、10〜駅前(12丁目)と7丁目より北側の南北に分断されていた西2条が用地の縮小によって間もなく商店が立ち並び始めやがて商店街が形成されていくのである。

因みにこの時、藤丸は8丁目角地の17,19番地と9丁目角地の17,19番地の計4戸分を同時に落札している。

祖父は前河西支庁長、諏訪鹿三の住宅があった西2条南9丁目東側の16.18.20番地の三戸分を1924(大正13)年頃に購入する。だが、何故だか18.20番地を渡道の際に世話になった「佐藤喜与丸」の名義にしたのである。理由は不明だが祖父は表面上に自分の名前が出ることを極端に嫌っていたようなのである。16番地で「坂本勝玉堂」、18番地は借店舗として(現:眼鏡の文明堂)、そして20番地に「カネヨ佐藤喜与丸商店」が利別から移転してくる。後年、カネヨ佐藤の商売が上手く行かずに20番地は他人の手に渡ってしまうが、18番地の名義の変更はその直前に終了していたので危うく難を逃れたのだと父が言っていた。

祖父、勝は1907(明治40)年10月16日に同郷(山梨県北巨摩郡安都玉村)から呼び寄せた「土屋志のを」と結婚して4男1女をもうけるのであるが、次男(恒久1912年生)以外は早世してしまう。妻の志のをも1925(大正14)年に38歳で亡くなってしまった。

1925(大正14)年に借家住まいに決別して、西2条南9丁目16番地に石造り二階建てのモダンな店舗を建てて移転、十勝石細工、印鑑、カレンダー、団扇、タオルなどを手掛けた。印鑑部門では内弟子を育て、高田東洋堂・斉藤有巧堂・石原印房などが坂本勝玉堂から巣立っていった。高田直明(東洋堂)は勝の妻志のをの妹一江を妻としていたので義弟という関係であったが、志のをの死を期に独立をした。高田の独立で職人不在となり印鑑業を止めることになる。祖父は電気屋、洋装屋など様々な職業を手掛けたようであるが、どれも強力なライバルが出現すると、あっさりと撤退している。商売の見極めが早かったのか?それとも気まぐれだったのかは判らない。

1927(昭和2)年、勝は大正7年に夫の遠藤好治を亡くしていた遠藤ハナ(有田三蔵、むめ長女)と再婚し、五男圭司(貞夫)をもうける。これが私の父である。

祖母の実家である有田家を継いだハナの兄、有田重太郎は有田紙店(大正10年10月大通南11丁目11番地で開業)を起こした社長で、帯広商工会議所の副会頭も務めた人物である。

藤丸が1930年(昭和5)年11月に西2条南8丁目17.19番地の二戸分をつかったデパートを開業すると西2条はますます栄えていく。

祖父は1933(昭和8)年に札幌市南2条西3丁目18番地の角地の土地を購入して札幌支店を作る。この支店を任されたのが次男の恒久である。この場所では現在も従兄弟が商売を続けているが、札幌の駅前通りの一等地である。帯広で一番固定資産税が高い土地と札幌の一等地を得た祖父の土地を見る目は素晴らしいかったなぁと感じる所以である。

1933(昭和8)年4月1日、帯広町が市制施行で帯広市になったことを記念して、帯広商工会は「第一回帯広市卸見本市」を開催した。視察客が大勢来る事を予想して、帯広を代表する土産品を選定したが70余点の応募の中から選ばれた17点のうちの最高賞である「名誉賞」を坂本勝玉堂謹製の十勝石細工が受賞した。この入賞者によって翌9年1月4日に「帯広土産品協会」が結成されたのである。


■2008-01-28-Monday 縁は異なもの味なもの

昨日の日曜日に妻と映画を観に行った。

岡田准一主演の「陰日向に咲く」という映画だ。私は邦画があまり好きではないので、ジョニー・デップの「スウィニー・トッド」にしようと言ったのだが・・・。

以前にも書いたが「夫婦50歳割引」というのは夫婦が同じ映画を観る事が条件となって、2人で2000円という低価格になるのである。別々の映画を観るという訳にはいかないのだ。

妻が岡田准一のファンだと言うので、仕方なく付き合ったのだが・・・

ここでは映画の講評は避けておくが、映画の主題は「縁」若しくは「因縁」だと思ったので鑑賞後に妻と、2人の結婚についての思い出話をしたのである。

私たち2人の結婚にも「縁」が大きく関わっていたのだ。

妻の旧姓は「西雪」というのだが、語感が「白雪姫」と似ていたが為に、苗字でだいぶ得をしていたように思う。妻と私は小学校が一緒であったが、妻は4年生の時に転校して行った。途中での転校というのは、どうもヒロインに成り易いようである。名前と相まって私の頭の中で勝手に良いイメージが増幅していったのであった。

高校に入学して同じクラスになった。珍しい名前だからすぐに判った。「あっ、あの西雪さんだ!」といきなりビビッと来たのである。私もシャイだからなかなか告白することが出来なかった。3年生の12月になってこのまま告白しないで卒業するのは悔いが残ると、思い切って自宅に電話したら「お友達としてなら・・・」という答えであった。

それまで女性と交際したことなどなかったので、その言葉がやんわりとした「お断り」のセリフだとは露も知らなかったのである。すっかり有頂天になった私は3日続けて電話をした。3日目に「NHKのど自慢の切符があるんだけど一緒に見に行きませんか?西城秀樹と岩崎宏美がゲストなんだけど」とデートに誘ったのである。すると「もうすぐ受験でしょ。今はそんな時期ではないと思いますよ。」ときつい口調で断られたのであった。遅ればせながらようやくこの時にフラレタことに気が付いたのである。

結局、のど自慢は岩崎宏美の大ファンだというむさくるしい奴と見る羽目になってしまったのであった。

正月にビートルズのロングアンドワインディングロードの歌詞を書いた年賀状を出したのだが返事はこなかった。高校の恋ははかなく終わったのである。(結婚後に聞いたら電話のことも年賀状のこともまるで憶えていなかった)

社会人になってから4年目の1984年に私が所属する商店街で「グアム島旅行ご招待セール」という売り出し企画があった。私はこの旅行(9月28日〜10月2日)にお手伝いとして同行したのだが、妻も参加していたのである。妻の方は親戚の人が当選したのだが直前に飼っていたペットが死んで行きたくなというので替わりに参加していたのである。

「あっ、あの西雪さんだ!」と私の心がときめいたのは言うまでもない。だが、同じ人に2度もフラレルのはカッコ悪いから言い出せず、グアム島では何事も起こらなかったのであった。

ところが帯広に戻ってから実に不思議なことが連続して起こったのである。

このグアム島に行く直前の9月14日に知人の結婚式の発起人(「後継者スクール」という勉強会に参加していたメンバーが新郎側の発起人)を務めたのである。

この「後継者スクール」では私が最年少で、この時に結婚したのは私のすぐ上の年齢のメンバーだった。

10月6日にこの新婚家庭に発起人たちが招待されてパーティーを開いたのである。「後は坂本君だけだな。誰か相手はいるのかい?」と聞かれたので「いません」と答えたら、「では、良い人を紹介したい。私の大学の後輩なんだけど、坂本君にピッタリだと思うんだ」、「西雪さんといって・・・」と言うのである。「え〜っ、実は、その西雪さんが好きなんです、この間も、グアム島でたまたま一緒になったんですけど交際を申し込めなくて」と言ったら、「それなら、お見合いをしよう。私が間を取り持つから」と言うのである。

10月15日にその人の仲人(?)でお見合い(?)みたいに会食をしたのである。4日後の19日にはグアム島旅行の写真交換会が開かれて、またまた一緒になったのであった。

それからは何回かデートを重ねたのである。

妻の家は2人姉妹で姉が一人居るが、この姉が嫁いだ先の苗字が「坂本」なのだ。旦那の名前が「和隆」で私と一字違い。しかも実家は札幌で土産品店を営んでいるというから親の職業も同じなのである。

浅からぬ縁を感じたのだが、これだけではなかった。西雪の父と私の父は同じ中学校の剣道部の先輩、後輩の仲だったのである。更に、結婚式の仲人を頼みに、父の友人のところに両家で挨拶に行った時のことだが、西雪の父の戦友で消息不明の人がいたのであるが、東京に居る仲人さんの娘さんのピアノの調教師がその戦友であったのだ。たまたま私達の結婚がキッカケとなって判明したのである。

世の中にはこんなにも偶然が重なることがあるのだなぁ〜、この結婚は必然だったのかもしれないなぁ〜と感じたのであった。


■2008-01-29-Tuesday 誕生日

今日29日は私の50回目の誕生日だ。

私は1958(昭和33)年1月29日に帯広市西2条南9丁目で生まれ、名前の総字画数は29画である。生年の1,9,5,8,3,3を足すと29になる。だから29と言う数字にとてもこだわりをもっているのだ。

北の屋台をオープンさせた日も7月29日であったし、北の屋台の2冊の本を出版した日も同じ29日なのである。

そんなことはどうでも良いことだが、50歳になっても、なんだかピンと来ないのである。どうしても50歳になったという実感が湧かないのだ。自分の精神年齢が二十歳くらいでストップしてしまっているような感じがするのである。

50歳といえば、織田信長が好んだといわれている幸若舞の「敦盛」(時代劇では本能寺の変の時にこれを舞ってから自害するお約束になっているようだ)「人生五十年。下天のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり。ひとたびこの世に生を受け滅せぬもののあるべきか」という謡が有名だが、信長の時代の人の平均寿命が50歳位であったというから、この当時の50歳は相当なおじいさんだったであろう。私が子供の頃の50歳の人もかなりのおじいさんだったように記憶している(漫画サザエさんのお父さんの波平さんは定年前なのだから60歳より若いはずであるが、昔の人は皆、あんな感じだったように思う)ので、調べてみたら1950年の日本男子の平均寿命は58歳であった。現代の日本の男性の平均寿命は79歳で世界一の長生きだという。この50年余りで21歳も長命になったのである。

昔から比べると皆、格段に若くなっている。昨日(28日)の夜、青年会議所OB会があって出席したのだが、その会の中で還暦になったメンバーに記念品を贈呈するプログラムがあった。舞台に登場した人たちを見ると皆若々しく60歳にはとても見えない。見た目だけではなくて精神年齢も若くなっているように思う。

その分、世の中から威厳のある老人が減っているようにも感じるのである。

OB会のプログラムで抽選会がおこなわれたが、これまでこの種のクジに当たった験しがない。案の定、同じテーブルに坐った中で私一人だけが残念賞であった。悔しいから「人間の運の総数は決まっているというから、こんな程度の瑣末な事には運を使わないのさと」強がりを言っておいた。

OB会後の二次会で同年の連中と一緒に飲みに出た。その中で「お前は息子に自分の職業を継がせたいと思うか?」と問われたが、即答出来なかった。私が大学を卒業した頃には、まだ「今日よりも明日の方が良い日がやって来るさ」という明るい希望あった。だからこそ父も私に継がせたのだろうと思う。今は明るい希望の見えない未来しかないように感じる。私から息子に継いで欲しいとは言い出せないかもしれない。

後、29年も生きられるのだろうか?老後は何して暮らしたら良いのだろうか?

地球環境は持つのだろうか?日本の政治はまともに機能するのだろうか?暗い予測ばかりが・・・、

まぁ、とりあえず、還暦までの10年間を一所懸命に生きてみることにしよう。

ポジティブ・シンキングにならないなぁ〜。なんだか、とってもつまらない、暗い気分の50歳の誕生日なのである。


■2008-01-30-Wednesday 方向感覚

方向感覚には絶対の自信を持っていた。

過去形で書いたのは最近それが怪しくなってきたからである。以前は室内にいても、地下街に居ても、何処に居ても、東西南北が感覚的に判ったのである。地図さえあれば何処にでも行ける自信もあった。

父もそうであったし、息子もそうであるから、多分、先天(遺伝)的なものではないかと思う。

小学校の2年生頃からたった一人で汽車に乗っては、札幌や留萌の親戚の家に遊びに行っては小遣いをねだっていた。春・夏・冬の三つの休み毎に行っていたのである。親戚も仕事が忙しいから構ってなどもらえないから、一人で札幌の市内を歩き回っていたのである。駅に迎えに来てくれるなんてこともなかった。札幌駅から一人で歩いて親戚の家まで行くのである。今の時代なら途中で補導でもされるのかもしれないが、当時は奇異にも映らなかった様で、街中で声を掛けられることもなかった。

歩き回る癖は未だに抜けず、旅行に出るとやたらとあっちこっち歩き回る。するとすぐにその地域の地図が頭の中に浮かび上がるのである。そうやって土地勘を磨いていたのだ。

ところが、何度行ってもそれが出来ない場所がある。それはアメリカのラスベガスである。外を歩く分には何の問題もないのだが、カジノの中に入ると方向が判らなくなってしまうのである。

私はギャンブルが好きではないから、ほとんどやらない。では何故、ラスベガスに行くのかというと、マジックやサーカスやミュージカルなどの一流のショーが面白くて安いから、それを観に行くのである。毎日2回ずつ講演をしているから、3日居れば6本のショーが観られるのである。値段は高いものでも30ドル、安いものなら15ドル程度なのである。しかも食費も安い、朝、昼食なら5ドルも出せば充分で、夕食でも15ドル程度で豪華な食事が出来るのである。

ホテルはギャンブルで稼いで、ショーや食事は客寄せ用にと安くしているのである。

どのホテルも受付はカジノの中にあるから、スロットマシンの中を抜けて行くしかないのだが、このスロットマシンの並んでいる中に居ると、私の方向感覚が狂ってしまって、しょっちゅう迷子になってしまうのである。きっと電磁波の仕業に違いないと踏んでいるのだが、ある人に言わせると「人間の思考を狂わせる電波を発して、ギャンブルに金をつぎ込ませるようにしているのさ」なのだそうだ。真偽の程は判らないが・・・

我が家の女は、男の連中とは違って皆、極端な方向音痴だ。親戚の法事に出席する為に母と妹と三人で札幌にJRで向かった時のことである。帯広始発の列車に、妹が足の悪い母を先に乗せてるからと売店を私より先に出た。後から買い物を済ませて乗り込んだら隣に居るはずの母と妹が居ない。発車時間が迫ってくる。もしやと思って階段を駆け下りて隣の釧路行きのホームに行ってみるとそこに二人が涼しい顔して待っているではないか。すぐに「方向が逆だろう」と言って札幌行きのホームに連れ戻し、ギリギリで発車時間に間に合ったのである。方向音痴は何人いても烏合の衆で何の役にも立たないことが判った。

判らないなら駅員に聞きゃ良いものを・・・

最近、私の方向感覚に狂いが生じてきたのは、こんな母の血が私の中で色濃く働き始めたのかもしれない。

今日はこれから札幌で会議だ。間違って釧路に行かないように気を付けよう!


■2008-01-31-Thursday 寒〜い!

今年の1月はとても寒かった。

「地球温暖化はどうしたんだ!」と間違ったジョーク(温暖化ではなく、気候変動だから温かくなる一方でないことは環境問題をかじっていれば分かることだが)を言っている場合ではない。

帯広では22年振りに1月3日〜27日までの25日連続で真冬日(一日の最高気温がマイナス気温の日)が続いたのである。しかも最低気温はずっと−20℃以下の日が多かった。

久し振りに最高気温が+1.3℃(13℃ではない)になった28日のお昼に、昼食をとりに街中を歩いていて、知り合いの人とすれ違う時に「今日は温かいですね」と挨拶を交わしていたら、丁度、六花亭本店から出てきたカップルの客が「エ〜ッ!」と声を出して私たちのことを見て笑ったのである。何処か本州方面の暖かい場所から来た客なのであろう。

そりゃそうだろうなぁ〜、+1.3℃が温かいなどとは驚きであったろう。だが、気温の感じ方は相対的なものなのである。たとえその日が−10℃であっても、「今日は温かいですね」と言っていたと思う。それくらい−20℃以下というのは特別に寒いのである。

気温が−17℃以下になると「ダイヤモンドダスト現象(空気中の水蒸気が凍ってキラキラと綺麗に輝く現象)」が起きるぐらいであるから、−20℃という気温では涙が凍って目を開けていられないし、鼻の穴がヒッツク感じで呼吸が苦しいし、顔は冷たいを通り越して痛くなる。玄関を出て鍵をかけている間に靴の底が地面に凍り付いて足が動かずに転びそうになる。金属に素肌で触ったらヒッツイて離れなくなるなどの現象が起きるのである。こんな状態は体験してみなければ、言葉で表現しても本州の人間には伝わらないだろう。

北海道の人間は冬の気温を言葉に出して言う時に、一々「マイナス」を付けたりはしない。プラスの時にだけ付けるのである。それ位に冬は、マイナス気温が当たり前なのだ。

最近は灯油代を節約する為に毎晩、銭湯の温泉に入りに行っているが、先週の極寒の晩に、自宅から100mほどの銭湯に、ガソリンを節約する為に歩いて行った。湯帰り時に、お約束の「タオルを振り回して歩いて帰った」ら見事にピンと立ったのであった。

このメチャクチャに寒い冬に灯油の値段が高くて困っている人が多い。去年の倍の値段になっているからである。節約にも限度がある。−20℃は命に関わる気温なのである。

このまま政治の無作為が続けば凍死する人が出てくるかもしれない危険な状態だ。

部屋中を暖めて、半袖のシャツでいるという旧来の北海道のライフスタイルは間違っていると思うが、普通の冬服の状態で風邪をひくのは、かえって無駄金を使うことにもなると思うのである。

近年の暖冬続きで、この先ずっと気温が上がり続けるような錯覚を起こしていたが、こういう寒い冬があることを自然に教えられたような気がする。

子供の頃には何度も−30℃以下も経験しているが、祖父が北海道に移住した頃には−30℃はざらであった。家も現代からみると断熱効果などない壁であったから、布団に包まるしかなかったわけだ。それを考えれば現在は天国のようだが・・・

もっと冬を楽しく過ごせる工夫が必要だなぁ。