最新
 | トップ |  | ビル概要 |  | テナント構成 |  | 沿革 |  | アクセス |

観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-02-01-Friday 機関誌ゆき掲載文1

これからの北海道が生き残るには、「観光」と「農業」が大きな位置を占めることに異論がある人は少ないと思う。

だが、これまでの延長線上で考えていては、いつまでたっても新しい道は開けないだろう。「観光」と「農業」をそれぞれの単体ではなく、二つを融合させて新しいパワーを発揮させつつ、中心市街地を活性化できないだろうかと考えたのである。

しかし、一市民が「観光と農業の融合」・「中心街活性化」などと大きなことを言っても誰も相手にはしてくれない。ならば自分達の手で出来ることから始めようと1999年に行動を起こしたのが帯広の「北の屋台」事業であった。

事業というものはただ闇雲に突っ走っても成功は覚束ない。上手く行っている事業には「コンセプト」と「戦略」がしっかりしていることに気が付いた。焦らずに三年間(実際には二年半)の準備期間を設定しじっくりと屋台事業に取り組むことにした。事業計画というものはこれからの道筋(将来像)を一緒にかかわる人間皆が納得出来る「共通認識」にしなければ意味をなさない。いわばナビゲーターの役割を果たすものだ。上手く機能させるには今自分が立っている場所が何処なのか現在位置を正確に知る必要があると思ったのである。そこでまず北海道観光の現状を分析してみたのだ。

北海道観光には、夏と冬の極端なオンとオフとのシーズン差がある。もちろん夏場がオンで冬場はオフである。北海道の冬の観光といえば札幌の「雪まつり」が全国的に有名で多くの観光客を集めているが、それでも効果があるのは十日間程度でしかなく、ましてやそれ以外の地域のイベントの集客力はまったく弱いと言わざるを得ないし、スキーも一頃の勢いが無くなってきている。

巷間言われているのはオン・オフの差があると、値段・客対応・品質などにムラが出やすいということである。「どうせ一度しか来ない客だから」と侮った対応をして評判を落としてしまうのである。これが北海道観光はホスピタリティが欠如しているといわれる最大の原因なのではなかろうかと考えた。

最近は観光客の嗜好の変化も大きくなってきた。二十世紀の観光を象徴していたのは良くも悪くも「団体旅行」であった。皆、ガムシャラに働いて多少のゆとりができたら職場や町内会などの「集団」で旅行に出かけたのである。出かける先は「温泉地」が圧倒的に多かった。温泉地のホテルは大型化し、一旦ホテル内に入った客を一歩たりとも外に出してしまってはホテルの収入が減るからと、ホテル内に売店からラーメン屋、カラオケバーまであらゆる施設を完備した。

その結果、街には客が出る必要がなくなったので温泉街は廃れてしまったのである。

旅行は非日常を味わうものである。普段住み慣れている街の生活と違う何かを求めて来ているのにそれをさせずにホテル内に「囲い込み」をしてしまった。ホテル内には建前上いわゆる健全なものしか造ることは許されないから、「ストリップ」や「秘宝館」などのいかがわしいモノは当然ない。人間は健全過ぎるものだけでは疲れるのである。地元を離れた旅行の時くらいは、多少は猥雑なものを求めているのではないだろうかと考えた。

海外旅行が高嶺の花だった頃は北海道も新婚旅行が多かった。北海道民芸品店を営んでいた我が家も、昔は熊の木彫りなどが面白いように売れた時代があった。旅行が一生涯に一度しか出来ないという頃には「餞別」という風習があり、餞別をもらったところにはお返しとして「土産物」を買って帰ったものだった。

土産品の業界にも問題があった。誰かがどこかでヒット商品を出したら、どこのメーカーもすぐに追随して類似品を投入する。この広い北海道の土産品屋はたちまち、どこも同じ様な商品が並んでしまい、場所ごとの特色も消え失せてしまった。

家も狭く、熊の木彫りを土産に貰っても飾る場所が無い日本の住宅事情では嵩張る「おみやげ」は敬遠されるようになってきて、食べたら無くなる「菓子」や「食品」に取って代わられた。旅行が日常化した今日では、「餞別」という風習は消え去り、他人には土産を買わなくなった。しかも最近は日本国内の航空運賃が海外に較べて高過ぎるが為にほとんどが海外旅行に流れてしまっている。

旅行先に海外を選ぶか、十勝を選ぶかの選択は、支払う人間のサイフはしょせん一つなのだから、世界をライバルにして競争するということと同義になるのであるが、世界が相手では負けるのはしょうがないと諦めていたのではないだろうか。

十勝は観光では遅れた地域であり、通過型観光と揶揄されてきたところである。しかし、逆に二十世紀型の「団体旅行」にどっぷりと浸かっていない分だけ新しい型の「個人旅行」への対応がし易いのではなかろうかと考えた。

二十一世紀になって情報量が圧倒的に増えると「個人旅行」に急に変わったからである。「団体旅行」と「個人旅行」との大きな違いは客の情報力の差にある。

団体客はいわゆる「幹事さんまかせ」で自分では行く場所の情報収集などはしなかったし、またそれでも充分に楽しめた。

「個人旅行」になると、インターネットなどで事前に行き先の情報を充分に調べて行くし、スケジュールも自分達で決めていく。

これは業者側にしてみれば要望の単位が団体の「一」から「人の数」分に増えたということになる。個人客の要望は多様だから「泊食分離(夕食無しの素泊まり可で、ホテル外の店で自由に食事する)」や「交泊分離(大型バスで来る団体客ではなく、個人で来るレンタカーの客)」などへの対応が主流になって行く。

つまり、一ホテルの中だけで全てを満足させる「点」の時代から、周辺も含めて地域ぐるみで魅力を造り出していくことが必要になる「面」の時代へと変わったということである。私たちには大型ホテルを造る事は出来なくても、面白い小型の飲食店や物販店を作る事ならば可能なのではないか。だが、商売としては、極端なオンとオフとがあったのでは安定した経営は難しい。年間を通してある程度の安定した集客の出来る方法はないものだろうかと考えた。

「個人旅行客」が事前の旅行先の情報収集に何を重要視しているのかを調査してみたら、面白い事が判った。一頃は「旅行情報誌」を買って現地の情報を調べていたが、インターネットの発達によって情報量が飛躍的に増えた為に旅行情報誌に載っているのはコマーシャルが多いことに気が付いたのである。広告料を払って載せている店の評判が、地元の人の評判と必ずしも一致するものではないということが判ってきたのである。個人客は事前にブログ等で調べて「地元の人が好んで行く場所や評判の良い場所に行きたがる」傾向にあることが判った。

「観光客用に造った施設には地元の人はほとんど行くことはないし、逆に地元の人が好んで行く場所には観光客も行きたがる」ということなのである。

地元の人に愛される施設を造れれば、オンとオフとの差が少なくなり、通年で安定した商売が可能になる。

では、どうしたら地元の人に喜んでもらえるのだろうか?ヒントは「地産地消」にあった。

地産地消とは地元で採れた物を地元で消費しようということである。こんな当たり前のことで何故、地元客に喜んでもらえるというのであろうか。

十勝は、多品種、大量に農、畜、水産物を収穫できる場所であるが、実は、地元の人間は十勝で何が取れ(採れ)ているのかも知らなかったのだ。商売的には良質のモノは、人口の多い大都会に出荷しなければ金にならないのである。

これは、今、全国各地で起きているヘンテコリンな現象なのだ。生産地に暮らす人間が地元で生産されているモノを知らず、食べたこともないというのである。

十勝は機械化された大規模農業だから畑からトラックに積んでそのまま都会に運んでしまう。農家にしてみれば地元への少量の出荷は面倒だし、金にならないから、そんな手間暇はかけられないということなのだ。

何かがオカシイ!これを何とかできないものだろうか!

地元の人に喜ばれ、通年営業が可能で、非日常の猥雑さを演出し、身近な生産物を旬の時に食べられる場所を造ったら・・・それでもまだ何かが足りない気がした。

そこでもう一つ、郊外の大型店と都心の小型店との差別化をしなければならないと考えた。

郊外型の店は徹底的に人手を省いてセルフサービス化し、省力化、効率化を図っている。店員と客とのコミュニケーションは希薄にならざるを得ない。都心店でそれと同じ展開を図ったら、同じ土俵の上での競争になってしまう。相手には巨大な資本があるから同じ土俵では勝てる見込みは少くない。効率化競争で乾ききってしまった雑巾を更に絞ってもやがては千切れるだけであるから、異なる土俵で勝負しなければならないだろう。

大手の企業は、零細企業が智恵を絞って始めた起死回生の方法でも、それが良いとなると恥も外聞も無くマネして取り入れようとする。だから、大手には到底真似出来ないような方法を考え出さなければならないと思った。

郊外型店舗が人を人として遇しようとしないなら、こちらは逆に徹底的に「人」を中心とした場所にして、「人と人とのコミュニケーション」を重要視する場所にしようとしたのである。


■2008-02-02-Saturday 機関誌ゆき掲載文2

その答えが「屋台」であった。

十勝に屋台は現存しないし、小資本で開業出来るから、失敗してもリスクは小さい・・・

地元の人がまだ知らない新鮮な食材を、目の前で調理して、コミュニケーションを共有出来る場所を提供出来たら流行るかも知れないと考えたのである。

しかし、屋台には二つの大きな壁が存在した。法律の壁と意識の壁であった。

一つ目の法律の壁とは、福岡県の博多に代表される日本の既存の屋台は、道路法・道路交通法・公園法・食品衛生法などの法律によってがんじがらめに縛られている。現営業者一代限りの既得権しか認められずに後継者を作れない、いわば絶滅危惧種の商売なのだ。新陳代謝がないから衰退する一方なのである。メニューにも大きな制約があって「客の口に入る直前に熱処理した熱いものしか提供してはいけない」のである。営業時間は夕方から夜間までで毎日移動、組立、収納をしなければならない。既得権を守る為とはいいながら結構大変な作業の連続をしているのである。

営業場所に関わる三つの法律は民有地を使用することで意外とあっさり解決できたが、食品衛生法の壁は一際高かった。民有地であっても屋台のような簡易の施設なら、同じ場所では一週間以上の営業は認めないというのである。何度も保健所を訪ね、智恵を絞り抜いてようやく厨房を固定化することで飲食店としての営業許可を取得する方法を思い着いた。飲食店なら誰でも開業出来るし、メニューの制約も無い、屋台につきものの毎日のしんどい作業も大幅に軽減されたのである。

二つ目の意識の壁とは、十勝のような寒冷地で屋台を営業しても寒くて客など来る訳がない。屋台は南の地域のものだ。という誤った思い込みであった。

1999年当初にこの「北の屋台」の事業計画を相談した人の1000人の内999人は止めた方が良いという反応で、「何処かに似たような成功事例はあるのか?無いのならアブナイから止めておけ!」というのである。

この先入観(思い込み)という意識の壁を乗り越えるのにはかなり苦労した。発想の転換を図るにはただ机の前に坐っていたのでは難しい。現場に出かけて行くことが大切だ。私達も自費で海外に何度も視察に行ったし、補助金を受けてからも国内の視察(補助金の制約で海外視察は不可)を精力的に行った。福岡の屋台の組合長さんにインタビューした時に「福岡では屋台は冬の風物詩であり営業のピークは冬場で、屋台の敵は雨と暑さだ」、「狭いから雨が降ると客の背中が濡れてしまう。暑い日でも屋台にクーラーはつけられないし、熱いメニューしか出せないから真夏の蒸し暑い夜には営業しない」と言うのである。温かければ良いというのではなかったのだ。早速、福岡市と帯広市の過去十年間の気象データを比較してみると、梅雨が無く、夏でも涼しい十勝はデータ上からも屋台の適地だと判明したのだが、今度は夏は良くても冬の営業は無理だと言う声が多勢を占めたのであった。すると、真冬の二月に東北の仙台で屋台を営業しているという情報を得たのですぐに視察に行ったら、戸板で風を防いで繁盛していた。暑さへの対処は難しいが、寒さは服を着たり、壁で囲めば良いのである。調理に火を使っているのだからその熱を利用すれば良いのだ。

しかし、一旦思い込んだ人達の意識はそう簡単には変えられない。そこで一年間の「戦略的広報活動」を展開することにした。三日に一度は新聞記事になるようにイベント事業を組み立て、実際にこの頻度で新聞に載ったのだ。ようやく帯広が屋台の適地であることを一般の帯広市民に印象付けることができたのである。

二番煎じが通用する時代はもう去った。人口が右肩上がりに増え続けている時代なら二番煎じでもまだ柳の下にドジョウは沢山いたが、人口が減る時代にはリスクをとって一番初めにやったところだけが最大の恩恵を受ける時代に変わったのである。二番煎じというかつての安全策はもはや安全策などではなく、極めて危険な策になったのである。

「北の屋台」を事業化する上で特に腐心したことは、「共通認識」の共有である。前述したが世の多くの失敗事例は「目的」と「戦略」を持たずにスタートさせてしまう傾向にあることが判ったからだ。焦る気持ちだけが先走り、明確な目的を持たないままに始めた事業は空中分解し易いものだ。参加している人が何の為にこの事業をやっているのかというコンセプトが明確でないと右往左往を繰り返すことになる。特にイベントの為のイベント(人を集めるだけのイベント)を行っていると、一生懸命やっている人間ほど先に疲れ果ててしまい、やがて組織が崩れていくという様を何度も見てきた。

イベントは「目的」を達成させる為の「手段」にしか過ぎないのに、年月が経過すると本来の目的を忘れて、やがてイベントをやることだけが目的化してしまうのである。「目的」と「手段」を取り違えてはいけないのだ。

「効率化」は無駄を省いて働く人間を幸福にすることが目的であった筈である。それがいつしか効率化することそのものが目的化されてしまい、今度は人間を省く方向に向かっている。行き過ぎた効率化は人間をかえって不幸にしてしまうのではないだろうか?

だから「北の屋台」はわざと不便に造ったのだ。「便利さが殺すコミュニケーション、不便さが生み出すコミュニケーション」なのである。

店舗の組立・収納の不便さがあるから、本来はライバルである店主同士にも助け合いの気持ちが生じる。屋台は店舗が三坪しかない狭さゆえに、客がお互いに譲り合わなければ快適な空間を維持出来ないから、会話が生まれ一体感が生まれるのである。考えもなしにただ便利にだけ造ってしまえば郊外型の大型店舗と変わらなくなってしまう。

何百年という歴史のある屋台には、先人が経験上積み上げてきた貴重なノウハウが沢山詰め込まれている。先人の智恵(大きさ・形・小道具などの持つ意味)を現代に活かさなければならないのに、その意味を理解しようとしないまま勝手な改悪をしてしまう。

何の為に、どんなモノを造り、どうやって運営していくかが重要なのである。完璧なシステムを作ることは可能かもしれないが、そのシステムを運用するのはしょせん人間なのである。システムは動かす人間の「志」に大きく左右されるのだ。

帯広の「北の屋台」の成功を見て、全国各地に北の屋台をモデルにした屋台村がいくつか誕生したが、あまり他所が上手く行っているという話しは聞かない。

北の屋台の表面上に現れていることだけを見て全体を判ったつもりになって、すぐに始めてしまうからではないだろうか。

私が趣味にしているマジックの世界でも、タネを知っただけではそのマジックは演じられないというのと同じである。しっかりと現象を理解し、どう表現したら良いのか、鏡を見ながら何度も何度も練習して、自信が持ててから始めて人前で演技ができるのである。

夏の昼間には大勢の観光客が来る有名な観光地でも、夜にその街に泊まってもらえないという悩みが聞こえてくる。宿泊してもらうことでその地域で消費するお金が格段に増えるのである。屋台は夜の営業をするものだから、屋台で飲食をしてから他所の観光地に移動するような時間は取れない。つまりは近隣のホテルに貢献することになる。

狭くて十人で満席になる屋台に入りきれない客は近くの飲食店に入ることになる。元々、屋台というのは屋台だけで完結する施設ではないから周辺全部が潤うことになるのである。

北の屋台事業が帯広という地域に貢献したのだとしたら、それは皆の「やる気」を醸成したということになるだろう。

後ろ盾のない若い連中が周りから反対されても信念を持ってやり抜いたら、全国的に評価される事業にまでなった。あいつ等に出来て、俺達に出来ないわけはないとばかりに、タクシー会社が組合を作ってポイント事業を始めたり、バス会社が実験的なバスを走らせたりと次々と新たな活動が関連して起きてきた。最初は反対した周りの飲食店主たちも今では屋台の応援団になっている。

今回は紙面の関係で「北の屋台」事業に関しての具体的な記述は大幅に省いた。

拙著「北の屋台繁盛記(メタブレーン社刊)」に立ち上げから屋台の歴史まで、詳しく掲載しているので詳細を知りたい方は是非そちらを参照されたい。

前日と今日の文章は2007年10月20日(社)雪センター発行の機関誌ゆき69号に掲載された私の論文「屋台で観光・地域づくり」をそのまま掲載した。


■2008-02-03-Sunday 商い(あきない)の歴史

2003年3月22日(土)十勝毎日新聞掲載

最近の商店には元気がない。やれ不況だ、デフレだと嘆いていてみてもどうにかなるものでもない。「商い」とは何ぞやを考えるうえで、まずは原点に立ち戻って考えてみたい。

字源辞典によると「商」とは女陰、子どもの生まれるところとあり、商の字の口は膣を表わす象形文字なのだ。人類最初の商売は売春であると言われているが、字自体がそれを表わしているとは漢字を創った中国人の感性に正直感嘆した。

さて、日本における初期の商いの仕方には大きく分けて「振売(ふりうり)」と「立売(たちうり)」の二種類があった。

振売とは別名「棒手振(ぼてふり)」や「連尺(れんじゃく)」とも言われ、売る品物を手や肩にかけて場所を移動しながら商うもので、直接手に持って売るものや、天秤棒で担ぐもの、屋根を付けた荷台を担ぐものまで、使う道具の形によって更に種類が分かれている。

立売とは道路脇や神社仏閣の境内などに見世(みせ)を出し、移動せずに商うもので屋台見世と乾(ほし)見世とがある。屋台見世は小さな家の形をした屋根付きの台に商品を並べて売り、乾見世は路上にムシロや台付きの戸板等を広げ、その上に商品を並べる売り方である。

神社仏閣などの縁日に市が立つようになり、やがて訪れる大勢の人達のサイフの中身を当てにして縁日商人たちが露店を出したことが商いの始まりであった。しだいに定期市、常設市へと発達し、固定化された市ができる。そこでは見世物の存在を許す盛り場ができ、香具師【もともと江戸時代には香具師(ヤシ)とひとくくりに言われていたが、明治以降は露店商(縁日商人とは区別)など商品を売る部類を「テキヤ」、見世物師(タカモノシ)など芸を見せる部類を「ヤシ」と呼ぶようになった】が活躍するようになった。

このことから「商い」の原点とは香具師に始まるエンターテインメントであると定義できるのではなかろうか。

口上商と書いて「あきない」と読ませる場合は露店商のことを指すが、もともとは薬を売ることを本業とした人のことを言う、「さあてお立会い、御用とお急ぎの無い方は・・・」の口上で始まる「ガマの油売り」などにその痕跡が残っている。

口上系の香具師の売り方にはいくつかの種類がある。中でも「啖呵売(たんかばい)」は口上(タンカ)を述べて人の足を止めさせ、買う気を起こさせ、更に納得させて、ついには買わせてしまう技量が必要で、かなりの年季のいる玄人(くろうと)仕事なのである。バナナの叩き売りや映画フーテンの寅さんでの「結構毛だらけ猫灰だらけ。見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ。見下げて掘らせる井戸屋の・・・・」という渥美清の名調子を思い起こしてもらうとよい、まさに芸術的話芸なのである。その他客の中に「サクラ」(サクラが熟練者で売る方は素人)がいて身の上を同情させて売る「泣き売(なきばい)」や香具師になってまだ日の浅い熟練していない連中は商品を並べているだけで口上を述べない「御覧売(ごらんばい)」などの売り方があった。

さしずめ今日、売れないと嘆いている商人はこの御覧売に近いのではあるまいか。


■2008-02-04-Monday 安全運転?

昨日は節分。「恵方巻き(えほうまき)」なるものを頂戴した。

関西の風習で節分に太巻きをその年の良い方向(今年は南南東だそうだ)に向かって目を閉じて願い事を頭の中に描きながら1本食べ切ると厄払いが出来るそうな。

大方、バレンタインデーのお菓子屋の陰謀と同じ様に、海苔屋か寿司屋らの連中の陰謀に違いない。

関西の一地域の風習をなにも北海道にまで持ち込まなくても良かろうにと思う。チョコレートならまだ日持ちもするが、寿司は日持ちがしない。一本丸まんま一気に食べなければならないなんて年寄りや子供には危険な行為だし、私にだって無理である。こんなくだらない事に乗せられる奴はアホだと思っていたが、食べ物を頂いたらまさか捨てる訳にも行かないから、食べやすい大きさに切断して食べることにした。こんなアホなことを地元の大型店が販売促進の為に、外商部員を使って自宅を訪問して売り歩いているという。店で売っている分には、買わなきゃ良いだけだが、押し売りの様に自宅に売りに来る行為は如何な物か?こんな馬鹿な、しかも嫌われる商行為はさっさと止めにした方が良いのではないかと思う。

その昨日のこと、釧路からの帰り道に、スピード違反で警察に捕まってしまった。実に20年ぶりの違反である。60キロ制限のところを23キロオーバーの83キロで走っていたのだ。左側前方にパトカーが止まっているのは見えていたのだが、スピードを出し過ぎているという意識は無かったし、夕方の5時近くで薄暗くなっていたから計測をしているとは思わなくてブレーキを踏まなかったのだ。パトカーの脇を通過した途端に赤色燈を回して追いかけて来て、「前の車、止まりなさい!」とスピーカーで呼び止められた。

車を止めると運転席の横に来て常套句の「お急ぎでしたか〜?」といやらしく聞く。「ちょっとスピードが出ていましたね〜。書類を作りますのでパトカーにご移動ください」この慇懃無礼さが憎たらしさを増幅する。パトカーに乗り込む前に、「赤色燈の後方にレーダー発信装置が付いていて、これで計測しました」との説明を受ける。キチンと説明しないと裁判になった時に困るのだそうだ。とてもイヤ〜な気分だ。

パトカーの外に人が出ている気配がなかったから計測しているとは思わなかったのである。ここ20年間違反をしていなかったので、パトカーに付いてる機械の進歩具合を知らなかったのだ。罰金は15000円。これほど馬鹿馬鹿しい出費はない。

パトカーが違反車を停車させてる間は、他の車を(物理的に)捕まえられないということを知っているから、他の車がドンドンと猛スピードで横を抜けていく。それを見ているのも悔しい〜気分を増幅させる。

車に戻って妻に「20年間も無事故、無違反だったのに」と言ったら「違反はしてたけど捕まらなかったというだけじゃないの」と言われてしまった。ほんとに悔しいなぁ。「事故を起こす前に警告してくれたと思えば良いじゃない。後は安全運転で帰りましょう」と言うのでいくらか気分が落ち着いたが・・・

どだい、北海道の道を60キロ制限にしている方がおかしいのだ。危険運転をしているわけじゃなし、広くて直線の道路なんだから気持ちよく走らせろよ。

結局、5時という終業間近の、その日最後のお客さんになってしまったという訳なのである。

交通違反ほど不公平なものは無い。反省よりも腹立たしさが・・・

今年は北海道の洞爺湖でサミットが開催されるから、これから資金集めの為の交通取締りが厳しくなるのだろうなぁ。

皆さん気をつけましょうね!


■2008-02-05-Tuesday 熱気球

十勝で体験出来る素晴らしいものに「熱気球」がある。

人生観が変わる乗り物と言っても過言ではないと思う。

高所恐怖症の私(幼い頃はむしろ高い所が大好きで屋根の上で遊んでいたくらいなのだが、最近は近視と乱視に加えて老眼が始まったので、遠くと足元を交互に見るとグラッと眩暈の様な感じがして高い所が急に恐くなってしまった)が面白いと言うのだから極めて安全な乗り物なのである。

これまでに「熱気球のフリーフライト」を6回ほど経験したが、いずれも最高の気分であった。

気球はプロペラなどの機械力で上がるのではなく、温度差で上空に上がって行くのだから、とてもユッタリとした気分になれるのである。通常は500m位の高度での飛行なのだが、天候条件が良ければ1000m程に上がってくれることもある。最初に友人に乗せてもらった時には1800mほども上昇して、日高山脈の向こう側(富良野側)まで見ることが出来たがまったく恐怖心を感じなかったのだ。恐怖よりも感動の方が強かったからかもしれない。

上空に上がって水平飛行になると一切風を感じなくなる。上方のバルーンが風を受けて流されて行くので、その下の籠の中では風が当たらないからだ。ゆっくりと風に流されながら、十勝の雄大な景色を眺めるのは至福の時である。上空からエゾ鹿やキタ狐などが走っている姿を見つけた時は感動的である。

横の移動距離は2〜10kmほどで、時間にすると40分程度の飛行が一回の基本になる。

風は低空と上空では向きが逆になっている。対流しているからだ。だから、例えば低空の風向きが西風なら東に向かって流されて行く、上昇すると今度は逆に東風になって西側に戻っていくのである。上手くコントロールすれば、出発地点から上昇して空中散歩を横方向で楽しみ、また元の地点に戻って来るということも理論的(実際にはかなりズレるが)には可能なのである。

フリーフライトの時期は冬が最適なのだ。気温が低い方が少ない燃料で長時間飛ぶ事が出来るからだ。夏の気温が高い時に飛ぶには、気球をそれ以上の温度にしなければ気球が上空に上がっていかないから燃料を食うのである。それに冬は辺り一面が雪だから、何処に降りてもOK(但し、最近は農家が嫌がるので「秋蒔き小麦」の畑には絶対降りないそうだ)なのである。

「熱気球」は上空を漂っている時も素晴らしいのだが、私が最も気に入っているのは着陸する寸前なのである。

何処に降りてもOKと書いたが、それでも畑に降りることは極力避けるので、あぜ道まで気球をコントロールさせて降りるのだが、その時は地面スレスレ(30センチ程度)の高さを横に30 〜50mもユックリと移動するのである。籠から顔だけ出して見ていると、まるで「魔法の絨毯」に乗っているかの様な感じがするのである。こんな感じがする乗り物は他には無い。まさに最高の気分が味わえるのである。

最近はいつも上士幌の「Hot-air社」(小田切氏)で対応してもらっているのだが、唯一の難点は朝がやたらと早いことである。風が一番安定しているのは、日の出から3時間以内なので、冬でも6時30分がスタートなのだ。集合場所が鹿追の「道の駅瓜幕」(旧鹿追ライディングパーク)なので、帯広からだと余裕を持って行くと40分はみておきたいから6時前に出発しなければならないのである。

それと気球は天候に左右されるのでいつでも飛べるという訳にはいかない。飛行確率は70%程度しかないので飛ばないこともあるのだ。以前にどうしても気球に乗りたいと言う大学教授が居て、一週間の休暇を取って滞在したことがあるくらいなのである。

気球だから重さの制限もある。6人乗り(パイロットが1人必要なので)だが客は5人まで、およその目安が客5人で300キロだから、1人60キロぐらいという。メタボな人たちなら4人しか乗れないかな?

料金は大人1名16000円、高校生以下10000円で最低2人から飛んでくれるので、是非一度お試しあれ。

連絡先は090-1521-8222(小田切)「Hot-air」、坂本のブログを見たと言えばサービスがあるかもよ。


■2008-02-06-Wednesday 思うこと!

昨年(2007)の3月末日で北の屋台を卒業したのだが・・・、

相変わらず講演の依頼が多い。この2〜3月は予算消化(?)の為なのか、特に依頼件数が多い。

全国各地で「中心市街地が疲弊」しており、しかも有効な解決策がみい出せなくて困っているというのだ。北の屋台からヒントを、ということなのだろう。

北の屋台を卒業することで自分の時間が多く取れるようになるかと思っていたのだが、まだしばらくは難しそうな気配なのである。

今や日本のほとんどの街の旧商店街が破壊されている状況にある。原因は「郊外型ショッピングセンター」や「テレビショッピング」や「コンビニエンスストア」の台頭である。これが先なのか、後なのかは調べていないが、日本人のショッピングに対する考え方が変化したことも要因だと考えられる。

「大量生産の商品」なら、何処で買っても同じものが手に入る。消費者は同じ商品なら「安い」方が良いと、一円でも安いところを探しては買うのである。

店側は安くする為に、まず「店舗費用」を削る。地代の安い郊外に大型の店舗を造ったのである。更に安くあげる為に何処の町の店舗も同じ様な形にしてデザイン費や造作費を安くしていく。だから何処の町に行っても郊外の道を走っていると景色が同じに見える様になってしまったのである。

「人件費」を安くする為に、正社員数を減らして、パートやアルバイトなどの臨時雇いの人間を増やす。

究極は、建物を建てずに「テレビの放送枠」を買い取って販売するテレビショッピングだ。店舗建物を建てないから、土地代は掛からない。建設費も掛からない。メンテナンス費用も掛からない。社員もいらないから人件費も少なくて済む。買い手は全国各地のテレビのある家だ。極端なことを言えば「コールセンター」の様な電話係を臨時で雇えばOKなのだ。

これでは地方の中途半端な大きさの店は、価格では絶対に勝負にならないだろう。

毎日食べる食料品を扱うスーパーぐらいしか、日常の買い物では必要としないのである。流通が発達した今日では翌日には自宅に届いてしまうのだから。

現在は全盛を極めている「電器」「スポーツ用品」「靴」「家具」などの『カテゴリーキラー』と言われた郊外型大型店も、このままでは「テレビショッピング」に負けてしまうかもしれないのだ。

「無くなって初めて重要さが判る」ということが、かなりあるものなのである。そして「一旦需要が無くなってしまったものを再び作り出すことは難しい」のである。日本全国から店舗が消えて、宅配だけで満足出来るのだろうか?ショッピングには別の楽しみ方だってあるのではないのか?

「お金は循環するから活きる」のである。その地方で廻るから皆が潤うのである。全ての金を都会に一点集中させる方向では、国民は幸せにはなれないのである。オコボレを頂戴する様な体制はおかしいと気付かなければならないのだ。

安さを追求するのは限度がある。その限度ある競争に勝とうとして「偽装」などの不正が行われてきたのではないのか?

国民の意識がこれら立て続けに起こった事件を契機にして、変化することが必要だと考える。これらの事件を「人間万事塞翁が馬」にしようではないか!


■2008-02-07-Thursday 視察旅行記1

2003年10月から2004年2月までの5ヶ月間に亘って毎月3泊4日ずつ全国各地の有名な宿と温泉を訪ねて歩いた。

場所の特性を活かした宿と食の検証が目的である。

写真やビデオで見ても、切り取った構図では場所の雰囲気は判らない。ましてや食べ物の味はなおさら判らない。やはり実際に訪ねてみて、味わってみて初めて理解できるのである。

今回の視察はわざと「行き当たりばったり」を心掛けた。行く前から詳しく調べると先入観念が入って場所の雰囲気を感じることの邪魔になるからだ。また、情報誌に載っている美味い店の案内なども所詮は店側がお金を払う「コマーシャル」にしか過ぎないからだ。

地元に暮らす場所のことに詳しい人を人的ネットワークで探して、ご案内頂くことにした。この方法は結果的に良い効果をもたらした。余計な知識は素直さの邪魔である。

ホスピタリティとは何か。サービスとはどう違うのか。何故、人気があるのか。交通の便は良いのか。そんなことを実際に体験しながら検証して歩いた。

「屋久島(10月)」

10月22・23日と鹿児島県大隈諸島の屋久島を訪ねた。屋久島はユネスコの世界自然遺産に登録された場所である。ユネスコの世界遺産条約とは「かけがえのない自然やすぐれた文化財を後の世代に伝えよう」というもので日本では1993年に青森県の白神山地とともに初めて登録をされた。屋久島の登録理由は

・日本固有の植物で日本の自然景観の重要な要素である杉のすぐれた生育地であること

・失われつつある照葉樹林帯が原生の状態で残されていること

・南北へ移り変わる植生の変化が垂直分布としてみられること

で、登録地は107.5平方キロメートルで島の面積の約2割を占める。

空港を降りた途端に「重厚な場所のエネルギー」を感じた。単なる観光地とは異なる何かだ。空気の新鮮さ、水の良さを持つ場所に共通する感じだ。

ネイチャーガイドの渡辺義成さんに出迎えていただいた。午後4時に到着したが日が落ちるのが北海道よりもかなり遅いので、宿泊先の近くにできた「ホテルあかつき」という新しいホテルを見学させてもらうことにした。ハワイのホテルのようなトロピカルなイメージで一泊14,000から60,000円のデラックスなホテルである。ホテルの部屋の中やコテージ風のヴィラの中までご案内いただいた。新しいしゴージャスなのだが何かしっくりとこない、このホテルが屋久島という場所に存在する必然性が感じられないのだ。

屋久島も確かに南に位置しているがハワイのようなしつらえのホテルがこの場所に合っているとは思えない。そんな感想を持った。日も暮れ始めたので暗くならないうちに宿泊先にご案内いただくことにした。この日の宿は「自然食の宿 天然村」である。付いた途端に全員が唖然としたのが判った。玄関を入ると雑然としたたたずまいで、書類や雑誌に埋もれたカウンターに暗そうなご主人が一人で立っていた。二階の部屋に案内されたが3畳ほどの狭い部屋にこれまた狭いベッドが二つ並んでいるだけその他には小さな勉強机が一台だけ、なんとも殺風景な部屋である。窓の外のベランダ(物干し台の方が適切な表現)に出てみると真っ暗で何も見えないし蜘蛛の巣だらけ、これはひどいところに来てしまったと一同ががっくりした。

食事の前にお風呂にどうぞと案内されたが、これが手作りのお風呂、その横には鯉を飼っていたという小さな池がある。後から入ってきた人が間違って入ってしまいかねない造りだ。いやはやこれから五ヶ月間に亘って視察を開始する出だしがこれなのだ、先が思いやられると感じた。

しかし、食事が美味かった。トビウオの唐揚げなどの郷土料理や自分の田畑で有機栽培した「伊勢ひかり」という米の玄米ご飯なのだ。「自然食の宿」と銘打っているだけに食事には自信があるのだろう。食後に主の夫婦と話をすると、なんと両親が北海道の出身だという。「あがた森魚」という歌手で映画監督の弟だとのこと。世間は狭いものだ。大いに盛り上がって話しに花が咲いた。そうすると不思議なものでこの宿が「こだわりを持った良い宿」だと思えるようになっていった。朝になって、ベランダから外を見ると美しい海が見える、とても良い景観なのだ。朝食もこれまた美味しい。結局、宿の主人とコミュニケーションした瞬間から全てが変わったのである。先入観は禁物だ。充分に満足して天然村を後にした。

渡辺さんに滝を中心にご案内いただいた。とにかく美しい滝がたくさんある島だ。滝の下まで行くと心が洗われる感じだ水しぶきが気持ちよい。

島の大きさをもっと小さい島だと思い込んでいた。先入観には間違いが多い。

干潮時にしか入れない海辺の温泉(平内海中温泉)があると言うので入ることにした。海辺の岩場に温泉が湧き出ており、一日に二回、干潮前後の二時間だけ入浴できるのだという。脱衣場も無いが野趣満点だ。まさに海の中の温泉だ。すぐそこまで波が来ている。 

混浴ということで若い女性が一人で入ってきた。水着や下着を着けての入浴は禁止されている。上手にタオルで隠しながら脱いで入ってきた。そうなると男は居ずらくなってしまう。そそくさと退散した。もう一箇所海辺に露天風呂(湯泊温泉)があってそこはいつでも入浴可能だというので移動した。ここも景色は抜群なのだが、先程の時間限定の方がいかにも海の風呂に入っているという感じがしたので、少し残念であった。入る順番が逆だったら両方とも満足したことだろう。案内する順番も大切なことだ。

「いわさきホテル」という立派なホテルがあるというので、また見学させてもらった。一介の観光客なのに丁寧に部屋の中までご案内いただいて恐縮してしまった。ここは海側にも山側にも素晴らしい景観があり、敷地も広大でリゾートホテルとしては良いのだろうけど、屋久島という場所としてはどうなのだろうか?自然と一体というよりは自然と隔離してぬくぬくと室内で景色だけを眺めるホテルになってしまっている。折角の自然を感じる施設が必要だと感じた。

二日目の宿は「屋久島民家の里 送陽邸」だ。屋久島にある江戸時代の古民家をここの主が自分で分解、移築して組み立てた宿だ。決して立派な建物ではないが何ともいえない風情がある。色々なところに主のアイデアが生きている建物だ。

道路を挟んだ海側に「海の家」のような建物があり、ここで、皆で一緒に食事する。主は焼酎片手に各客を回って話をして歩く。なかなかに変な親父だ。客には外人もいたし、有名人もいた。この有名人は6度目だそうだ。リピーター客が多いのだと言う。

10時に波打ち際の手造りの露店風呂に入ることにした。しかし、台風と大潮が重なって危険だから、その上の風呂にしてくれと言われた。少々がっかりしたが仕方が無い。内風呂と露天風呂がくっついているお風呂に入った。この日は新月で月は無い。周りに人工の明かりが無いから、満天の星空だ。天の川はまさしくミルキーウェイだ。波の音を聞きながら星を眺めていたら、流れ星がたくさん見えることに感動した。8個も見つけて興奮したのだ。一時間ほどボケーと眺めていたが飽きることがなかった。

翌朝、折角屋久島まで来たのだから屋久杉を見ようということになった。地元の電気屋さんが始めたエコツアーのガイド武田春隆さんを頼んだ。唯一の専門ガイドだそうだ。朝食はおにぎりにしてもらって朝6時に迎えに来てもらった。ガイドの武田さんが白谷雲水峡に行く前に自宅に立ち寄っても良いかと聞くので、何かと思ったら、キャンプ用のコーヒーを入れる道具を用意してくれたのだ。屋久島の水は超軟水でとてもおいしいから山の水を汲んでコーヒーを入れてくれるというのである。宮崎駿のアニメ映画「もののけ姫」のモデルになった最高の景色の中で、汲みたての美味しい水で挽きたてのコーヒーをご馳走になりながら朝食のおにぎりを食べたのである。まさに至福の一時であった。

ハイキングをしている時の苔の深い緑の景色や屋久杉の大きさも感動したが、このときのコーヒーの味は格別だった。

立派な施設や過剰な接待は不要なのだ。その場所に合った「しつらえ」と「もてなし」があれば人は満足するものなのだ。


■2008-02-08-Friday 視察旅行記2

「奄美大島(10月)」

24.25日と奄美大島に移動した。同じ鹿児島県なのに島同士の直行便が無い。一旦鹿児島空港に戻ってからの大島入りで時間がもったいなかった。奄美大島は後藤君の商工会議所青年部の関係で、大島で旅行会社に勤めている田町まさよさんが休暇を取ってプライベートでご案内してくれた。

全員酒好きということもあって奄美特産の黒糖焼酎の工場(西平酒造株式会社)に連れて行ってもらった。西平功社長はJCの元メンバーということもあってすぐに打ち解けた関係になった。共通項を持った仲間というのはありがたいものだ。黒糖というイメージから甘い焼酎と思い込んでいたがやはり先入観念はいけない。沖縄の泡盛よりも癖がなくマイルドな味に驚いた。早速注文しようと思ったが既に半年先まで予約が決まっていると言う。工場が小さいからしょうが無いのだと言う。無いと言われると欲しくなるのが人情だ。島一番の「まえかわ酒店」に連れて行ってもらった。何本か送ってもらうことにして気持ちがようやく落ち着いた。

夜は地元奄美大島の青年部の人達との交流会がセットされていた。酒場では三線と太鼓で素人が民謡を歌う、私も太鼓をたたかされた。北海道には歴史が無いからこんな風習が無い。地元の歌を三味線ですぐ歌えるというのは良いものだ。

宿泊した「ばしゃ山村」社長の奥篤次さんは島おこしに熱心な方で、ホテルの敷地内に奄美民俗村を造っている。古民家を移築したり、昔の生活を再現したり、陶芸をさせたり、黒糖や塩も作っている。施設をご案内いただいているとき、かまどで御飯を炊いていた。丁度炊きあがったところだったので、食べたいとリクエストしたらご馳走してくれた。やはりかまどで炊いたご飯は、ご飯だけでも充分に美味しいものだ。

地元の染色作家のアトリエに連れて行ってもらった。奄美の自分の庭に生えている植物で染色をしている。これからは人工的な科学染料よりも自然の染料を使うほうが人気が出るかもしれない。いつも同じ色ではなくて、時々の状態によって色が変わる、同じものは二つと造れないがその方が味がある。大量に同じものを生産して安く作るより、高くても一つだけを求めるのだろう。二極分化するのかもしれない。中途半端は生き残れなくなるだろう。

ホテルの近くに陶芸作家の夫の作品を使ったり展示する喫茶店を経営する奥さんの店に入ってコーヒーを飲んだ。ここも古民家を自分達で移築したと言う。のんびりと自分のしたいことをして生きるそんな時代なのかなぁ・・・

「石垣島(11月)」

11月3日に沖縄県八重山諸島の石垣島に訪ねたとき、丁度台風が接近していた。地元の人に言わせるとたいしたことのない小型の台風だというが、台風がめったに上陸しない北海道人にしてみると心配だ。

初日の宿は「ビーチホテルサンシャイン」名前の通り、夕陽が美しいとのこと、しかし、曇っていて太陽は見えなかった。一緒に行った連中が海で泳ぐという。地元の人は皆あきれた顔で寒いし台風が近づいているから止めたほうが良いと言うのに、せっかく沖縄に来たのだからと皆が泳ぎだした。泳いだ連中に言わせると、沖縄の夏の海はぬるくて気持ち悪いが、これくらいの水温なら丁度気持ち良いという。海から皆が上がってホテルの四階にある温泉の大浴場に入った。一部が露天風呂になっているのだが、設計がいまいちでせっかくの海の景色が綺麗に見えない。もう少し考えて創れば良いお風呂になるのにと思った。

三月に沖縄の那覇で開催されたシンポジュームで同席した、石垣島のNPOの事務局で専務をしている石田さんにご案内をお願いした。事務局のある公設市場の三階の「いちば食堂」で郷土料理をご馳走になった。どれもおいしい料理であった。この食堂は旅行雑誌などには紹介されていないが地元の人が美味しいと通う店だという。情報誌に載っている店は結局のところ店側がお金を払って載せているコマーシャルにしか過ぎない。地元の人が通う店はあえて宣伝する必要がないのかもしれない。

二次会に沖縄民謡のライブを演っている店に連れて行ってもらった。同席した地元の漁師のおじいさんと意気投合して一緒に歌って踊った。沖縄民謡のリズムは自然と身体が動き出す。各家庭でもすぐに歌って踊るのだと教えてくれた。生活の中に音楽があるのはとても良い風習だと感じた。


■2008-02-09-Saturday 視察旅行記3

「西表島(11月)」

翌4日の朝、台風が更に近づいている。ニュースを見るとずいぶん船が欠航しているようだ。同じホテルでは八重山諸島めぐりの団体さんが心細げに待っている。結局我々の船は予定通り出港したが、団体さんの船は欠航した。台風が近づいている割には海は穏やかであった。石田さんが西表島には行った事が無いから分からないというので、JCの仲間である大浜一郎さんに連絡を入れた。こんな時の人的なネットワークはとても役に立つ。

他の船が欠航した為に上陸している客は少ない。レンタカーを借りて走るといたるところに「西表山猫注意」の看板が立っている。車に轢かれる山猫がかなりの数いるらしい。川を遡り、山をハイキングする「浦内川トレッキング」のツアーに参加した。川幅はものすごく広い、マングローブの樹が茂っていてジャングルのようだ船でなければ道が無い。

船着場から上陸して、一時間半ほど山道をトレッキングして「カンビレーの滝」「マリュドの滝」まで密林の中を歩いた。正に秘境である、手付かずの自然がまだ日本にも残っているのだ。

山に居る間に雨が降るかもしれないから合羽を持っていったほうが良いと言われたが、「晴れ男」の定評があるから大丈夫と、全く根拠のない自信。しかし、結局山に居る間は晴れていて、船に乗ったら雨が降る。上陸したら晴れ、車に乗ったらまた雨と、ついに濡れる事が無かった。

昼食を食べようと思って地元の人に聞いたが紹介された店はあいにく閉まっていた。この時間に開いている店は「白浜食堂」位しかないと言われ車を走らせて辿り着いたら「西表家猫」が沢山居る食堂であった。しかし、食べてみたらこれが美味しいのである。見かけで判断してはいけないものだ。

帰途に日本最南端の「西表島温泉」があったので立ち寄った。水着で入る温泉であり、女性の客も多かった。なかなか広い立派な施設であったが、露天風呂から海が見えない。ロケーションがいまいちであった。ホテルのパイヌマヤリゾートの設備は近代的であったが西表島の場所には少々そぐわない感じがした。

我われが宿泊するホテルはこの日はレストランが休みであり、夕食は別な場所で取らなくてはならないがホテルの近くには店は無いと言う。西表島では予約をしないでいきなり行っても入れない事があるというので温泉のフロントから知り合いの店を紹介してもらい予約した。道が判らず苦労して辿り着きようやく食べる事が出来たが、台風で漁が出来なかったのでメニューに制約があるという。しかし、どの料理も美味しかった。美味い店は地元の人に聞くに限る。

宿泊するホテルは「ラ・ティーダ西表」新しいコテージタイプのホテルだ。朝起きたら、また皆が泳ぐと言い出した。ホテルの目の前は海岸でプライベートビーチのような貸切(この時期に泳ごうなどと言う奴は他に誰も居るわけがない)状態だ。

西表の観光名所に由布島に水牛が引く牛車に乗って浅瀬の海を渡るものがあるというので行ってみた。これが実にのんびりしていて最高だ。水牛は勝手に歩いていくから、途中で案内のおじさんが三線を弾いて沖縄民謡を歌うのである。のどかな気分だ。沖縄のテンポはゆっくりしていて心が落ち着く。

石垣島に戻るときに「竹富島」に行ってご覧なさいと強く勧められたので急遽行く事にした「行き当たりばったり」の旅である。

「竹富島(11月)」

5日の予定には無かった場所だったが、ここが今回の視察のハイライトであった。西表島からいったん石垣島に戻り、別な高速船で竹富島には15分ほどで行けるのである。

この島は、景観条例を厳しくしており、島の建物は昔の風情を残している。建て直す場合も外観は周りに合わせなくてはならない。島の人口は300人ほどで全員が顔見知りだから犯罪も無いという。この島をまた牛車で観光して回った。これまたのんびりとしていて最高だ。すっかり気に入ってこの島に住みたいと思ったが、定住しなくては入れないそうだ。別荘だけの所有は駄目だという。別荘所有者の島になったら島が廃れてしまう。島での生活者だけを受け入れるという、これまたもっともな政策だ。

この島が一番沖縄らしい場所であった。場所の力が活きている感じだ。立派な設備なんか無くても、場所にあった建物が並んでいるだけで十分満足できる。古いものを壊して新しく場所にそぐわない建物を建てたらぶち壊しになってしまう。この島の人たちにはそのことが良く理解できているのだろう。賢明な選択だ。

「石垣島(11月)」

再び石垣島に戻った。宿泊は川平湾にある「B&B KABIRA」だ。那須の二期倶楽部の経営である。昔の建物をリニューアルして使用している。10室しか部屋がないがこじんまりとした良い雰囲気だ。名前の通り朝食の提供と宿泊がメインだが頼めば夕食も手配してくれる。しかし、この日はレストランは休日で夕食は外で食べなくてはならない。近くには食堂が無い。そこで、大浜さんに連絡をしたら、ご案内くださるという。

市内に出て、郷土料理を食べた。郷土料理はその場所で食べると美味しく感じるが、美味しかったからとお土産で持って帰って喜ばれた事が無い。これもその場所に合った食べ物をその場所で食べるから美味しいのであって、そぐわない場所で食べても美味しくは感じないのだろうと思う。今回の視察ではとにかく全ての店でゴーヤチャンプルーと沖縄そばを食べ続けた。

翌朝、「日本一魅力的な鍾乳洞」という宣伝文句につられて鍾乳洞を見に行った。このキャッチフレーズはいんちきだ。魅力的というのは主観であって客観ではない。名付けた本人が日本一魅力的だと感じたのだと言われればそれまでだが、こうゆう表記の仕方は問題が多い。

お土産にパインアップルを買った人がいたが、現地の人に言わせると旬ではないと言う。観光客が一方的にイメージを付けているのかもしれないが、現地の人がお勧めするものをお土産にすることも必要かも・・・


■2008-02-10-Sunday 視察旅行記4

「熱海(12月)」

12月4日は熱海の蓬莱旅館に泊まった。人気ナンバーワンの日本旅館である。最近の熱海の凋落はすさまじいものがあるが、ここ蓬莱旅館は別格である。

歩いて熱海の海岸に出てみた。寛一お宮の銅像は昔よりごちゃごちゃとしていて、いかにも安っぽい観光地の風情だ。目の前の大型ホテルは休業したままになっている。かつての賑わいはない。老人用の保養地として有名だと言うが、あのきつい坂道では老人の足では歩けまい。大型ホテルの囲い込みと共に熱海の時代は明らかに終焉を迎えていると感じた。

蓬莱旅館は温泉街からははずれにあるが、それが幸いしているように思う。落ち着いたたたずまいで風格を感じさせる。従業員の教育も行き届いている。

惜しむらくはお風呂の位置が階段をかなり上り下りしなくてはならないところにあることである。日本旅館の重要な客層であるお年寄りにはあの階段の上り下りはきつ過ぎて泊まる事は難しいだろうなと思われた。恐らく客層は社用族が多いのだろう。新しく造ったという露天風呂が壊れていて入る事が出来なかったのも残念であった。

世話をしてくれた女中さんの気配りもうるさ過ぎず、さりとて構わないでもなく、程好い接客であった。夕食も満足した。京料理とは違って、気取りは無く、量も適度で、一品一品に料理人のこだわりが感じられる料理であった。用意してある酒も料理に合わせて考えられている。さりげないところの気遣いが嬉しい。挨拶に来たおかみさんの話も面白かった。旅館業に対するプロ意識が感じられた。

朝食も伊豆という土地柄を活かしたメニューであった。旅館の下の方で、徳川家の図書館を移築したヴィラ・デル・ソルという洋風のホテルとフレンチのレストランを経営しているという。昼食をそこに決めた。腹ごなしに伊豆山神社に詣でることにした。800段の階段を上ってお参りするのだ。熱海は本当に坂道の多い場所だ。十勝平野のど真ん中で平らな場所で生まれ育った身にすれば、山にへばりついて生活している様にしか見えない。なんでこんなところに家を造るのかと思ったが、伊豆の人に言わせれば北海道の様な寒いところに何で暮らしているのか?と言うのだから同じこと。住めば都ということか。

フレンチの味はそこそこだったが、ソムリエが居なかった。これだけ気取るならソムリエぐらいは置くべきだろう。

払った値段ほどには満足できなかった。

「熱川(12月)」

5日は熱川温泉に向かう。宿泊は「長右衛門宿」である。江戸時代の庄屋の建物を、そこの農家が民宿として営業を始めたところである。蔵を改造した2室と離れの1室の計3室しかない。食事は母屋で食べる。最近人気のある宿なのだ。

夕食の出てきた料理の量の多さに圧倒された。脈略の無いメニューがこれでもか、これでもかと出てくる。おばちゃんが謙遜の意味を込めてなのだろうけど「素人の主婦4人でやっている」と言っていた。無料ならともかく、良い値段を取るのなら素人というのは禁句だ。お金を取る以上はプロに徹してもらわなくては困る。

素人料理だから質より量だというのは、ホスピタリティをはきちがえている。食べられない量の料理を並べられても苦痛にしか感じない。むしろもったいないという気しか起きない。親切の押し売りは苦痛だ。

泊まった場所は蔵を改造した部屋だった。蔵の中は快適だった。周りの音も聞こえない。久しぶりにゆっくり眠れた。

露天風呂は暑い風呂が好きな私には少々ぬるかったが、一緒に行ったメンバーは気に入ったようで二時間ほども入っていた。

熱川は観光といっても「バナナワニ園」しかない所だという。しかし、この宿は人気でなかなか予約が取れないのだそうだ。一日に3室しか客を取らず、その状態が毎日続くほうが営業がしやすい。ここでも、大型ホテルの囲い込みの時代の終焉を感じた。

「東京(12月)」

6日は東京では新宿のセンチュリーサザンタワーホテルに泊まった。シェフの渡邉君のリクエストで港区の三田ハウスにある「コートドール」というフレンチレストランに行った。

出てくる料理はすべて手が込んでいて、シェフのオリジナル料理である。フレンチはあまり得意でない私も全部食べることが出来た。惜しむらくはここもワインのソムリエがいない。料理があれだけのレベルなのだから、優秀なソムリエをおいたらもっと店の格が上がるのにと感じた。それ以外は大満足であった。

美味しいワインを飲みなおすぞと、赤坂のセレブールという田中孝一さんのやっているワインバーに出かけた。

ソムリエである田中氏がいろいろとワインを出してくれる。予算に合わせて提供してくれるのでありがたい。興味深い店であった。

翌日、お台場の「大江戸温泉物語」という新しく出来た温泉に寄った。テレビで話題になっていたので立ち寄ったが、仕掛けが多過ぎて逆に飽きが来る感じだ。仕掛けとは「浴衣の柄を選べる」「江戸時代をモチーフにしている」などで中で時間消費をさせるように芸人が出る高座があったり、食事処は屋台風に作っていたりしている。一方マッサージが充実していたり、団体客用の宴会場があったりと一応は何でもある。しかし、落ち着かないのだ。仕掛けがあり過ぎてのんびりできないのである。秘湯ブームの対極にある温泉型レジャー施設のような感じである。きっとリピーターは少ないだろうなぁ・・・


■2008-02-11-Monday 視察旅行記5

「湯布院(1月)」

13日に温泉で一番人気の大分県湯布院に行った。宿泊した旅館は「亀の井別荘」である。7名という人数だったので、離れでも一番大きな「百番」に泊まる事が出来た。

我々が泊まったのは和式だが、この宿には洋式の部屋もある。

仲居さんが「わが家では・・・」と言う言葉遣いをしていた。小さなことだがとても好感が持てる。料理は大広間で食べた、味はまぁまぁといったところだ。飛び切り美味いと言うわけではなかったが地元にはこだわっていた。

温泉の大浴場は外の露天風呂は塀を上手に使っていて狭いけれども落ち着きのある空間になっていた。

談話室と言う場所があり、暖炉と本棚があって、コーヒー・紅茶のセルフのサービスがある。先客がいたが話し掛ける雰囲気になっていない。何かが物足りない、空間の大きさが中途半端なのだ。考え方としては面白いが、打ち解けずらい大きさの部屋であるのが惜しまれる。

ここの売店で売っているお土産はなかなか厳選されたもので品があった。

翌朝、町を散策してみたが、町の中は軽井沢の様な派手派手しさだ。外の資本の土産物屋が並んでいる。人の集まる場所に店を構えて少しでも儲けたいということなのだろうが、自分達で折角の風情を破壊してどうする。自分で自分の首を絞めているようなものだ。もっと全体がまとまって風情や景観を守らないと、湯布院とて凋落してしまいかねない。目先の商売のことしか考えない奴は困り者だ。

十勝のとある牧場で働いていて顔馴染みの夫婦が近くで牧場を始めたというので見学に行った。取水口のすぐ側で景観も抜群なのだが、隣が悪い。何故か飛騨高山の古民家を移築したレストランとその横には小さな分譲住宅のような貸し別荘が並んでいる。景観とは何か? 場所の意志とは何かを考えて建てて貰いたい。折角の場所が台無しだ。

昼食は、無量塔(むらた)という老舗旅館が経営する、アルテジオという音楽関係のミュージアムとレストランが一緒になったところで食べた。なかなか洒落ている。

湯布院は「亀の井別荘」「山荘無量塔」「玉の湯」の3軒はなかなかだが、その他との差が大きいと感じた。他のコバンザメ商法の店はこの3軒が作り出している雰囲気を壊さないことが肝心だ。

「安心院(1月)」

14日に行った安心院(あじむ)は農村民泊で有名になったところで、グリーンツーリズムの先駆的な活動をしているところだ。折角だから三名と四名に分かれて別々の家に泊まった。四名は矢野家に泊まり、私達が泊まったのは中山家で、囲炉裏のある家である。農家の離れを活用して民泊をしているのだ。

民泊を始めるに際しても家を改造したり設備投資などはしていないそうだ。トイレだけはシャワートイレにしたそうだが。

夕食も家族の人と一緒に同じものを食べる。自分の田畑で採れたものが材料で、グリーンツーリズム研究会で料理の勉強もしている。郷土料理をご馳走になったが、量が多いのにはまいった。食べなさい、食べなさいと次から次へと料理が出てくるがそんなにたくさん食べられるものではない。目の前で作ってすぐ出されるのだから残すわけにもいかない。親切で親身なのは嬉しいが、度を過ぎると苦痛になる。客の様子を判断しながらの対応が必要である。

自家製のどぶろくやワインでおおいに盛り上がり話し込んだが、意外なことにグリーンツーリズムの先生は十勝だという。新得や鹿追の事例が励みになり、交流もしているのだそうだ。我々ももっと近くに眼を向ける必要があると感じさせられた。

民宿を始めるには旅館業法という法律があってクリアするにはお金が掛かる。そこで会員制にして料金ではなく研修の謝礼という形にしてクリアしたとのこと。何事も諦めずに知恵を使えば道は拓けるのだ。結局後から行政が後追いで許可を出すことになった。民が官を動かしたのだ。

後から参加してきた農家との間に意識の差が出始めてるという、この一月から料金も値上げになるとのこと。最初の志を継続していくのは難しいのだろうか?

寝る段になって二階に上がったらそこが猛烈に寒かった。この日は外気温がマイナス3度で外は雪が降っている。私達が泊まる部屋は昔の蚕部屋で、下は車庫だ、部屋に暖房器具は無い。床からも冷気が伝わってくる。布団を二枚重ねにして寝たが、湯たんぽなども無いから自分の体温だけで暖まるしかない。朝起きたら両隣の顔がしもやけみたいに赤くなっている。かつての寒かった住宅を彷彿とさせた。

家の中は北海道が一番暖かい。北海道人は日本一の寒がりだ。

「黒川温泉(1月)」

15日は今や湯布院よりも人気があるという熊本県の秘湯「黒川温泉」の「山みず木」に泊まった。

途中に別府も通過したが、別府の廃れようは激しいそうだ。やはり、大型温泉が何でも自分のホテルの中に囲い込んでしまうから、ホテルは栄えても町が死んでしまうのだ。

黒川温泉は景観にも気を配っている。看板も落ち着いた色と大きさに統一されているし、何より、旅館同士が協力して温泉街を歩かせる政策を執っているところが素晴らしい。各旅館の露天風呂3軒に入れる「入浴手形」を発行していて、客は露天風呂のはしごをして歩くのだ。露天風呂にはシャンプーや石鹸も置いてない。ただ入るだけである。はしごしてもらえばお金を落としてくれる。客が出歩くから町に活気が出る。とても良い戦略だ。ただ残念だったのは健全な店ばかりであったことだ。やはり温泉は非日常の世界であるから、普段と違ういかがわしさも必要だと思う。例えば、ストリップや射的場やスマートボールetcがあった方が・・・

料金がリーズナブルなのに驚いた。湯布院の「亀の井別荘の百番」と山みず木の部屋とではたいして差が無いのに料金は三分の一以下である。若い女性に人気があるのもうなずける。仲居さんもとてもフレンドリーな対応で好感が持てた。料理はもう一つかな・・・

各温泉の露天風呂もそれぞれに特徴があって楽しかった。黒川温泉も始めから温泉街全体のコンセンサスがあって今の様な温泉街になった訳ではない。一人の変わり者が始めた露天風呂が流行って、皆が教えを請うてそれぞれに露天風呂を始めたのだそうだ。リーダーが始めた事を良いと思った人達が右ならえして行って出来上がったと言うのである。会議ばかりやっていたら出来るものも出来なくなってしまう。斬新なことは率先垂範でしか出来ないというのである。

たしかに黒川温泉は温泉街に来たという雰囲気があってとても落ち着く。湯布院の町のケバケバした不統一な景観とは雲泥の差だ。黒川温泉の方が湯布院よりも人気があるというのももっともだと感じた。


■2008-02-12-Tuesday 視察旅行記6

「酸ヶ湯(2月)」

2月4日に青森県酸ヶ湯温泉にいった。冬の八甲田山は雪深い。何でこの季節に八甲田なんかに行くんだとブツブツいうメンバーもいたが、その場所をイメージできる季節に行くから良いのだ。まさに新田次郎原作「八甲田山死の彷徨」高倉健主演の映画「八甲田山」の世界であった。

電車とバスを乗り継ぎようやく辿り着いたという感覚だ。泊まる宿は「八甲田ホテル」、ログハウスで出来た立派なホテルだ。客はオフシーズンだから少ない。私には冬の八甲田にピッタリの雰囲気のとても素敵な宿であった。

湯治で有名な酸ヶ湯温泉が近くにあるので入りに行った。古い建物で千人風呂という80坪の巨大な温泉がある。入り口に貼ってあるポスターで見るととても大きなお風呂に感じたが、実際に入ってみると意外に小さく感じた。名前の通り酸性の強い白濁した温泉だ。飲んでみたら強烈な酸味にしばらくの間口の中が変になってしまった。

酸ヶ湯温泉は湯治客中心で日帰り客が少ないのか、日帰り客用の施設が少ないと感じた。八甲田ホテルではフレンチのフルコースの夕食である。味はいまいちであった。オフシーズンだからだろうか?・・・

ホテルの温泉にも入ってみた。透明なお湯だが、なめてみたら酸っぱかった。客が少なくて貸し切り状態で気持ちよかった。

翌朝、頼んでいた送迎用の車が山道を登れないという。やはりこの雪は地元の人でもやっかいなのだなぁ。

「乳頭温泉(2月)」

5日に秋田の秘湯「乳頭温泉」に行った。宿泊は一番奥にある「鶴の湯」の初日は江戸時代の建物である「本陣」の二間続きの部屋である。トイレはシャワー付きだが、その他は古いまま、囲炉裏があってランプがあるのが嬉しい。寒いかと思ったが意外に暖かい。囲炉裏を囲んで食事をしたが途中電気を消してランプだけの明かりで食事をしていたら、酔狂だったのだろう、宿の人が暗くないですか?と尋ねてきた。妙にはしゃいだ気分だった。

料理は山菜とキノコが中心の郷土料理、山女魚を串刺しにして囲炉裏で塩焼きにする。後は山の芋鍋である。素朴な食べ物であった。

温泉はその名の通り乳白色である。色は酸ヶ湯に似ているが酸っぱくはなかった。深々と雪が降る中、露天風呂に入った。お湯は少々ぬるい。私は熱いお湯が好きなので内風呂の熱いお湯に入り直してすぐに上がったが、他の仲間が何時まで経っても部屋に戻ってこない。このぬるめのお湯が気に入って2時間も浸かっていたのだ。

山の中だから他にはする事がないので、温泉にばかり浸かっていた。11時過ぎると日帰りの入浴客が大挙して押し掛けて来た。脱衣場には並んで待っているではないか。ここの温泉はかなり人気があるのだろう。

我々は連泊するのであるが二日目は新しい建物の「新本陣」である。宿の人も「本陣」と「新本陣」の二箇所に泊まる客は初めてだと言っていた。連泊する人が珍しいとのこと。

山の中で何もすることがないから、温泉に入っては寝ることを繰り返した。

夕食のメニューは昨夜とほとんど同じ、宿の体制が連泊用になっていない。この宿は人気があってなかなか泊まれないらしい。満杯で断る客も多いといううらやましい事態だ。毎日満杯ならすごいことだ。

こんなに交通の不便な処でも目的があったら客は来るのだ。交通の便が悪いというのは言い訳にならない。

いかにして場所の意志にぴったりと合ったものを運営するかである。ヒントは一杯詰まっている。

この「視察旅行記」は平成15年度に北海道経済産業局に提出した「地域の特性を活かした農業と商業を融合させた観光飲食業の創造」報告書(2004年2月発行)に記載したものである。


■2008-02-13-Wednesday 十勝の雪

十勝の雪質は完全なパウダースノーである。

幼い頃に、テレビを見ていて不思議に感じた事があった。それは東北地方の冬模様を写した映像であった。

冬の雪国の映像と云うと、お決まりは「雪だるま」「雪合戦」「かまくら」であるが、十勝ではこのどれもが出来ないのである。

子供心にも何故、出来ないのだろう。何故、テレビとは違うのだろうと思っていたものだ。

十勝だとて、北海道だから雪は少ないが降るのである。だが、雪質がサラサラのパウダースノーなので、雪がまったく固まらないのだ。

積もった雪の上を歩けば、キュッキュッと鳴き砂の様に締まる音がする。雪の結晶はいつまでも融けずにハッキリと見ることができるし、頭や肩に積もった雪も払えばパラパラと落ちるから、傘など差す必要がないのだ(雪の日に傘を差して歩くのは北海道人ではない)。

手袋をはいて(北海道弁)いると雪球を作れないから、手袋を脱いで掌の体温で雪を溶かしながらでないと雪球にならないのである。これではとても冷たくて「雪合戦」など出来る筈がない。同じ様に、固まらないから「雪だるま」にも「かまくら」にもならないのである。

雪国に暮らしながら、「かまくら」に憧れるという心境を理解できるかなぁ?

私が幼少の頃は「札幌雪まつり」も今ほど大きなものではなかったし、そもそも、札幌は日本海側だから雪質も十勝とはまるで違っているのだ。誰だってわざわざ雪を水で溶いてシャーベット状態にしてから雪像を作るなんて手間なことをしようとは思わなかったのだろう。雪像を作るという発想は十勝では浮かばなかったようなのである。最近でこそ「帯広氷まつり」でも、雪像を作るようになったが、当時の帯広では氷の彫刻を見せるまさに「氷まつり」であったのだ。

「氷」と「雪」では一般人の参加数がまるで違ってくる。氷は透明だから製作過程で失敗(削りすぎや割れたり)したらそれまでだ。難易度が高くてとても素人が作れるもんじゃぁない。結局、専門の職人が腕を競う大会になってしまいがちだ(その分氷像は大変美しいが)。

その点、雪は楽だ。雪像の作りかたは意外と簡単なのだ。コンパネで作った壁だけの箱(底と天井が無い)の中に雪を入れて固めるだけ、コンパネをはずすと立方体が出来てるからそれを専用のノミで削るのである。たとえ削りすぎても、そこにまたシャーベットをくっ付ければ元に戻るから、何度でもやり直せるのである。雪像作りが増えてから、一般人の参加が増えたのもうなずけるだろう。

札幌の雪まつりで、世界中の国々の人が参加して雪像を作っている姿を見るのは、見ている方も面白いものだ。

私も何度か「帯広青年会議所」のメンバーとして、帯広氷まつりに雪像作りで参加した事があるが、作っている最中は童心に返って楽しめるのである。作業終了後に食べたり飲んだりするのがまた格別なのだ。

十勝で面白いものに、鹿追町の「然別湖(しかりべつこ)畔」の『氷上の露天風呂』がある。

冬に凍結する湖の上に、温泉を引いて、氷で露天風呂を作っているのである。氷の上に温泉なら融けて沈むんじゃないのかと思うだろうが・・・、種明かしは無粋だからここでは止めておく(実際に来て体験することをお勧めする)。

温泉の温度は44℃ほどの熱いお湯なので湖の上に積もった雪を浴槽に適度に投げ入れて温度調節して入るのである。身体は温まるが頭の周りは−20℃以下だからのぼせることはない。

13年前に環境問題専門家の外人4人を連れて行ったら大喜びで、温まった裸の身体で何処まで遠くに走って行って、また戻ってこられるかを競い合ったり、天婦羅と称して裸で雪の上を転げ回ったりして遊んだものだ(注:翌日皆して風邪をひいたのでこれはあまりお勧めしない)。

隣にはイグルー(エスキモーらが住む氷の家)状のアイスバーを作っているのだ。この氷の家は年々規模(面積)がデカクなっている。造り方は、芋籠(ジャガイモを入れるプラスチックのカゴ)にシャーベット状にした雪を入れて一晩置いておくと、翌日には凍って氷のブロックが出来上がるのである。これをカゴから出して、積み上げていくのだ。接着剤ももちろん雪だ。難しいのは天井で、ドーム状に丸く組み上げていくのである。

外は−20℃でもイグルーの中は−3℃くらい。人間の体感温度は風速1mで1℃下がるそうだから、風を防げば寒く感じないのである。このアイスバーの中で、自分で氷を削って作ったマイグラスでお酒を飲むのだが、これがまた格別の気分なのである。ここに大学教授の方々を多数連れて行ったが、皆、夢中になって氷のグラス作りを楽しんでいたものだ。

雪や寒さにはこんな楽しみ方もあるのである。


■2008-02-14-Thursday 十勝の雪2

本州からの観光客を車で案内すると決まって質問されることがある。

道路端の上方に付いている「下向き矢印(↓)」が連続する標識ともう一つが道路端に並んでいる金属製の板の壁である。

二つともパウダースノーに関係するものである。

パウダースノーは軽くてサラサラしているから風で飛ばされる。それが「吹き溜まり」となって道路上に固まるのである。

吹き溜まりの雪というのはとても厄介な代物だ。風で飛ばされるくらいだから、丁度、篩(ふるい)に掛けた片栗粉の様に粒子が細かいのである。その細かい粒子の雪が道路上で硬く固まってしまうのである。車が衝突すると相当な衝撃になる硬さである。ところがこれをスコップで除去しようとすくい上げると、水分が無いからたちまち粉々になって飛んで行ってしまうのである。除雪がまことにしづらい雪質なのだ。

除雪車が除雪をした後でも、広大な畑からまたパウダースノーが飛ばされてきて、再び道路を覆ってしまうのである。そうなると、何処が道路で、何処が畑なのかが判らなくなってしまい危険な状態になるから、雪に隠れない高さの位置に、下向きの矢印(↓)を連続して並べて、ここが道路と畑の境界線ですよ!ここから食み出ると危険ですよ!と教えているのである。

雪の降らない所から来た人が、夏に見ても意味がまるで判らない標識の一つであろう。

二つ目の金属製の壁は、防風林(元々は雪を防ぐ目的ではなく、畑の土が飛ばないようにする為のもの)の替わりに、風を防いで、道路に吹き溜まりが出来ないようにする為のものである。

十勝の冬の風向きはほぼ北西方向からと安定しているから、防ぎたいものの北側か西側に防風林として成長の早いカラマツを植えたのだ。

初めは防風林もその役目を果たしていたが、木が成長し過ぎて、日陰が出来るようになってしまった。畑に日陰が出来ると、その部分の作物の成長が悪くなるし、道路上に日陰が出来ると雪が融けなくてスリップしやすくなってしまうのである。私も以前、冬に一度防風林で囲まれたカーブしている道路でスリップして畑に車を落とした経験がある。

外気温がマイナスであっても、太陽エネルギーは雪を融かすのである。昼間に太陽が当たって融けた雪が水になって道路を傾斜に添って流れる、太陽が移動して日陰になるとその水がたちまちの内に凍るのである。車のタイヤで出来た凸凹を修正するように融けた水が凹に溜まって凍ると、氷が磨いたように平らになってスケートリンクのようなツルツルの状態になるのである。これはブラックアイスバーンといって、ハンドルがドライバーの言う事をきかなくなるのだ。

冬道の急発進、急ブレーキ、急ハンドルはとても危険な行為なのである。昔は車にスパイクタイヤを履かせていたので横滑りするようなことは少なかったが、環境問題(スパイクが削るアスファルトの粉塵公害)から、スタッドレスタイヤに切り替わった。最近でこそ、タイヤの性能もアップして運転しやすくはなったが、スタッドレスが出始めの頃は上記の様な事故が頻発したものだ。

それで、日陰を無くす為に、防風林をせっせと切ったのだが、今度は吹き溜まりが出来て危険な状態になってしまったので、その吹き溜まりを防ぐ為に高さ2m程の金属製の壁を道路脇に作ったのである。初めは壁を立てっぱなしだったが、窓のブラインドみたいに開閉出来る様になり、更に景観上の問題から、夏の間はコンパクトに収納できるように改良されてきたのである。

しかし、北海道の景色の良い道路に、冷たく無粋な金属の壁は似合わない。最近は再び防風林を植える人たちが増えてきた。

木を切ることに異常に反対する人たちがいるが、木も植えっぱなしでは問題が起こる。やはり、地域の実情に合った管理をすることも必要なのだと思うのである。


■2008-02-15-Friday ハブとマングース

2003年10月に奄美大島に行った時の感想を先週書いた。

その際に「ハブとマングースの話」を聞いたのだが、その時は「フ〜ンなるほど」と思って聞いていただけで、すっかり忘れていた。11日のNHKの番組で取り上げていたのを見て思い出したのである。

知らない人の為にかいつまんで書くと『奄美大島では猛毒を持った蛇のハブに咬まれる事故が多く起こって悩んでいた。ある時、テレビ番組で「ハブ対マングース」の闘いを見た島民がマングースを奄美大島に連れてきて、ハブを退治したら良いのではと思いつき実行に移した。ところが、マングースは日中に行動するし、ハブは夜行性なので生活パターンが昼夜合うことはなく、自然界においてはマングースがわざわざ危険なハブを捕まえることなどはしなかった。あれは人間が狭い箱の中にマングースとハブを強制的に入れるから仕方なくマングースはハブと闘うのであって、広い自然界ではマングースにしてみればもっと簡単に捕まえられる動物を取って食べてしまうのである。天敵が居ない奄美大島で野生化して増殖したマングースは、奄美大島の特別天然記念物で希少種の「アマミノクロウサギ」を捕食してしまい。島の生態系を破壊するようなことになってしまったのである。』

これには生態系の破壊という環境問題としての重要な問題があるが、私は「まちづくり」においても重要な要素があると思っているのである。

一言で言うと、「よく検討もしないで、思いつきだけで行動すると、とんでもない結果を生み出してしまう」ということである。

私は会議ばかりをやれと言っているのではない。むしろ、会議はやればやるほど内容が平準化していって、つまらないものになりがちであるから、会議の回数は少なくても構わない。キラリと光る意見を採用すればかなり面白いものが出来ると思っているのである。

しかし、内容の充分な精査は絶対に必要だと思うのである。

特に責任の所在がハッキリしていない活動は控えるべきだとも思っている。

大勢の仲間内だけでやる事業は、得てして責任の所在がハッキリとしていない。こういう組織では、問題がある事業でもGOサインを出しやすくなる。「皆が良いといったのだから」という逃げ口上が大手を振ってまかり通るのである(仲間外れを嫌うから反対意見を言わなくなりがち)。

また、周りに居る人間が皆OKなのだから、一般市民も全員OKなのだと云う錯覚を起こしやすいのである。

日本人は会議の席で「懸念」や「最悪の状態のシミュレーション」を行う事が大嫌いだ。「言霊(ことだま)」に支配されているからである。悪い事態を言葉に出して言ったら現実化するという迷信に取り憑かれているのである。

懸念や最悪の事態のシミュレーションは「縁起が悪い」の一言で終わってしまうのである。だが、「まちづくり」は多くの人達が関わる事業だ。計画と準備は慎重(綿密)に、且つ実行段階では大胆にやらなければならないのだ。

全国の商店街が焦る気持ちは充分理解しているつもりだ。私だとて商店街の一員なのだから。

だが、発案から実行までの準備段階が不十分な企画が多すぎるとも感じている。

商店街が廃れたのは一朝一夕のことではない。時間を掛けて戻すつもりで計画することが必要だ。こう言うと「そんな時間は無い」と一蹴されてしまうが、カンフル剤は所詮カンフル剤にしか過ぎないのだ。抜本的な解決には繋がりにくいのだ。意味の無いイベントばかりを繰り返していては、いたずらに体力を奪うだけである。

イベントは手段であって、目的ではない。

目的の無い、イベントの為のイベントはもう止めようよ!

もはや漢方薬で治すか、DNA治療で治すかの選択肢しかないと考える。


■2008-02-16-Saturday 見世物の楽しみ

2003年3月29日(土)十勝毎日新聞掲載

私が子供のころ、帯広の見世物小屋と言えば裁判所跡地(現イトーヨーカドーの跡地一帯=西3条南9丁目)であった。あの一角は草地になっていて子供たちの格好の遊び場であったし、サーカスや見世物小屋などがよく掛かったものだった。中でも見世物には一種独特の雰囲気があって、小屋が掛かっている時には入るわけではないのに毎日通ったものだ。

当時の親が子どもを叱る時には「言うことをきかないとサーカスに売り飛ばすぞ!」というのが常套句であったので、子供心にもどんな恐ろしい場所なのだろうという恐いもの見たさからムシロの裾を持ち上げては小屋の人に怒られていた。

蜘蛛女などのおどろおどろしい看板や、丸太と縄とムシロで作ったいかにも急ごしらえという仮設小屋の風情が異様であった。入り口ではおなじみの「親の因果が子に報い・・・」と物語風の口上を述べる木戸番が「おぼっちゃん、お代は見てのお帰りだよ。さぁ、入った、入った」という威勢の良い掛け声に「シメタただで見られるぞ!」と入って見たら、大きな蜘蛛の人形の胴体に人間が顔を出しているだけ。タダだから我慢するかと思うと出口で恐い顔したおじさんがしっかりと木戸銭を取っていた。

入り口と出口が別々で一方では客を呼び込み、もう一方では出していくだけの上手い仕組みになっているのだ。料金は後払いというシステムも客を入り易くしている。

でもはたしてあれで商売が成り立ったのだろうか?今考えると、一度見た人は二度とは入らないだろうし、周りの人にニセ物だからヤメておけと忠告でもされたら終わりではないかと思うのだが、何故かいつも混んでいた。まさか当時の大人だって本当に蜘蛛女がいると思って見に行く訳ではあるまい。どうやらその場のワクワク感とどんな風にだましてくれるのかを楽しみにしていたふしが見受けられる。

ただし見世物全てがインチキなものばかりではない、中には「人間ポンプ」という芸に驚いた記憶がある。人間が口から火を吹き出すのだ。ゴジラみたいですごいなぁ、かっこいいなぁと思ったものだ。

もし、これが現代だったらどうだろう。シャレで済ましてくれるだろうか。

当時の人たちはきっとお金は無かったが、心には余裕があったのだろう。

ハレの日の余興として、めったに見られない生の見世物は半分ダマされることを楽しみにしていたのかもしれない。「まち」の賑わいにはこんなバカバカしい要素も必要なのではなかろうか。


■2008-02-17-Sunday 商いと芸能

2003年4月5日(土)十勝毎日新聞掲載

趣味である「手品」の研究を始めてかれこれ33年にもなる。そこで薀蓄をひとつ。

日本の手品の歴史をひも解くと源流は呪術や田楽にまで遡る。マジックが史上二番目に古い職業といわれるゆえんである。このうち呪術は室町時代に放下へと発達する。田楽は高尚化とともに雑技を捨て去っていくが、それを放下が受け継ぎ、やがて大道芸として定着していった。放下は、音曲、曲芸のほか、一足、高足などの軽業や品玉などの不思議を行い、品玉はやがて手妻、手品へとなった。

そもそも芸能と商いは密接な関係にあった。元来、「売る」とは面白おかしく売ることであり、面白おかしく売ってこそ初めて売れるのだ。芸能性を伴わない商売は無かったと言っても過言ではなく、香具師(やし)たちが行っていた売るための愛敬芸術(添え物アトラクションとでもいうべきもので、客寄せをするための「おまけ」の芸術)の発想は、いわば商売の本質ともいうべきものなのだ。

この日本の愛敬芸術の考え方は、芸を見せてお金をもらうヨーロッパなどの大道芸とは本質的に異なり、芸よりも商品を売ることに主眼が置かれていた。

近年はこの日本型の大道芸が姿を消しつつあるのに対して、欧米型の大道芸が「まちおこし」の要素のひとつとして注目されている。

「大道芸ワールドカップin静岡」や横浜の「野毛大道芸ふぇすてぃばる」、東京世田谷区の「三茶de大道芸」、大阪の「天保山ワールドパフォーマンスコンペティション」など全国各地で大道芸のイベントが開催されている。しかし、この大道芸にも屋台と同様に法律の高い壁が在り、この種のイベント以外の普段の日には自由に道路や公園などで演じてはいけないのだ。日本という国はなんて野暮な国なのだろうか。だから「まち」の魅力が失われてしまうのだ。

走り始めてからたかだか百年ほどの自動車がわが物顔して道路を占領している。道は通行するためだけのものではないし、ましてや自動車のものなんかでは断じてない。

洒落たオープンカフェや屋台や大道芸などの楽しみ方があったってよいではないか。

「まち」が本来持っていた要素や楽しさをお上が規制してしまうから、つまらない場所になってしまった。

「まち」の再生にはまず通りを生活の場所として復活させる必要がある。

「まち」を一日も早く人の手に取り戻そうではないか。


■2008-02-18-Monday 商いをエンターテェィンメントに

2003年4月12日(土)十勝毎日新聞掲載

日本では近年まで欧米型の大道芸はあまり盛んにはならなかった。

大道芸は路上で演じるために小屋や劇場という箱がない。従って入場料というものを徴収することができないのだ。演劇やサーカスなどと違ってまず芸をすべて見せてから最後に見物料をもらうスタイルであるために、観客がお金(投げ銭)を払わずに立ち去ってしまうケースが多いと芸人の生活が成り立たなくなってしまうからだ。

日本の大道芸は商品を売ることが主目的であり、いわば芸は売るための客集め用であったので、見物料は無料だったことによる慣習の影響ではないかと言われている。

「お代は見てのお帰りに・・・」という口上で一見すると同じ料金後払いシステムの様に思える見世物小屋でも、実は出口で強引に木戸銭を徴収する仕組みになっているから見物客からの取りはぐれというのは無かったのである。

大道芸では投げ銭を集めるのも芸のうちである。演技が素晴らしいだけでは稼げないのだ。芸が終了した瞬間に観客をその場に留めて投げ銭を帽子に入れてもらう話術も必要なのだ。大道芸は演技者=マネージャーなのだ。

昨年(2002)の帯広平原まつりに、大道芸人を呼んだ。今は「ファニー・ボーンズ」と名乗っているコンビだが、イギリス人のクリスピー・クリスと日本人のキャプテン・ケーボーの二人組だ。

2002年の大阪の枚方と東京の台場の大道芸フェスティバルで優勝した実力者でもある。西2条通りのあちこちの街区で演じたが、どこも圧倒的な集客だった。これまで帯広の人たちにはなかなか生の大道芸を見る機会が無かったので、テレビとは違う生の演芸に感動したのだと思う。2003年は大道芸人をもっとたくさん呼びたいと現在企画を練っている最中だ。

これも昨年(2002)行った企画だが、大阪から日本一のチンドン屋「東西屋」の五人を招いて帯広の市街を練り歩いた。

子供の時分にチンドン屋の後ろをくっついて歩いてはよく親に叱られたものだったが、積年の夢を果たしたかったのである。

チンドン屋のような音を伴う「宣伝業」はまちを賑やかにしてくれるし、なおかつ人間的で風情と温かみがあって面白い。

最近の、商品を渡してお金をもらうだけの商売に魅力を感じるだろうか。もう一度原点に戻ってエンターテェィンメント性も考えてみる必要がある。

売る方も買う方も共に楽しくなるような商売をやりたいものだと思う。


■2008-02-19-Tuesday スケートとスキー

北海道人は皆、スキーが上手だと思われているが・・・

十勝平野のど真ん中に位置する帯広市は近くに山が無い。周りは平らな土地ばかりなのである。だから帯広生まれの私は中学3年生の冬休み(高校受験が終了した後)までスキーをしたことがなかったのだ。その代わりに、スケートは幼稚園児の頃から滑っていた。

帯広の小中学校では、雪が降ると全校生徒がグランドに出て、雪を踏み固めてコースを造り、夜になったら教師や親が、そこに水を撒いておくと次の日の朝には立派なスケートリンクが出来上がっているのである。池や湖が自然に凍ったところをリンクにするのとは違って、人工的に造る通称「丘リンク」というやつで、帯広は市内のどこの小中学校でもこのスケートリンクを造るのである。

だから、冬期間の体育の授業はすべてスケートであった。帯広の人間でスケートが滑れないという人はまず居ない(上手い下手は別として)と思う。

スケートには、スピード・フィギュア・ホッケーの三種類があるが、私が小学校当時はスピードスケートばかりであった。生徒全員がスケートを持っていた(先輩の小さくなったスケートを譲り受けるシステムがあった)のである。

私はこの体育の時間が嫌いだった。外はマイナス15℃以下、スケート靴は薄い革一枚、紐をギュッと締めるので血の巡りが悪くなり、足先が寒さで痛くなるのである。スピードスケートは腰を低く落とし、身体を前屈みにして、同じコースを延々と回り続けるだけなのだ。根性はつくが40分間これをやらされるのは正直苦痛だった。

中学校では体育の授業も選択性になり、フィギュアやアイスホッケーをやっても良いということになったので、軟弱者の私は早速親に頼み込んでホッケー靴とスティック(当時は防具無しでやっていた)を買ってもらってホッケーに転向したものだ。

ほとんどの十勝人はこの様にスピードスケートを半ば強制的にやらされるので底辺が広くなり、優秀なオリンピック選手を多数輩出しているのであるが、なかでも私立帯広白樺学園高校は清水広保や川原正行などを輩出しているスケートの名門校である。

このようにスケートは体育の必修科目であったから、ほとんどの十勝人が滑れるのであるが、スキーは前述したように高校生になる直前までやったことがなかった。高校に合格した後(一応ゲンを担いで合格発表後に行った)に中学のクラスメートと上士幌町の糠平温泉スキー場に汽車に乗って(当時はまだ士幌線という国鉄のローカル線が走っていた)スキーをやりに行ったのが初めてであった。スキーウェアーなど持っていなかったから、アノラックにGパンという出立ちであった。初めてだから当然のことながら転んでばかり、Gパンが濡れて身体に張り付き、とても滑りにくかった。着替えも持って行かなかったので帰りの汽車の座席を濡らしてしまい、立つときに「お漏らし」したように見られないかとドキドキした記憶がある。この時からスキーが好きになった。

スピードスケートのリンクは平らな氷の上なので、どこのリンクであっても同じ感じなのだ、ただ氷が硬いか軟いかぐらいしか変わりがないのであるが、スキーは場所によって面白さが変わるところが好きになったのだ。

大学を卒業してからは、マイスキー&マイカーを買っていろいろなスキー場に毎週のように出掛けて行ったものだ。

ここで感じるのは、移動手段としての「足」の問題である。

施設の近くに公共交通機関があれば、学生だけでも行けるが、そうでなければ運転手付きの自家用車が無ければ気軽にスキーに行く事も出来ないのである。つまり運転手たる親が付いていなければレジャーにも習い事にも行けないのだ。

こんなところにも地方のハンディキャップが存在するのである。


■2008-02-20-Wednesday 富良野の思い出

18日(月)に富良野の農業大学講座で講演をしてきた。

自動車の運転が嫌い(特に冬は)だから列車で往復することにしたのである。

以前は帯広から札幌に行くには根室本線に乗って富良野経由で4時間半も掛けて行ったものだったが、1981年に石勝線が開通してからは新得(新得で根室本線と石勝線が分岐する)からは南千歳経由に替わったので距離が短くなり2時間半(現在の最速は2時間10分)で札幌に行けるようになった(千歳空港までは1時間半)のである。

その結果、根室本線の新得—滝川間は特急や急行列車が走らなくなったので、旭川方面へ列車で行く時には一旦札幌に出てから乗り換えるようにしているから富良野駅で降車(通過するのも)するのは27年振りぐらいのことなのである。

今回は帯広から09:20発の一両だけの快速ワンマン電車に乗って2時間11分掛けて富良野に(札幌に行くよりも時間が掛かる)着いた。帯広—滝川間の快速列車は一日に2往復しか走っていない。この快速列車に乗らないと新得で乗り換えて鈍行で行くしかなくなるのである。列車の席は背中合わせのL字型のクッションの悪い座席で乗客も少なく、久し振りにローカル列車に乗ったなぁという気分を味わった。

16日(土)には富良野の近くの占冠村(上川地方)で講演して来たのだが、こちらは石勝線沿線なので特急が走っているからまだ富良野よりは交通の便が良い(占冠駅に停まる特急列車の数は少ないが)。占冠—富良野間は同じ上川地方で自動車なら30分程度の距離なのだが、鉄道だと一旦十勝側の新得まで戻って石勝線から根室本線に乗り換える必要が出てくる。暇な時期であれば、ゆったりとして占冠村のトマムリゾートにでも泊まってスキーなんぞを楽しむところだが、16日の夜に帯広の隣町の幕別町で富良野の倉本聡の演劇集団の「悲別」という演劇公演を鑑賞するスケジュールになっていたので帯広まで戻ったのである。なにかと富良野に縁があった週であった。

北海道を公共交通機関だけで移動しようとすると時間的な余裕と、かなりな面倒臭さを克服しなければならないのである。

27年振りの富良野駅前はすっかり景色が変わっていた。残念なことに冬の富良野駅には嫌な思い出しか残っていないのである。

あれは32年前の丁度今頃(2月中旬)の出来事だった。東京に大学受験に行った帰りのことである。羽田空港から帯広空港行きのYS11機に搭乗したのだが、大雪の為に帯広空港は閉鎖されて千歳空港に降ろされてしまった。帯広は雪の少ない地方だから雪で空港が閉鎖されることは稀である。むしろ千歳空港の方が閉鎖の確率は多いくらいなのであるがこの日は逆であった。

当時の千歳空港と帯広駅は6時間程の時間距離があったのである。千歳空港—札幌駅間はバスに乗って50分程、札幌駅からは前述した根室本線に乗って帯広駅まで特急で4時間半とかなり大回りして帰らなければならないのである。当時は列車の本数も少なかった。

千歳空港から札幌駅に着いた時には、帯広行きの最終特急列車の発車10分前であった。みどりの窓口に行っている時間がないので、入場券で入って後から切符を買うことにして、ホームに駆け込んだのである(旅慣れていたなぁ)。発車のベルが鳴っていたので慌てて列車に飛び乗ったのだが、乗った瞬間にドアが閉まって走り出した。「アレッ、発車までは後5分あるはずなのに」と思ったのだが・・・

慌てた私は、帯広行きと逆方向の小樽行きの列車に飛び乗ってしまったのである。幼い頃から一人旅をしてきた私が始めて犯した乗り間違えであった。

次の駅で降りて札幌まで戻ったのだが、帯広行きの列車は既に発車した後であった。

べつに急ぐ旅でもないのだから、札幌の親戚の家にでも泊めてもらえば良いものを、何を思ったのだろう少しでも帯広に近づきたいと、鈍行列車に乗って富良野まで行く事にしてしまったのである。富良野駅で降りて、滝川からの夜行列車に乗り換えて帯広まで戻ろうと考えたのだ。富良野に着いたのは午後8時半頃であったと思う。それから11時過ぎの夜行列車の発車まで富良野で時間をつぶさなくてならないのである。駅の売店は閉まっているし、駅前の店も全部閉まっていた。何て寂しくて何も無い町なんだと感じたのも無理はないと思う。

富良野駅から自宅に電話したら、私が搭乗した飛行機以外の便は全て帯広空港に着陸したと言うではないか。運の悪い時というのは「これでもか!これでもか!」というくらい不運が連続するのだなぁ、その不運は精神的余裕を失って自ら招いているんだなぁ、と寂しい駅で一人思ったものである。

案の定、東京で受験してきた大学は全て落ちたのだった。


■2008-02-21-Thursday カラオケ

昨日(20日)の夜に夫婦でカラオケをしに行った。

50歳過ぎて夫婦でデートをしたのである(なんて仲の良い夫婦なのだろう)。

妻は以前、自信がないからカラオケは嫌いだと言っていたのだが・・・

2年前に我が社のビルのテナントにカラオケ店が入居したので、売り上げに貢献する為に、妻を強引に誘ったのだ。初めて連れて行った時はなかなか歌いたがらなかったのだが、一度歌ってみたら面白くなったのか、何時の間にかレパートリーも格段に増えていて、今では一旦マイクを握ったら放さないほどのカラオケ大好き人間に変身してしまったのである。

冬休みに子供達が自宅に帰ってきた時も、家族でカラオケに出掛けようと言い出したのは妻であった。

娘がカラオケの得点が表示されるゲームで歌って誰が一番上手いか競争しようというので家族皆で競い合ったら、妻が94点と一番の高得点を出したのだ。歌に自信があった私と長女はその得点を超えられないので、機械が壊れていると憤慨したのだが、妻はすっかり有頂天になって、自分は歌が上手いんだと思うようになってしまったのである。以来、事ある毎にカラオケに行こうよと妻が誘うようになったのである。

確かにカラオケで大声を張り上げて歌うのは、ストレスの解消にはなるかもしれないなぁと思う。

私がカラオケを知ったのは、大学一年生の時だから、かれこれ32年と年季だけは相当長いのだ。大学の先輩に連れて行かれた三軒茶屋のスナックに8トラックのカラオケセットが置いてあったのである。一曲100円を入れて白いカセットを機械にガチャッと差し込むと音楽が鳴り出すのだが、現在のようなテレビ画面なんぞは無くて、歌詞カードを見ながら歌うのである。これがなかなか難しくて、どこまでが前奏でどこからが歌い出しなのかが判らなかったり、途中で歌詞を間違えたりと悪戦苦闘したものだ。

当時のカラオケはかなり慣れないと歌えない代物で初心者には難しいモノだったから、あまり流行らないだろうなと思っていた。事実その後にレーザーディスクによる画面付のカラオケが登場するまでは第一次のカラオケブームも下火になっていたように思う。

歌詞を画面で追ってくれるという画期的なシステムになってから、誰でもが歌えるようになって爆発的に普及したのではないだろうか。その後は一向に衰えないところをみると、日本人の性格にピッタリとあった娯楽なのだろう。いや、もはや日本の文化と言っても良いのかもしれない。

昨年の「大道芸フェスティバル」の打ち上げで、アメリカ人、フランス人、中国人の芸人たちと一緒にカラオケに行ったのだが、彼等も皆、喜んでカラオケで自国の歌を歌っていた。世界中の歌が収録されているのだから驚いた。現在はレザーディスクではなくてネットで配信するから曲数がものすごく多いらしい。

中国人の芸人は日本語が読めないのに「昴」と「星影のワルツ」を日本語で歌って皆を驚かせた。中国でも流行っているのだと言う。

そのうちカラオケは世界の文化になるのかもしれないなぁ。


■2008-02-22-Friday お酒

お酒が大好きで○歳から飲んでいる。

きっかけは正月のお神酒であった。高校○年生の冬休みの正月3日にお年玉をせびりに札幌の親戚の家に遊びに行った時のことである。朝、家を出る時にお雑煮を食べただけで一人列車に乗って札幌に向かったから昼食からまともな物を食べていなかった(当時は正月三が日に営業している飲食店は無かった)。

夕方に親戚の家に着いて、一緒に夕食を食べる時に伯父が「お神酒を飲むか?」「お酒くらい飲んだことがあるだろう?」と聞くので、粋がって「飲めるよ」と答えたのだが・・・

空きっ腹に冷酒をクイッとひっかけたので効いたのだろう。テレビで沢田研二が歌っているところを見たのは覚えているのだが、気が付いたら布団に寝ていたのである。いわゆる急性アルコール中毒というやつである。一緒に居た従兄弟の医者が「一口飲んだだけだから、どうってこともないだろう。寝かせておけば大丈夫だから」と笑ってその場は終わったのだそうである。

頭はガンガンするし、吐き気はするしで散々だったからトラウマになって酒が飲めなくなっても不思議はないのだが、笑われたのが悔しくて、帯広に帰ったら酒の練習をしようと心に決めたのである(当時から負けず嫌いだったのだ)。

父は日本酒が好きで、夕食時にお銚子を2本ずつ晩酌するのが日課だった。父に「一口飲ませてくれ」と頼んだら、「まだ早い」と一蹴されたので、夜中に起きて台所にあるお酒を内緒でチビリチビリと飲んでいた。初めはお猪口に一杯程度だったのが、段々美味しくなってきてお猪口に数杯程度にまで飲む量が増えて来た。我が家で日本酒をたしなむのは父だけだし、飲む量は毎晩2合と決まっている。しかし、父が酒を買ってくる訳ではないから多少ペースが速くなってもどうせバレないだろうと高をくくって、飲む量は一回にコップ1杯ほどにも増えていたのだ。

ある時、父が晩酌していると母が「最近お酒が減るのが早い」と言い出したのである。一瞬、冷ッとしたが、さすがに私が飲んでいるとは思わなかったようで事なきを得た。が、「このままではバレてしまう」と思い。父の日本酒をちょろまかすのは止めにしたのである。

それで、今度は祖母が作っていた梅酒を飲んでみたのであるが、甘ったるくてとても飲めた代物ではなかったので、しかたなく自分の少ないこずかいで買うことにした。

一升瓶なんぞを買ったら置き場所がなくて、すぐにバレてしまう。ワンカップの日本酒を買うのには何故だか心理的抵抗感が付きまとったのである。

最初は自動販売機でビールを買って飲んだのだが、ビールは高校生にとってはコストパフォーマンスが大変に悪いのである。アルコール度数が低いから大量に飲まないと日本酒ほどには酔えないのだ。だから価格面でも日本酒に較べて結局割高になるのである。

ナイトキャップを飲んで眠る洋画の場面を見て憧れたのでブランディを買ったのだが高校生が続けて飲めるような価格のものではなかったので、諦めてウィスキーにたどり着いたのである。初めは角サンだったのだが、飲む量が増えて来て、少ないこずかいでは、ホワイト→レッド→Wレッド→トリスと価格が安い物に下げていくしか対応策がなかったのである。

自分の部屋で一人で飲むのだが、水や氷やグラスを用意したらバレるので、キャップを逆さまにしてストレートでクイッと飲んで、ビンは机の引き出しの奥の奥に隠していたのである。

ある時クラスメートが家に遊びに来て「俺も飲めるぞ」というので飲ませたら、戻しやがったので臭いを消すのに大変な目に遭ったこともあった。(高校時のあだ名はサケモト君だった)

大学に入ってからはタバコも覚えたのだが、少ない仕送りで酒とタバコの両方をやるのは金銭的に無理だったから、タバコは20歳の誕生日にスッパリと止めて、以来吸ったことはないが、酒だけは止められなかったのである。

一昨年までは、ほとんど毎日のように酒を飲み続けてきたが、一昨年の8月にジンマシンが出てからは12月末までピタリと止めて、以来極端に飲む日数が少なくなったのである(飲む時には相変わらず大量に飲んでしまうが)。

どうやらアルコール依存症ではなかったようだ。

酒は百薬の長、少しは飲んだ方が、まったく飲まないよりも身体に良いと言うから・・・。


■2008-02-23-Saturday まちづくりには柔軟な発想を!

2006年2月4日(土)十勝毎日新聞掲載

三年程前の「帯広空港の利活用を考える」会議での話。国際チャーター便の話題になったので「イチローが大リーグのシアトルマリナーズで大活躍しているからシアトルに直行便を飛ばしてはどうか」と提案した。すると関係者が「積め込める燃料の問題で距離的に米国本土までは飛ばせない。だから距離の近いハワイやオーストラリアのシドニーにしている」と言うのである。

私は「帯広からならシアトルとハワイは距離的にさほど変わらないのではないかと思う。何度か成田からシアトルに行っているが行きの所要時間は八時間程度であった。帯広は成田よりも北東に位置しているのだからシアトルに行くなら成田からよりも一時間程度は早く到着するのではないかと思う。むしろ距離的にはシドニーの方がシアトルよりも遠いのでは?」と言ったのだが誰からも相手にされなかった。

後で確認したら成田—シアトル間は行きが八時間三五分で帰りは一〇時間二〇分、(地球上の東西の移動は自転の気流の影響で行きと帰りの時間が違う)ホノルル間は六時間三五分と八時間五五分、シドニーは九時間三〇分と九時間四五分であった。

成田からでも行きだけの時間でみればシアトルの方がシドニーよりも一時間ほども近いのである。

この会議の出席者はたぶん地図の視点でしか地球を捉えていないのだろう。地球は丸いのである。球体を平面に直すのだから地図はゆがんでいるはずだ。しかも地球は自転の影響で、洋梨型をしており(自分の目で確認したわけではないが・・・)極の近くは細く、赤道付近は膨らんでいるというから、きっと帯広—シアトル間と帯広—ホノルル間の距離は成田からより一時間ほどは近づくと思うし、逆に南半球のシドニーへは一時間ほども遠くなってしまう。

実際にホノルルから千歳への飛行機は帯広市の上空を飛行しているから、帯広からの乗客なら「ここで降ろしてくれぇー」と言いたくなるだろう。

シアトル便を就航したら上手くいくかどうかというのは別の次元の話である。初めからダメだと決め付けてしまって検討すらもしてみない姿勢に問題があると思うのである。

立地など場所の特性をもっと考慮すべきだと思うのだが・・・

この種の会議では、可能性を検討することをしないので疲労感しか残らない、結局はこの組織を離脱してしまった。

「まちづくり」にはもっと柔軟に視点を変える「マジック的思考法」が必要なのだと考える。


■2008-02-24-Sunday 会議と言霊(ことだま)

2006年2月11日(土)十勝毎日新聞掲載

今から八年前の一九九八年四月に当時の十勝環境ラボラトリー(現:十勝場所と環境ラボラトリー)の都市構想プロジェクトが「帯広中心市街地活性化事業TMO提案書」をまとめて、市役所と商工会議所に提案した。

その内容をかいつまんで書くと、「場所の個性に合った、長期的な視点に立ち、公共交通体系を含めた、コンパクトシティを創りましょう」と言うものである。西2条通りの九、十丁目と藤丸前の郵便局と広小路の東西の街区を十字型に車をシャットアウトした歩行者天国にしてはどうかというプラン他を提案したのである。当時はまったく相手にされなかったが、最近同じ様なプランが浮上してきた。

ようやく時代が私たちの方に近づいて来たのだろうと思う。郊外に拡散していくまちづくりは人口が増えていた時には必然であった。しかし、日本は去年から人口減少が始まったのである。実際に人口が減ったことによってこれまでと同じ論理では通用しないことにようやく気が付き出したのであろう。だが、人口が減ることは統計上(2007年から減少が始まると言われていたが2年早く現実化した)は判っていた筈である。

実際に減り始めてから慌てるから対策が遅くなる。なぜ事前に対応しないのであろうか?それには井沢元彦ではないがまちづくりにも「言霊(ことだま)」が関係している様に感じるのである。ある会議で「帯広市の計画では二十一世紀初頭の帯広市の人口を二十万人と想定していたが、これからは人口が減る前提のまちづくりを提案していかなければ、計画と現実との乖離がより大きくなってしまって肝心の計画が無意味なものになってしまうのでは」と発言したのだが、「人口が減るなんて縁起でもないことを言ってはいけない。減るかどうかは確定していないし、ひょっとすると増えるかもしれないではないか。未来の予測なんて無意味だ」という意見が出て、結局「そうだ増やす努力をすれば増えるかもしれないではないか」という意見になってしまった。

帯広市の人口は二〇〇一年をピークにして減少が始まり、〇四年の自衛隊の旅団化による縮小もあって急激に減ったのだが、発言した人が増やす努力をした形跡は見えない。

計画とはまちづくりを進めていく上での地図の様なものではないだろうか。自分が今立っている現在地が判らなければ進むべき正しい方向も判らないではないか。その現在地を「言霊」で不明にしてしまうから折角作った計画が無意味になってしまう。

こんな会議はそろそろ終わりにした方が良いと感じる。

注釈:「言霊」言葉に宿っている不思議な霊威。古代から言葉にして発するとその力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられ、不吉なことは口にしてはいけないという信仰になった。


■2008-02-25-Monday 経験と信用

2006年2月18日(土)十勝毎日新聞掲載

かれこれ二十年以上も前の話である。肉牛の牧場を経営している高校の時の同級生から「牛の値段が高くて売れ行きが悪い。何か良い方法はないか?」との相談があった。何故、値段が高いのか理由を聞くと、「十勝で生産された高級肉牛は、一旦東京等に送って屠殺し、使用する必要な肉の部位だけを購入して十勝に逆に送り返してもらうから、往復の流通コストなどが掛かってしまい高くなってしまう」とのことだった。つまり、十勝で生産しているのに十勝では牛一頭分の肉を効率的に売りさばけないから、送料を往復分払っても必要な部位のみを購入した方が無駄がなくなり結局一軒単位としては安くなる仕組みなのだということだった。

「それなら例えば小さめのビルを一軒丸ごと借りて、異なる部位を使う牛肉料理の店を数種類集めて牛のビルをやってはどうか?」と提案した。まず牛一頭を共同購入で安く買い地元で屠殺し各部位に分ける、ステーキ屋・すき焼き屋・しゃぶしゃぶ屋・焼肉屋・牛丼屋・ハンバーグ屋・ハンバーガー屋・中華料理屋など異なる部位を必要とする店を入れて極力捨てる部位を少なくし、最後に余ったところは犬の餌として販売する。というプランである。牛一頭分を安定的に一括で買ってくれて、流通コストも掛からなければひょっとすると半額以下になるかもしれないというのだ。

これは面白いかもしれないと思い、早速身近な経営者達に相談したが、全く相手にしてくれなかった。結局、実績や信用の無い二十代の若造の思い付きなど聞く耳も持たないということなのだろう。ところが、昨年、この考え方と全く同じ発想のビルを始めるというグループが首都圏で現れたという報道を聞いた。

実に惜しかったなぁと感じた!二十年前に十勝で第一号として始めていれば、地域の実情を反映した面白いビジネスモデルになっていたものを・・・

問題は、若者の斬新なアイデアを受け止める土壌というか、広い度量が不足しているのでないか。良いアイデアだからといって必ずしもそれだけで成功するわけではない。が、しかし、地域をあげて優良なアイデアを発掘し、その実現の手助けをする機関や組織が存在しても良いのではないかと考える。新鮮さと老獪さ、大胆さと慎重さとの融合をはかるのだ。

若者は、面白い発想をするが、社会経験が少ないから、視野が狭くなりがちだ。その分を社会経験豊富な人達がフォローしてあげるのである。

それが地域をあげて起業家を育てることにつながるのではないかとも考えている。


■2008-02-26-Tuesday 全国一律と地域の実情

2006年2月25日(土)十勝毎日新聞掲載

農家の人たちと話をしていて面白い事を聞いた。ある日、農作業の移動中に農道でコンバインを走らせていたら警察官に止められてしまって大変なドタバタ劇になったのだそうな。

道路交通法上コンバインは一般道を走ってはいけないことになっているのだが、十勝の場合は一戸あたりの耕地面積の平均が35haもあり、北海道平均の17haの倍以上もあるのだから、必然的に自分の畑の中を公道が通っているというような他の場所ではとても想像できないような事態になる。つまり農作業中に自分の畑から畑の移動の際には一般道を通らなければ辿り着けない訳である。

道路交通法を厳格に遵守するとしたら、コンバインを一々分解してからトラックに載せてまた組み立てるという作業をしなければならないのだそうだ。これでは手間も費用もバカにならない。

北海道は広い!特に十勝は広い!なにせ、十勝だけでも東京都と千葉県と神奈川県を合計した面積(9,751k㎡)よりもまだ広い10,831k㎡もの面積があるのだから、全国一律の法律で縛ろうとするのはどだい無理な話だ。

道路ついでにいえば、一般道の制限速度も最高時速60kmという規制は北海道向けではないと感じる。郊外の道路なら80kmくらいでも全然問題ないと思うのだが。

一般道を80kmで走らせたら、一車線しかない北海道の高速道路の最高時速と同じになってしまって高速道路は単なる「自動車専用道路」でしかなくなる。そうなると有料の高速道路は益々使われなくなってしまうなぁ・・・。

でも、これからは高齢者のドライバーが増えるのだから、高速道路を造るよりも、一般道を拡幅して、低速で走る車線を造った方が費用も安くて済むし、利用しやすくなるようにも思うのだが・・・。

十勝はこんなに広大な面積であるのに、公共交通機関が全くと言ってよいくらい整備されていないから、親は子供の塾や習い事の為に専属の運転手として送り迎えをしなくてはならない。中学生くらいまでならまだしも、高校生になってまでも送迎しなくてはならないとは大変なことである。

解決策として北海道だけ自動車の運転免許証を15歳で取得できるようにしたらどうかという冗談話になったが、地域の実情に合わせた法律というものが必要な時代が来るような気がする。

法律論はさておいても、可能か、不可能かというのはそう簡単に結論づけるものではないと思う。現在常識と言われているものも最初は皆非常識であったのだから。


■2008-02-27-Wednesday 十勝の観光

2006年3月4日(土)十勝毎日新聞掲載

「十勝の観光は遅れている。」「十勝には見るものは何も無い。」とはよく聞く話だがはたして本当だろうか?

元々、旅行好きだからこれまでにも色々な場所に行ったし、国から「観光カリスマ」なるものに任命されたお陰で講演の依頼が増え、全国各地の観光の名所といわれる場所を現地の方の詳しいガイド付きでご案内いただけるから、一般の旅行者よりは多く見て歩いているつもりだ。

そうした場所と比較すると「十勝の観光の可能性は無限大」だと真面目に思っている。

十勝は「20世紀観光」の恩恵に与らなかった分、マイナスイメージが付いていないことが逆に有利にはたらくと思うのである。言わば一周遅れの先頭ランナーなのだ。

20世紀の観光を象徴していたのは良くも悪くも「団体旅行」であった。がむしゃらに働いて多少のゆとりが生まれたときに集団で旅行に出掛けたのである。まだ、海外旅行が高嶺の花であった頃は全国の温泉地はこの団体さんを受け入れることで発展した。ホテルは大型化し、一旦ホテルに入った客は一歩たりとも外に出してはいけないと、ホテルの中にあらゆる施設を完備して「囲い込み」をしたが、その為に温泉街は寂れてしまった。海外旅行がお手軽になってからも、日本人は相変わらず団体で行動していた。

しかし、21世紀になって圧倒的に情報量が増えると、急に「個人旅行」に変わったのである。「団体」から「個人」への変化は、業者にしてみれば要望単位が「一」から「人の数」分に増えたということである。個人の要望は多様だから、泊食分離(素泊まりOK)や交泊分離(レンタカー)などが主流になってきた。

旅行先に海外を選ぶか十勝を選ぶかということは、払うサイフは一つなのだから世界を相手に競争するということと同義語になるのである。

海外に負けるのは国内の航空運賃が高過ぎるからと言い訳しているが、しかし東京からの二泊三日のスキーツアー料金は29800円だ。この料金には往復の飛行機代からホテル代までが含まれている。嘆いているだけでは解決しない。これまでの常識と言われていたことを疑ってみよう。必ず方法はあるはずだ。

例えば十勝が一丸となってまとまり、航空会社に飛行機の席を通年でまとめて購入するから安くしろという様な交渉などは出来ないものなのだろうか?

観光客用に造った施設には地元の客は行かないものだが、逆に地元客が溢れているところには観光客も行きたがる。北の屋台が好例だ。

観光も智恵と情報発信力の地域間競争時代に突入したのである。


■2008-02-28-Thursday 十勝の農業に新しい発想を

2006年3月11日(土)十勝毎日新聞掲載

昨年(2005年)春に、日本を代表する著名な企業の経営者の講演を聞く機会があった。その講演の中の一部を少々乱暴に要約すると「日本の農業は補助金で成り立っており、国際競争力が無い。日本は非効率的な農水産業は捨てて、もっと情報産業や工業に力を入れることでお金を稼いで、貧しい国から農水産物を買えば良いのだ。」という趣旨の発言をされていた。合理的な考え方をすると言われている経営者にはこの様な考え方の人が多いように見受けられるが、でも本当にこれで良いのだろうか?

人間は食べなければ生きていけない。外交の下手くそな日本の政府がいざとなった時に充分な食料の確保が出来るとは端から信じてはいない。農業を斜陽産業として一派一からげに論じているだけで、十勝の農業の実体をまったく理解していないのだろうと思う。

最近「地産地消」とよく言うが、実は日本全国どこの産地でも、本当に良い商品で金になるものは大消費地に送られてしまい。地元の人間が食べられないというヘンテコリンな現象が起きている。生産地ではない大都会が金と人口にあかせて良い物を集めているから、東京の方が産地よりも良い物を売っていることになる。そうして一旦集めたものを産地に戻すから、今度は時間も費用も掛かって産地の方が高くてまずいという図式になっているのだ。

収穫した以上は金にしたいというのは生産者の人情だが、これをずっと続けていくと生産地は永遠に搾取される一方で、やがて行き着く先には、金で外国から買えば良いと前述のようになってしまえば生産地の生活は崩壊する。これは何ともおかしなジレンマだ。

地球環境問題との関係も考慮する必要がある。例え安くても遠隔地の物を買えば、輸送する際に二酸化炭素の排出量が増えることになる。個々人が直接、物に支払う値段というコストは安くなっても、その分地球温暖化防止の為に使うコストが高くなってしまえば、税金などが高くなって、結局は個々人の負担が増えてしまう。

十勝で採れた農水産物をただ「十勝ブランド」として大消費地に送っているだけではこの問題は解決しない。むしろ、送るのではなく十勝に来て場所や旬を感じながら食べてもらわなければならない。かといって、十勝の農家は大量に生産しているのだから今のままでは地元で食べるだけではとても賄いきれない。農業と商業と観光が融合し、生産品目や生産方法も含めて発想のコペルニクス的転回が必要な時期が来ているのだとは思うが、まだまだ良いアイデアは出てこない。


■2008-02-29-Friday 帯広のまちづくり組織

2006年3月18日(土)十勝毎日新聞掲載「共同の事務所、局員を」

帯広は「三人寄れば一つの団体が出来る」と言われるくらい組織を作るのが好きな地域らしい。しかも、同じ人間が幾つもの組織に重複して加入する傾向が見られるという。一人で一〇以上の組織に入っている人もいる。

組織の寿命はおおむね一〇年位と言われており、中心で活動している人間が五〇歳代になると急激にくたびれてしまい、パワーを失ってやがて解散してしまうようだ。

「継続は力なり」とはよく言う言葉だがなかなか組織の中では後継者が育たないから継続したくてもできなくなってしまうのだ。この「育たない」という表現は実は間違っているのかもしれない。若い人たちは、前述したように次々と自分達で新しい組織を作って活動を始めるからだ。しがらみや制約のある組織に入って先輩の顔色を窺いながら活動するよりも自分たちだけで自由にできる組織を作ったほうが手っ取り早いということなのだろう。継続期間は短くなるが、その分活動のエネルギーは高いといえるのかもしれない。

これまでの成長時代にはこれでも良かったかもしれないが、安定時代に入った今日ではこの方式だとノウハウの蓄積がなされずに、活動が停滞(成長しない)してしまうのではなかろうかと危惧している。

もう一つの特徴は、事務局を担う人達が自分の仕事をしながらボランティアで兼務していることだ。当然ながら事務局の人の負担が大きくなってしまう。組織の会員数が二〇名を越えると連絡事務だけでも煩雑になり、活動自体が疎かになってしまう。しかし、人件費や事務所費を払えるほどには、会員から会費を徴収できないから誰かが犠牲になってボランティアで事務局を務めなければならないのである。内容の濃い活動をしようと思ったら事務局の専任化と事務所は必要な条件だと考える。

幸いにも私達の組織である「十勝場所と環境ラボラトリー」は事務所と二人の専任事務局員を持つことができたから「北の屋台」のような活動ができたのだとも思っている。

この「十勝場所と環境ラボラトリー」も一九九六年からの活動だから、今年で一〇年目を迎えることになるが、ご多分に漏れず後継者が育っていない。

組織の中で後継者が育たないなら、別な仕組みを考え出さなくてはならないだろう。いくつかの組織が共同で事務所と事務局員を抱えるという方法はどうだろうか?同じ場所に複数の組織の人達が頻繁に出入りして気心が知れ合えば、その内に一緒に協働しないか等ということになってくれたら面白いと思う。組織の合従連衡が起これば結果的に後継者が生まれることになるのではと期待している。