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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-03-01-Saturday 十勝スタンダードを創ろう

2006年3月25日(土)十勝毎日新聞掲載

先日、牛乳1000tを廃棄するというとてもショッキングなニュースが流れた。豆乳やお茶などに押されて牛乳の消費量が減っているからだという。これとは別のもう一つショキングな話を聞かされた。普段コーヒーに入れている「コーヒーフレッシュ」には牛乳は一滴も使われていないというのである。植物油に水を混ぜ、添加物で白濁させて乳製品らしく見せかけているだけの代物だというのだ。はたして何人の消費者がこの事実を知っているのだろうか?私もこの話を聞くまでは知らなかった。知っていながら安くて日持ちするから良とする人は置いておいても、私のように乳製品だと思い込んで使用している人たちだって多いはずだ。食品に対する情報の出し方に問題があると感じる。また酪農家も何故「アレはまがい物だ」と声高に言わないのだろう。今の日本人は相当量のコーヒーを飲んでいるのだから、コーヒーにいれるミルクに本物を使えば1000tぐらいは使うんじゃなかろうか?生産者が使い方にも積極的に情報発信することが必要だと考える。

この問題には十勝の酪農家の生産量の増加という視点もあるようだ。一戸あたりの大きさが他の地域とは比較にならないほど大規模だからだという。やむをえず離農していく農家の土地を力のある農家が買って、どんどんと一戸あたりの面積が増えていく。しかし、それもそろそろ限界に近づいていると感じる。小中学校の廃校が一番多いのが道東地域だそうである。大規模農家が増えるほどその地域の人口密度が薄くなりコミュニティが崩壊していく図式になっている。

この問題は現状の「市町村合併」では解決はできないと思う。十勝の19市町村をもっと大胆な発想で再構成し直して、5つ程度の街に住民を集約させる「究極のコンパクトシティ」構想が必要ではないだろうか?都市機能を集中させて、都心部以外は農地と自然環境を徹底的に守る。都市と郊外のメリハリをもっと明確にするのである。学校だって生徒が増えれば成立するし、移動手段の無い子供をなにも遠くの学校に通わせることはないのだ。大人が運転して農地に通えば良いのである。都心人口が増えれば商業も成立する。もしこのままのジリ貧状態が進めば、札幌など大都市に吸収されて、やがて十勝から人が居なくなってしまうかもしれない。

北海道の政策を考える際に、日本の基準で発想してはかえって地域の実情に合わなくなると思う。十勝スタンダードを創って実践し、そしてそれを誇りに思って暮らし、他の地域の人たちから羨ましく感じてもらうような場所にすることが必要なのではなかろうか。

以上、永らくご愛読いただいたこの「十勝の場所の意志に学ぶ」のコーナーも今回が最終回となった。1997年5月からの掲載開始で、これまでの9年間に429回の連載を続け、寄稿していただいた方は延べ人数にして114人にもなった。近々この429回分をまとめて一冊の本にして出版するので乞うご期待を!それではさようなら!


■2008-03-02-Sunday 道新、朝の食卓1

北海道新聞2003年1月17日掲載「骨抜き」

「骨が無い魚を売っているよ」「ギョッ!」などと駄じゃれを言っている場合ではない。私にとってショッキングな特集がテレビで放映されていた。

最初は、たぶん骨を溶かすあやしげな薬品にでもつけるのだろう。そうであれば食品の安全性に神経質になった日本では誰も買わないだろうなと考えながら見ていた。

すると中国やタイなどの工場で、何と人の手によってピンセットで骨を一本一本抜いているではないか。

日本人はいつから皆お殿様のようになってしまったのだ。

あちらの国の賃金が安いからと思いついたものなのだろうが、これを日本の恥だとは考えなかったのだろうか。買う方にも問題が多いが、こんなものを作って売る方が罪は重いと思う。

いったいどこまで人間を堕落させ「骨抜き」にすれば気が済むというのだろうか。売れれば良いというものではないだろう。商売にも倫理というものがあるはずだ。

赤ちゃんでもあるまいし、他人に骨を取ってもらわなくては魚も食べられない「骨なし」人間ばかりになってしまう。

日本には箸という素晴らしい文化があるのだからせめて魚の骨くらい自分で取って、少しは「気骨のある」人間になろうよ。


■2008-03-03-Monday 道新、朝の食卓2

北海道新聞2003年2月23日掲載「バカラボ」

人の為と書いて「偽り」と読む。

ある講演会で聞いてなるほどと感心した言葉である。

私たちの活動も人のためにしているのではない。自分自身の存在意義の確認と楽しみのためにしているのである。

何事も楽しみながら遊んでいるせいか変わった人間が多く集まって来る。グループ名は「十勝場所と環境ラボラトリー」略称BakaLabo。ラボラトリーは、英語で実験室を指す。このため、「ばか者の実験室」にひっかけて、バカラボとも言われているが・・・。

その変な仲間たちが冬期間は雪に閉ざされて使用されていない景観抜群の畑を借りてビニールハウスの高級フランス料理のレストランを作った。一流のシェフを仲間に引き入れてしまったので味も飛び切りにうまい。

ビニールハウスとフレンチ、この落差が面白い。

季節営業だが厨房設備も本格的だしバイオトイレも備えた。半年間使われない畑について、自分たちが楽しむことで新たな活用法が探れないかという試みなのだ。

心に余裕を持って遊ぶ時には遊ぶ。ここまで徹底してやると何かが起こる。

心を亡くすと書いて「忙しい」と読む。

今、忙しいと感じてる人は徹底的に遊んでみよう。


■2008-03-04-Tuesday 道新、朝の食卓4

北海道新聞2003年4月25日掲載「遺伝子」

風呂上りに鏡を見て驚いた。

そこには、十一年前に他界した父の姿が映っていたのだ。と言ってもホラー映画の話をしようというわけではない。

鏡の中には腹の突き出た醜い姿の中年おやじが立っていた。どこかで見た人だなと思ったら、父にそっくりになった私だった。

いつの間にこんなに似てしまったのだろう。

母に尋ねると、父も若い時はとってもスマートだったが、四十歳ころから太り始めたとのこと。「血は争えないねぇ」と言う。

ウヌヌ、遺伝子や恐るべし。

子供たちに「いずれはおまえたちだってお父さんのように太るかもしれないんだぞ」と醜い腹をさすりながら脅すと、冷たい視線が返ってきた。その瞬間父親の威厳は吹き飛んだ。

年齢を重ねるたびに、似たくないところばかり似てきてしまう・・・。

先ごろ、ヒトの遺伝子情報の解読がすべて終わったというニュースが流れた。

「007」の新作映画のように遺伝子を操作して整形するようにでもなったら、それこそホラーの世界になるのだろうなぁ・・・。


■2008-03-05-Wednesday 道新、朝の食卓5

北海道新聞2003年5月31日掲載 「マリリン命」

マリリン・モンローが大好きだ。

物心ついたころからの、筋金入りである。父がどこに行ったか分からない時に急な用事ができると、父を探しに行くのが私の役目だった。映画好きの父は、たいてい映画館にいた。

常連だった父が入館しているかどうかは、もぎりのおばちゃんに聞けば分かるのだ。上映中に館内放送はできないから、毎度、館内に入って連れ出すことになる。

当時の映画館はいつも立ち見客であふれていた。タバコの煙がモウモウとする中、人をかき分け一番前に出て、父を探し出すのである。

ある時、スカートが地下鉄からの風でまくれるシーンに出くわした。ショックで目がスクリーンにくぎ付けになってしまった。この時、すでに彼女はこの世の人ではなかったのだが・・・。

後年、テレビで「七年目の浮気」を見て、「あっ、あの時のお姉さんだ」とドキドキしながら名前を調べた。

以来、写真や絵や人形など彼女を描いた物を収集し、部屋はあふれかえっている。

もし彼女が生きていたら、今ごろは七十七歳のおばあちゃんになっているというのに、私のマリリン熱はまったく冷めない。


■2008-03-06-Thursday 時間

エ〜ッ!!今年ももう二ヶ月が過ぎてしまったの!何だか年々時間が過ぎるスピードが速くなっているような気がしてしょうがない。

小学生の頃には、授業時間がとてつもなく長く感じられたのに、今は毎日毎日がアッと言う間に過ぎ去ってしまう。

ひょっとしてミヒャエル・エンデの小説「モモ」に出てくる時間泥棒の「灰色の男たち」が近くに潜んでいて、私の時間を盗んでいるのじゃぁないだろうか・・・

先週の26・27・28日と四国の徳島市から呼ばれて講演に行き、今週は2・3・4日と東京で「地域再生実践フォーラム」のパネリストとして参加して来た。

「スロー」という冠をつけた言葉が大流行りだが、推奨している自分がちっともスローな生活を送れていない。これは大いなる矛盾である・・・

「一日は誰にとっても24時間しかない。だから時間だけは全ての人に平等だ」と言うがこれは大間違いなのではないかと思う。現代人は便利さやスピードをお金で買って、昔に比べて何倍もの容量の時間を使っているからだ。

つまりお金で時間を買って稼いでいるようなものだ。

私が生まれた昭和三十年代と現代とでは時間の進むスピードというよりも質が明らかに変化している。同じ一日でもギュゥ〜ッと凝縮された一日になっている。

現代の老人が昔の人たちと比べても皆若いのは、ある日突然、玉手箱が開いて、全世界の人が浦島太郎のように一瞬のうちに老人になってしまうからなのではないかと心配している。


■2008-03-07-Friday 我が妻

「お母さんは・・・」。妻が私に話しかけるときにも自分のことをお母さんと表現するようになってから久しい。

私と子供達とを同列に扱うから「おまえは俺の母親じゃない!」と文句を言うと「ハイハイ」と軽く受け流す。

妻とは小学校からの同級生だ。早生まれで当時はクラス一背が低かった私よりも頭一つ大きかった妻にとっては、小さくていつもチョロチョロしていた時のイメージが未だに強く残っているらしく「あなたも成長(何がだろう?)したわよねぇー」と感慨を込めて小学生の時の話をし始める。優等生だった妻に昔話をされると私は頭が上がらなくなってしまうのだ。

同じ時代背景を過ごしてきた同級生結婚はきっと会話も合って友達同士のような夫婦になるだろうなと期待して「もらってやった(?)」のに予想がはずれて今ではすっかり私の母親気分でいるようだ。

妻という字の女の部分が母になったら毒という字になる。

我が妻はマイ・マザー(私の母)ではないが、ちょっぴり毒のある我儘(わがママ)な女でもあるのだ。

「いつも貴方ばかり人生を楽しんでいて良いわよね〜」が口癖になっているのである。

「一体何時まで寝てるの、お母さん今日は忙しいんだから早く起きなさい!」と妻が大きな声で叫ぶ、すると私と息子が一緒に「ハァーイ」・・・。

やはり母は強しか


■2008-03-08-Saturday 道新、朝の食卓6

北海道新聞2003年7月4日掲載「不健康自慢」

「生活習慣病予防検診」なるものを受けてきた。

私の年代が集まると、近ごろは、やれ血圧が高いだの、通風になっただの、糖尿だのと、自分はこんなに不健康なんだと自慢(?)し合っているようになる。

忙しさもあって、また「病気です」と通告されるのも怖くて三年ほど検診をサボっていたが、自分の不健康さを具体的に「γ—GTP値」や「尿酸値」などの数字で示さないと、今や仲間の会話に参加できなくなる。だから、久しぶりに受診してみる気になったのだ。

以前に比べると飲み易くはなったものの、バリウムの胃検診はとてもつらい。特に発泡剤を飲んで、ゲップを我慢しながら上や下へとひっ繰り返されるのはかなわない。

あれでは健康な人も具合が悪くなってしまうのではないか。

無病息災というが、本当は一病息災の方が当たっていると感じる。

私の父はスタミナ抜群で病気一つしたことがない人だったが、病気にかかってしまったら、あっけなく逝ってしまった。

身体に自信があるからと無理するよりも、身体をいたわりながら、のんびり暮らすことが長生きの秘けつかもしれないなぁ・・・。


■2008-03-09-Sunday 道新、朝の食卓7

北海道新聞2003年8月5日掲載「行列」

行列に並ぶのが嫌いだ。

都会で暮らす人にとっては並ぶことが日常茶飯事で、さほど苦にも感じないのだろうが、私はどんなにうまいと評判の飲食店であっても、並んでまで食べたいとは思わない。

このことは十勝に住む人の共通項だとずっと思っていた。

ところが先般、帯広駅前の市の施設の駐車場前に、ズラリと十台ほどの車が行列している光景を目にした。

自動改札の機械には「満車」のマークが点滅し、駐車中の車が出庫しない限り遮断機は上がらない。しかも、それを知らずに並んでいるようには見えなかった。二十メートルほど離れたところには無料の駐車場があるのに、いつ空くとも知れない場所で辛抱強く待ち続けているのだ。

そういえば十勝人気質の一つに、「歩かない」というのがあったなと思い出した。

車の中なら、ラジオでも聞きながら何時間でも待てるということなのだろう。

雨でも降っているならいざ知らず。晴れた日に、たかだか二十メートルすらも歩きたくないのだろうか?車と自分の足で並ぶのでは意味が大きく異なる。

十勝の人よ!少しは自分の足で歩こうよ!


■2008-03-10-Monday 道新、朝の食卓8

北海道新聞2003年9月9日掲載「大根葉」

最後の晩餐に何を食べたいか?そう聞かれたら、迷わず「大根葉の漬物と炊き立ての御飯」と答える。

それほどの大好物なのだが、どこの店にも「大根葉の漬物」など売っていない。

だから、毎年秋になると知り合いの農家から大根の葉だけを分けてもらって自分で漬けているのである。食べたければ自分で作るしかないのだ。

この話をすると、「大根の葉っぱなんて食べられるの?」と聞かれる。ほとんどの人が食べずに捨てていると言う。なんとモッタイナイことか。

わが家でも漬物を大量に漬けていた時期があった。大根も、身はタクアンやかぼちゃ漬けなどにするが、葉は別の樽で塩漬けにしておくのだ。

大根葉は油揚げと一緒に炒めたり、かす汁の具にしたりしてもおいしいのだが、私は細かく切って味の素と醤油をかけただけの食べ方が、ことのほか好きだ。これさえあれば何膳でも御飯を食べることができる。納豆に混ぜるのも絶品だ。

「流通の邪魔になるから」と、ただのゴミとして捨ててしまっているモッタイナイものが、他にもたくさんあるのだろうなぁ・・・。

それらを活用できないかなと真剣に考えている、今日このごろなのである。


■2008-03-11-Tuesday 道新、朝の食卓9

北海道新聞2003年10月12日掲載「のんびり」

最近努めて歩くようにしている。

運動不足を解消して、だらしなく飛び出たおなかを少しでも引っ込めるためである。

最初は楽をして自転車を使おうかと考えたが、出勤時のスーツ姿とマウンテンバイクはどうもしっくりこないし、第一、かばんの置き場所がない。

朝夕二回の犬の散歩と出退社の往復、それにエレベーターもなるべく使わないようにしている。試しに母の歩数計を借りて計測してみたら、一日一万歩以上歩いていた。

普段自動車で通る道も歩いてみると、見える景色がまるで違うことが分かった。車のスピードと歩くスピードでは視点も異なるし、なにより、かかる時間が異なる。じっくり見ると、常に新しい発見があることにも驚いた。

現代人は速く移動することに執着し過ぎているのではなかろうか。移動時間を短縮して浮いた分のんびりできるかというと、その分仕事が増えてかえって忙しくなっている。

つまり効率化は余裕を生み出すのではなく、逆に余裕を奪い、身体や精神を疲れさせイライラさせてしまう。時間を節約すればするほど、人間らしさを失っていくのだ。

もっとのんびりと時間を使い、人間らしさを取り戻そうではないか。

さぁて、今日も歩くぞ。


■2008-03-12-Wednesday 道新、朝の食卓10

北海道新聞2003年11月20日掲載「場所の力」

十月末に屋久島を訪ねた。着いた途端、表現できない心地よさを感じた。島全体が良い気で満たされているようだった。

二日間別々の民宿に泊まり、高級リゾートホテルも二軒見学させてもらった。ホテルの建物はとても立派。でも屋久島に存在する必然性がないように感じた。

初日の民宿は、すべて自分の田畑で有機農法で育てた食材を用いた健康料理だったし、二日目の民宿は、江戸時代の古建築をオーナー自らが解体移築した建物で、味わいがあった。

両方の民宿とも、部屋にテレビはない。必要がないからだ。その代わり、楽しい出会いがあり、語らいがあふれている。

夜十時に波打ち際の露天風呂に入った。人工の光がほとんど無く、新月だったから満天の星。数が多すぎて星座が分からないほどだ。一時間ほどボーと星空を眺めていたが、飽きることがなかった。流れ星を八個見つけてうれしくなり。悠久の時の流れに浸りきっていたのだ。

ガイドさんが山中で清水をくみ、コーヒーを入れてくれた。「もののけ姫」のモデルになった場所で、ひきたてのコーヒー。格別のもてなしである。

立派な施設や過剰な接待は不要なのだ。その場所が持っている力を認識し、うまく使えば十分満足できる。それを屋久島で再確認した。


■2008-03-13-Thursday 道新、朝の食卓11

北海道新聞2003年12月25日掲載「神の島」

最近、南の島と縁が深い。ここ一ヶ月の間に三回、沖縄方面を訪ねる機会があった。

沖縄本島南部の知念村では斎場御嶽(せいふぁうたき)という聖なる場所に案内された。二つの巨石が寄り添う三角形のトンネルを抜け、遥拝所といわれる場所から、「神の島」と呼ばれる久高島を拝んだ。

昔は男子禁制の聖地だったとのこと。トンネルの前だけ風が吹き抜けて行く。島は遥拝所の東側にあり、そこから太陽が昇って来るため、「国始め」の伝説がある。

久高島で生活している人もいるが、家を建てる時に住宅ローンが組めないのだとガイドが笑って説明してくれた。土地は島独特の共同体的な所有制度を維持し、個人の所有権が存在しないから、金融機関は担保が取れないのだそうだ。この島は神様のものであり、土地は人間が使わせていただいているだけで、所有してはいけない−。そんな考えが今も息づいているのだろう。日本にこんな場所があるとは驚きである。

何でもコレクションする癖があり、所有欲の塊のような自分がなんだか恥ずかしい。

この次に沖縄を訪れる時は、ぜひとも久高島に渡ってみたい。人間の所有欲が経済を動かしているのだとすると、この島はそれからも外れた場所であり、まさしく聖地なのだから。


■2008-03-14-Friday 道新、朝の食卓12

北海道新聞2004年2月12日掲載「安心院」

「農村民泊」で有名な大分県の安心院(あじむ)町を訪ねた。

安心院では、自分たちが暮らす町の良さを都会の人にも知ってもらい、それによって地域を元気にしようと、農家の有志三十人ほどが集まり、一九九六年に「グリーンツーリズム研究会」を発足させた。旅館業法などの法的規制の壁を「会員制」にする妙案を使って乗り越えたという。帯広の「北の屋台」にも通じるものがあり、ぜひ訪ねてみたいと思っていたのだ。

グリーンツーリズム研究会で中心的な役割をしている農家に泊まった。夕食は囲炉裏を囲み、農家の人と一緒に同じものを食べる。

「無理せず気軽に」の自然体がモットーで、民泊を手掛けるに当たっても家の改造や設備投資などは一切しなかったという。あるがままの、普段の生活を体験してもらうのである。

自分の田畑で採れた自慢の米や野菜、手作りの豆腐やこんにゃくはとてもおいしく、時間も忘れて話し込んだ。

安心院では、農村民泊を都市農村交流事業と位置づけ、宿泊代ではなく体験料を謝礼として受け取ることにした。

実績を目の当たりにした県は二〇〇二年に規制を緩和し、ついに簡易宿所として認可したのである。民が官を動かした、まさに稀有な事例だ。

土地に誇りと愛着を持ち、あきらめずに行動すれば道は拓けるのだ。


■2008-03-15-Saturday 道新、朝の食卓13

北海道新聞2004年3月24日掲載「活字中毒」

まいったなぁ。帯広の中心街から本屋さんが無くなってしまった。

携帯電話の流行で、皆がそちらにお金をかけるようになり、活字離れが一段と激しくなったことも一因らしい。

根っからのアナログ人間で活字中毒の私は、常に何かの印刷物を読んでいないと落ち着かないのだ。子供が生まれてからは躾もあって、さすがに食事の時には読まなくなったが、いまだにトイレの中には新聞を持ち込んでいる。昼休みに本屋をのぞくのが日課だったのに、会社の近くに本屋さんが無くなったことで、イライラは募る一方なのだ。定期購読していた本はどうなるのだろうか?

買った本には愛着があり、捨てることもできない。困った性分だと思う。だから増える事はあっても減る事はなく、家も会社も本であふれかえっている。

先の十勝沖地震では、自宅の書庫に山積みしていた書籍が崩れた。今も足の踏み場ない状態だが、整理するには時間と覚悟が必要で、ずっと手付かずのままなのだ。

映画と原作を比べても、原作がはるかにおもしろい。しょせん、映画は他人(監督)が考えたイメージを見ているにすぎないからだ。

若い人も、もっと本を読んで創造力を鍛えようよ。活字中毒が増えたら、中心街に本屋さんが復活するかもしれないよ。


■2008-03-16-Sunday 道新、朝の食卓14

北海道新聞2004年4月30日掲載「空腹感」

「腹減ったぁ〜」よく口にする言葉だが、すぐに何かを食べられることが分かった上での甘えのセリフである。しかし先ごろ、生まれて初めて切実な空腹を感じた。豆乳とサプリメントだけで五日間を過ごす「プチ断食」に臨んだからだ。

今年は三月末まで一日も酒を抜く機会が無く、さすがに胃腸の調子が悪くなり、何を食べてもまずく感じるようになってしまった。そんな症状が出た時に一ヶ月間「断酒」したことはあるが、「断食」は初めての経験だ。胃腸の調子を整えるついでにダイエットも兼ねようという魂胆なのである。

初日と二日目の昼までは空腹感でとてもつらかったが、二日目の夜からはさほど苦に感じなくなった。もともと小食だったことに加えて、きっと下腹の脂肪の塊がラクダのコブと同じ役割をして、緊急時の栄養補給をし始めたのだろう・・・。

結局体重は三キロ減ったが、下腹の脂肪は無くならなかった。二十年間貯め込んだものをたった五日間で無くせるはずもないか。

しかし、断食による空腹感は「飽食の時代」にあって貴重な体験になった。皆さんも一度、飢餓の一歩手前を実感してみてはいかが。そして、あらためて今後の「食」について考えることをお勧めする。


■2008-03-17-Monday グァム島

24年振りにグァム島に行ってきた。

3月9日〜13日の4泊5日中、3日間で3ラウンドをプレーするゴルフ旅行であった。

ゴルフは嫌いではないが、かといって好きというほどのものでもない。でもゴルフを始めた当初(27〜32歳頃まで)は夢中になってやっていた時期があった。JCの先輩が、午前11時頃に私の会社に「12時に○○カントリーに来い」と電話して来るのだ。いつお誘いが来ても良いように自分の車のトランクにいつもゴルフバックと着替えが入っているのである。

帯広はゴルファーにとっては天国みたいな所だ。帯広近郊には9箇所のゴルフ場があり、帯広市内から一番近いゴルフ場までは15分程で着く。料金も安くて1ラウンド7000円以下でプレーが出来るのである。ハーフ(9ホール)で休憩を取らずにスルーで1ラウンド(18ホール)プレーするのが北海道ゴルフの慣習なので、混んでいなければプレー時間も3時間ほどで終えることが出来るのである。だから、11:30に会社を出て、12:00からプレーを開始すれば16:00頃には会社に戻れるのである。従業員にもゴルフに行くとは伝えずに何食わぬ顔して会社に戻って来るのだ。バブルの時代はおおらか(?)だったんだなぁ。この時期は年間に50日はプレーをしていたものだ。

1996年に「十勝環境ラボラトリー」を始めてから忙しくなり年間のプレー回数も10回程度になってしまったら、すぐに熱が冷めてしまった。

熱を入れてやっていた時も、海外でプレーしたのは2回だけ、それもオンシーズンの時だけであった。冬にはスキーがあるからゴルフを寒い時期にやる必要なんてなかったのである。しかし、スキーをやらなくなってからも久しい。運動不足ですっかりお腹が出っ張って、みっともない体形になってしまった。

「十勝場所と環境ラボラトリー」も2006年12月末日で終了したし、「北の屋台」も2007年3月末日で卒業したから少しは時間が出来た。今年から腹を引っ込める為にゴルフでも頑張るかと思っていたところにタイミング良くグァム島行きのお誘いがあったので行くことにしたのである。最近のゴルフ練習(練習嫌いで毎年最初に打ちっぱなしに一回行くだけ)のスタートは5月の連休明けだったのに・・・

行く前々日と前日の2日間だけ練習したのだが、案の定、8名中最下位の成績であった(でも、コースはとても面白かった)。

グァム島は私と妻が高校卒業以来4年振りに再会し、結婚するきっかけになった思い出の場所である。しかし24年前とはまるで変わってしまっていた。街中ブランドショップだらけなのだ。札幌の新千歳空港から直行便で4時間程度で着くのであるから便利ではあるが、ブランド物に興味が無い我が家にとっては無用の場所であると感じた。

機内で読む為に、中島らもの「ガダラの豚Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」を買って持って行った。長いがバラエティに飛んでいてとても面白い小説であった。


■2008-03-18-Tuesday 道新、朝の食卓15

北海道新聞2004年6月9日掲載「コレクション」

マジックが趣味で、かれこれ三十四年も続けている。

とても飽きっぽい性格なのにマジックだけは、いまだに飽きない。

学生時分には、プロマジシャンの「ジミー忍」師宅に毎日押し掛け、当時は珍しかったビデオを見ながら研究をしたものだ。将来はプロマジシャンになりたいと真剣に考えていた。

が、しかし、昨年帯広でマジックショーを催した時に、旧知のマジシャンから「あなたは今の職業について正解だったね」と言われた。どういう意味だろう?

私には何でも収集する癖があって、江戸時代から現代までの手品関係の本を集めている。しかも、師の遺言で「忍コレクション」が私のところに来たために、わが家では部屋一つがマジックの本で埋め尽くされている。いまだに整理できてないので、いったい何冊あるのか見当もつかない。

帯広市の図書館が新築されるのに合わせて寄贈しようとも考えたが、素人が見ても分かる類の本ではないし、たぶん、寄贈された方も困るだけだろう。

世のコレクションの多くは集めている人にとっては宝物だが、興味のない人にとってはただのゴミかもしれない。妻も「あなたが死んだら全部捨てるわよ!」と言っている。

どうやら私の方が先に逝く予定らしい?


■2008-03-19-Wednesday 十勝石

今朝(19日)佐賀県の辻安雄さんという方から自宅にお電話を頂いた。

14日(金)の十勝毎日新聞の「編集余禄」欄に載った「十勝石」という小文を農協の方からFAXで送ってもらい。懐かしくなってわが家の電話番号を調べて電話をくださったと言うのだ。まずは以下にその「編集余禄:十勝石」を転載する。

十勝の人は、黒曜石を十勝石と呼ぶ。十勝以外でも十勝石という人は多い。名付け親は帯広市坂本ビル社長坂本和昭さんの祖父で、坂本勝玉堂を創業した坂本勝さん。1933年、帯広商工会(当時)が市制施行を記念して選考した十勝の土産品で、坂本さんが開発した十勝石細工は、ビート糖と並び最高の名誉賞に輝いた▼十勝石は黒曜石の中でも音更川、居辺川、芽登川の河床礫(れき)などから産出した石材を指すという。美麗なガラス光沢を放ち、切り口は貝殻状になる。上士幌町十勝三股産の十勝石は180万年前に噴出したもので、坂本さんは明治時代から細工し、全国に売り出した▼十勝の代表的名産を作り上げた坂本さんの功績は大きい。この十勝石の印鑑をめぐり、心温まる話がある。1943年夏、佐賀県立鹿島実業学校の生徒70人が、援農隊として旧川西村にやってきた。その1人辻安雄さんは八千代の大路伊平治さん宅に泊まり、大規模な農業経営に驚きながらよく働いた▼収穫が終わって帰郷する前日、伊平治さんは辻さんを馬に乗せ、ポロシリ岳の雄姿を仰ぎ、坂本勝玉堂で記念の印鑑を作って贈った。大路家と辻さんの親交は伊平治さん亡き後も続いた▼十勝石の印鑑は青春の思い出として辻さんの宝になっている。六十数年の歳月が流れ、辻さんたちが中心になって広野農業担い手センター前庭に「援農記念碑」が建てられた。(嶺野侑)

この「編集余禄」には若干の誤りがあるので訂正しておきたい。十勝石の名付け親は祖父ではない。祖父は十勝石の名前を全国に広めた人である。詳細はこのブログの1月26・27日付け「勝玉堂1・2」に書いたのでこちらをお読みいただきたい。

辻安雄さんは大正15年生まれというから、父(昭和2年生)とは同年代だ。16歳の時に援農の学徒動員で帯広に来て、この時に作ってもらった十勝石の印鑑は今でも大切に使っていて、家宝なのだともおしゃってくださった。商人冥利に尽きる大変ありがたいお言葉だ。

わざわざ、お電話をいただき、とても嬉しい朝であった。

十勝石細工の職人が絶えてしまってから久しい。一度絶えてしまった技の復活や伝承は難しいものだ。何とか職人芸を残す術は無い物だろうか?これは十勝石細工工芸に限らず、北海道の伝統木工芸術品にもいえることなのである。良い技を残したいものである。


■2008-03-20-Thursday 街の社交場

社交ダンスが大好きだった父が実益を兼ねて「ダンスホール坂本会館」を開いたのは昭和27年であった。

当時は娯楽が少なかったこともあって連日超満員でかなり儲かってもいたらしい。帯広出身の歌人中城ふみ子さんを描いた渡辺淳一さんの小説「冬の花火」の中にも坂本会館が登場する。当時の帯広の社交場であったようだ。

「私たち夫婦は、おたくのダンスホールで出会ったのが縁で結婚したのよ」という話をいまだに年配のご夫婦から聞かされるほどなのだ。

当時は職住一致で自宅とホールは薄い壁ひとつしか隔てておらず生まれた時(昭和33年)からダンス音楽や流行の歌を子守唄代わりに聴きながら眠っていたのだが、私が踊れるダンスはチークダンスだけだ。親の趣味を継承するのには抵抗があったようだ。

そのダンスホールから火が出て我が家が全焼してしまったのが昭和42年、小学四年の時だった。

街はずれの住宅地にとりあえずの住む場所を確保したのだが、最初の晩にそこが静か過ぎて眠れないのだ。早速翌日にはラジオを買ってもらってつけっぱなしにして寝たものだった。慣れというのは恐ろしいものだ。今は静かでないと眠れない。

今の帯広には「社交場」らしきものが無い。中心街には皆が気軽に集える場所が必要だと思うのである。

そこで素敵な出会いがあればなおの事良いと思う。


■2008-03-21-Friday 失せ物

一昨日の夜にフト気になって探し物を始めた。

探しているものは「二つセットで一つの用を足す物」である。結構な貴重品なのでそこら辺に放り投げていることはありえない。二つを別々の場所にしまうはずもないのだが、どうしても片一方が見当たらない。

すぐに必要な代物という訳ではないのだが、見つからないとどうにも気分が悪いので、昨日の春分の日に一日掛けて探しまわったのだが出てこないのである。

家中をひっくり返して探していると、代わりにこれまで探していたが見つからなかったものが次々と出て来た。

「違う!今探しているのはお前じゃない!」と叫びながら、一方では「出てきてくれてありがとう」と言う自分が居る。まことに可笑しな気分だ。結局、失せ物は出てこなかった。きっと今度別の物を探している時に出てくるのだろうなぁ。


■2008-03-22-Saturday 道新、朝の食卓16 

北海道新聞2004年7月13日掲載「受賞」

十勝には一種独特の雰囲気があるらしい。1996年につくった私たちの組織「十勝場所と環境ラボラトリー(略称:バカラボ)」が実施した調査でも、「札幌・東京なにするものぞ!」という気概を持った人物が多かった。郷土に対して、人一倍、自信と愛着があるのだ。

しかし、その自信が一体何によって裏打ちされているのかは判然としない。多品種の大食料生産地であり、食料自給率は900%とも1000%とも言われているくらいだから、「食うには困らん」ということかもしれない。

同時に行った学者との分析では、「十勝は著しく石油に依存した地域である」との結論が出た。食・住・移動が石油無しでは立ちゆかないのだ。機械化された農耕機具は軽油、住宅の暖房は灯油、自動車はガソリン。

石油に代わるエネルギーで暮らせば真に豊かになる。

バカラボは新しいライフスタイルを世界に向けて発信することで、地球環境に貢献することを目的にした活動だ。

先ごろ、このバカラボが「日本都市計画家協会賞(市民・NPO部門)大賞」をいただいた。当初は大風呂敷を広げたホラ吹き団体と揶揄されたが、「北の屋台」などの実践的活動が認められたのだと思う。受賞を糧にして今後も有益な社会実験を続けたいと思っている。

(「十勝場所と環境ラボラトリー」は2006年12月31日をもって解散致しました。)


■2008-03-23-Sunday 道新、朝の食卓17 

北海道新聞2004年8月27日掲載「大道芸」

帯広の「北の屋台」は二年前から、お盆に開催する「帯広平原まつり」に、大道芸人たちを招いている。

最初の年(2002)は、私がかつて芸人(マジシャン)になることを目指していた時代の人的つながりを生かして、二人一組の芸人に来てもらった。初対面の晩、酒を酌み交わしながら芸能論を闘わせた時に、お互いに意気投合してしまった。これがきっかけとなり、昨年(2003)は仲間を引き連れて五組十人、今年(2004)は九組十五人と、訪れる芸人たちはどんどん増えている。

最近のテレビのバラエティ番組はつまらない。芸の無い「芸NO人」同士がおふざけしたり、素人をいじくるだけだったりの、低劣で安易な番組ばかりだ。

大道芸は、観客が「つまらない」と感じたら「投げ銭」が集まらないから、一回毎が生活のかかる真剣勝負であり、常に必死に芸を見せる。いかにしたら通行人を立ち止まらせられるか、最後まで見てもらえるか、投げ銭をもらえるか。日々努力を重ねているのだ。

大道芸人には京都大学や立命館大学出身の高学歴の芸人もいる。彼らに「学歴の無駄使いだね」と言ったら、「今の世の中、サラリーマンになるよりも自らの芸一つで生きていく方が、やりがいもあるし、充実した日々を送れる」と誇らしげに言っていた。自分を信じて生きている彼らに、エールを送りたい。


■2008-03-25-Tuesday 何か変だぞ!

23日に千葉県市原市で講演してきた。

翌24日にホテルで朝のニュースを見て茨城県土浦での8人殺傷事件の事を知って驚いた。すぐ近くなのである。

何故、こうも簡単に見知らぬ人を傷つけられるのか。恨みのある人間を襲うならまだ理解も可能だが、無関係な人間を殺傷するなど、私にはどうしても理解不能だ。同じ様な殺傷事件が相次いで起きているが、一体何故?としか言い様がない。

犯人が捕まったが、また精神鑑定とやらをするのだろう。ハッキリとした原因を突き止めても欲しいが、犯人が精神病や精神喪失状態なら無罪とか減刑するとかは何か釈然としないものがある。犯罪者の人権を保護するということなのだろうが、人権を無視したからこそ人を殺せるのであって、相手の人権を尊重する人間が殺人など絶対にするはずがないと思うのである。そんな人権の事などを露ほども考えていない加害者に対して、はたして人権を尊重する必要があるのだろうか?

今朝のテレビでは警察の対応が悪いとキャスターや解説者達が言っている。犯人の人相書きの写真が古いとか、変装を想定していないとか、情報を開示していないとかetc.

もう片方では、容疑者の人権だとか、パニックになるからとかetc.

後付けで何を言ってもむなしいだけだ。

被害者にとっては、殺された(人権を消滅させられた)ことに変わりはないのだから。それも全く予期しない場所で。何が起きたのかも分からないまま死んでしまったと思う。とても理不尽な死に方だ。

ご冥福をお祈りする。

それにしても、何かがオカシイ世の中だ!何かが変だぞ!

テレビゲームのせいなのか?

携帯電話のせいなのか?

教育のせいなのか?

政治のせいなのか?

地球温暖化で人間の頭もヒートアップしているのか?

人間の本当の幸福とは何か、冷静に原点に立ち戻って考え直さなければならないのではないか。取り返しが効く内に。


■2008-03-26-Wednesday 道新、朝の食卓18 

北海道新聞2004年9月29日掲載「超一流の人」

あこがれのマジシャン・島田晴夫師が、帯広で開催したマジックショーに出演してくださった。

世界一の称号である「マジシャン・オブ・ザ・イヤー」を1972〜76年に受賞した、海外で活躍する世界的なマジシャンだ。

高校生の時にテレビで師の「鳩出し」の演技を見て以来の、熱烈な大ファンである。松旭斎天一、天勝、天洋と続くマジック界本流の系統で、私の師匠であるジミー忍の兄弟子にあたる方だ。

「鳩出し」といえば、1960年に公開された「ヨーロッパの夜」という映画で、チャニング・ポロックという気品あるマジシャンの華麗で優雅な演技が、一世を風靡した。以来、マジックといえば「鳩出し」というくらいに流行った演目で、猫も杓子も競って演じた時期があったが、島田師の演技は別格だ。ちなみに私も挑戦した部類だが・・・。

帯広で時間を共有できるなんて、夢のような一日だった。終演後に二人きりで写真を撮ってもらったのだが、緊張のあまりに顔が引きつってしまった。

島田さんはとても謙虚だ。やはり道を究めた超一流の方は人間ができていると感じた。別れ際に「マジック界の発展につながることなら何でも協力しますよ」と言ってくださった。

島田さんこそ、マジシャンが惚れるマジシャンの中のマジシャンだ。


■2008-03-27-Thursday 道新、朝の食卓19 

北海道新聞2004年11月14日掲載「社会人大学生」

先般、東京のある社会人大学に講師として招かれ、講義終了後、居酒屋で開かれた15人ほどの懇親会に参加した。学生(といっても私より年上もいる)は皆さん、一流企業に勤めている人たちだ。しかも全員が、有名な四年制大学を卒業している。

学生時代の「ガリ勉」だけでは不足な、よっぽど勉強好きな人たちなのだろうと思っていたら、「高校までは受験勉強をしたが、大学では遊んでばかりだった」「詰め込み式の受験勉強はさっぱり覚えていないし、役にも立っていない」「社会人として自分もいい年になり、人生を振り返ったときに本当の意味での勉強がしたくなった」と言うのである。思い立ったらすぐに入学する実行力が素晴らしい。

「若い時にもう少しまじめに勉強しておけば良かったと、今になって感じるけど、手遅れだろうなぁ」と感想を漏らすと、みな一様に「そんなことはない」と言う。

学生時代に嫌々やって(やらされて)いた勉強と違って、人生も半ばを過ぎると、自ら進んで勉強したいと切実に感じるし、勉強したいことも山ほどあるというのだ。それが本当の勉強なのだろう。まさに学びたい時が入学時なのだ、社会人大学が多くて選択肢も豊富なのがうらやましい。

もう一度勉強でもしてみるか。教えに行ったはずが、逆に教えられた一日であった。


■2008-03-28-Friday シンクロナイズド・フィギュア・スケート

わが家の娘が今日から世界選手権大会に出場する。

長女の惠梨がフィギュア・スケートのシンクロ団体競技でハンガリーで開催(28〜30日)される世界選手権大会に出場することになった。娘にとっては今回で三回目の世界選手権出場だが、親バカとしては前回より少しでも上位になってほしいと願っている。

シンクロナイズド・フィギュア・スケートは1チーム16〜20名ほどの団体で滑り、シングル競技と同じにショートプログラムとフリースケーティングの二種目でステップの正確さや隊列の多彩さなどを競う(水泳のシンクロ団体のような)競技である。

この競技はまだ日本ではメジャーな存在ではないが、世界的にはかなり盛んで1990年にフィギュア・スケートの正式種目に採用されており、アメリカ一国だけでも525チームもあるのだ。もともとはアメリカのプロアイスホッケーリーグNHLの試合の合間に演じた(プロバスケットリーグNBAの合間に演じるチアーリーディングのような感じ)ものが流行り出したようである。

娘は6歳の頃からフィギュア・スケートを始め、帯広では川原泰子コーチに中学卒業まで師事した。

高校は仙台の東北高校に進学し、荒川静香や本田武を教えた長久保コーチに師事したが2年時に足を怪我して手術をし、一年間を棒に振ってシングル競技を断念、高校3年から東京女子体育大学シンクロナイズド・フィギュア・チームの練習に参加してそのまま同大に進学した。

私はまだ娘の生の演技を見たことがない(ビデオでしか見ていない)が、妻は娘が前回出場したチェコでおこなわれた世界選手権を見に行った。今回こそは私が見に行こうと思っていたのだが忙しくて断念してしまった。

カナダのバンクーバーで開催される次の冬季オリンピックの正式種目にもなりそうな気配で関係者の間ではとても盛り上がっているのだ。もしそうなると日本国内にライバルチームはまだ少ないから上手くするとオリンピック選手になれるかもしれないなんて都合の良いことを考えている。

オリンピックにでも出るようなことになったら、家族全員で応援に行こうと思う。

遠く日本で応援しているから頑張れ〜!


■2008-03-29-Saturday 千葉県市原市

3月23日に千葉県の市原市に招かれた。

今月3日に東京国際フォーラムで開催された「地域再生実践フォーラム」での私の話を聞いた、市原市五位のTMO(タウン・マネジメント・オーガナイゼーション)の方から講演の依頼を受けたのだ。急な依頼であったが、日本都市計画家協会の会議でご一緒した大和田さんからの依頼でもあったし、3日の夜に大和田さんや市原市の方々と一緒に食事をした時に、話を聞いて「まちづくり」に情熱的な方々だと心を動かされたから引き受けることにしたのである。とにかく「イベント」がすごいのである。

まちづくりに「これをやったら必ず成功するというような法則は存在しない」その代わりに「これをやったら失敗する可能性が高いという法則は存在する」と思う。つまり明確な目的(コンセプト)とその目的を達成する為の戦略を持たない活動は、やがて衰退するということである。

これまで全国各地の商店街を見せてもらった。それもただ単に視察だけをしたのではなく、運営している人たちの話を直に聞いてきたのである。

失敗するまちづくりの特徴は、「手段と目的がゴチャゴチャになっている」ことだ。イベントは決して目的ではなく、目的を達成する為の手段にしかすぎない。イベントをすることが目的になってしまった組織は、一生懸命に活動している人間から先にイベント疲れをしてくるのがパターンになってしまっているのだ。

リーダーがコンセプトをしっかりさせなければ活動が迷走するのである。

懇親会の二次会の席でふと市原市五位に大学のマジッククラブの一年後輩が居る事を思い出した。その場で電話番号を調べて電話したら「出てくる」というので合流した、すると市原のTMOの方々と顔見知りであった。世間は狭いものである。この後輩というのが、他ならぬ私のプロマジシャンへの道を断念させた伊藤くん(詳しくは私のブログ1月18日マジック学生時代編3をご覧あれ)であった。久しぶりに会って楽しいひと時を過ごす事ができた。よんでくれた市原市の方々に感謝致します。


■2008-03-30-Sunday 髭を伸ばして一年

北の屋台を辞めたのを機に髭を伸ばし始めて一年が経った。

これまでも、寒い冬の間は省エネの為に髭を伸ばしていたのだが、温かくなると邪魔になるので剃っていたのである。

1年間も伸ばしたのでもう良いだろうと、4月1日に剃ろうかと思ったのだが、3月中旬にグァム島に行って顔が真っ黒に焼けてしまったので、今、髭を剃ると髭の生えていたところだけが白くなってしまい白い部分と黒い部分がネガのように逆転して、やたらとカッコワルイことになるから、もうしばらくそのままにすることにした。

さすがに1年間も生やし続けていると、髭がトレードマークになったようなので、名刺の私の似顔絵にも髭を書き込んだものを新たに作ったのである。

家族のものからは、汚らしいから剃りなさいと言われ続けているのだが、髭を伸ばしていると毎朝の洗顔時の時間が短縮出来るからとても楽なのだ。一週間に一度だけ、髭トリマーという機械で6ミリに揃えるだけで、後はそのまま放っておけるから手が掛からないのである。

髭にはもう一つ効果がある。最近、会う人毎に「あれっ、痩せたんじゃない?」と言われるようになったのだ。が、しかし実は逆に肥ったのである。顔の髭で隠れている部分が影のように見えて、細くなったように錯覚をさせるのだろう。髭は昔から変装の道具でもあるのだが、髭には痩せたように見せかける効果もあったのだ。だから実際に身体が痩せるまでは髭を剃れなくなったということでもある。

最近、髭にも白髪が増えて来た。年をとったという証だろう。今後は欧米人のように年相応のカッコイイ髭にするデザインを考えよう。髭は男にしか出来ないおしゃれなのだから。


■2008-03-31-Monday 北の屋台辞めて一年

北の屋台の専務理事の職を辞してから今日で丸一年になる。

正式な辞職は2007年3月末日付けになっているのだが、実質的には前年の2006年12月には辞めていたので、既に一年以上も前のことになるのである。

この間、客としても一度も北の屋台を訪れたことがないから、昨年(2007)の11月に新規出店した三期目の店主の人達とは一面識もない。

第三期目に関しては、募集から選定までも全くタッチしなかったし、その後の運営にも一言も口出しをしていないのである。

私の美意識としては、辞めた人間が偉そうに口出しをするのはカッコワルイことなのだ。だから外からソッと見守りたいと思っているのである。

辞めた後も、国から使命を受けている「観光カリスマ(国土交通省など)」「地域活性化伝道師(内閣府)」「地域中小企業サポーター(経済産業省など)」などの仕事で、相変わらず全国各地で講演をおこなっている。いつも講演先では「坂本さんは次に何をされるのですか?」と聞かれるので、「ここのところ放電ばかりしていたので、しばらくは充電するつもりです。」と答えていたのだが、一年も経ったら、そんな悠長な返事では済まされないだろうなと感じていた。

そろそろ活動を再開しようかと思い始めていた矢先の2月に、出鼻を挫くかのようにかつての仲間たちに関する変な噂話が帯広中を駆け巡り、私の人間不信が更に増幅してしまったのである。

心情的には活動再開まではまだしばらく時間が掛かりそうな嫌ぁ〜な気分なのだ。