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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-07-01-Tuesday ハンディ

晴れてシングルプレーヤーになれた気分だ

昨日、自宅に所属するゴルフクラブから新ハンディ報告の葉書が届き私のハンディが今日から1つ上がって8.7になった。これでようやくシングルプレーヤーの仲間入りをした気分だ。

昨年のルール改正でハンディに小数点が付く様になり、9.7にはなっていたのだが、それまではずっと10だったのである。

9.7という数字は四捨五入すれば10であるから、胸を張ってシングルとは言えないので、全然嬉しくなかった。せめて9.4にでもなっていてくれれば良かったのだが、9.7というのは、かえって恥ずかしく何とも中途半端な数字なのである。

今年は例年になくゴルフに熱が入っている。既に20回もコースに出た。ここ十年間は年間12〜15回程度しかプレーしていなかったから、このペースで行くと今年は40回はプレーできるかもしれない。当然、回数やれば上手くなるものである。

以前は出たことのないクラブの公式競技にも積極的に参加している。6月の月例会で3位に入賞したのがハンディアップの原因だろうと思う。

今年の下半期に向けての目標がようやく出て来た。

ようし、この調子で今年中に片手ハンディになってやるぞ!


■2008-07-02-Wednesday コンビニ

洞爺湖サミットが近いせいなのか?

コンビニの深夜営業規制論が出てきた。

ことの発端は先月16日に埼玉県が飲食店などを含む深夜営業全般に自粛要請をしたことに始まる。これに対してコンビニ業界が猛反発した。日本フランチャイズチェーン協会は20日に会見を開いて、24時間営業の正当性を強調した。

その要旨は、CO2の削減効果は少ない、社会的要請のあるビジネスモデル、女性の駆け込みステーションとしての防犯効果などを挙げていた。

環境問題だと言って何でもかんでも規制してしまうのは、ファッショである。特に日本人はこの種のものには過剰(潔癖)に反応してしまう癖があるのではないだろうか?以前にも書いたがレジ袋や割り箸などの問題もある。確かに塵も積もれば山となるなのだろうが、根本が間違っているから、誤った方向にミスリードしてしまう危険性がある。このやり方の行き着く先は「人間は地球から居なくなれば良い」になってしまいかねない。

便利さは不可逆性がある。だから今更、不便に逆戻りする事はなかなか難しいと思う。それよりも最新テクノロジーを使って環境に負荷の少ないライフスタイルを構築した方が皆が着いてき易いと思うのだが。つまり、化石燃料に代わるエネルギーで動く自動車・農耕機具・住宅などを開発し、これまでと同じ生活をしていても地球に優しいということになれば、価値観も含めた、あらゆるモノを世界中に輸出することが出来るではないか。これこそ誇りの持てる経済行為だと世界に胸を張って言えるのではないのか?

それを目指したのが「十勝場所と環境ラボラトリー」の活動であったのだが・・・

先のコンビニの問題も、環境問題というよりも、実は労働問題なのではないのだろうか?どうも論理のすり替えがあるような気がしてならない。


■2008-07-03-Thursday 変なことが続く!

最近、妙なことが続いている。

一年ほど前に、妻宛てに見知らぬ人たちから結婚式の招待状が届いた。妻が「新郎、新婦の名前や発起人にも思い当たる人がいない。この人たちは一体誰なのだろうか?私を誰かと勘違いしているのでは?」と不思議がって、結局、返事の葉書に「誠に失礼ですが、ご両人に思い当たりがございませんので・・・」と書いて欠席で送ったことがあった。

今年の4月の末には、妻が緑ヶ丘公園で行われた焼肉パーティーに参加した時、初めて紹介された人に「坂本ビルの坂本です」と自己紹介したら、「エ〜ッ、私は坂本ビルの坂本和昭さんの奥さんという女性を知っているけど貴女じゃなかったわ。眼鏡を掛けていて小太りの女性だった」と言われたというのだ。その人に「貴方は確かに坂本ビルの坂本さんの奥さんなの?」と訊かれたので「ハイ、坂本和昭の妻はたぶん私一人だけだと思います」と答えたというのだ。

妻が帰宅してそのエピソードを話し「あなた、まさか他に家庭なんて持っていないでしょうね!」と私に言うのである。願望はあっても実行など出来るはずがない。「俺の奥さんになりたいと思っている女性が沢山いるんだぞ!」と言ってはみたものの、私に限ってはそのようなことはまったく起こりようがないことは妻が一番良く知っている。きっと誰かと勘違いしているのだろうと笑って済ませたのであった。

昨日、私が不在時に会社に某出版社から電話が入った。「本の注文の葉書をもらったが、肝心の本の題名にチェック印が入っていないのでどの本がご所望なのか教えて欲しい」という内容であった。電話を受けた者が、電話では良く判らないのでその葉書をFAXで送って欲しいと依頼し、FAXが送られて来た。

そのFAXに載っている葉書には私の名前が書いてあるが、私の字ではないし、印鑑は押していないし、年齢も書いていない、事務所の階数も間違って書いている、それに何よりこんな葉書を出した覚えがないのである。

きっと、誰かのいたずらか嫌がらせなのだろう。

それにしても、誰かが私や妻に成りすましているのだろうか?

気味が悪い事この上ない。


■2008-07-04-Friday インディ・ジョーンズ

昨晩、夫婦で映画を観に行った。

例によって「夫婦50歳割引」というやつで二人で2000円(通常は一人1800円)で観られるから最近は特に映画を観に行く機会が増えたのである。2時間で一人1000円なら安い娯楽である。

私は映画はおもいっきり荒唐無稽なものが好きだ。辻褄が合わないとか、そんなバカなという筋立てでも、映画を観ている時に、ハラハラ、ドキドキしたり、ゲラゲラ笑えるような単純なエンターテインメントものが良いのだ。しょせん映画は虚構の世界なのだから。

昨晩の「インディ・ジョーンズ、クリスタルスカルの王国」も正しくそんな類の映画である。

ルーカスもスピルバーグもこの映画の中で過去の自分の作品の内容を使って遊んでいるところが面白い。映画通には映画通の、監督のファンにはファンなりの、始めて観る人にはそれなりのそれぞれの楽しみ方がある。しかも、続編へと続くであろう布石が随所にちりばめられていたように感じた。この映画が当たったらいつでも続編を作れる体制を取っておこうというのだろう。

ルーカスとスピルバーグの二人が余裕で作っているのか、それともかなりアイデアに詰まっているのかは定かではないが・・・。

ただ、最近の映画はあまりにもテンポが良過ぎて(早過ぎて)深みに欠けるきらいがあるのでないだろうか。

ヒッチコック監督の映画は本編とはまったく関係の無いストーリーのところでハラハラさせられたものだが・・・。

エンターテインメントが良いと言っても、観終った後に多少は余韻が残る様なものも少しは欲しい。ただのドタバタだけではつまらない。昨晩の映画も観終った後に、余韻ではなく、何かスッキリしないものが残ってしまった。

ハリウッド映画が粗製濫造になって、金だけ掛けて作るものや、宣伝ばかりに熱心になるのはいただけない。着想は面白いのだが脚本の細部のつくりに心が通っていないように感じるのは私だけだろうか?


■2008-07-05-Saturday 環境問題1

洞爺湖サミットが近づいて来た。

地球環境問題が大きなテーマのサミットである。

そこで今回は過去に私が書いた地球環境問題に関するものを再掲載して、どのようなことを書いていたのか検証することにした。懐かしいことに「です、ます調」で書いている頃の原稿である。

1999年1月30日(土)十勝毎日新聞掲載「十勝の地域特性を調査研究〜21世紀のモデルに〜」

このコーナーのファンが増えてきたのは大変うれしいことです。これまでに23人の先生方に寄稿していただき、69週にわたって連載を続けております。同時にお問い合わせも増えてきましたが、ほとんどが「十勝環境ラボラトリー(TKL)」とは何をしている組織なのかというものですので、この辺で一度説明させていただきたいと思います。目的は「十勝を世界中で一番すてきな自立した地域にしよう」ということです。少し具体的に表現すると「十勝の地域特性を調査研究し、それを基に数々のプロジェクトを起こして実現させ、地球を汚さないクリーンなエネルギーを使用し、安全な農畜産物を自給し、世界に誇れる環境とライフスタイルを創りだして21世紀のモデルとなる地域にする」ということになります。帯広青年会議所(JC)を卒業した40歳代のメンバーが中心となってこの目的の実現のために1996年に設立したNPO(非営利組織)なのです。

この趣旨に賛同してくださった全国各地の著名な先生方に毎月第3金曜日(原則)に来勝していただき、「国際環境大学公開講座」(99年1月現在通算34回開催)を開設しており、このコーナーにも寄稿していただいています。その他、現在進行中のプロジェクトは「場所カー」「環境住宅」「童話製作」「十勝川調査」「食文化クラフト」「都市構想」「田園ライフスタイル」などです。詳細については帯広市西2南9・坂本ビル四階の事務所に事務局員が常駐しており、パンフレットや資料なども豊富に準備してありますので、気楽にご来所くだされば、いつでもご説明いたします。

そもそもTKLを設立するきっかけとなったのは、十勝に環境問題を扱う大学を創ろうというJCの活動が発端でした。地球環境は今日、非常に危険な状態になっておりますが、私たちがこの大学を提唱した92年当時は全くと言ってよいほど、皆無関心でした。97年の末に京都で開催された俗に言う地球温暖化防止会議(気候変動枠組条約第三回締約国会議)あたりから少しずつ関心が高まってきたようです。しかし、残念なことに誤訳である温暖化という言葉のイメージから、十勝では暖かくなるのはうれしいことだというように勘違いをした方が多く、問題の深刻さが伝わらなかったきらいがありました。また、リサイクルばかりがクローズアップされて、それ以前の段階の重要な活動が軽視されているのが現状です。

環境問題と公害問題は似ているようですが、二つの点で大きな違いがあります。一つは加害者と被害者の区別がつかないということ、二つ目は地域や国を飛び越えたボーダーレスであるということです。人間が引いた国境という線では環境問題を防止することはできません。お互いのエゴを捨てて、人と人、国と国とが協力し合って解決していかなければ、近い将来、地球上に生命は存在できなくなる可能性が大なのです。


■2008-07-06-Sunday 環境問題2

1999年2月4日(土)十勝毎日新聞掲載「食糧とエネルギー自給〜独自のライフスタイルを〜」

1997年に京都で開催された地球温暖化防止会議(気候変動枠組条約第三回締約国会議)は先進各国に対して地球環境の保全を第一義とする「新しい経済」への転換を義務づけました。この「新しい経済」はまったくの「ゼロ成長」なのかというとそうではなく、「成長の中身を見直す」ということなのです。石油や銅などの資源は残りあとわずかであると言われております。この残り少ない資源を私たちの代だけで使い切ってしまって良いのだろうかという問題もあります。

ですからこれまでの資源浪費型産業は縮小させ、再生可能な資源やエネルギー、省資源、省エネルギー製品の開発・リサイクル業・高効率輸送機関などを成長させるのです。分かりやすく「自動車」を例にして説明すると、ディーゼルカーや燃費の悪い大排気量車の生産量は縮小し、ハイブリットカーや電気自動車や天然ガス車などの環境に優しい車の生産量に移行するということです。この機会に体質を変えることのできる企業や地域は十年後の勝者になれますが、旧態依然として現状に甘えるところは十年後には敗者になることが必然です。

日本は少子化で人口が減っておりますが、世界の人口は急激に増加しており、現在60億人なのが50年後には百億人に達するという学者もいます。食糧の輸出国であった中国が、一昨年から一部の産品ですが輸入国に転じております。原因は急激な工業化による農地の転用、食生活の欧米化による飼料の増加、気候変動による災害などが挙げられます。中国も人口は増加し続けており、慢性的に食糧不足におちいることは十分に予測できます。

石油も埋蔵量が残り35年分という説もありますし、発展途上国の人たちが欧米並みの生活レベルになってエネルギーの使用量が飛躍的に増加したとしたら、地球は一体どうなってしまうのでしょうか?

十勝に暮らす人たちはこれらのことに関心が薄いようです。漠然と十勝は土地も広いし、空気もきれいだし、水もおいしいし、農畜産物もたくさんとれるしと極めて楽観的に考えているのではないでしょうか。でも、よく考えてみて下さい。十勝を支えているはずの農業に就労する人数はどんどん減り続けています。少ない人手で広大な面積を耕すために大型の農業機械を導入し、化学肥料を入れ、大量の農薬をまきます。そこで質問です。機械は何で動くでしょうか?そうです、答えは石油です。もし、石油の値段が上がったら、もし、石油の輸入がストップしたら、その瞬間に十勝のあらゆるものがストップしてしまいます。

幸いにも、十勝は地球の恵みともいうべき自然のエネルギー源、太陽、水、風、地熱などが大変に豊富な地域なのです。これらのエネルギーで動く自動車や農機具などを開発し、十勝を安全で安心な食糧とエネルギーの自給できる地域にすることで、人間の根源的な部分では他に依存することなく、独自のライフスタイルを創りだすことができる。これが十勝環境ラボラトリーの信念なのです。しかし、一朝一夕にできるもではありません。皆さんの一日も早いご参加をお待ちしております。


■2008-07-07-Monday 環境問題3

1999年2月13日(土)十勝毎日新聞掲載「人間性重視したエリア必要〜そろそろ発想の転換を〜」

TKLの事業のなかに「都市構想プロジェクト」「田園ライフスタイルプロジェクト」があります。これはこれまでのミニ東京を目指してきた金太郎飴のような全国均一のまちづくりではなく、十勝の特性を活かした個性あるまちづくりをしていこうという考え方で取り組んでいます。このうち「都市構想」は昨年からTMO(タウンマネージメントオーガナイゼーション「まちづくりを運営する機関」)を作って中心市街地を活性化させようとする市や商工会議所などの動きと密接なかかわりを持つプロジェクトであると思っています。

TKLでは1996年から十勝川など川の視線から見た十勝の歴史や特性などを調査・研究してきました。十勝は三方は山(日高山脈・大雪山系・白糠丘陵)に一方は海(太平洋)に囲まれた広大な十勝平野を持ち、雄大な自然に満ちあふれた地形的にも大変すばらしい地域であることを実感しました。この大自然の中心都市として、「へそ」として帯広はいかなる都市であらねばならないのか。これはただ単に帯広のみの問題ではなく十勝という地域全体の問題なのです。また百年の大計として通用させるには、根本とする哲学に何が必要なのかということや今後の社会がどうなっていくのかというシミュレーションも重要になってきます。

私たちは地球環境問題をベースにし、社会現象として少子高齢化問題を、十勝の顕著な現象として車社会の問題をとらえ、さらに特有の気象条件や住民の気質などを加味し、「将来の十勝をこうしたい」という強烈な意志の下にプランをつくりました。何等の意志も持たず時代や社会の波に押し流されて傍観者や評論家をしているばかりでは住み良い地域をつくることはできません。20世紀という時代においては、交通手段の変化によって中心街といわれる場所が移動を続けてきたことは事実です。しかし、本当にこのままでよいのでしょうか。

すでに右肩上がりの経済は終焉を迎え、中央においても地方においても正しいコスト意識であらゆるものを運営しなければならない時代が到来しました。個としての利便性や利益の追求よりも全体としての利益が優先される社会にしなくては地球全体が生物の住めない死の星になってしまう危険性があるからです。

土地が広いから、安いから、自家用車があるから、他の町村に人口を取られるからという理由で街を無闇に広げていけば一体どうなるのでしょうか?中心部を虫食い状態にしておいて郊外を開発することはその地域全体としては非効率的ですし、その地域特有の文化を消滅させてしまう行為です。

全国どこの街に行っても同じ品揃えの同じ色の四角い箱だけの建物ばかりが増え、その街の特色を無視するどころか殺してしまわなければ営業できない店ばかりになってしまいます。しかも利益はほとんど中央に送られ、その地域に還元されることは少なくなってしまいます。これは教育問題に関しても同様のことが言える20世紀の構造的問題です。

車社会が日本で一番進んでいる十勝だからこそ、人間性を重視した人間中心のエリアが必要なのです。皆さん、そろそろ発想の転換をしてみませんか。

『この環境問題1,2,3は今から9年前に十勝毎日新聞の文化欄に書いた文章である。改めて読み直してみたら帯広の現状は9年前からさっぱり進歩していない。この99年2月というのはちょうど「北の屋台」の前身である「まちづくり・ひとづくり交流会」を組織した時期である。この頃の私はまちづくりに情熱と使命感を持っていたことが判った。はたして今後、地球は、十勝は、どうなるのであろうか?・・・ものすごく不安で一杯である。』


■2008-07-08-Tuesday 同窓会コンペ

高校の同窓会のゴルフコンペが6日にあった。

毎年、卒業期の順送りで幹事を務める慣わしになっている。今年は私の卒業期、柏葉26期の担当年なのだ。しかも26期生はゴルフをする者が少ないので代表幹事の私が大会長を務めることになってしまった。例年なら、ゴルフの好きな人が大会長を務めて代表幹事はプレーするだけだったのだが・・・。

それもあったので今年はゴルフを急にやり始めたというわけでもある。

一年前から、準備を始めて万全の体制で運営しようと思っていた。しかし、現実はなかなか上手くいかないものである。

昨年の25期の運営に習い、昨年そのままの予算を組み同窓会の総会に掛けたのであるが、その総会で同窓会からの援助金が同窓会の財政難から半額の5万円に下げられてしまったのである。5万円の減額くらいなら、まだ何とかなるかと思っていたのだが、ゴルフ場との打ち合わせ段階になって、今年からゴルフ場のレストランの運営会社が変わり、昼の弁当代は2000円からしか対応していないというのである。さらに飲み物の持ち込みも不可でペットボトルを一本200円で購入して欲しいと言われてしまった。

昨年の経費では昼食の弁当代は800円で、持ち込みの飲み物代は110円である。昨年の参加者104名で計算すると昼食代だけで13万円近くの超過になってしまう。

こうなると同窓生が経営している会社からの広告費収入で賄うしかないのだが、不景気でなかなか思うように集まらない。

あれこれ、レストランの支配人と粘り強く交渉を続けて、特別ランチというのを1000円で作ってもらうことになった。飲み物もレストランに持ち込まないという条件で持込を特別に許可してもらい昨年並みの110円で落ち着いた。広告費収入もいろいろな方にお願いをして昨年以上に集めることができたので経費面ではなんとか賄う事ができたのであった。

しかし、運営面ではこれまた苦労の連続であった。新聞広告の掲載日が遅くなったことも原因して参加者数が86名と昨年よりも少ない。今時100名を越えるコンペは少ないということで、あえてこれ以上の人数は集めることを止めたのであった。

6月26日に申し込みを締め切って、翌27日に組合せ表を作成し、各期の幹事宛にFAXで送信した。それから毎日の様に、組み合わせを変更して欲しい。スタート時間を遅くして欲しい。急に欠席になった。新たに参加したい。など等の電話が入ること入ること。後輩であれば変更はできないと言えるが、さすがの私も大先輩にはなかなか言えるものではない。一々対応して変更し、またFAXで送信した。

6日(日)当日、幹事は早朝5時半にゴルフ場に集合して準備を始めた。一番組のスタート時間は7:00である。しかし、参加者の集まり具合が悪いのである。スタート10分前になっても4人が揃わない組が続出したのだ。普通のコンペならスタート30分前にはウォーミングアップを終えているのが常識なのだが・・・。

さらに、当日になって急な欠席者が出てきたり、連絡なしに参加したいという人まで現れたのだ。

結局、先に4人が揃っている組を繰り上げてスタートさせるしかなかった。そうなると現場では混乱が生じる。本来なら2〜3回で済むルール説明も10分おきに5回もすることになってしまった。

なるべく多くの参加者に景品が行き渡るようにと配慮してA、B、Cの三つ班に分けてニアピン賞などのアトラクションを設定したのだが、スタート時間が変更になった人たちは混乱してしまい。BとCが入り混じってしまったのである。そういうことが起こらないようにと配慮してスタート時間に関係なく年齢で三つに分けて、しかもパンフレットに名簿まで載せていたのだが・・・。

私は当初、この日はプレーせずに裏方をやろうと思っていたが、急な欠員ができたのでプレーすることになった。裏方として残った同期生は皆ゴルフのことが良く判っていない。

成績の一覧表が出来あがってきたときにもBとCの間違いがあって、表彰式は間が抜けた感じになってしまった。

当日の気温は30.4度、快晴であったが2日前の雨でとても蒸し暑い日となってしまった。心配した老齢の先輩達も誰も倒れることなく無事に終了したことには正直安堵した。

それぞれ、仕事を持っている同期生が何度か事前に集まって準備をしたのだが、この種の運営はなかなか難しいものである。

当日、忙しい中協力してくれた30名以上の同期生の皆さんには心から感謝いたします。


■2008-07-09-Wednesday まちづくり(1)

2000年2月4日(土)十勝毎日新聞掲載「検証!20世紀の街づくり〜無秩序に拡散した街 誤りではなく時代の要請〜」

十勝環境ラボラトリー(TKL)の活動の一つである「都市構想プロジェクト」が1999年2月末に「まちづくり・ひとづくり交流会」という、より多岐にわたる人材が集まった組織へと発展独立し、「北の屋台ネット事業」を展開することになりました。

この事業はTMO(タウン マネジメント オーガナイゼーション)という、都心部を再活性化させる事業のひとつに位置付けられ、国(全国中小企業団体中央会)からも三ヵ年にわたる補助金を頂きながら活動を続けていくものです。

現在、全国の都心部に位置する商店街はことごとく衰退を続けており、このまま放置すれば取り返しのつかない事態へとなることが予想されておりますが、有効な対応策が見いだせないまま手をこまねいているのが現状です。

ではなぜ、都心部の商店街は衰退してしまったのでしょうか?

まずは20世紀の街づくりを96年からTKLで取り組んでいる「都市構想プロジェクト」の研究成果を踏まえて検証してみましょう。

20世紀という時代は成長の時代でありました。日本も第二次大戦後は人口も経済も右肩上がりの成長を続けて来ました。平均寿命が延び、ベビーブームで家族の数が増え、住宅が不足し、一戸建てを望む人達が郊外へ郊外へと住宅を建設、賃金が上がり可処分所得が増えたことで昔は高嶺の花であった自動車が庶民の足になったことと核家族化が進行したことで更にこの傾向に拍車を掛けました。行政サイドは都市計画が実状に追い付かず、需要を満たすためには新興住宅地を郊外に開発し続けるしかありませんでした。

その結果はどうなったでしょうか?

新興住宅地には30歳代の若夫婦が大挙して住んだために子供の数が増え、小学校・中学校が不足して新設校をたくさん造りました。しかし、年の経過とともにそこの街には子供が少なくなり、いずれ統廃合の運命にあります。平均年令も上昇する老人だけの街になってしまいます。

何も無いところを新たに開発するのですから上下水道や電気、道路などのインフラの整備にも多額の税金を使いました。今後もメンテナンスに多額の費用を要します。

公共交通機関の乏しい中小都市では自動車は重要な移動手段です。当然、公共交通機関よりあらゆる面で便利であり、自動車が普及するにともなって公共交通は衰退しました。

街は無秩序に拡散し、子供の習い事も郊外に立地しました。長距離を自ら移動する手段を持たない子供たちは親が自家用車で送り迎えをすることが当たり前になり、親は子供の専属運転手となってしまいました。

利用者が少ないバスや汽車は採算が合わないので数を減らします。利用者にとっては不便になりますからますます使われなくなってしまうという悪循環に陥りました。

しかし、20世紀は人口が増え続けていたのですから、これらの拡大政策が誤りであったという訳ではありません。むしろ時代の要請であったといえるかもしれません。


■2008-07-10-Thursday まちづくり(2)

2000年2月11日(土)十勝毎日新聞掲載「予測!21世紀のまちづくり〜フローからストックへ 都市の在り方問い直そう〜」

21世紀の日本はどのようになっているのでしょうか?

日本にはかつて人類が経験したことがない程の急激な少子高齢化が到来することが分かっています。2010年頃には人口は減少に転じます。しかも、ただ単に数が減少するだけではありません。若年層が少なく、老年層が多いという年齢構成のバランスに歪が生じることになります。この問題は前例が無いだけに対処が大変難しいと予想されております。

これまでの人口が増え続けて来た時代のセオリーは通用しなくなります。住宅問題を考えただけでもこれまでとは全く逆の方向になる事でしょう。

例えば、一人っ子同士が結婚してその夫婦にも子供が一人だけという世帯が連続したとします。それぞれの両親が一戸建の家を持っていて、単純にその両親が死去したと想定した場合には家が一軒余る計算になります。もちろん、高齢化もするのですからそう単純にはいきませんが少なくとも住宅事情は20年もすると大きく変化してくるものと思われます。

年齢構成のバランスを誤り、年齢が偏った街づくりをしてきたところはいずれ高齢者だけの街になってしまいます。しかも、その場所が郊外に立地し、公共交通機関が無く、運転もままならない人たちだけになったらどうなるのでしょうか?それが帯広のような寒い雪国で今年のように大雪が降ったらどうなるのでしょうか?誰が一戸建ての家の除雪をするのでしょうか?買い物は?病院は?その費用負担は?

十勝ほど「石油」に依存している地域はありません。「石油」の値段が高騰したり、ストップしたりしたら、たちまち十勝の経済は立ち行かなくなるほど基盤が脆弱なものでしかないのです。

20世紀が地下資源やエネルギーを大量消費することで発展してきたフローの時代としたら、21世紀はストックを活用する時代にしなくてはならないでしょう。今ある社会資本やエネルギーを有効に使いこなす文化技術が重要になります。

日本には600兆円を超すといわれる借金があります。これまでのように公共事業に頼る街づくりは不可能です。税金を納める人の数が減るのですから誰が考えても当然の帰結です。少子高齢化問題ひとつを取ってみてもこれ程の変化が出てくるのですから、基本となる前提条件はこれまでと同じであって良いはずはありません。そして更なる重要課題として地球環境問題を考慮しなくてはなりません。

20世紀に税金とエネルギーを消費し続けることで拡大・拡散し続けた都市も、21世紀にはもう一度その在り方を問い直す必要があると考えます。

ある学者による商業形態の変遷の予想はその事態を象徴しています。車社会全盛の現在は巨額の設備投資を要する郊外型巨大ショッピングセンター(SC)が主流を占めていますが、やがて、コンピュータ社会に完全に移行したときには、店舗等の設備投資に経費を掛けないインターネットによるバーチャルショップ等に取って代わられ、郊外型SCも競争に破れて廃墟と化し、都市にはサービスをますます充実させたコンビニエンスストアぐらいしか残らないというのです。


■2008-07-11-Friday まちづくり(3)

2000年2月18日(土)十勝毎日新聞掲載『都市と「こころのよりどころ」〜都市は「ハレ」を感じる空間 車社会の典型となった十勝〜』

都市は都(みやこ)と市(いち)の二つが合わさってできた言葉です。「みやこ」は宗教的権威と政治的権力の中心地としての側面を持ち、「いち」は生産物や情報の交換の場、文化や人の交流の場、演劇や生活や消費の場としての側面を持っています。

両方が揃っての都市であり、特に「市場」の機能は農村と都市を区別するうえで重要なファクターを果たしています。政治的な機能だけを持たせた人工的で無機質な都市施設だけの街では魅力ある都市は生まれません。モノとヒトと情報が集まり、活気に満ちた空間であり、商業・流通機能に加えて、演劇性や非日常性や祝祭性を持った気持ちの昂ぶり、いわゆる「ハレ」を感じる空間でなければならないのです。

洋の東西を問わず、昔から栄えている有名都市には、宗教的・政治的権威物に人が集まったという場所が必ず存在します。例えば欧米では教会や市庁舎前の広場などがあり、日本では神社仏閣の境内などがあります。人々は毎日のようにそこに集まり、語らい、自己表現をしました。(私は人々が何らかの「こころのよりどころ」を求めて集まったのではないかと推測しています。)めざとい商人達は集まってくる人達のサイフを目当てにそこに出店し、そして市場が形成され徐々に都市へと発展していったのです。

残念な事に歴史の浅い帯広にはそういう場所は存在しないといっても差し支えないでしょう。しかも、アメリカのワシントンDCをモデルに造られた街だとすると、万が一ですがその創設理念には「いち」の概念が欠落していた可能性すら考えられます。しかし、都市には人々が「こころのよりどころ」とするそういう場所が必要不可欠なのだと思います。

本来は人のためのものであった都市に、我がもの顔で走り回る自動車が出現したのは一体いつのことなのでしょうか?

それは1908年にアメリカのフォードがT型フォードを大量生産方式で世に送り出したときに始まったといえます。自動車はまさに20世紀を象徴する発明といえるでしょう。日本でも60年代には庶民に手の届く価格になり、急速に普及しました。ちなみに当時の学者達は日本では自動車は普及しないだろうという予測を立てていたという話しを聞きました。その学者達は皆、東京や大阪などの大都会に住んでおり、土地が狭くて駐車場も無く、公共交通が発達している日本では自動車はタクシーぐらいがあれば充分であると分析したといいます。地方に暮らした経験の無い学者の中央中心の逸話として残っているようですが、結果はご存じのように一家に一台の時代となっております。十勝では一家に二台以上の所有率です。見渡す限りのカシワ林を開拓し、白地図上に設計者が自由に描ける道路網、この十勝の広い大地はまさに車社会用に用意された土地といえるのかもしれません。


■2008-07-12-Saturday まちづくり(4)

2000年2月25日(土)十勝毎日新聞掲載『人優先のまちづくりと地域の利益〜地域全体を考えた消費を 身近で低予算な「屋台」の発想へ〜』

自動車は十勝の生活必需品とはいえども、地球環境問題から考えてみても現行の車社会の有様はとても歪であるとしかいえません。特に道路は自動車のためにあるという考え方は高速道路ならいざ知らず、一般道路を我がもの顔で通行するようになったのは、たかだかここ40年程のことではありませんか。市街地とくに都心部における道路は車のものではありません。元来人のためのものなのです。

十勝は車中心社会だからこそ、安心して歩ける、人間優先の本来の機能を持った道路が都心部には必要だと考えます。しかし、今すぐに車を都心部から締め出せと言っている訳ではありません。適切な駐車場と公共交通機関等の整備をしなくては、誰も「まち」に来なくなり、それこそ都心部は廃墟と化してしまいます。長期的なビジョンを明示し、十分な準備をしてから実行する必要があるでしょう。

ところで、最近とても気になっている言葉に「合成の誤謬(ごびゅう)」というのがあります。これはミクロレベルでの合理的判断が、マクロレベルでは不合理を生み出すという意味に使われています。

分かりやすく「まちづくり」を例にとると、ある地域において、消費者が商品を安く、かつ便利に買いたいと思い、郊外の中央資本の大型ショッピングセンター(SC)に車に乗って買い物に行くという行為は、それ自体は合理的な判断に基づく行動だといえるでしょう。個人レベルとしてはごく当たり前の選択です。しかし、地域住民の多くがその選択をしたときは結果として、中央資本の大型SCが地元の商店街を駆逐し、消滅させてしまうことになります。これには、ある種の市場原理が働いているといえなくもありませんが、その結果がそこの地域全体を幸せにしているとは限らないのではないでしょうか。

消費者個人は一円でも安く商品が購入できればそれで良しと考えます。そのこと自体は間違ってはいません。しかし、多少高かったとしても地元資本の店舗で購入すれば利益はその地域に循環します。利益が他に逃げる事無く順にその地域全体を巡ることになれば、やがては消費者の元にも還元されることになります。一方、中央資本の大型店で消費したお金は、ほとんどすべてが一旦中央に集められ一部分が地域に再配分されるのみです。これではその地域は富の蓄積ができずいつまでたっても豊かにはなれません。地域を豊かにするには、地域全体の利益のことを考えた消費行動が必要と考えます。

以上四章にわたって解説してきましたが、これらの研究の中から私たちが導き出した「まちづくり」のキーワードは、長期ビジョン策定・人間優先・こころのよりどころ創造・コンパクトシティ(縮小再構築)・都心部居住・適正年齢構成配分・公共交通機関充実・低コストなどでした。そして、このキーワードを更に追求し、人任せや行政任せなどにならず、自分達が自ら起こせる低予算の活動として「屋台」がクローズアップされたのです。


■2008-07-13-Sunday まちづくり(5)

2000年3月3日(土)十勝毎日新聞掲載「北の屋台〜人情味のある場提供を 取り戻したいまちのにぎわい〜」

「屋台」は現代社会でも世界中のあらゆる場所に存在しており、人類が商行為を始めた時代から存在するまさしく商売の原点ともいえる形態です。日本で現在の形式に近づいたのは江戸時代に寿司、そば、天婦羅などの屋台が盛んになったことによります。今日いうところの屋台は第二次世界大戦の終戦時に戦争引揚者の方々が生活のために行ったものを始まりとしておりますが、残念なことに日本の屋台はやがて消滅する運命にあります。屋台の代名詞といわれる福岡(博多)でさえも例外ではないのです。それは現在営業しているその人一代限りの営業権しか認められていないからです。法律は遡及適用ができませんから道路法や食品衛生法等の法律が施行される以前から営業している人のみ既得権益として行政側が渋々認めているから営業を続けられているのであり、新規参入はできないことになっているのです。新陳代謝が無ければ何物も滅びてしまいます。

最初に私達が「屋台」をやりたいと言い出した時に、このことを知っておられた方々からは「法律上不可能なんだから、それに寒いのだから諦めた方がよい」とご助言を頂きました。しかし、意のあるところに道は通じる、で多くの仲間が集まり色々な角度から調査研究をした結果、諸法規を適正にクリアし、新規参入が可能な方法が見つかったのです。助言に従って最初から諦めていたら「北の屋台」事業は日の目をみなかったことでしょう。

屋台に対する概念を「モバイル・コンパクト・ショップ」と横文字にすることで既成概念がふっ飛び、発想が格段にひろがりました。各地に視察に出向くなど実際に行動し、かつその情報を開示することで常に新たな仲間も加わっており、そこからさらに良い智恵が生まれ、日々変化をし続けています。まだまだ解決しなくてはならない課題も山積しておりますが、確実に現実化に向けて進んでいると感じております。

紙面の都合から一部分だけの解説となりますが、「屋台」は低コスト、低リスクで開業できるメリットがあります。この特性を活かして商人の予備軍を育成します。今、お金は無いけど商売をやってみたいという、いわば素人の人達に「屋台」という道具と場所を提供し、実践することでノウハウを身に付け玄人になってもらい、自信とお金が貯まったら空き店舗に入居して本格的に開業するというサクセスストーリーをつくりました。これには屋台群で空き地を埋める即効的効果と、将来の商人が空き店舗を埋める遅効的効果の二面性を持っているのです。(詳細をお知りになりたい方は事務局まで)

帯広の都心部に欠けている要素は、「こころのよりどころ」であり、重視しなくてはならないものとして「人と人とのコミュニケーション」があると思います。車に振り回されることなく、人間を中心にした、昔ながらの人情味溢れる触れ合いの場が必要だと思います。車社会やコンピュータ社会が進めば進むほど、逆に人と人との直接的な交流を求める人たちも出てくるはずです。所詮、大手資本と設備投資競争をしても勝てっこないのですから中途半端なことは一切やめて、まだ勝ち目のある「人」に特化したことを思いっきりやってみてはどうでしょうか。私達の活動が刺激となってさらに様々な活動が生まれ、帯広が賑わいを取り戻せる日が一日でも早く来ることを楽しみにしています(終わり)。

これは8年前に十勝毎日新聞に掲載されたもので、「北の屋台」(開業は2001年7月29日)オープンの1年半前の文章である。私のまちづくりに対する持論は、事業を行う前にしっかりとした「コンセプト」とそれを実現させる「戦術」を持つことの重要性である。今日のまちづくりの事業はお題目だけを唱えているか、もしくはイベントの為のイベントにしかなっていない。憂慮すべき事態にあると思う。


■2008-07-14-Monday クライマーズ・ハイ

土曜日に夫婦で映画を見て来た。

前々日にとてもつまらない事で夫婦喧嘩をした。それが尾を引いて、妻は土曜日に一人で映画を見に行くと言い出した。一人で見るなら1800円だが、夫婦50歳割引だと二人分で2000円で見られるのである。これは仲直りのチャンスだと瞬時に判断して「あと200円足したら二人で楽しめるよ」と言ったら経済観念がしっかりしている妻は「じゃぁ〜一緒に行く?」と折れてきたので仲直りは一瞬で上手く行ったのであった。

今回見た映画は邦画の「クライマーズ・ハイ」である。横山秀夫原作の日航機墜落事故を取材する地方新聞社の話であるが、本の題名と内容がどうもしっくりこなくて読む気にはなれなかった作品なのであった。

だが、妻との仲直りの為には、妻が見たいという映画に一緒に行かねばならぬのである。でも、意に相違して映画はなかなかに面白かった。

横山秀夫自身が上毛新聞社(映画では北関東新聞社)の記者出身で、実際に経験した日航機事故のことを題材にした作品だから細かい場面にも説得力があった。荒唐無稽な映画も良いが、こういう映画もまた別の楽しみ方がある。私の住む地元の地方新聞社と重ね合わせて一人で悦に入っていた。

惜しむらくは回想録的な部分の人間関係が良く理解できなかった点である。かなり長い映画であったが飽きずに見ることができた。翌日のゴルフで地元新聞社の副社長と同席する機会があったので、是非見た方が良いと勧めたら、彼は上毛新聞社に勤務経験があるが、この映画のことはまったく知らなかったようで、早速見ますと言っていた。

さて、ゴルフでの余談でしかも下ネタで大変恐縮だが、先週の30℃を越えた日のことである。前日の雨のせいで猛烈に湿度が高い、水分を十分に取りながらプレイしていたが汗が吹き出て止まらなくなった。残りが後2ホールになった時に突然、股間の金○袋がカ〜ッと熱くなってヒリヒリし出したのである。ゴルフのやり過ぎで股ズレでも起こしたかな?と思ったのだが、段々と我慢できない程の痛みに変わっていく。「金○袋が痛い」とは恥ずかしくて言えないから何とか我慢してプレイを終了し、あわててトイレに駆け込みパンツを下ろして見たら、腰痛の為に腰に貼っていた冷シップ薬が、汗で剥がれてパンツの中にズリ落ちてきていたのだ。それが金○袋にくっ付いていたのである。

汗でパンツの中がビチョビチョに濡れているところに、更にシップ薬が汗で溶けて、金○袋にくっ付いていたのだから堪らない。股間全体にシップ薬が行き亘った状態になったのである。

すぐに浴室に行って洗うことにした。シャワーを股間に掛けた途端に、思わずウワッ〜と声が出てしまった。この時の痛みといったら筆舌に尽くしがたい。この痛みは女性には絶対判らないだろうなぁ〜。

このヒリヒリ状態が今も完全には抜け切らないでいるのである。皆さん、股間の近くには決してシップ薬を貼ってはいけませんぞ。


■2008-07-15-Tuesday オールマイティ?

昨日の地元新聞に私の文章が掲載された。

「論壇」というコーナーで、1000字内で書きたい事を書いても良いということで引き受けたのである。

今回が最初ということで、「国際環境大学構想」「十勝環境ラボラトリー」「北の屋台」のいきさつに触れ、十勝は先進性のあるまちづくりを目指すべきだと書いたつもりだ。

しかし、中にはそう受け取らない人もいる。

「あなたが北の屋台を辞めさせられた(私は自分では卒業と言っているが)のは、協調性が無いからだ。協調性の無い人間がまちづくりについて偉そうな事を言ってはいけない!」とおっしゃるのである。

確かに言われる通り、私には協調性が無いということは自分でも自覚しているつもりだが、協調性が無ければまちづくりは本当に出来ないのだろうか?

と言うのも「北の屋台」は私の協調性の無さが生み出したものだと思っているからだ。

私に協調性が有れば、北の屋台は初期の時点で終わっていたであろう。何せ、仲間達でさえ皆、途中で諦めたのだから・・・。

皆が、「もう無理だから止めようよ」と言い始めた時に、協調性が無いから一人頑張ったのである。私に協調性というものが有ったら皆の意見に、それこそ協調して「北の屋台」はこの世に存在していないかもしれないではないか。

よく、創業時に必要な人材と安定期に必要な人材は異なると言うが、それに近いのかもしれないと思うようになっている。

また、ある人は「あなたはトランプのジョーカーの様な存在だ」と言うのである。どういう意味でジョーカーと言われたのかは聞かなかったので判らないが、この人は恐らくジョーカーの意味を勘違いされていると思う。

私の好きなマジックに使う「トランプ」(マジックではプレイングカードと言う)は52枚の個性を持たせたカードを使って遊ぶものだ。トランプが何千年も世界中で愛され続けているのはカード一枚一枚に個性があって、強みと弱みや意味(性格)があるからだ。このトランプのセットには52枚のカード以外に一枚だけジョーカーというオールマイティのカードが入っている。このジョーカーというカードは、あるゲームの時には最強のカードであり、またババ抜きなどの時には嫌われ者にもなる。つまり、オールマイティというのは現実の世界では通常ありえないから、恐れられたり、嫌われたり、敬われたりするのである。

まちづくりの世界にもその他の世界にもオールマイティな存在など居るはずがない。皆、52枚のカードの様に、強い分野があったり、弱い分野があったりして、相互に補完し合っているのである。それぞれ性格が違うからまちづくりやゲームが成立するのである。

異なる個性が集まるからこそ力を発揮できるのである。どうも、日本人は異質なものを嫌う傾向にあるようだ。

最近、まちづくりのリーダーには広い度量が必要だなと思うようになってきた。

アッ、でも、ひょっとして「バットマン」の宿敵のジョーカーのことだったりして・・・


■2008-07-16-Wednesday 勝毎「論壇」原稿

2008年7月14日(月)十勝毎日新聞掲載「十勝は先進的まちづくりを」

「環境モデル都市」あれ〜、どこかで聞いたことのある言葉だと思ったら、一九九五年に帯広青年会議所(JC)が提唱した「国際環境モデル地域TOKACHI」に似ていると思い当たった。

これは九二年に世界初の「地球環境問題」を扱う大学設立を提案した遠大な計画「国際環境大学構想」の「十勝を安全で安心なエネルギーと食料の自給他足を実践する完全環境循環モデル地域にして、その価値観とライフスタイルを世界に発信することで地球環境に貢献しよう」という最終目標そのものだった。

過去形で書いたのは、一昨年(〇六)十二月にこの活動(十勝場所と環境ラボラトリー)は終了してしまったからである。

もともと、六年間の期限付きの活動であった。主だった成果が上がらなければスッパリと活動を終了するが、止めるまでは全精力を挙げて取り組む全力疾走型である。途中で「北の屋台」事業が派生したので四年間の期間延長をして十年に亘る活動を終了した。

九二年当時「地球環境問題」は今日ほど関心が高くなかった。と言うよりも「環境は経済の邪魔である」という考え方が支配的でさえあったのだ。隔絶の感があるが今日では環境問題を考えない企業は生き残れない。「歴史にifは無い」と言うが、もし九二年からこの構想に着手していたら今頃十勝は・・・とつい考えてしまう。

「まちづくり」には斬新な発想力とそれを実現させる実行力とが不可欠だ。今日、繁盛している「北の屋台」だって当初は誰もが「北海道みたいな寒いところで屋台なんぞできるわけがない」と仲間たちでさえ批判的だった。

しかし、しっかり二年半かけて調査研究をし、理論構築をし、戦略的広報活動を行ったから実現したのである。思いつきでパッパッパッ〜と始めたのではない。

「マネは成功事例があるから簡単だ」という安易な事業や「責任の所在がハッキリしない」事業は失敗する可能性が高い。もはや、どこかの街のマネでは成果が薄い時代だ。人口が右肩上がりで増えていた時は、遅れながらもいつかは追いつく事ができた百メートル競走社会であった。現代はマージャンのように誰かが得をしたら、誰かが損をするゼロサム社会へと変貌した。「柳の下に二匹目のドジョウはいない社会」になったのだ。以前と同じ考え方で上手くいくはずがない。既成概念や常識だけで考えていると判断を誤る。

先進的な事業が地域を救うことになるのだ。視察に来る人たちも客の一人なのだから。

(注)自給他足は私の造語。余ったら他人にも分けてあげるという意味。


■2008-07-17-Thursday まちづくり(6)

2001年4月21日(土)十勝毎日新聞掲載『屋台ブームと法律の規制 〜「常に移動」義務付ける 固定客つきにくい現行制度』

今、日本ではネオ屋台ブームだそうである。テレビでは台湾や韓国などアジアの屋台の特集番組が連日放映されているし、「日本の屋台巡り」なる番組まで登場するにいたった。その番組制作にあたっては「北の屋台」にも取材があり、屋台研究家(他に研究している人が見当たらなかった様で、研究家とは赤面ものだが)としてアドバイスが欲しいというちょっと変わった依頼があった。雑誌でも屋台を「ストリートフード」として注目し特集を組んでいる。デフレ不況を反映してか東京や大阪では気軽に営業することができるということで屋台が増えているのだ。しかし、ここで紹介されていた屋台はほとんど全てが何等かの形で違法行為をおこない、勝手に営業している屋台であるといえる。

番組中では唯一合法的な福岡(博多)の屋台も、既得権として現営業者一代限りの営業権しか認められてはおらず、新規参入ができない世界であり、屋台は商売としては「トキ」のような絶滅種の業態といえるのである。

東京や大阪の屋台の業者は保健所の許可を取っていると言っていたが、営業者側のかなり強引な拡大解釈であろう。保健所の規制には地域によって若干の違いがあり、東京都の保健所では曳き車(リヤカー)や自動車改造型の屋台は条件が整えば認可される。しかし、取り扱い品目は限られた中からの一品目だけであったり、生ものはダメとか、食器は使い捨てとかその他色々と規制が多い、そして何より一番の問題は常に移動し続けていなければならないことである。立ち止まって商売してはいけないのである。客に呼び止められて注文を受け、調理している間は物理的に移動は不可能なのでその間だけお目こぼししてもらっていることになっているのだ。一ヶ所に長時間留まって営業することは保健所も認めていないし、ましてや、日本国中すべての警察署は歩道、車道を問わず公道上での商行為は公益性のない限り一切認めてはいないのだ。

では、営業場所が警察の管轄外の民有地であった場合はどうであろうか、その場合は保健所はイベントとして3,4日程度の露店としての許可を出しているだけだ。継続的な営業には上下水道、トイレ等を完備した飲食店としての許可が必要なのである。スーパーマーケットなどの駐車場で営業しているタコ焼きなどの自動車改造型の屋台も同一の場所では続けて営業できないから5、6ヶ所のスーパーと契約して3,4日単位で移動しなくてはならないはずである。常に繁華な場所に移動できるというのはメリットだが、客にとってみればいつどこにその屋台があるのか分からないわけだから、固定客は付きにくいのである。


■2008-07-18-Friday 妻のゴルフ

妻がまた「ゴルフをやりたい」と言い出した。

2年前にも同じ事を言ったので、その時には新しくゴルフのセットを購入し、練習場にも付き合ってあげたのだが、「まっすぐに飛ばないからつまらない」と、すぐに止めてしまった。去年はまったく練習場にも行かなかったのに・・・。

今年の私は、10年振りにゴルフばかりやっている。楽しそうに出掛ける私を見て、「貴方ばかりが楽しむのは気分が良くない。私もゴルフを始める」「せっかく買ったクラブがもったいない」「南国のリゾートに夫婦二人で行った時に私もゴルフが出来ないと貴方もつまらないでしょ?」と言い出したのである。

妻がこう言い出したら私は従うしかない。

4日前から夕食後に練習場に二人で行き、一汗かいてから温泉に行くというパターンに一日のスケジュールを変えたのだ。

夫婦でゴルフをやる人たちを何組も知っているが、夫婦と一緒の組では絶対に回りたくない。なぜなら、必ず途中で夫婦喧嘩を始めるからだ。それもド派手な奴を。夫婦喧嘩は勝手に家でやってくれれば良いのだが、ゴルフ場でやられた日にゃ、同伴競技者は堪ったものではない。やたらと気を使って集中できないからスコアはメチャクチャになるし、終わった後にこれまた勝手に仲直りでもされたら、さっきのは一体なんだったんだ!と怒りたくもなる。誠に迷惑な存在がほとんどなのである。

それでなくても、私たち夫婦は一緒に居る時間がやたらと長い夫婦である。会社も一緒、食事も一緒、映画も一緒、家も一緒(当たり前か!)である。妻から解放されて一人で楽しめるゴルフの世界にまで妻が侵食してきたらどうしようと考えていたら、妻が「やっぱり思ったところに飛ばないからつまらない」と言い始めた。

「バカヤロウ!思った所に飛べば誰も苦労はシネェ〜ンダゾ!」と心の中で叫んだが勿論口に出して言う訳はない。しめしめ、練習場だけでこんな程度なら、コースデビューはしないだろうなと思っていたら。負けず嫌いの妻は、「今度は絶対に上手くなってやる」と言うのである。

やれやれ、コースでは他人の邪魔にならないように、夫婦喧嘩はしないように気を付けよう。でも、妻と一緒だと私のスコアはきっとガタガタになるのだろうなぁ〜。


■2008-07-19-Saturday まちづくり(7)

2001年4月28日(土)十勝毎日新聞掲載『既存の屋台と北の屋台 〜長所だけを取り入れる 固定型厨房とドッキング〜』

屋台は世界共通の商形態で、特にアジアでは盛んであり、アジアの文化であるとすら言えよう。屋台のある街はどこもにぎわいがあり、人であふれ返っている。元来人間は屋外で食事することが好きなのではあるまいか。

台湾の台北市にはたくさんの屋台街があり、現地の家族連れが夕食を食べに来ていたり、観光客も大勢が見物に来てごった返している。目の前で調理する屋台はパフォーマンスとしても機能しており、見ているだけでも楽しくなるものだ。しかし、意外と知られていないことだが、台湾の屋台も実は違法であり、常に警察と追っ掛けっこを繰り返しているのだ。でも客にとってみれば違法か順法かは無関係で、おいしいものを安く提供してくれればそれで良いのだ。むしろ、無法であるが故の活力すら感じてしまう。法律や規制でがんじがらめにしてしまうのは如何なものだろうか。

日本人が屋台に抱くイメージはチャルメラを鳴らしながら町を流して歩く「夜鳴きそば」のラーメン屋台が多いようだ。しかし、現在では移動方式の屋台は許可されないか、たとえ許可されたとしても実際の営業には問題が多い。

福岡に代表される合法的な屋台も移動方式ではなく、あらかじめ決められた場所に「仮設店舗」を運んできて、その都度、組み立て、収納を繰り返す、いわば「半固定式仮設店舗型屋台」なのである。

公道を使用するから、歩行者の邪魔にならないように営業時間や占有面積に厳しいしばりがあり、営業していない時には片付けなくてはならない。そこから屋台のしんどさや問題点が生まれた。夜間しか営業できないから営業者の昼と夜の生活が逆転してしまい体力的にきつくなる。毎日の組み立てに1時間、収納に2時間、離れた保管場所への移動をしなくてはならない。既得権によって守られた商売で新規参入がないから活性化されない。上下水道とトイレが無いから非衛生的であり、その為メニューに制限があるなどだ。

北の屋台はこの問題点を解消し、長所だけを取り入れた。繁華街の一等地に通り抜けできる(道路と同じ形状)民有地を借り、上下水道、水洗トイレ等を完備した小さな厨房を据え置く。民有地は道路法・道路交通法には関係しないから警察からの道路使用許可は不要になった。道路ではないからいちいち移動する必要がないので、各種の設備を完備した厨房を置くことが出来るようになった。この厨房を造ることで保健所からは飲食店としての許可を得られるので、メニューに制限がなくなったし、営業者側の冬の防寒対策ができた。厨房部分にシンクやコンロや冷蔵庫などを置いておけるので、屋台部分の軽量簡素化ができ、毎日の組み立て、収納、移動が楽になったなどである。固定型厨房に屋台をドッキングさせるアイデアはまさにコロンブスの卵であった。


■2008-07-20-Sunday まちづくり(8)

2001年5月5日(土)十勝毎日新聞掲載『食糧自給率低下と旬の喪失 〜地産地消と身土不二 「食」に対する見直しを〜』

屋台の営業は基本的に屋外である。したがって天候に大きく左右される。九州の福岡の屋台は梅雨や台風や真夏の35度を越える蒸し暑さの為に年間の営業日数は平均で240日程度しか取れない。公道上で営業する屋台は歩行者の邪魔にならないように大きさの規定が厳しく、幅は3.0メートル、奥行きは2.5メートルしかないので、客席は客の背中が暖簾にくっつくほど狭い。1週間に3度も市役所の職員がはみ出していないか検査に来るので、下部はもちろんのこと屋根部分もはみ出すことはできないから、雨が降ったら客の背中が濡れてしまうので雨が大敵となるのだ。

ささやかな庶民の楽しみを、活力の源を、「お上」が規制してしまうから街の元気が損なわれてしまう。官僚は問題が起きないようにとあらかじめ規制をたくさん作るが、もっと自由にやらせて、問題が起きた時の罰則規定等を強化して、自己責任でやらせることも必要ではなかろうか。

これには市民の側にも責任がある。問題が起きた時に何でもかんでも他人(行政など)のせいにすることを止めなくては、規制だらけの窮屈でつまらない世の中になってしまう。まちづくりにも良い意味での「いい加減さ」が必要だと感じる。

住民が日本の食糧生産基地として自負しているこの十勝であるが、実は脆弱な基盤しかないことを全くと言って良いほど自覚していない。日本の食糧自給率はカロリーベースで40%、穀物自給率だと29%(100%である米を入れても)でしかない。しょせん日本は食料を輸入しなければ生きていくことができない国なのである。農産品三品に対して一般セーフガード(緊急輸入制限措置)発動うんぬんという記事が出ていたが、こんなに少ない自給率なら今後はもっとこの種の問題が出て来るのは必至である。ただ単に価格の面だけで「食」をとらえていて良い訳はない、人は食べなくては生きて行けないのだから。

今後、日本では人口は減るが世界的には爆発的に増加する。つまり、食料は世界的に不足するのだ。今、国内の農業を減らしてはいけない。しかし、事は量を増やせば良いという単純なものではない。農業を工業化したことに対する地球のしっぺ返しが世界中で起きている。十勝の大規模農業とて例外ではありえない。手遅れにならない内にもっと「食」に対する見直しをしよう。

現代の生活には「旬」が無くなってしまった。スーパーの売り場にはいつも同じ種類の野菜や果物が並んでいる。世界中から輸入し産地を変えることで収穫時期にズレをつくり、いつでも食べられるようにしている。便利だし楽だが「季節感」というものが感じられなくなってしまった。そのうち俳句の季語も意味が無くなってしまうかもしれない。

地産地消や身土不二という言葉がある。その地域で取れたものはその地域で消費しよう、自分の生活圏域で取れたものが自分の身体に一番合っているという意味だ。


■2008-07-21-Monday まちづくり(9)

2001年5月12日(土)十勝毎日新聞掲載『「食」価値観〜生産と消費の乖離防げ コミュニケーション可能な店〜』

20世紀、人類は無駄を省きひたすら効率化を追求してきた。その結果、一見便利なったような気になっているが、実は失ったものの方が多いように感じる。

ドイツの作家ミヒャエル・エンデは小説「モモ」に書いている。灰色の男たちに勧められ、節約した時間を時間銀行に貯めた気になっている人たちは、実は巧みに騙されていたのであり、貯めるどころか、逆に時間を盗まれ、余裕を失い、日毎にイライラしていく。つまり、効率化すると時間の余裕が生まれるのではなく、逆に益々忙しく時間に追われ、身体や精神を疲れさせてしまうのだ。「モモ」に描かれている世界は空想の物語ではなく、現実の話ではないだろうか?

近年は、生産者である農業者と消費者である生活者との間に高い壁が生じているそうだ。都会には魚が切り身で泳いでいる絵を描く子供がいるほどだから、野菜や果物がどのように育っていて、どのようにして収穫され、どのように調理されて、目の前の料理になっているのか、そんなことすら分からない子供たちも大勢いるのだ。生産場所と消費場所との乖離が起きている。果たして十勝は大丈夫だと断言できるのだろうか?

一番大きな原因はコミュニケーションの不在だ。生産者と消費者間の意志の疎通が不足している。

二番目の原因として、冷凍食品やお惣菜を買ってきて電子レンジでチンするだけで済ませ、家庭では手を掛けた料理を作らなくなったとか、外食の機会が増えたからだとも言われている。

厨房と食事をする場所が離れている大きな飲食店では客には調理する姿が見えないから、外食が悪いのだと敵対視されるのも仕方がないことかもしれない。しかし、例えば「北の屋台」では十勝の農家が、朝、自分の農場で採れた新鮮なものを持ち込み、自慢の腕で目の前で調理のパフォーマンスをする。こだわっていることの薀蓄を聞いたり、お互いの悩みを話し合ったり、または楽しみながら、安全で安心なものを食べることができる。コミュニケーションが解決してくれることが沢山あるはずだ。

もうひとつ、商社が効率性という自分の都合に合わせて作った「規格」という「もったいない」ものがある。流通の際に無駄がないように野菜などの大きさや形に「規格」を作ったのだ。規格に合わない大きなものや小さなものは商品にしづらいので処分してしまう。こんなにもったいない行為はない。

戦後の日本は成長と共に「おいしい」ものを求めて生きてきた。しかし、21世紀は「おいしく」ものを食べる時代になるのではないだろうか?

人間にとって必要不可欠な「食」という行為を通して、これまでの価値観を変えてみようではないか。


■2008-07-22-Tuesday まちづくり(10)

2001年5月19日(土)十勝毎日新聞掲載『「スローフード」と「ファストフード」〜季節を感じ旬を味わう 十勝ならではのスタイルに〜』

イタリアでおこったスローフード運動の定義は「食べ物の質と安全性と経済性に立脚した、人と人、人と自然の関係性の問題を追及する運動」であると「スローフードな人生(島村菜津著)」に書かれていた。また、スローフードとファストフードとの違いはただ単に早いか遅いかという次元の問題ではなく次の三点があるかないかであると。

①ありとあらゆる多様な注文が可能であり、その注文に対応できること。

②会話が豊富であり、人と人との交流があること。

③そこで働く人々の個性が輝いていること。

これは「北の屋台」が目指すところとまったく同じ理念である。

最近のファストフード店同士の異常な低価格競争は利益性を無視した無理な営業をしている。価格競争とはつまるところ体力勝負であり、中小零細店が巨大チェーン店に体力で勝てるはずはない。巨大ファストフードチェーンには真似できない手法で付加価値を付け、適正な利益を確保しなくては生きていけなくなる。

冷暖房や空調で管理された建物の中は確かに快適だが、北海道であろうがハワイであろうが建物の中は世界中どこでも同じになってしまい、せっかくの季節や場所の特性を殺してしまっている。逆に言うとこれはファストフードチェーン店の世界制覇戦略なのだ。世界中同じマーク、同じ店舗、同じ味、同じメニュー、同じサービスにする。均質化しなくてはマニュアルが生きないからだ。場所の特性や働く人の個性は邪魔にしかならない。売り手側の論理でひたすら効率性を追求するのみだ。

料理には本来人をもてなす心が重要であり、食事はただ単に腹を満たす為だけの行為ではないはずだ。食べる人の好みに合わせた味付けや季節感や旬を感じさせる料理は、きっと現代人が失った何かを再発見させてくれるのではないかと期待している。

北海道の冬の室温は高過ぎる。ほとんどの建物が26℃以上にセットされ、しかもどの部屋もが暖かい。真冬にTシャツでビールを飲むというライフスタイルは北海道だけに見られる異常な光景だ。日本全国の冬期間の室温は高くてもせいぜい20℃くらいで生活している。北海道人は日本一寒がりの人種なのかもしれない。

カナダのエドモントン市は冬はマイナス30℃を越える寒いところで、ビルとビルの間をスカイウェイでつないで外に出なくても街の中を歩けるようにしている都市だが、そんな寒い所にもアウトドアカフェ(オープンカフェ)があった。土地の人に言わせると「夏が短いからこそ、その短い夏を存分に楽しむのさ」とのこと。十勝人にはこの心意気が欠けているのではなかろうか。

21世紀は環境の世紀。化石燃料である灯油をガンガン燃やして暖かくすることは地球温暖化にとっても良くない生活態度であり、省エネルギー型に切り替える必要がある。

季節を感じながら、旬を味わいながら、一期一会の風情で遊ぶ、十勝ならではの価値観とライフスタイルを「北の屋台」で創り出したい。


■2008-07-23-Wednesday 道新、朝の食卓34

北海道新聞2006年8月17日掲載「野外劇」

函館の五稜郭を舞台にした野外劇を見てきた。函館白百合学園の演劇部に所属している娘が主要なコロポックル役で出演するし、3年生なので最初で最後だからぜひ見に来て欲しいと言うのだ。

子供の教育にははなはだ不熱心な親であると自覚しているから、点数稼ぎのつもりで出かけた。

中学生の時分には、恥ずかしがり屋で消極的だった娘が、親元を離れて寮生活をするうちに、たくましく積極的な子に成長し、この野外劇には自ら進んでオーディションに応募したと言う。親元から離した方が子供の教育には効果的なんだなぁ〜、良い学校に入れてもらったなぁ〜と痛感した。

野外劇は函館の市民500人ほどがボランティアで創作しているというので、見る前には学芸会程度のものを想像していたが、なかなかどうして素晴らしい内容でおおいに感心させられた。

そして娘は「スポットライトの虜」になってしまったようで演劇の道に進みたいと言いだした。

私も親に反対されてプロマジシャンを諦めたくちであるから、やはり血は争えない。「悔いを残さないよう全力で頑張れ」とアドバイスした。昔のマジシャン仲間から「今の職業に就いて正解だったね!」とからかわれているように、結局、人生の幸不幸は自分の価値観だし、棺桶に入るまでは分からないものだから・・・。


■2008-07-24-Thursday 道新、朝の食卓35

北海道新聞2006年9月28日掲載「卒業30周年」

時間は万人に平等だ!というのはデタラメである!

先ごろ、高校卒業30周年の同期会を十勝川温泉のホテルを会場に開催した。幹事代表として5年毎に呼びかけている集まりだが、今回は遠方からの参加者には旅費の一部を援助したので、前3回には不参加だった人が大勢初参加して8クラス360人中の101人、恩師も3人が出席し、明け方近くまで話が尽きない一夜を過ごした。

しかし、そこに集まった人間が同じ年齢とはとても思えなかったのである。会を盛り上げる趣向として、卒業アルバムの写真を転写して名札を作成したのだが、30年前の姿とは似ても似つかぬ姿になったものだから「おまえ、誰だよ!」の声があちこちから聞こえてきた。

還暦を過ぎている先生が50歳代前半にしか見えないほど若々しいのに、逆に皆から先生と間違えられて挨拶されるような老けた同期生がいた。名字が変わった人もいれば、元に戻った人もいるし、孫ができておばあちゃんになったという人もいた。まさに人生いろいろである。

歳月は人の容姿を変えるものだが、髪の毛と体形が特に重要だ。

「みんな、ずいぶんとブザマな姿になったなぁ」と言ったら、「おまえにだけは言われたくない」と言い返された。

そうかなぁ、どうやら我が家の鏡は歪んでいるみたいである。


■2008-07-25-Friday 道新、朝の食卓36

北海道新聞2006年11月8日掲載「酒と健康??」

ウァ〜、痒いョ〜。8月下旬の夕方、突然、体中にじんましんの発作が出た。さすがの私もその晩は飲みに出ず、妻を前に家でおとなしくしているだけであった。

多少痛いのは我慢できる。しかし、痒いのだけは我慢できない。めったなことでは行かない病院嫌いなのだが、翌朝すぐに駆けつけた。

結局、原因は特定できなかったが、普段の生活態度を正直に答えたために、「酒を控えて肝臓を休めるように」と厳しく言い渡された。

いまさら健康に気を使って節制しても、いつ事故に遭うかもしれないからとうそぶいて、毎日酒を大量に飲み続けていた人間が、急に2ヶ月以上も一滴も口にしないものだから、「おまえもついに長生きしたくなったのか?」とからかわれることしきりである。

もっぱら寝酒中心で、飲まなきゃ眠れないと思い込んでいたのだが、飲まない方が寝つきが良く、ベッドに入った途端に眠れるようになった。しかも寝起きが実に爽快なのだ。これまでは睡眠というよりは昏睡に近かったのかも・・・。

毎晩飲んでいた酒の高カロリーを摂取しないのだから、少しは痩せるかと思ったが、一向にその気配がない。それもそのはずで、口が寂しくてついついチョコレートやアイスクリームを食べてしまうからだ。

酒を止めたら、今度は糖尿か!ウ〜ム、健康は命より大切だ!


■2008-07-26-Saturday 道新、朝の食卓37

北海道新聞2006年12月16日掲載「巡り合わせ」

先日、講演で訪れた広島でとても奇妙な経験をした。方向感覚には絶対の自信を持っているのだが、なんと道に迷ってしまったのだ。しかも自信が揺らいでいるその時に、講演で同席した自称霊能力者という人から、私の前世や巡り合わせについてこんこんと説かれたのであった。

4度目の年男であった今年は、私にとって様々な事に終止符を打つ年回りに当たったようなのである。

まずは30年以上も毎日大量に飲み続けていた酒を(アレッ!計算が合わないゾ!)8月末からピタッと止めているし、10年以上続けてきた「まちづくり」活動も今月で期限が終了する。

そしてなによりも残念なのが丸4年間、37編を書いてきたこの「朝の食卓」の担当が、今回で最後となってしまったことである(500字程度の文字数にまとめる難しさと、自分の文章が大勢の読者に読まれていることの緊張感が良い刺激になった。感謝!感謝!である)。

なんでも私の前世は、大変徳の高い宗教家であったそうな(検証は不能だが・・・)。

そういえば私の人生訓は「人間万事塞翁が馬」なのであった。これからは達観して、運命に逆らわずに生きてみるとするか。

妻からは「売りビルと唐様で書く三代目」にならぬよう、本業にも身を入れてね〜と、きつく釘を刺されている・・・。


■2008-07-27-Sunday 洞爺湖サミット

サミットに関してのコメントが無いのでは?

というメールを愛読者から頂いた。

今回のサミットについては特にコメントする気にもならなかったので、書かなかったのであるが、こういうメールを頂いた以上は気が進まないがやはりコメントを発しておかねばなるまい。

600億円の大金を掛けて、一流のホテルで、一流のシェフが作る料理を食べて、少数の先進国首脳たちの会議の主要議題が「地球環境問題」ではどんな結論を出しても説得力が無いと思うのである。テロ等に備える為に警備が必要だから一流ホテルを貸し切るのはまだしも判るが、今日の世界的「貧困問題」や「食糧問題」を考慮するなら、せめて食事はもっと質素にするべきであろう。先進国と途上国との乖離を際立たせる効果はあったかもしれないが・・・。

最近「ポイント・オブ・ノーリターン(引き返し限界点)」という航空業界の専門用語が環境問題でも使われ出した。飛行機の離陸の際に、飛び立つか、引き返すかを判断する限界地点のことだが、地球環境はもはやその限界点を越えたと言う学者もいるのに、2050年でCO2を半減させるということの目標に同意しただけの会議に一体何が出来るというのだろうか。

日本の抱えている諸問題を解決するのに600億円もあったらいくつかは解決が出来るのではないのか?

いつも書いていることだが、少子化による人口減少社会に転じた日本は、これまでの右肩上がりの人口増加社会とは根本的に発想を変えなければならないと思うのである。ベクトルの向きが真逆なのに、制度の修正だけでは永遠におっ追かないことが多過ぎるように思うのである。例えば年金や社会保障制度もこれまで真面目に払って来た人たちは腹立たしく思うだろうが、ガラガラポンと一度崩してからやり直さなければ、それこそ国民の誰もが払わなくなってしまうと思う。600億円の財源があったらそれこそそのガラガラポンが出来たのではないのだろうか?他国への援助も自国民に余裕がなければそうそう出来るものではないと思う。

日本には見栄を張ってこんな中身のない会議に600億円の大盤振る舞いしている余裕なんぞないのでは?


■2008-07-28-Monday 北京オリンピック

2008年8月8日の8並びに

北京オリンピックが始まる。

後11日だが、本当に開催出来るのだろうか?心配である。

何だか嫌〜な感じがするのだ。テロ、暴動、天変地異など何でも起こりそうな感じである。

中国がオリンピックを開催するのは早過ぎたのではないのだろうか?政府もかなり無理を重ねているように見える。世界中が注目する中で、チベット問題など政府に不満を持っている人や、経済的格差が大きくて不満を持っている人たちが世界にその不満をアピールしようとして何かをやらかすのではないかと心配である。

その他にも食事の問題、空気や水などの問題、警備の問題などの心配事も多い。たとえ期間中は表に現れなくても、終了後に不満が爆発するかもしれない。今頃、政府要人たちは、オリンピックなど招致しなければ良かったと思っているのではないだろうか?

応援に北京まで行くのも辛そうだ。せっかく隣国でのオリンピックだがとても見に行く気にはなれないから、テレビ観戦でもすることにしよう。時差が無いから寝不足にはならずに済みそうだからだ。


■2008-07-29-Tuesday 不景気?

釈然としない世の中だ。

日本は今、スタグフレーション(不況下のインフレ)に見舞われようとしている。原因は何だろう。たぶんにアメリカのサブプライムローン等の問題があるのではないか。

アメリカは巨額の経常赤字を抱えている。赤字ということはアメリカの支出が生産を上回っているということだ。元々アメリカ人は貯蓄をしないで、派手に消費活動をしてきた。そして、それを支えていたのは日本人だ。日本人がせっせと貯蓄していたお金がアメリカに行き、アメリカ人は無謀な消費活動をして、日本人のお金を使いまくった。そしてそれが、泡のように消えた。この間、日本人は何一つ良い思いをしていない。アメリカ人の浪費にただせっせと貢いでいただけだ。アホらしい限りである。

このアメリカの浪費がいつまでもつのか?もう限界に近いだろう。だからサブプライムローンの問題が起こったのだ。

日本の金融機関は、なぜこんなアメリカに投資したのか?そしてその損失はまったくアメリカには投資もしていない日本人にも多大な影響を与えている。

今朝のニュースではWTOの農業問題が出てきた。

日本政府は日本をグローバル化するのか、鎖国するのか。政策をハッキリさせろ!

本来は豊かな生活が出来るはずの日本人の利益を、ドブに捨てるようにして消費している。何の形にもせずに。

お金は循環してこそ意味がある。一方的にアメリカに貢いで一方通行でただ損だけをした。

こんな状態でも一部の人間にはお金が集まる。余ったお金は投機に回り、石油や小麦などの高騰に拍車を掛ける。そしてそのツケは貧しい民が払う。

こんなことバカバカしくてやってられないぞ!

いい加減に何とかしろ!


■2008-07-30-Wednesday マジック特番

マジックの番組があった。

昨晩(29日)19:00〜21:00のフジテレビ系列の特番で「お笑い芸人マジック王座決定戦スペシャル」と銘打っている。テレビ欄を見てマジックの文字が目に留まると必ず録画しておくのだが、今回は題名を見ただけで録画の必要無しとすぐに判断した。でも一応は見ておくかと初めの4組までは見たが、とてもばかばかしくなって、ゴルフの練習場に出掛けてしまった。

見ていない人の為に、見た限りの4組の芸人のところまでを解説すると、お笑い芸人が持ちネタの「お笑い」をやりながら本格的なマジックを絡めて演じるという趣向である。マジックの指導にはそれぞれ別々のプロマジシャンたちがあたって、練習風景などもVTRで紹介していた。お笑い芸人たちはイリュージョン(大掛かりなマジック)を演じてみせ、芸能人(マジックには素人)の審査員が評価して得点を出し、勝ち負けを判定するのだが、その得点表示の時にマジックを指導したプロマジシャンたちが指導者としてお笑い芸人達の横につっ立っているのである。

なぜ、こんな番組が成立するのだろう?

疑問の①はなぜ、マジックの素人のお笑い芸人がマジックを演じて、プロマジシャン達がマジックの演技しないのだろうか?ということである。

恐らく無名なマジシャン達だけでは視聴率が取れないということなのだろう。

それにしても、今、とてもスケジュール的に忙しいであろう旬のお笑い芸人たちに、ほんの少しだけマジックを指導して、お笑い芸人達はほんの少し練習をしただけで本格的なイリュージョンマジックが簡単に演じられるなら、視聴者にイリュージョンマジックって一体何なんだ!と思われないだろうか?

今から27〜8年前に初代引田天功が持病の心臓病で脱出マジックが出来なくなった時に、日本テレビの都合で当時マジックは素人同然であった助手の朝風まり(現二代目引田天功)が急遽代役に抜擢され一週間程度の特訓(特訓の模様もドキュメンタリータッチで流した)でその代役を果たしたことがあった。結局、命を掛けた「大脱出マジック」というのは素人が簡単に出来るものだとテレビで証明してしまった訳である。それ以降脱出マジックはウソ臭くなってしまい視聴率的には急激にダメになってテレビからマジックの様に姿を消してしまった。

テレビ局もプロマジシャンたちもそれと同じ轍を踏もうというのだろうか?

疑問の②はなぜ、プロマジシャンたちは自分達の商売道具を、しかもイリュージョンという大ネタを、いとも容易く素人同然のお笑い芸人に貸し出すのだろう?

マジックは不思議さが生命である。そして、その不思議さを醸し出すには神秘性という演出も重要な要素であると思うのである。

お笑い芸人が悪いというつもりはないが、マギー審司らが演じている「お笑いマジック」と「イリュージョン」とではジャンルが大きく異なると思うのである。マジックのことを何も理解していないテレビ局のディレクターが視聴率のことだけを考えてこのような番組を作ろうと企画したのだとしたら、相談された側のマジシャンは「それは違う!」と言わなければならない立場の人間であろう。それが嬉々として、こんな番組に出るようではよっぽどお金に困っているとしか思えない。マジシャンとしての魂を売っている行為である。

情けなくなってしまった。

プロマジシャンたちよ!自分の演技で客を唸らせよ!そしてその演技で金を稼げ!


■2008-07-31-Thursday 予言者

7月9日に予言者として有名なジュセリーノの講演を聞いた。

アメリカ貿易センタービルの9・11のテロ事件を予言したとして話題になっている御仁で、著作も4冊ほどが本屋に平積みされてベストセラーになっている今、旬の予言者である。

フリーペーパーのプレゼント欄を見てインターネットで応募したら2名様ご招待の券が当選したので行くことにしたのである。

高校1年生(1973年)の時に日本中に「ノストラダムスの大予言」ブームが起こり、私は夢中になって五島勉の著作を買って読んだ口である。その後、色々な人たちの「ノストラダムス」の予言分析の本を買って読んだのだが、結局1999年7月には何も起きなかったので、急速にブームは去ったのであるが、ある意味26年間四半世紀の長きに亘って楽しませてもらった。五島勉には騙されたが彼はかなり儲かったろうなぁ〜。

このように予言には関心があったのだが、ノストラダムスの一件ですっかり熱が冷めていたところに、またぞろジュセリーノなるブラジルの予言者がテレビや本で話題になっている。

しかもその本人が帯広で講演するというのだ。料金は一人5000円となっていたので、さすがにこの金額を払ってまで聞く気はしなかったが、ご招待でタダなら行くかと夫婦で出掛けたのである。

550人入る帯広文化ホールの小ホールはガラガラで観客は200人程度しか入っていなかった。入り口でジュセリーノ本人が自著にサインをしながら著作を売っていた。「買うか?」と妻に聞いたら「ばかばかしいから止めよう」というので買わずに席に着いた。

始まる前に何だかとても胡散臭いおじさんが会場の席を回って客に握手している。私の席にも来たので「嫌だなぁ〜」と思ったのだが、手を引っ込めて断ることも出来ずに、仕方なく握手はしておいたが・・・。

ジュセリーノの講演内容は「地球環境問題」のことで、地球温暖化で太平洋の島が水没する。日本も海岸線が山の方まで侵食し、陸地が少なくなる。という類の話で、何月何日にどこどこで何かが起こるという様な予言の話ではなかった。つまらなくて途中で寝くなった。

ジュセリーノの後は、先ほどの胡散臭いおじさんの地球環境問題の講演だというので、家に返ってしまった。あんなものに5000円払って聞きに行く人がいるのだろうか?

なにやら、マルチの客集めに利用されているだけの様な感じがしてジュセリーノが気の毒に思えたが、でも、本当の予言者なら、そんな自分に降りかかることは最初から承知の上のことか!

何だか可笑しな夜であった。