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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-05-01-Saturday ばんえい競馬③

昨日に続いてUHBのテレビ撮影があった。

今日はばんえい競馬場での撮影をしたいとの注文である。

「北の屋台」の時にもテレビ・雑誌・新聞等に出過ぎたせいで、仲間に嫉妬(?)のような感情が芽生えた様に感じたので、「馬鹿(うまか)もん」では4月1日以降は、なるべく前面には立ちたくないと思っているのに・・・。

中途半端な有名人(?)というのは実に面倒な存在なのだ。顔も中途半端に知られているから、もちろん悪いことはできないし、恥ずかしいこともできないからだ。

ディレクターの注文で競馬場の色々な場所を回りながら撮影していった。ばんえい競馬場に来るのは4回目である。説明を聞きながら回ると結構知らないことが多くて新鮮な気持ちがした。

以前に来た時には、何で馬が途中で立ち止まるのか?と不審に思ったものだったが、説明を聞いてなるほどと判った。ラウンジという場所にも連れて行ってもらったが、綺麗でしゃれた雰囲気だし、こんな場所があったのかと感じた。

1階には家族連れや素人が多いが、2階は熟練者が多いという雰囲気だ。フワフワランドという大きな風船の乗り物などの催しをやっていたせいなのか、連休だからなのか、結構な数のお客さんが入っている。

ただ、時間消費をするには、食堂が学食みたいで、いまいちゆっくり食事をしようという雰囲気にはならない。

競馬の様子を見ていると、馬の進み具合に合わせて観客も一緒に走る姿が見受けられた。これは、中央競馬のスピード感とは決定的に違うところで面白い光景だ。

以前に開拓時代の馬の写真を見たことがあるが、馬の4〜5倍くらいの大きさの丸太を積んだソリを引っ張っている場面で、ものすごい迫力を感じたものだったが、ばんえい競馬が引っ張るソリは鉄製だし、重りを積んでいるから重いのだろうが、小さくこじんまりとしているので、引っ張っている馬よりもかなり小さく見える。この辺が、いまいち迫力不足に感じるところではないだろうか?

撮影が終了したので、せっかく来たのだから馬券でも購入してみようと思ったのだが、買い方が判らない。競馬を一度もやった事がない人間にとっては短勝式というのはまだ判るがその他はさっぱりだ。

ボランティアの人が教えてくれるというが、聞いてまで買いたいとは思わなかったので止めてしまった。

ド素人がもっと買いやすくする必要があるだろうと感じた。

「十勝村」という7月にオープンする商業施設を建築中だったが、ここで「馬鹿(うまか)もん」でも販売してくれたら良いのにと思ったが、果たして競馬関係者が許可するだろうか?

私は、勝手にばんえい競馬の未来は馬肉食にかかっていると感じているのだが・・・。


■2010-05-02-Sunday 氷上の新スポーツ

読売新聞2010年5月1日(土)北海道版「風向計」掲載

「氷上のシンクロに期待」

「シンクロナイズド・スケーティング」というスポーツをご存じだろうか?

16人の団体で滑るフィギュア・スケートの競技で、水泳のシンクロナイズド・スイミングとフィギュアのアイスダンスを融合させた、ショー的要素が豊富で見ていてとても楽しいスポーツだ。日本での認知度はまだまだ低いが、アメリカでは500以上のチームがあり、競技人口は8000人もいて人気が高い。

4月10・11日にアメリカのコロラドスプリングスのワールド・アリーナで、第10回世界選手権大会が開催され、日本代表チーム「神宮アイス・メッセンジャー・グレース(神宮IMG)」のキャプテンとして娘が参加した。

「神宮IMG」はスポーツマネジメントを学んだ荻田美環とスウェーデンチームで世界一を経験した星野有衣子が中心になって、世界に伍していけるチームを日本にも作りたいと設立した「グレース」と、既存の「神宮アイスメッセンジャーズ」とが去年の8月に合併し、全メンバーが揃ったのが12月という急拵えのチームである。同レベルの選手を16人揃えることが大変なのだ。

その新チームが猛練習を繰り返して今年2月に行われた全日本選手権大会で優勝し日本代表になった。世界を知る新しい人材の加入がチームを大きく変身させたのである。

娘は5歳からフィギュアを始め、大学でシンクロナイズド・スケーティングに出会い、去年までは別チームに所属していた。これまでも日本代表として世界選手権大会には参加していたが、私はこれまで娘の演技を生で観たことがない。今回初めて観戦し、すっかりその魅力にハマッてしまった。世界のトップレベルの演技は実に素晴らしい、優雅に滑るチームや新しい演出に挑戦するチームもあり、16人がシンクロして滑る様は感動的ですらある。

ショートプログラムとフリースケーティングの2種目を2日間で競うが、日本は出場23チーム中、ショート10位、フリー9位、総合成績で10位と大健闘。ショートもフリーもこれまでの日本代表チームのベストスコアを遥かに更新し、総合9位のUSA2にその差わずか1.88点まで迫った。贔屓目だが、会場がアメリカでなければ、日本が勝っていたと思う。今回の成績は世界の強豪チームと同じ土俵で戦えるレベルにまで成長したということだ。

事業仕分けでスポーツ予算が削られそうな気配だが、世界で競うスポーツはマイナー競技であっても日本を元気にする効果がある。日本人好みの余韻を感じさせる魅力的な競技なので今後ファンが増えることだろう。


■2010-05-03-Monday ラジオ出演

地元のFMラジオ局に出演した。

帯広には2つのローカルFMラジオ局があるが、今回出演したのは「FMウィング」という方の局である。

番組名は「輝け!中年の星」というタイトルで、十勝の中年で面白い趣味の活動をしている人達をスタジオに招いて、トークをしながらその趣味を紹介するというGWの特別番組だ。

私は今回は「マジック」で呼ばれたのである。

ラジオでマジック?どうやってやるの?というのが、最初に依頼を受けた時の感想だ。

私の前の出演者は「サックス」の演奏が趣味の人だから、実際にサックスを演奏して紹介していた。

私にもマジックを実際に演じて欲しいという注文なのである。ラジオでマジックをやっても「ハイ、今、ボールが出てきました」「ハイ、今ボールが消えました」なんて、やったところで聞いている人に判る訳がないから、どうしようかと心配しながらスタジオ入りした。

1人の持ち時間は30分間である。

パーソナリティの女性は「木栖(きすみ)」さんという名前の方だ。初めて名前を聞いた時には「Kiss me」と聞こえたので、外人受けする苗字だなぁと覚えていた名前である。

このパーソナリティの方が「マジックを始められたキッカケは?」と聞くので「小学6年生の・・・・」と話し始めたら、もう止まらなくなってしまい、大学に入学する時の話で、ちょうど時間が来てしまった。

話してる自分も面白くて、アッという間に30分が過ぎてしまったのだ。パーソナリティの人も、時間配分を誤ったのか、それとも、私の話に聞き惚れて時間を忘れたのか・・・。

結局、マジックの実演は無しで、話だけで持ち時間の30分が終了してしまった。

終了後に、私以外の出演者の方は話がなかなか繋がらないので、実演で時間をカバーしていたが、坂本さんは、話だけで面白かったので、実演を入れる必要がなかったと言ってくれたが・・・。

でも逆に、マジックの実演をラジオでやった方がシラケタと思うけどね。

自宅で家族がラジオを聞いていたが、「面白かったよ!」と言ってくれたので、まぁ良しとしましょう。

私の40年間のマジック人生を30分で話すのは、最初から無理だったのだから。


■2010-05-04-Tuesday 連休

ここ最近の連休は帯広から離れたことがない。

我が家は、昔から商売をしていたし、私が小学4年生までは職住一致(家と職場が一緒)だったから、土日や連休などは、いわゆる「稼ぎ時」というやつで、一般サラリーマン家庭とは違って、親は休むことが出来ないから、連休にどこかに出掛けるということはなかった。

私の友人たちの家庭も、商売人の家庭が多かったので、皆、同じ境遇だったから、別段不思議に感じたことはなかったのだ。

そのかわり、連休以外の空いている時期に、連れて行ってもらえるから、むしろ施設のサービスは良いし、混雑していないしで快適であったのだ。

そんな事が身体に染み込んでしまったのか、連休に会社が休みになっても、どこかに出掛けるということは、ほとんどない。

この連休も、どこかに出掛けるという予定もまるでないまま迎えた。

その代わりに、東京に行っている3人の子供たちが3人とも帰郷してきた。

この時期の飛行機の料金は割引がないのでとても高いから、むしろ帰ってこられるよりも、その分こずかいをやるから東京に居ろと言うほうが親のフトコロとしてはありがたいのだが・・・。

おじいちゃん、おばあちゃんたちが、どうしても孫の顔が見たいと言うので・・・。

しかも、1人ずつ別々の日に来て、また1人ずつ別々の日に帰るというのだ。妻は子供の送迎だけで6回も空港に行くことになる。

家族全員が一堂に揃うのは3日の途中からと・4日の1日だけである。この2日間に、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に食事を3回一緒に食べた。

5月2日は父の18回目の祥月命日なので、お坊さんにお参りに来てもらい。長女が帰郷して全員揃った4日にお墓参りをしてきた。帰りに子供が寿司を食べたいというので、回転寿司屋に行って食べてきたが、なんと11人で12000円しか掛からなかったのだ。回転寿司は安くてまことに結構である。

5月20日は駄犬サニー君の1周忌だし、長女はお墓に行ったことがないというから、家族5人でドライブがてらサニー君の墓参りをしてきた。

夜はホテルの中華料理店でおじいちゃん、おばあちゃんたちと一緒に食事会である。カメラを持参して孫と一緒の写真を撮ってあげた。食事が終わってお年寄り3人はタクシーに乗せて帰し、家族5人でカラオケに行き、徒歩で帰宅した。

途中のコンビニで、さっき写した写真を現像しようと子供が言う。カメラを渡すと、慣れた手つきで機械を操作して、写したばかりの写真がすぐに現像されて出てくるのだ。なんと便利なことだろう。しかし、これではカメラ屋さんは商売あがったりだなぁ。

歩きながら、学生時代のGWの過ごし方の話を息子にした。私が、学生の頃は、GWは帰省などせずに、いつも金を掛けない旅行に出掛けたものだ。例えば京都の大学に行っている高校の同級生の下宿に転がり込んで、京都や奈良を見学したものだったのに・・・。

現在の男性の若者はあまり旅行を好まないようである。

テレビで見ただけで満足しているのだろうか?

実際に自分の目と足で観ることが視野を広げてくれるのに・・・。また友人の下宿に泊めてもらうことにも抵抗があるようだ。

なんだか、私の学生時代とは男女の性格が入れ替わってしまったかのようである。


■2010-05-05-Wednesday こどもとの連休

3人の子供たちが帰郷している。

4日のカラオケから帰宅して、愛犬バニーちゃんと5人で写真を撮ったりしていたら、子供たちが、急にあらたまっって「パパとママにプレゼントがある」と言うのだ。

「そこに、並んで立って下さい。」と言って、私たち夫婦に手紙とプレゼントを渡してくれた。

5月16日は私たち夫婦の結婚記念日で25周年の銀婚式なのだ。ちゃんと親の結婚記念日を子供たちが覚えていてくれるのは嬉しいことだ。

プレゼントはオスとメスの豚のぬいぐるみで、結婚式のお祝いに友人たちがマジックペンで寄せ書きをして新郎新婦に渡すものであるが、それに3人の子供たちのメッセージが書き込まれている。

妻も、子供たちからの予期せぬプレゼントに「この両親から生まれて本当に良かった」と書かれては、鬼の目にも涙で、嬉し泣きをしていた。

これは、次女が企画して、東京で準備をしてきたようだ。この辺の企画力の良さは私に似たのかな?

まぁ、なんにせよ、家族が集まるのは良いものだ。子供たちは3人とも高校から親元を離れて暮らしているからか、親離れが出来ているように感じる(親バカかな?)。

健康にまっすぐに育ってくれたのは何よりの親孝行である。


■2010-05-06-Thursday 読書

連休中に高田崇史の小説を読破した。

4月から読み始めた「QEDシリーズ」である。

一番最初に最新刊の「河童伝説⑬」を読むまで高田崇史のことを知らなかったのが悔やまれるくらいに面白い。私の知的好奇心を大いににぎわせてくれる作品だ。立て続けに6冊読破して、先のアメリカ旅行の際にも4冊持っていって読んだ。そして残り3冊の「神器封殺⑪」「御霊将門⑫」「ベイカー街の問題③」をこの連休で読みきったのだ。

一番最後に残ったのは、QEDシリーズでは異端の第三冊目「ベイカー街の問題」である。

どうしても、日本古代の謎ときが面白くて、この異端作品の3番目(シャーロックホームズの謎とき)を飛ばして読んでいたのだ。

やはり、コナン・ドイルの小説の主人公であるシャーロック・ホームズの謎ときというのは読んでいて変な感じがしたし、他のQEDシリーズのテーマとはかなり違和感を感じる作品であった。

しかし、他の12冊は梅原猛・井沢元彦らが唱えた「怨霊」「言霊」史観を進化させた感のある高田崇史史観は面白い。

もう一度、古事記や日本書紀を読み直してみようと思うほどだ。

連休中に帰省している子供たちにも読書を勧めたのだが、3人とも皆、難色を示した。そもそも歴史に興味の無い人間が読んでも感動が薄いのかも知れないなぁ。

妻にこれらの本の内容を話しても、私が何を話しているのかがチンプンカンプンらしいのだ。

自分の国の歴史を知ろうとしないなんて・・・。

これで高田崇史のQEDシリーズは全て読み終わってしまった。次は何を読もうか思案している。


■2010-05-07-Friday テレビ出演

今日の夕方のニュース番組の特集で、

「馬鹿(うまか)もん」が取り上げられた。

16:53〜のUHB局(デジ8)の「スーパーニュース」の特集で18:25頃から約7分間の特集で放送されたのである。

その「特集」の直前のニュースで、北海道中の11箇所の「B級ご当地グルメ」の関係者が道庁の高橋知事を表敬訪問しているというニュースが30秒ほど流れたが、こちらは、スタートしたのが4月1日(四月馬鹿)の日という、まだまだ活動の浅い「馬鹿(うまか)もん」が特集として約7分間という扱いだから、何だか恐縮してしまう破格の扱い方であると感じた。

それだけ、メディアの期待も高いのではないかと勝手に想像している。

この事業は私の事業というよりは、北海道青年会議所の人達に委ねたものなので、私はあまり前面には立ちたくないのだが・・・。

最初に、私がカードマジックを演じている場面が10秒ほど流れたのだが、ディレクターの方がマジックの事をあまり良く理解していない様であった。私が演じたマジックは全体で3分ほどのマジックで、4枚のトランプが次々と変化(①3枚のダイヤAと1枚のスぺードの10が→②3枚のスペードの10と1枚のダイヤのAになりそのトランプが→③4枚ともダイヤのAになり→④最後に4枚とも全部スペードの10に変化する)していくというマジックなのだが編集された箇所は、一番最後の4枚ともスペードの10になったところだけを写していたから、視聴者にしてみれば(最初からスペードの10を4枚見せただけとしか見えないから何が不思議なのだろうとかしか思えない)マジックとしての不思議さは全く無い場面であった。とても残念である。

私としては「馬鹿(うまか)もん」よりもマジックを放映してもらった方が嬉しかったのに・・・。

まぁ、それは冗談としても、番組自体はとても良い編集であったと思う。「北の屋台」関係者にも宣伝になっただろうし、「馬鹿(うまか)もん」関係者、「センナリ」や「ばんえい競馬」関係者にとっても、好意的な内容だったと感じた。

テレビの怖さは、放映されるまで、どの様に編集されているかが判らないところなのだ。

放映直後に数人から電話が入ったが、皆さん「とても良かったよ」と言ってくれたので、「馬鹿(うまか)もん」としても良い宣伝になったと思う。

私も食べ物の好き嫌いが激しい方なので、嫌いなものや食べ慣れないものを進められるのは苦手なのだ。その気持ちが良く判るだけに、食べ物というのは、自発的に食べたくなるように仕向けなければならないということを痛感している。

食文化を変えることは、一朝一夕に出来ることではないから、ジックリと取り組んでいって欲しいと思っている。

「馬鹿(うまか)もん」をキッカケに馬肉、エゾシカ肉の消費量が増えてくれれば嬉しいと思う。


■2010-05-08-Saturday TRICK

映画「TRICK」を見てきた。

今日から封切りの新作「劇場版TORICK霊能力者バトルロイヤル」である。帰省中の大学生の息子と妻と3人で見て来た。

私の趣味はマジックだから、新聞のテレビ欄を見て、マジック・手品・奇術などの文字を見つけると録画しておく癖がある。

この「TORICK」というのも、テレビ朝日局系列で2000年の夏の夜中の番組で放送されたものを見て依頼のファンである。

主演の売れないマジシャン山田奈緒子役の仲間由紀恵を一目見た瞬間に、「この人は必ずブレイクするぞ!」と妻に予言(?)しておいたが、その通りになった。

それ以降は番組のコミカルさからか、徐々に人気が出てきて続編が次々と作られてきたのだ。

この「TORICK」の監督は「20世紀少年」と同じ堤幸彦である。どうやら、この監督は「新興宗教」に対して良い印象を持っていないのであろう。一貫して「新興宗教」の怪しげな教祖のトリックを手品だと看破して、笑い飛ばしている。

観客も声を出して笑っているが、マジシャンとしては少し複雑な心境だ。

観客にしてみれば、こんな単純な馬鹿馬鹿しいトリックになんぞ引っ掛かるもんか!と感じながら笑って見ているのだろうが、トリックというのは単純であればあるほど、逆に引っ掛かるものなのだ。複雑にする方が疑念が入り易いのである。

「新興宗教」の教祖たちも、恐らくそんなマジックや詐欺師の手口を勉強しているであろうことは想像に難くない。第三者的に、俯瞰的に眺めれば、この映画の様に笑い飛ばせるかもしれないが・・・。

この映画の中で道化師的な扱いである阿部寛演じるところの大学教授上田次郎でさえも、自称、霊能力者から「貴方を呪い殺してみましょうか?」と言われれば、「そんな馬鹿なことは無い」とは思いながらも嫌がるものだ。ましてや進んでその呪いを受けようなどという日本人は少ないだろう。なぜなら日本人は千数百年間近くも「言霊(ことだま)言葉には力が有り、言葉に発したことが現実になるという信仰」に支配されてきた国民だからだ。

「言霊」という言葉を知らない現代人でさえ、運動会などの前日に「明日、雨が降るかもしれない」などと口にしたら、「不吉なことを言わないでよ!縁起でもない!」と言う人が多いのだから・・・。

日本人のメンタリティにこの「言霊」はシッカリと根付いてしまっているのだ。

私も現代科学が万能だとは少しも思っていない。むしろ現代科学では解き明かすことの出来ないものの方が多いのではないかとさえ思っているのだ。

だが、逆に現代科学では目に見えないものを証明することが出来ないから、新興宗教はそこを巧みに突いてくるのだ。いわゆる「先祖の霊が祟っている」とか言って・・・。

以前にも書いたが、「先祖を恨むことはあっても、子孫の繁栄を望まない人はいない」と考える。ましてや「供養」と称して効果があるかないかが判明しない行為で、高額の金銭を要求するようなものがまともな宗教であるはずがないではないか。

宗教法人は税金も掛からないし、仕入れも不要の実体のないものを売るのだから正に「坊主丸儲け」である(羨ましい〜?)。

一緒に見た息子にも「最近は、新興宗教の勧誘が大学のキャンパス内でも行われているとの報道も多い、奴等は、最初は新興宗教とは名乗らずにセミナーや勉強会やサークルなどと称して近寄って来るから気をつけなさいよ」と言っておいた。

世の中が不安定になると宗教に頼りたくなるのが人情というものだろうが、金儲けしか考えていない奴等に、一生懸命に貢いで何になるというのだろうか?

きっと、堤幸彦監督は笑いの中に、そのことを訴えているのだろう。


■2010-05-09-Sunday 坂本龍馬

テレビで坂本龍馬の謎云々という2時間番組があった。

坂本姓の歴史的人物は坂本龍馬くらいだから、同じ姓を持つ身としては坂本龍馬には関心が深い。

近年はNHKの大河ドラマがつまらなくて永らく見ていなかったのだが、今年の「龍馬伝」は欠かさずに見ているほどだ。

この番組の感想を言えば「何じゃ、こりゃぁ〜」という感じだ。

最近のテレビは時間稼ぎの為なのか、それとも制作費を安くあげる為なのか、CMの前後に同じ場面ばかりを何度も何度も写して、サッパリ前に進まない。いい加減、頭にきながらも謎解きに期待して、堪えて見続けたのだが・・・。

結局、何等の新事実も現れず、承知の事実を流しただけである。これまでの謎をただ列挙するだけで、何一つ謎を解明しないのだ。看板に偽り有りである。

この日放映された内容ならば1時間番組で十分に放映できた内容である。上げ底で水増しして無理やり2時間番組にしたてあげたようにみえる。

つい先日に高田崇史の「QED龍馬暗殺」を読んだばかりだったから、かえってこのテレビ番組のつまらなさが浮き彫りにされた感じだ。

NHKの「龍馬伝」の人気に便乗しただけにしか感じなかった。

ただ、唯一の収穫といえば、龍馬という人物が、綱渡りの様なとても危ういバランスの上で生きていたということを実感したくらいである。

最近の民放局の番組はあまりに酷い内容だ。NHKの番組の方がはるかに良質でしかも面白い。テレビ局は少し数を減らした方が良いのではないだろうか?


■2010-05-10-Monday ゴルフシーズン到来

今年のゴルフが始まった。

帯広青年会議所の「じゃがいもクラブ」の第一回例会が帯広国際カントリークラブで9日に開催された。

この連休中に一度は練習に行こうかと思っていたのだが、4月29日に季節外れの雪が積もったのですっかり出鼻をくじかれてしまった。

また、この連休中は子供たちも帰省していたので、せっかくの家族団らんに私一人でゴルフに行ったらヒンシュクものだなぁと思って控えていたのである。

だから今日のコンペは練習もしないでいきなり本番に突入してしまった。

早目にゴルフ場に行って打ちっぱなしをして身体をほぐそうと思ったのだが、打ちっぱなし練習場に行ったら小銭が無く、両替に戻るのも面倒なので打つのを止めてしまったから、結局打ちっぱなしは出来なかったのだ。

プレー前にパット練習を10回ほどやっただけで、本番になってしまったのである。

こういう時の第一打は緊張するものだ。何とか当たったが、左の林の中に打ち込んでしまい第二打は横に出すだけでボギーを打ち、そんな状態が続いて前半の中コースはオービーも一発打って45打、後半は少し持ち直したが池にも入れて41打であった。まぁ練習をしないで86打なら、まぁまぁというところだろう。

これから本格的にゴルフが始まるが、去年や一昨年の様には燃えるものがない。何故なんだろう?

まぁ、今年は力まずに年間40ラウンドを目標に頑張ろう!


■2010-05-11-Tuesday 食べず嫌い

テレビの反響が大きくて困惑している。

7日のUHB局「スーパーニュース」の特集で約7分間ほど「馬鹿(うまか)もん」についての放送があったのだが・・・。

私が出ずっぱりの感があったからなのか、それとも、UHBの番組予告が何度も何度も流れたからなのか、街で出会うほとんどの人から「テレビを見たよ!」と声を掛けられる。

好意的に見てくれた人もいれば、中には「馬肉なんか食べられない」と言う人も多い。

テレビ番組というのは、何時間収録しても使われるのは極一部でしかないから、私の意見が全部伝えられる訳ではないのだが・・・。

あの番組を見た人の中には、私が馬肉食を強引に勧めているように感じる方がいるのだろうなぁ。

私は食べ物の好き嫌いが激しい方なので、自分が嫌いな食べ物を他人に勧められるのはとても苦痛なのだ。だから、馬肉や鹿肉が嫌いだという人に無理に勧めるつもりは端からない。

喰わず嫌いの場合は、自分から自発的に食べてみようかという気にでもならなければ、食べられるものではないことは百も承知なのである。

だからこそ、洒落の世界で「話のタネに食べてみようか」という気にさせる手法を考案したのであるが、それが十分に伝わっていないようなのだ。残念である。

また、日高のサラブレッドの地方競馬と、帯広のばんえい競馬を混同している方も多くて困惑している。

日高の馬は最初から競馬用の馬でしかないし、ばんえい競馬の馬は食肉用の馬をばんえい競馬に使っているという違いが理解されていないようなのだ。

私がここで「農耕馬」をあえて「食肉用」と書くから誤解が生じるのかもしれないが・・・。

現在の農業はトラクターなどの機械で行うので「農耕馬」を農業用に生産している畜産農家などあるはずがないのだ。例えば1軒の畜産農家が10頭の馬を生産したとして、その内ばんえい競馬馬に出来るのはせいぜいが2頭で、後の8頭は食肉用として熊本県に送られているのが現実なのである。

いくらばんえい競馬馬を生産していると言い張ったとしても・・・夢と現実は異なるのである。

このことを知らない人が多いから、私は現実を見つめた上でばんえい競馬の振興策を考えましょうよと言っているだけなのだ。

私は、ばんえい競馬の関係者でもないし、馬の畜産農家でもない。別に馬肉の消費量が増えたからといって私の収入が増える訳でもないのだから、熱くなるつもりもないのだが・・・。

私は喰わず嫌いには、ご先祖さまからのDNAが影響しているのではないかと勝手に考えている。

私は生モノが苦手である。刺身などの生魚は好きではないのだ。特に「さば」や「こはだ」などの俗に言う「ひかりもの」がダメなのだ。「かつおのたたき」も苦手だ。しかし、「さばの味噌煮」や「さばの塩焼き」や「かつおぶし」などは好物なのである。

我が家のご先祖さまは、海の無い山梨県のしかも山奥の北巨摩郡の出身であるから、流通の悪かった昔は、生魚などは食べたことがなかったのだろう。ましてや足の早い青魚などは尚更であったことだろう。

動物の自己防衛本能として食べ慣れないモノは「毒」であるかもしれないから、身体が受け付けないという事が遺伝子に組み込まれたに違いないと踏んでいるのである。

だから子孫である私も、生魚はダメでも煮たり焼いたりしたら食べられるのだと思う。

まぁ、勝手な考えのようだが、自分では一理あると思っているのです。


■2010-05-12-Wednesday 政治家は!?

政治家は国民をナメテいる!

次回の参議院選挙の候補者として、柔ちゃんこと谷亮子が民主党から立候補するという。立ち枯れ日本からはかの杉村大蔵くんが・・・。

その他にもスポーツ選手や芸能人たちが候補者として目白押しである。

政治家は彼等候補者に一体何を期待しているのだろう?

有名人だから、選挙活動期間が短くても票が稼げるとでも考えているのだろうか?

一方の立候補をする連中も一体何を考えているのだろうか?

谷亮子は会見でも「当選してもオリンピック出場を目指す」と発言していたが、政治もオリンピックも片手間で出来ることなのか?だとしたら、政治家に対しても少し失礼な話だし、オリンピックを目指して鍛錬している選手に対してはとても失礼な話ではないのだろうか?

日本国民もここまで政治家や候補者に馬鹿にされて、それでも黙って彼等に投票するのだろうか?

政治家は自ら政治を貶めているだけではないのか?

こんなアホなことをやっているから政治家が国民からバカにされるのだ。

テレビの会見を見ていて腹が立ってきた。

こんな程度の政治家なのに、税金から給料を払っていることを、国民は馬鹿馬鹿しいと思わないのだろうか?

少なくともこんな連中しか候補者がいないなら参議院は不要だ!

帯広の政治の世界もグチャグチャである。中川昭一死後の自民党系はバラバラになっている。叔父の中川義雄は「立ち枯れ日本」から参議院選挙に立つと言っているし、渡辺喜美の「みんなの党」の支部も自民党系の市議が支部長になって出来たし、鈴木宗男の「新党大地」も影響力を保持している。

民主党は先の市長選挙でも、自民党系の候補者とは僅か138票の僅差で勝っただけだから、民主党の凋落は激しい。

いったいこの先どんなことになるのやら。


■2010-05-13-Thursday 我が家の歴史の再開

坂本家の歴史を書くことをしばらく停止していたが再開しようと思う。

一昨年までに書いたのは、サニーデパートを飲食店ビルの坂本ビルに変えたところまでであったので、その続きを書くことにする。

父の圭司(昭和2年7月25日生)が平成4(1992)年5月2日に64歳で亡くなった。

当時の坂本ビルはテナントが引き抜かれてガラガラの状態だった。私が飛行機賃を掛けて東京に行き、帯広の経済状況をまとめた資料を持参して説得して歩いて入居にこぎつけたテナントを、オープンした翌日には他の貸しビルのオーナーやデベロッパーらが訪ねて来ては「坂本ビルの家賃よりも安くするから移って来ないか?」と誘うのである。

物販の店舗は什器備品を取り外して運べば、簡単に店舗を移動出来るのだ。新しいテナントはわが社に義理があるわけじゃぁなし、移動に掛かる経費と家賃と違約金を天秤に掛けて、すぐに元が取れるようなら簡単に出ていくのだ。

防衛策として違約金を契約時に高額にしようと考えたが、入ってくれと頼む方が高飛車な態度は取れないからその方法は難しかったのである。

誘う方のビルにしてみれば、帯広に出店した店舗に声を掛けるだけだから出張費も人件費も掛けていない。だから、その分安くしても採算は十分に取れる訳だ。こちらにしてみれば、メボシイ店を事前に調べてアポイントを取って上京し、帯広の経済状況を説明して連れて来たテナントを横取りされるのだから、いささか頭に来て抗議したこともあったのだが、相手は蛙の面に小便なのである。実に悔しい思いをしたものだった。

簡単に引き抜かれない方法をと考え出したのが「飲食店ビル」への転換であった。我が社の立地条件と東側にあった貸家の撤退との時期が上手く重なってこの転換は上手くいったのである(詳細は昔のブログを参照のこと)。

私が帯広青年会議所に入会したのは昭和62(1987)年のことである。同期入会者の中の最年少の27歳であった。

私は学生時代に体育会系のクラブにはほんの僅かしか入会していなくて、そのほとんどが文科系のクラブの所属であったから、体育会系の縦の先輩後輩という人間関係が苦手だったのだ。

その当時の帯広青年会議所(JC)は今からは考えられないような体育会系の上下関係のある団体であった。

新入会員の歓迎会で先輩から、使用中の灰皿の吸い殻をお盆に捨てただけの灰皿に、ストレートのウイスキーを入れて「飲め!」と言われたり、ホステスの靴を脱がせてその靴にウイスキーを入れて「飲め!」と言われたりしたのである。

私はお酒が好きだが、美味しく飲みたいのであって、そんな汚いモノを飲まされるのは嫌だから拒否したら、頭からビールを掛けられたのだ。頭に来て「こんなクダラナイ組織に居られるか!」と入会してすぐに退会する決意をしたのだが、同期入会した「無二の会(昭和62年入会だから私が発案して付けた名称)」のメンバーから引きとめられて1年間は我慢することにした。

この1年間は嫌で嫌でしかたなかったが、逃げたと思われるのも癪に障るから1年間全ての行事に参加して、それからスパッと辞めてやろうと思ったのだ。

先輩の強引な(汚い)酒の勧めは得意のマジックでごまかして飲んだふりをして免れた。しかし、我慢しながら続けている内に、JCが段々と面白くなってきたのだ。1年後には結局続けることになったのであった。

入会3年目の平成元(1989)年には総務委員会の副委員長に、5年目の平成3(1991)年には都市環境問題委員会の委員長に就任した。

この頃はJCが面白くて仕方がなかった時期であった。

翌平成4(1992)年からは日本青年会議所に出向することが決まっていたのだった。

ところが、平成3(1991)年の11月20日に翌年から始まる日本JCの第一回目の会議に出席している最中に父が倒れたのだ。

実は父の具合が悪くなったのは平成元(1989)年10月のことである。10月25日に検査入院で帯広厚生病院に入院して検査してもらい、11月29日に再入院して翌30日に治療をしたのだが、検査入院の後で医師から病状の説明をするから病院に来て欲しいと言う連絡が入った。

妹の夫(昭和29年生)は歯医者をしているし、私よりも年上なので一緒に行ってもらうことにしたのである。

2人で医師から話を聞いたら父の病気は末期の肝臓癌で既に手の施しようが無く、寿命はもって1年とのことだった。

大ショックだった。

父に伝えるべきか否か迷いに迷ったが、知らせたら父の寿命をかえって短くさせるだけだと判断した。母に知らせても父に伝わってしまうと考えて、兄弟だけに知らせることにしたのである。

その後、余命1年と医師に言われた父も2年半もってくれた。その間自分の病状を知らない父は母と何度も旅行に出掛けたりもした。父と母の最後の旅行は1991年の10月中旬であったが、東京の姉の家に泊りに行き、父が一人で家の周りを散歩してくると言って出掛けて迷子になったことがあった。方向感覚は抜群の父が迷子になるなんてと驚いたのだが、肝臓が悪いと新鮮な血液が脳に回らなくなって痴呆症のようになるらしい。この時はかなり病状が悪化していたようだ。

東京に嫁いだ姉も休みの度に帰郷して父と一緒に過ごすことが出来た。まだ結婚していなかった末の弟も1991年6月2日に結婚したので4人の兄弟姉妹全員が家庭を持ったので親としての務めを果たしたのではないだろうか。父と母に病状を知らせていないから、自宅でも会社でも死後の準備をすることが出来なかった、というよりもしたくなかったというのが実情だ。父が死んでしまうという現実から逃避していたのかもしれない。

しかし、さすがにこの平成3年11月の入院は、いよいよ父の死が直前に迫っていることを実感させたのだ。

日本JCへのエントリーは急遽とり辞めて代わりのメンバーに行ってもらった。もはやJCにうつつを抜かしている場合ではない。このまま行ったら会社も倒産しかねない状況に陥るのが目に見えていたからだ。(つづく)


■2010-05-14-Friday 我が家の歴史②

父が死んで会社は大変な事態になった。

坂本ビルにはテナントがほとんど入っていない状態なのである。

テナントからの家賃収入がまるでないに等しいのだ。

幸か不幸か父の生命保険金で一息ついているような状況であった。遺産相続は私が会社を継ぐということで、他の3人の姉妹弟たちが相続を放棄してくれたので私と母との2人で分配することになったが、この時の判断が実にまずかった。

1991年まで続いたいわゆる「バブル景気」のせいで未来予測を誤ったのである。

わが社の建っている帯広市西2条南9丁目は帯広で一番土地の値段が高い場所なのであるが、土地の値段がバブル期にボンボンボンと上がったので、固定資産税もそれに伴ってボンボンボンと巨額になっていたのだ。

それまで戦後の日本では土地の値段が下がったことなどなかったから、たとえバブル景気が崩壊しても土地の値段は下がらないだろうと予測したのである。本来なら父の妻である母が財産の半分を相続すればその分には税金は掛らないのであるが、次に何年後かに母が死んだ時に、土地の値段が更に上がった状態で、私が土地を二次相続したら相続税の支払いが大変な額になると考えたのである。だから会社の土地を私が相続して、残りは母が相続することにしたのだ。これが間違いであった。

バブルのせいで西2条南9丁目の固定資産税は史上最高額に達していた。しかし翌年からは大幅に固定資産税が下がり始めるのである。相続税率も92年がピークで翌年から税率が下がり始めたのだ。つまり、ダブルパンチで高額な相続税を持って行かれたのである。

もし、この時に母が土地を相続していたら現在の固定資産税は当時からみるとかなり下がっているから母の死亡時の相続税は相当安く済んだはずである。完全に判断を誤ってしまった。

それでも救いはまだあった。バブル当時は盛んに変額保険(高額の保険料を一時払いさせる為に土地を担保にして銀行が保険料を貸し出す保険で、相続税対策に有効な手法と言われていたが、バブルが崩壊してこの手法は破たんした)を保険会社や銀行が盛んに勧めてきたのだが、父の余命が1年と宣告されていたので、そういう相続税対策を一切行わなかったからだ。もしも余命1年と言われていなかったらやっていたかもしれないなと考えると、財産全部を無くすよりは少しはマシかと考えることにしたのである。(つづく)


■2010-05-15-Saturday 我が家の歴史③

先代が亡くなった直後に、

相続した息子が、大きな事業に手を出して会社を傾けるという事例が、私の身近にも数多く見られた。

皆、「先代よりも自分の方が能力があるんだぞ!」ということを早く世間の人に認めてもらいたいが為に焦って大きな事業に手を出してしまうのだろう。その心情は良く判る。

また、周りの人たちも「貴方が社長になったんだから、貴方が今ここで決められるでしょう?」などと即断即決を迫ってくるケースも増えるのだ。

私も父が病床に着いてからは実質的に社長業をやっていたのだが、ナンバー2とナンバー1とではやはり違いがあるのだ。

熟考したい事態が生じた場合は、父が病床にいてたとえ実際には相談できない状態であっても、生きててさえいれば、「社長に相談しなければ私では決められない」と時間稼ぎができるのだが、社長が死んでしまえばそれが出来ないのだ。

相手も巧みにその辺を突いて来る。ナンバー1というのはなかなか大変なものなのである。

私はこの経験から、他の団体で活動する場合でもナンバー1というポストには就かないで、ナンバー2のポストに就いて、実質的にはナンバー1の仕事をするという方法を選んだのだ。だが、後にこの方法も間違いであったのだが・・・。

私は父が死んでから1年間は喪に服すと称して、新しい事業には一切手を出さなかった。完全に開き直って、その間、他人を観察し、事業を頭の中で組み立てていたのである。

青年会議所でも目立った活動は一切やらなかった。死んだ振りをしていたのだ。

坂本ビルは更にテナントが抜けて、ガラガラ状態が益々進行した。世間では坂本ビルはもうすぐ倒産するのではないかと噂されたのではないだろうかと思う。

しかし、サニーデパートという物販のビルを飲食店ビルに変えるには給排水設備・給排気設備などを入れ替えなければならないし、エスカレーターは撤去、エレベーターは入れ替えが必要になった。中途半端な金額で収まる工事ではないし、期間もかなり掛かる。

これに失敗したら、まさに倒産だ。一世一代の大勝負であるから失敗は許されない。全身全霊を掛けてあらゆる角度から考えに考えたのである。

妻はこの頃の私は夜中によくウナサレていたと言うからかなり精神的にもプレッシャーを感じていたのだろうと思う。そのせいで髪の毛が薄くなったのかもしれない。

準備は万端整った。ダラダラと工事をする訳にもいかないし、工事が完成してからテナント募集をして、もし入居するテナントがいなければこれまたアウトなのである。

どうやったらお金を掛けずに世間にアピールできるか、その方法も考えた。これが今日の「国際環境大学構想プロジェクト」「北の屋台」「馬鹿(うまか)もん」などのメディアに協力してもらうPR方法に繋がっていくのだから、面白いものである。

新聞に掲載された途端に、入居希望の大手居酒屋チェーン店が3社も社長じきじきに来社してくれたのだ。

社長同士の話は早いもので、競合することはむしろシナジー効果を生み出すから歓迎するというのである。地下にあった既存の居酒屋を除いては・・・。これは以前のブログにも書いたのでここでは割愛するが、この地下に入居していた居酒屋の社長の説得には苦労したが、腹を決めて交渉したので、相手の社長さんにもその気迫が伝わったのだろうと思う。最終的には承諾してくれて、サニーデパートは、地階「つぼ八」、1階「いろはにほへと」、2階「白木屋」、3階「魚民」という大きな居酒屋チェーン店がそれぞれワンフロアーを使うという、当時はまだ日本のどこにもなかった飲食店ビルが出来上がったのである。(つづく)


■2010-05-16-Sunday 結婚記念日

今日は妻との結婚記念日だ。

(妻とのと書いたが、別に誰か他の女性がいる訳ではないことは言うまでもないが・・・。)

昭和60(1985)年5月16日(木)だから、丁度25年目、いわゆる銀婚式というやつである。

なぜ、曜日まで覚えているかというと、当時、父がサニーデパートという寄合百貨店ビルを経営しており、休日が第一・三木曜日と決まっていたからだ。同じデパート内のテナントさんたちもご招待しなければならないからデパートが休みの木曜日を選んだのである。

北海道の結婚式は「会費制」といわれる合理的な結婚式が多いのだが、父がそれを嫌って「招待制」で行ったのである。会費制だと発起人という新郎新婦の仲間達が式を運営してくれるから、当事者達は比較的楽なのだが、どんな式になるかは発起人達にお任せ状態になるから、父が不安に感じたのだろう。

しかし、招待制というのは、その分身内や新郎新婦がやらなければならないから結構大変であった。

妻の父も税理士をやっているから、顧問先の企業の方々を招待することになる。狭い帯広という街で「招待制」でおこなうのは招待状を誰に送るのかということが問題になりやすいので慎重に選んだつもりであったが・・・。

まぁ、結婚式というのは、家と家との式の様なもので、新郎新婦なんて添え物みたいなものであるが・・・。

妻は小学校からの同級生である。妻は小学校の途中で転校して、中学校は別々、高校でまた同級生になったのである。

私たちが通った帯広柏葉高校は女子が3分の1しかいなかったので、女子は皆モテタのである。妻もきっとそれで勘違いしたのだろう。高三の12月に私が交際を申し込んだら「今は(受験で)そんな時期じゃないでしょう?お友達としてなら・・・」という断りの常套句で軽くあしらわれたのであった。

大学を卒業して帰郷してからは会ったこともなかった。結婚の前年に商店街の売り出しの景品で「グァム島旅行」が当たって再会したのである。それがキッカケになり、更に色々な縁が重なって結婚することになった。だから昔から付き合っていたわけではないのである。

昨晩は夫婦2人で串焼屋に飲みに行った。高級レストランでないところが・・・。

なんだかんだ言っても25年間も結婚生活が続いたのは素晴らしいことだ。果たして金婚式まで一緒にいられるであろうか?

これからもお互い健康で仲の良い夫婦でいたいと思う。


■2010-05-17-Monday 我が家の歴史④

全国的にも初めての居酒屋集合ビルになった。

当時、相談した、いわゆるプロと称する飲食業の人達は皆、「そんな大きな(ワンフロアー160〜200坪)居酒屋ばかり4軒も集めたら互いに客を喰い合ってダメになるから止めた方が良い」というアドバイスばかりであった。

私は生来のへそ曲がりで天邪鬼な性格だから、他人からダメだと言われるとがぜんとやる気が出てくるのである。

もしも、隣のビルにこの居酒屋が出店してもライバルになるのは同じことなのだから、まずは飲みに行くなら坂本ビルに集まってから、どこの店に飲みに行くか決めようよという集まり方だってあるはずだ。同じビルの中の方が相乗効果が上がるし、テナント同士がライバルに負けまいとお互いに切磋琢磨してくれた方がお客さんへのサービスも良くなると考えたのである。

これはその通りに展開した。その後全国各地に同じ様なビルが続々と誕生していったから私の考え方は間違ってはいなかったと自信を深めたのである。

飲食業のアマチュアの人間である私の方がプロフェッショナルの人達の考え方よりも当たったのである。

この事業が成功したお陰で、会社は安定した。

ビル賃貸業という商売は、テナントが少ない時はテナント探しという仕事があるが、満杯状態になると仕事がほとんど無くなるのである。

父が倒れてからはJC活動も休眠状態であった。三役就任の要請も全て断ってきたのだ。

1994年の夏に、1995年度の理事長就任予定者の井上洋一くんが我が家を訪ねて来て、次年度の三役就任を頼みに来たのだ。

彼は私が1992年に提唱した「国際環境大学構想」を更に発展させたいという希望を口にして私を誘ったのだ。

最初、私は副理事長を受けるなら別なポジションを望んだ(私がその時に何を望んだかは思い出せない)のだが、結局「国際環境大学構想プロジェクト」の担当副理事長に就任することになったのである。

この「国際環境大学構想プロジェクト」は当時170名いたJCメンバーの内の50名、2室4委員会をまとめる95年度の目玉事業であった。

1994年の三役予定者段階の時から、この95年度三役の6名(理事長1名、副理事長4名、専務1名)はよく集まって夜中の1時、2時まで会議をおこなったものだ。

会社もなんとかなったし、気力が充実していた時期であった。94年の夏には横浜でFISMというマジックの世界大会があったのでこれにだけは行かせてくれと我儘を言って行かせてもらった。イーグルスの日本公演は断念したが。

私にとってこの95年度の三役経験が人生を変えたかもしれないと思うほどになるのだ。(つづく)


■2010-05-18-Tuesday 我が家の歴史⑤

95年度三役の経験はその後の私の人生を変えた。

2室4委員会50名のメンバーを預かる「国際環境大学構想プロジェクト」の担当副理事長に就任したが、50名のメンバーのほとんどの人が私の頭の中にある構想を理解できない様子だった。

4委員会それぞれの会議に顔を出して説明するのだが、なかなか解ってもらえないのだ。どうも私が手掛ける事業は、総じて最初は他人に理解されないようである。

言葉で説明するよりも現物を一緒に見た方が早いだろうと考えた。そんな時の12月17日に、玄定(ゲンジョウ)という三蔵法師と同じ読み方の名前の坊さんを紹介された(誰に紹介されたのかは思い出せない)。

この玄定さんが「アメリカのボウルダーという街のコロラド州立大学を見に行ったら?」と勧めてくれたのだ。

早速、紹介してもらったボウルダー在住の秋間美江子さんという方に連絡を入れて2月3〜10日の間にプロジェクトメンバー10数名でボウルダー市を訪ねたのである。この時期は日本円が85円程度の円高であったので、金銭的には随分と楽な視察旅行になった。

この秋間美江子さんとは、ついこの間の4月初旬にもコロラドスプリングスでお会いしたが、この95年以来お互いの家を行き来する親しい間柄になったのである。

95年当時はまだご主人の浩さんも健在であった。この秋間浩さんは元NHKの技術者で東京オリンピックの放送を世界に向けて発信するシステムを開発された方である。日本はその技術力をアメリカに出してしまったということになるわけだ。

我々の視察団は真面目に視察だけをしているものだから、秋間さんから「貴方たちは真面目なのね!せっかくコロラドまで来たのに観光もしないの?」と言われてしまった。せっかくだから最後の日に少しだけ観光をして帰ることにした。

このボウルダー市の視察はとても有意義だった。この視察に参加した団員が皆、この構想を肌で感じて共鳴することが出来たように思う。2月という早い段階で視察に行ったことが、その後の活動を随分とスムーズに進めることにつながったのだ。

また、この時の縁で、ボウルダー市からも帯広市に視察に訪れる人が出てきたのである。私が十勝・帯広は素晴らしいところだと吹聴したからである。4月6・7日は秋間美江子さんがアメリカ人女性1人を伴って来勝、23・24日にはボウルダー商工会議所のK・ジマーマン氏と秘書のブラント・玉木洋子さんが来勝した。

またボウルダーの秋間さん宅での勉強会の時に同席された大学教授のJ・寺田さんが6月10〜12日に来勝されたのである。このJ・寺田さんとの縁も面白くて、秋間さん宅で「私たちは北海道の帯広市から来ました」と言ったら、J・寺田さんが「我が家は東京で下宿屋を営んでいたが、そういえば帯広出身の鈴木さんという人が下宿していたなぁ〜。」と言うのである。詳しく聞いたら、私の借家の借家人である弁慶総本店の鈴木康昭さんであったのだ。世界というのは意外と狭いものなのである。(つづく)


■2010-05-19-Wednesday 我が家の歴史⑥

アメリカ視察から戻ってすぐの、

95年2月21日に帯広で英会話学校をやっている浦島久さんから電話が入った。てっきりボウルダー市の関係の話だと思っていたら、「アメリカンセンターが主催する地球環境問題のセミナーの開催を帯広青年会議所でやらないか?」ということなのである。なんでも釧路青年会議所と交渉を続けてきたが、釧路JCが断わってきたのだという。4月30日に開催する予定で既に準備を進めているので受け皿を探しているのだという。お金は一切不要だとも言うのだ。

こんな有難い話が向こうから飛び込んで来たのである。みすみす断わるのはモッタイナイ話だ。

実はこの話には前段があって、94年の11月1日に、浦島さんからの依頼でマジックを演じる機会があった。見せる相手は、アメリカンセンターのデビッドソン館長と本堂藤昭副館長、それにアメリカ人女性作家のサラ・パレツキーさんである。サラ・パレツキーさんは女性私立探偵V.I.ウオシャウスキーが活躍するヴィクシリーズで有名な作家で91年にはキャスリン・ターナー主演で「私はウオシャウスキー(邦題)」という映画化もされている有名な作家だ。

この時にアメリカンセンターの館長・副館長の知己を得たことから舞い込んで来た話なのである。まさに芸は身を助くというやつだ。

しかし、青年会議所というのは組織で動いているから、年間スケジュールは三役会→理事会という段階を経て、2ヶ月前に決定されるのだ。

新しい事業をこれから入れるのは困難だ。地球環境問題のセミナーだから私が担当する4つの委員会の内の何処かの担当例会としてやれないかと考えたのだ。

すぐに臨時の三役会に諮ったら三役は皆やる気になったが、問題は理事会である。先の理事会で決議した事項を急遽、三役の考えで差し替えようというのだから、当然この問題は理事会で結構揉めに揉めたのだ。

組織論から言ったら三役の横暴と見えるからだ。しかし、何も悪いことをやろうとしている訳ではないし、費用の負担もない。

アメリカから3人の環境問題の専門家を招いて、同時通訳システムを入れての会議なのだから、恰好も良いし、市民向けにアピールできる良い機会なのだ。杓子定規に対応していたら釧路JCと同じになってしまう。ここはなんとしても開催に漕ぎ着けたいと思ったのだ。

幸いにも理事会の承認を取り付けて好評のうちに開催することができたのであった。

この地球環境問題セミナーの3人のアメリカ人専門家(D・H・ストローザ、P・C・エバンス、J・ハドソン)と通訳の富永氏を連れて、前日の29日に真冬の然別湖で歓迎会を開催した。どうやったら喜んでもらえるか考えに考えたのである。

然別湖は凍った湖の真ん中に氷上の氷で造った温泉があるし、氷で造ったバーもある。こんな自然環境はアメリカにだってそうはないだろうと考えたのだ。これがアメリカ人には最高に喜んでもらった。

氷上の氷の温泉に皆で浸かって身体を十分に温めてから「テンプラ〜」と叫んで裸で氷の上を転げ回って雪を天麩羅の衣に見立てるのである。この温泉の温度は44度程もある高温だから、これぐらいやって丁度良い湯加減になるのだ。まさに裸のお付き合いをした訳である。

この当時は地球環境問題に対する認識が現在とは比べ物にならないくらいに低い時期だったので、この地球環境問題セミナーはまさに時期も内容もピッタリのものだったのである。

まるで神様が後押ししてくれているような感覚になったのであった。(つづく)


■2010-05-20-Thursday 我が家の歴史⑦

1993年は遊びまくっていた。

父が亡くなった92年5月2日からは仕事の上ではずっと死んだ振りをしていたのだが、遊びの方では赤穂浪士の大石内蔵助を気取って遊び呆けていたのである。

生来の怠け者だから、仕事をしなくても苦にはならないが、遊んでいないとイライラしてしまうのだから困りものだ。完全に開き直って遊びに興じていたのである。遊ぶ時には徹底して遊ばなければ中途半端は何も生み出さない。

この年のゴルフは43ラウンド、海外旅行はバリ島・香港、国内旅行は山梨・長野・三重・東京(3)・千葉(2)・茨城、道内旅行は札幌(5)・釧路(3)・弟子屈・北見・苫小牧・トマムと機会がある度に積極的に参加して、とにかく何でも事業のヒントになりそうなものを貪欲に見て回った。机の前で考えているだけでは良いアイデアは生まれないからだ。

この93年は年当初から変な感じがした。まずは1月15日(金)の成人式の日の20:06に震度5の地震が起った。この時、私は夜の動物園に居た。青年会議所で例年1月末に行われる「帯広氷まつり」の準備で、動物園でアイスキャンドル造りをしていたのである。地震が発生した時はちょうど一仕事を終えて休んでいる時だった。動物園入口にある小さな小屋の一番奥の席でおでんを食べていたのだった。その瞬間までうるさかった動物たちが一瞬シ〜ンと静かになったかと思ったらゴォ〜と地響きの音が聞こえてきて揺れ始めたのだ。小屋の前方に居たJCメンバーはすぐに小屋の外に飛び出したのだが、私と他の2人のメンバーは取り残されてしまったのだ。ストーブの上におでんが入った寸胴が乗っていたのだが、その中身が地震で揺れて、その勢いで石油ストーブごと倒れて大きな火柱が立ったのだった。火はかなり大きいし、後方には出口がない。大声で今飛び出した連中に消火器を持って来いと呼んでも誰も返事もしないのだ。「こりゃ〜まいったなぁ〜」と思ったが不思議と冷静であった。そうこうしている内に、ストーブの安全装置が作動したのだろう火が小さくなってきたので、3人で小屋を出て、雪を掛けて消火した。

外ではこんどは動物たちが騒がしい。先に外に飛び出した連中は、電話が繋がらないので自宅が心配だから作業を中断して戻ると言う。

氷まつり担当の委員長も今日は仕事にならないから作業を中止して、自宅に戻って良いと指示を出した。

何人かがあわてて車を発進させたが、動物園の前に掛っている橋で自動車が腹を閊えて先に進めなくなっている。橋が地震で15センチほど落ちたのだ。

後から出たメンバーはその横の道を通って帰って行った。我が家に到着したら、食器類がグチャグチャに壊れている。妻は子ども3人を抱えて裸足で庭に飛び出して無事だったが、私が不在でとても心細かったと言った(まだ、この頃は可愛気があったのだ)。

前回の地震の時には、会社は屋上の貯水タンクの栓が外れて、ビル中が水浸しになって大損害を被ったから、会社に被害状況を見に行ったが、前回の地震の後に地震対策をしっかりおこなっていたおかげで、書類が散乱した程度だけで済んでいた。

この年は氷まつり当日に雨が降るほどの暖冬で、期間前もアイスキャンドルが造れず難儀したのだった。(つづく)


■2010-05-21-Friday 我が家の歴史⑧

93年3月25〜28日までGOGO会という勉強会で香港のヤオハンデパートを視察に行った。

このGOGO会というのは昭和55(1980)年に出来た帯広の若手経営者の勉強会で、会長はオカモトグループの岡本謙一さんである。私はこの年の3月に大学を卒業したばかりで、経営の勉強などしたことがなかったから父が勉強して来いと、強引に入会させられたのであった。

田辺経営にいて、独立してコンサルタントを開業したばかりの笠巻勝利さんという方が始めた経営塾のようなもので、私は当然ながら最年少であった。

この勉強会は毎月1回、2年間で24回のプログラムで終了したが、参加していたメンバーがその後も月に1度は集まって、情報交換をしたり、先進地視察をしたりしていたのである。

この香港視察旅行の最終日の28日(日)に札幌に居るいとこの勝昭(昭和15年生まれ)が、私と一緒に山梨県北巨摩郡の祖父の実家を訪ねたいと言って来た。

私は皆とは別行動で一便早い飛行機に乗って日本に戻り、成田から新宿に出て一緒に甲府に向かったのである。

この年、勝昭の父(私の伯父)の恒久(大正元年生まれ)の身体の具合が悪くなっていた(この93年7月1日に死去)ので生きている内に先祖のルーツを見て、恒久伯父さんに報告しておきたいと思ったのだろう。恒久伯父さんも祖父の実家を訪ねたことがなかったのだ。

私は昭和56(1981)年11月に父と2人で既に祖父の実家を訪ねていたので道案内をしたわけである。(祖父のことは以前のブログに詳しく書いてあるのでここでは割愛する。)

4月24日に父の一周忌法要を行うことが決まった。父の生前の関係者にご案内をしなければならないが、役職が多く、交友関係も広かったので300名超の大人数になってしまったのだ。1周忌のお返しの品に何か工夫をしたいと考えた。

ちょうど、藍染作家の角さんに依頼して、全作品が一品作の藍染の小さな額をお返しの品にすることを決めた。作品の題材は「坂本圭司」である。

そのまま、法要に来てくれた方にこの額を差し上げてしまうと、バラバラになって、せっかくの全作品を一堂に見る機会が無くなってしまう。

そこで、4月9〜11日の3日間、坂本ビルの6階の会場にこの全作品300点以上を展示して、一周忌法要にご案内した方々に見てもらい、その場で自分の好きな作品を選んでもらうことにしたのだ。そして、選んでもらった作品を一周忌法要のお返しの品としたのである。この催しはとても好評であった。新聞にも記事が掲載されて一般の方々も多数観覧に来てくれたので、作者の角さんもチョッとした展覧会が開けたと喜んでくれた。

私の方は、一人ひとり別々に選んでもらった作品を、その名前の方に配られるようにしなければならないから、やたらと手間が掛ったが、その分、父の一周忌法要をちょっとは変わったものにできたのではないかと自負している。(つづく)


■2010-05-22-Saturday 我が家の歴史⑨

1993年は会社の仕事はしなかったが株をやっていた。

父は株式が好きで、結構、株の取引を行っていたのであるが、この株式を私が相続したのである。父は生前に社会の経済情勢を肌で感じるには株は最適だと言っていた。

私は賭けごとが嫌いだから、父の生前には株にはまったく興味が無かったが、相続した株をただ売り払うだけではつまらないと考えて、相続した範囲でだけ株をやってみようと思ったのだ。

父が亡くなったのはバブルが崩壊した後だから株の暴落は激しかった。相続した株の評価額は父が死んだ日の92年5月2日の評価額だから、軒並み父が購入した時点の金額よりも評価額が下がっていたのだ。それが、93年頃から一部の株が値上がりを始めたのだ。父が取引をしていた証券会社からも頻繁に電話が掛ってくる。

最初は相続した時点よりも値上がりした株を売却するだけであった。しかし、証券会社が売らせるだけで終わるはずがない。売った株で得た金で別の株の購入を勧めて来るのだ。

しかし、人の言いなりにやるのはつまらない。やる以上は徹底的に研究したい性格だから会社四季報などを買ってきて株の研究を始めたのである。

ソニー・ディズニー株その他で短期間の内に500万円以上の利益を上げてしまったのだ。こうなるとのめり込んでしまうのが私の悪い癖なのである。

株の売買がすっかり面白くなってしまったのだ。それからしばらくは株の売買に夢中になって朝から晩まで株の研究をしまくった。

しかし、会議の最中や旅行の最中にも、証券会社から携帯電話に頻繁に電話が入るようになると段々と煩わしいと感じる様になってきた。

そんな折に某証券会社の会長が帯広を来訪して、お得意さんを昼食会に招待するから是非とも出席して欲しいと言うのである。

参加してみたら、皆さんには素晴らしい情報を差し上げるからこの株の購入を検討して欲しいと、ある銘柄を指定して言うのだ。インサイダー取引になる一歩手前の危うい昼食会である。

昼食会が終わったら、その情報の株を購入しろと証券会社の社員が責め立てて言うので、会長の話を信じて購入したらこれがとんだガセネタで3日目から急激に下がり始め、またたく間に半分になった。株で儲けたと思った500万円はこれで全部パーになった。

その社員を呼んで「お前の会社は、こんなダマシをやるのか!」と怒ったのだが、購入を決めたのは私だから自己責任だ。

すっかり頭に来た私は「お前の会社とはもう取引しない。お前の会社に預けてある株は即刻引き上げる」と宣言して以来、株の取引は一切やっていない。

しかし、これが幸いしたのだ。その後に株の大暴落があったりしたから、もしもこのまま株の取引を続けていたら、私のことだからもっと大きな損害を被っていた可能性が高い。結局、差し引きゼロで終わったことで良い勉強をさせてもらったと考えることにしたのだ。

夢中になり過ぎるとダメだぞ!とあの世から父が教えてくれたのかもしれない。(つづく)


■2010-05-23-Sunday 我が家の歴史⑩

1993末〜94年初に掛けては身体の変調が続いた。

きっとかなりなストレスが溜まっていたのだろうと思う。

93年12月29日(水)の16:00頃に急に右耳がキィ〜ンと鳴り出した。次の日からは病院も年末年始の休みに入るから、すぐにM耳鼻咽喉科に行ったら「どうやら突発性難聴のようですね、突発性難聴というのはハッキリ原因が判らない病気なんですよ、でも発生してから1週間以内に治療をすれば治りますよ。」というので「そうですか!では治療をお願いします。」と私が言ったら、「明日から正月5日まで病院はお休みですから6日に来て下さい。」とこのM医師が平然とした顔で言うのだ。「1月6日といえば8日後じゃないですか!1週間以内なら治るんでしょう?」と言っても「休みですから」と実につれない返事なのである。

1週間以内に治療しなければ一生このキィ〜ンという音が耳から離れなくなるかもしれないのだ。なんとか医者の伝手を探していたら、娘の幼稚園の友達の親が厚生病院の耳鼻咽喉科の先生であることを思い出したので、妻にこのS先生の奥さんに電話させたら、「正月は札幌に帰る予定だったが、坂本さんなら特別に診てあげましょう」と言ってくれて診察、治療をしてくれたのだ。実に有難いことであった。

ちょうどこの93年の年末頃は我が社の東側に3軒あった貸家(昭和5年に祖父の勝が建てた借家)と坂本ビルに残っていた物販のテナントさんとの立ち退き交渉をしていた時期だったのである。

一方で立ち退き交渉をしながら、もう一方ではビルのリニューアル計画を同時に進行させていたのだ。工事もかなりの時間と費用を要するからのんびりダラダラとはやっていられないので精神的にもかなりなストレスだったのだろうと思う。

1994年3月1日にはエレベータの付け替え工事が始まり22日に終了した。自宅の改築工事も3月10日から開始した。こういうことは一遍に全部やった方が仕事がはかどるのである。

5月1日に父の3回忌を済ませて、ようやく一本立ちをした感じがした。そろそろ私の死んだ振りも飽きてきたころで、生来のジットしていられない性分がうずき始めたのだ。動き始めるとそれまでの停滞していた分を取り戻すかの如くにあらゆる物事が活発に動き出した。

7月25〜28日まで横浜でFISMというマジックの世界大会が開催された。この時にマジックの師匠であるジミー忍(この時は聖忍と改名)師の自宅に電話したら、すぐに遊びに来いと言う。横浜から電車を乗り継いで千歳船橋の店「魔法の小箱」を訪ねたら、師は最近、身体の具合が悪いのだと言う。「北海道の自然の中で療養したいから坂モちゃんの家に招待して欲しい」というのである。大恩ある師匠の頼みであるから「では、来年の夏にでもご夫婦でご招待しますよ」と言って別れたのであった。

帯広に戻ったら、すぐにジミー師から「来年までは待てないからすぐに呼んでくれ」との電話が入ったので「では、今年にしましょうか」ということになって8月22〜28日までご夫婦で帯広入りしてもらった。この間、ご夫婦でトマムや然別湖などに宿泊してもらい、27日(土)の晩には、招待してくれたお礼にと、我が家でマジックショー付きのお好み焼きパーティをしようということになって次年度JC三役のメンバーを自宅に招いてのパーティを開催したのである。

ジミー師がマジックを演じているときに「坂モッちゃん、指先の感覚が無いんだ!」と言って途中でマジックを止めてしまった。とても具合が悪そうだったのだ。

この日は我が家に泊ってもらい、私のマジックの蔵書を見てもらった。この時に、「将来は自分の蔵書と坂モっちゃんの蔵書を合わせてマジックの博物館を作ろうな」と約束したのである。28日に師夫婦は東京に帰られたが「医者に診てもらった方が良いですよ」とアドバイスして別れたのであった。

9月4日になってマコママから電話が入った「医者に診てもらったら、脳腫瘍と肺癌だと言われたが、先生には本当のことを言えない。」と言うから、とにかくすぐに手術をした方が良いと勧めた。

退院した師の全快祝いを弟子たちで12月3日にやるからというので、私も上京した。その際にマコママが私一人を別な場所に連れて行って、「何とか脳腫瘍の方の手術は上手くいったようであるが、肺癌の方は手遅れの状態だった」と言うのだ。

「あの時、坂モっちゃんが招待してくれたお陰で、最後の楽しい旅行が出来て良い思い出になったわ、本当に有難う」と感謝されたが、何だか複雑な心境であった。

ジミー師は全快祝いの席で「一流の医者に診てもらったから、もう大丈夫だ」と知ってか知らずか弟子たちを前にして言っていたが、1995年5月11日に52歳で亡くなってしまった。現在の私と同じ年齢で亡くなったのだから感慨深いものがある。(つづく)


■2010-05-24-Monday 我が家の歴史⑪

1994年の7月あたりから仕事も忙しくなってきた。

坂本ビルの飲食店ビルへの改装工事も終わりに差し掛かりかけた7月中旬頃に、そろそろテナント募集の広告を新聞に出そうかと計画を練り始めたところに、入居希望の大型居酒屋チェーン店ドリームフード「いろはにほへと」の社長さんがいきなり我が社を来訪したのである。

「お宅のビルが飲食店ビルに改装しているという情報が入ったので見に来たが、立地条件も素晴らしいし、東西に抜けられるのも面白い。是非、入居したいと思うので条件等を教えて欲しい」と言うのである。

募集広告に掲載する予定で作成した条件表を見せたら、即、「この条件でOKだから契約をしたい」とその場で言うのである。私がドギマギしていたら、「貴方も社長なんだから即断即決!」とハッパをかけられたのだ。

地下には大型居酒屋の「つぼ八」が既に入っているからまったくの同業者である。一応まずは「つぼ八」の社長(フランチャイズ店の社長)に話を通しておかなければいけないなと考えて返事をするのは一週間だけ猶予をもらった。

すぐにつぼ八の社長に話したが「冗談じゃない。私は飲食店ビルにした方が良いとは言ったが、それはレストランや小さなスナックなどの店を入れなさいという意味で、競合する大型居酒屋が入るのは困る」と言うのである。

そうこうしている内に、数日後にまた別の大型居酒屋チェーン店モンテローザの社長さんが、我が社を来訪して入居したいと言うのだ。私は「現在、地階にはワンフロアーを使っている「つぼ八」さんが入居しており、先日は1階に「いろはにほへと」さんが入居をしたいと希望して来られています。現在のところ2・3階しか空きがありませんし、居酒屋では商売が競合しますが・・・」と説明したら「そうですか!一階は既に交渉が始まってしまいましたか。それは残念!しかし、我が社は2階と3階の両方をお借りしたいと思う。競合するのはおおいに結構ですよ。」と言うのである。

「いろはにほへと」の社長にこの旨を報告し、「こういうテナントが入居希望だが、それでも御社は入居を希望しますか?」と尋ねたら、「それは、面白い!大いに結構だ!やりましょう!」と言うのだ。

「つぼ八」の社長に尋ねたら「とんでもない。絶対に反対だ。お宅の立地での居酒屋商売は我が社が開発した既得権だ。それを他社に荒らされるのは嫌だ!ましてや一軒どころかライバルがいきなり3軒にもなるなんて冗談じゃない!」と全く応じてくれない。

私も「しかし、隣のビルに、これらのテナントさんが入居しても事態は同じ様なものではありませんか?」と何度も説得したのだがその都度不調に終わった。約束の一週間が過ぎたが依然として「つぼ八」の社長との交渉はまとまらない。

いよいよ私も腹を決めて、釧路に居る「つぼ八」の社長の会社に出向いて「私は腹を固めました。入居を希望するテナントさんには3軒とも入居していただきます。我が社は貸すのが商売ですから!」と最後通告をしたのだ。

「つぼ八」の社長も私の決心が固いのを見て、最後には折れて看板設置などの条件闘争に入ることでようやく一件落着したのだった。結局「つぼ八」もこれを機会に店内を大改装して勝負に備えることになり、結果的には4軒の大型居酒屋が新しい形でスタートすることになったのである。

契約を済ませたテナントの内装工事が始まりだして坂本ビルもようやく活気が出てきた。

94年12月5日には一階の「いろはにほへと」がオープンし、95年の4月5日に2・3階がオープンした。

これで坂本ビルは、 地階「つぼ八」、1階「いろはにほへと」、2階「白木屋」、3階「魚民」という大きな居酒屋4軒が入る飲食店ビルに変身したのである。(つづく) 


■2010-05-25-Tuesday 我が家の歴史⑫

会社の仕事が一段落したが、

ビル賃貸業という仕事はテナントが埋まってしまうと、普段する仕事がほとんど無くなってしまうのだ。

これ幸いにと、青年会議所活動に精を出した。「国際環境大学構想プロジェクト」を担当する副理事長として2室(地域政策室、文化国際室)4委員会(十勝夢プラン、都市モデル構想、教育文化、地域国際化システム)50名のスタッフのヘッドとして精力的に行動した一年間であった。

94年の12月の前段階から、それぞれの委員会を回り構想の説明をしたが、なかなか理解してもらえなかった。2月3〜10日までのアメリカコロラド州ボウルダー市の視察に行った辺りからようやくまとまりを見せ始めた。早い段階で視察に行ったのが幸いしたのだ。理屈でグズグズ説明するよりも、やはり、百聞は一見に如かずである。視察に同行したメンバーは共通認識を持つことが出来たし、帯広に戻ってからも視察に行けなかったメンバーに、行ったメンバーが視察内容を伝えることで意識の共有が出来たことと思う。

この「国際環境大学構想プロジェクト」のメンバーで95年の一年間を費やして「国際環境大学構想起案書」という34ページにわたる小冊子を発行した。

今、読んでも鑑賞に耐えうる内容であると自負している。また、このプロジェクトで95年一年間に22ものシンポジューム等のイベントを行った。

この時にメディアを引き入れて盛んに新聞等で市民に活動内容を知らせる手法を考え出したが、これは後の「十勝環境ラボラトリー」「北の屋台」「馬鹿(うまか)もん」等の活動にも生かされている手法である。

4委員会がそれぞれ担当の例会を持って、他の120名の青年会議所メンバーに活動内容を理解してもらうために、4人の講師を招いて例会を行ったり、プロジェクトとしてその他に3人の講師を招いて勉強会を重ねたりもした。この時に講師に招いた方々とは、その後もずっとお付き合いをさせてもらっているので、人の出会いというのはありがたいものである。

この講師の内の1人が5月例会で招聘した、当時信州大学教授だった山本哲士教授でこの方がキーマンになってその後の活動が進んでいくことになる。

この山本哲士教授は東京で文化科学高等研究院という大学を横断的に優秀な教授を集めた組織でそのメンバー(いずれも当時の肩書)には、福井憲彦学習院大学教授・高橋順一早稲田大学教授・陣内秀信法政大学教授・鷲田清一大阪大学教授・矢野雅文東北大学教授・橋爪紳也京都精華大学助教授など錚々たるメンバーがいた。またスポンサー企業にはソニー・NEC・キャノン・富士ゼロックス・資生堂・日産自動車など等これまた錚々たる企業がスポンサーになっていた組織である。

この文化科学高等研究院の山本教授が「君たちはなかなか面白い!」と協力を約束してくれたのである。

だが「青年会議所は一年毎に組織が入れ替わってしまうから、長期的な活動には向いていない。これまで全国のJCと一緒に活動した経験から、JCではダメだ。長期的な活動の出来る組織を作るのなら一緒に活動しましょう。」と言ってくれたのである。

そこで、1996年に帯広青年会議所のOBや現役会員を中心にして長期的な活動のできる組織として「十勝環境ラボラトリー」を創設することにしたのである。(つづく)


■2010-05-26-Wednesday 友人来訪

東京から友人が夫婦で遊びに来た。

ケンジ&キヨミさんご夫婦である。

ケンジさんは2日前に小樽に入って、小樽CCで友人と2日間ゴルフをしてから帯広に列車で入り、キヨミさんは金曜日の最終便で帯広入りして合流する計画だ。

この夫妻は10年ほど前から、訪れるときの季節を変えながら十勝を満喫しているのだ。

以前から、ケンジさんとはゴルフを一緒にやりましょうよと言っていたのだが、なかなかその機会がなかった。

今回もケンジさんは3日連続になるから、帯広ではゴルフをするつもりがなかった様なのであるが、私がキヨミさんとのメールのやり取りで、小樽でゴルフをするなら、そのまま帯広でもやりませんか?と誘ったのである。もちろん奥さんのキヨミさんと一緒にと・・・。

キヨミさんは最初、何年もゴルフをやっていないからと渋っていたのだが・・・。

そのメールを打っているのを横で見ていた妻が「私も一緒にゴルフやろっかなっ!」と言い出したのだ。

妻は5年ほど前に「私もゴルフをやりたい!」と言い出したので、ゴルフクラブのセットを買ってあげて、何度か打ちっ放しの練習場に連れて行ったのだが「上手く当たらないからつまらない」と言っては3〜4度で練習を止めてしまう。これを、ここ5年間、毎年のように続けているのである。だからまだゴルフコースではプレーしたことが一度もないのだ。

「今まではキッカケが無かったから練習にも熱が入らなかった。今度はコースに出るという目標があるから大丈夫」と言うのである。

メールに「妻も一緒にやるからキヨミさんもやりましょうよ」と書きなさいと妻が強制するので、そう書いたらキヨミさんもやる気になったようで「では、夫婦で一緒に回りましょう」ということになったのだ。

場所は帯広国際カントリークラブで13:40分のスタートである。キャディさんを付けたら笑われるからと妻が言うので、2台のカートでセルフでプレーした。東→中コースと途中の休憩を入れずにスルーで回り、幸いにも後続プレーヤーがいなかったので迷惑を掛けずに済んだが終了したのが18:30で約5時間も掛かったのであった。

中コースの6番のショートホール(155ヤード)で妻がドライバーでティショットしたボールが1mにワンオンした。私のボールは3mにワンオンして2パットのパーである。妻がこのバーディーパットを沈めたら生まれて初めてのバディーだと言ったら、緊張したのか30cmショートした。でもその残りを入れても初めてのパーだぞと言ったら、これまた外して結局3パットのボギーであった。初めてのゴルフで1ホールとは言え妻に並ばれでもしたら、今後何を言われるかわかったもんじゃないと心配したが・・・。

ゴルフ終了後に20:00〜帯広の街中に出て「馬鹿(うまか)もん」を食べにイタリアンレストラン「タベルナ・センナリ」に行った。たっぷりと食べて、今度は北の屋台を通り抜けて「らくれっと」に行きアスパラ料理を食べようかと思ったら、アスパラはまだ収穫が出来ないと言うので、ラクレットチーズをきたあかりというジャガイモに掛けた料理とワインで締めくくって11:30にホテルに送った。

ケンジ&キヨミさんは、これまで何度も十勝に遊びに来ているから、熱気球・カヌー・スノーモービル・アスパラ狩り・冬の然別湖などを堪能しているが、妻はカヌーしかやったことがない。地元に居るといつでも出来ると思うのか、誘っても来ないのだ。

しかし、今回、キヨミさんに、「面白いわよ〜」と誘われてその気になったようだ。もっと、もっと地元の人間が地元で遊ばなければいけないと思う。

翌朝は、10:00にホテルに迎えに行って、まずはばんえい競馬に連れて行こうかと思ったのだが、13:50分の飛行機で帰京するというので、時間がないから、まっすぐ中札内の花畑牧場に連れて行った。

去年のゴールデンウィークは道路が渋滞するほど混んでいたのに、今は客も少ない。やはり、爆発的なブームというのは熱が冷めると、急激に落ち込んでしまうものだ。新しいお菓子の工場も新設されていて見学が出来るようになっていたので話のタネに見学すると、機械化されたスゴイ工場である。

「生キャラメル」の時はガスレンジと銅鍋の設備投資だけで、後は人的な作業だけという、設備投資が極端に少なくて、いつでも撤退できる画期的なビジネスモデルだと思って見ていたのだが、今回のスウィーツ「○○のポテト」は工場に設備投資が掛かり過ぎているように感じた。

売店で試食したが、森永製菓の「チョコフレーク」のような食感と味で「生キャラメル」の時みたいな新鮮味が感じられない。価格も一箱580円という強気の値段設定は如何なものだろうか?

その後に六花亭の「六花の森」にお連れし、その後には「十勝野フロマージュ」というチーズ工房や六花亭の美術館の食堂で食事をして、空港に送っていったが、ここらは商売っ気が前面に出ていなく、落ち着いた雰囲気でサービスも良い。同じ中札内村なのに随分と違うコンセプトのことをやっているなぁという感じがした。

こうして、知人が十勝を好きになって、何度も訪ねてくれるのはありがたいことだ。

一時のブームで終わらせるのではなく、地道に十勝のファンを増やしていく方が、時間は掛かっても本当の意味での観光に繋がるのだと思う。


■2010-05-27-Thursday 我が家の歴史⑬

1995年は充実した1年間であった。

この年は海外にはコロラド州ボウルダー市に2月と10月の2回行ったし、ゴルフのじゃがいもクラブの年間賞でラスベガスにも行った。

地球環境問題の専門家や講師に会う為に何度も上京し、筑波や鎌倉にも行った。

JC三役としては、7月の横浜でのサマーコンファレンス、根室への北方領土視察、8月はキャンプ、9月には網走での全道大会、釧路でのスポーツ大会、10月には堺市での全国大会、北見でのブロック大会への参加など等。

帯広市の大学審議会の審議委員としては東京での数度の会議への出席。更にはこの間にも家族サービスとしてのトマムに2回とテルメへの家族旅行も忘れずに行っていたのだから、今考えると恐ろしい過密スケジュールである。若くなければ絶対できないことだった。掛った旅費だけでも半端な金額ではないが、この年に出会った人たちは皆、その後の私の人生においても貴重な人脈として現在に繋がっている。お金では買えない貴重な人脈が出来たのだ。

青年会議所などの組織で活動する時に「その他大勢」として活動するのはモッタイナイことだ。縁の下の力持ちというポジションの人が居なければ活動はままならないものだが、活動の中心人物として行動することで、交渉相手にも覚えてもらうことができるからだ。

また、この年は天災や事件が次々と起った年でもあった。1月17日の阪神淡路大震災、3月20日にはオウム真理教が地下鉄サリン事件を引き起こした。この時の日記には「地球や社会の不満が爆発したかのような感じだ」と書いている。

11月16日(木)にとかちプラザでこの1年間の「国際環境大学構想プロジェクト」の集大成「国際環境大学構想スーパーシンポジューム」を開催して、「起案書」を発行した。

この起案書を全国各地の環境問題の専門家や大学教授らに送って協力を要請したのである。

帯広青年会議所は十勝・帯広に新しく創る大学は「地球環境問題」を文系の目線で捉えて、今後必要な人材となる企業の「環境マネジメント」が出来る人間を輩出する世界初の大学にするように提案をしたのである。

帯広市が2001年開学を目指す大学を「国際環境大学」とするように、大学審議委員会で強力にプッシュしたのだが、他の審議委員たちは、地球環境問題に対する理解が少ないようだった。最初の卒業生が大学を出るのは2005年である。この時に卒業生が企業から引く手あまたであるような大学を創らなければ、経済や法律を教えるような大学では意味はないとまで言ったのに理解されなかったのだ。十勝の知識人と云われている方々の先見性って???

現在は「地球環境問題」を考えない企業は生き残っていけないといわれている時代である。

調査している時点でのピークの系統の大学を創っても意味が無いのだ。開学してから5年後10年後の社会の要請に合った大学を創る必要があるのに・・・。

歴史に「もしも」は禁句なのを承知であえて言わせてもらうならば、2008年に開催された洞爺湖サミットの主要テーマは「地球環境問題」であった。北海道に地球環境問題を大学の設立理念に持つ大学がその時に存在していたなら、世界的な注目を集めていたのではないかと悔やまれる。

12月22日に開かれた帯広市の大学審議会でも、結局この年には結論が出ずに終わったのであった。(つづく)


■2010-05-28-Friday 諸事雑感

妻からクレームが入った。

最近書いてるブログの題名の「我が家の歴史」は「我が家」じゃなくて「貴方」の歴史でしょ!

題名が相応しくないと言うのだ。言われてみればその通りなので、次回以降は題名を変えることにする。

さて、「我が歴史」にするか、それとも「我が闘争」にするか?この題名だと「マイン・カンプ」でアドルフ・ヒトラーと一緒になっちゃうしなぁ〜。まぁ無難なところで「マイ・ヒストリー」にでも変更しよう。

私のブログへの感想をメールに書いてくれた読者の方がいるが、「最近は政治に関してのブログが少ないように感じます。云々・・・」というものがあった。

最近の政治は論評にすら値しないと思っているので、書かないのですよ。普天間問題しかり、参議院選挙のタレント候補者しかり、馬鹿馬鹿しくて書く気にもなれない状況です。

という訳で、政治の論評は何か書く気になるような事態が起きたら書きますのでそれまでは「マイ・ヒストリー」を読んで下さい。

昨日の全国ニュースで、帯広の50歳代の警察官が交番で同僚警官に銃口を向けて、退職するはめになったというのが流れた。以前にも警察官の破廉恥な不祥事で帯広の警察官がニュースになったばかりだというのに・・・。

果物ナイフを他人に渡す時にだって、危険だから柄の方を相手側に向けて差し出しなさい。という教育を受けた身とすれば、実弾入りの拳銃の銃口を他人に向けるなんてとても信じられない行為だ。本人のコメントは「油断するなよ」とコミュニケーションを取るつもりだったとか、訳の判らないことを言ってるが、アメリカで、もしこんなことをやったら、反対に撃たれたってしょうがないケースだろう。こんな浅はかな奴に拳銃を持たせていることが恐ろしいことだ。

相撲の砂かぶり席を暴力団に手配した親方がいるというニュースも流れた。私も以前に2度、この砂かぶり席で相撲を見させてもらったことがある。向正面だからテレビにバッチリ映ってしまって、親戚から電話が掛かってきたことがあったのだ。報道によるとこの席は相撲協会に年間130万円以上の寄付行為をした人にしか座らせない席だと言っていたから、私にこの席を用意してくれた人は・・・。ウ〜ン、昔から男の最大の道楽は、芸者を囲うよりも、相撲取りのタニマチになることだと言われているが・・・。

宮崎県の口蹄疫の殺処分は何だか素人には判りにくものである。口蹄疫は人間には感染しないとのことだし、罹った牛や豚の肉を食べても影響はないと言っているのに、なぜ全頭処分をしなければならないのだろうか?専門家に聞いても、法律で処理が決まっている法定伝染病だから仕方がないとしか言わないから余計に判らない。

まぁ、たったこれだけの情報量でしかなければ、口蹄疫に罹った牛や豚の肉を流通させても、市民は気持ち悪くて食べられないだろうしなぁ〜。

でもなぜ、こんな病気が流行るのだろうか?

各地のイベントが開催の自粛をしているが、やれインフルエンザだ口蹄疫だと言ってはイベントの開催を止めるなら、今後は人の移動そのものが難しくなるだけだと思うのだが・・・。

その内に、江戸時代みたいに重要な用事がなければ、居住地から出てはいけないなんて法律が出来たりして・・・。

あんまり、無菌だの滅菌だのをし過ぎるからではないのだろうか?


■2010-05-29-Saturday 改題マイ・ヒストリー⑭

96年からTKLがスタートする。

95年中に青年会議所(JC)の次年度(96年度)の方針や体制が決まるが、その中に「国際環境大学構想推進特別委員会」という部署を特別に設けてもらった。これが「十勝環境ラボラトリー(TKL)」の基になるのである。

TKLはただ構想を提案するだけではなく。自分たちで実践してひな形を市民にみせようという試みなのである。

JCでの受け皿の基を作る一方で、文化科学高等研究院の山本哲士信州大学教授(当時)が、十勝を舞台にして「場所環境カー」を創るプロジェクトをやらないかと、日産自動車を口説いて資金を拠出させたのである。この資金を基にして「十勝環境ラボラトリー」を作ろうという訳だ。

6年間の期限付きの活動にして、この間に目立った実績をあげられなかったら解散するという約束でスタートしたのである。期限が限られているからこそ、6年間にやれることは全力を挙げて取り組もうという意気込みが生まれて、同時に9つのプロジェクトをスタートさせた。

①「国際環境大学公開講座」大学と名乗る以上は勉強をしなければならないから毎月1名の講師を招いて公開講座を通算80回開催した。

②「新聞紙上セミナー」JCだけで活動していたのでは拡がりがないから市民に活動や理念を知ってもらう為に十勝毎日新聞の土曜日の文化欄に「十勝の場所の意志に学ぶ」という1200字のスペースをもらって、招いた講師らからの提言を掲載する事業で429回連載し、三冊の提言集を発刊した。

③「環境童話製作」子どもたちに環境問題を知ってもらう為に、アイヌの伝承を絵本にして「おおかみのこがはしってきて」「イオマンテ」の2冊を出版。

④「場所環境カー」日産自動車と協働でガソリン以外のエネルギーで走る自動車の開発。⑤「場所環境住宅」早稲田大学石山修武研究室と協働で灯油以外のエネルギーで暖まる住宅の開発。

⑥「十勝川水系調査」十勝川をカヌーに乗って川の目線で故郷を眺める。熱気球に乗って鳥の目線で眺めてみる。

⑦「田園ライフスタイル」都市と田舎の関係性の再構築、夏のフィールドカフェや冬のスノーフィールドカフェにつながる。

⑧「食文化環境」十勝の食材を使った新しい料理の開発。

⑨「都市構想」中心街活性化としてTMO提案書の作成(この事業が発展独立して「北の屋台」になった)。

山本教授はTKLを発展させて「21世紀型の大学」を十勝に創ろうと言う。すなわち「十勝に暮らす住民全員が学生で、キャンパスは不要。スポンサーを見つけて金を出させ、プロジェクトを推進・成就させることでノウハウが蓄積され、地域力を高める」のが21世紀型の大学の姿だと言うのである。

95年度は私が井上理事長の名代として出席していた帯広市の「大学審議会」の方も、継続した方が良かろうと96年も引き続いて私が山本理事長の名代として出席することになったが、「公設民営方式」で新たに大学を新設するという方針でスタートした審議会であったが、96年になると帯広市側のトーンダウンが激しく、「既存の大学への支援」などということを言い出し、どうも雰囲気が怪しくなってきたのだった。(つづく)


■2010-05-30-Sunday 改題マイ・ヒストリー⑮

TKLは大風呂敷を広げた。

「十勝から21世紀型の新しいライフスタイルと価値観を創り出して地球環境問題に貢献する。」という壮大な目標を掲げたのである。

具体的には「十勝を安全で安心なエネルギーと食糧を自給他足する環境モデル地域にする。」ということである。

つまり、「化石燃料に頼らずに自然から得られる(太陽・地熱・風力・水力)などから電気を起こして、その電気で動く自動車を開発し、更にその電気で動く農耕器具を開発する。またその電気で暖まる住宅を開発すれば、十勝を地球上で一番、地球環境に負荷を掛けない地域にできる。世界中から環境に優しい十勝を視察に訪れて来れば、視察観光という新しい分野の観光でも稼げる。」という構想なのである。

何故、このような事を言い出したのかといったら、それは「ノストラダムスの大予言」のお陰なのであった。

1973年に五島勉が書いたノストラダムスの大予言という本が大ベストセラーになった。私が高校1年生の時である。このノストラダムスの大予言の中で一番話題になった予言詩が「1999年の7の月、恐怖の大王がやって来て人類は滅亡する。なんたらカンタラ・・・」というのであった。

つまり、後3年で1999年になるわけだ。

そこで、十勝の市民に「近々、地球規模の大災害が起きたら、貴方はどうしますか?」という内容のアンケートを取ったら、9割以上の人が「十勝は、地震が起きても被害はたいしたことないし、食べ物が豊富だから食うには困らないだろう。」という類の解答だったのだ。それを見た大学教授らが「十勝の住人って危機意識が薄いね〜。十勝は日本ではおそらく一番石油に依存している地域だよ。大災害が起きて十勝に石油が入って来なくなったり、値段が高騰したら、十勝は真っ先にダメになってしまうよ。」「公共交通機関が無いから移動は自家用車だし、農作業は機械化されているし、半年間は石油暖房で住宅を暖めて暮らしているじゃないか。」「石油が無かったら、移動も生産も生活も出来なくなってしまうのに・・・」「その石油を十勝で生産しているわけではないのに・・・」等などの意見が次々に出たのだ。

言われてみればその通りで、石油が無ければ確かに十勝はアウトだ。この広大な農地を今さら人力や牛や馬で耕すことなんてとても出来ないから、石油が無ければ農業も成り立たない。そうなると食うには困らんどころか、作物を作れなくなってしまうのだ。

だが、自動車も農耕器具も暖房器具も広大で寒冷な十勝の生活には必需品である。

だから、十勝で生産できるエネルギーで動く自動車、農耕器具、暖まる住宅を開発してそれらを使えば、十勝の住民の生活は今までの生活と何ら変わりがないが、地球環境には優れた生活をしていることになる。

これなら、○○しちゃダメ、△△はダメとかという、環境問題に付きものと思われている抑制がないから住民も受け入れ易いかもしれないと考えたのだ。

しかも、これらを使えば、十勝の住民は普通の生活をしていても、地球環境に負荷を掛けない理想の生活になるから、それを見に世界中から「環境モデル地域」として視察に訪れてくれるかもしれない。

実に夢のある面白い未来予想図が出来上がったのだ。(つづく)


■2010-05-31-Monday 第9地区

映画「第9地区」を見た。

土曜日21:05からのレイトショーで、例によって妻と2人で「夫婦50歳割引」で2000円で見たのだ。2時間で一人1000円で楽しめる映画は安くて良い娯楽である。

この「第9地区」は最近見たSF映画の中では出色の不思議な感覚に陥る映画である。その晩の夢にまで出て来たのだから、よっぽど脳裏に残ったのだろうと思う。

なにしろ設定が面白い!宇宙から宇宙難民が大挙して地球にやって来るのだから・・・。

そして、人種差別ならぬ宇宙人差別である。

設定は面白いが、ところどころに他のSF映画のパクリと感じられる場面も多い。DNAが変化して地球人が宇宙人に変身していくのは「ハエ男」みたいだし、宇宙人の武器は「アイアンマン」みたいなボディスーツだし・・・。

しかし、新しいタイプのSF映画であることだけは確かだ。

巨大な宇宙船が南アフリカのヨハネスブルグ上空に停止する。空中に浮かんだまま動かない。宇宙船の壁に穴を開けて中に入ってみたら、大勢の宇宙人が栄養失調で倒れている・・・。

こんな宇宙船を造れるテクノロジーを持った宇宙人が何故???。

彼等は蟻や蜂のような社会構造の宇宙人なのか?

上級な知識階級は身体が弱くて先に死んでしまい、残ったのは無知な労働階級だけ?

地球人よりもすごい武器を持っているのに、地球人と戦わずに、スラムでの荒んだ生活に甘んじているのは何故なのか?

???の多い映画だが、引き込まれてしまった。

舞台がアパルトヘイトがあった南アフリカのヨハネスブルグという場所設定が、作者の意思を感じさせる。

武器商人の金しか考えない卑しさや、保身の為にデマを流す会社重役、宇宙人差別や宇宙人体実験、地球人のいやらしさが見事に表現されている。

久し振りに映画を見てウ〜ンと考えさせられた。実に面白い映画である。