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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-09-01-Wednesday マイヒストリー24

2000年1月30日に組合の設立総会を開催して「帯広商工会議所 北の屋台ネット委員会」から「北の起業広場協同組合」へと組織を改編した。

名称に「屋台」という文字を入れなかったのは、私達の活動は屋台だけではなく、「起業」家を育てる活動という意味を込めたのである。

しかし、一緒に活動しているメンバーは皆、腰が引けていて、私が代表理事(理事長)の就任を依頼しに行っても誰も受けてくれないのである。恐らくメンバーでさえこの時点では、この事業が上手くいくとは思っていなかったのだろう。

ともかく、商工会議所の軒先を借りての事業から、一本立ちして自由に活動が出来る体制にはなったのであった。

このブログの「マイヒストリー22」にチラッと書いた、北の屋台の土地を借りるに至った経緯を詳しく知りたいから早く書けというメールを何本か頂いた。

ここで、地主さんとのやり取りを書こうと考えていたのだが・・・。

でも、よくよく考えたら、私は北の屋台を2007年3月末日で卒業しているが、現在も北の屋台はこの地主さんから土地を借りて営業している。この時点で裏話を公表してしまうと、現在営業している店主たちに迷惑が及ぶ可能性がなくもない。

しかも、私が北の屋台を卒業する前年に地主さんと交渉して10年間の期間延長を了承してもらっている手前、この裏話を公表するのは期限が終了する2017年まで待ってもらいたいと思う。あしからず了承を願う。

さて、この2000年の「十勝環境ラボラトリー(TKL)」の活動から紹介しよう。「国際環境大学公開講座」は(肩書は当時)1月:千葉博正(札幌大学大学院教授)・2月:倉原宗孝(北海道工業大学助教授)・3月:橋爪紳也(大阪市立大学助教授)・4月:今尚之(北海道教育大学教授)・5月:加藤秀樹(構想日本代表)・6月:朝吹誠(海外広報協会専務理事)・7月:石澤良昭(上智大学教授)・8月:土谷富士夫(帯広畜産大学教授)・9月:福井憲彦(学習院大学教授)・10月:陣内秀信(法政大学教授)・11月:清水祥夫(帯広畜産大学助教授)・12月:遠藤啄郎(横浜ボートシアター代表演出家)の12名、北の屋台事業で滅茶滅茶に忙しい中でも毎月の開催をしたが、その多くは北の屋台事業で関係した教授たちで、北の屋台事業の意義を広める狙いがあったのである。

この講師陣らに執筆依頼をして十勝毎日新聞の土曜日の文化欄に毎週掲載している新聞紙上セミナー「十勝の場所の意志に学ぶ」の原稿が溜まったので1月29日に「まちづくり・ひとづくり提言集VOL1」として出版した。

この本はその後2003年3月31日に「VOL2」を2007年3月10日に「VOL3」を出版した。今でも時々読み返す時があるが、まちづくりの本としては出色の出来であると自負している。

私がこのプロジェクトを担当していたのだが、原稿を依頼していた先生のドタキャンによって、その穴を埋めるべく書いていた原稿によって、段々と書くことが面白くなってきて、今日の様に毎日ブログを書くようになったのだから感謝、感謝である。

また、北の屋台事業では、私の研究心と好奇心がうずき、1999年度の国に提出した報告書に書いた「帯広に於ける屋台の歴史」の研究に続き、日本の屋台の歴史に踏み込んで研究を深めた。これは、2000年度の国に提出した報告書に掲載し、その後、これらをまとめて2001年7月29日の北の屋台オープン日に合わせて「北の屋台読本(メタブレーン社刊)」として出版することになった。

何故、北の屋台オープンの日に合わせて出版したかと言うと、私は北の屋台事業の成功に確信を持っていたことと、その成功を「後付けの理論」だと言わせない為である。

よく全国的には成功した事業では、後から成功した理由を「後付け」で言って、さも最初から自分は判っていたかのようなことを言う輩が多いことに疑問を持っていたからだ。

だから私は他人から後付けの理論だと言わせない為に、まだ事業が始まってもいない開業日に合わせて出版したのである。(つづく)


■2010-09-02-Thursday マイヒストリー25

2000年1年間は帯広市民の頭の中に、

「北の屋台」という名前をインプットしてもらうようなイベント事業を立て続けに行っていた一方で、屋台の研究を個人的にしていた私は商売の原点としての「屋台」というものに関心を持っていったのである。

江戸時代あたりからの屋台を研究していくと、実は私の大好きなマジックの世界にも関係していることが判ってきたからである。屋台は手品の原点の「大道芸」にも通じていたのだ。

客集めの為に、面白おかしいことをするのが日本の大道芸の手法のひとつなのである。

だから、この年の視察は、江戸時代から続く「市場」の研究をすることにした。この意味でとても面白い場所が四国の高知市と沖縄の那覇市だったのである。

9月2〜6日の日程で高知・福岡・那覇の3都市を回った。

高知市には江戸時代から今日まで続いている「市場」が曜日と場所を替えて市内で多数行われている。しかも、新しく「ひろめ市場」という施設が街中に出来て先進的な試みをしているという情報だ。

事前に高知市役所に確認して詳しいことを聞いた。ついでに高知には屋台があるかと質問したら公式には無いとの返事。「公式って?・・・」どういうことだろうと思っていたのだが、高知に行って驚いた。夜になると街中にズラ〜ッと屋台が24軒も立ち並んでいるのだ。

何故、屋台が無いなんて言ったのだろう?と思いながらも、事前調査で屋台は無いと聞いていたから予定に入れていなかった屋台訪問をして歩いた。思わぬ場所に屋台があったので嬉しくなってインタヴューやら写真やらをしまくったのだった。

翌日訪ねたら、高知市で営業している屋台には正式な許可を出していないのだということが判明した。24軒全てが無許可営業なのだとのこと。勝手に屋台を営業しているが強制的に止めさせることができないでいるらしかった。だから「公式には・・・」なんて歯切れの悪い言い方をしていたのだろう。

福岡は99年の11月にたった一人で再取材に行った時に得るものが多かったので、他のメンバーにもその思いを共有してもらいたいと思い再び訪れたのである。やはり、関心を持って見るのと、無関心なのとでは見えるものが違ってくる。メンバーも二度見たことで前回の視察とはまた違った観点で屋台を見ることが出来たと思う。

那覇市は「牧志公設市場」がお目当てだった。ここは1階が市場で2階に食堂がある。1階の市場で買った魚などを2階の食堂に持ち込み、調理料を若干食堂に払えば料理して出してくれるというシステムがあるというので見にいったのだ。

これが出来るなら、屋台と市場を融合させれば、地産地消としてはとても面白いシステムだ。

自分で選んだ魚をすぐそばの食堂で料理してくれるのは、北の屋台でもやりたいと考えていた方法なのだ。魚が並んでいる市場は威勢が良いし、見た目にも新鮮なものを売っているという感じがする。残念ながら、内陸地の帯広では魚屋さんの協力が得られなくて、北の屋台では実現することが出来なかった方法であった。

那覇では地元の若手経営者たちと一緒に交流会を開いて大いに盛り上がった。彼等は「人」をとても大事にしている。やはり商売の原点は店主の顔、人と人とのコミュニケーションにあることを再確認したものだった。因みに、私はこの時までアルコール類で唯一焼酎だけが飲めなかった。甲種の焼酎は正にアルコールそのものを飲んでいる様な感じがして飲む気にならなかったのだ。しかし、この時に飲んだ泡盛の古酒が美味しくて、今では(乙種)焼酎ばかり飲んでいる。

この視察を通して、屋台には飲食だけではなく、パフォーマンスの要素が重要なのだということを感じた。ただ屋台という箱を作ってもそれだけでは客は来ない。店の形・声・匂い・煙・音・味、それらが皆、重要な要素になる。面白おかしく売るから客が喜ぶのである。

北の屋台開業の1年目は飲食の屋台、2年目はパフォーマンスと物販を充実させるという方針が見つかったのである。(つづく)


■2010-09-03-Friday マイヒストリー26

一つの壁をようやく乗り越えたと思ったら、また次の壁が現れる。

北の屋台事業はそれの連続であった。

2000年末には地主さんとの間に基本的な合意事項が成立し、覚書にも地主さんの印鑑を貰って、場所の問題は(一応)解決した。

地主さんと折り合った最終的に借りられる期限は2001年6月1日〜2007年11月末日迄の6年半という中途半端な期限であった。

場所と期限が決まったら、今度はどんな屋台村にするかの具体的な「設計」に入る番である。まずは周りの店舗、人の流れなど、立地の調査に入った。

私は200分の1の模型を作っては、一人で、ああでもない、こうでもないと事務所でやっているのだが、他のメンバーは全く関心を示さないのだ。

自分たちが、まちづくりの「夢」を話し合って、それが、いよいよ具体化しようというのに何故かメンバー皆が、醒めている。

設計のことなど、素人の自分たちには判らないから、そんな事は設計のプロに任せておけば良いという風に感じたのだ。私も設計に関しては全くのド素人であるが、コンセプトを作った本人としては、設計家にコンセプトを正確に伝えて、それを確実に表現させなければ、設計とコンセプトがバラバラでは上手く機能しない。このままプロの設計家だけに設計を任せるのは、まずいと感じたから、ド素人ながら、いかに自分のコンセプトを万人に伝えたらよいか、そのプレゼンの方法を探っていたのである。

私には絵心は全く無いから、絵で表現することは残念ながら出来ない。しかし、工作ならばなんとか出来るから、簡易な模型を作って伝えようと思ったのである。

コンセプト作りでは「通り」ということにこだわった。道路を通行する為のものから、生活の場に戻すことが中心街活性化には必要だというのが持論だったからだ。

今回は不本意ではあるが一般道路を使用することは法律上叶わなかった。しかし、将来のことを考えれば「屋台」を道路に置きたいという意志は示しておきたかったのだ。

だから袋小路状ではなく、「通り抜け」出来る道路形状であることが重要な要素だと思っていた。

帯広市の街区は100m×50mの長方形の格子状になっているから、帯広市はいわば直線で作られた街である。私は道路には、先に何があるのか見通せない「曲線」がワクワク感を演出するという持論も持っているので、直線の街に、曲線の屋台が並ぶ通りができると、街の雰囲気を変えられるのではないかと考えたのだ。

作った模型で何とか曲線の店舗配置が出来ないか、悪戦苦闘しながらやっていたのだが、皆、素人が何をバカげた、無駄なことをやっているんだという冷たい目でみる。

実際には敷地の幅が10.5mしかないので、曲線化することは難しかったのだが・・・。

だが、初めから達観してしまって、何もやらないのは面白くないし性分に合わない。自分で挑戦してみて物理上、難しいことが判るから納得して次の方策に移れるのだと思うのである。

まぁ、結局は曲線化だの立体化だのという構想は幻に終わるのだが、私は自分なりに検討してみたことが、その後の設計にも生きたと思っている。

そんな具体的な設計に入ってすぐの頃、メンバーの設計士が急に脱退すると言い出したのである。設計士のメンバーにはボランティアで仕事をさせる訳にはいかないだろう。十分な金額ではないにしろ設計の報酬は100万円を払うことで了承してもらった。

だから別に報酬や設計で揉めた訳ではない。

北の屋台事業全体で掛るであろう総費用を、会計士のメンバーと大雑把に算出して、家賃をいくらに設定するかという会議をしていた中で、設計士のメンバーは家賃が高過ぎると激昂したのである。

「そんなに高い家賃では入る人がいないし、入居しても営業は難しい」というのである。

その金額というのは私が算定したのが月6万円で彼が主張したのはその半分以下の金額であった。彼曰くは「弱者救済で、新たな起業者を育てる事業でなければならない」という主張である。

しかし、私は責任者として、北の屋台事業が採算に合う事業でなければならないと考えていた。

土地の賃貸借期限は6年半しかない。その期間の中で、収支をトントンにしなければ、メンバーに借金が残ることになって迷惑をかけることになる。最初から赤字になることが想定されるような事業に積極的に参加する人間などいないだろうと思ったから、この6年半で少なくても借金を返せるだけの計画で始めなければならないと考えたのだ。

結局、彼は土壇場になって設計の仕事を降りてしまったのである。(つづく)


■2010-09-04-Saturday マイヒストリー27

2001年1月20・21日には出店者募集の説明会を開催する予定であった。

それまでに、設計はもちろんのこと家賃などやこまかい規定なども決めておかなければならない。設計が終了しなければ建築費にいくらお金が掛るのかが判らないから、家賃の算出などの作業も不可能なのだ。

設計のアイデアは素人でも出せるが、図面を引くことはプロにしか出来ない。メンバー皆が途方に暮れてしまった。

誰か設計士で引き受けてくれる人を見つけなければ、説明会を延期せざるをえないというギリギリの段階なのだ。よしんば見つけたとしてもコンセプト等を伝えて理解してもらうまでにはかなりの時間が掛る。いろいろな人脈をたどり、遂にaddi設計工房の吉野隆幸さんを紹介してもらった。

最初は渋っていた吉野さんだったが、私も、彼しか居ないと連日彼の事務所に日参して口説き落とし、ようやく引き受けてもらった。

話は変わるが、後の2007年9月8日に帯広市のとかちプラザで建築士会の全国大会が開催され、私が基調講演を依頼された。私はこの依頼を受けた時点では既に北の屋台を卒業することが決まっていた時期なので固辞したのだが、全国の建築士に北の屋台の話を聞かせて欲しい、その話が出来るのはコンセプト等を作った貴方しかいないと説得されて結局引き受けたのだが、この講演終了後の懇親会の会場で、帯広の建築士の方々から「実は、2000年当時は、我々建築士は、帯広で屋台なんぞ出来る訳がないと冷笑していたんだよ。見る目が無かったばかりに、貴方にとても失礼なことをした」と謝られたのである。土壇場で降りた建築士も仲間から冷笑されてやる気をなくしたのだろうなぁと推察したのだった。

その点で、吉野さんはユニークな建築士であったといえるだろう。これで、設計も何とかなると思ったら、今度は、また別な法律問題の壁が出現したのである。

屋台は道路法・道路交通法・公園法・食品衛生法の4つの法律でがんじがらめになっていることは前述したが、民有地に建物を建築する際には、建築法と消防法という別の法律をクリアしなければならないことが判明したのだ。

吉野さんが市役所の建築指導課と事前の話し合いをしている際に、建築指導課の職員から「建築法では、同一敷地内には、同一目的の建築物は一棟しか建てられない」との指導を受けたと言うのである。

借りる土地の形状は間口10.9mで長さが約50mの約160坪の細長い土地である。この土地に屋台は一棟しか建てられないと言うのだ。「何ということでしょう!」これでは屋台村にならないではないか。

それから私と吉野さんの2人で、市役所通いが始まった。

3回目に訪ねた時に、私が市役所の職員に「何をもって一枚の敷地というのか?」という問い掛けに「広い道路に面していれば一枚の土地とみなす」という答えである。

「では、この160坪の土地を真ん中で切ったとしたら、東西2枚の土地とみなすのか?」と問うと「そうだ」との答え、「では、さらにこれを南北に分割することも可能か?」と問うと「それも可能だ」と答える。

「では、この土地を東西南北に4分割して登記すれば4棟の建物を建てることは可能なのか?」と聞くと「可能だ」と答える。

次に「では、何をもって一棟の建物とみなすのか?その見解を教えて欲しい」と問うと、最終的には「屋根が繋がっていれば一つの建物とみなす」との答えを導き出したのだ。

つまり、5軒ずつ屋根の繋がった屋台を1棟として、それを4棟建てれば20軒分の屋台が建てられるということだ。トイレは別目的だから敷地のどこに建ててもOKである。

後はデザインの工夫で、屋根が繋がっていても真っ平らな長屋風ではなく、1軒1軒が独立した建物に見えるように凸凹にすれば良いだけだ。吉野さんに確認したらた易いことだと言う。

今度は消防法だ。この場所は特別防火地域なので木造の建築物は建てられないという。これは費用の問題だけで、不燃性の材質を使うことでクリアできた。

まぁ、次から次へと壁が立ちはだかること。

よく他人からは「坂本さんは苦労しましたね」と言われるが、この時の私は、これらの問題を解決する方法を考え出すことが楽しくて、楽しくて仕方がなかった。

まるでマジックのタネを考案しているようでとても面白い日々であったのだ。(つづく)


■2010-09-05-Sunday マイヒストリー28

2001年1月20・21日はなんとか予定通りに、

出店希望者説明会を開催することが出来た。

前年の11月23日の十勝毎日新聞の記事と26日の北海道新聞の記事、12月28日の読売新聞の記事で、この説明会の告知をしたのであるが、年が明けても参加希望者数は低迷しており、特に地元帯広からの応募数が少なかった。

地元の人間は帯広の冬の寒さが身に染みており、屋台が帯広で通年営業できるとは思ってもいなかったのだろう。

でもそれは無理もないことだった。なにせ仲間であるはずのメンバーでさえ、この事業の成功は危ういとしか思っていなかったのだから・・・。

そんな時に思わぬところから救いの手が差し伸べられた。

十勝環境ラボラトリーのスポンサー企業であったソニー・NEC・キャノン・日産自動車のデザイナーたちの研修機関である「東京デザインネットワーク」のコーディネーターの錦織弘昭さんという方に東京で会った時に、北の屋台の構想を話していたのだが、「とても面白い構想だから、デザイナーたちの研修の為に、「屋台」を題材にしてデザインを競わせてみたい。ついては2月下旬に帯広で何泊かして研修会を開催したい」との申し出があったのだ。まさに渡りに舟である。話題作りには格好の材料だ。

話はトントン拍子に進んですぐに決定し、決定直後の1月13日の新聞記事でこの話を紹介したのである。すると、日本を代表する有名企業が北の屋台に協力するという風に感じたのだろう。この記事が掲載された翌日から申し込みが増えだしたのだ。

北の屋台事業は、何等かの問題が発生すると、その都度、救いの手が差し伸べられるという幸運があったのである。

1月20・21日の2日間に道内外から116名(新聞等では113名となっているが正確には116名)もの参加者がいて、北の屋台への関心の高さを証明した格好になった。

この説明会に参加した人たちの心配事は、「寒い北海道で屋台が通年で営業できるのか?お客さんが寒い中でも来てくれるのか?」という点にあった。

寒い中でも営業出来るということを実証してみせる必要があると思ったので、2月12日の夜に「第二回寒さ体感実験」を行うことにした。

前年の2月にやった時には客席を囲っていなかったので検証が不十分だったからだ。囲いも、ガラスとビニールというように違いを際立たせた2種類の実物大屋台を製作してデータ収集をするとともに、一般のお客さんにも飲食を楽しんでもらい、その模様をテレビで映してもらおうとの計画である。3社のテレビ局、5社の新聞社が取材に訪れてくれて、この方法は大成功であった。

前述した東京デザインネットワークの研修会も2月23〜25日まで行われ、日本を代表する企業のデザイナーたちによる屋台のデザイン多数発表され、これも新聞で取り上げられて話題を呼んだのであった。

この後、このデザイン研修会は、このまま研修で終わらせたのではもったいないということになり、せっかくのデザインを実現させたいということになって、NEC・キャノン・日産自動車の3社のデザイナーがそれぞれ北の屋台のデザインを実際におこなうことになったのである。

テレビや新聞などで連日、北の屋台の報道がされるので、話題が先行して、まだ事業を実際におこなってもいないのに全国各地から視察の人たちが訪れるようになったのだ。(つづく)


■2010-09-06-Monday 諸事雑感

先の8月24日自宅近所に落雷があって、

温水ボイラー・テレビ3台・パソコン1台が損傷を受けたとこのブログに書いたら、このブログの読者から、「落雷が原因なら損害保険が利きますよと」のアドバイスを頂き、早速、損保会社に連絡したら保険で修理できるとの返事である。

天災による被害は保険の対象にならないと端から思い込んでいたので、全部自費で買い替えや修理をしなければならないと覚悟していただけに何だか少し得をした気分になったが・・・、でも、ちゃ〜んと保険の内容を熟知していなければ何の為に保険に入っているんだか意味が無いなぁとも感じた。まずは教えていただいた事に感謝である。

昨日の男子プロゴルフのフジサンケイクラッシックは面白かったなぁ〜。同時間に私もゴルフをしていたから、リアルタイムではテレビで観戦できなかったが、修理から戻って来たテレビの接続を23:00頃からやっていたら、BSテレビでこの試合の模様が流れていたので、思わず見入ってしまったのだ。

石川遼(18)と園田峻輔(20)の杉並学院高校の先輩・後輩の熾烈な戦いで、石川遼の2年先輩が園田峻輔だ。

園田選手は最終組の石川選手の1組前、その園田が15番で打った第3打のバンカーからのショットが大ホームラン、OBになってもおかしくないのに、そのボールがテレビ局のブースに当たってグリーンに跳ね返って戻りパーを拾った、18番ではティショットを右の林に入れ、テレビ局の足場が邪魔になる場所から救済を選択せずに打った球がオーバーして、グリーン奥の深いラフに、このラフからミスショットして、またラフに、この4打目のショットも大き過ぎると思ったら、ピンの旗に包まれて落下してからくもボギー、「旗包み」というのは漫画「プロゴルファー猿」の得意技だが、ゴルフ漫画でさえ、こんな場面はそうそうあるものではない。

まるでゴルフの神様が悪戯しているようなゲーム展開であった。

リアルタイムで観ていたら、こりゃー流れは園田だなと思うところだが、結果は既にニュースで見て知っているが・・・。

18番、最終組の石川のティショットがバンカーに入った。バンカーからグリーンまでの距離は175ヤード、私の飛距離なら5番アイアンだが、しかしボールはバンカーの縁に近い、縁にぶつからないように打つにはグリーンには届かないが8番くらいのロフトのあるクラブで打ってなるべくグリーンの近くまで持ってきてチップインバーディを狙うしかないだろうなぁと思っていたら・・・。

さすが、プロだなぁ、しかもこの石川遼という選手は何か不思議なモノを持っている選手だ。

気合が入っているのは画面からも判る。なんと8番で打ったボールがピン側1メートル近くにピタリと落ちて止まった。奇跡のようなショットである。

ここで石川がバーディを決めてプレーオフに、サドンデス4回目のホールでようやく決着がついた。

結果は判っているのに、観ていてワクワクするゲームであった。

それにしても、園田峻輔、20歳だというのに私と同じ様なお腹ポッチャリの体型をしている。あれでもゴルフが出来るんだと思うと何だか妙に親近感が湧いてきた。

男子も女子も若手の台頭でプロゴルフ界は面白くなってきたなぁ〜。


■2010-09-07-Tuesday テレビの討論会

8月7日(土)にテレビ朝日系列の「朝まで生テレビ」の

北海道版の番組、HTBの「朝まで生討論」(夜中の1:00〜4:00)という生放送の討論会にコメンテーターの一人として参加したが、今度はNHK北海道からお呼びが掛かった。

23日(月)に札幌NHKのディレクターから電話で、「政権交代から1年が経ったが感想は?」とか「北海道の観光について」とかの質問を受けて、1時間ほども答えていた。

単なる電話によるアンケートのようなものだと思っていたら、9月17日(金)にNHKで討論会をやりたいので、コメンテーターとして参加を要請するかもしれない、スケジュールは空いているか?とのこと。

まずは私の持論を電話調査したというところだろう。

空いていると答えたが5日(日)までに連絡が入らなかったので、別な人に依頼したのだろうと思っていたら、6日(月)になって出演して欲しいとの正式な要請である。

9月17日(金)の19:30〜22:45(途中休憩1時間有り)までの長丁場だとのこと、帯広のNHK放送局と札幌のNHK放送局と札幌のたぬき小路の3カ所を中継で結びながら生で討論するらしい。

前回のHTBの時は11名で1ヶ所で討論したが、今度は3カ所でテレビ中継しながらというから、面と向かっての討論ではなく、テレビの画面を見ながらの討論会みたいだから、余計に難しいのではないだろうか?

出演者などの詳細はこれから教えるとのことだが、人数が多ければもっとやりにくいことになるだろうなぁ〜。


■2010-09-08-Wednesday 民主党代表選

私のブログの読者の方から

「民主党代表選挙に関してのコメントがありませんね」という内容のメールを複数頂いた。

はっきり言って、この件に関してはとてもコメントする気にならなかったのだ。

なぜなら、私は小沢一郎が大嫌いである。そして、それに輪を架けて菅直人が大嫌いなのである。

大嫌いな政治家の二人の中からどちらかを選べと言われても・・・。

例えて言えば(私は今、かなり酔っています)無人島に漂着した男1人と女(?)2人という設定の3人で、男が私で、女(?)2人が私の好みとかけ離れた女性とまぁまぁ美人のニューハーフという場面での究極の選択のような感じなのである。

でも、どうせ、私は民主党のサポーターではないから選挙権がある訳ではないので、こんなことを書いても無意味なのですが・・・。

事実上の日本国の総理大臣を決めるのに、いくら議会制民主主義だとは言っても、民主党の国会議員と民主党の地方議会議員とサポーターによる投票だけで首相が決まるとは・・・。

しかも、それを投票権の無い一般国民までもが、やれ小沢だの、やれ菅だのと連日ニュースでやっている情報に踊らされているのはとても気分が悪い。

ここまでのマスコミの論調は、概ねは菅にやらせたい様に感じる。そしてそのように世論を誘導しているようにも感じる。

でも、私の見た感じでは最後は小沢が勝つと思うのだ。

なぜなら菅陣営は、時間を掛け過ぎたからだ!

こんなに立候補から時間を掛けてはイメージ戦略は通用しなくなる。立候補を表明してから1週間以内なら確実に菅が勝ったろうが・・・。

でも、こんなに時間を掛けたら、菅のメッキが剥げてしまって、小沢陣営の地道なつぶしに少しずつ侵略されていくだろうと思うのである。

菅陣営には有能な参謀が居ないのだろうなぁ!

きっと現実を直視しない理想論者ばかりなのだろう。

それにしても、民主党には幻滅した。

最大の戦犯は、鳩山由紀夫だ!

これほど、政治家、いや、総理大臣の発言が軽かったことがあったろうか?ちょっと前に麻生太郎を史上最低の総理大臣と書いたことがあったが撤回する。

至上最低の総理大臣は鳩山由紀夫だ!

せめて、自分の出処進退に関する言葉だけでも守ろうぜ!

なぜに今回の代表選にお前がシャシャリ出て来るんだ?余計に混乱を招き、余計に自分のカブを下げただけではないか。

日本国民の内で彼を尊敬すると言う人間が一体何人居るのだろうか?

消去法でしか総理大臣を選べない国家というものが、まともな国家であるはずがない。

情けないなぁ〜。恥ずかしいなぁ〜。

だから、私は書きたくなかったのですよ!


■2010-09-09-Thursday マイヒストリー29

2001年は北の屋台で忙しかったが、

私は十勝環境ラボラトリー(TKL)の専務も兼ねているので、両方の事業をやらなければならない。

「国際環境大学公開講座」は、1月:大坪省三(東洋大学教授)・2月:ガブリエーレ・メガッティ(駐日イタリア特命全権大使)・3月:田中良太(フリーライター)・4月:浦島久(ジョイ・インターナショナル代表)・5月:金子修也(GKグラフィックス社長)・6月:長谷川岳(ヨサコイソーラン祭り専務理事)・7月:竹沢えり子(編集者)・8月:増田章(極真会館増田道場代表師範)・9月:杦本育生(環境市民チーフコーディネーター)・10月:錦織弘昭(デザインプロデューサー)・11月:大沢真知子(日本女子大学教授)・12月:近藤隆雄(多摩大学教授)と毎月の開催をした。

この中で、特に印象に残っているのが、2月3日のガブリエーレ・メガッティ全権イタリア大使閣下である。この方を連れて来てくれたのは、前年2000年6月に講師として来てくれた朝吹誠(海外広報協会専務理事)さんなのであるが、何と前日に朝吹さんの父上がお亡くなりになったのである。それでも、約束だからと朝吹さんはガブリエーレさんを帯広まで連れて来てくれて、講演では通訳を務めてくれて、その日の千歳空港からの最終便で東京に戻られたのである。

ところが、駐日全権大使といえばイタリアの国を代表して来日している、いわば国賓級の人物である。

今回の来勝はプライベートということで、朝吹さんと2人で密かに来られて、翌日、札幌の雪まつりの行事に参加するというスケジュールになっていたのだ。

朝吹さんが父親の葬儀の為に急遽、東京に戻られたから、つまり、お付きの人は誰も居ないということなのである。

我々の中にイタリア語が話せる人間は居ない。ガブリエーレさんは大使だから英語は堪能だが日本語はしゃべれないから、我々の英語力では何とも心細い限りだ。

「ガブリエーレ閣下殿はプライベートでお付きの者がいないから、帯広では自由に遊びたい」と言っているとメンバーの誰かが怪しげな通訳をした。

真に受けた私は、北海道ホテルで十勝の食材でもてなした後に、私のなじみスナックにお連れしたのである。そうしたら、恐れを知らないそこのホステスがガブリエーレ閣下のことを「ガブちゃん」と呼んでキャッキャと騒いでいる。無茶苦茶な英語なのに、ここのホステスたちは恥ずかしいということを知らないから会話が妙に盛り上がっていたのだった。

翌日、「小川」で蕎麦を食べてもらって、帯広駅にお連れして札幌行きの列車にガブリエーレさんを1人で乗せてホームで別れた。

誰かが付き添いで札幌まで同行した方が良かったのかもしれないが・・・。

ガブリエーレさんが「私が乗る列車の席の番号を大使館の人間に知らせてある、札幌駅のホームではイタリア大使館の関係者が待っているから大丈夫」と言っているという風に聞こえたのである。

何事もなく無事に札幌に到着してくれて本当に良かった。もし、何かがあったらと思うとゾッとするが・・・。

後日、朝吹さんから「ガブリエーレ大使は帯広がとても面白かったとおっしゃってましたよ」と言ってくれたが、果たして本当だろうか?

でも、翌年、ガブリエーレ大使の話を聞いたオーストラリア大使が十勝に遊びに来てくれたから案外ホンネだったのかもね。

いつも周りにお付きの人がピッタリと寄り添って居るから、なかなか羽を伸ばせなかったのではなかろうか。

帯広から札幌まで一人で列車に乗ったなんて経験は、きっと日本では初めてのことだったのだろうと思う。逆にそれが印象に残ったのかもしれないなぁ〜。その後、東京のイタリア大使館で開催された「日本に於けるイタリア100年(?だったと思う)」のパーティに我々を招待していただいたのである。(つづく)


■2010-09-10-Friday 帯広の人口増加?

7日の勝毎と8日の道新の記事に

帯広市の今年3月の人口が9年振りに増加したと載っていたのを見てか、「坂本さんの人口が減少するという予言がはずれましたね」というメールをくれた読者がいた。

この方を含めて、そう感じている人が結構多くいるのだろうと考えて、反論することにした。

ハッキリ言うが私は予言などしていない。

私は、「日本の人口が減り、北海道の人口が減り、十勝の人口が減る、人口減少社会が既に到来しており、これに対処するには、都市部に集中して暮らすコンパクトシティ化が必要だ」と説いているのである。

つまり、北海道における札幌一極集中のように、十勝では帯広一極集中させることが必要だと言っているのである。

だから、将来的には帯広市の人口が増えることは必然なのだが、まだコンパクトシティ化をやっていない現状で帯広市の人口が増えたのは、全体の方向性は減少に向かっているのだが、その幅の中での多少の凸凹に過ぎないと見ている。人口減少社会への対応をしていない現状で、わずかこんな程度の人口増加があったからといって喜んでいたら、物事の本質を見失っていまうから、今回の人口増加はあまり歓迎すべき事態ではないと判断している。

帯広市単独のデータでは不完全で、近隣の音更町・幕別町・芽室町のいわゆる帯広圏での人口を見なければ本質を誤る。

人口が右肩上がりに増加していた「列島改造論」時代の「国土の均衡ある発展」という政策は、人口減少社会では負担と無駄が増えるばかりであるということなのだ。

道路も水道も、およそインフラというのは造ったら、それでお終いというのではなく、造った後にも維持の為のメンテナンス費用というのが掛かるものなのだ。減っていく人口で、経済も縮小していくなら、当然なことに税収も落ちていく。今後は造るどころか、昔に造ったものを維持すらできなくなっていくのは明らかだ。

山の中に老人がたった1人で暮らしている場合、そこに上下水道・電気・道路などを整備していけば、たった一人がものすごい税金を使って生活していることになる。これは逆にものすごい不公平なことではないのか?

もちろん生活権というものが存在するから、今すぐに都心部に移り住みなさい、なんてことはできないだろう。

だから、10年ほどの時間を掛けて少しずつ、その方向に進めていくのだ。つまり、政策のベクトルの向きを、人口増加時代の方向から、人口減少時代の方向に変えなさいと言っているのである。

私は、公共事業というものに反対はしていない。

ただし、人口増加時代の拡大政策の精神のままでの公共事業をやり続けていけば、子供や孫の時代に、とんでもない多額の負担を残すことになってしまう。

だから、人口減少時代の縮小方向の精神で公共事業を行いなさいと言っているのだ。

例えば、コンパクトシティ化と農畜産地と、自然環境を保存する地域のメリハリを付ける政策に公共事業費を掛けなさいということなのだ。

コンパクトシティ化するのにも公共事業は必要だ。しかし、それは今後の日本にとって必要な事業なのだから、必要経費なのである。

ただ単に「国土の均衡ある発展」という精神で「新幹線」や「高速道路」を造ることには反対だ。

人口減少する中での、都市と都市を結ぶ公共交通機関としての「鉄道」の在り方や「道路」の在り方を考えた上で公共事業を展開していくべきだろうと思う。

現在、今すぐに人口が増加する(子供の出生数が増える)政策を取れたとしても、その効果が現れてくる(その子供たちが子供を生みだす)には20年以上の歳月が掛かる。しかし、日本の政府は有効な政策を取れていない。

だから、人口減少社会への舵取りを早急にする必要があると言っているのだ。

ご理解いただけましたか?


■2010-09-11-Saturday 鈴木宗男

受託収賄罪など4つの罪に問われた鈴木宗男衆議院議員が、

近く収監され、失職することになった(この文章は8日の夜に書いている)。最高裁が上告を棄却したので、懲役2年、追徴金1100万円の実刑が確定するという。

感想は、随分と長くか掛かったなぁ〜に尽きる。

でも、それにしても何故、この時期なんだろう?何かきな臭いものを感じるなぁ〜。

2002年に逮捕、起訴され、参議院選挙で落選、05年の衆院選で「新党大地」を旗揚げして当選した。昨年9月の政権交代から衆院外務委員長を務めていた。

今回の事件のもとになったヤマリンの社長も良く知っている人物だけに、どちらが偽りを言っているのかは私なりには判断できるつもりだ。

鈴木宗男という人物が十勝の足寄町から出たというのが、何とも複雑な気分にさせる。

我が地域の北海道11区では、中川昭一が昨年の落選後すぐに亡くなった。新しく代議士に当選した鈴木宗男と同じ足寄町出身の石川知裕は、小沢一郎の政治資金の疑惑で逮捕され、民主党を離党した。そして今度は比例代表で当選した鈴木宗男の失職だ。

十勝の政治家は一体何のだろう?

おそらく、日本国民の大多数がそう思っているのではないだろうかと思う。

十勝という地域は、そういう地域だと思われてしまうのではないだろうかと危惧しているのだ。イメージが悪くなってしまいかねない。

中川昭一と石川知裕の二人とは一対一で会って話をしたことがあるが、鈴木宗男とは直接会って話をしたことはまだない。幸か不幸か、複数でも面と向かって話をしたことがない。だから、直接にどういう人物なのかは判らないが・・・。

先日、私が出演したHTBの「朝まで生討論」というテレビ番組に鈴木宗男が出演する予定であったらしいのだが、ドタキャンされたとのことだから貴重な同席のチャンスを逃したのかも・・・。

でも、テレビなどの画面を通してみる限りでは、私の最も苦手なタイプの人物であろうことは確かだろう。

落ち着きがなくて、セカセカした話し方をする人間とは性格的に合わないし、どうもユッタリと話すことができないのだ。

このブログを書いている内に、私が大学生の時に、私の父に掛かってきた鈴木宗男(当時は中川一郎の秘書)からの電話のことを思い出した。

当時、父は田本憲吾帯広市長選対の婦人部長をやっていたが、鈴木宗男に対して何か気に入らない言動をしたのだろうと推察する。1時間以上もクドクドと父を非難し続けたダミ声が、受話器から聞こえるほど大きかったのを覚えている。当時、鈴木宗男なる人物のことは知る由もなかったが、父が、何様のつもりだと憤慨していたのはハッキリと覚えている。まともな人間なら、もう相手にするのも面倒くさくなるほどに執拗にギャーギャーと吠え、喚き立てて、呆れさせる。

気に入らない人間に対しては、中川一郎という虎の衣を借りたキツネのごとくに大柄に且つ執拗に振舞ったのだろう。

彼のギャーギャーとうるさい態度は、どうしても好きになれない人物であった。

今回の刑の執行で、2年間の懲役終了後も5年間は選挙に立候補できなくなる。

これで少しは十勝の政治状況に変化が出るのであろうか?

政治家に限らず、人間はすべからく「李下に冠を正さず」でいた方が良い。


■2010-09-12-Sunday マイヒストリー30

北の屋台事業の方では2001年2月16日に

2000年度の報告書を持参して東京の全国中小企業団体中央会に出向いてプレゼンをした。ここで2000年度の事業の成果を認めてもらえると、2001年度は「実験化事業」としての予算が付くのである。

担当者の人からは、他の事業では補助金を出しても、あまり成果が上がっていないとのことで、北の屋台をとても有望な面白い事業だと認めてくれた。プレゼンが上手くいって、2001年度補助金の内定をもらうことができたので、亀戸のサンストリートや幕張のカルフールなどを視察して帯広に戻った。

国が北の屋台の実現に向けて補助金を出すというので、帯広市役所と帯広商工会議所からも補助金を出しますよとの連絡が入った。

当初、補助金は当てにせずに、全額、自分たちで資金を工面して実現するつもりであったから、市役所や商工会議所までもが補助金を出してくれるという知らせは、金銭面での負担が軽減されて、精神的にはかなり楽になった。でも、最初から補助金を当てにして事業を進めていたら、きっと北の屋台は実現しなかったと思う。 

補助金は貰えるがそれでも足りず、金融機関からは1500万円を借りなければならなかった。この時、帯広信用金庫と金を借りる交渉をしたのだが、保証人が二人必要だとのこと。北の起業広場協同組合の発起人のメンバー達に依頼したが、誰もハンコを付いてくれない。この時点では誰もこの事業が上手くいくとは思っていなかったのだろう。

私は北の屋台は自ら進めてきた事業であるので他のメンバーには金銭面で負担を掛けたくなかったから、もしこの事業が失敗したら、この1500万円は私が被るつもりであった、だから、信金に保証人は私一人で良いだろうと交渉したのだが、二人でなければダメだというのである。

誰も保証のハンコをついてくれないので、金融機関からは組合の(当時の)理事長は会社をつぶしたばかりで財産が無いから保証人としては相応しくないが、専務理事がハンコを付くのだから体裁上、理事長ならOKにしようということに落ち着いた、もしもの時は私から取れば良いとの判断で・・・。

この理事長は、その後ことある毎に、「自分が坂本と二人で保証のハンコを押した」と自慢するから「恥ずかしいから、保証の話はしないでくれ」と言ってその話を止めさせた。金融機関とのやり取りの話を公表したら、この理事長が恥をかくことになるのに、まるでそのことを理解していないのだ。

お金の算段や設計は順調に推移していったが、肝心の屋台の応募が不調であった。やはり、先例の無い事業で、冬の寒さの心配が大きかったのだろうと思う。

私には、話題作りの為に、北の屋台で「立ち食いの寿司屋」をやらせたいという思いがあった。

私が研究した屋台の歴史で、終戦後の日本には屋台が雨後のタケノコのように沢山出現したのだが、その多くは「江戸前寿司」の屋台であったというのが気になっていたのだ。生のお米を1合、寿司の屋台に持って行き、加工料として若干のお金を足せば、10カン程の寿司を出してくれたと文献にあったのだ。その理由が何故なのかは不明なのだが、「江戸前寿司」は法律上、優遇措置を受けていたので、屋台の多くがその恩恵を受ける為に「江戸前寿司の屋台」が日本中に溢れたのだという。

それが昭和23年1月1日に施行された食品衛生法によって、ナマモノを屋台で販売することが禁じられ、日本から寿司の屋台が姿を消したのである。だから、その当時(2001年)には日本には寿司の屋台は存在しないはずであったのだ。

因みに、寿司屋のカウンターというのは、寿司の屋台が原型だとも言われている。

この絶滅してしまった寿司の屋台を、北の屋台で復活させれば、日本中の話題になると考えたのである。

寿司は、酒を飲んで小腹が空いたら、4,5カン食べてもお腹にもたれないし、出前OKの屋台村にするつもりだったから、余所の屋台の客からの注文も来るだろう。おまけに帰りにお土産に持って帰るには最適のアイテムであるから、3坪の屋台が5坪分にも10坪分にも生かせるはずだと考えたのだ。

ところが、寿司の屋台の応募が無かったのだ。なんとしても寿司の屋台をやりたかった私は、帯広の寿司屋さんにこの話を持っていったのだが、誰も乗ってこなかったのである。

これはいよいよ自分でやってやるかと、シャリを入れる桶の形をした寿司ロボットを借りてきて実験までやったのだが、結局、寿司の屋台は出来なかったのである。

20軒分のブースを造るのに、ラーメン屋の応募ばかりなのである。屋台=ラーメンというイメージが定着してしまっているのだろうと思った。

せっかく、どんな料理でも出せる21世紀型の屋台を考案したのに、現在も多数あるラーメンの屋台ばかりでは話題は作れない。

応募に合わせてラーメン屋ばかりを入れてしまったら、北の屋台のイメージがラーメン横丁やラーメン村になってしまいかねないからだ。それでは北の屋台は失敗に終わってしまうだろうと考えた。

そこで急遽、同じ職種の店舗は2軒までというルールをこしらえた。ラーメン屋も2軒まで、帯広名物の豚丼屋も2軒までと・・・。

7月29日のオープン時には20軒のブースの内、決まっていたのは16軒で4軒は空けたままでのスタートとなったのであった。

しかもその最初の16軒の内の2軒を、メンバーの後藤健市くんに無理を言ってやってもらったのである。後藤くんには「君の発案で屋台をやったのだから、何とかラーメン以外の店を見つけてこい」と無理強いしたのである。

不動産屋じゃあるまいし、素人の後藤くんに見つけられる訳がない。彼は仲間とお金を出し合って屋台を運営してくれたのだ。時には彼自身が屋台に立って。(つづく)


■2010-09-13-Monday コンパクトシティ

どうも私の書き方稚拙なのか

それとも、読者の読解力が不足されているのか、私のコンパクトシティ化論に対して正しく理解されていない方がまだまだ多いようだ。

先日も、「結局のところ帯広市の人口は増えるのか?減るのか?」という質問を受けた。

ハッキリ一言で言えば、このまま無策なら減るし、コンパクトシティ化をすれば増えるということだ。

人口増加社会と人口減少社会とでは政策の目指す方向が逆なのだから、都市政策はドンドン現実と乖離していき、無用に拡げた都市のメンテナンス費用を少ない人口で負担しなければならなくなるから、やがて都市は破綻すると指摘しているのだ。

私は、「国土の均衡ある発展」という人口が右肩上がりに増えていた時代の「列島改造論」という拡大政策のベクトルのままで、人口を増やそうとしても、日本全体の人口は減少するのだから、しょせんは地方都市の人口は減っていかざるを得ないと言っているのである。

北海道を例に言えば、札幌市に一極集中して、旭川市・函館市・帯広市などの地方都市も、商店・学校・病院などの都市機能を維持できなくなる。札幌市の一人勝ちかと思われるが、やがて札幌市も集まり過ぎて破綻することになると言っているのだ。

人口が減少する社会において、ほったらかして自然減に任せておけば、都市機能は維持できなくなる。

そうなる前に、人口減少社会を素直に認めて、人口が減って行く社会における理想の「まちづくり」とはいかなるものかを考え、それを10年ほどの時間を掛けながら実現していくしか残された道はないと思っているのだ。

50〜100万人ほどの人間が集まって人間らしい生活をするにはどうしたら良いのか?

エネルギー効率を良くして、無駄な経費を掛けないことで、地球環境にも良い暮らしができると考えている。

鉄路・道路・上下水道・電気などのインフラも、それに合わせて改良する。

かつての、列島改造論で、山間の狭隘な場所を無理やり開発して家を建てた。川沿いの洪水の危険が伴うような場所や、湿地帯のような、本来人間が住むのに適さないような場所も無理やり開発してきた。そのツケが、今日の災害の元凶ではないのか?

人間が暮らすに相応しい場所にまとまって暮らす、農業・林業・漁業へはそこから通って作業する。自然環境を残すところは残す。そういうメリハリの利いた場所に、北海道をするのだ。

そうすれば、視察に訪れる人も増えるだろう。

定住人口は減っても、交流人口を増やす政策を取って活性化をすれば良い。

このプランを実現させるのは、日本人の意識が変わらなければ難しいだろう。このプランを初めて公表した1996年当時では、誰も聞く耳を持ってくれなかった。

しかし、ここ1〜2年で日本人の意識もだいぶ近づいてきたように感じる。

あとは、政治家の頭の中身が変われば劇的に変わっていくだろうと考えている。

でも、まだまだ理想論に過ぎないのだろうか?


■2010-09-14-Tuesday 持久力

スポーツに関しては、

私は瞬発力タイプで、持久力に関してはゼロに近い。

だから、野球などは休み休み出来るから得意なのだが、サッカーなどはのべつ走り回らなければならないから、観るのは好きだが、やるのは昔から苦手だった。

陸上競技でも、短距離走は得意なのだが、長距離走は大の苦手で、中学校、高校のマラソン大会を通じてまとも走ったのは、中学1年生の時の一回切りなのである。

高校のマラソン大会ではたかが5kmや10kmの距離(まともに走ったことがないから距離を正確に知らない)なのに、途中の1kmも行かない地点で橋の下に潜り込んで、先頭ランナーが折り返して戻って来るのを寝っころがって待っていて、一番人が多いゴチャゴチャしている適当なところで合流するというズルをしていたのだ。

折り返し地点で、先生に手にマジックで色を付けてもらう(そうな)のだが、10色のマジックのセットを買って、ベルトに挟んでおき、折り返しで戻って来た走者の手に付いているマジックの色と同じ色のマジックを自分で手に付けてゴールするのである。

これを3年間やった。

なにせ、高校1年生の時から飲酒を習慣的にしていたので、走るのはせいぜい500mが限度だったのである。

そんな私に、十勝でマラソン大会をやりたいので、実行委員会を立ち上げて欲しいという無謀な依頼があった。

マラソンなんてテレビで見たことしかない。

近年は、母校の駒澤大学が正月の箱根駅伝で活躍しているので、それを見るのがせいぜいなのである。

門外漢も甚だしい。

しかし、話を聞いてみると、日本全国でランニングブームなのに、何故か十勝はマラソン空白地帯なのだという。

昔は、北海道新聞社や十勝毎日新聞社が単独で主宰して開催していたらしいが、近年は開催していないとのこと。出来ればライバル心を捨ててオール十勝で協力してもらえる体制にしたい。

来年、3月27日に帯広空港に就航する航空会社のエアードゥー社が冠スポンサーになるというのである。

エアードゥーにしても、冠事業は初めてのことらしい。

よほど、とかち帯広空港就航に期待していてくれているのだろう。

前述した通り、私は長距離走は大の苦手だし、まったくの門外漢であるが、観光カリスマとしての私の力を借りたいとの申し出なのである。むげに断ることも出来ない。

マラソン大好き人間や観光協会関係者、陸上競技会関係者、市役所、商工会議所、JCなどの知人らの協力を得ながら何とか実現できる方向で努力したいと思っている。

2007年に東京マラソンを観る機会があった。小雨が降る寒い日で、応援しながらすっかり風邪を引いてしまった。しかし、沿道にはすごい数の観衆がいて、とても盛り上がっていた。あれから、東京マラソンは10倍の応募者が居て、抽選でしか参加出来ないほどの人気だそうだ。

果たして、十勝のマラソンをそんな大会に出来るかどうかは、まったく見当も付かないが、出来る限り頑張ってみようと思う。

ボランティアの活躍が大会の成否を占うそうだから、これから多くの市民に呼び掛けをしていかなければならないだろう。

読者の方で興味のある方は是非、ボランティアスタッフとしてご協力をお願いしたいと思う。


■2010-09-15-Wednesday 代表選終了

民主党の代表選が終了し小沢一郎が負けた。

私の予想は、ものの見事に外れたが・・・。

私は小沢一郎も菅直人も二人とも大嫌いな政治家だ。だから、菅直人が勝ったと表現しないのは、どっちが勝ったからとて、結局どっちもどっちだからだ。

投票権を持っている民主党サポーターや地方議会議員は、マスコミの誘導に完全に乗ったように感じる。

マスコミの論調は「政治とカネ」・「首相が1年間に3人」という問題を掲げて、巧みに世論を誘導していた。

そのマスコミに誘導された(投票権を持たない)世論に抗しきれなくてなのか、勝馬に乗ろうとしたのか、国会議員票も菅直人支持が6票差で若干上回った。

蓋を開けてみれば、菅直人側の圧勝のように見えるが、どうも実態は積極的支持ではないようだ。

「より、どちらが悪いのか?」の消極的選択の結果なのではないだろうか?

鈴木宗男の件も、何故このタイミングなのだろうか?という疑問が付きまとう。世論を「政治とカネ」の問題に集めた効果があったろう。またこの鈴木宗男の件と対照的な、厚生労働省の村木局長の件も、タイミングがあまりに良過ぎた。

やはり、「李下に冠を正さず」常日頃からの言動と信頼が、判決に影響していると感じる。

この2件の対照的な判決を見た国民が、「政治とカネ」の問題で、より小沢一郎に嫌悪感を持ったのではないかと思われる。実に巧みな戦略だ。

負けなかったとは言え、菅直人首相には、普天間基地・円高、etc問題山積だ。日本の舵取りをしっかりとやってもらいたいと節に思う。


■2010-09-16-Thursday 読売風向計

読売新聞北海道版「風向計」2010年9月16日掲載

「新卒」重視は本末転倒

「大学は出たけれど」(1929年・小津安二郎監督)は、大卒者の就職率が30%だった不況の昭和初期を舞台にした映画だが、今年の大学4年生も、リーマンショック以来の不況で大変な就職難にあるという。いつの時代に生まれるかは運命だが、時にその運命は残酷にもなる。

47〜49年の3年間に生まれた約800万人の「団塊の世代」の人たちは、彼らが中卒で集団就職し始める63年頃には「金の卵」と呼ばれた時代があった。団塊の世代の大学進学率は15%だが、そもそも人数が多いから熾烈な受験戦争があった。しかし、大卒者は少ない時代で、景気も良かったから就職先には困らなかった。つまり、入るのは難しいが、卒業して就職するのは楽だったのだ。

現在の日本は、高校への進学率は98%、ほとんど全員が高校に進学する時代だ。大学への進学率は50%、大学を選ばなければ、受験生の全員が大学には入学できる計算だ。大学側もオープンキャンパス等をして学校のPRに努めたり、オールOK(全員合格)の略だなどと揶揄されたAO入試など、筆記試験以外の門戸も増え、あの手この手で学生を確保している。つまり、入るのは容易いが、卒業しても就職口は少ないという時代だ。

日本の企業は、新卒者を採用する傾向が強い。希望の企業に採用されなかった学生が「新卒」の肩書欲しさのために、大学院に進学したり、わざと1単位だけ落として留年するケースもあるという。いわゆる就職留年で、学費を払うために、アルバイトをしながら週に1日だけ登校するというケースもあるという。これは本末転倒で社会にとっても本人にとっても不幸なことと言わざるを得ない。

これを契機に、大学を卒業したらすぐに会社に入るのではなく、2~3年はボランティア活動をするなり、海外を観て回って視野を広げるなどして社会性を豊かにしてから、じっくりと自分に合った職業を選択した方がよいのではないか。かくいう私の大学4年生の次女にはそう勧めている。

考えれば、大学で勉強しながら就職活動をするというのもおかしな話だし、最近はたった3年で会社を辞める若者が増えているという。就職はしてみたものの、やりたかった仕事と違ったという人が増えているのだろう。

就職率の高い大学のドキュメント番組を見たが、何だか職業訓練校みたいに感じた。企業のほうも、新卒者を一から指導する余裕がなくなっているのかもしれない。

最近の政府の対策では、卒業後3年以内の既卒者を、新卒として採用した企業に奨励金を支給するという。それも結構だが、もっと学生を直接支援する仕組みも同時に考えるべきだろう。


■2010-09-17-Friday 中国は

健康食品などを製造・販売する

宝健日用品有限公司(本社・北京)の社員らが、1万人規模で、10月上旬に来日し、5泊6日で日本各地を観光する予定だったが、尖閣諸島問題に対する反日感情の為なのか訪日を中止すると発表したというニュースが流れた。

観光と政治問題を絡めてしまうというのは、いかにも中国的で強権的なやり方である。

1万人も来日すれば、それ相当の金額が日本に落ちることになるのだろうが・・・。

恐らく、中国は菅新内閣の出方を測っているのだろう。

日本の観光関連業者が、この問題で日本政府の対応に変なプレッシャーを掛ける様なことがあってはならない。

政治は政治、観光は観光である。

中国はあれほど広い国土を持ちながら、隙あらば近隣諸国に進出しようと虎視眈々と狙っているようだ。

第二次世界大戦を日本の侵略戦争だなどと良く言えるものだなぁ〜と感じる。

最近、特に大増強している軍事力を背景にしているところが実に厭らしい。

ロシアが北方領土問題で、9月2日を終戦記念日にするなどの行為や、韓国との竹島の問題でも、完全に日本の政府をバカにしているから出来ることだろう。民主党政権は外国にもナメられっぱなしである。

中国もロシアも韓国も国土の拡大というよりも、資源の確保という意味合いが強いのだろう。それだけ、北方領土にしろ、尖閣諸島にしろ竹島にしろ資源が豊富な場所だということではないか。

日本も優しいだけではナメられる。主張すべき所はしっかり主張してもらわなければ、日本という国が消滅してしまうぞ。

新しい菅内閣は、そこら辺をしっかりとしてもらいたいものだ。


■2010-09-18-Saturday テレビ討論番組

今日のお昼過ぎから自宅でこの題名でブログを

書き始め、あと少しで書き終わるという時に、突如停電になった。

すわ、また落雷か?と思ってブレーカーを見てみたが、ブレーカーには異常がないし、外は晴である。

裏の母の家に行ってみたら、こちらも停電である。隣りの15丁目にある妻の実家に電話したら、停電していないという。

以前に、ユニックを積んだトラックがユニックを立てたままトラックを走らせて電線を引っ掛けて、停電させたことがあったので、すぐに家を出て周りを歩いてみたが、そんな様子はない。

西5条の信号機は動いているが、西8条の信号機が点いていない。その内にパトカーが来て交通整理を始めた。近くの食堂やコンビニの店員もあわてて外に出て、何事かと確かめている。

北海道電力に電話しても繋がらない。

自宅での昼食は諦めて、外食でもしようかと思ったのだが、車庫のシャッターは電動式なので車にも乗れないのだ。

現代は電気が止まったらまるで生活が出来なくなる。便利なようで不便な世の中だ。

40分ほどして、復旧したが、コンピュータのブログの文章はキレイに消えていた。

さて、再び、昨晩のNHKの「北海道スペシャル」の生討論番組のことを書く。

2週間ほど前にNHKの女性ディレクターから電話があって出演依頼があったことはこのブログに書いたが、前日までに詳しい話がまったくこないのである。

NHKは実におっとりしているなぁ〜と思っていた。

前日になってメールで出演者名や題材が送られて来た。出演者は札幌局が7名、札幌狸小路が5名、帯広局が5名の合計17名である。

先月初めに出演した民放のHTBの「朝まで生討論」は出演者が11名で3時間の番組であった。この番組でさえ、思う存分には話せなかったのに、今度は17名の出演者だという。

「あぁ〜こりゃぁ〜満足に話せないな!」と思ったが、前日では今更どうすることもできない。今度は少し積極的に発言しようと決めて出演することにしたのだが・・・。これがかえってアダになってしまった。

しかも、菅内閣の組閣で放送時間が大幅にズレてしまった。

今回はテーマの中に「人口減少社会」というのが入っているが、これが第2部なのだ。私は「少子化対策の実効は上手くいっても20年後にしか現れてこないのだから、これからの北海道は人口減少社会に合わせて、コンパクトシティ化をし、人が住む場所、農水産業をする場所、自然を残す場所のメリハリをつけること。道路、鉄路なども「国土の均衡ある発展」とは発想を代えて公共事業をおこなうべきだ。」との持論を最初に展開するつもりでいたのに・・・。

ちょこちょこ途中でつまらない発言をしたものだから、発言の機会はあったのだが、肝心要の時に発言が回って来なかったのだ。結局、どうでもいいことしか発言できなかった。

17名もの出演者に平等に発言する機会を与えたら、討論会なんて成立するはずがない。しかも途中にVTRの説明が入るから、益々、討論会にはならなくなってしまった。おまけに政治家にいちいち振るから、弁明ばかりに聞こえる。

出演者が視聴者じゃあるまいし「夢や希望のある北海道にして欲しい」なんて言ったところで、討論会として一体何の意味があるのだろうか?具体的な話をしなければ、政治家への陳情みたいに感じてしまったのは私だけではあるまい。

この種の番組は、出演者はせいぜい5名が限度であろう。そうでなければ満足な討論会なんて出来はしない。

おそらく出演者全員がフラストレーションを貯めただけのものになったことだろうと思う。

私も妻から「ま〜た満足に発言できなかったのね!」とダメ出しをされてしまった。


■2010-09-19-Sunday ゴルフ

19日は青年会議所(JC)の、

ゴルフコンペ「じゃがいも」の今期第5戦目の大会が、正午から帯広カントリークラブ新嵐山コースで開催され、参加してきた。

前日の夜から降り続ける雨が午前中まで止まない。

雨が降ったら嫌だ!

風が強い日は嫌いだ!

暑過ぎる日も嫌いだ!

という超我儘なゴルファーだから、このまま雨が降り続くようなら今日も行くのをドタキャンしようかと思案して、天気予報を見たら、午後からは晴れの予報だったので行くことにしたのだ。

帯広カントリークラブは昭和39年にオープンした十勝で一番古いゴルフ場で。「帯広」という名前が付いてはいるが、存在する場所は隣町の芽室町である。自動車で帯広市内から交通法規を順法で走行すれば40分掛かる距離にある。

10〜15分で行ける、帯広国際カントリーや十勝カントリーから比べるととても遠くにあるように感じて(東京の人に言わせると40分でも近いと言うが)年間2〜3回程度しか行かない。それもコンペに参加するだけでプライベートで行くことがないコースだ。

それが、今年はゴルフの回数が去年の半分以下なのに今日で6回目である。

この帯広カントリーは嵐山という低い山の麓にあるし、古いコースだから、地形をいじっていないので、平らな場所がまるでない高低差もかなりある難しいコースだ。おまけにグリーンの芝目がきつくて、傾斜よりも芝目の方が勝って傾斜を逆に昇っていく場所があるのが厄介なのである。

この日は、身体の切れがまったくなく、フェードボール(やや右に曲がる球)が持ち球の私がドがつくスライスボール(極端に右に曲がる球)ばかり出てしまう。

水はけが悪いコースでもあるから、昨日からの雨でコースのあちこちに水溜りが出来ていたり、地面が柔らかくなっている。こんな日に右曲がりの球は地面に突き刺さってしまい距離が稼げないのだ。

自分ではベタピンに寄せたつもりのナイスショットがグリーン手前で地面に突き刺さってショートするのはかなりガッカリする。

イライラしてくると、その内にパットも入らなくなって、今期最悪のスコアでアウト42・イン47の89打であった。90を叩かなかったのはまだしも、かなりイライラしたゴルフであった。

表彰式も21位で飛び賞すらも当たらずにガッカリしていたら、最後に「じゃがいも賞」という景品が当たらなかった人の中から抽選で1名に1万円の商品券が当たるという賞が当たったのだ。

優勝商品が1万円の商品券なのだ。しかも優勝者は寄付をしなければならない決まりだから、「じゃがいも賞」はこの日の最高の景品が当たったことになる。何が幸いするか分からない世の中だ。

だが、書くまでもなく、商品券は妻に持っていかれた。


■2010-09-20-Monday 敬老の日

敬老の日の昼に自宅の庭でバーベキュー

をやって私の母親と妻の両親を招待した。

大学生の息子がまだ暑い東京を嫌って帯広に居るが、さすがにもうすぐ戻るので、今日がおそらく今年最後の、庭での焼肉であろう。家族6人での敬老バーベキューパーティである。

いつものジンギスカンだけではなく、今日は鶏肉を1羽丸ごと買ってきて焼いたり、キノコのホイール焼き、サツマイモの焼き芋などもやってみた。

鶏肉は上手く焼けたし、キノコも「エノキダケ・椎茸・シメジ茸」の3種類を入れたたので実に美味しかった。

失敗したのは、焼き芋で、焼き過ぎて炭化してしまった。それでも、親は懐かしがって、中の柔らかい部分だけ箸でほじって食べてくれた。

それにしても自宅の庭で焼肉が出来るのは幸せなことだ。

親たちも、外で食べるのが一番美味しく感じると、普段は肉にあまり食欲が湧かないようだが、沢山食べて喜んでくれている。お腹をこわさなければよいが・・・。

テレビでは100歳を超える方々のことを紹介していた。100歳過ぎてもこれだけ健康で、頭もシッカリしているなら素晴らしいことだ。

自分に置き換えて、100歳まで生きるとしたら、これまで生きてきた分の倍の人生を生きなければならない。

私にはとうてい無理だし、そんなに長生きしようとも思っていないが・・・。

夜に、息子がDVDを借りてきた。先ごろ亡くなった北海道釧路出身のアニメ監督の今敏の作品「パプリカ」である。原作は筒井康隆の小説であるが、これを見ていて、今年観た映画「インセクション」を思い出した。他人の夢の中に入り込む、という設定が似ているなぁと感じた。きっとこのアニメを見て触発されたのではないだろうか?

難解な作品だが映像は面白かった。この才能の持ち主が若くして亡くなってしまったのは実に惜しい。

もっと色々な作品を見てみたくなった。

敬老の日に、長寿者の人生と、若くして亡くなった人の人生を、考えさせられる日になった。

私は太く短く(と言っても親父の64歳は越えたい)生きることにしよう。自分でそう思ってもこればっかりは運命だからなぁ〜。


■2010-09-21-Tuesday マイヒストリー31

2001年5月27日(日)に第一回の北の企業広場協同組合の総会を開催した。

これからの活動理念の発表や、建設経費の賄い方など、一番重要な総会である。この総会には市役所、商工会議所、全国中小企業団体中央会の方々やマスコミ関係者も呼んである。補助金をもらう以上はこういうことは全て公開でおこなうことが必要だとの認識である。

翌28日には5月15日に続いて、屋台出店者の顔合わせや理念の説明などを繰り返しおこなった。出店者が理念を共有せずに、単なる商売としてしか北の屋台を捉えていないと、運営がメチャメチャになってしまうからだ。ここがこの事業の一番肝心なところなのである。この後もオープンまで何度も理念の共有を諮る会議を開いていった。

6月1日(金)には地鎮祭を行った。本当はもっと早くに工事に入りたかったのだが、補助金の関係で6月1日からしか事業を開始できない決まりなのである。6月1日に許可が出て、それからの事業開始であるから、本来なら1〜2日後からしか動けないはずだが、1日午前一番に許可の連絡をもらって、すぐに始めたということにして落ち着いた。この辺がお役所の融通の利かないところだ。

北の屋台は2001年7月29日(日)の午前11:30にオープンする予定であるが、23日(月)に仮オープン、26日(木)18:30にプレオープンを行った。このプレオープンには現北海道知事である高橋はるみさんが、当時は経済産業省の北海道経済局長として参加してくれたのである。

屋台店主達はほとんど全員が素人である。いきなりお客さんを入れて、対応がまずかったり、料理が不味かったりしたら、評判がガタ落ちになってしまうから、事前に関係者を招いて慣れさせようという目的である。

まだ、屋台の内装が完全に出来ていない屋台もあったり、テンパってしまって、オロオロだけして仕事がサッパリ進まない店主もいる。

特に、前述した「東京デザインネットワーク」の企業デザイナー達がデザインしてくれた農屋(日産自動車)・徒然(NEC)・古事記(キャノン)の3軒の屋台は、話題は呼んだのだが、デザイナーが帯広にしょっちゅう来る訳にはいかないから、細かい指示が活き届かずに、製作に手間取っていたのである。

そこにメディアが多数押しかけてきて取材するものだから、店主達の精神状態はかなり張りつめた様子だった。

20軒分のブースを建設したが、16軒しか契約が決まっていない。

各屋台の営業場所は、希望する場所を応募用紙に2ヶ所書いてもらい、テナントミックスを考えることにしたが、ほぼ希望通りの配置になったのだが、当初は、トイレの付近の屋台が店主には人気がなくて、希望者が居なかったので、トイレ近くの4軒を北の起業広場協同組合の運営にしてレンタル屋台として貸し出すことにした。実際に北の屋台の営業が始まるとトイレ近くの屋台の売り上げが一番多かったのである。2期目以降は皆、このトイレ近くの店舗を借りたいと競うようになるのだから、初めての事業というものは机上で考えるのとは違いがかなり出てくるものだと痛感した。それでも、オープンの日には借り手が居ないので、組合で駄菓子・ソフトクリーム・イキヌキン人形焼き(屋台のシンボル像の型焼き)などの屋台を運営した。

マイヒストリー30で書いた後藤健市君は、仲間5名で出資し合って、「えん」と「連」という2軒の屋台を運営してくれた。時には後藤君本人が屋台の店主を務めて、屋台に立ったりもしたのである。その後、この2軒の屋台は「北の屋台」の当初の目的である。「商売の原点である屋台で素人の人間を育て、一人前に稼げる様になったら独立させる」ことを実践し、現在は「えん」で働いていた春日君という人間に完全に譲って自身は身を引いている。金銭的にもバックアップしてあげるのが北の屋台創業の精神であるはずなのに、最近の北の屋台はこの精神を忘れているかの様な変な噂が聞こえてくるので憂慮しているのだが・・・。

翌、27日は十勝環境ラボラトリー(TKL)の「国際環境大学公開講座」の日程である。この日の講師は、TKL創立の際に尽力してくれ、「東京デザインネットワーク(TDN)」を紹介してくれた「文化科学高等研究院」の社長の竹沢えり子さんをお呼びし、帯広での活動の成果である「北の屋台」を見てもらうことにした。

TDNの方々も自身が手掛けたデザインの屋台が完成しているので、見に来てくれているから、東京の人たちが帯広で集合する形になった。

これまで、お世話になった方々に成果を見てもらうのは嬉しいことである。(つづく)


■2010-09-22-Wednesday トンデモナイ事件

大阪地検特捜部の主任検事が逮捕された。

厚生労働省の村木厚子元局長に無罪判決が言い渡された文書偽造事件で、大阪地検特捜部の前田恒彦(43)主任検事が、厚生労働省の元係長上村勉(41)被告から押収した証拠品のフロッピーディスクの更新日時を改竄していたことが21日に分った。

これは、トンデモナイ事件である。

裁判において、証人が嘘の証言、いわゆる偽証をするのとは次元が異なる大犯罪である。

検察が押収した証拠を検事が改竄して、無実の人を罪に陥れる、いわゆる冤罪を作り出していたなんて、戦前ならいざ知らず、この現代で行ったとは、検察の威信を失墜させるだけではなく、司法全体の信用をも失墜させる大犯罪だ。

今回の事件は、当時、野党であった民主党の政治家(石井一)には権限がないし、村木元局長にもメリットがまったくない事件だった。

それを、何を思ったのか、この前田恒彦という検事は、やがて政治家に繋がるであろう事件として、自分の出世したさに、今回の厚生労働省の文書偽造事件を狙ったのだろう。

自分の思い描いたシナリオのストーリーに合わせる為に、無理繰りにフロッピーディスクの更新日時を改竄したと思われる。

無罪の人間を検事が、証拠を偽造して罪に陥れるなんて、あってはいけない事件だ。

村木元局長が21日の記者会見で「(前田主任検事)個人の問題に矮小化してほしくない」と指摘していたが、まさしくその通りである。

これが検察の体質だとしたら、これまでの裁判全部が疑惑の目で見られることになる。昔から、警察や検察は身内に優しいというから、闇に葬られないように注視する必要があるだろう。

でもこれで、鈴木宗男がまた何か言い出すだろうなぁ〜。


■2010-09-23-Thursday マイヒストリー32

2001年8月14日に軽いぎっくり腰になってしまった。

べつに重たいモノを持ちあげたという訳ではなく、北の屋台の通路に落ちていたタバコの吸い殻を拾おうとして腰を曲げたら、ギクッとなったのだ。

タバコの吸い殻という、たかが3グラム程度のモノを拾うときになったので、こんな軽いもので、ぎっくり腰になるとは思わなかったから驚いたのである。

もともと、腰が強い方ではない。中学生の時に鉄棒から落下して腰を強打して以来、腰に爆弾を抱えているようなものだった。前日に、北の屋台に石のベンチを運んだ時の疲れが溜まっていたのだろう。

医者からは2〜3日、安静にして、痛みが治まってから治療しましょうと言われたが、北の屋台でのテレビ出演や講演や視察への対応などのスケジュールがビッシリ詰まっていたので、安静にしている暇がないのだ。医者からはダメだと言われたが、マッサージや鍼灸を3日連続で受けてコルセットをまいてこの時は強引に直したが、いまだに腰には爆弾を抱えている状態が続いている。

9月11日(火)に帯広市役所で「まちづくり検討委員会」の会議に帯広商工会議所の代表という形で参加するよう要請があった。

私のまちづくりに対する持論は商工会議所の意見とは180度異なるから、私を商工会議所の代表なんかにしたら、会議所が困ることになりますよと丁重に辞退したのだが、会頭からどうしてもやってくれと懇願されたので引き受けることにしたのである。

この会議では、北海道大学の小林英嗣教授が座長を務めておられたが、商工会議所の代表である私が、会議所の意見のような話ではなく、持論を述べたので、とても驚いた様子で、今晩一緒に酒を飲みながら話をしましょうということになった。

この日は北海道には珍しい超大型の台風が上陸していた。北大のポプラ並木が根こそぎ倒れた台風である。

小林教授は北の屋台をまだ見たことがないと言うので、一応簡単に見せるだけ見せて別の店で飲もうと考えたのであるが・・・。

ところが教授を北の屋台の「農屋(みのりや)」に連れてきたら、ここでこのまま飲みたいと言う。しかし、足元には川のように水が流れ、天井からもポタポタ雨水が漏っているし、風で屋台の壁も吹き飛ばされそうな状態なのだ。

当然、こんな日に屋台は営業できないだろうし、お客さんも誰も居ないだろうと思って屋台を片づけるのを手伝ってから別の居酒屋で飲もうかと思ったのだが・・・。

ところが、他の屋台を見ても、お客さんで一杯なのだ。天井から落ちてくる雨水が客の飲んでいるコップに落ちるが、客は平然と飲んでいる。私は報告書を書かねばならないから、お客さん数人にインタヴューして歩いたら「台風なんだからこんなこと当たり前だ」と言うのである。また「十勝に台風が上陸するなんてめったにあることじゃぁないから、こんな日に外の屋台で飲んでみたかったのさ」という驚くべき答えが返ってきたのだ。

これには驚いたのなんの。普通の店で天井からの雨水がコップに入ったりしたら、汚いから取り替えろ!とかの文句が出るのが当り前ではなかろうかと思ったのだ。

お客さんが何を欲しているのかは判らないものだなぁ〜と感じた。しかし、これで、真冬の寒い時でも、「こんな寒い日に屋台で飲んでみたかった」という客も現れるだろうと確信したのだった。

そのまま台風の中を北の屋台で飲んでいたら、お客の一人が、「ニューヨークの貿易センタービルに飛行機が突っ込んだらしい。」と言い出した。

テレビのある所に行って見たら、映画のシーンのようなすごい場面がニュースで写っている。これはもう飲んでいる時ではないと、早々に解散して自宅に戻り、テレビを食い入るように見ていたのを今でもハッキリ覚えている。この後、小林教授とは今日に至るも懇意にしていただいている。(つづく)


■2010-09-24-Friday 諸事雑感

テレビのニュース番組から、

8月に札幌の中央区で起きた女性2人を車ではねて、暴行殺害した酷い事件があったが、この容疑者と同姓の江別の不動産会社が、ネットに「この犯人は○○不動産会社の息子」というデタラメな書き込みをされて、その被害に会っている模様が流れた。

アホな女がこの不動産会社に嫌がらせの電話を掛けている模様も録音で流れたが、何でこんなアホな奴等がいるのだろうか?

書き込みをした奴も、電話したバカ女もどちらの人間も、自分とは全く無関係の人間に対して、どうしてこんな行為が出来るのか?彼等は精神を病んでいるのか、憂さを晴らしているのか、いずれにしろまともな人間のする行為ではあるまい。実に嫌な世の中になったものだ。

検事によるFD改竄事件の方は、前田主任検事が「故意ではない、悪戯していて書き換えたのを忘れていた」というようなコメントが流れたが、書き換えるには専用のソフトが必要だとのことだし、別な検事からは「前田検事から、時限爆弾を仕込んだとの訳の判らない話を聞いた」との証言も出ているらしい。

検事が取り調べに対して、こんな対応をしていたら、今後の別な事件の事情聴取でも、容疑者が「故意ではない」とこの検事と似たような対応をするだろう。なにせ「検事の対応を真似ただけ」と言えば済むのだから・・・。検察はこの事件を早急に、且つまともな解決をしなければ、今後の検察捜査に重大な問題を引き起こすことになるだろう。

中国が、尖閣諸島の問題で、振り上げた拳の下ろし方が判らなくて、日中双方がチキンレースのようなまずい事態に突入してしまった。

中国側の対応は、レアーアースの輸出禁止や交流活動の中止など、どれも大人気ない。

中国政府も下手な対応をすると、中国政府に不満を持っている中国人が「日本打倒」を偽の旗印にして、暴動を起こすことを恐れているようだ。過剰な反応はヨロシクナイと言わなければならない政府なのに、温首相がまたバカなことを言うから、ますます泥沼にはまる。中国政府には冷静な対応をしようという気がないのだろうか?

日中双方に取って、不幸な事態になっていくのは気がかりである。

イチローが10年連続200本安打を達成した。アメリカの報道をみると人種差別的な要素もチラチラ垣間見える。

確かに内野安打が多いのは事実だが、足の速さを生かした個性なのだから、これはこれで評価するべきだろう。

イチローはバッティングだけではなく、盗塁、守備、強肩と全て揃っている素晴らしい選手だ。ストイックな生活態度も素晴らしい。まだまだ頑張って、誰からも文句の付けようがない記録を達成して欲しい。

まつり会場に落雷があって35人が重軽傷を負ったという。ついこの前、我が家にも落雷の被害があったばかりだから、他人事ではない。

竜巻やら、落雷やら、ゲリラ豪雨だの、これまでにそんなに多くは見られなかった気象状況の事故が増えている。

地球は人間に警報を鳴らしているのだと考えて、今の生活態度を改める必要があるのだろうと考える。


■2010-09-25-Saturday 講演会の・・・

今日は講演会を主催する予定であったが・・・、

私が会長を務めている「帯広ビルディング協会」主催(帯広商工会議所・十勝シーニックバイウェイトカプチ雄大空間の共催)の講演会「都市の集客力 地域の創造力」を18時から坂本ビル6階の会場で行う予定であった。

講師は大阪府立大学21世紀科学研究機構特別教授/研究所長の橋爪紳也さんである。

橋爪さんは、大阪伊丹空港(10:30−11:40)→東京羽田空港(12:55−14:30)→とかち帯広空港と余裕を持って乗り継いで来る予定である。

11時頃に私の携帯に橋爪さんから電話が入ったので、第一声に「今日は宜しくお願いしますね」と言ったら、「飛行機が故障で飛ばない」とのこと、しかも、まだ飛行機の中に閉じ込められて滑走路上に居るので、飛行機の変更作業も出来ないとのこと、状況がハッキリし次第連絡をするからと一旦電話を切った。

30分後くらいに再び電話が入り、伊丹→羽田便が、乗り継ぐ予定の便には間に合わないとのこと、その後の羽田発17:55→19:30帯広着の便にしか乗れないというのだ。空港から会場までは30分程度の時間が掛かるし、コンピュータの準備などで20分くらいは掛かってしまう。

共催の帯広商工会議所の職員に電話して、講演会の時間を20:30〜にするか、翌日にするかの相談をした。さすがに20:30〜では遅過ぎるということで、翌日の同時刻、同会場に変更して、予約をしてもらっている客に連絡を入れた。

急な変更だが、飛行機が飛ばないのではどうしょうもない。

私も年に数回は全国各地から講演に呼ばれるが、遠隔地の場合は移動手段が限られているので、代替の路線を使っても上手く繋がらないことが多いのだ。以前に青森県の十和田市から呼ばれた時は、前日の天気予報で大雪の予想が出ていたので、十和田の担当者から列車で前日に来て欲しいとの要請を受けて、青函トンネルを抜けて16時間くらい掛かって行ったことがあったが、これは暇な私だから出来たことで、売れっ子の講師に前日から入ってくれというのは、なかなか難しいことなのである。

また、去年の秋田での講演会の時も当日入りではあるが、かなり時間には余裕のあるスケジュールで行くことになっていた。ところが千歳空港で、東京からの飛行機が機材の不調で飛んで来なくて、焦ったことがあった。この時も仙台空港に飛んで新幹線で秋田入りとかを考えたりもしたが、どの道、講演の時間には間に合わない。遅れても、機材をやり繰りして飛んで来る飛行機で直接秋田に飛んだ方が早く着きそうだったので、ジタバタするのは止めて飛行機を待ったのであった。この時は秋田空港から会場までタクシーを飛ばしてギリギリ間に合ったが・・・。

講演会は、講師が居なければお話にならないから、北海道のような辺鄙な場所は主催者側が気を揉むことになる。

結局午前中は、この変更作業で忙しかった。

午後13時からは、来年10月中旬に計画をしているマラソン大会のコースの案作りを、駒澤大学の後輩とやって、14:00にはこのマラソン大会のスポンサーの会社の専務と、十勝毎日新聞社訪問が待っている。空港に迎えに行かなくて良くなったから、逆に時間はタップリできたので、勝毎でも良い話が出来た。林社長が「北海道新聞社とも一緒にオール十勝でやりましょう」と言ってくれたので、とても助かった。

以前は道新主催・勝毎主催の大会があったので、その点が気掛かりだったのだ。

これで、おおよその根回しも出来たし、次の作業に入れる。

マラソン大会を何の為に行うのか、その目的を明確にしなければならないし、やる以上は他所のマラソン大会とは趣の異なる大会にしたいものだ。


■2010-09-26-Sunday 橋爪紳也さん

昨日の最終便で帯広入りしてもらった講師の

橋爪紳也さんとは、1996年に作った「十勝環境ラボラトリー(TKL)」からの14年来の付き合いである。

観光の戦略的な研究をされている方で、マジックへの関心も持っておられることから、特に気が合って家族ぐるみの付き合いをさせてもらっている。

情報発信力のある方なので、北の屋台の時には大いに宣伝をしてもらった。奥様も十勝を気に入ってくれているので、これからの十勝の観光情報の発信にも協力してもらおうと思っているのだ。

飛行機の故障で予定が狂ってしまったので、当初予定していた18時からの講演会は翌日に順延した。19:30帯広空港着の便で奥様同伴で来られたので、この日は私が発案したご当地グルメの「馬鹿(うまか)もん」を食べてもらおうと「タベルナ・センナリ」に連れて行った。私らも夫婦同伴である。

TKLで一緒に活動していた後藤健市君が珍しく帯広に居たので呼び出して5人で飲んだ。

その後、北の屋台、十勝乃長屋を見てから、北の屋台卒業の「らくれっと」に入り、明日の予定を打ち合わせてホテルに送った。

今日は、朝9時にホテルに迎えに行って、まずは糠平を抜けて三国峠まで行った。私は三国峠からの景色は日本では他には見られない雄大な景色だと思っている。紅葉にはまだチョット早くて残念だったが、奥様は感動してくれた。

糠平から幌鹿峠を抜けて然別湖を抜けて、鹿追町の「しかめん」で鹿追蕎麦を食べて、新得のベアーマウンテンに行き、新得の共働学舎のミンテルでコーヒーとケーキを食べて、そこから帯広のホテルに送った。走行距離は実に272キロである。十勝の北端と西端を見てもらったことになる。

18時から坂本ビルで講演会を行ったが、直前に日程変更をした為に客は40名ほどであった。もっと多くの人に聞かせたい話であったが仕方があるまい。

講演内容は、橋爪さんが実際にプロデュースしている大阪府の事業の紹介やヨーロッパを中心とした新しいイベントの紹介やその考え方の解説である。

一言で言えば「目的のないイベントはダメだ。イベントは目的を達成する為の手段にすぎない。目的と手段をシッカリと分けて考える必要がある。」ということである。これには私もまったく同感で、この点を特に帯広のまちづくりに携わっている方々に聞いてもらいたかったのである。

講演終了後に奥様も合流して夫婦2組4人と後藤くんとで「ばんえい競馬」に行った。かろうじてこの日の第11レースと最終の12レースには間に合ったので賭けて応援した。

残念ながら誰も当たらなかったが、その後「とかち村」で食事をしようと思ったのだが・・・。

もう、20:40にはほとんどの店が閉店しているのだ。わずかにピザの店と焼き鳥の店だけが営業していただけだ。

外で食べるのは寒かったので、中のフリーのテーブルで我々だけが寂しくピザと焼き鳥を食べていた。

客が来ないから早く閉めるのか?、早く店が閉まるから客が立ち寄らないのか?

どちらが先なのかは知らないが、まだオープンしたてなのに、これではいけない。

競馬が終わった後に、とかち村でお金を落としてもらう工夫をしなければとかち村を作った意味が無くなる。

もう少し、入居したテナントも辛抱して22時くらいまでは営業しなければ土曜日の夜にこれではダメだよ!

昼間に270キロも運転したので疲れたし、橋爪さんもホテルに戻りたいと言うから、この日はここで終了して帰宅をした。


■2010-09-27-Monday 橋爪紳也さん②

今日は、橋爪さん夫婦が大阪に戻られる日だ。

13:45帯広空港発の便で羽田経由で伊丹空港に戻る予定なので、それまで十勝帯広の名所を案内したい。

奥様がお花の先生をされておられるというので、花づくしで送ることにした。

まずは、真鍋庭園である。私も真鍋庭園に入るのは25〜6年振りである。昭和60年頃に幸福鉄道の件で十勝に来られていた津川雅彦さんを連れて行った時以来である。樹木を中心とした庭園が見れる場所である。

あのころから見ると、随分と木も成長しているし、整備も行き届いていて、なかなか見応えのある庭園になっていた。これなら観光客も喜ぶだろう。

次に、清川の紫竹ガーデンにお連れした。紫竹さんは、私の父の小学校の同級生で、ラパンの会という兎年の同年会で一緒だったし、妹夫婦の御仲人さんでもある。私と妻の仲人的な役割も果たしてくれた方だ。

丁度入口のところに紫竹さんがおられたので、ご挨拶したら、無料で入園させてくれた。

こちらは花を中心としたガーデニングの見られる場所である。

奥様もこんなに広くて、こんなに花の種類がある場所は初めてと感動していた。

紫竹ガーデンに来るのも20年振りぐらいである。やはり、観光客だけではなく、地元の人間が何度も訪れるような場所にしなければならないだろう。

清川のジンギスカンの白樺の前を通過したので、お昼にジンギスカンでも食べてもらおうかと思ったが、これから飛行機に乗るのに、ジンギスカンの臭いがしたのでは、ちょっとまずかろうと思い直して止めにした。ジンギスカンの最大の弱点は、洋服や髪の毛に臭いが付いてしまうことだろう。

中札内のフロマージュに連れて行き、チーズを試食して、チーズとアイスクリームを購入し、花畑牧場に向かった。

時間が無かったので、サッとだけ見て、六花亭の美術館の前を通って空港に向かう。

これだけでざっと3時間を要する行程だ。十勝には観光的にも素晴らしいものが多いのだが、距離が有り過ぎて、次の場所に行くまでが大変だ。逆に、これが十勝の広大さをアピールすることにもつながるのだが・・・。

途中、途中の観光スポットを開発して、移動時間を短く感じさせる工夫が必要かもしれないなぁ。

なにせ、昨日と今日の2日間で車で走った距離は330キロにも達しているのだから。


■2010-09-28-Tuesday 東京①

筑波大学の非常勤講師を務めている。

講義の日程は29日で、時間は12:30〜15:00までの長丁場である。

東京の秋葉原駅からつくば駅までは「つくばエクスプレス」が出来たので快速電車に乗れば45分間で到着するが、帯広空港からでは、朝一番の10:15発の飛行機に乗っても羽田到着が12:00であるから、講義の時間に到着するには、当日出発では到底間に合わないので、前泊する必要があるのだ。

前泊分のホテル代は大学側が出してくれるので、せっかくだから東京であちこち行きたいと思い、朝一番の飛行機で帯広空港を出発した。

天候の関係でいつもの太平洋側のルートではなく、日本海側のルートを取ったから、飛行機は羽田空港に12:30頃に到着した。

つい先日の橋爪先生ではないけれど、当日の講演の日程が入っていると、この程度の遅れでも気になるものだが、前泊だからこの日の内に東京に入っていれば良いと余裕しゃくしゃくである。

モノレールに乗って地下から地上に出たら、前回のルートとは違う景色のところを通過するのでビックリした。国際線の方に繋がったのである。東京は来る度にドンドンと変化している。

まずは、有楽町のビックカメラにあるPINE(ピン)社のカスタムフィッティングに行って、ゴルフのクラブの試し打ちをしようと思った。

去年、25年間使っていたピン社のEYE2から買い換えた同じピン社のアイアンとドライバーのラプチャーシリーズの調子が良いのでフェアウェイウッドも同じシリーズにしようと思ったのである。

いつもは妻に空港まで送迎してもらうのだが、今回は私が自分の車を自分で運転して空港に行って、3日間空港の駐車場に停めておいて、また自分で運転して帰ってくるという予定なのである。

妻が自宅から会社に出勤したのを見計らって、ゴルフクラブを引っ張り出して素振りをしようと思ってゴルフクラブを持ったところに、丁度運悪く妻が何か忘れ物をして自宅に戻って来たのだ。私がゴルフクラブを持っている姿を見た妻は「あなた、まさか東京でゴルフクラブを買うつもりじゃないでしょうね?」と見透かされて、先手を打たれてしまったのだ。「そんな訳ないだろう!」と咄嗟に言ったものの、それでも、何とかごまかして買うつもりでいたのだが・・・。

ビックカメラのPINEのゴルフ売り場に行ったら、何と一昨年発売したばかりのラプチャーシリーズは廃止になったのだという。新しいクラブを試し打ちしたが、まさかこの新しいシリーズでドライバー・フェアウェイウッド・アイアンセットを買って帰ったら妻に何と言われるか判らない(いや、判っている)。

だから、買うのは諦めて、汗だくになって試し打ちだけやって秋葉原にあるレム秋葉原ホテルに向かった。

最近は東京に行ったら、定宿を決めずに、毎度新しいホテルに泊まることにしているので、今回も初めて泊まる新築のホテルである。

シャワーを浴びてから、ホテルの周りをうろついた。秋葉原はこのところ来る度に変化している。

19時には大学時代のマジッククラブの友人と、赤坂見附にあるマジックバーに行く約束をしているから、それまで時間をつぶそうと神田神保町の古本屋街を歩き周ろうと決めた。

秋葉原駅から総武線に乗って御茶ノ水駅で降りて、歩いて小川町の方に歩いて行った。一通りなじみの店を訪ねて歩き、岩波ホールの所から地下鉄半蔵門線で永田町で降りる。地下鉄の地図で見たら半蔵門線の永田町駅と銀座線の赤坂見附駅が繋がって書かれているのでこのルートを選んだのだ。知らないというのは恐ろしいことだ。確かに地下では繋がっているにはいるが・・・。

何と歩いて5分以上も距離が離れているのである。昇って降りてまた昇って降りてを繰り返して。これはインチキだ!

赤坂見附駅で友人の鈴木くんと落ち合い、居酒屋で軽くお腹を満たしてから、マジックバー・サプライズに行った。この店は、プロマジシャンの上口龍生さんが始めた店だ。彼がこの店を始めるちょっと前に、彼が神戸のアマチュアマジシャンでマジック書籍と映像をコレクションしている人と一緒に私の蔵書を帯広まで見にきたことがあるのだ。

サプライズを訪ねるにあたって、彼にメールを打っておいたのだが、彼は今、豪華客船に乗ってマジックを演じているとのことで居ないとのこと。代わりのマジシャンが居るから訪ねて欲しいとのことだったので行くことにしたのである。彼が2回目に帯広に営業に来た時には、私が講演で不在で会えなかったから、すれ違いが多い。

マジックを見ると、血が騒ぐ。

鈴木くんも同様の様子で、結局3時間も楽しんだのだった。


■2010-09-29-Wednesday つくば大学

つくば大学で講義をしてきた。

秋葉原駅を10:30発のつくばエクスプレスに乗って行くと11:15につくばに到着する。

講義の担当の斎尾先生が駅まで迎えに来てくれて、まずは院生の運転する車で研究室に入る。

つくば大学は広過ぎて、未だに良く場所の位置が判らない。なにせ縦に4kmもの距離があるのだから。面積では北大・広島大についで日本で3番目に広いそうだが、北大はだだっ広いだけだし、広島大は山だし、つくば大の方が遥かにでかい感じがするのだ。

講義は12:30からだから、お昼を食べませんかと誘われたが、朝食が遅かったので、まだお腹が空いていない。結局食べないまま、講義を始めた。

今回は12:30〜15:00までタップリ150分(2時間半)もある。普段の講演は90分だから、いつもよりユッタリと話たいことが話せる。

講義は14:50に終えたのだが、質疑応答が盛り上がって15:45まで掛かった。

このところ、テレビの討論番組でジックリ話せないイライラが募っていたので、久し振りにスッキリしたが、自分でも良くこんなに話せるものだと驚いてもいる。

終了後に、キャンパスを歩いて案内してもらったが、やはり広い。ギャラリーを観た後は、つくば大学構内を走っている循環バスでつくば駅前に行った。バスが大学の構内を走っているというのもすごいことである。

駅前から歩いて懇親会会場の居酒屋に行く途中に、ムクドリみたいな小さい鳥がものすごい数飛び回っている。すごいなぁと見ていたら、市の職員らしき人、数人が拡声器を使って、鳥の鳴き声というか、警戒音みたいな悲鳴のような音を出しながら、歩き回っている。おそらく、駅前からこの鳥たちを追い出しているのだろう。糞害でもあるのかしらん。

それにしても、不快な音だ。鳥が嫌がる音なのだろうが、人間にも不快な音である。

夜は、7月下旬に帯広を訪ねてくれた島袋さんと本間さん、教授2人と学生4人が加わって居酒屋で懇親会を開いてもらった。

ひとしきり、十勝の観光名所や熱気球や氷の露天風呂などのアトラクションの宣伝をしたら、来年2月に学生が、十勝を訪れると言う。

「歓迎するよ!寒い十勝をタップリ堪能させてあげるから」と言っておいた。私の講演を聴いて、十勝に興味を持ち、十勝を訪ねてくれて、十勝ファンになってくれれば、こんな嬉しいことはない。

講師冥利に尽きる話だ。

この日はしゃべりっぱなしで、喉が痛くなるほどだったが、久し振りにスッキリ感を感じた日でもあった。

懇親会が終了してつくばの駅前のホテルに向かったが、23時だというのに誰も駅前を歩いている人が居ない。

以前に千葉の幕張でも感じたことだが、人工的に造られた街の夜は殺風景で不気味だ。生活感が感じられない街は、温か味が感じられない。

やはり、街は生活感があって、人が行き交う場所が落ち着く。


■2010-09-30-Thursday 東京②

つくば大学での講義を終了して、

29日はつくば駅前のホテルに泊まった。

朝食は、ホテルの中にある居酒屋がバイキングをやっている。8:00に行ってみたら、私の左隣の席は中国人と思しき3人組みと、右隣はアラビア人と思しき格好の人と日本人の3人組で、色々な言語が飛び交っていた。さっすがつくばだなぁ、国際的だなぁと感心しながら食事をした。

秋葉原に昼前に到着し、有楽町に向かった。今日は激しく雨が降っているので歩き回る気にはならないから、帝国劇場のミュージカルでも観ようと思ったのである。

エリザベートが掛かっていたが、満席で当日券は売り切れであった。仕方なく映画にでもするかと戻ったのだが、邦画ばかりで洋画が掛かっていない。洋画は既に帯広で観たものばかりだったのだ。

諦めて「十三人の刺客」を観ることにした。

観客は60代以上と思しき高齢の方々ばかりであるが、結構混んでいた。

東京で観ると映画も大画面で迫力があって面白い。

この十三人の刺客はなかなか面白かった。残忍で冷酷なバカ殿をスマップの稲垣吾郎が演じている。

江戸時代の階級社会の矛盾が、現代にも通じるものを感じたのだ。

日本は明治と太平洋戦争後の2回、近代での一からのやり直しで、下層階級が上になるチャンスがあったが、江戸時代の270年間の平和が、固定された階層を作り出し、膠着した世の中を生み出した。その貯まったエネルギーが明治維新を生み出したのではないか。

昭和の経済成長も、戦争の焼け野原からの復興というエネルギーが生み出したのではなかろうか。

戦後65年の平和が、日本人のエネルギーを奪っているようにも感じる。そろそろ、爆発させても良い時期にきているのかも知れない。

それに、しても、民主党政権の対中国の弱腰政策は何たることだろうか?前原も「粛々とやる」とか言っていたくせに、こいつが威勢が良いのはいつも最初だけだなぁ〜。

民主党は外交はダメだとは最初から思っていたが、これほど酷いとは思わなかった。

帰宅してからのテレビのニュースで、菅直人首相が国会で自民党の議員から「衝突のビデオは見たのか?」という質問に対して「見ていない」と答えていたが、見ていないだと!菅直人はバカか?!

一番重要な点だろうが、自分で判断しないでどうするつもりなんだ?

あまりに酷くて論評する気にもならない。