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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2011-02-01-Tuesday 北の屋台

最近、北の屋台方面からオカシナ話が聞こえて来る。

去年の12月3・4日の私のこのブログで「例え話」として描いた危惧が現実に行われているようなのである。

私は2007年3月末日に北の屋台を卒業した身であるから、これまで北の屋台に対して批判的なことは書いてはこなかった。

それは私にとって北の屋台は我が子の様に可愛い存在だからだ。だが、それをいいことにして、残った理事者の一部が、私が悪事を働いたから北の屋台を辞めさせられただの、北の屋台に多額の借金を背負わせただのと、まるで逆のことを言いふらして歩くので、私の名誉を守る為に、事実を公表することにしたのは先日も書いたことである。

もう一点、最近、私が我慢ならないことは、現在の運営者たる理事者たちが、北の屋台設立の理念を守らずにメチャクチャな運営を行っていることである。

北の屋台は「まちづくり」の事業として始めたものである。『駐車場というたった19人の人間しか使わない場所に屋台村を造ることで多くの人達(最高は18万人)に活用してもらい、まちの雰囲気を活性化させ、これから事業を始めたいという(素人の)人達に、屋台という場所と道具を提供し、3年間で固定客と軍資金と商売のノウハウを獲得させて屋台を卒業してもらい、街中のシャッターが下りている空き店舗に店を構えてもらう。空いた屋台にはまた意欲のある新人に入ってもらう。それを繰り返すことで帯広市中心街を活性化させよう』という計画なのである。

このコンセプトが支持されたからこそ、国や市や商工会議所が補助金を出してくれて、北の屋台は始まったのである。

K専務理事個人の生活を維持する為の事業では決してない。

まともに北の屋台を運営して、その働きによって得る給料で、その理事者が生活することまで、とやかく言うつもりはまったくない。

だが、屋台店主たちの法律の無知に付け込んだアヤシゲなお金の取り方や、逆らったら辞めさせるゾという恫喝的な、オカシナ運営をして屋台店主らを困らせることは如何なものだろうか。

K自らが設定した第4期目の入れ替え時期(当初は去年の11月末日が今年2月末日に突然変更になった)がもう1ヶ月も残っていない。早く移動する場所ぐらい(第4期に残る)現店主たちに教えてあげなきゃ移動の算段も出来なくて困っているのではないだろうか。

せめてマトモな運営をしてくれることを望むものである。

私が卒業した後に、北の屋台として何か新しい事業の一つでも始めたことがあるのだろうか?「ながいもフェアー」などの「○○フェアー」も「スタンプラリー」も全部前から同じだ。そのくせ「起業塾」などの事業は無くなってしまった。手の掛かる事業はやらないで、簡単な、同じことを繰り返してばかりでは、お客さんに飽きられてしまう。

それともうひとつ、北の屋台の開始時についてのことである。先般、AIR DOの機内誌「rapora」の1月号に「狭くて楽しいコミュニティ酒場 十勝・帯広 北の屋台」という特集記事が掲載されたものが旭川在住の知人から送られてきた。

その内容たるや、デタラメばかりである。まるで「北の屋台」はK専務理事が発案して、自分が作ったかのような記述である。

raporaによると『Kさんが、仲間と共に町づくりに乗り出したのは1993年。約20年振りに故郷へ戻り、「街並みはきれいになったけれど、人が歩いていない」と感じたのがきっかけだった。かつて街を活気付けていた、猥雑さや人と人とのコミュニケーション ー 失われたものを取り戻すすべを探るうち、暖簾の奥で店主と客、客と客が濃い関係を結ぶ「屋台」というスタイルが浮かび上がった。』のだそうだ。Kがまちづくりに専念したのが1993年から?「専念」って?????

少しでも長く(まちづくりに関わっているかのように)見せかけたいのだろうけど経歴詐称は・・・。

さらにraporaには『視察に出掛けた博多の屋台でKさんは、あるヒントを得る。・・・・・・』だって、Kは北の屋台を作る時にアイデアの一つでも出したか?

1999年10月21日に博多に視察に行った時も、翌日の午前中は福岡市役所にも同行しないで市内観光していた人間が良く言うよ。

AIR DOが帯広に就航するのが3月27日からなので、どうせ、帯広の人間はそれまで、この機内誌を見ないだろうから、デタラメを言っても分かるまいとでも思ったのだろうか?

行き当たりばったりで、まことに困ったご仁である。


■2011-02-02-Wednesday 講演会

昨晩は講演会を聞きに行った。

東京の早稲田商店会の安井潤一郎さんの講演会である。

安井さんは、2005年の衆院選挙で当選(09年の選挙で落選)した、いわゆる小泉チルドレンの一人でもあるし、環境問題を切り口にした「早稲田商店会」の会長(現:相談役)としても有名な方だ。

私達が1996年に「十勝環境ラボラトリー」を創設した同じ年に、環境問題で商店会活動をしたということで関心があったのだが、お会いするのは今回が初めてである。

安井さんの元で研修して、現在はアトム通貨などの活動をやっている「一般社団法人エリア・イノベーション・アライアンス」の代表理事をしている木下斉さんとは、木下さんがまだ学生だった頃に、北の屋台を視察に来たときからの知己であるし、昨年11月15日には仙台で開催されたシンポジュームで一緒にパネリストを務めた関係もあって、その親分がどのような人物なのか会ってみたかったのである。

今回の講演は「帯広市商店街振興組合の女性部」の主催なので、妻が出席することになっていたのだが、安井さんの話なら是非聞きたいと急遽参加を申し込んだのであった。

期待に違わず、面白い講演であった。さすが、慣れてらっしゃるなぁという感じである。ユーモアたっぷりだし、話のテンポが良くて聞き易い。他人の講演は自分の講演の参考にもなるからなるべく聞くようにしている。

講演終了後に名刺交換をして、帰宅しようかと思ったのだが、妻が懇親会にも参加しようと言う。講演会というのは、大勢の前で話さなければならないから、一般的な話ししか出来ないものだが、懇親会になると酒の力も加わって、講演会では聞けないような話が聞けるという面白みもあるので私も参加することにした。

なかなか興味深く、勉強になった。

最近、帯広はやたらと講演会が多いように感じる。講演会を聞いただけで満足していては、前に進めないから、他の場所の活動を参考にして、帯広でも何かやれないか検討して実行することが重要だ。

帯広はまだ余裕があるのか、全然ひっ迫感がないように感じる。でも、実態はもうかなり遅いような気がするが・・・。


■2011-02-03-Thursday 新聞記事

2日の十勝毎日新聞の1面トップ記事に

「北の屋台で開業支援」と大きく出ていたので驚いた。

帯広の経済界が出資するまちづくり会社「まちづくり元気おびひろ」(藤本長章社長)は3月から、北の屋台の1ブースを借り上げて、新たに募集する「社員」に屋台をやらせることで、中心市街地での飲食店開業を支援する事業を展開するのだという。

何のことはない、第二期の北の屋台でやっていた「起業塾」を「まちづくり元気おびひろ」がソックリそのままやるということだ。

北の屋台の第4期目は、記事によると3月14日にオープンするそうだが、最後の1店舗がどうしても埋まらなかったのだろう。だから昨日まで発表(まだ他の19店舗の発表はまだだが)できなかったのではないだろうか?

それにしても、北の屋台は実に上手いことやった。

「起業塾」をやるには組合側に多額の資金とノウハウが必要なのだ。起業塾生からは保証金の100万円が入ってこないし、もちろん家賃・共益費・広告宣伝費も入ってこない。屋台制作費や厨房制作費などの費用150万円を塾生に貸さなければならないし、光熱費・食材費も払わなければならないし、給料も払わなければならない。

本来入って来るお金が、入って来ないで、しかも出て行くのだから倍の負担になるのである。

つまり、起業塾をやるには当初に3〜400万円くらいの資金的余裕が必要なのだ。

今回、組合が起業塾をやらなかったのは、その資金的な余裕と運営ノウハウが無かったのだろう。

金銭的なリスクは全て「まちづくり元気おびひろ」が負うことになる。

北の屋台の組合にすれば、保証金・家賃・共益費・広告宣伝費は通常の屋台と同様に貰えるのだから、「起業塾」とは違ってノーリスクな訳である。つまり何のことはない北の屋台の1ブースを「まちづくり元気おびひろ」に貸しただけのことだ。

逆に「まちづくり元気おびひろ」は全てのリスクを負って事業展開をすることになる。

屋台の家賃など毎月約15万円(推定)ほどを組合に普通に払って、社員には給料も15万円(推定)ほども払い、金融機関から借りるお金300万円の元本金利を毎月25万円も払うとしたら、毎月黙っていても55〜60万円が消えていく計算だ。粗利益が50%あったとしても、月120万円の売上額が必要になる。こんなに高い利益率ではないだろうから・・・。

他人を雇って営業する屋台は、当然、自分で営業する屋台よりも売上額が多くなければとうてい黒字にはならない。新聞記事に書いてあった「1年間の売上目標1200万円」では黒字は厳しいかもしれない。と普通なら考えるところだが・・・。

ところが妙手があって、国や市などの制度融資から300万円を借りたら、元本の返済には1年間の猶予期間があるから、最初は金利の支払いだけで済むのだ。だから、売上げが月100万円で粗利益35%でも何とかなるかもしれない。

ただし、この場合もあくまでも1年後に「社員」が独立して「屋台店主」になり、この新しい店主が金融機関から300万円を借りられて、まちづくり会社に300万円を払ってくれたらの話であるが・・・。

屋台の評価は「一に大将、二にメニュー(味)、三、四が無くて五に値段」である。つまり、店主のキャラクターが売上を大きく左右するのだ。

雇う社員が優秀なら、売上げもあがって儲かるだろうが・・・。

「屋台に出店する社員」を明日から募集して16日に締め切るらしいが、こんなに急に発表して、しかも募集期間がたったの13日間しかなくて、果たして優秀な人材が集まるのだろうか?とても心配である。

自分の将来を真剣に考えるのには、こんな短期間で決定できるとは思えないのだが・・・。

北の屋台の「起業塾」の時には「インセンティヴ」として「経常利益の60%(家賃・給料等を引いた後の純益)」を塾生に差し上げていた。早く開業資金を貯めなさいということと、やる気を喚起させて売り上げを伸ばしてもらう目的であった。今回のこの事業ではその点がどうなるのかは記事には書かれていなかったが・・・。

いきあたりばったりで「まちづくり元気おびひろ」に泣き付いたのだろうが、よく「まちづくり元気おびひろ」が引き受けてくれたものだ。

「まちづくり元気おびひろ」には、1年後に独立出来るような素晴らしい人材を何とか発掘して、帯広の街を活性化させてもらいたいと願う。


■2011-02-04-Friday 新聞記事②

2日に続いて3日の

十勝毎日新聞1面に「北の屋台新規5店 第4期、来月14日から」の見出しが躍っていた。

第4期に5店の新規店と、従業員として働いていた2店が独立して新たに店主として始めるとのことで、まずはめでたい。頑張って帯広を盛り上げてもらいたいと思う。

だが、どうも今回の発表の仕方は後味が悪いというか、どうにもスッキリしないやり方だ。

そもそも発表する順番が違うだろう。

2日の新聞記事に「まちづくり会社」が1店舗を「起業塾」と同じスタイルで行うとの発表があったが、屋台の店主は誰も、そのことを事前に聞かされていなかったようなのだ。新聞記事で知らされるというのはチョット問題があるのではなかろうか?

店主にしてみれば、もしもまだ新聞を読んでいない状態で客に質問されて答えられなかったら、恥をかくことになるだろう。何故に直接教えてくれないのだ?という組合への不信感につながる愚挙だ。

その翌日に、今度は第4期の出店者と出店場所が決まったという記事である。。

夕刊紙に載った同じ3日の午後1時から「出店者会議」が屋台の事務所で開かれたのだが、大多数の店主はそこで初めて移動する場所と新しく入る店舗を聞かされたのだという。夕刊の締め切りに間に合わせるとは何とも手回しの良いことである。

大多数の店主と書いたのは、入れ替え工事の関係もあるから早く場所を発表して欲しいという店主からの再三の要請を組合は聞き入れずに、3日のこの会議まで発表しなかったのだ。

真偽の程は定かではないが、今回の移動で一番良い場所に入ることになった一部の店主にだけは、事前に場所を教えていたらしいというのだから何ともスッキリとしない。

屋台店主らに疑心暗鬼を呼び、変な憶測や疑惑を生むようなやり方は好ましくない。いっそのこと公開でくじ引きやじゃんけんで決めた方がパフォーマンスとしても面白かったかもしれない。

第1期目の入居の際には、店主らに入りたい場所の第一希望・第二希望を聞いた上で決定している。幸い希望する場所が上手くバラけてくれたので争いになることはなかった。

最初だから、何処の場所が良いかは、誰も分からずにいたのだ。

最初はトイレ近くの場所は敬遠されたのだが、第二期の入れ替え時にはトイレと広場近くの店が特等席(夏は広場からの注文が入りやすい)だということが判明していた。

第二期では必ずしも店主の希望通りにはならなかったが、それでも一応店主からは希望は聞いてはいる。屋台の運営は民主的に行われなければならないと思ったからだ。

第三期目の入れ替えの時には私は関わっていないから、どういう方法で場所を決めたのかは知らない。

今回の第4期目では、希望もなにもなしで、しかも直前まで大部分の人間には一切知らせずに決めたとのこと。これでは民主的な方法とは思えない。むしろ独裁的な方法だろう。しかも一番良いと思われる場所に入る人間だけが事前に知っているというのは決して好ましいやり方ではない。組合に対する不信感が増幅される行為である。

もしも、3日の会議で異論が出たとしても、もう今夜の新聞に掲載されるのだから、もはや変更はできないという既成事実で押し切る作戦なのだろうか?

でも、そんな愚劣な方法で乗り切るよりも、まずは屋台店主との意志の疎通が必要なのではなかろうか?

新聞記事によると、昨年の8月から募集していたというのだから、結局、2日の「まちづくり会社」が運営することが決まったことで、ようやく3日に発表することが出来たのだろう。だが、発表の手順が悪過ぎる。そのくせ報道機関に対する情報提供だけは手早いのだから、一体誰に向かって発表しているのだろうか?

組合は店主があってはじめて成り立っている組織であることを忘れてはいけない。本末転倒している。

今回の第三期で卒業して街中に出店したのが「えん」さんだけだったというのも寂しい。

北の屋台卒業生の店が繁盛することが、出店者を増やすことにも繋がる。北の屋台に居なければ商売が成り立たないというのでは卒業して街中に出店するという意欲のある人が居なくなってしまうだろう。

組合はもっと積極的に卒業生を輩出する努力をしなくてはならないはずだ。卒業生に対して、優良な物件をお世話することも組合の重要な仕事の一つであろう。

いくらコンセプトづくりに関わっていないからといって、コンセプトを歪めてしまうのは許せない。

北の屋台は国・市・商工会議所から補助金を頂いて始めた事業であり、しかも折角、帯広の名物になったのだから、北の屋台を私物化して、「やり方が気に喰わないなら出て行け!」とばかりの独裁的で横暴なやり方は決して許されるものではない。


■2011-02-05-Saturday 読売新聞風向計

2011年2月4日読売新聞北海道版風向計掲載

「豪雪・札幌 機能を帯広へ」

今冬の日本は大雪に悩まされているというニュースが連日のように流れている。北海道も日本海側は特に酷い状況のようで、東京の友人から「毎日毎日、除雪が大変なんでしょうね」と気遣うメールが入った。札幌や岩見沢あたりの大雪のニュースを見て、北海道はどこも大雪で大変だと感じたらしい。

帯広は太平洋側なので雪は少ない地域だが、日本人の多くは、北海道全部が豪雪地帯だと思いこんでいるようである。

データで見ると、札幌の年間の降雪量の平均は630センチで、帯広の年間の降雪量の平均は214センチ。帯広は札幌の3分の1でしかない。

帯広市の除雪費の過去最高額は2003年度の9億2800万円という。都市の規模が違うから、単純に比較は出来ないが、札幌市の除雪費などの総額は毎年約150億円もかっているそうだ。

08年に帯広に出来た屋内スピードスケート場の総工費が約60億円だから、札幌市は毎年、屋内スピードスケート場を軽く2つは造れるお金を除雪費に使っているわけだ。これには驚きである。

帯広は雪が少ない代わりに寒さが厳しい。今年も1月2〜16日まで15日間連続で最高気温が零度以下の真冬日が続いた。

今冬は昨年12月23日にみぞれ交じりの雪が降り、翌日は最高気温3度、最低気温が1度と温かくなって雪が解けた。しかし、その2日後の25日から28日まで真冬日になったことで、道路がスケートリンクのように凍ってツルツルになり、スコップでは太刀打ちできずにツルハシの出番となった。

一度こうなってしまうと、春まで解けることはない。その鏡面のごとくにツルツルになった道路に1センチ程度の粉雪が降ったら最悪の事態だ。交差点に停止している自動車が風で横滑りしていくほどだから、人間なら見事にスッテ〜ンと転ぶ。老人にとっては道路が凶器なのだ。車道も、交差点付近は自動車の停止、発進の度にタイヤが路面を磨くので横断歩道が一番滑る。

滑るといえば、帯広は山がないのでスキーよりもスケートが盛んだ。夜間に校庭に水を撒けば立派な陸リンクができるから、清水宏保や高木美帆(幕別町)などのオリンピック選手を多数輩出してきた。

同じ北海道でありながら、札幌と帯広ではこうも違う。寒さは厚着したり、ストーブなどで暖をとればよいが、雪への対処は大変だ。札幌は日本海側最大の人口を抱える大都市であるが、その都市機能の一部を太平洋側の帯広市に移転してはどうだろうか?


■2011-02-06-Sunday 北の屋台はオカシイ

3月14日から北の屋台の

第4期が始まる予定とのことだが、またまたオカシナ話が伝わって来た。

3日に組合事務所で開催された、第4期の場所と店舗名が発表された店主との会議の席上で、今回の入れ替え時(3月初旬)に、かなり大掛かりな改修工事を行うことが、これまた唐突に発表されたとのことである。

建設時にお世話になった宮坂建設さんに依頼して工事を行うのだそうだ。

そこで、私の本業である不動産賃貸業に関わるものとして一言意見を言わせてもらう。

建物の本体(屋根・壁・柱など)に係る改修工事の費用負担責任は、大家たる組合にあるのが基本だ。つまり、大家は普段、店子から頂いている家賃を貯めておいて、改修費用に充てるのである。その為の家賃なのだから当然だ。私は北の屋台に700万円の定期預金を残して卒業したのだから、そのお金を使えば十分に改修費用ぐらいは捻出できるだろう。

組合は昨年8月から、第4期の募集を行っていたという、その募集要項に第4期の諸経費つまり家賃・共益費などの金額が当然ながら、明記されているはずだ。そうでなければ、店子側にしても、月々いくら掛るか分からずに経営計画など立てられないし、金融機関だって資金を貸してはくれないだろう。

その契約した金額を、出店が決まったその日に、家賃の増額を一方的に言うなんていうのは、言葉は悪いが詐欺である。

もう止めるに止められない状態になった時期の店主らに「金額の変更が嫌なら契約を止めても良いですよ」なんていうのはヤクザのやり口よりも汚い。

事務局がキチンと仕事をしているなら、屋台の状態を常に見て歩いて把握しているのは当然のことで、そろそろ改修工事が必要だなぐらいのことは分からなければならないだろう。当然、今回の様な入れ替え時にしか大きな改修工事は出来ないのだから、事前に見積もりを取っておいて、掛る改修費用等を計算しておいて、組合がその掛る費用を金融機関から融資を受けて行うべきものである。

百歩も千歩も譲って、もし仮に、金融機関からの融資だけで足りなければ、その分を家賃の増額として店子さんに負担してもらうこともありえるだろう。だが、それは、申し込み時に、「第4期は、これこれこう云う工事に費用が掛りますので、家賃は○○円に増額します。それで了解して頂ければ、お申込み下さい」と言うのが真っ当な商売というものではないのだろうか?

契約を止めたくても止められない時期まで、そんな事は一切言わないで引っ張っておいて、1ヶ月も残っていない時期にそんなことをいうのは、誰が考えても常識外、ルール違反である。

北の屋台は補助金を受けてスタートした事業であり、云わば公的な役割を持った事業である。半端じゃない高額の給料を貰っている理事者は、キチンとその給料分の仕事らしい仕事をしなければ給料泥棒と言われても仕方ないだろう。


■2011-02-07-Monday 変だ

どうしても解せないことがある。

理事者が北の屋台の組合にお金がないと言って歩いていることだ。

私が金銭面の管理をしていた頃(2001年1月〜2007年1月まで)は、組合の台所は確かに厳しかった。何せ、国や市や商工会議所から補助金を頂いたとはいいながらも、総事業費には1500万円が不足していたから、私が保証人になって帯広信金から1500万円を借りたのである。

北の屋台の土地の賃貸借契約期間は当初2001年6月1日〜2007年11月30日までの6年半しかなかったから、この期間内に1500万円(金利を含めると約2000万円)を完済しなければ、保証人である私がかぶらなければならなくなってしまう。

更に屋台店主から預かっている保証金2000万円(100万円×20軒)はこの活動終了時には店主らに返還しなければならないものであるから、6年半の間に2000万円を別途に作り出さなければならないのだ。つまり合計4000万円を6年半で捻出しなければならなかったのであった。

だから、私は無給で働いたし、女性職員も安い給料で我慢して働いてくれていたのである。最初はボランティアでいた名ばかりの理事長のKが専属になって高額の給料を貰いたいと言い出したことは以前に、このブログに書いたからここでは繰り返さないが、このことで返済計画が大きく狂ったことは事実である。Kに給料を払っていなければ6年半で4000万円になる予定で組み立ててあったからだ。

金融機関から借りた利息分を含めた約2000万円の返済は予定通りに2007年11月末で完済することができたが、保証金返還分は700万円しか貯めることが出来なかったのである。私が700万円の定期預金を組合に残してきたと言うのはこのことなのである。

幸いにも、2006年に地主さんとは10年間の契約期間の延長が出来たから、その10年間の間に保証金返還分の不足分1300万円を貯めれば良い訳だ。

単純に計算してみよう、2000万円÷78カ月(6年半)=約26万である。毎月金融機関に26万円ずつの返済をしていたものが、2007年11月末には完済したから無くなったのだ。

年間にすれば312万円である。単純に考えても第3期の3年間でその分の約940万円は貯めていなければオカシイだろう。

その他に、私が保証金返済用に貯めた700万円は、苦しい台所の中から毎月10万円ほどをコツコツと積み立ててきたものだ。それを続けていればこの3年間で360万円は積立てられたはずである。940万円と360万円を合わせれば1300万円だ。私が残した700万円と合わせれば2000万円である。

それなのに、組合には改修工事の費用もないという。一体どういうことだろうか?

何か大きな金の掛る事業でもやったのだろうか?そんな話は聞いたことがない。

そこに、以前のブログで書いたが、第4期への申し込み証拠金400万円(20万円×20軒分)は店主には返還しないで組合が貰うというのだから、どうなっているのか?

店主にしてみれば、その20万円が保証金に充当されるのならまだともかくとしても、単なる審査料としての20万円なら・・・。

店主がK専務理事にその20万円のことを問い正したら、「お前にそんなことを教える必要は無い。嫌なら出て行け!」と言われたとのこと。金を払ってくれている本人に教えられなくて、一体誰になら教えられるというのだろうか?

現在の北の屋台の不明朗な会計は問題が多い。


■2011-02-08-Tuesday 健全化を願う

ここまで北の屋台の

ことをこのブログに書いてきたのは、北の屋台の行く末を心配している関係者や数店の善良な屋台店主らからの相談を受けてた為だ。

北の屋台の理念のひとつには「弱者救済」というものがある。自分の店をいきなり持てない経済的弱者に北の屋台という場所と機会を提供して勉強してもらい、やがて独立を果たしてもらうという理念だ。

それが、最近の屋台は、逆にその弱者をいじめて搾取しているかのように、私には感じられるので、元の健全な状態に戻したいと願ってのことなのである。

将来的に、街中に出店しようという店主らに対して、組合は、商売のやり方は勿論のこと、店舗賃貸借契約などの結び方や留意点など法律上の諸々を指導する立場にあるはずだ。

店主には独立して自分の店を持つ為の総合的な勉強を北の屋台でしてもらうことが目的のはずではないのか?

それを、指導するどころか、逆にその無知(指導していない)に付け込んで、「嫌なら出ていけ!」という恫喝で、店主からの質問すら受け付けないという組合の姿勢は明らかにオカシイだろう。理念に反した行為である。

Kは店主に対してはモノを言わせない独裁体制を敷き、理事者らには、適当な報告で済ませているうちに、段々と自分の事を王様にでも成ったかの様に錯覚を起こしているのかもしれない。

そういえば、Kは「ホウ・レン・ソウ」が出来ない男であったことを思い出した。「ホウ(報告)、レン(連絡)、ソウ(相談)」は組織を運営していく中で、意識を共有していく為に重要な事項だ。

現在の北の屋台では、理事会もまともに開催されていないのではなかろうかと思う。開かれていたとしても、キチンとした報告が為されているのか甚だ疑問に感じる。

Kと違って、他の理事者は無給の(たぶん)ボランティアであり、それぞれ自分の仕事を持っているから、北の屋台の専属で高額な給料を取っているKに全部任せっ切りなのだろう。

だが理事者も知らなかったでは済まない。

今回、まちづくり会社「まちづくり元気おびひろ(藤本長章社長)」によって(かつて第2期で組合が行った)起業塾と同じ様な事業が始まる。組合にお金があれば自ら行うべき事業だが、どうやら組合にはお金が無いようだから、外部のまちづくり会社に金銭的に依存したのだろう。

恐らくkは「必ず儲かりますから、全部、私に任せて下さい。」とでも言ったのだろうが、まちづくり会社は、お金だけ出してKに任せるようなことがあってはいけない。逆に、外部監査員になったつもりでシッカリと北の屋台の監視をするぐらいでなければならないと思う。

このことがキッカケになって北の屋台に健全性が戻ることを祈る。


■2011-02-09-Wednesday 武士の家計簿

5日の土曜日に映画、

「武士の家計簿」を観て来た。

夫婦50歳割引で2人で2000円で2時間楽しめる映画は我が家にとっては嬉しくて安上がりな娯楽である。

このところ毎週の様に観に行っている。

観客席は8割方埋まっていたが、やはり時代劇は高齢者が多いようだ。

この「武士の家計簿」は江戸時代末の加賀藩が舞台である。加賀百万石前田家の御算用者(ごさんようもの)といわれる藩の経理を担当する武士の家系猪山家の八代目猪山直之が、逼迫した家計を立て直す物語で、実際に残されていた家計簿を元にしたノンフィクションだという。

時代劇だが、チャンバラシーンや戦闘シーンは皆無、算用者が主人公だけにソロバンで家庭の経済を立て直す話だ。

主人公の猪山直之は真面目で堅物なソロバンの達人で、偶然、藩の不正を発見してしまう。

不正を知っている者たちも、事を荒立てて悪事が露呈してしまうと、自分の立場が危うくなるので握りつぶそうとしたり、無視しようとする。

露見しては困る上司が、彼に調べさせることを止めさせようとして左遷しようとするが・・・。

時代が変わっても人間のやることに大差はないものである。

この猪山直之を演じているのが、堺雅人である。この人は、どんな役をやっても、何だかいつも微笑んでいるように見えてしまって、切迫感が感じられない。

映画「ゴールデンスランバー」の時には、冤罪なのに追われているという逼迫感が感じられずに、あまりハラハラドキドキしなかった。

だが、今回の映画では逆にそれが、何だか、飄々として対応しているようでほほえましく感じたのだから、今回の配役は成功しているかもしれない。

青臭い書生論を吐いて、世の中の悪を正すというよりも、自分の信じる道を、自分の方法で行うことに、恥ずかしさなど無いという強い信念を持って(飄々として)行動することで、道が拓けていくことが表現されている。

ノンフィクションということだから、いつの世も不正というものは長くは続かない、必ず良心のある人たちが立ち上がるということに希望が持てた映画であった。


■2011-02-10-Thursday まちづくりの夢

私には「まちづくり」の夢があった。

以下の『 』内の文章は「十勝場所と環境ラボラトリー」が1997年5月16日から十勝毎日新聞紙で毎週土曜日の文化欄に連載していた「十勝の場所の意志に学ぶ」と題したコーナーに、2006年3月18日(土)に私が書いた文章である。

私が北の屋台を卒業したのが2007年3月末日であるから、その1年前の文章ということになる。公の新聞に掲載されたのだから私の意志の表れと思ってもらって差し支えない。

「まちづくり」にはお金が掛る。補助金で行う事業は制約が多いし、会費だけで行う事業では大したことは出来ない。幸い、私たちは「北の屋台」というお金を生み出す事業を成功させた。借金を返済し終わる2007年11月からはその返済分を「まちづくり」に全部使えると私は考えたのである。私の所有するビル内にあった北の屋台の事務所に併設して、まちづくりの諸団体が集う場所を造り、共同の事務局員を一人別に雇って・・・。だが、その夢は・・・。

『「帯広のまちづくり組織〜中心メンバーに負担集中 共同事務所、局員を〜」2006.03.18勝毎掲載

帯広は「三人寄れば一つの団体ができる」と言われるくらい組織をつくるのが好きな地域らしい。しかも、同じ人間がいくつもの組織に重複して加入する傾向が見られるという。一人で10以上の組織に入っている人もいる。

組織の寿命はおおむね10年くらいと言われており、中心で活動している人間が五○歳代になるとくたびれてしまい、パワーを失ってやがて解散してしまうようだ。

「継続は力なり」とはよく言う言葉だが、なかなか組織の中では後継者が育たないから継続したくてもできなくなってしまうのだ。この「育たない」という表現は実は間違っているのかもしれない。若い人たちは前述したように次々と自分たちで新しい組織をつくって活動を始めるからだ。しがらみや制約のある組織に入って先輩の顔色をうかがいながら活動するよりも自分たちだけで自由にできる組織をつくったほうが手っ取り早いということなのだろう。継続期間は短くなるが、その分活動のエネルギーは高いといえるのかもしれない。

これまでの成長時代にはこれでもよかったかもしれないが、安定時代に入った今日ではこの方式だとノウハウの蓄積がなされずに、活動が停滞(成長しない)してしまうのではなかろうかと危惧している。

もう一つの特徴は、事務局を担う人たちが自分の仕事をしながらボランティアで兼務していることだ。当然ながら事務局の人の負担が大きくなってしまう。組織の会員数が二〇人を超えると連絡事務だけでも煩雑になり、活動自体がおろそかになってしまう。しかし、人件費や事務所費を払えるほどには会費を徴収できないから誰かが犠牲になってボランティアで事務局を務めなければならないのである。内容の濃い活動をしようと思ったら事務局の専任化と事務所は必要な条件だと考える。

幸いにも私たちの組織である「十勝場所と環境ラボラトリー」は事務所と二人の専任事務局員を持つことができたから「北の屋台」のような活動ができたのだとも思っている。

この「十勝場所と環境ラボラトリー」も1996年からの活動だから、今年で10年目を迎えることになるが、ご多分に漏れず後継者が育っていない。

組織の中で後継者が育たないなら、別な仕組みを考え出さなければならないだろう。いくつかの組織が共同で事務所と事務局員を抱えるという方法はどうだろうか?

同じ場所に複数の組織の人たちが頻繁に出入りして気心が知れ合えば、その内に一緒に活動しないかなどということになってくれたら面白いと思う。組織の合従連衡が起れば結果的に後継者が生まれることになるのではと期待している。』


■2011-02-11-Friday 大相撲

大相撲が大変なことになっている。

このところ連日ニュースや新聞などでも、大相撲のことが報道されない日がない。

去年の「野球賭博」に関しての警察の調査で、押収した力士の携帯電話のメールの痕跡から「八百長」の決定的な証拠が出てきたという。

瓢箪から駒か?

これまでにも、大相撲にはいわゆる「八百長疑惑」というものがズ〜ッと付いて回っていた。週刊現代などが、特集を組んで、八百長の仲介をしていた「中盆」といわれる元力士らの証言を実名を挙げて報道していたが、相撲協会は八百長は無かったものとして、出版社を告訴して、裁判には勝訴していた。

これまでは、力士など人間が間に立って口頭で八百長をやっていたからか、決定的な証拠が出てこなくて、いわゆる風聞の類として、出版社側が敗訴していたわけである。

それが、思わぬところから、決定的な証拠が出て来てしまって、相撲協会も、今回は八百長を認めざるを得なくなってしまったというわけだ。

携帯電話のメールの痕跡からバレるというのも何だか現代風である。

おそらく国民の大多数は、大相撲に八百長があることぐらいは分かっていたが、目くじら立てるほどのこともないと、大した関心も寄せてはいなかったのだろう。

しかし、大阪での春場所中止が決まった。

政府は2013年までに、これまでの財団法人を「公益法人」と「一般法人」に色分けして、税金を徴収するシステムに変更することをやっている最中だ。

現在の相撲協会の税率は22%らしいが、「公益法人」なら0%で、「一般法人」なら30%になるらしい。

しかし、相撲協会は、このところの、朝青龍の暴行問題、力士の麻薬問題、野球賭博問題とそれこそ不祥事のオンパレードだから、一般法人の取得も難しくなっているとのこと。

相撲協会はこれまで「無い、無い」と言っていれば、「無いことになる」という日本人特有の言霊主義でやってきたのだろうが、もはや世間ではそれは通用しなくなってきている。

国技と言っても、最近は、幕内力士の半分くらいがモンゴルなどの外国人になっているから、国技という意識も薄れてきているようだ。大飯喰らいの大男たちがまともに働けて給料を貰える場所は大相撲ぐらいだろうに、一部の不届き者のせいで大相撲自体が存続の危機に立ってしまった。

相撲協会はこの不正を正面から正さなければ、大相撲に明日はない。

理事者たちが、自身の保身の為に、不正に対して見て見ぬふりをし続けてきたことが、倫理観を破壊するモラルハザードに繋がったのだ。

この種の不正は、やっても露見しないと思ったら、益々、堂々とやるようになる。犯罪はエスカレートしていくものなのだ。

不正問題は見つけてすぐの、まだ芽が小さい時に対処しておかなければ、問題が大きくなってしまってからでは、組織の存立の危機にもなってしまいかねない。

そうなると、今度は逆に、組織を壊したくないから、上層部が一緒になって隠蔽しようと画策してしまう傾向にある。

ここはしっかりと性根をすえて不正の芽を摘み取って、一日も早く健全な運営にしてもらいたいものである。


■2011-02-12-Saturday 不思議な

今回の北の屋台と

まちづくり会社「まちづくり元気おびひろ」の関係は不思議な関係だなと思う。

何故に、まちづくり会社に1ブースだけを運営させるのか、その意味がよく分からない。

また、まちづくり会社もなぜに、リスクだけを引き受けて1ブースの運営をする気になったのかまったく理解ができない。

いっそのこと、北の屋台の運営の全てを「まちづくり元気おびひろ」が担うというなら、健全化するであろうから良いかもしれないが・・・。

北の屋台での「起業塾」の事業設計を考え出した人間として言わせてもらうなら、今回の北の屋台とまちづくり会社との契約は、問題が山積している。

「起業塾」の場合は、組合が直接運営していたから、リスクも大きいが逆にその分フレキシブルな対応が可能なのである。

「起業塾」では1年後に起業塾の塾生を卒業させる際に、そのまま北の屋台の同じ場所で同じ業態で、2年目からは他の店主らと全く同じ条件で独立させる仕組みを考案したのだ。

つまり、簡単に言えば、最初の1年間で訓練をして、2年目からは独立するという手法なのだ。塾生に取っても、組合にとっても双方にメリットがある方法であった。

ところが、今回は金銭的リスクを回避する為に、別組織の「まちづくり会社」を間に入れたことによって、この手法は取れなくなった。

「まちづくり会社」が新たに雇い入れる「社員」は1年後に卒業するとして、一体何処の場所で独立するというのだろうか?

北の屋台には空きがないとすれば、他の場所で独立させるというのか?

(1年間で)他の場所で独立するほどの給料ではないし、インセンティヴとして売り上げの何%かを貰ったとしても、とても他の場所での独立までの金銭は貯まらないだろう。塾生が同じ場所でそのまま営業を続けるから、金融機関が資金を貸してくれるのである。

他の場所で独立する場合、独立の為の費用は誰が負担するのだろうか?

雇った以上は責任があるからと、会社が出してくれるのだろうか?(まさかね!)

そのまま「まちづくり会社」が所有するブースで店主として独立する場合は、今度は社員の人は一体誰と契約するのだろうか?

その場合、社員の人は自分で金融機関から融資を受けて、まちづくり会社が初期投資用に金融機関から借りたお金300万円を返済するのだろうか?

今回のまちづくり会社と組合の契約は、どういう契約になっているのか。私は「起業塾」用に別の契約書を作ったのだが・・・。

社員が1年後に独立した後にも、まちづくり会社が北の屋台のブースを借り続ける意味ってあるのだろうか?その場合、社員だった新しい店主は一体誰に家賃などを払うのだろうか?

今、ザッと考えただけでもこれだけの疑問点が出てくる。

新聞に載っていた内容だけでは、私の頭では全く理解ができない。でも、きっと上手くやる算段ができているのだろうから、私が余計な心配をする必要はないのだろう。


■2011-02-13-Sunday 近況

10日夜は

19時からガーデンズホテルで開催された「とかち酉戌会(ゆうじゅかい)」の会合に夫婦で出席して来た。(この文章は11日に書いている)

この会は昭和32年の酉歳生まれと33年の戌歳生まれの会で、元々は男の前厄・本厄・後厄の御祓いの後の直会(なおらい)で飲んでいた会が、後に同年の女性も交えて、同年代の男女が集う会になったもので、今回が12回目の総会ということであった。会員数は十勝管内で120名以上もいるという。この日の参加者は40名ほどであった。

この年に一回、2月に開催される総会の他、夏は3回のゴルフコンペも開催されている。

我々の年代は、いわゆる同級生結婚が多いから、この会にも夫婦連れで来る人が多いかと思って、我が家も夫婦2人で参加したのだが、夫婦連れは私たちだけであった。

同年代とはいいながらも、かなり老けて見える人もいるし、若く見える人もいる。初めての参加者も8名ほどもいたろうか?ゴルフをやる人や毎年参加する人は判るが、この総会にしか出てこない人の顔と名前はなかなか覚えられない(元々、ひとの顔と名前を覚えるのが夫婦共に苦手である)。

数人から「ブログいつも楽しく読んでるよ」と声を掛けられた。同年代の人にも読まれているのは嬉しいことである。

大多数の人達は2次会に向かったが、私たち夫婦は何だか疲れてしまったので、帰宅することにした。

翌11日は3連休の初日、暇だから昼に映画を観にいくことにした。

何の映画を観ようか?と妻に尋ねたら「あしたのジョー」が良いという。私はあまり観たいとは思わない。ジャンケンで私が勝ったので「RED」にすることにした。

REDは引退して年金生活をしている元CIAの老スパイのブルース・ウィルスらが、自分の身を守る為に戦う映画だ。欧米特有の洒落たウィット&ジョークがあって、非現実的な話を面白く描いている。映画は、こういう類のあれこれ考えずに楽しめる作品が疲れなくて良い。

昼のニュースで東京で雪が降っているという。子どもたちにメールを打ったら、積もっているという。帯広は快晴で暖かいのに・・・。

帰りに長崎屋4階の喜久屋書店に寄って、連休中に読む本を購入して帰宅した。この連休は家でじっくり読書でもすることにしよう。


■2011-02-14-Monday あしたのジョー

映画「あしたのジョー」を

妻がどうしても観に行きたいと言う。言い出したら聞かない人だから、仕方なく付き合うことにした。(この文章は12日に書いている)

昨日(11日)、「RED」を観たばかりだし、この連休はユックリ読書を楽しもうと思っていたのに・・・。

妻がテレビでの映画コマーシャルを見て「あなたのお饅頭の様なダッポダポの一つの塊のお腹じゃなく、主演2人の割れたお腹を見たい」と言うのである。

俺だって昔は・・・。

ボクシングは元々大好きである。11日の井岡一翔選手のWBCミニマム級世界選手権を見て、久し振りに強い選手が出てきたなぁと興奮したこともあって、あしたのジョーを見る気になったのである。

「あしたのジョー」は私が小学校4年生(1968年)の時に、講談社の「少年マガジン」で連載が始まった漫画だ。少年マガジンではその2年前から同じ梶原一騎原作による「巨人の星」の連載が始まっていたが、親から漫画週刊誌の購入が禁止されていたので、友人の家で時々しか読むことが出来なかったから、小学生の時は大して漫画には関心がなかった。

むしろテレビアニメで小学4年生(1968年)の時に「巨人の星」が放送されて、テレビの方に夢中になっていたのだった。

「あしたのジョー」のテレビアニメも小学6年生(1970年)から始まって、尾藤イサオの唄う主題歌がとても好きだった。

この頃のボクシング界は何といっても大場政夫の全盛時代で、彼が格好良くてボクシングが大好きだった時代である。

中学生になっても相変わらず、漫画本の購入は許されていなかったので、マガジンとサンデーの発売日には、学校帰りに本屋に寄って立ち読みするのが習慣になっていたほどだ。

あしたのジョーも巨人の星も、漫画のストーリーが進むスピードの遅さは、かなりなものだった。1ラウンドや1人のバッターに2〜3週間も掛かることがザラだったのだ。

ボクシング映画といえば、大学生の時に観た「ロッキー」が感動した。学生時代の彼女(妻ではない)と初めて観に行った映画である。

映画のボクシングと実際のボクシングでは、レフリーのカウントの取り方がまるで違うのが気になる。

映画ではカウントセブンでまだマットに寝転んでいる選手が立ち上がろうとするとカウントが停まってしまうが、実際の試合ではカウントは続くから、全部1ラウンドKOである。

緊迫感を出す為の演出なのだろうが、どうしても気になってしまう点である。

もう一つは、実際の試合であれだけ打たれてフラフラの状態になったらとっくにレフリーが止めてTKOである。

映画の演出とはいえ、チョットなぁ〜。

今回の「あしたのジョー」は原作の漫画に忠実なストーリーだったからあまりワクワク感は無かった。力石の減量であんなに水を飲まなかったら試合の前に脱水症状で死んでいる。

昔のスポーツ根性物語では「水を飲ませない」ことが(誤った)常識となっていたが、現代では、水分補給は誰でもが知っている常識だから、いくら時代設定が昭和30年代前半だったとしても何だか違和感があった。

妻は伊勢谷友介のファンらしく、「キャシャーン」の頃から注目しているのだと言う。ジョー役の山下智久と白木財閥のお嬢様役の香里奈がどうにも気にいらないらしく。下手くそな演技だとブツブツ文句を言っていた。

丹下段平役の香川照之は、もはや怪優という感じになってきた。確かに上手いバイプレイヤーで映画には欠かせない俳優なのだろうが、少々出過ぎだ。

妻は、伊勢谷友介の引き締まった身体を見て、映画を観終わった後、私に、ボクササイズでもやって少しは痩せたら?とやたらに勧める。

「格好良くなったらモテてしまうぞ!」と言ったら、「それくらいになって欲しいもんだ」と。

この野郎〜。今に見ていろ俺だって!


■2011-02-15-Tuesday エジプト

朝起きたら、

肩から肘にかけての筋肉と背中の筋肉がやたらと痛い。雪かきをした訳でもないし、何か身体を使った運動でもやったかな?と考えていたら、そうだ!映画「あしたのジョー」を観終わった後に、家で鏡を見ながらシャドーボクシングの真似ごとをしたんだった。

アッパーの打ち方を真似した時に腕の筋肉がつりそうになったのだった。

ホンの5分程度の、アレしきのことで筋肉痛かよ。日頃の運動不足も極まれりといったところか。情けない。

そろそろ、ストレッチ体操でも始めないと身体がなまってしまいそうだ。

エジプトでは、ムバラク大統領が11日に遂に辞任した。100万人を越えるデモ隊に、さすがのムバラクも遂に諦めたのであろう。テレビのニュースでは、コンピュータによる交流サイトのフェイスブックによる呼び掛けが、これだけの数の人間を集めたと報道していた。

民主化の波は、情報によってもたらされるものなのだろう。だからこそ、北朝鮮などの独裁国家は情報を遮断することで、何とか、その命脈を保っているのだろうが・・・。

中国も、情報を操作しているとはいいながらも、このコンピュータや携帯電話全盛の時代には、100%の遮断はもはや無理だろうから、いずれ近い内に何等かの大きな変化が突然訪れるかもしれない。

新聞によると、ムバラク一家の蓄えた資産が5兆2000億円にものぼるとのことだが、それが本当なら、とんでもない話だ。

国民の貧困をよそに、大統領が国民から搾取して、自分の資産つくりにまい進していたなんて、所詮、独裁者は金しか信用できなくなるのだろう。

エジプトは独裁を終わらせた後のことの方が大切だ。どういう形で誰が政権を握るのか。誰がやるにしろ一筋縄ではいかないだろう。

不満を爆発させた民衆の全てを満足させるような政策なんてないだろうから、結局、民衆の不満は堆積していく一方だろう。

おそらく、このエジプトの政変で、アフリカの近隣諸国にも民主革命が飛び火するだろう。それを、恐れる独裁者は益々、強権を発揮して、より一層の民衆弾圧を強めるだろう。しかし、その弾圧は逆効果にしかならないのだろうと思う。

第一次世界大戦後のドイツでは、この民衆の不満を上手く利用してヒトラーが台頭してきた。ヒトラーは、この時のドイツ国民にとっては救世主だったのである。

不安定な世界に、再びヒトラーのような悪魔と取引する様な人物が現れないことを祈るのみだ。


■2011-02-16-Wednesday ラボラトリー

十勝環境ラボラトリー(TKL)は

1996年3月から、9つのプロジェクトを開始した。活動の内容の詳細は何度もこのブログに書いてあることなのでここでは割愛するが、9つのプロジェクト名だけを列記すれば①国際環境大学公開講座、②新聞紙上セミナー、③環境童話製作、④都市構想、⑤食文化環境、⑥場所カー、⑦場所環境住宅、⑧十勝川水系調査、⑨田園ライフスタイルの9つである。

この中でも、特に①は毎月1回大学教授らを招いての講座の開催、②は毎週1回十勝毎日新聞紙上での紙上セミナーの掲載を続けてきた。

TKLのメンバーは、全員が職業を持った人間のボランティア活動である。①と②の活動を続けて行く為には、専属の事務局員と事務所がどうしても必要だった。

しかし、TKLの活動自体に収入がある事業は一つもなく。むしろ経費(特に①は講師謝礼金・旅費・宿泊費など)が掛る事業ばかりなのである。会員から徴収する会費だけでの運営はとても出来ない。そこで、中心メンバーがTKLに寄付をしながらこれらの活動を支えてきたのである。

私は、自分の会社のビル内に事務所を提供し、その事務所費と事務局員一人分の給与を負担しながら、自身も専務として午前中は自分の会社の仕事をして、午後からTKLの仕事をして活動し、忙しいながらも充実した日々を送っていた。

当初は6年間の期限付き活動でその期限が到来した2002年12月に総括を行い、「④の都市構想Pの活動の中から北の屋台(1999年〜)が生まれたのでこの行く末を見る為にもう4年間、2006年12月まで期限を延長する」ことを決めた。この時に名称を「十勝場所と環境ラボラトリー(BAKALABO)」に変更した。

北の屋台も1999年当初には金の掛る事業であった。2001年7月29日にオープンさせたが、当初は全店がなかなか埋まらず、家賃収入が予定していた金額には届かずに、やり繰りに大変苦労もしたが、2004年7月12日から始まった第2期目からは、順調にお金が回り出したのである。

北の屋台の事務所は、TKLの事務所を兼ねていたから、事務局員の女性スタッフ2人も北の屋台の収入から給与を払えるようになり、事務所費も若干なりとも頂けるようになったので、私の金銭的負担はかなり軽減されたのであった。

女性事務局員2人は、TKLの仕事と北の屋台の仕事の両方を、受け持ってくれていた。①の公開講座は、招聘する大学教授らとのスケジュール調整から、飛行機のチケットの手配、講座当日のビデオ撮影、後日は録音テープからのテープ起こし本の作成などの仕事があった。②の紙上セミナーは①で招聘した教授らへの原稿依頼から、送られてきた原稿のチェック、新聞社とのやり取りが毎週切れ間なく続く。それ以外にも③〜⑨のプロジェクトの仕事が入ってくる。そして、それに加えて更に、北の屋台の経理や事務や雑務をするのだから、それこそ毎日、毎日、大変な量の仕事をしてくれていた。TKLも北の屋台も彼女らの献身的な働きで保たれていたのである。

そのTKLの活動は2006年12月末日をもって終了した。予定通りと言えば予定通りの年限であるが・・・。

2006年11月28日に開催された北の屋台の理事会で、突如、私が北の屋台を辞めることになった(詳細は後日)。

献身的に活動してくれていた2人の女性スタッフも私と一緒に辞めることになった。私と2人の女性スタッフがいなければTKLの活動は続けることができない。

TKLの解散は、今、考えても、実にモッタイナイことであった。


■2011-02-17-Thursday マイヒストリー46

2004年5月になって、

妻の父親が、自分が乗っていた車(BMW730i)を、もう自分は高齢で車の運転は危険になったから処分すると言う。

私は、自動車の運転は好きではないし、車は安全に動けば良いぐらいにしか思っていないが、このBMWは別モノだった。

かなり以前にJCの全道大会で苫小牧に行く時に借りて運転したことがあったが、自動車の運転が嫌いな私でも、車の性能の良さだけは分かった。

高速道路を走ると、地面に吸いつくような感覚で安定するのだ。それまで、私が乗っていた車は、冬道の運転を考えて四輪駆動の日産テラノ・レグラスという、オフロードカーであったから、車高が高くてカーブでは安定感がない車種だったのだが、運転感覚がまるで違ったのだった。

私の乗っていた車を、廃車寸前の車に乗っていた人間から頼まれたので安価で分けてあげ、私は義父のBMWを下取り会社が提示した価格で購入したのだった。

私の車を譲った人は、モノを大切にしない人のようで、彼のアパートの前には、しばらく動かした形跡が見られないように車の屋根には雪がうず高く積まれたままになっていた。愛着のあるモノを譲るには、大切に扱ってくれる人でないと譲ったモノが可哀想になる。

義父は10年間ほどもこのBMWに乗っていたが、走行距離はまだ13000キロメートルしか乗っていなし、ボディも傷がほとんどない状態である。

私が購入してからも、現在までの7年間での累積の走行距離が4万キロメートルであるから、いかに私も運転していないかが分かろうというものだ。私はこの車をゴルフに行く時くらいしか運転しないからだ。

しかし、このBMWは素晴らしいから惚れてしまった。一旦惚れてしまうと、トコトンお付き合いしたいと思うから、以来、今日まで私はこの車を手放せないでいるし、新しく買い替えようと云う気も起らない。

5月の末に、我が社のビルの地階に入居していた「T・T・T」という居酒屋がつぶれてしまった。元は「つぼ八」という全国チェーンの居酒屋のフランチャイズ店として入居してきた店だが、社長である父親が亡くなった後に、後を継承した息子が、つぼ八のフランチャイズを脱退して自分で居酒屋チェーンを始めたのだった。

後継者によく見られる倒産パターンである。父親が偉大であればあるほど、父親を越えたということを、早く世間に自分を認めてもらいたいと考えるのだろう。無理をやったり、上手い話に乗ったりしてしまう。

また、こういう後継者になったばかりの社長を餌食にして金儲けを企む悪い奴がいるのだ。「貴方は社長になったんだから、もう即断で決められるでしょう?」とプライドをくすぐる様な上手い話を持ってくるのだ。

これで失敗してしまう2代目社長が実に多い。

専務時代は、上に父親で社長という重しがある。たとえ社長が病床に伏していて意識不明の状態にあり、普段の業務はすでに息子である専務が全て判断して実行していたとしても、難しそうな案件が出て来た時には「社長に相談しなければ・・・」という逃げ口上で時間を稼いで熟考することが可能なのだ。

しかし、父でもあり、社長でもある人間が死んだ途端に、判断が難しい難問を持ち込む人間が存在するものなのである。

そんな時に「大丈夫、貴方なら出来ますよ」と甘い囁きに乗って、実力もまだ十分に付いていないのに事業を拡大したりすると、破滅が待っている。

そういう人間をこれまでに何人も見てきた。

だから、私は、表面上は組織のナンバー2というポジションに立って、実際にはナンバー1として事業を推進するようにしてきた。それが「長と名の付くものは、自分の会社しかやらない」という考え方になっていったのである。北の屋台でもそれをやった。(つづく)


■2011-02-18-Friday マイヒストリー47

2004年6月末頃に

帯広のNHKから、北の屋台の第二期のオープンに合わせて、北の屋台の広場にプロジェクターとスクリーンを設置してアテネオリンピックの中継を放映したいとの要望があった。

前年(2003)の12月にカンボジアに2度目に行った際(アンコールワットの修復に携わる帯広出身の石澤良昭上智大学教授の招待で)に、私がNHKから依頼されてNHKのテレビカメラをカンボジアまで持って行って取材したのが縁になって、その映像の編集作業やテレビ出演などで何度かNHKを訪れている内に、NHKのスタッフの方々と懇意になり、そういう企画が生まれたのである。

設置に際して、北の屋台には金銭的な負担は生じないし、放映する番組もNHKだけに限定しなくても良く、ただ、機械などの管理をすれば良いとのことだったので、北の屋台にまたまた話題が出来ると考えて快諾したのである。

アテネオリンピックは8月13〜29日の開催期間であったが、その前から機械のテストということで、7月20日からNHKのBS放送でアメリカの野球放送等を放映していたら、これが客には大変評判が良かったので、NHKの方でも、オリンピック終了後も設置したままにしておきましょう。ということになったのであった。

大道芸の方も十勝毎日新聞社の事業部の方から、一緒になってもっと大々的にやらないかとの誘いがあった。2002年、2003年と北の屋台の広告宣伝費だけで芸人を招聘してきたが、このまま継続するのはかなりキツイ部分もあったし、実行委員会組織にすれば北海道庁からの補助金も3年間は出してもらえるというので、この辺りで規模を拡大することにしたのである。この年2004年から大道芸は「北の大地de大道芸フェスティバル」へと衣替えをして招聘する芸人の人数も増え、市民からは益々喜ばれることになった。

この大道芸のキッカケ(現:ファニー・ボーンズを帯広に連れて来た)を2002年に作ってくれた北見のマジシャン・ミスター・アガックこと竹内一雄さんが、7月23日に帯広に来て、9月16日に帯広でマジックショーを開催出来ないか?と言う。

2002年8月28日にも同じく竹内一雄さんの紹介で「北の屋台オープン1周年記念マジックショー」を開催しているので、今回も何とか開催したいと言う。

今回は日本マジック界の至宝、世界で大活躍している世界一のマジシャン島田晴夫(日本マジック界の本流、松旭斎天洋門下の二番弟子、一番弟子が引田天功で、私の師匠のジミー忍は四番弟子にあたり、札幌で活躍しているバーディ小山はその下で、更にその下にMr.マリックがいる)さんが、14日に札幌でマジックショーをやるので、そのまま、北見市と帯広市でもマジックショーを開催したいとのことなのだ。急な話で時間も無いし、予算も無い。

急遽、屋台の店主全員に事務所に集まってもらい、北の屋台の広告宣伝費でこのマジックショーを「第二期オープン記念、北の屋台プレゼンツ、マジックショー」として企画したい旨を諮ったところ、店主全員が賛成してくれたので開催することができたのであった。

マジックショーが終了した後に、出演したマジシャン達が北の屋台で客のすぐ目の前でマジックを披露してくれる企画も行い。その晩は北の屋台は大いに盛り上がったのであった。

8月27日に根室から滑川さんと云う方が帯広に来られた。この方は北の屋台がオープンした年の2001年11月15日に私が根室市で講演した際に、釧路まで車で迎えに来てくれた方である。滑川さん曰く、「坂本さんの講演以来、根室では屋台構想で盛り上がっている。帯広の北の屋台の視察は、もうすでにやっているから、今度は北の屋台で根室のサンマを宣伝したい。その時に漁協関係者らを大勢連れて来たいので、広場を貸して欲しい」との要請である。

日程を調整したら9月20日の15時から、トラック1台分のサンマを根室から持ってくるので、その場で焼いて食べてもらったり、販売したり、宣伝したりを行いたいということになったのであった。これ以前にも広場を活用したイベントはいくつかおこなっていたが、この「根室サンマまつり」当日は美味しいサンマが破格の値段(ほとんど只)で配られるとあって、かつてないものすごい混み様であった。(つづく)


■2011-02-19-Saturday ボランティア

これからの世界を

動かしていくのはボランティア活動であろうと思う。

お金、お金・・・、お金至上主義の世の中に嫌気が差して来始めてる人も増えてきたように思う。何事も全てお金に換算されることを嫌だなぁ〜と感じる人たちだ。

それを象徴しているのが「地域マネー」とか「エコマネー」とかの、日銀が発行する国家の通貨ではなく、そこだけでしか通用しないような「マネー」をボランティア活動などに対して支給するところが段々と増えてきたことだ。

無償で活動するボランティア活動に対する対価として、現金を支給するのは失礼だが、まったく何も払わないというのも気が引けるという人たちにとっては、恰好の感謝の意志を表すツールになっている。

貰う方も現金ではないから、抵抗感が少なく貰い易い。

この貰った「マネー」を使える場所や店が増えたら、もっともっと普及するだろう。

高度経済成長が終わり、失われた10年(実際には20年)と言われたバブル崩壊後の不況日本もようやく心の成熟が始まったのだろうと思いたい。

北の屋台も、当初の活動は、ボランティアによって支えられていた。

皆、帯広のまちを良くしたい。活性化させたいという志が、無償の活動のエネルギー源であったのだ。

たとえ自分の儲けにならなくても、北の屋台の活動に関われることで満足感・充足感を感じることができていたのである。

例えば、北の屋台の中央部に付いている「ライブカメラ」は、コンピュータの専門家である方が、飛び切り安いカメラを探して来てくれて、取り付け作業も自ら無償で行ってくれたのである。

本来なら、コンピュータ関係で生活をしている人が、仕事ではなく特技としてボランティアでライブカメラを設置してくれたのだ。

このライブカメラのお陰で、コンピュータ上の北の屋台のホームページを開けば、1分間隔で映像が変わる北の屋台の生の状態が見られるのである。

帯広以外から来た客は、携帯電話を片手にして、カメラの前で手を振って「今、帯広の北の屋台で飲んでるよ〜、俺がコンピュータに映っているかい?」などと言いながら楽しんでいたし、混んでいるかどうかも調べることが出来るのでとても好評だったのだ。

この様に、自分の特技を活かして、他の人達に喜んでもらうという気持ちがボランティア活動の基本なのである。

さもボランティア活動をしているかのように見せかけて、金を儲けるという行為は最低の行為だ。

大切なのは北の屋台と云う帯広市民の憩う場所に、自分の特技を生かして何等かの貢献が出来れば、自らの利益を出すことよりも、自分の心が満足する方が先だという心がけなのだ。

このボランティア精神がもっと広がれば、その地域は必ず住み良い場所になる。

もう、誰だって、お金、お金のギスギスした場所には住みたくないと考えるはずだ。


■2011-02-20-Sunday マイヒストリー48

2004年も

全国各地から講演の依頼が殺到したが、私の身体は一つしかない。自分の会社の仕事、十勝場所と環境ラボラトリーの専務としての仕事、北の屋台の専務理事としての仕事を同時にやらなければならなかった。

この年の講演はスケジュールが過密で、例をあげれば、10月22日の16:00から青森県八戸市、23日17:30から東京都の武蔵大学、24日は13:00から茨城県の筑波大学、25日は12:50から東京の成城大学、26日は東京で日経新聞社のシンポジュウムのパネラーとしてと、あちらこちらを毎日行ったり来たりして忙しく、身体も辛かったが、精神的には売れっ子気分を満喫していたのだった。

翌週の11月2日は静岡県静岡市で講演、一旦帯広に戻って、8日には再び静岡県浜松市で講演なんてこともあった。

地方の講演に行くのに、特に大変なのは、帯広が遠隔地だということだ。講師が私一人の場合は、講演開始時間を私の飛行機などの到着時間に合わせてくれることもあるが、シンポジュウムなどのパネラー等、複数の講師がいる場合は私のスケジュールばかりを主張することも出来ないから、前泊や後泊が必要になる。場所によっては90分間の講演に移動も含めると3日間掛ることもあるのだ。

特に問題なのは、冬期間の移動である。雪国である北海道に住んでいる以上は仕方のないことだが、雪の為に、交通機関が乱れると、講演に間に合わないことがあるのだ。

特に東北地方の講演に行く時は要注意である。現地に着いてからの移動にも充分に時間的余裕があるように新千歳空港から出発する飛行機を選ぶのであるが、雪で飛行機が遅れてハラハラしたことが何度もある。私が到着しなければ、講演は始まらないのだから心配する度合いは半端ではない。

秋田に行く時にも、羽田空港から新千歳空港に来る飛行機が遅れた事があった。そのまま遅れて来る飛行機を待って秋田空港に向かうか、仙台空港に行って列車で秋田に向かうかの選択を迫られたことがあった。いろいろ考えるが、結局、腹をくくって待つことが一番だと何度かの経験で悟ったのだった。

この2004年の12月6日に青森県十和田市で17時から講演の依頼を受けていた。天気予報では5日から東北・北海道に大雪警報が出ている。十和田市の担当者から電話が入って万一のことを考えて前日に十和田市入りして欲しいとの要請があった。5日は日曜日で私にとっても久し振りの休日なのだが、担当者がどうしても来て欲しいと言うので、仕方なく5日に向かうことにした。5日は57㎝もの雪が降って新千歳空港から飛行機が飛ばない。千歳のホテルは満室で泊れないので、札幌まで行ってホテルに宿泊し、翌朝は列車で札幌から青森まで向かったのである。

青函トンネルを通過するのは初めての経験だから、まぁこれも良い経験だと諦めて列車で行ったのだが、雪で遅れながらの列車の長旅は辛かった。

講演は無事終了し、十和田の方からよく来てくれたと歓待してもらった。翌日は快晴で、帰りは三沢空港から新千歳空港、列車で帯広駅に戻ったのだった。(つづく)


■2011-02-21-Monday 映画と講演会

19日(土)は

休日だから昼まで寝ていようと思ったのだが・・・。

愛犬のバニー婆さん(15歳黒ラブラドール♀)がベッドまで来て、私の頬に濡れた鼻を押し付けて「早くご飯を頂戴」と起こしに来る。仕方なく、バニーにご飯を与えてから二度寝する為にベッドに戻ったが、今度は「散歩に連れて行け」と起こしに来る。ゆっくり寝かせてはもらえない。

午後から妻と2人でまたまた映画「太平洋の奇跡」を観て来た。太平洋戦争のサイパン島での戦いを史実を元に作った映画だという。

もう粗方の、帯広で公開されている映画は見尽くした感があるので、戦争映画はあまり好きではないが、妻が観たいというので仕方なく付き合うことにした。

それにしても、主演の大場栄大尉役の竹野内豊は大根だし、活舌が悪過ぎる。でも、この大根振りが、何となく大場大尉の真面目さと誠実さを表現しているようにも感じられるから、ひょっとすると上手い役者なのかもしれないが・・・。

唐沢寿明の演じた極道者(刺青をしていた)らしい堀内一等兵と阿部サダヲが良い味を出していた。

戦争の悲惨さは、映画とは分かっていながら観ていて涙が出て来てしまうので、あまり観たくないのだ。

投降命令に従わずに一人だけジャングルに残った山田孝之演じる木谷曹長は自決したのか、それとも生きて抵抗を続けたのかと考えたら、このサイパン島のすぐ隣のグアム島で戦後ズ〜ッとサバイバルを続けていた横井庄一さんを思い出した。きっと何人もこういう日本人兵士がいたのだろうなぁ。木谷曹長もかなり生き続けていたのかも知れない。

もしも、私が、このサイパン島で野営することになったら・・・と想像しただけで恐ろしい。

どだい、夏のキャンプのテントで寝ることさえ大嫌いなのに、こんなジャングルでの野営なんて出来る訳がない。私ならきっと3日(今なら何も食べなくてもお腹に貯めた脂肪の塊で3日ぐらいは持つだろう)ぐらいしかモタナイで死んでしまうだろう。

現代の軟弱な日本人の若者に戦争なんて絶対に出来ないだろうと断言できる。

20日(日)14時からとかちプラザの視聴覚室で、明治学院大学教授の神門善久(ごうど よしひさ)さんの『「農」の周辺講座』を聞きにいった。

以前に、北の屋台の農屋(みのりや)さんで、農屋のオーナーの一人である片岡さんから、京都大学の後輩だと紹介されたことがあったのだ。

久し振りに、農業に対してまともなことを言う人だと感じた。

私も、講演などで全国各地で講演しているが、北海道、特に十勝の農業は他の場所の農業とは全く別物だと思う。そのことを言っても、ほとんどの人が理解出来ないが、この神門さんは、昔、片岡さんの「夢がいっぱい牧場」で働いて、自分のミスで一ヶ月の間に牛を2頭殺してしまったという経験があるとかで、十勝の農業のことも多少は理解できていると思う。

十勝の農業は畑作中心の大規模農業だから、他の北海道の米作中心の農業とも違うし、ましてや本州の小規模兼業農家とは根本的に異なるのだ。

今回の講演で、本州の農業はゾンビだと断言したことに驚かされた。現在の日本の国政の政治家で本当に農業のことを理解している人が少なくなっていると感じる。

神門さんの話を聞いて、日本のあり方を根本から考え直す時期にきていると思った。


■2011-02-22-Tuesday 温泉銭湯

先週の12日(土)から

帯広市内にある温泉銭湯を日替わりで廻って入浴体験してみた。

12日「ひまわり湯」、13日「朋の湯」、14日「白樺温泉」、15日「パール温泉」、16日「アサヒ湯」、17日「東湯」、18日「水光園」、19日「君乃湯」、20日「自由が丘温泉」である。

まだ全部を廻り切れていないが、今回で二順目の銭湯廻りである。帯広の銭湯は全てモール温泉(植物性)だし、ほとんど全部の銭湯にサウナ風呂が付いているから快適だ。

3人の子どもたちが皆、現在家を離れて暮らしているので、夫婦2人だけしか入らないのに、お風呂を沸かすよりも銭湯に行った方が安上がり(大人一人420円)だし、ゆったりと足を伸ばして湯船に入れて、しかもサウナで汗もタップリとかけるから、寝酒を飲まなくても快眠できるので、健康的にも経済的にも良いと思う。ここ10日間、私ははお酒を一滴も飲んでいない。

その代り、風呂上がりのアイスキャンディを食べるのが楽しみなのだ。愛犬のバニーもアイスキャンディが大好物で、私が銭湯から戻って冷蔵庫の中からアイスキャンディを取り出すと、私の側に寄って来て、ジーッと私の顔をウルウルした目で見つめる。私も一人だけで食べるのは忍びなくてバニーに分け与えて一緒に食べるのである。

だから、夕食を終えた後に、妻と二人で銭湯に出掛けるのが日常の楽しみになってきた。明日から子どもたちが帰宅してくるので、この楽しみもしばらくお預けである。

帯広の住民は、この銭湯が全てモール温泉であるという贅沢を理解していないと思う。きっと当たり前だと思っているのだろう。

大学生の時、東京で暮らしていた時分に銭湯に通っていたが、水道の水を沸かしたお湯は、肌にピリピリとした刺激と、カルキ臭がしたし、サウナ風呂は付いていなかった。

モール温泉も独特の臭いがあるが、毎日の様に入っていると慣れてきたし、帯広の銭湯はかなりレベルが高い。泡風呂、電気風呂、露店風呂など色々な浴槽を用意しているところもある。

曜日によって混み具合がかなり異なるが、空いている時に一人で入ったらものすごい贅沢な気分が味わえる。

ただ、最近は帯広の客のマナーの悪さが目に付く。サウナから出て汗を流さずに水風呂に入る奴や、シャワーを周りの客に掛けまくる奴や、身体を拭かずに、ビチョビチョのまま脱衣場に上がる奴がいるのだ。

昔なら、怖いおじいさんが、一喝したものだが・・・。最近はいい年したおじさん連中に多いから困りものだ。

私も目に余る行為の時は、時々注意をするのだが、逆キレされても困るしなぁ〜。何か良い方法はないのだろうか?


■2011-02-23-Wednesday 勝毎「論壇」

2011年2月21日十勝毎日新聞「論壇」掲載

「検証!まちづくりと北の屋台」

北の屋台が2001年7月29日にオープンしてから、今年で10周年を迎えるが、ここで「まちづくり」における北の屋台の意義を検証してみたい。

日本全国に「まちづくり事業」と名の付くものは数知れず存在するが、その中にはいわゆる「箱モノ」といわれるハード面(建物など)に何億円もの巨額の資金を掛けたものがあり、費用対効果から考えると疑問符が付く事業もかなりの数に上がる。北の屋台はハードよりもソフト(企画など)に重きを置いた珍しい事業である。

商売の原点である屋台で素人が経験を積み、資金を稼いで固定客を獲得したら、屋台を卒業して、街中の閉店した店のシャッターを開ける。空いた屋台にはまたやる気のある若者が入居する。それを繰り返すことでまちづくりに貢献するのが目的であった。

北の屋台(建設)に掛った事業費の総額(屋台店主の支払い分を含む)は約7500万円、そのうちの約40%が補助金で賄われた。敷地が約528平方㍍(約160坪)であるから坪当たりに換算すると47万円弱の投資ということになる。

一番お金を掛けた施設がトイレの900万円だから、まちづくり事業の費用としてはかなり少額であった。その北の屋台第2期の最盛期には年間18万人以上の客を集め、3億2千万円以上の売上げがあったのであるから、いかに投資効率の高い事業であったかが分かろう。

全国各地の「まちづくり団体」が最も苦労している点は、活動資金の捻出だ。大きな事業には初年度こそ補助金は付くものの、せいぜい3年で打ち切られる。補助金がなくなったら活動を停止するのではまちづくりとは言えないから、メンバーが自腹を切って活動を継続しているケースがまま見られる。

北の屋台は、40%の補助金以外に掛った費用を金融機関から借りたが、私が卒業するまでの(当初の土地の賃貸借契約期間)6年半で既に全額の返済を終えた。だから、2007年から延長した契約期間10年間のなかで、かなり潤沢なまちづくり用の資金を作り出すことが可能な体制になったわけである。

このように自前で活動資金を生み出せる事業というのは全国のまちづくり事業においては稀有の存在だ。

今年3月中旬から始まる第4期には、まちづくり会社「まちづくり元気おびひろ」との共同の事業もおこなわれるようだ。

北の屋台には、家賃から得られる安定的で潤沢な資金を、今後の公的なまちづくり活動に有効に活用してもらいたいと願っている。


■2011-02-24-Thursday 引っ越し

私のブログの

愛読者の方々から、最近の私のブログに対して色々なご意見やら感想やらを頂いている。

以下に書くことは、勘の鋭い、私のブログの愛読者の方なら、何のことを書いているのかは一目瞭然だと思うので、あえて書かずにおく。

この2月下旬から3月下旬にかけては引っ越しの最盛期だが、引っ越しを経験された方なら、良く理解できるはずだ。

私の娘も、この2月に東京で引っ越しをするが、その掛かる費用は、引っ越し専門の業者に依頼して、2〜3人の人員でトラック1台分の荷物を都内の別な場所に移動させるのに4万円程度の費用である。

私はそれでも、やはり東京は引っ越し料金も結構高いんだなぁ〜と思っていた。

それが、この帯広市内で、引っ越しする距離はわずか数メートルなのに、しかも荷物もせいぜいリヤカー1台分くらいの量でしかないのに、数十万円もの引っ越し料が掛かるのだと云うから驚いた。

アパートやマンションの引っ越しの際には、部屋に引っ越す前に、大家が、部屋を綺麗な状態にしてから貸すのが、不動産業界の常識と云うものだ(私の本職は一応、不動産賃貸業である)。

店子は、家財道具や電気器具を運び込んで、蛇口やコンセントに繋げばその日から生活ができる。引っ越す方はそれだけで良いわけである。

今回のケースは、同じ場所での引っ越しであるから、若干事情が異なるかも知れないが・・・。

前に借りていた店子が、とても汚く使った場合や建物に損傷を与えた場合などには、退去する際に修繕費として、店子から預かっている敷金の中から費用を貰って手直しする場合もあるが、最近の裁判所の判例では、通常の使用によって汚れた程度のものの場合は、店子は修繕費用を負担しなくても良いことになっている(例えば畳、畳みの日焼けで色が変った場合やテーブルの足を乗せて凹んだ様な場合も畳みの張り替え費用は大家側の負担である)。

新しく貸す為に綺麗な状態にする費用は、大家として当たり前で、その費用は最初から家賃に含まれているという考え方だ。

店子の使用状況が悪くて、建物が酷く痛んだから、現状回復費という名目に掛かるのか?とも思ったが、現状回復費というのは、元の新築時の状態にまで戻すことではない、というのももはや常識である。

百歩譲って、たとえ壁と床を全部貼り替えたにしたところで、そこはとても狭い所だから、それでも、そんなに高額な費用が掛かる訳はないし、それはそもそも大家の負担で行うべき工事の分野なのである。

業者もきっと、見積書の数字を、0を一つ多く書き間違えて提出してしまったのか、それとも大家に請求すべきところを誤って店子に請求してしまったのかも知れない。

ひと頃、ニュースで老人に対するリフォーム詐欺に気をつけろという特集があったが、やってもいない工事代金を請求したり、不要な工事をやらせたりということは、業者の倫理としてやってはいけないことだ。

来店して下さるお客さんの為にも、綺麗で衛生的にしなければならないのはこれまた常識だが、いくらなんでも引っ越し費用が数十万円は掛かり過ぎなのではないだろうか?


■2011-02-25-Friday 足痛

22日の夜の

風呂上がりから右の足首がズキズキと痛くなってきた。(この文章は23日午前中に書いている)

時間と共に痛みが段々と激しさを増し、ベッドに入っても益々痛くなってきた。

どの体勢を取っても痛くて眠れない。遂に一睡も出来ずに朝を迎えてしまった。ベッドから起きようとして、健康サンダルを履いたら、痛くて右足に体重がかけられない。ピョコタン、ピョコタンと無様な格好で、トイレに行った。

昨夜、足が痛くなり始めてから、原因をアレコレと探しているのだが、まったく思い当たる節がない。転びそうになったわけでもないし、足首をクキッと捻った覚えもないからだ。

足の痛みは座っていてもズキズキと痛む。このままでは、仕事にも差し支えると思い。医者は嫌いなのだが、整形外科に行くことにした。

家の外に出た途端に思い出した。そういえば、昨日22日は昼間の気温がプラス3℃もあったので、家の前の氷が浮いた状態になっていた。

この氷が浮いた状態というのは、北海道でも極寒の場所でしか見られない現象だから、少々説明しよう。

アスファルトなどの路面に雪が降って、それを除雪せずに踏み固めて圧雪状態にしてしまったら、翌日にはその圧雪が氷に変化して、その2〜3㎝程度の厚さの氷が、玄関先の通路に春になるまでへばり付く。

太陽の光が良く当たる場所と日蔭の場所とができるが、春になって温かくなってくると、その日の当たる場所の路面が太陽熱で融けて現れてくる。アスファルトの路面は、昼の間に太陽の熱を吸収して温まり、廻りの氷を溶かしていくが、夜間になると再び凍る。それを何度か繰り返していると、氷とアスファルトの間に数ミリ程度の僅かな空間が生じるのだ。その数ミリの浮いた氷の上に人間が乗るとミシッと音を立てて氷が割れる。この光景は春の風物詩と言っても良いくらいだ。

子どもの頃は、その浮いた氷を足で割って、割れた氷の塊を除去すると、路面の雪解けが早まるのである。時にはツルハシやスコップ等でその氷を割ったり、路面から剥がしたりするのが好きな作業なのだ。

22日に帰宅した際に、家の前の玄関先の氷がこの状態になっていたから、右足の踵で氷を割って、路面を現わす作業を少しだけやったのだった。きっと、原因はそれしか考えられない。

整形外科の医者にその話をしたら、笑いながら「坂本さんも、もういい年なんだから、そういう子どもみたいなことはやらない方が無難ですね」と言われてしまった。レントゲンを撮ったが骨や腱には異常がないという。衝撃で痛くなったのだろうと思うということで痛み止めの注射を打って2日分のシップ薬をもらっただけであった。

ただ医者が言うには、もうひとつ考えられるのは「痛風」ということも考えられるので痛みが治まらなかったら、もう一度見ましょう。ということだった。

エ〜ッ痛風って足の親指の先っぽが痛くなるんじゃ〜ないのか?足首が痛くなって歩けなくなることもあるのか?

確かに健康診断で尿酸値が高いと言われていたし・・・。このところ大好きなビールで焼き鳥のレバーを食べることは控えているのに・・・。

まぁ、2、3日様子を見ることにしよう。

あんな程度のことで歩けなくなるなんて・・・。


■2011-02-26-Saturday 座談会・NZ

24日は札幌で

雑誌の座談会があった。

「北海道市町村職員向け政策情報誌プラクティス」の第6号の特集「まちのセールスマンになる」の座談会が札幌京王プラザホテルで行われた。

コーディネーターは北海道大学観光学高等研究センターの臼井冬彦得任教授、パネラーに釧路市産業振興部観光振興室の渡部港吾室長補佐、同じく長沼町産業振興課の山科隆男課長、そして私の4人による座談会である。

前日に、右足首が痛くて歩けない状態だったので、札幌駅から会場の京王プラザまでの距離は500m程度なのにタクシーで移動しなければならないかと思っていた。まだ若い中年男性が、わずかワンメーターで駅待ちのタクシーに乗ったら顰蹙ものだと考えていたのだが・・・。

医者は嫌いだが、でもやはり医者はスゴイ! 言われた通りに、本当に1日で完全に治ってしまった。朝起きたら、まるで普段と同じ状態に戻っていたのである。

お陰で、歩いて会場まで行くことができた。

座談会の内容は後日、雑誌で紹介されるので、サラッとだけ書けば「まちのセールスマン」というのは意図しなくても、自分が楽しいと思うことや、物語性、蘊蓄があることなどは、自然に人々が口伝えにして広めてくれる。それを後追いでメディアが報道してくれるのでは・・・。

というような話であった。

25日は気温が5℃と高く、昨晩の雨で、雪がスッカリ融けた。例年よりも1ヶ月ほども早く路面が表出したように感じる。これも温暖化の影響なのか?

ニュージーランド(NZ)の地震の被害が大きいようで心配だ。一人でも多くの方が救助されることを祈るばかりだ。

日本人がNZに3000人も行っているとは知らなかった。今、NZは語学留学の人気の場所なのだという。

私は大学1年生の1976(昭和51)年の7月末〜9月初旬までの夏休み期間の35日間ほど、NZにライオンズクラブの交換留学生として行っていた経験がある。当時はまだNZとの直行便もない時代で、私たちが第1回目の交換留学生であった。

私が行ったのは北島だけだったが、南島のクライストチャーチは一緒に帯広から派遣された笹川君が行った場所である。

私は英語は元々不得手であったが、最初に派遣された北島の一番西側の街、ニュープリマスの受け入れ家庭に入った時には愕然とした。NZ人の会話がまるでチンプンカンプンで、一言も聞きとれないのだ。

NZは母音の発音がイギリス英語と異なる。aを「アイ」、eを「エー」、iを「イー」と発音するのだ。

日本で言えば、かなり、なまりのキツイ東北に行った様な状態なのだ。

1ヶ月間、日本人とほとんど合わずに一人だけでホームステイしていたから、帰る頃にはそこそこの会話が出来るようになっていたが・・・。

帰国後、得意がって外人と話したら「お前の英語は訛っている」と言われて恥ずかしくなって以来、逆に話せなくなってしまった経験がある。

それが、いまや外国語研修留学の人気の場所だというから驚きだ。

NZが地震が多いというのは知らなかった。ニュースでみると南島の真ん中を活断層が走っているようだ。でも北島では地震の話は聞かなかった。北島ではあまり地震がないのかもしれない。

地球のあちこちで、火山の噴火や地震や洪水などの被害や、紛争などが起きている。日本の自宅に居ても、安心できないのだから、災害に合うことは避けられないのかもしれないが・・・、

日本のテレビ局は日本人が犠牲になっている可能性があると連日そればかり報道するし、もっと大きな災害が起きても、日本人が関係していなければ実にアッサリと報道をしない傾向にある。

報道なんだか、視聴率稼ぎなのか、何だか良く判らなくなるなぁ〜。

遠い外国で災害に巻き込まれると、日本に居る家族の心配は大きい。だが、そんな時にすぐに現地に家族が飛んで行ける国は、日本ぐらいらしい。なかなかよその国では、そんなことは出来ないようだ。

日本に暮らしている有難味を、日本人はもっと理解した方が良いと思う。


■2011-02-27-Sunday マイヒストリー49

2005年も相変わらず

取材、講演などに忙しい日々を送っていた。

2005年1月13日に内閣府の官僚と大学教授が一緒に、私のところに取材に訪れた。ごく普通の取材であったが、これは後に「観光カリスマ百選」の選定の為の取材であったことが判る。だが、この時点ではまだそのことは知らなかった。

2月に入って4・5日と札幌で講演をして帰宅した後、身体がだるい。翌6日は日曜日だったので自宅で休んでいたが、熱が出てきた。月曜日に医者行ったら、インフルエンザだと言う。10日から静岡県浜松市で講演のスケジュールが入っている。2004年から何度も静岡県では講演を頼まれており、楽しみに待っていてくれる方もいるから、今回も何としても講演を休む訳にはいかないので、4日連続(7〜10日)で点滴を打ってもらって、フラフラになりながらも11〜13日まで浜松市商工会議所婦人部での講演をしてきた。この間ずっと体調が悪く、13日に帰宅したが、14日にも点滴を打ってもらって何とか持ちこたえたのだった。インフルエンザは怖い病気だ。

ここ数度の静岡県での講演で、静岡県に私の「ファン(?)」ができたらしいのである。今度は3月25・26日にも静岡県島田市の商工会議所婦人部から講演の依頼があった。2月の講演の時にインフルエンザの熱の為に、ウルウルした眼で講演をしていたから、母性本能でもくすぐったのかもしれない。3月の講演では元気一杯に講演をしたので、「アラッ、何だかこの前の時とは随分雰囲気が違うわね〜」と言われてしまったのだった。

19日に十勝川温泉の大平原ホテルで開催された、北海道の水産関係者の全道大会で講演を依頼され、終了後に懇親会にも出席してきた。

インフルエンザからまだ十分に回復していなかったが、漁業関係者は皆、酒が強い。私のところに注ぎに来て、「坂本さん、先ほどの講演で、アスパラガス(6月に北の屋台でおこなったアスパラフェアー)の興味深い話を聞かせてもらったが、十勝には畑だけじゃなく海もあるんですよ。今度は是非、海産物を使ったフェアーをやって下さい。そうだ!10月にししゃもでやりましょうよ」とその場で、10月のししゃもフェアーの話がまとまってしまったのだった。

25〜27日まで、十勝で「スローフード・ジャパン」の全国大会が開催された。懇意にしている「スローフード・フレンズ帯広」の湯浅優子会長から、27日に十勝プラザで開催するシンポジュウムのコーディネーター役をやって欲しいとの依頼があったので、簡単に引き受けたら・・・。

スローフード・ジャパンは2004年10月に立ちあげたばかりで、今回の十勝で開催される大会は、その記念すべき日本での第一回目の大会なのだという。しかも、イタリアのピエモンテ州ブラという街にある本部から、カルロ・ペトリーニ会長が、初めて来日してこの大会に参加するのだというではないか。2月は忙しくてまともに打ち合わせもしていなかったので、焦りまくってしまった。

そんな中、24日に内閣府の役人から「観光カリスマ百選」に選出されたとの嬉しい知らせが入ったが、あぁ1月の取材がその下調べだったんだとようやく分かった次第、3月18日に正式に授与された。「観光カリスマ」は日本全国から観光事業に功績のあった人間(個人であり、団体ではない)百人を選び出して表彰する制度で、私は「屋台村を核とした観光・地域づくりのカリスマ」ということで表彰された。地域別でみると北海道は都道府県では一番多くて7人(現在は6人)選ばれている。現在「観光カリスマ」は諸事情(会社の倒産や死去)で100名を切っているが、補充は一切されないとのことである。

25日の北海道ホテルで開催された夕食会に出席したが、趣味のマジックが役立った。マジックは言葉が通じなくても現象は世界共通だからだ。イタリア人は大袈裟に喜んでくれたのだった。(つづく)


■2011-02-28-Monday フィギュア・シンクロ

27日に横浜市

新横浜スケートセンターに於いて、「2011ジャパン シンクロナイズド スケーティング オープン大会」が開催され、私の長女がキャプテンを務める「神宮アイス・メッセンジャー・グレース」チームが昨年に続き優勝して二連覇を達成した。

「シンクロナイズド・スケーティング」というのは、16名の選手がフィギュアスケートを履いて、団体で滑る競技で、水泳のシンクロナイズド・スイミングとフィギュア・スケートのアイスダンスの要素を融合させた競技である。

フィギュア・スケートのシングル競技と同じに、ショート・プログラムとフリー・スケーティングの2種目の合計点で競うのだ。

近年、日本のフィギュア・スケート界は選手層も厚くなっているから、段々と選手のレベルが高くなってはいるものの、同程度の高い実力を持った選手を16名揃えるのは至難の事だ。

妻が横浜まで観戦に行っているが、昨晩の7時半頃に、電話が入って優勝を伝えてきた。

妻の両親は、早く結果が知りたくて、気を揉んでいた様で、我が家に電話をしてきたが、妻はリンク内からは電話が出来ずに、息子の携帯にメールで結果を送っていたのだ(私は携帯電話ではメールのやり方が分からない)。息子は姉の事などまったくの無関心だから、私に伝えることもしていなかったのである。息子から聞いてすぐに妻の両親に結果を伝えたのは言うまでもない。

しばらくして、リンクの外に出た妻から電話が入ったのだった。

翌朝、28日の8時からフジテレビ系列の小倉智昭が司会をする「とくダネ!」と云う番組で特集を組んでくれるというので、DVDをセットしておいた。

8時から見ていたが、フィギュアの特集のコーナーはなかなか始まらない。9時15分頃からようやく始まった。

今大会の10日前から、テレビ局の密着取材があったとのことで、担当の中野美奈子アナウンサーが神宮のリンクにも来たとのこと。

長女がキャプテンを務めているので、普段の娘の生活を撮りたいので、娘のマンションの部屋を撮影したい、との、テレビ局の要望もあったようだが、その相談を受けていた妻は「貴女のあの超汚い部屋がテレビに映されたら嫁の貰い手が無くなるから、それだけは止めておいた方が良い」とアドバイスしていたのを、私は側で笑いながら聞いていた。

今回の優勝で、4月にフィンランドで開催される世界選手権に日本代表チームとして参加することが決まった。

去年、アメリカのコロラドスプリングスで開催された第10回世界選手権大会には私も応援に行ったが、日本は出場23チーム中、ショート10位、フリー9位で総合は10位であった。

今年は、一桁台の成績を目指して頑張ってもらいたいと思う。

果たして妻は今年の世界大会に私も連れて行ってくれるだろうか?これからゴマをすらなきゃ。