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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2011-04-01-Friday 原発不要論3

31日の新聞によると

東電の勝俣会長(清水社長は高血圧で入院したとか、トップが逃げてどうする?)は福島第一原発を廃炉にする方針を明言し、政府も枝野官房長官が廃炉にすべきだとの見解を表明した。(この文章は31日午前10時に書いている)

燃料棒を冷却する為に海水を注入した時点で使い物にならなくなっているから廃炉は当然で別に驚きもしなかったが、その掛かる費用と期間の長さにはビックリしてしまった。

私は原子力のことについてはまったく疎いのだが、新聞によると、ごく普通の原発、例えば茨城県東海村の原子力発電所は1998年に営業運転を終了した後、2021年まで23年間も掛けて廃炉を段階的に進めていくのだという。その費用が890億円だそうだ。

事故のない(東海村は過去に事故を起こしているが)原子力発電所でさえ廃炉にするのに、これだけの期間と費用が掛かるというのである。

ましてや、今回、事故を起こした福島第一原発は、周りに放射能物質がバラマカレているのだから、東海村の原発の廃炉よりは手間も費用も数段掛かるであろうことは、どんな素人が考えたって分かる理屈だろう。

福島第一原発の場合は1機1000億円として1〜6号機まであるのだからザット換算しても6000億円である。

放射能が出続けているのなら、作業は遅れるだろうから、倍近くは掛かるであろう。1兆円を超えると試算している専門家もいるようだ。

完全な廃炉まで掛かる期間も50〜100年なんて書かれている。

チェルノブイリは廃炉になった後、すでに25年も経っているが、半径30km以内は2010年まで立ち入り禁止区域になっていたはずだ。

福島第一原発の場合はどうなるのだろう。まだ新聞ではそこまでは書かれていないが・・・。

原発は造る時にも多額の費用が掛かり、操業時にも安全対策に費用が掛かり、運転が終わった後も20数年掛かりで900億円近くを掛けて廃炉にするならば、コスト面からみても、安価とは言えないのではないのか?

おまけに、燃料の原子力の処理は、現代化科学では出来ないから、現代は地下深くに保存しておいて、未来の科学にその処理方法を依存するというのも無責任な行為ではないのか?

未来にツケを回すようなものだろう。

日本のエネルギー政策は、根本から考え直すべきだろうと思う。


■2011-04-02-Saturday 初心

初心忘れるべからず

人間、驕ってはいけない。常に創業時の気持ちに立ち返って満心を戒めなければ成長はない。

北の屋台は「屋台」である。長屋でもないし、店舗でもない。

では「屋台」の基本とは何なのか?

それは商売の原点である。

「建物」の店舗をまだ持つことが出来ない人が「屋台」で商売を始めて、商売のノウハウを身に付け、お金を貯め、固定客を獲得し、そうして「屋台」を卒業して「店舗」へと発展していくのだ。

当然のことながら、「屋台」には法律も含めて制約が多い。

しかし、その制約のある中で、工夫をして商売をするところに屋台の妙味がある。

屋台の大きさというのもその制約の一つであろう。

日本で一番、屋台が集まっている福岡博多の屋台を例に考えてみよう。

屋台は法律に依って大きさが決められている(3×2.5m)。移動・組立・撤収も毎日しなければならない。おのずから、一日の商売で持ち運べる食材の量や飲み物等の量と種類には限度があるから、天候や客数などを考慮しながら、店主が判断して決めるのである。

制約のある中で、各屋台店主が最大限の知恵を使って、出来うる限りの効率的な商売をしているのだ。

「北の屋台」は「屋台」と名乗っている以上は、「屋台」の精神や商売のやり方を踏襲して欲しい。それが私の考えた「北の屋台」創業の原点である。

「屋台」だから店は狭いだろう。狭いから不便だろう。

「屋台」だから寒かろう。

では、狭いから屋台を大きく拡げるのか?

寒いから、がっちりした高気密な壁でも造るのか?

そんなことをやるなら、それは「屋台」ではない。

「屋台」が狭くて不便で寒いなら、サッサと「屋台」を卒業して、自分の自由に出来る店舗を構えれば良い。客単価を上げる為に、たまにしか出ない高級酒を常時、屋台に置いていたり、またはお酒をボトルでキープしたりなんて、大きさの制限がある屋台のやることだろうか?

工夫することをヤメ、屋台の精神を忘れた店主は「北の屋台」には似合わない。

与えられた条件(法律・大きさなど)の中で、工夫しながら商売をするから勉強になるし、また周りも協力してくれるのだ。

「北の屋台」が屋台であることを忘れ、普通の飲食店の集合体になったのなら、最大の特色を自ら捨て去ることにもなる。

各々の屋台が勝手なことを始めたら、「屋台村」としての意味をなさない。

福岡博多の屋台は「個」であるから法律の壁を突破できなかった。北の屋台は、本来「個で」である屋台を「団体」化することで、諸問題をクリアにしてきたのだ。団体としての意義を失ってしまえば北の屋台は瓦解してしまう。

団体を引っ張っていくには「理念」の共有が重要だ。その「理念」をあいまいにしてしまったり、忘れてしまえば「北の屋台」の存在意義が無くなる。

もう一度書く「初心忘れるべからず」である。


■2011-04-03-Sunday 震災の影響

東日本大震災から

24日が過ぎて間接的な被害が出て来た。

東北地方の工場が被災したことで、紙やインクが足りなくなり出版業界が困っている。同様に工場が被災したビール、タバコなどが品不足になってきているようだ。これらは直接的な被害だが、納豆のケースを包むフィルムが無くて納豆が品薄になったりしている。関東では東電の計画停電の影響で工場が動かせずにヨーグルトが品不足になっているそうである。

また自粛によるキャンセルが相次いでいる飲食業界や観光業界は、それに輪を掛けて福島第一原発事故の影響で外国人が日本から逃げ出して従業員が足りなくなったり、外国人客のキャンセルも増えて、まるで商売になっていないということだ。

福島第一原発事故は依然として終息する気配を見せていない。いや、むしろ状況は悪化しているように感じる。

今日のニュースでは放射能に汚染された水が、海に流出しているという。黒潮の流れのある太平洋側の水産業界は、これでまた海産物の風評被害が出て大変な事態になりそうである。

なにか有効な手立てはないものなのだろうか?

次女が、今年3月に大学を卒業したが、地震の影響で卒業式は中止になった。また去年の就職氷河期にあって、希望する企業が募集をせずにいたので、日本での就職を断念し、この3月末にワーキングホリデーでカナダに行ったのだが、今回の地震の影響で折角就職が決まった人たちも内定取り消しなどが増えているという。

私の人生訓は「人間万事塞翁が馬」であるが、なんだかそれをそのまま行っている様な感じである。

現在、次女はカナダでホームステイしながら、就職先を探しているところだが、カナダでは「貴方は日本人か?家族は大丈夫か?原発の影響はないか?」と聞かれるそうだ。

彼の地での報道では日本の政府の発表よりもかなり悲観的な見解が述べられているとのこと。果たしてどちらが正しいのだろうか?

この次女とは毎日スカイプという無料のコンピュータソフトで通信している。顔と声が見られるからカナダに行っているという感覚がしない。

これが無料だなんてとても信じられない。世の中は一体どうなっているのだろうか?

便利な世の中というのも結構なことだが、便利過ぎるのもまた困りものだと思う。世の中、ほどほどが一番だ。

吾唯足知(われ、ただ、たるをしる)が日本人には必要なのだと思う。


■2011-04-04-Monday 放射能汚染水

今日のニュースで

政府は福島第一原発で、濃度基準の100倍の放射能に汚染された水1万トンと500倍の水1500トンを、やむを得ず海に放出するという。より大きな危険を回避するためだという。

エッ、より大きな危険って?

東電の発表時に説明した人間が涙ぐんでいたが、これは益々不安を煽ってしまう。こういう時に発表させる人間をキチンと選べよと言いたい。

でも逆に、それだけ逼迫しているということなのかも・・・。

海に高濃度(東電は低濃度と言っている)に汚染された水を、コンクリートの割れ目からの漏出ではなく、自ら放出させるということは、よっぽど切迫した状況になっているってことなのだろうか。

素人的な考えだから正しいかどうかは分からないが、メルトダウンの危機をまだ脱していないどころか、その危険が迫っているということなのではないだろうか。

放射性物質の量は、2号機の炉一機だけでウランが94トンもあり、広島型原爆の1200倍以上の量だと新聞に書いていた。それが4個ないしは6個あるということは・・・・。

想像したくはないが、最悪の状況を想定しておかないとパニックになってしまう。

もし、なんとか最悪の状況を脱せられたとしても、この水の放出は、漏出の比ではない風評被害を生み出すだろうことは想像に難くない。

海水で希釈されるというが、人間心理としては過剰反応がおこるだろう。

水産物がダメになれば、日本の台所は食べるものが無くなる。寿司屋など魚を扱う商売あがったりだろう。

メルトダウンが起きたら、どれくらいの地域に被害が及ぶのか、政府は公式に発表しないが、もし、一機がメルトダウンしたら、もはや近くには寄れなくなるのだから、6機全部がダメになる可能性だってあるだろう。そうなると半径600㌔で北海道から大阪近くまで届いてしまう。早くなんとか収めて欲しいものだ。


■2011-04-05-Tuesday 世界大会

フィギュア・スケートの

第11回シンクロナイズド・スケーティング世界大会がフィンランドの首都ヘルシンキで7日から開催される。

シンクロナイズド・スケーティングとは16名の団体で滑る競技で、フィギュア・スケートのアイスダンスと水泳のシンクロナイズド・スイミングを足したような競技である。

日本ではまだまだ知名度が低いが、北欧やカナダ、アメリカなどではとても盛んなスポーツである。

長女がキャプテンを務めているチーム「神宮アイスメッセンジャーズ・グレース」は2月末に開催された日本選手権大会で優勝し、この世界大会に参加することが決まっていたが、選手壮行会が開催される予定だった3月11日に、東日本大震災が発生し、神宮のリンクも天井が落ちるなどの被害が出て、その後の練習もままならない状態であった。

日本で開催される予定だったフィギュア・スケートの大会は外国選手が放射能に汚染された日本に来たがらずに中止になった。

こんな状態で世界大会に行けるのか不安であったが、日本スケート連盟は派遣を決めたのであった。

娘の所属するチームは昨日4日に成田空港を出発し、無事ヘルシンキに到着したという連絡が入ったのでホッとした。

昨日、出発するまでは、やれフィンランドの航空会社が日本に飛んで来たがらないとか、日本から無事に到着しても、ヘルシンキの空港で放射能検査をして、チームの内の一人からでも放射能が検出されたら全員、日本に強制送還されるとかと言われて驚いていたのだ。

まさかそんなことにはならないとは思っていたが、到着するまでは心配なのが親心というものである。

何とか頑張って、去年アメリカのコロラドスプリングスで開催された世界大会の順位を上回って欲しい。

娘は高校はフィギュア・スケートの金メダリスト荒川静香を輩出した仙台の東北高校にお世話になった。今回は宮城県も大変な被害を受けており、娘のかつてのクラスメート達もボランティア活動をしているという。フィンランドから帰ってきたら娘も参加すると言う。

そのためにも、皆が元気になるような立派な成績を挙げてもらいたいものだ。


■2011-04-06-Wednesday 疑問?

今回の大震災においても

いくつかの疑問が湧いてきた。

全国各地から集められた巨額の義捐金というのは、いったい何時、どんな方法で、どういう配分で配られるものなのだろうか?

すでに25日が過ぎ、被災者の方々も今後の生活を考えなければならない時期に来ていると思うのだが、家も仕事も無くした方々に希望を与えられるような明快な配り方を一刻も早く実施してもらいたいものだ。

福島第一原発事故に関しては疑問点が多い。

ついこの前まで、必死の思いでハイパーレスキュー隊等の方々が放水作業をしていたのに、現在はどうなっているのだろうか?放水しているというニュースは見かけなくなったし、冷却水の循環システムが作動したという話はまだ聞いていないが、水を掛けなくても大丈夫なのだろうか?

それとも、高濃度汚染水が海に流出していまうから放水できないのだろうか?それなら燃料棒の温度は上がってしまわないのだろうか?

昨日、低濃度の汚染水を海に放出する作業をおこなったが、韓国からも非難が来たように、近隣諸国に連絡をせずに行ったとのこと、会見では緊急の措置でやむを得なかったとのことだが、それだけ逼迫している状態なのだろうか?

東電は、福島第一原発で発電していた分の電気が不足するからと、計画停電をやったりやらなかったりしているが、本当に足りないのだろうか?

この際、政府は法律を改正して、東日本と西日本の周波数を統一したり、ゴミ処理場の焼却熱で発電したり、各家庭にソーラー発電装置を設置させたり、すれば間に合うような気がするのだが・・・。

電力会社に独占させるから非効率的な発電や配電になっているのではないのだろうか?

電力会社のテリトリーや既得権をこの際、全てヤメサセタラ日本の電気事情は大きく好転するのではないかと考えている。

電気が足りないというのは、電力会社のプロパガンダではなかろうか?

今回の大震災を奇禍として、日本のこれまでの悪しきシステムを根本から治すきっかけにしてもらいたい。

そうすれば亡くなった方々も少しは報われよう。


■2011-04-07-Thursday マイヒストリー56

2006年6月9日に

札幌の北海道大学の遠友学舎という建物で、北海道大学の小林英嗣教授の還暦のお祝いの会が開催され、教え子や関係者らが集まった。何故だか私がこの会の実行委員長ということになっている。私は北大の出身ではないし、離れた場所の帯広市に住んでいるのに・・・。小林教授とは2001年9月11日(アメリカで同時多発テロ事件があった日)に、帯広市のまちづくりの委員会で初めてお会いしてからのまだ短い縁でしかない。

以前にも書いた記憶があるのでサラリとだけ触れておくと、この2001年9月11日は北海道には珍しく大型の台風が襲来しており、北大のポプラ並木が根こそぎ倒れたという強風の台風であった。帯広市役所でまちづくりの会議を終了し、初めて会ったばかりの小林教授が北の屋台で飲みたいと言われて、台風の中を屋台で一緒に飲んだのがお付き合いの始まりである。この日は色々な意味で印象が深い一日となったのであった。

以来、親しくお付き合いをさせていただいているが、この程度のお付き合いで還暦祝いの実行委員長をさせて頂いたのはとても光栄なことであった。

2006年4月から札幌の道庁で「北海道総合開発委員会」という北海道の2008年からスタートさせる今後10年間(2008〜2018年)の開発計画を立てる委員会の参事に就任した。十勝からのメンバーは私と砂川市長(当時)(北海道市長会の代表として参加していたが出席は最初の会だけであった)の2人だけで、どうしても札幌を中心とした道央圏の意見が強くなりがちだ、それ以外の道東の地方としての意見を発言しなければならないから責任は重大である。私は計画部会にも配属され、毎月のように札幌に出ては会議に参加して積極的に発言した。とても忙しい中だったが、欠席したのは1回だけだと記憶している。この委員会は2008年からこの計画がスタートしたが、経過を見続けるということで現在も参事として活動している。

8月5・6日(土・日)に銀座にある常盤小学校を会場にして「全国まちづくり会議」が開催された。前年は新宿の工学院大学で開催された催しである。発起人の一人に名を連ねているので、7日に札幌で、先に書いた「北海道総合開発委員会」があるという強行スケジュールの中、出席して、会議のコーディネーター役を務めたのであった。

8月9・10日に台湾から北の屋台の視察に安福さん一行が来られた。北の屋台を案内しながら一緒に食事をしたのだが、とても感心した様子だ。翌週の17日に再び訪れて、10月の台湾の祭りで北の屋台のブースを2店舗出展して欲しいというのだ。2店舗の屋台の製作費、(1店舗2名分の)人件費、旅費、宿泊費を台湾側が支払うという。台湾の屋台とは異なる北の屋台の雰囲気をお祭りに紹介したいと言うのだ。監督として私の同行もお願いしたいという。急な話なので、北の屋台の全店主を集めて会議を開き、皆の意見を聞いたら、「誰が選ばれても文句は言わない。北の屋台の代表として台湾に送り出したい。2店が抜けている間も残った屋台が頑張って北の屋台を繁盛させる」と言うので、組合としても台湾行きを了承することにした。

その後、札幌の業者を間に入れて、詳しい条件や内容を詰めていくのだが、話す度に段々と条件が厳しくなっていく。

最初は売り上げのノルマもないし、北の屋台の雰囲気を紹介するだけだと言っていたのだが・・・、1日に売り上げを○○は上げて欲しいとか言い出すのである。10席の客席に座らせる北の屋台方式では、先方の言う売り上げは到底無理な数字なのである。

それでは、話が違うとキャンセルしたら、再度、日本の業者が何とか台日友好の為に頼むというので、台湾に行くことになっているラーメンと小料理の店主に再度聞いたら、とてもそのノルマはこなせないとの返事。結局、2ヶ月もの交渉は無に帰したのであった。

8月20日に渋谷のNHKで、全国のまちづくりの成功事例の紹介ということで、北の屋台と島根県の松江市の紹介をメインにした番組の収録があった。前日の19日に東京入りして打ち合わせを行い。夜は渋谷の居酒屋で司会の関口博之さんらスタッフと会食をした。一緒に出演する松江のお茶屋さんがよくしゃべる方で居酒屋ではほとんど独演会であった。

私は1999年に台湾の屋台を視察しているから「北の屋台は台湾の屋台の様にテイクアウト型の屋台ではないから、客の回転が悪くて、それだけの経費を掛けたら、商売にはならないよ」と忠告したのだが「商売としてではない。台湾とは違う屋台文化を紹介したいのだ」と言うのだ。

翌20日の収録本番でディレクターから、スーツ姿ではなく、北の屋台のロゴ入りTシャツを着て欲しいとの注文があった。一応、依頼があったので持参はしていたものの、この醜く飛び出たお腹にTシャツ姿は似合わない、何とかお願いしますとのことなので、渋々、Tシャツ姿になった。少しでもお腹をスマートに見せようと、収録の間中、懸命にお腹を引っ込ませていたので、かなり苦しい撮影であった。せっかくお腹を引っ込ませていたのに、家族からはお腹が出ていて格好悪かったと悪評ふんぷんであった。テレビの映像では太って見えるのだが常識なのだが・・・。

この後も、9月2日に札幌でHBCラジオの収録、5日に月刊誌「潮」の取材、9日に月刊誌「プレジデント」の取材など、大手の雑誌の取材が立て続けに入ってきた。少し目立ち過ぎだったのかもしれない。(つづく)


■2011-04-08-Friday マイヒストリー57

2006年になると

地遊舎(冬の畑のレストラン、スノー・フィールド・カフェ(SFC)や幕別町のオーベルジュ・コムニ(AK)などを運営する為に、北の屋台の理事者の有志5名で作った会社)の雲行きが段々とアヤシクなって来た。

もともと赤字覚悟で運営していたSFCとは違って、AKは利益を出す為に始めた事業である。その利益でもってSFCの赤字を埋め、青年会議所(JC)仲間の、会社を倒産させてしまったTやSの職を造ってあげようという計画であったのだ。

当初の目論見は崩れ、毎月、毎月、AKでは赤字が続く。図体がデカイ分、赤字額も大きいのだ。

私は当初、100万円の株式の出資だけで、役員に入るつもりはなかった。だが、請われて取締役に就いてしまったのが、ケチのつき始めであった。私の父の「仲間内で会社経営をしてはならん」という遺言を破ってしまった報いであったかもしれない。

取締役として赤字を補てんしろと、数百万円を追加出資させられた。私は北の屋台の仕事が忙しいし、地遊舎が北の屋台で店舗のオーナー的な事をやっていることもあるので、特に私の場合は他の理事者よりも二足の草鞋は履きにくい立場にある。何度も辞めさせて欲しいと懇願したのだが聞き入れてもらえなかった。

赤字額が巨大になってきて、9月頃には、いよいよ地遊舎としての存続の危機になった。何度かの会議を経て、AKのオーナーに談判して家賃の値下げをお願いしてはどうか?ということになった。このままでは経営は難しい局面になっていたからだ。

2006年10月3日(火)に古季庵(地遊舎のT社長が個人的に買い上げた古いレンガ倉庫とその隣の民家を使った鍋物屋)でオーナー側と地遊舎のメンバーによる会議が開かれた。

結局、話し合いは決裂し、地遊舎側の家賃値下げの申し出は却下され、地遊舎はAKの運営から撤退することになった。

そうなると今度は負債の処理が問題になる。T社長は、北の屋台の第3期で地遊舎が屋台のオーナーになってその利益で返済していこう、役員全員の共同責任で平等に負担すべきだという主張である。

私は、T社長は、自らが社長は自分がやると宣言して始めた事業であり、経営の細かい数字も社長が把握していたのだから、社長の負担分が一番大きいと考えた。

私が地遊舎に出資した数百万円が戻らないことは覚悟をしたが、北の屋台を使っての返済には基本的に反対であった。

北の屋台には「弱者救済」の目的もある。その北の屋台の理事者が作った会社が、屋台のオーナーになって屋台を運営するのならば、例えば、金融機関からお金を借りられない人に対して、金融機関の利息よりも若干の率をプラスしてお金を貸すというならばまだ理解できる。

だが、一応300万円あれば店を開ける事が出来る北の屋台でそれ以上の額の負債を店主に負わせるのでは、北の屋台を始めた趣旨がまるで違ってしまう。

それは理事者としてはやってはいけないことだろう。

私はその板挟みになって苦しんでしまった。

T社長は、私に対して「お前だけ良い格好をするな!」と言ったが、私にとっての優先順位は北の屋台にある。T社長とは立場が異なるのだから、意見が分かれるのは当然のことだろう。「自分と異なる意見は一切認めない」というならそれは単なる独裁である。これまで何でも自分の意見が通ってきた人生を歩んできたのだろうが、一般社会では通用しないことが理解出来ていないようであった。(つづく)


■2011-04-09-Saturday マイヒストリー58

2006年10月に

北海道日本ハムファイターズがパ・リーグの優勝を決めた。

普段、野球には全く関心が無い妻が、日本シリーズを観たいと言い出した。日本ハムのダルビッシュ有投手は、私の長女の東北高校の同級生で、高校生時代から応援していたのだという。札幌ドームでの日本シリーズなら是非にも観たいと言うのだ。

それから、ネットですぐに日本シリーズのチケットを購入しようとしたが、売り切れ状態で全然手に入らない。「無理だ、諦めよう!」と言ったのだが、ネットオークションで購入しても行きたいというのだ。さぁ、それからコンピュータとにらめっこである。

ネットオークションでもなかなか手に入らなかったのだが、何故だか、25日(水)の第4戦の4席並びの席が安く手に入った。しかもネット裏の良い席である。何とか手に入れたのだが、この25日には私は東札幌の札幌コンベンションセンターでIBMの講演(16:00〜18:00)の予定が入っていたのだった。

妻を先に札幌ドームに行かせておいて、私が講演終了後に駆け付け合流したのだが、早くゲームが観たくて小走りで向かったのに到着したのは19時頃であった。妻はプロ野球のゲームを生で観るのはこれが初めてである。私も札幌ドームで観るのは初めてであった。お目当てのダルビッシュは登板しなかったが、岡島の変則投法も見られたし、SHINJOや森本などの活躍もあって日本ハムが3−0で勝利し、日本シリーズに王手を掛けたゲームであった。

試合時間が4時間13分も掛ったし、終了後に座席から出口に到着するまでが、これまたものすごい混雑で時間が掛る。結局、球場を出られたのは23時に近かったが、今度は外でタクシー待ちの大行列である。ようやくタクシーを捕まえて宿泊先の新札幌のシェラトンホテルに到着したのは0時を過ぎていた。札幌市内の主なホテルは満室でどこも予約を入れることが出来なかったのである。

観戦中はビールばかり飲んでいて食事をしていない。途中、トイレに立った時に何か食べ物を買おうかと思ったが、かなりな長さの行列が出来ている。北海道人は並んでまで買おうとは思わないから買わずに我慢した。

お腹が空いているが、妻は疲れたからホテル近くのコンビニでおにぎりを買って来て欲しいと言う。私一人だけでマクドナルドでハンバーガーを食べて、帰りにおにぎりを買って部屋に戻ったのだった。

翌26日は、午前中に契約が一件入っていた。これが、後に私が北の屋台を辞める(辞めさせられる)直接の原因になるのである。

その契約とは、北の屋台で営業していた「センナリ」さんとの契約である。

私の父とK原さん(不動産関係)という方の二人で所有していた物件で、父の死去後に私が相続した物件である。この建物は帯広市の中心街のド真ん中、六花亭本店の道路を挟んだ東側という最高の立地にある。 

この物件で、長らく衣料品店を営んでいた方が、7月までは契約更新をすることで話がまとまっていたのだが、8月になって急に融資が受けられることになったので、土地を購入して自分の店を持ちたいと言ってきた。独立されることは目出度いことなのでK原さんの息子さんと私は快く了承して送り出すことにした。

しかし、急な話だったので、すぐに次の入居者を12月までに募集して決めなければならなくなった。K原さんは不動産関係の仕事をしているので、情報を発信してもらうことにした。するとさすが、六花亭本店の東側という好立地もあってか入居希望者が殺到した。その中の一軒に、北の屋台の「センナリ」さんもいたのである。

「センナリ」の東(あずま)さんは、父親が帯広で「せんなり」という居酒屋を経営していたが若くして病没し、その後、東さんは東京のイタリアンレストランで修業していた。

北の屋台の第1期オープンの時には本人はまだ東京に居て、母親が応募してきたのである。その為「センナリ」は数日遅れでオープンした経緯があった。東さんは北の屋台入居当初から、帯広市内での出店を目指していて、良い物件がないかを探しながら、北の屋台で軍資金を貯めていたのである。

だから東さんにとっては、私とK原さんが所有する物件はちょうど、最高の場所が見つかったという訳である。東さんはすぐに私の会社を訪ねてきて、入居したいとの希望を伝えてきたのであった。

正直言って、私も迷った。北の屋台の第2期の残余期間は2007年の11月末日まである。北の屋台を運営するものとして、「センナリ」のような、お客さんが大勢付いている屋台が抜けるのはきつい。第3期が始まるまでの約1年間のツナギの方法も考え出さなければならないからだ。

東さんから入居の申し出があってすぐに、北の屋台の事務所で、K専務理事と女性職員2人に「センナリが六花亭の東側の私の物件に入りたいと申し込んで来たのだが・・・」という報告をした。Kは「そう、それは良いんじゃない。北の屋台は独立してもらうことが前提なんだから」と言う。残された問題は空いた後の屋台をどう運営するかだが、ちょうど1年間、期間があるから、空いた一軒を第3期の募集に先行させて、起業塾方式で運営し、残った19軒の屋台は普通に募集して、第3期は全20軒の屋台が3年間の一斉スタートをさせたら良いのじゃないかという意見にまとまり、その内容を理事者に説明する資料づくりが始まったのだった。

北の屋台の理事者5人で作っている地遊舎の会議でも数度もこのことを報告しているし、他の理事者にはKが報告することになっていた(が、これは後に分かったことだがKは報告をしていなかったのだ)。(つづく)


■2011-04-10-Sunday マイストーリー59

2006年11月7日(火)ついに

地遊舎はオーベルジュ・コムニ(AK)から撤退をした。

とりあえずの追加融資として10日に100万円を地遊舎に払ったが、その後の清算の方法では、T社長と私との意見は合わない。だが、他の役員たちはT社長には逆らえないような雰囲気なのであった。

14日夜に地遊舎の会議(これが私が出席した最後の会議になった)があったが、いつも会議の前にはメーリングでやり取りしているので、T社長に宛てて私の地遊舎整理の考え方をメールしておいた。

要点だけを書けば、役員全員が同等の負債を負うというのはオカシイ。T社長の責任が一番大きいと書いたのである。

私は、このメールを出したことによって、この会議では本音で話し合えると考えたのだ。しかし、予想に反して、T社長の言動は謙虚であった。

私のメールは全役員が事前に読んでいるから、役員皆が拍子抜けしたようで、O常務は「T社長は坂本さんのメールを読んでいなかったのではないだろうか?」と帰りの車中で私に言った。

事実はどうやらその通りだったようで、翌日になって私のメールを読んだT社長が激怒して「坂本は許さん!」ということになったようである。そこから、T社長による私への報復が始まったのだった。

11月28日夜に開催した北の屋台の理事会では「センナリ」の退店のことを議題にした。13日に「センナリ」から北の起業広場協同組合に対して2007年2月末日をもって退店するという退店届けが正式に提出されたからだ。

このことは14日の地遊舎の会議の席でも、北の屋台の理事者が5名も揃っていたからその場で発表しているのだ。

この理事会では、「センナリ」の空いた後を、起業塾方式で埋める具体的な提案を私がしている時に、T副理事長(T社長)が「ちょっと待て、センナリが退店して何処に入居するのかと言えば、坂本専務理事が所有する物件に入居するのだ。北の屋台は半ば公的な要素を持った活動であるから、他人から疑惑の目で見られるような行為は厳に慎むべきである。

今はコンプライアンスが重要な時代である。センナリはまだ北の屋台の第二期の期間中であるのにもかかわらず、それを解約させて自分の所有する物件に引っ張る行為は如何なものか。坂本専務は北の屋台を私(わたくし)している。この責任を取って辞任しろ。

今回の事も、自分がこの理事会に出席していなければスンナリと決まっていたことになる。他に会議の予定が入っていたがそれをキャンセルして出て来て良かった。私が出ていなければ他の理事はスンナリ了承していたことだろう。

北の屋台は坂本の独断で物事が進んでいる。ここに居る理事は事前にこのことを知らされていたのか?」と言い出したのだ。

9月にはK専務理事が伝えているはずであるのだが、H理事長は3日前に知った。S相談役とT監事は今日初めて聞いたと信じられないことを言うし、更に、K専務理事は「自分はアメリカ(帯広市とウィスコンシン州の友好親善)に行っていたから知らなかった」と我が耳を疑うようなことを言うのである。

私はこのことを理事会を開催して報告したかった。臨時理事会を開催したいとK専務理事に言ったら、K専務理事は「理事会を開く程の案件でもないだろう、坂本っちゃんは忙しいから、俺が理事者を廻って報告しておくから、理事会を開催する必要ないよ」と言うのである。

だから、Kのこの発言には呆れてしまった。

K専務理事は、理事者達に報告をしていなかったばかりか、自分まで知らなかったとほざいたのである。

傘にかかって、T副理事長が「見てみろ!このように坂本の独断専行で北の屋台の活動が行われている。許しがたい行為だ。北の屋台は坂本のモノではない。責任を取って辞めてもらう」と発言したのであった。(つづく)


■2011-04-11-Monday マイストーリー60

前回からの続きで2006年11月28日の

北の屋台の理事会のことである。

このことは理事会終了後すぐに詳細にメモを書き残しておいたが、これまでは、我が子のように可愛い北の屋台が崩壊することを懸念してごく一部の人にしか公開してこなかった。

しかし、ここ最近の北の屋台は設立の理念を忘れ、店主等から暴利をむさぼり、しかもその得た金を、それこそ私(わたくし)している輩がいる。すでに北の屋台は崩壊が始まっていると感じるまでになった。腐ったミカンはすぐに取り除かなければ北の屋台全体が腐ってしまいかねない。意を決して公開することにした。

S相談役は「来年(2007)の11月に丁度良く(店舗が)空くのであれば誰も文句は言わないだろうが、期の途中での退店はいかにもまずい。契約するのを11月まで伸ばせないのか?」とムチャなことを言う。

私は「センナリの退店は私が(自分の物件に)引っ張ったわけではなく、センナリ本人の希望である。逆に理事の皆さんに問いたい。そもそも北の屋台の目的はまちの活性化であり、シャッターの降りた店舗に屋台からの卒業生に入居してもらい活気を取り戻すというものではないのか。

確かに今回のセンナリのケースは第二期の途中での退店にはなるが、第二期が終了する来年11月に丁度タイミング良く屋台店主が求めている(理想の)場所の物件が空くということは現実的にありえないことだ。卒業したいという店主が自ら中心街で店舗を探し、そこが空いたらすぐに手を打つという行為は、彼等には屋台以後の長い人生が掛かっているのだからごく当たり前の話で、北の屋台の事業期間中は絶対に屋台に縛っておくというものではないだろう。

今回入居するのがたまたま私の所有する物件であったということで何等問題は感じない。来年の11月まで(屋台店主に)空家賃を払わせて物件を押さえておくという行為は元々自己資金の少ない屋台店主にとっては無理なことだ」と答えた。

するとS相談役が「だが、その空いた店舗が北の屋台の関係者の所有物件というのはいかにも問題だ。北の屋台は全国的に注目をされているのだから、傍から見て変だと思われるような行為は厳に慎むべきだ。

ましてやそれが一番注目されている坂本の物件であれば第三者から見れば尚更利益誘導をしているように見える。センナリとの契約の解除や延期は出来ないのか?」とトンチンカンなことを言う。

私は「勘違いされては困る。この物件に関しては六花亭の東側という場所的にも帯広では一等地なのでセンナリ以外にも入居の打診は数件来ていたが、センナリがどうしても入りたいと入居を切望したので、もう一人のオーナー(K原)と相談して認めたものである。今回の契約にあたっては、センナリには何等の瑕疵もないから契約の破棄などは出来ないし、するつもりもない。この物件は私一人が所有している物件ではなく、北の屋台とはまったく無関係の人(K原氏)との共有物件である。その人に対しても迷惑は掛けられない」と答えた。

するとT副理事長が「センナリの退店に関しては自由意志だから止められないとしても、今回のセンナリの空いた屋台の後を起業塾という募集の方法は認められない。奇麗事を言うなら責任を取って坂本には辞めてもらう」と言う、T副理事長は地遊舎の報復として、あくまでも私を辞めさせたいのだろう。

2人の女性職員も、このセンナリの事案の事務所内での経緯(K専務理事を含めて4人で話して来た内容や、Kが理事者を廻って説明するから理事会を開かなくてもよいと言っていたこと等)を説明し始めたが、T副理事長によって「あなた達は理事者ではないから発言は控えなさい!」と発言を止めさせられた。

K専務理事の裏切りを証明する女性職員の意見まで抹殺されて多勢に無勢、、Kの裏切り行為に気力を失った私はもう諦めるしかなく、「そこまで言われるなら辞めます」と言わされたのであった。(つづく)


■2011-04-12-Tuesday 読売風向計

読売新聞北海道版2011年4月7日掲載「風向計」

十勝の「十価値」を生かそう

私の暮らす十勝はポテンシャル(可能性)が高い場所だ。「とかち」をコンピュータで文字変換したら「十価値」と出たのをヒントに、十勝の10ヴァリュー(価値)を考えてみた。①青空、②カラッとした気候、③農産物、④畜産物(肉)、⑤乳製品、⑥海産物、⑦菓子、⑧モール温泉、⑨ばんえい競馬、⑩ジビエ(エゾ鹿肉など)。こうして並べてみると「食」に関係したものが多い。

帯広にはすでに「豚丼」という有名な「地域グルメ」が存在するし、全国的に有名な菓子店もある。ブランド化するにはうんちくやエピソードが重要だからいくつか紹介する。

六花亭と柳月は、共に本社を十勝に置く製菓業のライバル会社である。とかち帯広空港には「帯広みやげ名店会」という店舗があり、この2社と、竹屋・豆総・坂本(我が社)の5店で協同組合を組織し、32年以上も一緒に商売をしている。ライバル会社が同じ店舗で商売している珍しい事例だ。

カレーライス、パン、焼肉の3つは帯広市民のソウル(魂)フードと呼べる食べ物だ。それぞれ、インデアン、ますやパン、平和園の3店が昔から営業している。日本の名だたる同業の有名店が帯広に進出して来ても、帯広市民はこの3店から離れない。私も大学生時代、帯広に帰省したら、まずこの3店で食べたいと思ったものだった。

これまで十勝は、食糧生産地として主に原材料を供給してきたが、これからは加工していくことをもっと重視すべきだと思う。しかし、単に作った製品をお土産や商品として全国に売るよりは、十勝に来て食べてもらう方策を取ってもらいたい。

生産地でしか食べられず、流通にも乗せにくい食べ物がある。例えば、牛の初乳(子牛を生みたての親牛の乳は、一般に販売してはいけない法律がある)を捨てるのはモッタイナイからと、酪農家が保存用に作る「牛乳豆腐」。じゃがいもを大きくするために、間引く小芋(形が小さく丸いまま残るからシチューやカレーには最適な食材)は流通には乗せられない。

人間は食べなければ生きていけない動物であるが、食事を単にお腹を満たすだけの行為にしてしまうのはツマラナイ。人間は脳で食べているとも言われるから、楽しく食べることで美味しく感じる。

コミュニケーション豊かに、楽しく、美味しく食べられる場所、そこでしか味わえない食べ物を創ることが重要だ。地元住民と旅行者らが一緒に、一期一会で食べられる場所をつくろう。

(この原稿は3月8日に読売新聞に提出し、掲載予定日は3月12日であったが、東日本大震災の影響で4月7日の掲載になった)


■2011-04-13-Wednesday フィギュア・シンクロ1

16名の団体で滑るフィギュア・スケートの

シンクロナイズド・スケーティングの第11回世界選手権大会がフィンランドの首都ヘルシンキで4月8・9日に開催され、父兄らの関係者約30名が応援の為にヘルシンキに飛び、私たち夫婦も7〜11日まで参加してきた。

今年の2月末に横浜で開催された日本代表選考試合で優勝した「神宮アイス・メッセンジャーズ・グレース(IMG)」のキャプテンを長女の惠梨が務めている。

このチームは一昨年結成されたばかりで、IMGとしての出場は去年アメリカのコロラドスプリングスで開催された第10回世界選手権に続いて2回目である。私が生でシンクロナイズド・スケーティングを観るのもこれが2回目(妻は娘が学生時代の別なチームに所属して居た時から大きな試合は海外も含めて何度も観に行っているが)である。

この世界大会派遣の為の「選手壮行会」が3月11日の夕方に東京の神宮アイススケート場で予定されていたが、同日午後に発生した東日本大震災でスケート場の天井が落ち、急遽、壮行会は中止になった(壮行会の最中でなくて良かった)。

スケート場は今日現在もまだ修復が出来ていない状況で、世界選手権に向けての練習もままならない中、本当にこのまま参加できるのかと危ぶんでいたが、日本スケート連盟は派遣を決定したのである。

私たち、親としても東日本大震災で日本が大変なこの時期にフィンランドに応援に行っても良いものか、かなり迷った。おまけにシンクロナイズド・スケーティングはフィンランドではものすごく人気があるスポーツで、会場のチケットが即日完売して、行く直前まで手に入らないという状況でもあったのだった。

直前まで迷いに迷ったが、この際、日本人の元気な姿を海外の人間にも見せようと行くことを決心した。

7日の午前9時に成田空港集合なので、帯広から参加するには前泊しなければならない。

大震災の影響なのだろう、6日にとかち帯広空港から羽田空港への搭乗便も乗客数は少なかった。

成田のホテルに泊まるのは私達夫婦だけなので、ホテルの予約をしていなかったが、ネットで調べてみたら、空港のすぐ近くの成田東横インホテルが格安の値段で出ていたのでそこに2日前に予約を入れた。ツイン1泊二名で成田空港までの無料送迎バス付き、夕食も朝食も無料で一人なんと3990円である。

部屋の広さも充分で、とにかくこの値段にはビックリしてしまった。この値段でペイするのだろうか?

最初、夕食は成田空港まで食べに行こうかと考えていたが、ホテルから出るのも面倒だし、成田は福島第一原発からそう遠くない場所にあるので放射能が怖いから、あまり外出したくはない、カレーライスなら無料だというので、このホテルで済ませることにした。辛さ控えめの具が少ないカレーであったが、無料なら許せるソコソコの味だ。

夕食後に自販機でお酒を買って、部屋で飲んで早目に寝た。大震災や原発事故の影響だろう、確かに、宿泊客の人数はかなり少ないようであった。

ホテルの朝食は無料とは言いながらも、ビュッフェスタイルで、おにぎり、味噌汁、パン、コーヒー、紅茶、おかず数種類から好きなものが取れる。普通のホテルなら800〜1000円位は取るようなものであったから、腹を満たすには十分な朝食であった。

7日の午前9時に集合して、フィンランドのヘルシンキ行きのFINNAIRの直行便に乗った。成田空港はガラガラである。ほとんど人が居ないから搭乗手続きも並ばずに終了した。こんな事は初めてである。

飛行時間は約10時間である。機内もガラガラで一人ずつ4人掛けの席に座れるほどである。やはり大震災の影響なのだろう、日本人の自粛と、海外からの観光客が原発の放射能に対する恐怖の為に来日を控えていることが、モロに重なってしまったようである。(つづく)


■2011-04-14-Thursday フィギュア・シンクロ2

7日の11:00に成田空港を出発し、

フィンランドの首都ヘルシンキに15:20到着(いずれも現地時間)、飛行機は揺れも少なく、普段はほとんど食べることのない機内食も意外に美味しくてかなり食べたし、座席前の画面で映画も「トロン」「ハリーポッター」「英国王のスピーチ」「塔の上のラプンツェル」の4本も観て、快適な空の旅であった。

この時期(4月からサマータイム)のフィンランドと日本の時差は6時間である。7日の15:20頃に到着して、まずは宿泊するホテル、スカンディック・コンチネンタルという大きなホテルに向かった。今回はツアー旅行ではない、日本チーム「神宮アイス・メッセンジャーズ・グレース」のメンバーで創設者の一人であるOさんの婚約者でチェコ人のI君がいろいろと手配やら案内やらをしてくれた。このI君とは去年のアメリカ大会でも一緒だったので気心は知れている。彼は日本語も含めて5〜6ヶ国語が話せるので大変心強い存在である。

一緒の飛行機で来たのは私達夫婦とOさんの両親夫婦にI君を含めて9人だが、その他に前日に入っている人や別の便で来ている人など30名ほどの関係者が日本から参加した。

あいにく外は雨である。私は晴れ男だから旅先ではめったに雨に降られたことがないのに・・・。

空港からホテルまでは路線バスに乗って向かう。停留所がホテルから200mほども離れていたので重たい荷物を転がしながら、雨に濡れながらホテルに向かったのであった。フィンランドの歩道には転倒防止の為なのか細かい砂利が撒いてあるのでトランクの小さな車輪を転がして歩くには都合が悪い道である。

日本人のツアー旅行だと空港からホテル送迎バスを用意するところだが、こういう旅は逆に新鮮な感じがする。日本人は便利に慣れきっているから、道を知らない海外では貸し切りバスやタクシーでしか移動しないが、現地の公共交通機関で移動すると場所の感覚を覚えやすいのだ。

ホテルでチェックインしてすぐに、大会会場の「ヘルシンキ・アイス・ホール」に向かう。滑走順を決めるセレモニーが開催されるからだ。ホテルで傘を買って、ホテル前の停車場からトラム(電車)に乗って会場近くまで移動する。トラムは路線が番号によって表示されており、どこまで乗っても1区間でも料金は2.5ユーロ(日本円で300円位)、ワンマン電車で運転手にお金を払うが、乗り口は3〜4ヶ所もある。検札はないから無賃乗車しても判らないだろう。ただし、無賃乗車が発覚したら罰金は80ユーロ(9600円ほど)を払わされるそうだ。フィンランド人は性善説で暮らしているのかもしれない。

会場は、8200人収容の巨大さである。ここのチケットが即日完売なのだから、フィギュアのシンクロナイズド・スケーティングの人気の高さが窺いしれよう。フィンランドはフィギュア、ホッケーなどアイススケート競技が盛んな国なのだ。

入場券は8日のショート・プログラム(SP)が40ユーロ(約4800円)と9日のフリー・スケーティング(FS)が69ユーロ(約8280円)2日間合計で109ユーロ(約13080円)である。この2日目のフリーのチケットがなかなか手に入らなかったのだ。

クジ引きのセレモニーが始まる前に、全員で起立して、日本の地震で亡くなられた方々への黙祷が行われた。この後、滑走順のくじ引きを演出効果を出しながら行うのである。このセレモニーではフィンランドの子供たち200人くらいがリンクで滑ってみせるのだが、皆スケートが上手い。これだけの数のフィギュア・スケート人口があるのだから層がものすごく厚い訳だ。とてもうらやましく思った。

今回の参加国数は16カ国(フィランド2、スウェーデン2、アメリカ2、カナダ2、ロシア2、日本、イギリス、ドイツ、フランス、チェコ、ベルギー、オーストリア、オーストラリア、スイス、イタリア、クロアチア)21チーム(世界選手権で5位以内に入った国は2チーム出場出来る)。

日本チームは前回アメリカのコロラドスプリングスで開催された第11回世界大会ではショートが10位、フリーが9位で総合10位(23チーム18カ国)という成績であった。

ショート・プログラム(SP)(演技2分50秒以内)滑走順は前年度の世界大会の成績によって大枠が決まっており、その大枠の中での順番をクジ引きで決めるのだ。

日本チームのSPは11番目の出場が決定した。なかなか良い順番であると思う。

セレモニー終了後に小雨の中を9名で歩いてホテルまで戻ることにした。ホテルと会場とは徒歩15分ぐらいの距離である。フィンランドは20時過ぎまで外が明るい。途中で良さそうなレストランを見つけたらそこで食事をしようというつもりである。

途中で香港飯店という中華料理店の看板を見つけた。海外で食事をするには中華料理店が一番無難だろうということで入ることにしたのだが、客が一人も居ない。これは失敗したかなぁ〜と思ったのだが、食べてみたら意外と美味しかった。

ホテルの部屋に戻って、免税店で買ってきたブランデーを開けて一人で飲んだ。レミーマルタン350mlで7000円の高給酒である。26年前の新婚旅行の時に同じ銘柄の700mlのものを買って毎晩酔っ払っては妻にヒンシュクをかっていたのを思い出した。ナイトキャップにはブランデーが一番なのだが・・・。(つづく)


■2011-04-15-Friday フィギュア・シンクロ3

4月8日(金)

第11回シンクロナイズド・スケーティング世界大会は17:00からオープニング・セレモニー、17:40−21:30までショート・プログラム(SP)(演技時間2分50秒以内)が始まる予定である。会場の場所も前日に見に行っているから迷う心配はない。今日は朝から、私の「晴れ男」の威力で快晴である。傘を買う必要はなかった。

午後からの日本チームの公式練習までは時間があるから、皆でヘルシンキの街を観光に行くことにした。

ホテルの前の停留所からトラムに乗って、駅近くの中心部で降りて街をブラついた、ヘルシンキの街は徒歩20〜30分ぐらいあれば、ほとんどの観光名所やショッピングが楽しめるコンパクトシティだ。やはり寒い地域の街はこうでなくてはいけない。しかし、前日、空港からバスで中心街に入る時に窓の外を眺めていたら、空港近くに郊外型ショッピングセンターが並んで建っていたので、車を使う人にはその方が便利なのだろう、コンパクトなままの方が良いのになぁ〜と感じた。

トラムを降りてから街中の店をウィンドーショッピングを楽しみながら「マリメッコ(フィンランドの布製品の斬新な色使いとデザインで有名な店)」などの店の場所を確認しておいて、まずは港に向かった。

港の広場には「マーケット・プレイス」があり、屋台が沢山出ている。さすがに寒い国だから、テントで囲ったり、小型トラックを上手く使って、野菜、パン、毛皮、防寒具、ナイフなど多種多様なものを販売している。店主とコミュニケーションを取りながら冷やかして歩き、港の丘の上にあるギリシャ正教のウスペンスキ寺院に行った。あいにくこの日は12:00から開くということで中に入ることは出来なかった。この教会の登り口の階段は雪を除雪せずにそのままの状態になっている。雪で埋もれた階段を滑らないように注意しながら登る。私達夫婦は雪国育ちだからへっちゃらだが、他の人たちは雪の降らない地域から来ているから心配したのだ。こちらの人は除雪をしないのだろうか?

ここで、ショッピングに行きたいというグループと別れ、6人で市内観光を続けることにした。

この街のシンボルであるヘルシンキ大聖堂に行く、ここも12:00まで閉館中だったが、アメリカ人が堂々と入っていくので、我々も便乗して一緒に中に入った。パイプオルガンとキリストを磔から降ろしたばかりの大きな絵が印象的だった。

中心部に向かって歩き次はアテネウム美術館に入る。それほど大きな美術館ではないが1時間ほどの駆け足で見終わった。他の外国人は4〜5時間くらい掛けてジックリ見るのだろうが・・・・。

昼食はフィンランド料理を食べようと思って店を探したが見つからず「Belge」という本屋をモチーフにした洒落た店に入った。昼食からビールを飲んで食事をする。日本に居る時は昼間から飲むことはないが、外国に来るとどうも太陽が出ている時から飲んでしまう。私が注文したのはマッシュポテトにオニオンを煮込んだドロッとしたソースを掛けソーセージを切ったものが乗っていてピクルスが添えてある料理である。とても美味しかった。妻が頼んだ料理はパエリア風のお米の料理であったが、一口試食したが、私が注文した料理の方が私には美味しかった。

昼食後にトラムで会場に向かう。日本チームの公式練習を見たが、選手は転ぶし、演技に切れがみられない。日本チームはホームリンクの天井が3.11の地震で崩落した影響で、練習場所がなくなり練習不足は否めないのかなと思った。

一旦ホテルに戻り、I君の両親がチェコから来ているのでホテルで合流した。秋に結婚するOさんとI君の両親が会うのもこれが初めてだそうだ。

I君の両親も合流して再び徒歩で観光に向かう。まずは、高い塔が印象的な国立歴史博物館に入ってみたが、あまり面白そうではないし入館料も掛るので、無料で見られる入口ロビーの絵を見ただけで止めて、岩盤をくり抜いて造ったというテンッぺリアウキオ教会に向かった。ところがなんと工事中で6月1日までは閉館中であった。一番見たかったのに残念。仕方がないのでさっきパスした国立歴史博物館に戻り見学をした。石器時代の様子から中世の展示物、民族衣装やドールハウスの展示などが展示されていたが、国立と言う割には展示物が少ないなぁ〜と感じた。やたらと歩き回って足も疲れたし、17:00からはオープニングショーが始まるので会場に向かった。

オープニングショーでは、昨日と同様に、日本の大震災の犠牲者に黙とうを捧げてから始まった。会場では日の丸の小旗が、観客に配られているし、募金箱も設置されていた。

フィンランドの子供達200名くらいの演技で盛り上げている。この年令から滑っているのだから皆上手い。この中から未来の選手達が出るのだろう。フィンランドは1・2と2チームが出場しているが、去年の世界大会の優勝と準優勝チームである。

ショート・プログラムの2番手にロシア2が演技した。去年、日本が勝ったチームであるが、今回はやらたと上手くて綺麗な演技をする、得点は57.03とさすがに高得点である。そのすぐ後に演技したイタリアも47.70とこれまた上手い。

これは今年のレベルはとてもハイレベルだぞと感じたが、そのすぐ後に出てきたチームは、まぁこんなもんかなぁ〜という感じであったので少し安心したが、最初の方に上手いチームが出てきたのでビックリしたのである。

日本チームは11番目に登場した。極端な練習不足の中で良く検討したと思う。さすが本番に強い連中だ。得点は48.72点、私の採点ではもう少し高得点であったが・・・。

この時点でイタリアには勝ったが、ロシア2には負けて2位というポジションにいるが、この後強豪チームばかりが出て来て順位は段々と下がっていく。

最終的にはショート・プログラムの順位は12位という成績であった。日本はフリースケーティングが得意だから明日に期待しよう。

席の近かった3人で会場を出て歩いてホテルに向かう。時刻はすでに10時を過ぎているからレストランで食事するのは諦めて、途中のスーパーマーケットに入ってバナナと水を購入した。ホテルに戻って、本場のフィンランドサウナ(無料)に入ろうと思ったが10時までだったので断念して、部屋で日本から持って来たカップ麺を食べて、ブランデーを飲んで寝たのであった。(つづく)


■2011-04-16-Saturday フィギュア・シンクロ4

4月9日(土)

今朝も快晴、第11回シンクロナイズド・スケーティング世界大会2日目はフリー・スケーティング(FS)である。FSは演技時間が4分30秒(±10秒)という長い競技であるから、当然、前日のショート・プログラム(SP)の2分50秒以内よりも、多くの技を入れなければならない。

ここで、シンクロナイズド・スケーティングの主だった技を幾つか紹介してみよう。①16人が手を繋いで輪になって滑る「サークル」、②4人ずつ手を繋いで四角い箱になって滑る「ブロック」、③一直線になって滑る「ライン」、④人を持ち上げる「リフト」、⑤すり抜ける「インターセクション」⑥スパイラルやイナバゥアー等をおこなう「ムーブス・イン・ザ・フィールド」などなど、いくつかの技を繰り出すのである。見ていてとても美しいから、私はフィギュアのシングル競技よりも見ていて楽しいと思っている。

さて、最終日2日目のFSは前日のSPの成績を基準にして滑走順が決まる。日本はSP21チーム中12位だったから、後半のグループB(17:15〜20:00)になる。前半に滑るグループA(14:30〜16:20)の9チームは下位のチームである。

日本チームが演技する時間は17:24からなので、午前中の公式練習を見た後かなりの時間が余るので、妻と二人でショッピングに出掛けた。昨日ウィンドーショッピングをした「マリメッコ」でお土産を買い、「イッタラ(ガラス工芸品)」の店を見て回った。

昼食は港の近くの公園にあるガラス張りのレストランである。値段が高い割にはイマイチだった。

妻は昨日見られなかったレンガ色したギリシャ正教のウスペンスキ寺院に行こうと言う。私は歩き疲れて足が痛くなってきたから、中心街に戻ってストックマンデパートに入ろうと言った。妻が履いている靴は、今話題のリーボックの靴で、歩いても疲れないのだというのだが、私は普通の靴だからとても足が痛いのである。「見たかったら一人で行ったら?」と言うと不機嫌になって「一人では帰り方が判らない」とブツブツ言いながら私の意見に渋々同意した。

ストックマンデパートはバーゲンセールの真っ最中で、ものすごい混みようである。人に酔いそうになったので、早々に切り上げて、街中に出る。私が「足が痛いからホテルに戻ろうよ」と言うとまだ街中を見たいと中央駅に向かう。その辺りをしばらく歩いたが、いよいよ私の足の痛みが限界に達したので、不機嫌になった妻をなだめてトラムに乗ってホテルに戻った。

妻は「あなた一人で寝ていなさい」と言い残して一人で歩いて(一人ではトラムの乗り方が判らないから)会場に向かったのだった。

私はホテルで2時間ほど休んで16:00に会場に着いた。会場ではグループBのチェコチームが演技をしているところだった。その後のスイスチームの演技が終わって製氷作業をしてからいよいよグループA(12チーム)の演技で、日本はグループAの2番目である。

日本チームのすぐ上位にドイツチームがいるが、日本との得点差は4.7ポイントもある。このFSで逆転して欲しいと願った。会場の日本チームに対する応援は、大震災の影響でホームチームのフィンランド並のスゴサである。日の丸が観客に配られているから、観客皆が日の丸を振って大声援を送ってくれた。

大声援に押される様に前半はなかなか良い出来であったが、最後の最後で選手が一人転倒してしまった。しかし、その後に滑ったドイツチームも素晴らしい演技で、日本チームがたとえ転倒していなくても逆転は出来ないほどの点差に広がったので、残念ながら日本チームは総合12位のままで終了した。

去年のアメリカ・コロラドスプリングスの世界大会では総合10位(SP10位・FS9位)に入ったのだったが、大会真近の練習不足は否めないにしても、この後に演技をした2チームずつ出場枠のある世界選手権で5位以内に入った国のアメリカ・カナダ・スウェーデン・ロシア・フィンランドはちょっと他のチームの追随を許さないほどレベルが違う。

やはり、2チームずつ出ている国のチームの演技は、一流の素晴らしいショーを見ているようだ。これだけ見ていて美しいと感動するスポーツは少ない。なぜ、この種目がオリンピック競技にならないのかが不思議でしょうがない。

フィンランドに来る日の新聞の朝刊のスポーツ欄に「オリンピック新種目にフィギュア団体」と出ていたので、間違ってぬか喜びしてしまったが、同じシングルの選手が2度ずつ滑るよりも、こっちのシンクロナイズド・スケーティングの方がよっぽど盛り上がるのにと感じた。

今年の総合成績は優勝がフィンランド1、準優勝がフィンランド2、三位がアメリカ1と去年とまったく同じ結果に終わった。今回の世界大会を見て、世界のレベルはドンドン上がっている。日本も選手層を厚くして、もっと沢山のチームが出来て切磋琢磨する必要があるだろう。

試合終了後に、日本から応援に来ている方々に声掛けをして、我々が泊っているスカンディック・コンチネンタル・ホテルのレストランで懇親会を開くことにした。18名ほどが参加して今回の試合について話をしながら食事をした。このホテルの朝食はビュッフェ・スタイルだが、何を食べても美味しい。フィンランドの食事は私に合っているようだ。

夜の9時を過ぎているが、客は満席状態、ウェイトレスがなかなか注文を取りに来ない。やたら待たされるので暇つぶしにマジックを披露した。途中、日本チームが泊っている隣のプラザホテルで選手たちの懇親会が開催されているが、日本チームの何人かが、私達応援団の居る席に顔を出した。この後、世界中の選手らは夜通し踊ったそうである。やっぱり若くて体力があるんだなぁ〜。

結局、料理が出てきたのが11時近くで、食べ終わったのが12時、この日もフィンランドサウナには入れなかったのであった。(つづく)


■2011-04-17-Sunday フィギュア・シンクロ5

4月10日(日)今日も快晴、

今日は帰国の日である。娘達のシンクロナイズド・スケーティング日本チーム「神宮アイス・メッセンジャーズ・グレース」はすぐ隣のプラザホテルに宿泊している。日本チームのホテルの出発時間は9:40だというので、私達応援団は見送りに隣のプラザホテルに向かった。

選手達は夜通し踊ったり、他の国の選手らと交流したりと忙しかったようでさすがに疲れている様子である。「フィンランド観光はしたのかい?」と聞いたら、「どこにも行っていない」と言う。試合に来ているのだから試合が終わるまではホテルと会場の往復だけで、観光などノンビリとは出来ないだろうが、翌日にすぐに帰国するのは、ちょっとモッタイナイと思う。

フィギュアの様な競技は感受性が豊かでなければいけないのだから、行った先々で、美しいものを見たり、異なる文化に触れる機会をもっと作ってあげるべきだろう。

私達、応援団が乗る飛行機は17:30発の成田への直行便だから、午前中は観光する時間がまだあるというのに、選手ら日本チームが乗る飛行機は午前発でしかもデンマークのコペンハーゲンで乗り換える便だという。遅くにフィンランドを出発する私達が途中で追い抜いて、成田では日本チームよりも40分くらい早く着くというのだ。

なぜにそんな手配をするのだろうか?スケート連盟の方で手配したというのだが、おそらく予算の関係で少しでも安い飛行機でということなのだろうが・・・。

私達の航空機チケットは往復一人135,800円だから、そんなに大きな差はないと思う。乗り換えは時間のロスの不便さと荷物の積み替え事故の危険が増える。事実、日本チームの帰りの便で選手の荷物が一個出て来なかった。

はたしてフィンランドで積み忘れたか、デンマークで積み忘れたのかは分からないが、補欠選手が居ない日本チームで、往路便でもしも荷物が出て来なかったらスケート靴や衣装が無くて試合にも出られなくなってしまうではないか。リスク管理の面から考えても、その危険性をより少なくする必要があるだろうし、なにより、乗り換えでは選手が疲れてしまうだろう。

スケート連盟は派遣の仕方も考えるべきであると感じた。

前年のアメリカの時も、会場は西部寄りのコロラドスプリングスなのに、中継地点は中南部のダラス空港なのであった。かなりアメリカ大陸の奥(東)に入ってからまた元の西側に戻るのだから時間のロスは行って帰ってで4時間以上になる。乗り換えの時間のロスも入れたら半日を無駄にしてしまう。

この時も帰りの便で選手の荷物が一個紛失した事故があったそうだ。旅行会社はリスク管理が出来ていないし、それに任せてしまう連盟も同様だ。

私達応援団は日本チームを見送ってから、荷物をホテルに預けて、トラムに乗って港に行き、そこから船に乗って「スオメンリンナ島」に渡った。1748年に完成したというフィンランドを守る海上要塞の島である。島全部を見て回る時間がないので途中まで見たところで引き返してきたが、なかなか中世の風情があって面白かった。

港に戻り、食事をしようかと探したが、日曜日には開いている店が少ない、空港で食べることにして早目に空港に向かうことにした。ホテルの前から空港への路線バスに乗って行き、搭乗手続きを済ませてから昼食をとって待合室に入る。

出国手続きを済ませて、税金の払い戻しを受けようと思ったら、買った商品を見せなければ払い戻せないと言う。「街で買った商品は荷物に入れてしまったので持ってない」と言ったら、担当者の女性が「今度からちゃんと持ってなきゃダメよ」と言って手続きしてくれた。なんて優しいのだろう。フィンランドの人は、なかなか親切である。ただ、日本人とは違って総じて時間の感覚がかなりスローモーだったが・・・。

17:30発のFINNAIRの成田直行便で日本に向かう。気流の関係で来る時よりも1時間速く9時間ほどで日本に到着する。復路便は往路便よりは少し混んでいて、4つ並びの空き席がなく、中途半端に2人ずつ座っているので席の移動が出来ず、私達夫婦は4人びっしりと横に座ったままだったので少々辛かった。

成田の第2ターミナルに着いて、出国手続きを済ませたが、人が少ないので実にスムーズに終わった。日本チームは40分後に到着するから、第1ターミナルに移動して出迎えた。

フィンランドで見送った人間が、今度は成田で出迎えるのである。なんだか不思議な感覚だ。

前述したように選手一人の荷物が紛失してしまった。本当に行きの便の事故でなくて良かったとつくづく思う。

成田空港からリムジンバスに乗って羽田空港へ、とかち帯広空港行きの便にのって帰る。家の途中でドッグトレーナーに預けていた愛犬黒ラブのバニー(15歳)ちゃんを拾って帰宅するが、バニーは預ける前よりも元気になった。我が家で一匹だけで暮らすより、沢山の犬の中で生活する方が刺激があって若返ったのかもしれない。しかし、犬の匂いがものすごい臭いのですぐに風呂に入れた。

私達夫婦は、その後夕食をとってから、温泉に行き、帰宅後すぐに就寝した。

余談だが、その翌日の夜に左足の膝に激痛が走り、痛くて痛くて眠れなくなった。どうゆう体勢をとっても、シップを貼っても痛みが取れない。翌朝まで一睡も出来なかった。なにせ左足に体重を掛けられないのだ。これはフィンランドで歩き過ぎたからだと思い。すぐに整形外科病院に行った。レントゲンを撮って、検査用に採血、採尿をして、痛み止めの注射と薬をもらって帰った。

翌日、検査結果を聞きに行ったらなんと痛風の症状だと医者が言う。エッ、痛風って足の親指が痛くなるもんじゃ〜なかったの?膝が痛くなったのが痛風だなんて・・・。前から尿酸値が高めだったが、これまで発症したことはなかったのに、今回のフィンランド旅行で昼間からビールを飲んだせいだろう。これには参ってしまったがいろいろな意味で意義深い旅であった。(おわり)


■2011-04-18-Monday すごい矛盾!

なにがすごい矛盾かと言って

大相撲の裁判沙汰のことである。(この文章はフィギュア・シンクロが長くなってしまったので15日に書いている)

八百長問題で日本相撲協会を解雇された幕内力士の蒼国来(荒汐部屋)と十両力士の星風(尾車部屋)は14日に別々の場所で弁護士同席による記者会見を開いて、法的手段をもって解雇処分の撤回を求めていく考えを示したという。

日本相撲協会もこれに対して、受けて立つ姿勢だという。いよいよ八百長問題は裁判という司法の場によって裁かれることになった。

八百長問題で関与を認定され引退を勧告をされた25人のうち、それに従わずに解雇されたのはこの2人が初めてだという。

この問題では、八百長で自ら関与を認めたのは竹縄親方(元春日錦)、千代白鵬、恵那司の3人だけで、特別調査委員会(伊藤滋座長・早大特命教授)は、携帯電話のメール内容とこの3人の証言だけを頼りに関与の判断を下したという。

他の23人は引退勧告を受け入れ、退職金を手にして大相撲を辞める。

今回、裁判という手段に訴えた2人は、絶対に八百長はやっていない。反証する機会もなく一方的に決めつけられたと反発しているという。

私がこの裁判が何故「矛盾」しているかと感じたかと言えば、相撲協会は「これまで大相撲に八百長は一切なかった」と言いきっていることだ。放駒理事長は現役の魁傑時代はガチンコ力士だったかもしれないが、その現役当時にも八百長の噂はあった。それを今回の処分に当たってこれまで大相撲には八百長は一切無かった。今回が初めての件であると記者会見で大見得を切って明言してしまっている。

そうなるとだ・・・、「八百長は一切無かった」と言っている相撲協会が、「八百長があったから解雇する」と言っていることになる。

裁判にならずに上手く和解で済めば争うこともない。だから自ら進んで引退すれば第二の人生を歩むにあたっての支度金として退職金を払ってやるから素直に辞めてくれ、というのが相撲協会の本音だろう。

誰も金欲しさで、逆らってはこないだろうし、もしも逆らう力士が出てきても親方の情を絡ませれば何とか説得できると踏んでの強硬策だったのだろう。

だから反逆する力士はいないと踏んで、もしも裁判になったら受けて立ってやるゾという脅しと言うか、強気と言うかの、世間受けを狙っての発言になったのだろうが、現代の若い力士に、それは通じなかった様だ。

公言して強弁してしまった以上は後には引けずに受けざるを得なくなってしまった協会側が裁判の準備不足で不利になる。

狡猾な弁護士はシッカリその辺を見越しているようだ。

協会としては五月場所をどうしても開催したいというスケベ心が有るから、余計に準備期間も少なく根回しも不十分だったのだろう。

しかし、相撲協会は焦るあまりに拙速なことをして、自滅行為にしてしまった。五月場所などにこだわらなければ、まだまだ方法は色々とあったろうに・・・。

解雇される力士は「八百長はやっていない」と言っているから、相撲協会は裁判で「八百長はあった」という証明をしなければならない。

つまり「八百長は無かった」と言っていた協会が「八百長はあった」という逆の証明をしなければならなくなったということだ。これほどの矛盾があるだろうか?

この裁判は勝っても負けても、相撲協会に大きなダメージを残すだろう。相撲協会にはもう少し、長い目で見られる器の大きな人物はいないのかねぇ〜。


■2011-04-19-Tuesday 余震が

3月11日に発生した

東日本大震災の余震と思われる地震が、一か月が過ぎた現在も、まだ頻繁に発生している。

テレビを点けていると、未だ頻繁に「地震が発生しました。各地の震度は・・・」というテロップが流れている。

3.11の被災地近辺での発生が多いようで、被災者の方々は気が休まらない日々が続いているだろうと心配している。

時々「緊急地震速報」が鳴ったりもするが、その地震の震度は3程度くらいの震度が多いようである。

心配なのは、人間の気持ちの慣れである。「狼少年」のように「狼が来たぞ〜!」、「狼が来たぞ〜!」と言い続けていると本当に狼が出た時に被害にあてしまう。

同じ様に「地震が来るぞ〜!」、「津波が来るぞ〜!」と言い続けて、その都度あまりたいした被害が無かったら、人間という生き物は「どうせまた今度も大したことはないさ」と考えてしまいがちだ。これが一番恐ろしい。

警報に慣れた時に大きな地震や津波が襲ったら、また被害が大きくなってしまう。

また、地震の専門家によると、今回の地震の余震とは考えにくい場所でも地震が発生していると言う。3.11の巨大地震に誘発されて、隣の断層で地震が発生しているらしいのだ。日本の近辺の地球内部で地震活動が活発化しているのかも知れない。

東京を含む首都圏でM8クラスの大きな地震が起きたら大変な事態になると想像するが、どうも政府にも東京都民にもその危機感は薄いように感じる。

起きたらどうするのかの具体的な避難方法や対処の仕方を、都民が訓練しておく必要があるのではないだろうか?

今回の地震はもう東北地方だけで終わったと考えているのだろうか?

それとも福島第一原発の処理と、東北の復興計画でその暇がないのだろうか?

1000年に一度の大地震で人間の想像をはるかに超えた巨大地震と津波だったのだろう。

今後、富士山や磐梯山などの山が誘発されて爆発するような危険はないのだろうか?

私は、素人だから判らないが、九州の新燃岳の噴火だって、その予兆だったように感じるのだが・・・。

政治家は政局なんぞにかまけている場合ではないぞ!


■2011-04-20-Wednesday 100000年後の安全

4月7〜11日まで

フィンランドに行って来たことはこのブログに書いたが、一度でも行ったことのある場所というのは、その後も何となく気に掛かるものである。(この文章は19日午前に書いている)

今朝の新聞に、フィンランドの選挙の結果、反EUで移民規制やポルトガルへの援助に反対する「真正FIN人党」が第3党に躍進したという記事が載っていた。

この記事だけから判断するとフィンランドはかなり保守的になっているように感じる。

また、今朝のワイドショーで「100000年後の安全」という映画の宣伝をしていた。フィンランドの映画だというので見ていたら・・・。

地震が世界で一番少なく、固い岩盤が多いフィンランドでは、自国の原子力発電所から出る高レベル放射性廃棄物を、固い岩盤をくり抜いて地下500mに永久地層処分場を建設中なのだそうだ。

場所はフィンランドのオルキルオトという場所でその施設はオンカロと呼ばれるとのこと。

その高レベル放射性廃棄物が生物に完全に無害になるのに要する年月が10万年とのことで、映画のタイトルが「100000年後の安全」ということになったとのことだった。

昨晩のテレビ番組でも、原子力の専門家の科学者は「安全に造れば原発は絶対に安全なのだ。福島原発は安全に造られていなかった・・・」というような話をしていた。

私は原子力のことは素人でよく判らないが、ことの本質はもっと単純なことだと思う。

原発を安全に造れるか、造れないか、なんていうことが問題なのではない。

「現代の人間が享楽を得る為に、電気を必要とし、そのカス(高レベル放射性廃棄物)の処理は、現代科学では、まだ不可能だから、科学技術が発達するであろう未来に、その処理を委ねる。」というその姿勢が問題なのだ。

いわば「自分達の子孫にツケを回して、自分達は享楽の限りを尽くす。」ということに等しい。こんなことが許されようはずがない。必ずや子孫に恨まれる。

原発は安全に造れるかもしれないが、廃棄物の処理が現代の技術で出来ないなら原発を造るべきではない。

日本人も、もっと少ない電気でも暮らせるように生活スタイルを変えれば良いだけだ。

便利さには不可逆性があると何度もこのブログに書いてきた。一旦享受した便利さは捨て去り難いのだと。

しかし、この未曽有の大災害を契機として、日本人の価値観を変えなければ、日本に未来はない。

愚かな政治家共は、この災害を契機にして、もっと便利な東北地方にして利権をアサロウとしている。科学者や政治家は奢っている。

私が1999年に北の屋台を発案した時に作ったスローガンが「便利さが殺すコミュニケーション、不便さが生み出すコミュニケーション」である。

いまこそ、これを実践する時ではなかろうか!


■2011-04-21-Thursday 震災後の

3.11の東日本大震災から

40日以上が経過したが、テレビのニュースからは被災地の復興や福島第一原発の処理が遅々として進まない姿を毎日見せられて、気が滅入ってくる。

被災地に建てる仮設住宅も用地や建築資材が不足していてなかなか建てられないのだという。

どうも見ていると役所の役人の頭が堅過ぎる気がしてしょうがない。もっと柔軟に対応出来ないものなのか?

義捐金にしたって、今月末にようやく一部が払われるとのことだが、あまりに遅過ぎるのではないだろうか。

確かに、原則として公平かつ平等にという姿勢は理解できるが、今はそんなことを言っている時ではないだろう。

津波から逃れる為に、着の身着のままで逃げだして家を流されてしまった人は、現金の持ち合わせもないだろうし、貯金通帳や印鑑なども持っていないだろう。当座の生活費を一刻も早く欲しいというのが偽らざる心情であろう。

こういう時は、超法規的措置で、国がお達しを出して、直ぐに被災者と思しき人に10万円ずつでも配れば良い。但し、これを悪用して不当に受け取った者は罰則を通常の2倍にする。とでも発表して各行政にすぐに実施するように通達を出せば良いのだ。各自治体に任せていたら対応がバラバラになってしまうし、横並び意識があるから最初に動こうとはしない。こういう時にこそ国が動かなくてどうするのだ。

のんきに復興計画なんぞの会議をやっている暇なんぞないゾ。優先順位というものが判っていないのではないか。

被災地の避難所でも、若い働ける人間には、瓦礫の撤去作業や仮設住宅建設の手伝いをしてもらって日当を出せば良いのではないだろうか。

身体も動かさずに、他人の世話ばかりになっていると、人間としての尊厳を失ってしまう。他人に頼り切りになってしまうのは、今後のことを考えたら宜しくないメンタリティを生む元になってしまいかねない。

自ら復興するという気概が必要だと思うのである。

被災者に職を造り出すことが重要なのだ。

いくらでも仕事はあるだろうに・・・。

自ら音頭を取って、現実的な作業が出来る人間は政府に居ないのか!


■2011-04-22-Friday どうにも・・・

3.11の大震災から

どうも気分がスカッと晴れないモヤモヤ状態が続いている。

新聞、テレビ、雑誌などで被災地の現状を見る度に気分が落ち込んでいく。どうやら多くの日本人が同じ様な症状を訴えているようだ。

そこへもってきて、4月12日夜に遂に痛風の症状が出てしまい、益々気分が滅入っている状況だ。

2年ほど前の健康診断で「尿酸値」の高さの指摘を受けていて、薬の服用を勧められていたのだが、これまで発症することがなかったので、ビールを控えるようにしていた程度であった。

それが、7〜11日までのフィンランド旅行で昼間からビールを飲み、サウナににも入らず、やたらと歩き回ったことで、遂に左膝に激痛が走ったのであった。

当初は、痛風の痛みが左膝にも来るとは知らなかった。痛風は左足親指の先っぽが痛くなぬものだと思い込んでいたので、歩き疲れだろうぐらいにしか考えていなかったのだが・・・。

あの膝の激痛は、翌日の注射でウソのように消えたが、あの痛みの怖さは頭にシッカリとこびりついてしまった。何せ、体重は掛けられないし、ベッドに入って横になろうがうつぶせになろうが、痛くて痛くて一睡も出来なかったくらいなのだ。

昨晩は、ゴルフの親睦会ジュエルクラブの総会があって、久し振りに焼酎を2杯水割りで飲んだのだが、どうにも気分良く酔えないのだ。

メンバー達はすでに、4〜5回ほどもゴルフをプレーしたというのに、私はまだ、ゴルフクラブを物置からすら出していない。例年なら2月頃には温かい場所に行ってプレーしているのに・・・。

ゴルフを自粛するつもりはないのだが、何だかまるで気分が乗らないのである。

夜の街も、あまり人が出ていないようで飲食店からも苦戦が伝えられている。自粛するつもりがなくても気分が浮かないのは仕方がない。

明日は同じくゴルフの親睦会のじゃがいもの総会だ。どこかで気分転換してゴルフでもやらないと運動不足で益々健康によろしくない。

今日から柔軟体操でも始めることにしよう。


■2011-04-23-Saturday 昨日のニュースから

昨日(21日)のニュースから

(この文章は22日午前に書いている)

キャンディーズのスーちゃんが55歳という若さで乳癌の為に昨日の夜に亡くなった。

私は、特段キャンディーズのファンだったというわけではないが、同年代の活躍されている最中の死というのは痛ましい。旦那さんは夏目雅子(カネボウのクッキーフェースの時から大ファンだった)のお兄さんだという。

妹を若くして癌で亡くし、今回はまた妻を若くして(55歳なら夏目雅子の27歳と比べるとそう若くもないか)癌で亡くすとはつくづく不幸な男だと思う。

人間(生あるもの)にはいつかは必ず死が訪れる。遅いか早いかだけだといっても、早く死なれるのは辛いものだ。

太く短くか、細く長くかと言っても、他人がその人の人生の価値を決められるものではない。

私も死ぬ時には、人生に満足して死んで逝きたいと思う。

さて、菅首相が福島県内の避難所を訪問したというニュースが流れていたが、この人は、もはや国民のほとんどから蔑(さげす)まされているのではあるまいか。

これだけ尊敬されていなければ、もはや何をやっても、どんなパフォーマンスを見せてもバカにされるだけだろう。

こういうアザトイ見せかけだけのパフォーマンスは意味が無い。早く首相としてのリーダーシップを取って舵取りをして欲しいものだが、出来ないならサッサと身を引くべきだ。

こういう体たらくだから、同じ民主党からも、または閣僚からも「辞めろ」と言われるのだ。

政治家たちにも呆れたものだ。この非常事態に政局なんぞやってる暇があるのか。ますます政治が国民意識から離れていってしまう。

今回の福島原発事故での日本政府の対応のまずさは、国際的に日本の信用を著しく下げている。

北海道は福島原発から500㎞以上も離れているから大丈夫だと説明しても、海外のメディアで流される映像は、津波の被害にあった被災地の映像と福島第一原発のみじめな姿だ。海外の人間は日本は小さな島国で、この原発事故で日本全部が放射能に汚染されたように感じている。

国際的には、日本に実際に来たことのない人間が大半なのだから、日本の正しいイメージを想像してくれといっても無理な話だろう。

しょっちゅう地球儀や世界地図を眺めている私だって、行ったことのない国の大きさはイメージできない。

日本政府は、もっと正しい日本の状況を世界でアピールするべきだが、今の政府がやっても世界は正しい情報とは認識しないだろう。

信用というものはそれくらい大切なものなのだ。

その日本の信用を地に落とした菅政権は万死に値する。

ところで、政府は昨日の深夜0時から福島第一原発の半径20㎞以内を「警戒区域」に指定して立ち入り禁止にし、違反したら罰金まで取るというが、この処置の意味するところというのは・・・。

原発の状況が益々悪化しているということなのか?

どうも言っていることと、やっていることの整合性がまったく感じられないから益々不信感が増してしまうのだ。

はっきりと本当のことを言って欲しいものである。


■2011-04-24-Sunday マイヒストリー61

2006年11月28日の

北の起業広場協同組合の理事会でいきなりT副理事長(地遊舎のT社長と同一人物)から「辞任しろ!」と迫られ、K専務理事の考えられない様な裏切り行為で、すっかり多勢に無勢で周りを固められてしまったので抵抗することもせずに辞めることになった(詳細は前マイヒストリー60に書いた)。

次回の理事会の日程を12月15日(金)に決定し解散したが、私としては面白ろかろうはずがない。

北の屋台の専務理事を退任することは仕方がないが、私怨(Tに反対する意見に対しては絶対に許さないという狭量)でこういう感情的な行動をするTとはとても一緒に仕事を続ける気にはなれないから、ことのついでに地遊舎の取締役も辞めることを決心した。取締役を辞任すれば、いままで払っていた数百万はパーになってしまうだろうが、手切れ金だと思って我慢することにした。

この約1年後にはTと縁を切っておいて良かったと思うような事件がいろいろと起きたから、やはり人間は万事塞翁が馬である。

翌16日に北の起業広場協同組合の専務理事の辞任届と、地遊舎の取締役の辞任届を内容証明郵便でH理事長とT社長にそれぞれ送り付けた。

しかし、辞めると決めても「北の屋台」は我が子の様に可愛い存在だ。翌年11月に行われる予定の第3期の入れ替えの為の面接という仕事も残っている。店主等には私が辞めるということなどオクビにも出さずに粛々と面接をしていった。

12月1〜3日まで広島県広島市で講演、9日には雑誌の取材、13日は札幌労働局の取材、14日はテレビ東京のワールドビジネスサテライトの取材を受ける。

いよいよ15日の理事会であるが、議題は私の退任だけである。この時のやり取りもメモを基に詳しく書いてみる。

H理事長から「坂本専務理事から来年3月末日の任期満了をもって北の屋台の役職をすべて辞任したいとの届けが提出されています。坂本専務、これについて何か発言は?」と促されたが、今更何も言うことがないので「特にございません」と答えた。

T監事が「坂本専務に辞めろと言っているのは一部の理事者の意見にしか過ぎないのではないか。仲間である坂本君をこの様な形で辞めさせることは納得できない。皆もこのままで良いのか?」と発言するも、T副理事長が「辞任届が提出されている以上、この会議は辞任を承認するか否かを決めるだけです」と制する。H理事長がその発言を受けて採決し可決された。

S相談役が「坂本君が辞めるというのは何かあったんじゃぁないかと世間に思われるから、相談役とかアドバイザーとかのポジションには就けられないのか?(何かあったんじゃぁないかと思われるからというのは本人にとってみれば実に失礼な物言いで、結局は自分たちの世間体しか考えていない)」と言うので、私が「キッパリと辞めたい」と断る。

ここでK専務理事が所用の為、退室する。

H理事長が「第3期の募集など今後の方針を早急に決めなければならないが、K専務理事には今まで通りの仕事に加えて経理面も見てもらうとして、帳簿の管理や経理は会計事務所にやってもらってはどうか?」と発言したが、この発言に何とT副理事長が「それには反対だ。悪いけどK専務理事にはこの組合における前科(横領事件)があるから印鑑を預けられない。会計事務所というのは数字の管理だけしかできないところだから、経営方針を決める人材が別に必要だと思う」と言ったのだ。これには驚いた、同じ穴のムジナにさえ信用されていないK専務理事ということなのだろう。

ここで、S相談役が「事務局の2人の意見は?」と聞く。I事務局員が「以前にKさんの横領事件があった時は、理事長から専務理事への降格がされたにもかかわらず、その原因はKさんの生活が苦しいからだという理由で、減棒するどころか逆に報酬を増額するというとてもオカシナ経緯があった。横領というのは明らかに犯罪行為であると思うのですが、今回の坂本さんの行為というのは何かの犯罪なのですか?坂本さんに辞任しろという扱いがものすごく不当であるように思えるのですが・・・」と発言するが、その発言の途中でT副理事長に「あなた達が口出すことではない」と制せられる。I事務局員も「問われたから答えたまでですが・・・」と憤って言っていた。ここでK専務理事が席に戻ってくる。

「ところで事務局員の女性二人(の去就)は今後どうするのか?」とT副理事長が2人の事務局員に問うと、「私達も来年3月末日で退職させて頂きます」と答えたのだ。その瞬間、K専務理事は机を叩いて怒った。でも何故に彼が怒るのだろう。

(私もまさか、彼女らが辞めるとは思っていなかったので、翌日、彼女等に「辞めるなんて言って、これからの生活はどうするの?」と聞いたら、「これまでの事務局でのやり取りを聞いていて、信用かつ信頼できないKとは一緒に仕事をしたくないと思った」と言うのだ。K専務理事にしてみれば私だけを辞めさせたかったのだろう。4人の事務局内でKだけはマトモに仕事をしたことがないというよりも、彼は何一つ仕事が出来ないのだ。彼女等に辞められたら事務局の仕事が進まないことが自分でも分かっているのだろう。そうでなければ彼女等が辞めると言い出した時にあんなに怒るはずがない。まさに思惑が外れたというところだろう。)

T副理事長が「そうなると、新しい事務所と事務局員を決めてからでないと今後の方針を決められませんね」と締めて、この理事会はお開きとなったのだった。(つづく)


■2011-04-25-Monday マイヒストリー62

この2006年12月15日の理事会で、

私と2人の女性事務局員は、北の屋台を2007年3月末日で退任することになったが、「十勝場所と環境ラボラトリー(BakaLabo)」の活動期限も2006年12月末日に迫っていた。

こちらの活動をどうするのかも年内に決めなければならないが、私と女性事務局員2人が去るということは、自動的にBakaLaboの活動も終わるということになる。この3人が居なければBakaLaboは動かすことが出来ないからだ。

BakaLaboは1996年3月に活動を開始して10年間に亘って先進的な活動をしてきたと自負している。それをこのような形で終わらせることになるとは残念で仕方がなかった。

他ならぬ「北の屋台」自体が、そもそも、この「十勝場所と環境ラボラトリー」の9つのプロジェクトの一つであった「都市構想プロジェクト」が発展して独立したものなのだ。

北の屋台を辞めることになった後も仲間の何人かから、よくその場で辞めずに3月末日まで我慢して務めましたねと変なことで感心された。辞任届を提出してからおよそ4ヶ月間も、そのまま務めるのだから傍からみればオカシナことに映ったのかもしれない。しかし、北の屋台の現状を考えれば、そのまま放り出す訳にはいかないのだ。私と2人の女性事務局員がその場で辞めたら、後には仕事の出来ないK専務理事だけしか残らない。彼だけでは、たちまち北の屋台が行き詰ってしまうことは目に見えていた。我が子の様に可愛い北の屋台をこんなことでダメにしたくないし、BakaLaboの後始末も残っている。その気持ちというのは2人の事務局員も一緒だった。新しい事務局員が決まって引き継ぎをするまで務めるというのは当然の責任感だろう。

K専務理事が新しい女性事務局員2人を決めて事務所に連れて来た。

エッ2人も必要なの? と我々3人は思った。

これまでは「十勝場所と環境ラボラトリー(BakaLabo)」の9つのプロジェクトの事務も2人の女性事務局員に兼ねてもらっていた。というよりも逆にBakaLaboのプロジェクトの合間に「北の屋台」の事務もこなしてもらっていたというのが真相だ。

北の屋台の事務なんて一人も居れば十分なのである。いや、むしろKに仕事が出来るのならばパートさんが一人いれば十分なのだ。それぐらいの仕事量でしかない。

BakaLaboが無くなったのだから、2人も事務局員を抱える必要なんてないのに(現在は更にもう一人経理をみる人がいるようだが)・・・。

3月末までには、私のビルの4階にあったBakaLaboと北の屋台の合同事務所を、近所の薬屋さんの2階に移動した。

この事務所というのも、もともとはBakaLaboの事務所に北の屋台が間借りして入っていたのに、今回は「北の屋台」単独で広い事務所を借りるというのだ。こんなに大きな事務所を常設するほどの仕事量や場所の広さは必要ないと思うのだが・・・。

まぁ、それだけKは仕事の内容そのものすら理解していないということを公言しているようなものだ。

私と一緒に辞めることになってしまった女性事務局員への、北の屋台の理事者の態度はとても冷たいものだった。仕事もしない(出来ない)Kには信じられない様な高額の給料(プライバシーに関することだから額の公表は控えるが、女性事務局員の約4倍)を払っているくせに、これまで薄給で献身的に働いてくれた人間に対して退職金すらまともに払おうとしないのである。これにはとても失望した。坂本と一緒に辞めるような人間には払う必要はないということなのか?ちなみに私は無給で働いていた。

BakaLaboの後始末を終え、北の屋台の仕事の引き継ぎを済ませて、2007年3月末日をもって3人は北の屋台を辞めた。時期を同じくしてこの一連の理事者の動きに嫌気が差して北の屋台を離れた人たちもいる。

それ以来、去年の1月末まで私は沈黙を守って来た。

このことのいきさつを話せば、可愛い北の屋台にも悪影響が及ぶかもしれないと考えたからだ。しかし、私のその沈黙を良いことに、Kは私が犯罪を犯したから北の屋台を辞めさせられただの、坂本が北の屋台に多額の借金を残して辞めたので、自分(K)はそれを返済する為にボランティア(無償と言う意味か?)として苦労しているだのと、フザケタことを言って回っている。

私に対する誹謗中傷だけならまだ我慢もしようが、その嘘によって北の屋台の店主らから不当な金を巻き上げているということには心底怒りを感じた。北の屋台設立の理念のひとつである「弱者の救済」どころか「弱者から搾取」になっている。

現在の北の屋台では屋台店主がKに何か質問しただけで「嫌なら出て行け!」と恫喝するらしい。北の起業広場協同組合は民主的な運営をする為に作った組織で、独裁的な運営をする組織ではない。このままでは北の屋台がダメになってしまうと感じて公表することにしたのだ。

若干なりとも公表の効果はあったようで、さすがにアカラサマナことは出来なくなったようである。(つづく)


■2011-04-26-Tuesday 金、土、日

先週末の出来事、

22日(金)の夜に帯広青年会議所(JC)のゴルフ同好会「じゃがいも」の総会が開催され出席してきた。20日(水)にもゴルフの同好会の「ジュエル」の総会が開催されたばかりで、いよいよゴルフシーズンの始まりであるが、まだゴルフクラブを物置から出していない。今年は、さぁ〜やるぞ!と思った時に何等かの事態が発生して出鼻をくじかれ続けて今に至っている。

じゃがいもに出席した何人かから「痛風を発症したんだって?ブログ読んでるよ!」と言われた。JCメンバーも私のブログを読んでくれているのだなぁ。

この日も痛風の発作が恐いからビールは止めておいて、焼酎の水割りを5杯ほど飲んだところでそれ以上飲むのを控えた。いつもならこの4倍は飲むのに・・・、2次会にも行かずにまっすぐ帰宅した。妻からは「2次会には行かずにサッサと戻って来なさい!」とキツク言われているからだ。

痛風を発症してから食生活も、生活態度もいたって真面目になった。これで少しは痩せるだろうか?

23日(土)は朝から冷たい雨が降っている。天気予報では雪になりそうだという。昼食を食べた後、妻と二人で帯広美術館に向かう。

私の大好きな「M.C.エッシャー」の展示会が昨日から開催されているからだ。長崎のハウステンボス美術館のコレクションを展示しているという。世の中の不思議なことを研究している私は、小学生の頃からエッシャーの絵に魅力を感じてきた。画集や解説本なども数冊所有しているほどだ。美術館は雨なのに結構混んでいた。エッシャーの絵は一見すると判らないが良く良くみると不思議な感覚に陥らせてくれる。なかなか楽しい展示であった。

夜は、妻が商工会議所婦人部の会合で不在だ。妻を会場のホテルまで自動車で送って、その足で私は一人で食事をしに出掛けた。どこも混んでいてかなり待たされる。帯広市民の自粛行動は少ないのだろうか?元々待つのは大嫌いだが、一人で待つのはもっと嫌だから、自宅に戻ってお餅を焼いて食べた。一人だけでわびしい食事である。一人だけだし、雨も降っているしで、温泉には行かずに自宅の風呂に入って、浴後にはインターネット・オークションを覗いて妻の帰宅を待っていたが、会合の終わる時間はとうに過ぎているのにまだ戻ってこない。私には2次会に出ないでサッサと帰宅しろと言うくせに・・・「あぁ楽しかったぁ〜」とご機嫌で11時過ぎに帰ってきた。

24日(日)は市議会議員選挙の投票日、今回は何だか積極的に投票に行く気分にならなかったが、母と妻の両親を投票に連れて行かなければならない。昼頃に5人で自動車に乗って投票に行き、帰りに5人でお蕎麦を食べて帰宅した。投票所の近辺の食ベ物屋さんの前の駐車場はどこも満車状態だったから、皆、考えることは同じなのだろう。

午後から、妻と二人で映画「SP」のファイナル・エピソードを観に行った。妻が岡田准一のファンでテレビの時からこのSPを見続けている。最後を見なければ落ち着かないというので、私は大して見たくもなかったがお付き合いすることにした。映画の料金は一人で見ると1800円だが、夫婦50歳割引きで2人で見ると2000円なのだ。一人分に200円足しただけで2人が見れるのだから、まぁ暇潰しとしては安いものだ。

SPを見始めてすぐにトイレに行きたくなってしまった。自宅を出る前にしてきたのに・・・。痛風の薬を飲むとやたらとオシッコが近くなるのだが・・・。

途中で退席したら映画の筋が判らなくなってしまうと思って我慢して見ていたが、何じゃ〜この映画は、何が「ファイナル・エピソード」だ!

ふざけんなよ!である。

益々謎が深まったではないか!

あざとい手法だなぁ、ファイナルと謳って客を動員し、また更に謎を深めておいて、次回作を作ろうという魂胆が見え見えだ。これでは詐欺だ!

妻は岡田君のアクションを見られただけで満足していたし、次回も又岡田君と堤真一の演技が観られると喜んでいたようだが・・・。

夕食前に物置からゴルフクラブを引っ張り出して来て、ゴルフの打ちっ放し練習場に行って来た。5ヶ月振りに握るクラブである。どういう訳か持ち球のフェードにならずに、ドローボールばかりが出て、狙った場所よりも大きく左側にブレル、さすがに方向性が悪いが修正も出来ないから30分で切り上げた。

早目に夕食を済ませて、温泉に行き、夜はテレビで「仁ーJIN」を見る。最近NHK大河ドラマの「江」は見なくなった。前作の「龍馬伝」は全作欠かさずに見たのに・・・。出演している役者の演技はオーバー過ぎてワザトラシイし、いくらドラマとはいえ歴史を無視し過ぎだろう。

JINも内容を伸ばし過ぎだ。視聴率の稼げるドラマを一回ごとのエピソードを間延びさせて持たせようというのか?せっかく面白かったのに、これでは興醒めになってしまう。

テレビ局よ!もっとちゃんと作れよ!


■2011-04-27-Wednesday マイヒストリー63

北の屋台を辞めることに

なって2007年の1・2・3月は気が抜けた様になっていた。10年以上も仲間だと思って一緒に活動してきた連中とこの様な形で別れることになるとは予想もしていなかったことなので、精神的にも大きなショックを受けたのだ。

辞任した直後は、北の屋台にはもう金輪際関わることは止めようと思っていた。だから講演の依頼もテレビや雑誌の取材も全て断っていたのだ。

国土交通省から選任された「観光カリスマ」も北の屋台を発案・実現させたことで選任されたものだから、これも辞めようと国土交通省に連絡を入れたら、「観光カリスマは団体ではなく個人の功績に対して与えたものだから、例えその役職から離れても辞める必要はない」との返事であったので、そのまま続けることにした。そうしたら「観光カリスマ」としての講演依頼が多数舞い込んで来たので、吹っ切れて、以後はまた講演を受けることにした。

私は講演では北の屋台の良いところしか言わない。北の屋台は自分が生み出したと思っているから誇りにしているのである。私を講演に呼んでくれる場所も元気が欲しいから呼ぶわけだから、私の話で元気を出してもらえるようにポジティヴな発言しかしないのである。

一方、北の屋台のホームページからはスグに「坂本」という文字が全て消去された。きっと北の屋台から「坂本」という存在を消し去りたかったのだろうが、そのくせ、私が書いた文章、私が作ったコンセプト、私が写した写真などはそのまま使っているのだから何とも手前勝手なオカシナ行為をするものだ。

さすがに現役から退くと、講演依頼は極端に少なくなったので、4月からは、かねてからの課題であったマジック関係書籍の整理をすることにした。

小学6年生(1969年・昭和44年)の11歳の時から始めたマジックは、私の人生の重要な場面で大きな影響を与えてくれた趣味というよりも生き甲斐とでもいうべきものなっている。それが「十勝環境ラボラトリー」や「北の屋台」などの活動が忙しくなってしまってからは、おろそかになっていたのだった。忸怩(じくじ)たる思いを持っていたこともあって再度、熱を入れてやり直そうと思ったのである。

1996年5月11日に年に私のマジックの師匠であるジミー忍(後に引田忍→聖忍と改名)師が52歳という若さで肺癌の為亡くなった。奥さんであるマコママから、師の遺言で「坂本もっチャンとの約束だから」と、遺品のマジック本のコレクション約1000冊が私の所に送られて来たのだった。しかし、当時は忙しくて整理が出来ずに、自宅の一室に平積みしてあったのが、地震で崩れて足の踏み場もないような状況になっていたまま手つかずにいたのであった。

小学6年生になる直前の春休みに札幌の伯父の家に遊びに行き、8歳年上のイトコからマジックの道具を貰ったのがキッカケでマジックが好きになった。

以来、独学でマジックを覚えていった。当時は帯広にマジックを趣味にしている人は何人か居たが、指導をしてくれる人は居なかった。現在は、マジック教則のビデオやDVDが一般にも販売されているが、当時はもちろんそれもなかったから本で覚えるしか方法がなかったのだ。

本屋に売っている子供向けのマジック入門書の類に載っているマジックは簡単過ぎてすぐに飽きてしまった。ちょうどこの頃(1973年)に「金沢文庫」という名称の出版社がマジック関係の専門書的な本を出版し始めたのだ。私が最初に買った金沢文庫の本は1974年1月15日に出版された「クロースアップマジック(松田道弘著)」という本であった。初めてこの本を見た時、衝撃を受けた。こんな素晴らしいマジックの本があるのか!と、ところが値段がまた高いのだ。中学3年生当時の私の一カ月のこずかいは1000円だったのだが、この本は2200円もするのだ。

丁度1月だったので、お年玉でこの本を買い。高校受験を間近に控えているのに夢中になって読んだのだった。以来、金沢文庫からマジック関係の本が出版される度に買い求めたものだった。だからマジック本蒐集の原点は「金沢文庫」にあると言えるのである。(つづく)


■2011-04-28-Thursday 読売「風向計」

日本チームへの大声援

2011年4月28日読売新聞北海道版「風向計」掲載

16人の団体でフィギュア・スケートを滑る「シンクロナイズド・スケーティング」(SS)の第11回世界選手権大会が、フィンランドの首都ヘルシンキで4月8・9日の両日、開催された。

2月末の代表選考試合で優勝した娘が所属する「神宮アイス・メッセンジャーズ・グレース」は、去年アメリカで開催された第10回大会(出場18か国・23チーム中10位)に続いて2年連続の出場だ。

この世界大会派遣の「選手壮行会」は、実は3月11日の夕方、東京の神宮アイススケート場で予定されていた。しかし、同日に発生した東日本大震災でスケート場の天井が落ち、壮行会は中止になった。スケート場は今日に至るまで、まだ修復出来ていない。練習もままならない中、出場できるのかと危惧していたが、日本スケート連盟は参加を決定した。

直前の西日本合宿で、避難していた被災者の方々を招待して演技を披露し、励まそうとした。しかし、逆に「頑張って日本の元気を発信して来て」と励まされ、それが選手たちの活力になったようだ。

SSは、欧米ではかなりの人気競技で、8200人収容の「ヘルシンキ・アイス・ホール」のチケットが即日完売で入手できない状況であった。親としても日本が大変なこの時期、フィンランドに娘の応援に行っても良いものか直前まで迷いに迷ったが、日本人の元気な姿を海外の人間にも見せようと行くことを決心した。

大会のセレモニー前、観客全員が起立して、大震災で亡くなられた方々への黙とうが行われた。会場では日の丸の小旗が、観客に配られ、募金箱も設置されていた。

今大会に参加数したのは、16か国・21チーム。初日のショートプログラム、2日目のフリースーティングの総合点で争われる。SSの演技はまるで素晴らしい一流のショーを見ているようだった。

日本チームへの応援は、ホームチーム並みのすごさで、ほとんどの観客が日の丸を振って大声援を送ってくれる。練習不足は否めなかったが、大声援に押されるように健闘し、総合12位。今年も総合優勝と準優勝はフィンランドであった。

見ていて美しいと感動するスポーツは多くないし、観客の盛り上がり方もすごい。なぜ、この種目が五輪競技にならないのかが、不思議で仕方がない。

スポーツは、人間の気持ちを鼓舞する効果がある。これからも日本人は落ち込むことなく前向きに生きていこう。フィンランドに行って、そう思った。


■2011-04-29-Friday 木、金

28日夜は

帯広青年会議所のOB合同例会、これは現役(40歳まで)とOB(卒業者)とが合同で開催する例会である。

北海道ホテルを会場に行われたが、例年よりも出席者が少ないように感じた。私の座ったテーブルも9人掛けに半分の5人しか座っていない。33年生まれは私と小田君の2人だけの出席であった。なんとも寂しい。

懇親会になると数人が私の隣に座ってきて「ブログ楽しく読んでますよ!」と言う。JCOBもかなりの人が読んでくれているようだ。

痛風が怖いから、ビールは乾杯(献杯)の一口だけで焼酎に変えたが、何となく痛くなりそうな気がして、いつものペースのようにグイグイとは飲めない。2次会に行くような雰囲気でもないし、痛風の薬のせいで、オシッコがやらたと近くなっていることもあって、途中でトイレに立ったのだが、そのついでに早目に引き揚げた。

自宅に戻ってチビチビと焼酎を飲んだが、左足の親指の先っぽが何だかムズムズするような気がしてきたので飲むのを止めて早目に寝た。

29日は朝から、先のフィンランド旅行のアルバム作りを行った。記憶が残っている内に作ってしまわないと作れなくなってしまうからだ。

昼からは、お蕎麦を食べに行って、その後、映画「ガリバー」を観に行く。

前回「SP」を観に行った時にチラシを見て面白そうだと感じたのだが・・・。まぁ、こんなもんだろうなぁ〜。

帰宅したら、妻が「今日は英国のウィリアム王子とキャサリン(ケイト)さんの結婚式とフィギュア・スケートのテレビを見なければいけないから早目に温泉に行こう」と言う。

夕方から市内の温泉に行って、19時までに戻り、結婚式の生中継を見た。

ウィリアム王子の頭頂部は、まだ28歳だというのにハゲていて、かわいそうだ。生中継していた日本テレビのスポンサーの1社が男性かつらのアートネイチャーで、マープ増毛法のCMが出て来た時には思わず笑ってしまった。かなりシャレがキツイぞ。

それにしてもキャサリンさんは、かなり気が強そうなシッカリした顔をしている。一般市民の家庭から王室に入るのだから、気が強くなければやっていけないのだろうと思う。

この結婚はイギリスにとっても久し振りに嬉しいニュースだろう。王室の結婚が世界的なニュースになるし、関連商品がかなり売れるのだろうから、それだけで王室の存在意義があろうというものだ。キャサリンさんには、ダイアナ妃のようにならずに幸せになってもらいたいものである。

フィギュア・スケート女子シングルのショート・プログラムは韓国のキム・ヨナが一位、日本の安藤美姫が2位、浅田真央は7位であった。

私の採点ではキム・ヨナよりも安藤美姫の方が数段良かったのだが・・・。それにしても安藤の演技は一時期の低迷を乗り越えて実に素晴らしくなった。モロゾフコーチに恋しているからなのだろうか?表現力が格段に上手くなっている。キム・ヨナも表現力はあいかわらず素晴らしいが今回の最初のジャンプでのミスがあったのにこの高得点とはちょっと・・・。

浅田真央はトリプルアクセル(三回転半)にあまりにもコダワリ過ぎて全体を委縮させているように感じるし、彼女の演技にはキムや安藤に比べて表現力が足りない。それに今回は丁寧に滑ろうとしてスピードがなかった。

演技力というのは持って生まれたセンスとでもいうのだろうが・・・。

浅田真央も恋をしなければならないのかもしれない。


■2011-04-30-Saturday スカイプ

パソコンの

スカイプというアプリケーションで子供達と会話をしている。

次女が、この3月下旬からカナダに留学している。

春休みで帰郷していた息子が、それなら「スカイプ」を入れればタダで通話が出来るよと言う。私にはチンプンカンプンなので、息子に全てやってもらったのだ。

電気屋でカメラとマイクを買ってきて、スカイプのアプリを私のマイコンと娘のマイコンに入れてくれたのだ。

このスカイプのアプリを入れたマイコンを持ってカナダに行った娘と、妻は、毎日、マイコンで映像(娘の顔)を見ながら、話をしているのだ。テレビ電話みたいな感じである。

マイコンを使ってスカイプ利用者同士なら、何分話しても無料なのだと言う。

娘が東京の大学に通っていた時よりも、頻繁且つ長時間の会話が、映像付きでしかも無料だというのだから、一体どういうシステムになっているのか私には理解できない。何とも便利な世の中になったものである。

次女は、この3月に大学を卒業し、希望の職種に就くスキルアップの為に語学の勉強をしに海外に行きたいという希望を持っていた。

大学生時代の4年間、「すき家」でバイトをしてずっと留学資金を貯めていたのだ。私や妻の学生時代の様に、親に頼って好きなことをするのとは違って、自らの力でやろうとしているから、親としても反対は出来ないし、逆に頼もしいと感じる。

娘は中学生までは、活発な長女の影に隠れて、引っ込み思案な大人しい子供であった。高校から本人の希望で親元を離れて、函館白百合女子高校に入学し、寮生活をする中で自発的な性格になっていったようだ。3年生の時には、函館市の五稜郭を舞台にした市民劇に、オーデションを受けて参加するようになっていた。逞しくなったものだ。

今では、安心して送り出してやれるようになった。

スカイプで顔を見ながら話ができれば、親としても安心だし、娘もまた安心だろう。

地球の反対側に暮らしている人間と、こんな簡単にコミュニケーションがとれて、しかも無料というのはとてもありがたいものである。