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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2011-08-01-Monday 電波時計は

我が家の電波時計にはいよいよ

地震予知能力があるようだ。

31日(日)の夜に「全英リコー女子オープンゴルフ」の最終日の模様を見終わってから就寝した。

ゴルフは台湾のヤニ・チェンが圧倒的な飛距離を活かして通算16アンダーで優勝した。前日、このヤニ・チェンと一緒にプレイした日本の宮里美香は通算5アンダーの14位でメジャーの連続10位以内も逃してしまった。ヤニ・チェンのスイングスピードは女子の中では突出している。ミドルホールをほぼワンオンしてしまうような飛距離とフェアウェイを捉える正確さは素晴らしいし、アイアンの精度も見事であった。

優勝を見届けてから寝たのだが、しばらくして、またまた電波時計がグルグルと回り始める音で目が覚めた。枕元の目覚まし時計で時間を確認したら1:00丁度であった。すると20分後に再び電波時計がグルグル回り始めた。2度も回るなんて!と思って寝たが・・・、やはり、夜中の2時35分頃に帯広でも揺れた。

後でニュースを見たらえりも町で震度4だったという。

私のブログを読んでいる方から、この時計のメーカーを教えてというメールが入ったので書いておこう。

この時計は、去年の暮れにHomac(ホーマック)というホームセンターで買ったと記憶している。銀色の丸い壁掛け時計で、正面上部には「M・A・G」と下部には「SYNCHRO WIVE」という文字が見られる。

裏面には「JJY」RADIO CONTROLLEDと「CH−899」CHOUCHINという文字が見える。製造元はノア精機㈱という会社で、CHINAとあるから中国製品であろう。

この時計が、勝手にグルグル回り始めて、一周してまた元に戻るのだが、この現象が起きると1〜3日以内に震度4程度の大きな地震が起きているのだ。

何故、こうなるのかの仕組みを解明したら地震予知に使えるのではないだろうか?誰か研究してみないですか?


■2011-08-02-Tuesday ニュースから

昨日のブログで

我が家の電波時計の地震予知の話で、2回狂ったと書いたが、1日夜中の23時58分頃に静岡で震度5の地震が起きた。

1回目の狂いがえりもの地震で、2回目が静岡の地震だったというのだろうか?

我が家にはもう1台CASIOの電波時計があるが、こちらは全く狂わない。きっとCASIO製品は電波受信能力が高いから、多少の電波の乱れでは狂うことはないのだろうと思っている。

いつも狂う方は中国製だから、おそらく受信能力が低いのではなかろうか?だから、地震の電磁波に惑わされるのではないだろうか?と推測している。

福島第一原発の1号機と2号機の原子炉付近で1時間被ばくしたら「ただちに健康に害を与える」どころか死に至らしめる量の1時間当たり1万ミリシーベルトの放射線が検出されたとかという様なニュースを耳だけで聞いていたので確かではないが・・・。

水素爆発した時のものではないかとも言っていたから、昨日、急に判った訳ではあるまいにと思うのだが、真相はどうなんだろう?

アメリカではデフォルト(債務不履行)がギリギリの局面で回避されたというニュースである。

どうも、この手の国家規模の経済のことは良く理解できない。債務不履行ということは「借りた金は返せん!」ということなのだろうか?

もしも、そうなっていたら、一体世界はどうなっていたというのだろうか?

世界一の国力の国アメリカが借金を返さないと言ったら、世界の経済はどういう動きになるのか、経済の専門家でもよく分からないらしい。

世界で一番アメリカ国債を買っているのが中国で、二番目が日本だという。日本の政治家はアメリカに対してものを言えないだろうが、中国はどうなんだろうか?戦争になるような事態は来なかったのだろうか?

巨額過ぎるお金の動きは実感がまるでわかないし、バーチャル世界の話のように感じてしまう。

おそらくこのディフォルト危機のために円高ドル安なのだろうから、世界には迷惑な話だ。

どこの国も、政治家の質が下がっているのだろうか?日本の政争は世界には対して影響を与えないだろうが、アメリカの政争は世界に即影響を与えるし、且つその影響は計り知れないほどでかいだろう。

共和党と民主党の政争で世界経済を破壊するようなことはしてもらいたくない。


■2011-08-03-Wednesday またまた

3日の午前01時05分(夜中)に

またまた我が家の電波時計が狂った。これまでは地震予知がことごとく当たっているから、きっと1〜3日以内に日本の何処かでまた震度4以上の地震が起こるのではないだろうか?

さて、7月23日(土)に男子プロゴルフのセガサミーカップでプロの打ち方を直に見てから、自分のゴルフのフォームを改造している。

ゴルフ仲間からは、せっかく安定しているのだから直す必要なんてないだろうと言われているのだが・・・。

今まではフェード(やや右に曲がる球)で打っていたのだが、プロの打つドロー(やや左に曲がる球)に惚れてしまったのだ。

テレビで見ている時には、フェード打ちの方が球が止まるので、OBなどの大ケガが少ないと言われていたのを忠実に守ってきたのだが・・・。

しかし、ドローボールの方が地面に落ちてから転がるので飛距離が望めるのだ。

ここ最近は年を取ってきたから年々飛距離が落ちている。そこにフェード打ちでは以前にも益して飛距離が落ちるのだ。

ゴルファーは飛ばしたいという欲望をいかに抑えるかだとも言われているが、それは飛ばせる人間が言うセリフであって、身体的に飛ばせない人間は少しでも距離を稼ぎたいのである。

ゴルフを始めた当初は、オモイッキリ滅茶振りをしていた。常に全力で振っていたから、空振りすることもよくあった。空振りをしたら勢い余って1回転して転んでしまうほどであった。

方向性など無関係で距離だけ飛ばしたいというゴルフであった。だから何処に飛んで行くのか打ってみなければ判らない。大抵が林の中などに飛んで行く。だからトラブルショットだけは上手く打てるようになった。何事も回数をこなせば上手くなるものだ。

十勝環境ラボラトリーを1996年から始めたことで忙しくなって、年間のラウンド数は12〜15回ほどというのが10年間も続いた。もともと練習嫌いだから、ブッツケ本番で年間十数回のラウンドでは飛ばすことにしか興味が湧かなかったのである。

それが、2007年3月末日に北の屋台を卒業してから、年間のラウンド数が50回を越えるようになった。そうなると今度はゴルフは飛ばすよりも、フェアウェイに置く方がスコアが格段に良くなることを身を持って体験できたのである。それからは強振せずにミートすることを心掛けるようになったのだ。しかし、53歳になって体力が落ちてきたら再び距離が欲しくなったのである。

そのキッカケのひとつは、ロングアイアンが打てなくなったことだ。昔はウッドクラブが不得手であった。バッグの中にはドライバー(1番ウッド)しか入れていないことや、ドライバーの調子が悪い時にはスプーン(3番ウッド)しか入れていなかったことがあった。

その分2番アイアンという難しく長いクラブを使っていたほどだった。それが、いつしか3番アイアンが打てなくなり、今年は4番アイアンも上手く打てなくなってきた。

それに替るユーティリティというウッドとアイアンの合いの子みたいなクラブを使うようになってきたのだ。

まぁ、フォーム改造が吉と出るか、凶と出るかは今シーズンの終わりにまた書くことにする。


■2011-08-04-Thursday 靴!?

3日の終業後に

会社から真っ直ぐに、妻と買い物に向かった。

スポーツシューズが破れてしまったので、買い替えようと思ったのである。

ゴルフボールと手袋も買いたいので西19条のゼビオスポーツに行くことにした。ついでにゼビオの下の階にあるフクハラで晩ご飯の食材も一緒に買ってしまうつもりだ。

会社から白樺通りを西に向かって進んでいた。競馬場の前の信号機で止まっていたら、左側の道路から右折して来た車の屋根の形が変だ。妻と「可笑しな屋根の車があるなぁ〜」と話していたが、近くに来たら、何と運転席の屋根の上に白いバスケットシューズが乗かっているではないか。慌ててライトを点滅させて教えてあげようと思ったのだが、相手は気が付かずに通り過ぎて行ってしまった。

推測するに、運転する時に、他の靴に履き替えて、脱いだバスケットシューズを車の屋根に乗っけて、そのまま仕舞うのを忘れたまま車を走らせてしまったのだろうと思う。

何処から運転して来たのかは知らないが、良くここまで落とさずに走って来たものだ。きっと何処かで激しくカーブでも切ったら落としてしまうのだろうなぁ、まだ新品の様に見えたけど・・・。

ゼビオでは実に沢山の種類の靴が並んでいて選ぶのに苦労した。お目当てはアシックスの新製品の靴の底まで通気用に穴が開いている靴だ。

私は汗かきだから、靴下が濡れるほど汗をかく。この靴ならこれからの季節は涼しく感じて楽かなと考えたのだ。だが、穴だらけ、メッシュだらけだからやたらと軽過ぎるのと、雨の日などには逆に水が入ってきて靴下が濡れてしまうかなと思って止めた。

結局、ReebokのDMXMAXというクッションがよい革靴風のビジネス用にも履けるブラウンの靴を選んだ。ふかふかしてドクター中松のジャンピングシューズを履いているかの様に感じる(ジャンピングシューズは実際には履いたことが無いが)。

それにしても最近の靴は、各メーカーが色々と工夫を凝らしているのだなぁ。随分と靴も進化しているようである。

汗症で靴がすぐに痛んでしまうから、靴が安くなったのは有難いことだ。


■2011-08-05-Friday オカシナ

5日の午前01時05分に

また我が家の電波時計が狂ってグルグルと回り始めた。

だが、3日に狂った後には震度4以上の地震が起きていない。これはどういうことなのだろうか?

いつも狂うのが夜中の1時頃というのも何故なのだろうか?しばらく様子をみてみたい。

さて、ニュースを見ていて、政治家の言葉使いに、とても違和感を感じた。まずは野田財務大臣が「為替介入をさせていただいた」と言った言葉だ。国民に敬語を使って、上から目線的な印象を避けたいというつもりなのだろうが、、ここは「為替介入をしました」若しくは「為替介入を行いました」が妥当な使い方だろう。「させていただいた」はかえって気持ちが悪い用法である。

海江田経産相の言葉使いも厭らしい。

それに加えて、今回の経産省役人トップ3人の更迭発表会見は何だかスッキリしない。「人事権は私にある」と2回も同じ言葉を会見で発していたが、これは菅首相と海江田大臣との間で、人事の主導権争いをしているようだ。

どちらも、棺おけに片足突っ込んだような死に体大臣なのに、子供の喧嘩みたいなことを、この時期に国のトップがやっていることの恥ずかしさを判らないのだろうか?

海江田大臣も経産省の役人に取り込まれた様で、首相官邸が経産省の人事権にまで及ぶ事態を避ける為に、首相が会見する前に、慌てて海江田大臣に会見させたのだろう。そんな役人の策に乗っかる方も乗っかる方だが・・・。

今回の人事は更迭とは表現されているが、就任からすでに1〜2年以上経っているので、この辺りで替るのが当たり前で、通常の人事と何ら変わらないとのこと、それを更迭として一応、責任を取ったというポーズを示しただけとの見方もあるようだ。

民主党は「子ども手当」を大幅に見直して、2012年度から子ども手当を廃止し、「児童手当」を拡充復活させる方向で自民党と公明党に譲歩して合意したという。

鳩山由紀夫元首相が「民主党の理念はどこにいった。何の為の政権交代だ」と反発しているようだ。だが、民主党は「子ども手当」の為に政権交代をしたのか?

だいたいが、選挙前は子ども手当の財源は簡単に捻り出せる。月額2万6千円を給付すると言っていたのに、蓮舫の事業仕分けでも財源が捻出できずに、あっさりと半分の1万3千円に減額しておいて良く言うよ。

まぁ、自分の政党の党首をペテン師と言うくらいなのだから、国民に対しての責任はまるで考えていないようだが・・・。

これほど、政治家の発言が軽いことって、これまでにもあったのだろうか?もはや情けないというのを通り越して呆れてしまっている国民も多いのではないだろうか?


■2011-08-06-Saturday 地震予知?

6日の午前1時に

またまた我が家の電波時計が狂ってグルグル回り始め、20分後に正常に戻った。何故だか狂うのは決まって夜中の1時である。

さて、5日(金)の夕食後に妻とテレビを見ながら「3日に狂った時の地震がまだ起きていないねぇ〜」と話していたら20時ちょっと前頃にテレビで地震速報のテロップで青森県の八戸で震度3の地震があったという情報が流れてきた。すわっこれか!と思ったがテロップでは震度3だから違う、我が家の電波時計は震度3では反応しないのだ。だから、まだこの後に震度4以上のが起きるはずだと思っていたら、案の定20分後くらいに福島県いわき市で震度4の地震が発生した。

私はこの電波時計の地震予知はかなり正確だと考えているのだが、私のブログの読者の方から「電波時計が狂ってから1〜3日後に日本の何処かで震度4以上の地震が起きると書いているが、こう頻繁に地震が発生していたら、1〜3日という長さではいつ発生した地震に対応しているのかハッキリしないのでは?」というメールを頂いた。まさにその通り、こう頻繁に地震が発生していてはいつの地震に対応したのかは分からない。

もうひとつ別の方から「1回の地震で、電波の乱れは1回だけなのでしょうか?」との質問メールである。これは私は地震の専門家ではないので判らない。私の推測は断層のズレで地面と地面が擦れる時に電磁波が発生して電波時計の受信がオカシクなるのではないかと考えているのだが、この地面のズレが1回しか起きないのか、何回も起きるのかは私には判りません。あしからず。

さて、先日、現在私が所有する音更町共栄台東10丁目の土地を売るつもりがないか?との打診があった。

この土地は父が購入したものだが、父は「煙と○○は高い所が好き」というのか、小高い土地が好きで、購入した土地はほとんどが高台なのである。

この土地も小高い丘のてっぺんで南東の方角に開けた景観抜群の場所である。

我が家の自宅兼会社を、現在の坂本ビルの場所に建てたのは祖父で1925(大正14)年のことであるが、その建物は1967(昭和42)年11月27日に火災で全焼してしまった。

父はその場所にサニーデパート(現在の坂本ビル)という名称で地下1階地上6階建ての商業ビルを建て、自宅は別の場所に建てることにした。その時に自宅建設場所をこの共栄台の場所にするか、現在の自宅がある場所にするのか随分悩んだという。それだけロケーションが最高の場所なのだ。

結局、帯広市民でないと、何かとまずいだろうということで帯広市内の現在地に自宅を建てることにしたようだ。

現在の自宅の建っている場所も小高い丘だったのだが、土地を削って低くしてから建てたという場所である。

音更の共栄台も父が買った時には家がほとんど建っていなかったが、逆に現在は空き地は私の土地ぐらいになる程家が建っている。

敷地は350坪あるが、広過ぎるので分割して半分だけ売って欲しいと言われたが、南東側〜東側にかけては崖状なので残念ながら半分にすることは出来ないのだ。

さてどうしたものか。


■2011-08-07-Sunday 土曜日

6日の土曜日は

帯広市の最高気温は33.4℃もあって、しかも蒸し暑い。朝方、犬の散歩で家の周りをちょっと回っただけで汗が出てくるほどだ。

午前中は台所のガス台の付け替え工事の業者が来て作業していった。古いガス台は18年間も使ったものだが、最近はガスの着きが悪くなってきたので、ガスだけに危険があると考えて、火災が恐ろしいから交換することにしたのだ。古いガス台を外してみたら、その下がかなり汚れている。ガス台の中央に付いている魚焼の部分の下部が熱で溶けていて、このまま使い続けていたらかなり危険な状態になりましたねと業者の人が言ったのだった。アブナイ、アブナイ。

妻が午後から河川敷のゴルフ場に行きたいと言う。さすがに今日は暑いから3時過ぎの少し涼しくなった頃に、黄昏ゴルフ料金で安くなってから教えて欲しいと言うのだ。

まぁこの辺で妻の機嫌を取っておくのも悪くないと承諾した。

3時過ぎに札内川河川敷ゴルフ場に行ったら、さすがに暑過ぎるからか客はほとんど居ない。今からプレイするのは我々だけだから、ゆっくりとプレイ出来ると喜んだ。混んでいる時に初心者の妻に教えながらプレイするのは気が急いて嫌なのであるが、後ろに誰も居ないとなるとユッタリできる。

乗用カートを借りてインコースの10番のティグランドに立って打ち始めた。第二打地点に行ったところで暗雲が立ち込めてきて雷がゴロゴロと鳴り始めたら、妻が雷は恐いから止めようと言う。止めるなら早い方が良いと思い。すぐに引き返したらそこで大粒の雨が降ってきた。カートを返却したら、料金を全額返してくれたので助かった。

帯広に戻ろうと札内大橋を渡ったところで、妻が「西側の空は明るいから、ここの西側にある十勝川河川敷ゴルフ場ならプレイできるかもしれない」と言い出したので、そちらに向かった。15分も離れていない距離にあるのだ。

十勝川河川敷ゴルフ場に着いたら、また雨がポツポツと降ってきたのでさすがの妻も諦めた様子である。雨の中でプレイはしたくないらしい。今度は、家に戻る途中にある競馬場の打ち放しのゴルフ練習場で少し打ちたいと言うのでお付き合いした。しばらく打っていたら、バケツをひっくり返した様な豪雨が降って来た。

あのまま強行しなくて良かったぁ〜。妻は雨女なのだろうか?

雨が上がっても蒸し暑い。汗で背中までビッショリである。こうなったら自棄(やけ)で味噌ラーメンにタップリとトウガラシを入れてもっと汗をかいてやろうとラーメン屋に寄って汗だくになりながらラーメンを食べて帰宅したのであった。


■2011-08-08-Monday 7日

7日日曜日は

墓参りに行って来た。今日も暑くなるという天気予報であるが、午前中ならまだ涼しいだろうと、9時に母と弟の家族とで墓掃除とお参りに行ったのだが・・・。

今日の最高気温は32.1℃、昨日よりも若干涼しいが、それでも蒸し暑い。

お墓には日蔭が無いから、暑いこと、暑いこと、瞬く間に汗が噴き出てきてシャツからパンツにいたるまでビチャビチャになってしまった。

我が家の墓は、昔は東8条の帯広墓地にあったのだが、父が西25条のつつじが丘霊園に昭和52年8月に移転させたので遠くなってしまった。

生前に父に聞いた話では、帯広墓地を移転させる計画があったのでその話に乗ったのだそうだ。1976年昭和51年の書類を見ると、帯広市との墓地移転の契約では11万円の移転補償金を帯広市からもらっているが移転費用に1,325,000円も掛かっているから割に合わないが、帯広墓地は祖父が昭和初期に建てたもので、土台を作っていないので、冬の地面の凍結等で盛り上がったり、沈んだりして倒れ掛かったりしたからだと言っていた。隣にあった親類の墓は移転せずにそのまま帯広墓地に残ったので祖母がお参りに行くには離れた二箇所に行かねばならず、かなり面倒なことになっていたのだ。我が家のお墓が移転した後には、給水&照明施設が出来たので親類からは喜ばれたが・・・。

とにかく我が家は昔からお墓参りの好きな家で、昔のアルバムにはお墓で写した写真がやたらと沢山ある。以前、友達にアルバムを見せたら

「何でこんなにお墓の写真があるんだ?」と訝られたくらいなのである。

しかし、ご先祖様に感謝する気持ちというのは、子どもたちにも伝えていかなければいけない風習だと思っている。自分がこの世に生れて来られたのはご先祖様がいたからに他ならないからだ。

午後からは、同年の仲間のゴルフコンペが帯広国際CCである。

厄年の時に神社にお払いに集まった、酉年生まれと戌年生まれ((1957年2月4日生以降〜1958年2月3日生まで)の人間が毎年集まって飲み会とゴルフを楽しんでいるのだ。名称は酉戌会(ゆうじゅかい)という。

この日は暑かったからかドタキャンもあって9名の参加であった。

Wぺリア方式のコンペであったが、私が東コース41打、中コース41打、HC8.4で優勝した。

今日の課題はアイアンの新しいスイングを試すつもりであったが、ドライバーが良過ぎて、セカンドショットがウェッジになるので、結局7番アイアンを4回打っただけで他の4〜6と8・9番は出番が無かったのであった。

だが、7番Iが球が上がらないので苦労した。今度はスコア無視でアイアンだけで回ってみることにしよう。


■2011-08-09-Tuesday 高校野球

夏の甲子園大会に

地元の帯広白樺学園高校が出場している。

今日4日目の第三試合で鳥取商業高校と対戦した。

午前中は試合があることを覚えていたが、午前中に来客が2件あってすっかり忘れていた。

午後3時からは十勝毎日新聞社で14日からの「北の大地de大道芸フェスティバル」の打ち合わせ会議の予定が入っている。明日からも予定が一杯に入っているので、床屋に行くには今日しかないと、勝毎の近くの馴染みの床屋に行って、終わったらその足で会議に出席しようと考えた。1時半頃に入店したらテレビで丁度、白樺対鳥取商戦が映っていたので、あぁ、そういえば今日は白樺学園の試合だったと思い出したのだった。幸い、床屋も空いていたので直ぐに散髪してもらうことができて3〜9回までテレビ観戦することが出来た。

ここのテレビは鏡用に逆映しになっているから散髪しながらでないと、普通に見られないのだ。

9回表まで白樺学園が2−1で1点のリード、このまま勝つかと思ったら、9回裏、鳥取商最後の攻撃でいきなり先頭打者がヒット、次の打者がレフトオーバーの3塁打を打って同点になり、無死三塁でサヨナラ負けの絶体絶命のピンチになった。この時点で散髪が終了し、時計は2:50になってしまった。床屋さんから勝毎まで徒歩1分だからギリギリまで見ていようと思った。

すると何と、この外野フライでもスクイズでもサヨナラ負けの大ピンチを、次打者を三振、次の打者を浅いレフトフライでタッチアップをさせず、最後の打者はセカンドゴロで凌いだのだった。そのまま最後まで見ていたかったが、会議は私が居ないと始まらないから、観戦は断念して会議に向かったのだった。

会議の途中で、白樺学園が勝ったという知らせが入った。

まずは地元が勝って嬉しいが、鳥取商にしてみれば何とも悔やまれる9回裏の攻撃であったことだろう。やはり中途半端はいけない。監督がしっかりとスクイズならスクイズをさせなければいけない。元々決定力が不足気味のチームなのだから・・・。

でも、これでまた白樺学園には寄付金を払わねばならないのだろうなぁ。

生徒の応援団の連中はどうするのだろうか?次の試合は14日で智弁和歌山との対戦だというが、飛行機代が高いから、一旦帰って来て再び戻るという訳には行かないだろうし・・・、宿泊代だって5泊ならバカにならないだろうし・・・。

何にせよ金の掛かるこっちゃ!


■2011-08-10-Wednesday 暑い夏!

10日の午前1時にまた

電波時計が狂ったが、もうこのことをブログに書くのは控えようと思うっている。これだけ頻繁に地震が発生していては大して予報の効果もないだろうし・・・。

さて、今朝の読売新聞朝刊の1面トップ記事に「首相、月内退陣強まる」との大見出しが出ていた。

菅首相の退陣の3条件と言われている、「2011年度第二次補正予算案」は既に成立しているし、「特例公債法案」は11日に衆院を通過して月内成立が確実になった。「再生可能エネルギー法案」も31日に成立する方向とのこと。これで退陣3条件が整う見通しとなったことで、記者団から「退陣3条件が整ったら退陣するのか?」との質問に、菅首相は「これまで自分が言ってきたことについては、ちゃんと責任を持つ」と述べたことを受けての大見出しだろうが・・・。

「ちゃんと責任を持つ」という言葉のどこに「退陣する」という意味が含まれているのだろうか?

第一、菅首相はまだ本人は退陣するとは一言も言っていないのではないのか?

希望的観測なのか?はたまたペテンなのか?私は月内退陣はないと予測している。

北海道では泊原発の問題が騒がしい。

北海道電力は9日、定期検査中で調整運転(定期検査中に実際に原子炉を起動させて発電所内の稼働状況を確認する為の運転)している泊原発3号機について営業運転に移行させる為の最終検査の受検申請を海江田経産相に行った。

最終検査は9・10日の両日に行われ、結果は11日予定の原子力安全委員会で報告されるという。

これに対して、北海道の高橋はるみ知事が噛みついた。7月14日に知事が海江田大臣に求めていた質問書の回答が来た9日直後に、北電は最終検査の申請を行ったからだ。「地元自治体の意向を踏まえてから判断するように求めていたのに、頭越しにいきなり申請するのは地元軽視だ」と言うのだ。

高橋知事の会見ではかなり(国対して)怒っているように見えたが・・・。

でも、何だか釈然としないなぁ〜。

この怒りは、メンツをつぶされたからなのか?それとも原発を稼働させるからなのか?

北海道としては原発を稼働させたいが、すんなり稼働させれば反原発の道民から非難される。北電が勝手にやったことを怒ってみせても、結局原発は稼働するし・・・。

政治の世界はよく判らん!


■2011-08-11-Thursday 政治

10日、帰宅して

ニュースを見たら菅直人首相が衆院の委員会で自身の退陣を明言したという。

国会の委員会とはいえ、議員の面前でテレビカメラもある中で辞任を口にしたからには今度こそ本当なのだろうと思いたいが・・・。

それにしてもだ、その後のニュースで26日までに退陣3条件を国会で可決して、早ければ28日に民主党代表選を行なうというスケジュールが考えられるとのこと??????????

民主党の代表選で選ばれた人間=日本国の首相だぞ!

その期間がたった2日間で良いのか?

どだい、まだ候補者すら決まっていないのに・・・。

ニュースでは野田、馬渕、海江田などの名前があがっていたが・・・。

どれも器ではないような感じがするのだが・・・。

今日のブログはやたら「・・・」が多いが他に書き様がない。

何とも情けない状況だ。

もうひとつ、気になるニュースがあった。石巻の幼稚園で津波に飲み込まれて死亡した園児の親達が、幼稚園を相手取って損害賠償の訴訟を起こしたというニュースだ。

最初は津波は天災なのだから訴訟は・・・と思ったのだが、聞いている内に親の気持ちが理解出来るようになった。

高台に位置する幼稚園は津波の被害には合わなかった。また地震の際の幼稚園の対応マニュアルには、親が迎えに来るまで幼稚園に園児を留め置く様になっていたという。

それをわざわざ、バスに乗せて海側に行き、そこで津波の被害に合ったのだという。幼稚園は何故、そんなバカな対応をしたのだろうか?

幼稚園バスに園児を乗せて、地震の被害に合った自宅に送り届けても、親が自宅に居なければ、どうするつもりだったのか?まったく理解に苦しむ行動だ。

これでは、失わなくても良い人命を、判断ミスで失わせたに等しい行為に見える。今後の裁判の行方に注目したい。

自分で判断出来ない幼稚園児の命は、幼稚園が守って上げなければいけないだろう。

もうひとつ、同じ被災地の自動車学校でも訴訟が起きているという。

でもこちらは、少なくとも18歳以上の大人が対象だ。自動車学校が授業を続けると言ったとしても、自身が危険と判断すれば、その場を離れれば良いのだ。

自分で判断できる大人と、判断できない幼稚園児では当然ながら異なる司法判断が下される事だろうと思う。

結局、大人は、自身の命は自身で守らなければいけないのだと思う。


■2011-08-12-Friday 読売風向計

2011年08月11日読売新聞北海道版「風向計」掲載

「移動する家」の可能性

帯広市中心街にある屋台村「北の屋台」が、7月29日で開業満10周年を迎えた。私は2007年3月末で「北の屋台」の事業から卒業したが、法律の規制や先入観といった数々の壁を打ち破り、日本で唯一の「完全遵法の屋台村」を作り出したことは今なお、誇りだ。

「北の屋台」に携わったおかげで国土交通省などからは「観光カリスマ百選」の一人に選ばれ、現在、全国各地で展開中の「屋台を生かしたまちづくり」で助言を求められることも多い。

最近では6月初旬、「トレーラーハウスを使って東日本大震災の復興の手伝いが出来ないだろうか」という相談を受けた。トレーラーハウスを一言で表現すると「車で引っ張って移動する家」となろうか?

私は当初、ハリウッドの映画スターがロケ撮影の際に寝泊まりする大きめのキャンピングカーといったイメージを描いていた。しかし、資料を見ながら説明を聞いているうち、認識はかなり変わった。立派な住宅であり、店舗でさえあると思えたのだ。

被災地では自治体が「仮設住宅」を建設しているが、貸与期間は2年間という。その後、解体してしまうわけで非常にモッタイナイ。トレーラーハウスなら別な場所に移動させることが可能で、別用途にも使えるために解体の必要もない。

ジャッキで土台の高さを調節できるから、むしろ仮設住宅よりも地震に強いのではないだろうか。価格は300〜500万円ほど。解体せずに2次使用できることを考えれば、むしろ割安かもしれない。トレーラーハウスの普及は日本人の家に対する認識を一変させる可能性すらある。

私が注目したトレーラーハウスは住宅型よりも店舗型。10台も並べたら立派な商店街になる。その場所で使命を終えたら、別の場所に移動させれば良いわけで、初期投資額やリスクは小さい。私が考案した屋台村の形態を、大きくさらに立派にしたような形になるのだ。

トレーラーハウスはプレハブの味気ない四角い箱とは違って、屋根のある普通の建物というイメージを醸し出している。そこで、提案だ。北海道の自治体は、トレーラーハウスを常時、数台ずつ所持してはどうだろうか?

住宅型は中期滞在型観光の拠点として、または視察研究時の宿泊場所に使える。店舗型は駐車場や空地などに展開して仮設商店街を催してみると面白い。そして、災害が発生した時にはそれらを集め、仮設住宅や仮事務所、臨時の商店に活用する。検討の価値は十分にあると思うのだが。


■2011-08-13-Saturday アンコール・ワット

11日に書籍が届いた。

上智大学の前学長の石澤良昭先生からだ。

本と言うよりは資料と言った方が適切かもしれないが「アンコール・ワット西参道修復工事第一フェーズ」という題名で、日本語と英語で書かれている477ページの厚いものである。

石澤先生とは帯広市の出身ということで知己を得た。

以前にこのブログでも詳しく書いたが、1995年から私が帯広市の大学設置委員会の委員になった際に、石澤先生が副委員長を務められたのが縁になった。

その後、十勝環境ラボラトリーの講師としてお招きしてから親しくさせていただき、これまでに3回もカンボジアにご招待を頂いている。

石澤先生には同郷の者としてとても誇りに感じている。

日本は海外に対する支援を数々行っているが、上智大学の事業は、その中でもトップクラスの実績を上げている事業だと思う。

その実績の一番は、この事業がお金に任せた事業ではなく「カンボジア人による、カンボジアの為の遺跡保存修復」という理念が素晴らしいのだ。

カンボジア人に石工の技術などを教え、自らの力で修復できる様にしているのだ。その技術を学んだカンボジア人達が、今度は指導者となって、また新たなカンボジア人達に技術を伝えるようになってきたと手紙に書いてあった。

1996年8月から始まったアンコール・ワットの西参道の修復工事は2007年11月に完成したが、その式典にもご招待を受け、夫婦で参加してきた、今回の本はこの修復事業の歴史を解説している。

また、遺跡発掘技術の指導も行っているが、その研修中に偶然、廃仏を274体も発見するという奇蹟が起った。これまでの学説を覆すような重大な発見であった。これは素晴らしい活動をされている石澤先生に仏様がご褒美を差し上げたのではあるまいか。

石澤先生は今年の3月で学長を退かれたが、今後は学長としての仕事が減った分、カンボジアに力を傾注できる事だろうと思う。

今後も素晴らしい活動を続けられるよう微力ながら応援していきたい。


■2011-08-14-Sunday 大道芸の見(味)方

2011年08月13日十勝毎日新聞16面掲載

北の大地de大道芸フェスティバル「大道芸の見(味)方」

さぁさぁ毎度おなじみ、大道芸の季節が今年もやって来た!

帯広の大道芸は今年で10回目(北の大地で大道芸フェスティバルとしては8回目)を迎え、すっかり夏の風物詩になったようで、大道芸を目当てに平原まつりに来る人も増えているという。

2002年にたった1組(ファニーボーンズ)からスタートした催しだが、規模は小さいけれども一流のパフォーマーが訪れる質の高いフェスティバルだと自負している。

今年はこれまでプロデュースをお願いしていた「ファニーボーンズ」の海外遠征公演の日程と重なったため一時は開催が危ぶまれたが、彼らの所属事務所社長の献身的な協力で開催できるようになった。感謝である。それだけに今年は今まで以上に盛り上げたい。今年の招へい芸人は8組、このうち、初めて登場するメンバーが3組いる。

大道芸は芸人と観客が一体となって作りだす路上のエンターテインメント。観客も見るだけではなく、一緒に場を盛り上げるノリが大切だ。芸人も人の子、乗ったら普段やらないパフォーマンスまで披露してくれるかもしれない。芸人から「お手伝いを!」と頼まれたり、芸の途中で「イジラレタリ」した時は恥ずかしがらずに快く対応しよう。演技に参加すると別な意味で楽しく見ることができる。

大道芸には劇場が無い。いわば路上の空間すべてが劇場だ。だから入場料は掛らないが「投げ銭(なげせん)」という風習がある。「投げ銭」とは演技が終わってから、見ている観客がお金を払うことを言うが、出すも、出さないも、金額の多寡も観客の自由。スゴイ芸だと感心したら財布丸ごと出してもOKだし、つまらないと思ったら1円も払わずに立ち去るのもOKである。芸の評価を何円に換算するかは観客の気持次第だ。

通例、演技終了後に芸人が帽子を持って立っている。その際「投げ銭」の字面通りにお金を投げるのはとても失礼な行為だからキチンと帽子に入れに行ってほしい。その際にサインや握手を求めると芸人はさらに喜ぶ。

基本的に大道芸人にはギャラが存在しないから投げ銭が収入のすべて、だから、この投げ銭集めも立派な芸の一つだ。投げ銭集めが下手だと、いくら芸が素晴らしくても生活が苦しい。大道芸人というのは音響係から集金係まで何でもかんでも兼務しているパフォーマーなのである。

帯広では路上でのパフォーマンスは、「平原まつり」のとき以外には基本的に禁止されているから、ぜひ、この少ない機会に大道芸を楽しんでもらいたいと思う。

最終日にはサプライズ演出も用意してあるとのことなので、そちらもぜひお楽しみに。

平原まつりの14〜16日の3日間は雨が降らないことを祈ろう。


■2011-08-15-Monday おびひろ平原まつり

今年もおびひろ平原まつりが

13日夜の勝毎花火大会を皮切りに16日まで開催される。

この平原まつりと一緒に「北の大地de大道芸フェスティバル」を開催している。

大道芸は「北の屋台」をオープンさせた翌年の2002年から、屋台のパフォーマンス部門の充実を狙って始めたものが、段々と大々的になって発展してきたのだ。

私が考えた屋台には「飲食」「物販」「パフォーマンス」の3つの部門がある。

「北の屋台」は飲食部門でスタートさせたので、翌年にはパフォーマンス部門を充実させ、翌々年からは物販部門を充実させる計画であった。

その絶妙のタイミングで旧知のマジシャン仲間から紹介されたのが現在の「ファニーボーンズ」の二人なのである。

当時はまだ「キャプテンケーボー&クリスピークリス」と名乗っていた。

彼等の事務所の女性社長である金丸雪菜さんとケーボーとクリスの3人と私で大いに飲んで芸能論を戦わせて意気投合したのであった。

私は大学を卒業したらプロのマジシャンになりたかったくらいだから芸能に関しては一家言持っているつもりだ。

まぁ何にせよ、縁あって以来10年間に亘って交流させてもらっている。

彼等も帯広を気に入ってくれて、パフォーマ仲間に声掛けをしてくれていろいろなタイプの芸人を帯広に連れて来てくれる。

芸人同士が「この人は!」というプロを連れて来てくれるのだから、いつも一流の芸人達が集まるのが帯広の大道芸の特徴だ。

規模は小さいが一流芸人が揃う珍しいフェスティバルなのだ、山椒は小粒でもピリリと辛いのである。

今年は、ファニーボーンズの海外遠征公演の日程と重なってしまい一時は開催が危ぶまれたが、金丸さんの尽力で何とか開催することができた。

今年の出演者は、「ダメじゃん小出」「ユキンコアキラ」「ガベジ」「PLE-MIX」「アンソニーリビングスペース」「だいち」「マサトモジャ」。

そして、「ファニーボーンズ」は何と、最終日の16日にスイスから駆け付けてくれるので最終的には8組になる。この内、3組が帯広初出演である。今年も楽しい芸が見られそうだ。期待しよう。


■2011-08-16-Tuesday 平原まつり

今年の平原まつりは観客の出が少ないように感じる。

(この文章は15日の午後4時に書いている)

14日の初日は日曜日だというのに人の出が少ない。原因を探ってみるに、その第一は白樺学園高校の甲子園の第二回戦目が、この日の2戦目にあるので皆、家庭でテレビ観戦しているのかもしれないということがある。

二つ目は雨が降りそうな天気(実際に午後から降ったが)で蒸し暑かったこともあるかもしれない。

例年よりもかなりの人数が減っているように感じた。

大道芸は、そんな中でも、始まる前から人の輪が出来るほどであったから、10年目で定着してきたこともあるだろうし、人気がかなり高い催しではないかと思うのだが・・・。

どうも「投げ銭」の集まり方が例年より悪いように見える。

私が前日813日)の勝毎の寄稿文で「1円も払わずに立ち去るのもOK」などと書いたものだから、それを真に受けて観客が払わずに立ち去っているのかと心配になってきた。

はたまた、東日本大震災の影響なのか、それとも不況なのか?

芸人さんも人の子だから「投げ銭」の集まり具合の良さが、パフォーマンスの善し悪しにも影響を与える。

お盆の高額な交通運賃の時に、帯広まで来てもらっているのだから、少しでも多く「投げ銭」を稼いでもらいたいと思うのだが・・・。

人間の心理とは恐ろしいもので、誰かが1000円札を入れると連られて同じ札を入れる傾向があるが、逆に子どもが小銭を入れると、大人も連られて小銭を入れてしまい易いものなのだ。

誰か、気前よ良く、お札を早い段階で入れてくれないかなぁ〜。

アッこれは九電のようなやらせではなく、あくまでも願望ですが・・・。


■2011-08-17-Wednesday 大道芸フェス

大道芸フェスティバルが終了した。

今年も8月14〜16日の三日間に渡って8組のパフォーマーに演じてもらったのだが・・・。

招聘芸人は皆、一流の芸人ばかり、他の都市から見に来ている大道芸ファンの人が、「帯広の大道芸フェスは、どうしてこんな一流芸人ばかり集められるか?帯広の人達は幸せだ!」と不思議がって、羨ましがっていたほどだ。余所の大道芸フェスでは一流どころは3組ほどで後は素人に毛の生えた、まだまだ未熟な芸人が多いとのことなのである。

逆に、帯広の人達は最初から一流芸人の芸しか見ていないから、これが当たり前だと思っているのかもしれないが・・・。

今年は、誰の精進が悪いのか知らないが、何と三日間とも雨が降った。

「芸人殺すにゃ刃物はいらぬ、あくびの一つもすれば良い」という江戸時代の戯れ句を元にして「大道芸人殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降れば良い」という戯れ句を以前に作ったが、まさにそれが現実になってしまった。

今年のように雨に降られると、屋根の掛かっていない平原通りでは大道芸が出来ない。天候に関係なくできる広小路の場所に、他の演目の人達も移動したがるから、その調整が大変だし、結局は演技回数が極端に減ってしまうことになる。

基本的に「投げ銭」で生活している大道芸人は、雨が降って演技が出来なければ収入がゼロということになる。

もうひとつの問題点は交通費。

「おびひろ平原まつり」は曜日に関係なく毎年14〜16日のお盆に合わせて開催されるので、この時期の飛行機運賃は全く割引が無い。

だから東京羽田空港ーとかち帯広空港間の片道正規料金4万なにがしが掛かってしまう。

単純に、8組12人の芸人の旅費だけで100万円近く掛かってしまう計算になる。

ここ最近はスポンサーが減り気味なので、この交通費は痛い出費になる。

往復で8万円もの交通費を掛けて、結局、雨で演技が出来ずに収入が少なくなれば、費用対効果が悪いということになってしまう。

帯広に来てもらっている芸人達は皆、スケジュールが一杯の売れっ子一流芸人ばかりであるが、そのスケジュールを調整して何とか来てもらっているのに、肝心の天気が雨ではどうしようもない。

「平原まつり」は他の伝統的な演目も沢山あるし、大道芸は新参者だから、どうしても対応は一番後回しになってしまうようだ。

雨の日でも十分なパフォーマンススペースが確保出来るような体制を構築しないと、芸人側から見た帯広の魅力は無くなってしまうだろうと危惧している。

今年の3日間の雨でそのことを痛感した。

来年は、お盆期間を避けて、開催してみるのも一つの手段かもしれない。そうすれば飛行機賃もスーパー早割り料金なら往復3万円以内で確保できるだろう。

問題は果たして大道芸だけでどれだけの観客を集められるかだ。

まだ私案の段階であるが「七夕まつり」の土日と街中歩行者天国を上手く活用できないだろうかと考えている。

検討の価値は十分にありそうである。


■2011-08-18-Thursday 大道芸フェスの感想

今年の「北の大地de大道芸フェスティバル」は

3日間の日程を終了したので、ここで今年の総括をしてみたい。

まずは芸人の選定からプロデュースまでお願いしている「ファニーボーンズ」がヨーロッパでの遠征公演の日程と重なったことで一時は開催そのものが休止の危機に陥ったが、彼らのマネージャーから社長業まで何でもやっている金丸雪菜さんが事前に手配を全て済ませていてくれて、しかも彼女はスイスから前日に戻ってきてくれて、仕切ってくれたので無事、開催に漕ぎつけることが出来た。ファニーボーンズもスイスから直接、成田ー新千歳ー帯広と乗り継いで駆けつけてくれて最終日16日には、時差ボケが取れない中、演技もやってくれた。

帯広の大道芸ファンにとってはファニーボーンズは無くてはならない存在になっているように感じる。まずは金丸さんとファニーボーンズには感謝したい。

例年、帯広の大道芸には、他所の大道芸フェス関係者がうらやましがるほどの一流の芸人たちが集まってくれるが、今年も素晴らしいパフォーマー達が来てくれた。

ここでエピソードを一つ紹介しておこう。

2日目15日のナイトパフォーマンスの照明係をやっていた私の横に、若い女性がビデオカメラとカメラを持った若い女性が近寄って来て、「隣で撮影させてもらっても構いませんか?」と聞くので「どうぞ」と場所を少し空けてあげたら、「私は沖縄から来たんです」と言うのである。「エッ、沖縄から?」。今年は沖縄から「だいち」と「マサトモジャ」の2人が参加しているから「彼らの追っかけなんですか?」と質問してみた。すると「いいえ、私は大道芸が大好きなんです。帯広の北の大地de大道芸フェスティバルはすごい芸人さん達が一堂に会するので是非とも見たいと思ってやって来ました。大道芸が大好きだからだいちさんは知っていますが、別に追っかけという訳ではありません」とも言う。

彼女は翌16日も私の横で撮影していた。「ユーチューブにでも流すんですか?」と聞いたら「いいえ、あくまでもわたしの趣味です」と答えた。ディープな観客がいるものだ。わざわざ、沖縄から帯広まで、大道芸フェスを見に来てくれる観客がいるとは嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。

さて、このブログでは一人一人の芸の内容を評価することはあえてしないが、かなり大きく分けると傾向が二つに分かれている様に感じた。

それは、予定調和的にプログラムを作り込んで見せるタイプと、逆に暴走的にその場その場の雰囲気でアドリブを入れながら見せるタイプの二種類である。大道芸はもちろんライブだからその中間型が一番多いのであるが・・・。

帯広の大道芸は今年で10年目であるし、最初から一流の芸人達のパフォーマンスしか見ていないから、観客の目は他の地域よりも肥えていると思いたいが・・・。

今年の帯広の観客は総じて、予定調和的な芸風を好むのではないかと感じたのだ。

テレビドラマで言えば「水戸黄門」的な勧善懲悪の、最初から筋書きが決まっていて安心して見ていられる芸風である。

きっと心の安定を求めているのだろうと思う。

あぁ、でもそれなのに水戸黄門は今年で打ち切りになるという。なんという皮肉な事態なのだろう。テレビマンはライブ感覚を喪失してしまったのか?・・・

もっと解り易くテレビ番組で例を挙げれば、かつての土曜日の晩の「ドリフターズの8時だよ!全員集合」である。しっかりとした台本があって、それを何度も何度も練習を繰り返してから本番の生放送に臨むのである。

一方の暴走型の方は、ハプニングで何が起こるか分からないから心の安定を得られずに不安な心理状態に陥ってしまう反面、その何が起こるか予測出来ないという楽しさを重視する芸風だ。「全員集合!」に対する「俺たちひょうきん族」のような感じだろうか?と推察する(比較が古過ぎて若い人には判らないかな)。

今年の大道芸フェスティバルは、総じて観客の乗りのタイミングが去年よりもワンテンポずつ遅かったように感じた。

私だけの感想かと思ったら、芸人側からの感想でも似たようなものだったから、きっと、全体的にそうだったのだろう。

それには恐らく何等かの形で、東日本大震災の影響があったのではないだろうかと推察している。

笑いの質が、震災前と後とでは微妙に違っているように感じるのだ。

地震(津波)はある日突然襲って来て、2万人以上もの人命を奪って行った。日本人が受けた心の傷は深いだろう。それが少なからず影響しているのではないだろうか?

だから、特にシュールな芸風や暴走系があまり受けなかったように思う。人間の心理の中に「心の安定」や「安心」を求める部分が増えているのだろう。

地震の様に、ある日突然に訪れる天災に対しての、脳の防衛本能が働いたのではないのだろうか?

観客は最初から最後まで安心して、心を乱されない芸風を知らず知らずの内に選択していたのかも知れない。

3日間の雨という事態があって、パフォーマンスの機会は大幅に縮小せざるを得なかった。だから「投げ銭」の総量が少なかったのは理解できるとしても、一回のパフォーマンスに対する投げ銭の金額が去年までよりもかなり減少しているのだ。この理由は直ちに解明する必要がある。

芸人さんは基本的に投げ銭で生活しているわけだから、投げ銭の金額が集まらないフェスティバルには、(他に芸人さんを喜ばせる要素でもない限り)招聘することが難しくなる。

この投げ銭の金額の減少という事象は、帯広市民が大道芸に飽きてしまったのか、それとも、感動の対価としてこの程度の金額で十分だと判断したのか、はたまた、大震災の影響なのか?・・・・

来年の開催に向けて色々な課題が出てきたと感じている。でもこれは10年目を機会に大きく進歩するチャンスなのではないだろうかと受けとめている


■2011-08-19-Friday 帯広大道芸の始まり

帯広での大道芸フェスティバルの歴史を

振りかえってみたい。

2002年8月に、私の旧知のマジシャン仲間から、紹介したい大道芸人がいると言われて「キャプテンケーボー&クリスピークリス(現:ファニーボーンズ)」を紹介されたのがそもそもの始まりであった。

北海道はと言うよりも、日本全国何処の場所であっても、大道芸人にとっては仕事がとてもやりずらい国なのである。

警察は、道路法・道路交通法などで、一般的に道路上では通行することしか認めていない。立ち止まって商売したり、通行の妨げになるような行為は禁止されている。

例外は、伝統的なお祭りや、地域を挙げてのイベントなどで道路を封鎖して車をシャットアウトしたり、または露店を出すことを許可したりするが、それでも最大1週間程度であって、ずっと続けることは難しい。

また、札幌の大通公園などの市有地であっても、公園法によって、商売やパフォーマンスを禁止している。

東京都がヘブンアーチスト制度というのを始めて、試験に合格したアーティストに都が認可した場所では、パフォーマンスをすることを認めているという制度があるくらいである。

欧米の様な、道路上でのパフォーマンスに対しては日本は非常に無粋で冷たいな国なのだ。

帯広で路上パフォーマンスをやりたいという彼等の希望に対して、毎年8月14〜16日に開催される「平原まつり」くらいしか大道芸を披露する場所と機会がなかったのである。急な申し出であったから、私がまつり関係者に連絡をして坂本ビル前をパフォーマンス空間として確保したのであった。

また「北の屋台」の中央スペースは狭いけれどもここも夜間の会場にすることにしたのであった。

彼等はとても優秀なパフォーマーであったから、帯広の人達の反応は良かった。そこで、彼等も来年から仲間に声を掛けて帯広でパフォーマンスをしたいという話になっていったのである。

実はこの2002年という年は、前年2001年7月29日に北の屋台をオープンさせたばかりで、私が考えた「飲食」「物販」「パフォーマンス」の3種類の屋台の内、01年は飲食の屋台、02年はパフォーマンスの屋台に力を入れる元々の計画であったのだ。

屋台の開業1周年記念事業として大阪から日本一のチンドン屋さん「東西屋」の5人組みを招聘して北の屋台や街中でもパフォーマンスをやったり、マジシャン数人をを招いてショーを開催したりしたのである。

その中に大道芸が上手く重なったと言う訳なのである。

北の屋台には20軒の屋台が入居しているが、広告宣伝費という名目で毎月2万円を徴収しているから1ヶ月の宣伝費は40万円になる。これを数ヶ月分貯めてパフォーマーの招聘費用に充てたのである。

だから、最初の大道芸は「北の屋台プレゼンツ」というスタイルで、北の屋台の経費を使って始まったものだ。

2003年も同様にして、北の屋台の広告宣伝費で行った事業なのである。

余談だが、私が2007年3月末日に北の屋台を卒業してからは、北の屋台ではこのような企画がまるで行われていない。毎月の40万円の広告宣伝費は一体何に使われているのだろうか?とても気になる。広告宣伝費と言う名目で徴収しているからには、それ以外目的の事に使ってはいけないのではないかと思うのだが・・・。

3年目からは、勝毎さんが大道芸を実行委員会形式にして、道からの補助金を受けて大きくしましょうという提案に乗って現在の「北の大地de大道芸フェスティバル」へと発展したのである。


■2011-08-20-Saturday 駒大同窓会

19日(金)に駒大同窓会十勝支部の

ゴルフコンペ&懇親会が開催された。

去年から私が支部長を務めることになったので、会員の親睦をより深めようという企画である。

ゴルフをする会員はかなりいるのだが、日程が折り合わなかったのか、はたまた連絡が遅かったからなのか、参加者は6名であった。

懇親会の方は13名の参加があり、皆で楽しく飲んで食べて話しをした。

同窓会というものに、最近の若い人達は消極的に見える。年々参加者が減ってきているのだ。そこで、来年からは日程の連絡を早目早目にすることになったのだが、何と早い事に、来年の総会の日程を決めてしまった。

来年は今年同様に、駒大出身の落語家「三遊亭王楽」師匠を招いて、「駒大とかち寄席」として一般の方も自由に楽しめる企画にして、7月7日(土)に北海道ホテルで開催することが決定した。

売れっ子になってきた王楽師匠のスケジュールを早目に押さえる為である。王楽さんもまだ二ツ目だった頃から帯広に3年連続で招聘しているので、帯広は特別な場所だと思ってくれているようなのだ。嬉しいことである。

帯広にいろんな大学の同窓会は数多くあれど、こんなに活発に活動しているのは駒澤大学同窓会くらいのものだろうと自負している。

冬にはボーリング大会&懇親会を企画してくれているようだから、また楽しくなりそうだ。

同じ大学を出た者同士が集まって酒を酌み交わすのも悪くないものだから、次回はもっと参加者が増える企画にしたいと思う。


■2011-08-21-Sunday 土・日

20日土曜日は

自宅の所属する新生町内会のリクリエーションが坂本ビル一階の居酒屋「いろはにほへと」で行われた。

一昨年まではパークゴルフ大会を開催していたが参加者が少ないので、去年から居酒屋で食事会に変えたのである。そうしたら20数名が参加するようになったのだ。自分で好きなものを注文して飲み食いする会である。

私も今年から副会長を仰せつかったので出席してきた。私の隣に87歳のおじいさんが座ったが、お元気で2時間ズ〜ッと自慢話を聞かされた。向かいに座った人が、何とか話の腰を折ろうとするのだが、聞こえないフリして独演会を続けるのだ。奥さんに先立たれて一人暮らしだというからきっと寂しかったのだろう。これだけ話せればストレス解消できたことだろう。

終了後に、近所の方と話しながら歩いて自宅まで帰った。

翌、21日日曜日は正午から青年会議所(JC)のゴルフコンペである。今日の組み合わせは最終組になったのだが、一緒に回るJC現役がゴルフの経験がまだ少ないのでご迷惑をおかけしますと言う。

さすがに最初にそう言われてしまうと途中で怒る訳にもいかないが・・・。

何と彼のスコアは前半が77打、後半が75打、で通算152打という天文学的なスコアである。

連られてしまったのか私も今期最悪のスコアであった。

シーズン途中でフォームを改造しようなどとバカなことを考えてショットがおかしくなってしまったので、後半の中コース8番のティーショットから元のフェード打ちに戻してみたら、バディー。9番もバーディー外しのパーで上がれたので、やはり私にはフェードが合っているようである。

どだい、練習もしないくせにプロのようなショットが打てるはずがない。ここに気が付くまで数回のコンペを要してしまった。吾ながらアホだなぁ〜と思う。反省!


■2011-08-22-Monday 外食

このところやたらと忙しくて夕食の外食が続いていた。

8月10日から20日まで11日連続での外食だった。

外食だとどうしても栄養のバランスが悪くなる。しかも、酒席のケースがほとんどだったので、最初の乾杯の時から私だけ焼酎というのも気が引けて、最初の一杯は生ビールを飲んだ。その後は焼酎に切り替えるのだが、さすがに11日も続くと尿酸値が上がったのだろう。

今日の朝から右足の小指が腫れてかなり痛いのだ。こりゃ〜また不摂生が祟って痛風の発作が起こったのかもしれないと思い、以前に貰った鎮痛剤を飲んで、幹部には湿布をして、水を飲んでオシッコをたくさん出すようにしたら何とか治まった。

この11日間の外食した場所はどこの店も大混雑していた。景気が悪い、悪いと言ってはいるが、帯広の人は結構、外食を楽しんでいるようである。

この間、サッカーのユース杯が開催されたり、勝毎花火大会、平原まつりとイベントが多かったこともあるのだろう。

タクシーの運転手に聞いたら、それでも「夜遅くの客は少ないですよ!」とのこと、一次会には出席するものの、二次会には行く人が少ないのだろう。飲食店は良くても、スナックなどの酒の店は景気が悪いのだと言う。

結局、お酒も飲めて、食事も出来る居酒屋が流行ることになるのだろうなぁ。

ウィスキーや焼酎を飲ませるだけで、乾き物(カキの種のような簡単なスナック菓子)しか出さない店は、よっぽど特徴でもない限り客は来なくなるだろう。

景気が悪い時こそ、アイデアが必要なのだ。


■2011-08-23-Tuesday 島田紳助

島田紳助が22日の夜に突如、

芸能界からの引退表明をした。翌23日からは芸能活動をしないという。

22日の11時のニュース番組でトップ扱いで緊急放送されたので驚いた。

暴力団関係者との不適切な交際の責任を取って引退するのだと言うが・・・。

ほとんど全てのテレビ局でレギュラー番組を持つ芸能人だけにテレビ局側としては大ニュースだったのだろうが・・・。

何だか紳助氏の会見内容を聞いても、イマイチ釈然としない内容であった。

もっと驚いたのは、みのもんたの「朝ズバ!」で翌23日の各新聞の朝刊の一面を紹介していた場面だが、スポーツ紙が「紳助引退」を一面トップに持ってくるのはまだ理解できるが、一般紙がトップではないが写真付きで一面に掲載しているのは驚きだ。

前日のトップニュースは民主党の前原誠司前外相が、民主党代表選出馬の表明をしたということだろうからだ。なにせ、民主党代表=次期首相なのだ。日本の政治のトップを決めるニュースよりも島田紳助引退の方が扱いが大きいというのは・・・。

新聞によっては、前原氏の写真は無しでトップに持って来てはいるが、一面の真ん中辺には紳助氏の写真がデカデカと掲載されている。

テレビ局にとっては首相よりも紳助氏引退の方が重大な事件なのだろうが新聞社までもがこれで良いのか?

日本のマスコミが何だか変だと感じるのは私だけなのだろうか?


■2011-08-24-Wednesday 被災地復興

先日の十勝毎日新聞に

先の3.11の東日本大震災で被災した東北地方の被災地では、「屋台」を使った街の復興計画が持ち上がっており、帯広の北の屋台の視察に訪れているとの記事が載っていた。

そこに懸念が一つある。

被災者らが私のところに聞きに来ていないところをみると、恐らくはK専務理事あたりが説明しているのであろうが、K専務が本当に正しいコンセプトを教えられるのか?という懸念だ。

彼は、北の屋台開業にあたっては、何一つアイデアも出していないし、コンセプトを理解しているとは到底思えないのだ。そのKが間違ったことを教えて、被災地の屋台事業が上手く進まなかったら、一体誰が責任を取るというのだろうか?

確かに、現状では北の屋台を運営しているのは「北の起業広場協同組合」であるのだからそこに聞きにくるのは当然のことだろうが・・・。

私はこれまでに日本全国のいろいろな場所で屋台の指導もしているが、なかなか「北の屋台」の正しいコンセプトは伝わり難いという経験をしている。

ただ単に「小さな店の集合体が屋台だ」などという考え方では上手くはいかないだろう。江戸時代の屋台からの、深い意味や、何故こういう形になっていったのかという考察を理解しないとこの事業は上手くはいかないのだ。

K専務は私が作ったシステムをそのまま継続して北の屋台を営業しているだけだから、ゼロから屋台を作ることの難しさは理解していないだろう。

商店街や街そのものが壊滅した状態から屋台村をつくることは、そう簡単なことではないと思うのだが・・・。

被災地の方々がK専務からの誤った情報によって屋台村を作って、無駄な経費と時間を浪費しないことを祈ろう。


■2011-08-25-Thursday 空調設備

我が社のビルの空調設備の調子が悪くなった。

現在、稼働している機械に入れ替えたのは、我が社がまだ「サニーデパート」といっていた時分の1988(昭和63)年4月のことであるからもう23年もたっていることになる。

機会の寿命はおよそ20年と思っていたから、年数以上には活躍したことになるが・・・。

サニーデパートの頃の空調設備は地下一階、地上6階の全てのフロアーをカバーしていた。

その後、平成4年に父が死去して、デパートから飲食店ビルに大改装した際に、営業時間の違いなどから、飲食店は単独の空調設備を設置した。つまり、地下一階は「つぼ八」、一階は「いろはにほへと」、二階は「白木屋」、三階は「魚民」になったことでそれぞれの店舗が独自の空調設備を設置したのだ。

7フロアー分の機械が付いているのに、3フロアーでしか使わなくなったのだ。

これでは時速200㎞以上で走るレースカーが一般道を時速40㎞で走っているようなもので効率が著しく悪かったのである。

入居した居酒屋は地階が空き店舗に、一階はそのまま「いろはにほへと」、二階は「甘太郎」に、三階は「ディトリッパー」に替ったが、飲食店であることに変わりはない。

今度の入れ替えには4〜6階分の3フロアーに対応する機械にすれば良いのだ。

問題は、現在の機械はA重油で動く機械である。このタイプはイニシャルコストがかなり安くなる。しかし、今後は石油の値段が高騰する危険があるし、更にCO2排出などの環境問題もあるので、恐らく未来には環境税が付加されることも予想される。

電気の機械はイニシャルコストも高いし、原発問題から電気代の高騰は石油よりも大きくなるのではないかと予想される。

現段階では、天然ガスを使用するのがベターかなぁ〜と考えているが、イニシャルもランニングも高そうだ。

それぞれの3社からの見積もりがそろそろ出揃う頃なので十分な検討をしなければならないと考えている。

それにしても金の掛かることばかりである。


■2011-08-26-Friday マイヒストリー64

しばらくマイヒストリーの

掲載をストップしていたが、再開することにする。

前回のマイヒストリー63では「マジック本蒐集のキッカケ」ともいうような内容だったのでその続きから書く。

小学生の時から読書は大好きで、毎日のように図書館に通っては本を読むのが日課のようになっていた。この頃は伝記ものが大好きで偉人伝を夢中になって読んでいた。中学生になると探偵小説にハマってしまい。ポプラ社で出版していた江戸川乱歩の少年探偵団シリーズや名探偵シャーロックホームズシリーズ、怪盗ルパンシリーズなどを読破した。現在でもその性格は治っていないが、シリーズものは一冊読んで気に入ると全巻読みたくなってしまうのである。

高校生になると大人向けのエラリー・クイーンやアガサ・クリスティなどの探偵小説や、半村良のSF伝奇小説に凝ってしまったが、半村良の小説は特に面白かった。

大学生からは通学の電車の中で文庫本を読むのだが、乱読というかジャンルは関係なく手当たり次第に読みたい本を何でもかんでも読むというように変わっていった。その傾向は現在に至るも続いている。

図書館通いは中学生で終わり、高校生からは本を所有する楽しみに変化していった。読んだ本をいつまでも手元に置いておきたくなったのである。

それには、司馬遼太郎の書斎の写真を何かの雑誌で見掛けたことが影響している。将来、本に囲まれた書斎が持ちたいと思うようになったのである。だからその時から、買った本はほとんど全て所有している。唯一の例外は、大学を卒業する時に、さすがに文庫本だけは処分してきたことだ。マジック関係の本などは全て帯広に送ったのだが、当時の荷物の搬送料金は、今日のようなクロネコヤマトなどの宅配便なんてなかった(と思う)し、バカにならない高さだったから、本の搬送料は結構な金額が掛ったのである。

文庫本も段ボールに3箱ほども貯まっていたが、それは後輩に譲ってきた。それが買った本を処分した唯一のことなのである。

高校生時代からマジック関係の本も集めていたが、本格的に集め始めたのは大学生になってからだ。私のマジックの師匠と呼べる人は、ジミー忍師と布目貫一師の二人だが、布目師のマジックショップが神田神保町にあったので、毎週のように国鉄(当時)の水道橋駅で降りて、お茶の水駅から乗るというルートで神保町の古本屋街を歩いて回ったのである。

目が訓練されて、本屋の棚をザーッと見回して「手」「品」「奇」「魔」「術」「マジック」などの文字が目に入るとそこでピタッと目が止まるようになったのだからスゴイことだ。

ある時、2万円もする3巻からなるマジックの貴重な本を見つけたが、学生にそんな金はあるはずがない。すぐに公衆電話から帯広の母に「参考書を買うからお金をスグに富士銀行に振り込んで欲しい」と電話して送金してもらい手に入れたことがあるが、「俺は(マジックの)参考書とだけ言ったのであって、勉強の参考書とは言っていないよ。何も嘘は言っていないよ。」と言ったのだが、いまだに母にはそのことを折に触れて言われるのである。

よっぽどこのことが母の印象に強く残っているのだろうなぁ。(つづく)


■2011-08-27-Saturday マイヒストリー65

布目師のマジックショップの壁には

「力書房」という出版社が発行していた季刊誌の「奇術研究」(昭和31年4月1日第1巻発行—昭和54年4月20日第86号で廃刊)というマジックの専門誌がビニール袋に入れられて壁一面に張られていた。ディスプレイを兼ねた演出だったのだろう。

この本の存在は高校生の時にこの店を訪ねた時に知ったが、帯広での購入方法が判らなかった。大学に入ってから布目師に教えてもらった祖師谷大蔵にあった力書房を訪ねてから在庫が少ない号から徐々に買い集めるようになっていったのである。それでもすでに売り切れになっている号が沢山あって、なかなか全巻が揃わない。薄い本なので古本屋で探すのもなかなか骨の折れる作業だったのだ。この力書房という会社は大学4年生の時に廃業してしまったので全巻揃ったのは大学を卒業してからであった。

もう一人の師匠のジミー忍師もマジック関係の書籍を蒐集しておられた。師の自宅に行っては珍しい本を読ませてもらっていたが、中でもとても欲しかった本が「奇術随筆(阿部徳蔵著・人文書院刊・昭和11年5月5日発行)」という本で、函に入った280ページの重厚な本なのだ。

東京中の古本屋を探したが見つからなかったが、大学4年生のゴールデンウィークに京都に行く機会があった。大学1年生の時にニュージーランドの交換留学生で一緒に行った連中が同窓会を京都で開催するので参加しないかとの要請が来たから、それに便乗して、高校の同級生で京都の大学に入学した奴の下宿に転がり込んで京都・奈良の見学をしようと思ったのである。高校の修学旅行で京都・奈良には行っているが、良く見ていなかったのでもう一度ゆっくり訪ねたかったのだ。

その高校の同級生の大畑君と京都市河原町にある「書籍会館」という古本屋に入った時(旅先でも古本屋を見かけると入りたくなる性分なのである)にこの本の背表紙が私に買ってくれとせがんでいるように、スッと目に入ってきたのであった。

価格は5千円であったが、函も中身もまったく痛んでいない完璧な状態である。だが、旅先で、しかも学生の貧乏旅行で5千円はきつい。とりあえず大畑君から足りない分を借りて購入し、また例の如く母親にせがんだのだった。手に入れてからは嬉しくて嬉しくてしばらく興奮していたことを鮮明に覚えている。

このように古本というのは、探し回る楽しさや、どこで手に入れたのかということも重要な要素になるのだ。今日のようにネットオークションで簡単に手に入るのは最初こそ、コレクションが増えるからと喜んでいたのだが、慣れてくると段々とつまらなくなってくるものだ。何だが思い入れが少なくなる分、喜びも少なくなるようである。(つづく)


■2011-08-28-Sunday トロント①

次女が留学

しているカナダのトロントに夫婦で24日から来ている。

帯広空港から羽田空港ー成田空港と経由して行かなければならないので面倒でしかも時間が掛かる。

成田空港発18:10予定のエアーカナダに乗るのに帯広の自宅を8:30に出発しなければならないのだ。旅行は余裕を持って行動しなければならない。

エアカナダの飛行機チケットの座席指定を怠っていた為に、ほぼ満席状態で隣り合わせの席が空いていないから、夫婦がかなり離れた座席に座ることになってしまった。地上勤務の女性に哀願したところ非常口前の座席に並んで座らせてもらったので助かった。

非常口前の座席は前が広いので、足を伸ばせるし、前の視界が開けているので圧迫感がなくて、かえって快適であった。

ただし、エアーカナダの機内食は私たち夫婦には合わなくて、ほとんど何も食べることができなかった。機内のビデオ映画も日本語のものは「SP」と「あしたのジョー」だけ、後は皆古い映画でしかも、英語とフランス語ばかりで見ることができないのでずっと本を読んでいた。

トロント空港で荷物が出てくるのを待っていたら、ベルトコンベアーが時々止まるのであるが、しばらくたっても誰も動かしに来ない。日本なら直ちに係員が飛んで来るところであるが・・・。カナダの人はかなりのんびりしているようである。娘から頼まれたインスタントラーメンから冬服までの荷物がかなりの量になったので、娘の荷物用にスーツケースを一つ余計に持っていった。だから夫婦二人で3個のスーツケースなのである。

到着ロビーで娘が待っていたので、タクシーで宿泊先のヒルトンホテルに向かう。空港からの料金は58カナダドルであったが、レシートは不要だと思い貰わずにチップをはずんでタクシーを降りたら、なんと娘がタクシーの中に携帯電話を落として忘れてしまったのである。直ぐに妻の携帯電話で娘の番号を鳴らしたが出ない。レシートも貰っていないのでタクシーの会社名も分からない。日本人の運転手ならホテルに届けてくれるところだが、カナダではそれは期待ができないだろう。

ヒルトンホテルの地下のステーキハウスで夕食をとり、娘と妻は、娘のアパートに荷物を置きに行った。私はホテルで休んでいたが、外は飛行機の音なのかゴー、ゴーとすごい音がする。このホテルは飛行場からはそんなに近いはずがないと思って、カーテンを開けたらすごい雷であった。稲光が出ているので近くの高層ビルに落ちるのではないかとしばらく眺めていた。

娘と妻が無事戻ってきたので時差ボケしないように睡眠導入剤を飲んで寝たが夜中の2時に目がパチリと覚めてしまい。なんとか眠ろうと目をつぶっていて何度か浅い眠りはあったが熟睡はできなかったのであった。(つづく)


■2011-08-29-Monday トロント②

今日(25日)は娘が事前に予約していてくれた

ナイアガラ一日ツアーに出掛ける。

ナイアガラの滝を見るのは今回の旅のメインだ。

早起きしたのでヒルトンホテルで朝食を食べた。バッフェスタイルで一人26カナダドル(1カナダドル=約90日本円)である。サービス料、税金(消費税13%)を含めると30カナダドルを超えるから一人3000円ほどの高い朝食ということになる。大人3人と口頭で伝えたのにウェイターが娘を子ども料金にしてくれた。日本人は幼く見えるのだろう。

ヒルトンホテルのすぐ隣りにあるシェラトンホテルのロビーに07:45に集合である。

行ってみるとそこから乗るのは我々3人だけ。フォードの8人乗りのバンタイプの車に乗ってまずはトロントの市内を車で回ってくれるという。オンタリオ州議事堂・トロント大学構内・チャイナタウン等を回ってからウェスティンホテルで神戸からの来た二人姉妹と合流して一路ナイアガラへ、およそ90分の道のりである。

運転手兼ガイドのおっちゃんは、最近は日本人の観光客が極端に激減して、代わりに中国人と韓国人のツアー客ばかりがいると言っていた。

快調に飛ばして到着した。まずは、マリリン・モンローが映画「ナイアガラ」の撮影時に宿泊していたというクラウン・プラザホテルでトイレタイムの後で、まずは直ぐ上からカナダ滝を見る。つい先日、日本人留学生が落下して死亡した場所だ。滝の近くに行くと水の勢いに吸い込まれそうに感じる。この場所で柵を乗り越えようなどと考えたとはとても信じられないことだ。留学している娘さんがこのような形で亡くなるとは両親はいたたまれない気持ちになるだろう。ご冥福を祈る。

次にアメリカ滝に戻り、そこから世界最古の遊覧船「霧の乙女号Maid of the Mist」に乗船して滝の近くまで行く。乗客には薄い使い捨てのポンチョを配ってくれる。ガイドからは二階建ての船の上の階に乗るように勧められたのでその指示に従った。日本からはカヌー用のシューズを持参していったのであるが・・・。

カナダ滝のすぐ近くまで寄るが、水しぶきがものすごくて目を開けていられない。かなり強烈な台風の中にいるような感じだ。カメラも防水でなければ壊れてしまうかもしれないほどだ。

とにかく迫力は想像していたものよりも遥かにすさまじかった。

昼食はトイレタイムで寄ったクラウン・プラザホテルの最上階のレストランである。滝を見下ろしながらの食事だが・・・。バッフェスタイルだが食べたいものが何もない。食事はとてもまずい。

昼食の時間がかなり余ったので、隣のカジノ・ナイアガラに行ってみた。カジノは19歳未満は入場禁止であるが、23歳の娘がチェックで引っ掛かった。パスポートを提示したが執拗に顔を覗き込んでようやくOKが出たのだ。ここでも朝食時と同様に日本人は幼く見えたのだろうか?妻はどうして私が引っ掛からないの?と不満そうに言っていた(冗)。スロットマシンで10ドルだけ遊んだが、勿論まるでダメであった。

集合して「ナイアガラ・オン・ザ・レイク」という町に観光に行く途中のナイアガラの滝近くにゴルフ場があったが、ガイド氏曰くここは観光地だからバカ高くて一人8千円くらいのプレイ代金だと言う。普通は2,3千円程度でプレイ出来る、勿論キャディ無しのセルフプレイですけどね。と言うから、8千円なら北海道のゴルフ場よりも安いくらいですよ!と言ったら未だに日本はそんなに高いのですか?と逆に驚かれた。

ナイアガラ・オン・ザ・レイクは古くてシックな町でとても面白かった。

その後はワイナリーに寄ってワインの試飲をする。買うつもりはなかったのだが「アイスワイン(ここでしか作れないという特殊なワインで砂糖などは一切使用していないがとても甘いワイン)」を飲んだ妻が買って帰ろうというので赤と白を一本ずつ購入した。甘くて美味しいが、一歩間違えると昔飲んだ「赤玉ポートワイン」かという感じの甘〜いワインであった。

18:00にホテルに到着してツアーは終了。

その足で、バスカーフェストという大道芸の催しに出掛ける。この大会に、帯広の大道芸フェスティバルで顔見知りのパフォマー「クラウン・ロト」こと「YOSHI」さんが参加しているのだ。

彼を見掛けたら、ちょうどこの日の演技が終了したところだったが、私の顔を見て「なんで坂本さんの家族がここに居るの?」と驚いていた。明日、もう一度彼の演技を見に来る約束をして別れて、昔のウィスキー工場の跡地を改装した「ディスィラリー地区」の「ミル・ストリート・ブリュワリー」に歩いて行って夕食を食べる。私たちのテーブルに付いた担当者が学生のバイト風の男の学生であったが、「おねぇ系」の青年で妻と娘が可愛くて親切だからチップをはずんでやって欲しいという。カナダにもおねぇ系の人が結構多そうだ。

帰りに再びバスカーフェスト会場を通ってヒルトンホテルまで徒歩で戻った。今日はかなりの距離を歩いたことになる。明日からの足の状態が心配だ。(つづく)


■2011-08-30-Tuesday トロント③

3日目26日はトロント半日観光である。

今朝は9時丁度にヒルトンホテルのロビーに昨日の観光業者が迎えに来てくれる。今日は我々3人だけだ。

昨日のガイドとは別の日本人男性が運転手兼ガイドで案内してくれるのだが、この人がまた良くしゃべる人で、話し始めたら止まらない。

現場に着いても車の中で延々と話し続けるのだ(早く見たいのに)、しかも彼の主観で・・・。

州議事堂の到着しても、車から降りようともせずに、菅首相の政治姿勢は云々、カナダの政治は云々と続くので、妻と娘は呆れた顔をしていた。昨日のガイドも良くしゃべる人だったが、簡潔に要領よく話してくれるのでとても良かったのだが、今日のガイドは最近は日本人観光客が少なくて云々と愚痴が多くて気分が滅入る。ガイドの仕事は客に楽しく旅行させなければいけないのに・・・。

一昨日トロントに到着した時から、カナダ国旗が半旗で掲揚されていたので誰か重要人物が亡くなったのだろうとは思っていたが、ジャック・レイトンというカナダの大きな政党の党首である現役の政治家が癌で61歳で亡くなったという。このトロントの出身ということで街をあげて送別するということだ。

街の要所を車で見学してから「NCタワー」というついこの間まで世界一高かったというタワーに上る。

まだ午前中だからなのか空いていて並ばずにエレベーターに乗れたので助かった。

三層の展望室があるが、一番上は回転レストランでその上を一人170カナダドル払えばワイヤーで繋いだだけで外を歩けるというが・・・。高所恐怖症なので遠慮しておいた。

一番下の展望台の一部がガラス張りになっている。ここでも東京タワーのテッペンの333mよりも高いという。絶対に安全だからガラスに乗ってみてはと勧められたが・・・。

何とか写真を取る為に恐る恐る乗ってみたが、安全だとは思ってもあまり気持ちの良いものではない。吸い込まれそうな気持になる。

タワーの隣のロジャースセンターは開閉式屋根を持った福岡ドームのモデルになった球場という。ここに近接するホテルの球場側に面した部屋は野球観戦が出来る部屋で、松井がNYに所属している時に見学に来た日本人を案内したことがあると、ガイドが言っていたが一泊最低5万円以上するそうだ。

ウォーターフロントで12:30に半日観光は終了したので、そこから歩いて近くのバスカーフェストを見に行く。丁度13:30から始まる日本人パフォーマーのYOSHIさんの演技を応援する為だ。

昼食は会場前のピザ店で済ませた。

YOSHIさんの観客は外人パフォーマーよりは少なめであった。ほとんどしゃべらずにする演技なのだが、それでもやはり言葉の壁があるのだろうか?

投げ銭の集まりもイマイチ少なかったように感じた。外人のパフォーマー達はかなり露骨にお金の話をする傾向が強いように感じた。演技の後半になると、これからやる演技はどれだけ大変かを強調過剰なほどに強調するのである。

背の高い一輪車やはしご等に乗って高さや危険度を強調する傾向も強いようだ。背の高い一輪車を使うパフォーマーだけでも4人も見掛けた。

ひとまずバスカーフェスの場所を離れて大きなショッピングセンターである「イートンセンター」に向かう。

トロントは人口450万人のカナダ最大の都市だが、冬にはマイナス30℃程にもなる場所なので、市内の要所が皆、地下で繋がっているのだ。

ホテルに一旦戻ってから、リトルイタリーのレストラン「バール・イタリア」に夕食に向かう。アメリカ・カナダは食事が不味くて塩味・胡椒味・甘味などがキツクて極端だ。食事をするならイタリアンか中華ならまぁまだ食べられる。ここはスパゲッティが有名だとのことが旅行雑誌に紹介されていたので行くことにしたのである。

三種類のパスタを頼んで3人でシェアして食べた。

食後はチャイナタウンまで歩いて行き、そこからタクシーでホテルに戻って寝た。(つづく)


■2011-08-31-Wednesday トロント④

4日目(27日)は

10:00からロイヤル・オンタリオ博物館の見学に行く。

カナダは歴史が浅い国だから、カナダ独自の物は少なくて、中国や日本やエジプト、ギリシャなどの陳列物や、恐竜や動物などの展示物が多いのが特徴だ。建物は斬新な設計であったが、順路が分かり難くて、行き止まりにいっては同じ場所を戻るはめに何度も陥ってしまった。

博物館近くの高級ブランド店が並んでいる通りを歩いて昼食を食べる場所を探したが、なかなか良い店が見当たらない。

ケンタッキー・フライド・チキンを食べたいと思い探したらKFCの文字を見つけて喜んで入店したら、同じKFC系列でもタコスの店で、フライドチキンはいつものオリジナルは無くてクリスピーという骨無しのタイプしかなかったが我慢して食べて、再度、バスカーフェストの会場に行く。娘がすっかり大道芸好きになってしまい。毎日でも見たいというのだ。

2:00頃まで大道芸を見た後、一旦ホテルに戻り、妻の知り合いの知り合いがトロント郊外に住んでいるという、しかも私の妹の高校の同級生だともいうので、その方に連絡を入れてみた。

お会いして、娘に何か緊急な助けがいることがあった時にはお願いしようと思っていたのだが・・・。娘が24日にタクシーの中に携帯電話を忘れた為に連絡先が判らずに連絡が遅くなってしまったのだ。

連絡がついてみると、電車で50分ほどの距離だというし、1時間に1本しか電車がないともいうので、お電話だけで失礼した。やはり近場に日本人の知り合いが住んでいるというだけでも心強いものだ。

時間が出来たので、荷物を持って娘の住んでいる家に行くことにした。

地下鉄とバスを乗り継いで中心街から30分程度の場所だというが、荷物はトランク一個と袋が数個であるから、タクシーで行こうよと私が言って、ヒルトンホテルからタクシーに乗った。あらかじめ、紙に娘の住所を書いたものを作って運転手に渡したが、良く判らないらしい。

しかし、運転手はカーナビがあるから「ドントウォリー」だと言う。娘も車で行ったことがないから道は良く判らないという。近くまで行けばなんとかなるだろうと乗ったのだが・・・。

タクシーは高速道路に乗って、カーナビの右に曲がれ!とか左に曲がれの指示を無視して走る、走る。どこに行くのだろうと、かなり不安な気持ちになったが、娘が乗る地下鉄の駅が見えたので一安心した、だが、何だか遠回りされたような感じがした。

娘の暮らしているのは郊外の一軒家でいわゆるシェアハウスというやつで数人で共同で暮らしているのだが、とても狭い一部屋で生活している。娘は快適だと言っているのだが、親としてはもう少し良い所に住まわせてやりたい。でも、娘は親の金をあてにせずに自分の力だけでやれるところまでやってみたいと殊勝なことを言うので任せているのだが・・・。

荷物を置いて来たので身軽になったので、帰りはバスと地下鉄で中心街に戻る。バスと地下鉄はとても合理的に運営されていて、バスに乗る時に、娘から小さなコイン状の乗車券(2ドル50セント)を貰って払っただけで、地下鉄の乗り換え時もフリーパス、地下鉄を降りる時もそのまま改札を通るだけである。

日本と違って、料金も安いし、シンプルだからとても分かり易い。

劇場街にある骨とう品店を見に行ったが、買いたいようなものはなにも無かった。やはり、骨とう品店はヨーロッパの方が面白いものが一杯ある。近くの大きなゴルフショップで、日本では売っていない帽子などを買って、またまたバスカーフェストの会場に歩いて行った。トロントの中心街はほとんどの道を歩いたから、もう地理は十分に理解できた。やはり知らない街は歩くに限る。

夕食はドレスコード(服飾規定)のある50数階の高さにある高級レストランで食べようと計画していたが、娘が大道芸を見ていたいと言うので、会場前のイタリアンレストランの路面で食べることにした。結局イタリアンのピザとスパゲッティばかり食べていたような感じだ。

9:00過ぎまで大道芸を見てホテルに戻って寝た。(つづく)