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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2015-11-01-Sunday 葬儀の準備

10月31日の朝に義父の

西雪博志(公啓)が亡くなった。

2年前(2013年1月)に肺炎で第一病院に入院した時に、これは・・・・と思って一旦は心構えをしたのだったが・・・。

そこから、復活して退院し、厚生病院の訪問看護と、おとふけホームクリニックの阿部先生の訪問診療を受けることで、自宅で療養できるまでになったので、私の心構えの方がすっかり何処かに行ってしまっていたようなのである。

葬儀の施主を務めるのは、父の時と今回の2回目なのであるが、私の父が亡くなったのは24年ほども前のことであるから、すっかり葬儀のやり方も忘れてしまっていたのである。

まさか今朝亡くなるとは思ってもいなかったので、葬儀のやり方を調べ直す時間がまったくなかったのだった。

仕方がないから思い出しながら対応することにしたのであった。

義父の希望は、人間の尊厳を失わせるような治療をする病院には二度と入りたくない。自宅で死にたいというものであった。

自宅で亡くなると、警察による検死を受けたりとか、倒れた時点で救急車で病院に運ばれるということになるのだが、介護ショップ「シニアケアーショップ パーム」を経営していて、その辺りの知識が豊富な妻は、その希望を叶えるべく訪問医療という方法を選択したのであった。

義父は、その希望通りに自宅で亡くなったが、訪問医療を受けていたので、まずは、看護士、次にはお医者さんに来てもらい死亡の確認等をしてもらったことで自宅を出ることなく臨終したのである。

次には、お坊さんに枕経もあげてもらわなければならないから、菩提寺の真宗大谷派帯広別院、通称東別院に電話したのだが、土曜日だからなのか電話が繋がらない。

その間に、公益社に電話して葬儀の依頼をする。

公益社やお坊さんが来る前に、主だった親類や関係者に連絡をする。

お寺には何度か、電話している内にようやく繋がって、枕経をあげてもらうことができた。

まずは、葬儀の場所や日程を決めなければならない。公益社とお坊さんと私と妻とで打ち合わせをする。

31日は土曜日、1日は日曜日で休み、3日も文化の日で休日である。

義父は亡くなる前に、自分の葬儀に際しての指示をいくつかしていたが、前日に手を握り締められて頼まれた以上は、立派に務めを果たさねばならないが・・・、もう少し葬儀のやり方を調べる時間が欲しかったなぁ〜。

まさか翌日なんて・・・。

休みが続くからなのか、法事も入っているので、お坊さんの手配と斎場の手配と焼場の手配が上手く噛み合わないのだ。

あれこれと調整して、結局、3日に通夜、4日の葬儀という日程に決まったのだったが、通夜までには3日間もある。

遠くに居る親類や、家族などにとっては、勤め先などへの連絡や調整がし易いし、交通手段の手配にも時間的余裕があるから都合がつけ易いであろうが、施主の私にとっては、実に長〜い時間である。


■2015-11-02-Monday 義父の葬儀

31日の朝に亡くなった義父の

葬儀の日程が3日通夜、4日葬儀と決まったが・・・。

葬儀委員長を町内会長の上野敏郎さんにお願いしましょうとなったが、これまた連絡がつかないのだ。何度か電話している内にようやく繋がったが、出張で山形県にいらっしゃると言う。2日には帯広に戻るということで、葬儀委員長を引き受けていただくことになり、ようやく新聞にも広告を載せることができるようになったのであった。

亡くなった31日が土曜日、翌日の1日の日曜日には帯広で「フードバレーマラソン大会」という5千人以上が参加する大きなマラソンの催しがある。私は、このマラソン大会を創始する時には中心で関わっていたこともあって、我が社の地階を控室に貸すことになっている。

我が社の近くがスタート地点になっており、中心街を走り抜けるルートになっているのだ。

このマラソン大会には、帯広以外のところからの参加者が大勢居るので、ホテルはほぼ満室と云う状況であるが、逆にこのマラソン大会が終了すればホテルも取り易くなるかもしれない。

葬儀委員長も決まり1日の夕刊の新聞に載せる死亡広告の原稿のやり取りを、新聞社とやらなければならない。1日の夕刊に載せるには、1日の午前11時までに終わらせなければならない。

新聞社の広告局の担当者は、掲載記事には、誤字脱字があってはならないから活字での確認作業をしたいと言う。FAXはないかと聞かれたが、あいにく西雪家にも坂本家にもFAXはないのだ。

仕方がないから、会社の坂本ビルのFAXを使ってやり取りし、内容確認をすることにしたのだったが・・・。

1日の午前中に自動車で坂本ビルに向かうと、マラソン大会の交通規制で会社に入れないのである。

かなり遠回りしないと会社の駐車場に入れないから、諦めて、自宅近くのコンビニから原稿を送信したが・・・。

新聞社からは、「受信した。原稿を送り返すから確認して欲しい」との電話が入ったが、締切り時間内には会社には入れそうにない。

どうしよう・・・。

何の事はなかった。

PCのメールでやり取りすれば良かったのである。どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのだろう?

最初からメールでやっていれば良いものを・・・。やっぱり動転していたのかなぁ〜。

無事に、メールでの原稿確認も終えて、一応、葬儀日程の連絡作業は終えたのであった。


■2015-11-03-Tuesday 義父の葬儀2

31日の朝に義父が亡くなった。

3日が通夜、4日が葬儀と決まったが・・・。

月曜日の2日は会社は普通通りに営業しているが、妻は実家を訪れてくる弔問客への対応があるから出社は出来ない。

私一人が出社して、社員に報告し、来社予定のある人へのスケジュール変更依頼やら、葬儀の手順、挨拶文などを考えたりもするが、どれも中途半端になってしまう。

義父の経歴を調べて文章を起こすことをPCに向かってやっている内に、肩がキューっと詰まるような感覚になった。腰もバンバンに張っている。

このまま、通夜や葬儀を迎えると、ぎっくり腰になってしまいそうな感じがしたので、馴染みのマッサージ師に頼んで揉んでもらうことにした。

マッサージ師は「坂本さん、こりゃ〜相当ヤバイ状態っすよ」と言って、通常の倍の時間を揉んでくれたので、かなり楽になったのであった。

僧侶から「亡くなってから通夜まで日が開くから、2日に(仮)通夜をしましょう」と言われた。

義父は大勢の人に見送られたいとの希望を持っていたから、葬儀までの時間があった方が、その希望を叶えるには良かったであろう。しかし、あまり間が開き過ぎるのもよくないらしい。「仮」ということはないけれども自宅で通夜をやることにしたのであった。

ちょうど葬儀委員長の上野さんも戻られているので出席を願って、昼間に作製した葬儀委員長の挨拶文の為の義父の経歴の説明をする。

お坊さんも一緒に聞いてくれて、家族からもこれまで分からなかったことなどが良く分かったと感心されたが・・・。

こう云うものは、家族よりも他人が作ったほうが客観的にみられるのかもしれないなぁ〜。

大勢の人に見送られたいとの希望であるが、はたしてどれくらいの数の弔問客がいるであろうか、香典返しの品物を何個用意するべきか?

これが難問であった。

義父は、最後まで現役の「税理士」の肩書のままで逝きたいと願っていた。「元税理士」という肩書では逝きたくなかったようである。

身体はガリガリに痩せてはいたが、頭は最後までしっかりとしていたから、尚更であったのだろう。

義父は現役の税理士ではあるが、自分の事務所は2年前に閉所していて、現在は顧問税理士となっている。

しかし、かつての顧問先は、今の事務所が引き継いでいる。

年齢は90歳を越えているから昔の税理士の仲間は、ほとんど鬼籍に入ってしまっているし、私の関係者も、私の親ではなく、妻の親であるから、これも数が読み難い。

3日の通夜の日に会場に入って、届いた供花の数を見て驚いた。会場の壁がすべて供花で埋まっている。

こりゃぁ〜最初に注文した数では到底足りないと判断して、すぐに追加の注文をしたが、この数がピッタリであった。

会場の選定も結果的には良い選択であった。

会場の公益社中央斎場は2階建で、1階と2階の会場があるが、2階の方が広い。

業者からは2階の会場を勧められたが、親類も来客も高齢者が多いであろうから、階段の上り下りが大変であろうと思われた。車椅子の弔問客用にはエレベータも1機設置されているが、1機だけでは数が足りないと思われたのだ。

少々狭く感じても、弔問客のことを考えたら1階の会場の方がベターであると思ったので1階を使用することにしたのである。

この判断は幸いしたのであった。


■2015-11-04-Wednesday 義父の葬儀3

3日は義父の通夜の日である。

大勢の方に見送られたいという義父の願いは、日程的にはこれ以上ないというほどの日程になった。

義父は税理士だっただけに、自分の人生もキッチリと月末で締めて逝ったのであろう。

私の3人の子供達も、全員が本州で働いているが、2日の月曜日に出社して会社に報告し、休暇をもらって3日に帯広に来ることが出来た。しかも3日は文化の日で休日であるから、通夜にも出易いことになったのであった。

義父の遺体の湯灌は自宅では出来ないと言う。義父はこの年齢の人にしては身長が高かったから棺が大きくて、自宅の玄関と階段を上手く曲がれないというのだ。

遺体を担架に乗せて、霊柩車で斎場まで運ぶことになった。

私は霊柩車に同乗して14時前に自宅を出発し斎場へ向かったのだが・・・。

後から妻がお義母さんを連れて自分の車を運転して斎場に来ることになっていたが、私の携帯に「母が歩けなくなって自宅の階段を降りることが出来ない。男手がないから手伝いに戻って来て・・・」という電話が入る。

タクシーで自宅に戻り、男3人で車椅子に乗せた義母を何とか階段から降ろしたのだった。

この階段を車椅子に乗せたまま降ろす作業は、義父で何度もやってはいるのだが、痩せていた義父と義母では体重差はかなりのものであり、運んだ男性陣は皆、足腰に負担が掛かったようである。私も前日にマッサージを受けておいて良かったぁ。

斎場には既に幾人かの親類が来ていた。義父も義母も兄弟姉妹が多いから数度会っただけではなかなか顔と名前が一致しない。

湯灌は予定よりも30分遅れで始まった。

映画「おくりびと」でも出てきたが、この湯灌というのは、遺体を遺族に見せないようにしながら遺体を清めたり、白装束に着替えさせたりする。

この儀式は、ごく親しいものだけが出席するので、最後のお別れという意識が強くなるようだ。孫らは涙が止まらない様子であった。

棺の中に、生前着ていた背広、帽子、メガネなどを入れるが靴は入れられないと言う。焼く時にマズイらしい。

演芸の寄席の高座には靴は履いて出られない風習がある。落語家中心の場所だから足袋でなければならないのだ。マジシャンが燕尾服で出演しても足元は靴下のままなのだが、なんとなくフッとそのことが思い出されたのであった。

斎場の供花の並べる順番の指示をして欲しいとの要請で会場に入るが、供花の多さには驚いた。会場の四方がすべて供花で満たされている。

義父はとにかく面倒見の良い人であったから、多くの方々に感謝されているのだろう。多くの人に慕われながら逝ける義父のことを、遺族としても誇らしく感じる。

供花の順番を親類の方にも確認してもらうが、地域に依って上下の順番が違うということに気が付いた。公益社の人に、帯広での順番を教えてもらいそれに合わせることにした。

公益社の担当者が「思い出のVTRの映像をどの時点で流しましょうか?」と聞く。大抵は通夜の始まる直前に流すと言うが、せっかく古いアルバムから写真を選び出して作ってもらったVTRを通夜の直前に放映したのでは、人の出入りなどでゴタゴタしているであろうし、参列者もゆっくり見ることが出来ないであろう。

葬儀委員長の挨拶の前に放映する場合もあるというので、そちらを選んだが正解であった。なかなか良い内容のVTRであったと思う。

義母はツレアイを亡くして放心状態であったのか終始ボ〜とした状態であった。足腰も動かなくなって、ずっと車椅子のままであったから、やはり相当なショックであったのだろう。


■2015-11-05-Thursday 義父の葬儀4

3日は通夜である。

会場の公益社中央斎場はとても大きな斎場で、1階と2階で同じ日に2〜3件の通夜や葬儀が重なることもあるが、3日と4日は西雪家の貸し切り状態であったから、いろいろな面で助かったのであった。

1階の会場にしたのは、足の悪い人が多いと言うのもあったのだが、斎場に付いているお風呂が1階にしかないというのも理由のひとつであったし、買い物などで外に出入りするのも1階の方がかなり楽であると考えたからだ。

公益社の人から、通夜の弔問客数などの報告を受けた際に、明日の葬儀での弔辞はどうしますか?という。

義父は現役の税理士でもあったので、義父が顧問税理士をしている税理士事務所長からは「支部長を・・・」と云うし、税理士会の支部長が弔辞を読むのが通例であると云うので、初めは別の方にお願いしようと考えていたのだが、妻は難色を示したが、せっかくの申し出を断わるのもと思い、お願いすることにしたのだが・・・。

通夜の後で、親類が控室に集まり夜食をつまみながら、義父の思い出話をするが、高齢者も多いから、遠方から来ている人は疲れたのだろう。明日の葬儀もあるから1時間ちょっとで、ホテルへと帰り始めた。後には酒の強い親類だけが残る。私もお酒は大好きであるが、施主としては飲み過ぎるわけにはいかない。11時前には、斎場に泊る人以外は会場を後にしたのであった。

斎場に泊ったのは、義弟夫婦、私と、私の子供らの若い親類ら8人。義母は自宅の階段を上り下りは出来そうになかったので、姉妹と一緒にホテルに泊ってもらうことにした。

若い連中は近くの温泉銭湯に行った。

24年ほど前の父の通夜の時は、ロウソクと線香の火を絶やさないように番をするのが大変であったが、この日に用意してくれたロウソクは7時間も持つと云うし、線香は細〜い蚊取り線香状の形をしていて9時間も持つと云うから0時に取り変えれば朝まで起きている必要はないので、とても楽になった。

若い連中も温泉銭湯から戻って来て寝始めたが、息子がお棺の前に座り込んでジィ〜ッと遺影を見つめている。可愛がってもらっていたから、感慨に耽っているのであろう。

私は睡眠導入剤を飲んで寝たのだが、1時には目が覚めてしまった。何度か寝ようとするが眠れない。目をつぶってはいるが、深い眠りには入れずじまいであった。5時にお風呂に入って体操をしたり、横になったりと落ち着かない状態であった。

7時半頃から親類が集まり出した。葬儀は10時からである。

会場の係の人と手順などの確認をしたが、弔辞を読んでもらう税理士会の支部長に連絡したい事項があるが、顔が分からないので教えて欲しいと言われたが、私は忙しかったので義父の事務所の所員の人にお願いしたのであったが・・・。

棺を会場に戻して葬儀の時間が迫ってきた。

会場の担当者から、弔辞は支部長さんが欠席なので代読になると云う報告を受けた。

ナニ〜ッ!代読〜だと!

義父は他人の事を決して悪く言うような人ではなかったが、私が知る限り、その義父がただ一人の例外としていたのが、かつての部下であったその男である。

私は、義父は最後の最後に、その男を許してあの世に旅立つために、あえて弔辞を読む機会を与えたのだと解釈することにしたのであるが・・・。

もはや、この時点で他の人に弔辞を依頼することなど出来はしない。

非礼な奴と云うのは・・・。

義父が怒っていたのもこう云う非礼なところだったのだろうなぁ〜。今日に至るも代読になった理由の説明すらないとは・・・。

葬儀も終わり火葬場に向かう。

火葬の時間は1時間50分程度だという。昼食の弁当を食べ終えて、ちょっと横になったら、爆睡してしまったのだった。

お骨の収納というのは、悲しさと可笑しさが複雑に絡み合う場面であることよ、上手く箸渡しが出来なかったりして・・・。

まだ温かい骨を入れた骨箱を持って斎場に戻るが、足の悪い人が多いから移動に時間が掛かる。

火葬場へ行くには霊柩車のリムジン車があるからまだよいが、帰りはバスである。このバスは車椅子対応になっていないから、昇降が大変であった。これからは、ますます老人が増えるから、葬式の移動も新しい対応が必要であろうなぁ〜。

斎場に戻り、30分ほど遅れで忌中引きの繰り上げ法要を行なう。

施主としての最後の挨拶と云う役目が待っている。

なんとか挨拶も終わり、斎場の担当者と収支などの最終確認を行ない無事に葬儀は終了した。

公益社と云う会社は、実にありがたい会社である。何から何まで、痒いところに手が届く対応であった。公益社がなければ、どうやって葬儀をやったらよいのか途方に暮れていたかもしれない。感謝である。

義父の家に、親族が集まる。遠方から来ている親族も、それぞれに帰っていく。葬儀とはそういうものであろうが、慌ただしく、忙しいから、悲しみを感じている暇がなかった。

きっと寂しさはこれから襲ってくるのだろうなぁ〜。


■2015-11-06-Friday 葬儀の後

4日の忌中引も終了し、

葬儀はすべて終えたと思ってホッとした途端に「明後日の6日が初七日です」と云われる。

エ〜ッ明後日!

そうか、31日の朝に亡くなったのだから初七日は6日になるのか。

葬儀までに日が開いた分、今度は初七日がすぐに来るのだなぁ。当たり前と云えば当たり前なのだが。

我が家の子供達3人+1人(長女の婚約者)は明日職場のある街に戻る。まずは、皆で一緒に食事をしようということになった。

何が食べたいか?と聞くとジンギスカンと云う。牛肉の焼肉よりもジンギスカンが食べたいと云うのだ。実に安上がりに出来ているなぁ〜。

ジンギスカン専門店に行って腹一杯食べろと言ったのだが、私も子供たちも食欲がない。葬儀の慌ただしかった疲れと、とても可愛がってもらった祖父が亡くなった喪失感で食欲が湧かないのだろう。

おかわりも無しに自宅に戻る。家にジッとしても寂しさが増すばかりであるから、温泉銭湯に行くことにした。銭湯でさっぱりしようということである。

汗をタップリと流して疲れも一緒に流そうと思ったのであるが、逆に、何だかとても疲労感が増してしまった。

スーパーマーケットで、お酒を買って自宅で飲むことにした。

妻はそうとう疲れたのだろう。舟を漕ぎ出したので早目に寝ることにしたのであった。

翌日は、11:20発の列車で新千歳空港に向かう予定になっている。

私が開設準備中の「マジックミュージアム」を見たいと云うので案内し、インデアンカレーを食べたいと云うので長崎屋のフードコートで食べさせて駅に送ったのであった。次女は4時の飛行機で東京に戻った。

これからは家族が全員集まるのは、冠婚葬祭が中心になるだろう。誰かが死に、誰かが結婚し、誰かが子供を産む。古(いにしえ)から、人間の営みはこうして連綿と続いてきたのだ。

生あるものは必ず死ぬのが定めである。

90歳過ぎまで、子や孫らに囲まれて自宅で過ごせたし、今回の自分の葬儀も、遺影から法名まで事前に自分で用意していたし、大勢の人に見送られたいと常日頃から言っていたから、ひょっとすると、亡くなる日の日程や温かく穏やかな天候まで演出したのかもしれないなぁ〜。

人間、棺桶に入る直前まで自分の人生の幸不幸は分からないとも言うが、義父の最後はおそらく幸せだったことと思う。

後は、「自分の骨は母親の骨の隣に入れて欲しい」という希望を叶えてあげるだけだ。

四十九日法要を12月の中旬に予定しているが、この時に、お墓に雪が積もらずに納骨できれば義父の希望をすべて叶えられるだろう。義父のことだから、きっと四十九日法要の日も温かく穏やかな天候になるであろう。


■2015-11-07-Saturday 初七日

葬儀の明後日の6日が初七日であった。

9時にお坊さんに来てもらいお経をあげてもらう。

仕事がかなり溜まっているので、早目の時間帯に来てもらったのである。

ごくごく内輪の人間のみでお参りをして、10時半には出社して仕事を始めた。

午前中に溜まった仕事を片付けて、午後からは葬儀の後始末をしなければならない。

昼食も、11時半と早目にする。

2日の(仮)通夜の日にお蕎麦を届けてくれた義父の顧問先の蕎麦屋さんに、お礼方がた食べに行ったのである。

まだ、まだこうした葬儀後の挨拶もたくさんあることであろう。

妻と昼食を取りながら、これから四十九日までにやらなければならないことなどを話合ったが、やらなけらばならないことはたくさんありそうである。

今は11月初旬であるから、喪中ハガキの手配して、早急に出さなければならない。

午後からは、業者との精算後に頂いた香典やら、掛かった経費などの計算などをしなければならないし、そのお返しの手配もある。

最近は記憶力が落ちてきているので、しっかり記憶している内に整理しておく必要があるが、次から次へと出てくるので頭が混乱する。

義父の葬儀の間にも、いろいろな行事があった。参加要請を受けていた事業もあったが、欠席の連絡を入れるのを忘れていたものもあったのである。

連絡も入れずに欠席したことの失礼を詫びなければならないのだが・・・。まぁ、相手側も当方の事情を察知はしてくれていたようだ。

一方で、本州方面の人は、こちらの事情はまるで分かっていないからトラブルもあった。

ネットオークションで2日に落札したマジック関係の書籍を、丸4日間も連絡を入れていなかったので、相手が激怒して取り下げてしまい。しかも最悪の取引相手であるとの評価をして、こちら側からの連絡も完全にシャットアウトしている人が一人いたのだ。

こういう緊急事態で連絡が取れない人だってたまには居るだろうに、たったの4日間も待てないなんて、超のつく短気な人である。

ましてや相手側に弁明の機会も一切与えないなんてどうかとも思うが、トラブルはこの1件ただひとつであったから、まぁ、こういう相手とは取引するなということなのかもしれないなぁ〜。


■2015-11-08-Sunday 平常

7日の土曜日は久し振りの休日の気がするが・・・。

午前中は10時過ぎまでたっぷりと眠った。昨夜は早目の11時には寝たから11時間以上も寝ていたことになる。

先週にやるはずだった大根葉の漬け物の確認作業や、鉢植えの植物を家の中に入れる作業、庭の落ち葉集めなどの身体を動かす仕事をした。

特に、集めた落ち葉の量は、半端な量ではなかった。大きなビニールの袋5つ分もあったである。それでも乾燥しているから軽くて助かった。

大根葉の漬け物も上手く漬かったようである。早速取り出して刻んで味見してみたら結構塩辛い。水に浸けて塩出しをしておく。

PCで、後から届いた香典などの整理をしていて、すっかり水に浸けていたことを忘れてしまっていた。今度は塩が出過ぎて味が足りなくなってしまったのだ。初物なのに少々残念である。

熱い炊きたてのご飯に、刻んだ大根葉に味の素と醤油を掛けたら絶品なのである。この世の中にこれ以上美味いものはない。納豆に混ぜるのも絶品であるから、買い物では納豆を忘れずに買って来てもらわなければならない。晩飯が楽しみだ。

葬儀会場で放映したVTRを欲しいと云う親類が増えた。一応、事前に12枚を焼き増ししてもらっていて、葬儀の直後に欲しいという親類には手渡ししたのだったが・・・。

公益社に電話したら、すぐに焼き増ししてくれるという。素晴らしいサービスである。昼に斎場まで取りに行く。

ついでに斎場近くの蕎麦屋で昼食を取り、100円ショップに行く。マジック・ミュージアムの展示に最適なプラスチックのディスプレー用品を見つけたのである。

ところが、行ってみたら4個しか在庫がない。同じ系列の店にも行ってみたが無い。100円ショップは同系列の店でも品揃えがかなり異なるようだ。

良いと思った時には、すぐに買っておかないと、品切れになると再入荷しないモノも多いようだ。残念!

自宅に戻って読書をするが、なんとなく落ち着かない。テレビでゴルフ中継を見ても集中して見ることができない。なんなんだろう。

きっと四十九日法要が終わるまではこんな状態が続くのかもしれないなぁ〜。

マジック・ミュージアムの整備も先週1週間はまるで作業をしていないから、来週は気張って整備をやらないと12月3日のプレ・オープン式に間に合わなくなってしまう。

さて、気を取り直して作業でもするとしよう。


■2015-11-09-Monday ミュージアム

先週1週間はマジック・ミュージアムの整備が

まったく出来なかったから、今日はいつもよりも長目に整備作業をした。

そうしないと、12月3日(ワン・ツー・スリー:奇術の掛け声)の「奇術の日」に行なうプレ・オープン式に間に合わなくなってしまうからだ。

地元のケーブルテレビである「OCTV」の「とかち青空放送局」と云う番組の中の「まいさんぽ」と云うコーナーで、「マジック・ミュージアム」の紹介ビデオの第2弾の放送が始まった。

なかなかコミカルな内容で、評判は良いようだ。

10月6日に取材に来たのだが、第1弾の放送日は10月23日〜2週間毎日、第2弾の放送日は11月6日〜2週間毎日という予定だそうだ。

放送の最初に、まだ未整備だった廊下が映っているが、整備が終了した現在とはまるで雰囲気が異なっている。

まっさらな壁の廊下であったのが、廊下の壁の両面にビッシリと古いポスターや写真などを貼ったから、まるで迫力が違うのである。

整備中の場面をVTRで撮ってもらうと、整備の進行状況の記録にもなるから有り難いことだ。後でDVDに編集してもらいたいなぁ〜。

ミュージアムも壁面が少なくなってきて飾り付けに苦労している。

今は床面の汚れを取って、ワックス掛けをしてもらっている最中であるが、まだ、未整理の道具をワックス掛けが終了した場所に移動させながらの作業である。

展示が全部終了してからのワックス掛けだと間に合わなくなる可能性が出てきたからだ。

移動させたのはよいのだが、この移動は私ではない人間がやったので、どこに何を移動させたか、後から分からなくなる可能性もある。

ここ1週間はマジック・ミュージアムの整備の仕事に掛かりきりになりそうな気配である。


■2015-11-10-Tuesday 演劇

倉本聰の富良野塾出身者が演じる

演劇「シコバラ」が10日帯広の文化小ホールであったので妻と2人で観劇してきた。

この劇団には帯広市出身の松本りきさんと云う女優が所属しているが、父親とは青年会議所で一緒であったし、家の娘と同じバレエスタジオに通っていた関係で母親とも接点がある。

もとより演劇などの生のステージ物が大好きであるから、どんなジャンルのものでも、帯広での公演の機会があれば、よく観に行っているのだが、富良野塾関係の演劇はいつも松本りきさんの母親が連絡をくれるので、ほとんど欠かさずに観ているのである。

今回は10日前に義父が亡くなったばかりであるが、いつまでも下を向いて生きていくわけにもいかないし、生きて行く以上は楽しく生きていきたいから、気分転換、元気を出すためにもキャンセルしないで観にいくことにしたのである。

今回上演の「シコバラ」の題名は、「仕込み」と「バラシ」である。

弱小演劇集団が、自分たちで劇場の照明や音響などの「仕込み」と「バラシ」をする場面を実際に見せながらの劇である。倉本聰の作品ではないが実験的な、なかなか面白い試みである。

喜劇仕立てであるが、弱小劇団の内輪話を折り込みながら、ホロッとさせようとする場面もあって、なかなか面白い試みの構成であったが、いつもの幕別百年ホールで上演している倉本聰作品の時よりも観客数がかなり少なかった。

やはり、脚本家のネームバリューというものなのだろうか?

10人弱の出演者であったが、裏方分も考慮すると、一人2千円の入場料で、小ホールを満杯に出来ない状況では、劇の中の弱小劇団とかわらない状況にも思えた。

次回の公演時にはもっと応援してあげなければ・・・。

帯広の人は、もっと生の公演を観たり聞いたりした方が良いと思う。文化っていうのは、そう云う一見すると無駄だと思えるようなところから発生していくものなのになぁ〜。


■2015-11-11-Wednesday 表彰!

「禍福はあざなえる縄の如し」、

禍(わざわい)と幸福(しあわせ)は交互にやって来ると云う様な意味である。

先月末に義父が亡くなったが、葬儀の準備をしている時に、私の携帯電話に公益社団法人 日本奇術協会(プロマジシャンらが所属する団体)の事務局の方から連絡が入り「マジック・ミュージアム整備の功績により、平成27年度の功労賞の授与が決まりました」との報告が入ったのである。

義父の自宅で、まさに葬儀の打ち合わせをしている時であったので、嬉しい報告ではあるのだが、まさか喜んではしゃぐこともできはしない。

ただ、ありがとうございますと押し殺した声で感謝の意を表しただけに終わったのであった。

私は、小学6年生11歳の時からマジックを趣味とし、大学卒業時まではプロマジシャンになってマジック界で有名な存在になってやるぞ!と云う大きな野望を持っていたのだが・・・。

大学3年生時のマジッククラブの発表会での大失敗によって、自信喪失気味であったところに、父親の大反対で、この夢は実にあっさりと潰えてしまったのであった。

プロマジシャンになる夢が潰れた後は、マジックの練習もほとんどしなくなったし、まちづくり事業の方が面白くなってきて、重心はそちらに向かっていったのだった。

まちづくり関係では北の屋台創設の功績によって「観光カリスマ百選」にも選出され、全国各地を講演して歩くまでになり、一応は名前が通るようにもなったのだが・・・。

逆に、名声を獲得したら、一緒に活動していた仲間達との折り合いがまずくなっていって、まちづくり事業からは去る結果になってしまったのだった。

しかし、まちづくり事業で、暇が全く無かった身が、急に暇になったことで、マジックの師匠であった故ジミー忍師の「マジック博物館を造って欲しい」との遺言を果たす時間が生まれたのだから・・・。

2007年4月から、まずはマジック図書館を造り、2012年からはマジック博物館の準備に入ることが出来たのである。これは、まさに私の人生訓「人間万事塞翁が馬」そのままなのであった。

今回、「マジック・ミュージアム創設の功績」によって、日本奇術協会から功労賞を授与していただけるというのだから、こんな名誉なことはない。これで、当初の野望とはかなり形は異なるが、マジックの世界に於いても表彰されることができたので、一応は目的を達したことにしておこう。

表彰式とパーティは、故ジミー忍師が提唱した12月3日の「奇術の日」に東京新宿のホテルで開催されるという。

この日は、帯広で「マジック・ミュージアム」のプレ・オープン式を開催する予定なので、表彰式には出席は出来ないと言ったら、11月下旬に表彰状を送ってくれることになったのである。

先ほど、正式に受賞案内などの書類が届いた。

電話だけでは不安であったが、これで間違いはなかろう。

パーティに出席できないのは少々残念なことだが、帯広で仲間等に祝ってもらうのもまた嬉しいことである。これで、プレ・オープン式にも箔が付こうってもんである。

まずは、メデタイことだが、次に禍が来ないように祈ろう。


■2015-11-12-Thursday 監視カメラ

マジック・ミュージアムの一般公開に向けて

管理体制をどうするかを検討する材料のひとつとして、監視カメラを設置することを進言された。

現在の監視カメラの機能が格段に進歩しているのは分かってはいたが・・・。

地元の大手電器会社に相談してみたら、さっそく専門の人間を派遣するという。当初は、先週の5日に来てもらうことになっていたのだが、5日は義父の葬儀開けで、他の仕事が溜まっていたので、今日まで延期してもらったのであった。

デモンストレーション用のカメラ機材とモニターを持ち込み、実際に設置してみて驚いた。昔のカメラとは解像度がまるで違って、とても鮮明に映るではないか。

何台をどこに設置するか、いろいろと試してみて、死角が無いように設置場所を検討してみたのであった。

後は、見積もり金額との相談であるが・・・。

監視カメラには、プライバシーとの関連もあるから、設置するのは簡単ではない。防犯とプライバシーは相反するものであるから、設置には慎重でなければならないと思う。

もともと私は、防犯カメラの設置には慎重な態度であった。誰かに見られているというのは決して気持ちの良いものではないからだ。

しかし、一般公開してから、私が常にマジック・ミュージアムに居るという訳にもいかないし・・・。

12月3日のプレ・オープン式の時に、一般公開の方法に関して、皆に相談してみたいと思う。

何か他に良いアイデアがあれば良いのだが・・・。


■2015-11-13-Friday 広報

プロマジシャンが所属する団体の日本奇術協会から

連絡が入って『会員向けの広報誌「ワクワク通り」にマジック・ミュージアムの進捗状況を連載で紹介したいので写真などの資料を提供して欲しい』という。

つい先日にはマジック・ミュージアムを設置した功績で平成27年度の功労賞を授与してくれると連絡があったばかりである。さっそく、写真を映してBDFに処理してメールで送ったが、便利になったものだ。まさにマジックである。実に嬉しい話の連続であるが・・・。

中央のマジック界でも期待してくれているようで、なんだかプレッシャーを感じ始めた。

12月3日のプレ・オープン式の開催が20日後に迫っているが、ここにきて作業がイマイチ停滞している。

先週の義父の葬儀関係で作業が1週間まったく出来なかったことと、その間にも会社の仕事が溜まったことと、葬儀の後の雑用が重なっているために、集中して展示作業がやれない為だ。

遅れを取り戻そうと頭では思っているのだが、展示作業というのは意外と細かい作業が多くて、目に見えての進展が少なくて焦りを感じているのだ。

あくまでもプレ・オープンだからと、気を楽にしようと考えてはいるものの、一応は形だけはなんとかしたいと、相反する気持ちで日々の作業をしているが・・・。

まぁ、なんとかなるだろう。


■2015-11-14-Saturday 中心街

十勝毎日新聞社の記者から

帯広の中心街の歴史を、帯広小学校の6年生3人に教えて欲しいという依頼があった。

14日の午前9時に坂本ビルの6階の会議室に集合することになっている。

勝毎の記者2人とカメラマン、小学生3人とそれぞれの親が3人(父親1人・母親2人)と小学生の妹が一人が来た。

勝毎の来年1月新年元旦号の特集記事ということだ。

明治時代の帯広小学校、昭和の帯広小学校、移転後の帯広小学校の写真をプロジェクターに映したり、上空からの街の写真を映したりしながら、記者が小学生に説明していく。

私の役目は説明の補足である。

私は、昭和33年に西2条南9丁目の現:坂本ビルの建っている場所でお産婆さんにとり上げられ、昭和42年に火事で住宅を移転するまで、ここに住んでいたからまさに街ッ子である。

1学年上の姉の友達や、私の同級生、2歳年下の妹の友達など、大勢が近所に住んでいたから、毎日、毎日、街の中で遊び回っていたものだ。藤丸デパートはほとんど毎日通っていたから、よく覚えている。

その藤丸デパートと我が家の前の交差点に初めて信号機が出来たときの話やら、藤友ストアのエレベータの話、サニーデパートの話などは、小学生たちよりも、父親や母親の方が懐かしいと話に乗ってきたのであった。

親達の年齢は、私よりも10〜15歳ほど年下であるから、彼らの小学生時代の話で盛り上がったということである。

プロジェクターを見終わった後は、歩いて広小路や駅前まで行く。

そこで、昔の写真パネルを見ながら、昔はこうだった、あぁだったと説明するのである。

写真の中には、私が生まれる遥か前の写真もあるが、私は「北の屋台」を始めるために、帯広の街の歴史を調べているし、それで本まで出版したものだから、並みの年寄りよりも詳しいのである。

しかし、大通りの跨線橋や西5条のアンダーパスは、彼らが生まれる前に無くなっているので、彼らは鉄道の高架しか知らないから「エ〜ッ何これ!昔はこんなになってたんだぁ〜」と云うのを聞いて世代の違いを実感したのであった。

子供達も、面白かったというから、一応はちゃんと伝わったのだと思う。

11時頃に、再び坂本ビル6階会議室に戻って終了した。

最後の挨拶の時に「マジック・ミュージアムという手品の博物館を3階に造っている最中で、まだ途中だけど、見たかったら見せてあげるよ」と言ったら、「見たい!見たい!」と子供たちが言う。

案内したら、親も子も、皆が興味深そうに眺めていた。手品をやってみせて欲しいとのリクエストであるが、道具はもうほとんど展示してしまっている。スプーンが数本あったので、スプーン曲げをやってみせたら親子に受けた。

マジックの実演も受けたが、展示物もジックリと眺めては喜んでいたからけっこうな手応えを感じている。

マジック・ミュージアムは中心街の新しい名物、ちょっと面白い場所になりそうな予感である。


■2015-11-15-Sunday パリのテロ

フランスのパリでテロがあったというニュース

5、6箇所で自爆テロや銃撃があって100人以上が死亡したという。

今年の1月にパリの出版社が襲われたテロでは、テロの対象者がムハンマドを冒涜した人間とハッキリしていたが、どうやら今回のテロは無差別のようだ。

サッカースタジアムや劇場やレストランなど、一般市民が行く場所を狙っての犯行である。

劇場ではステージ上から銃を乱射して観客を50人以上も射殺したらしい。

ニュースでは地図でテロのあった場所を説明していたが、サッカー場がやや中心街から外れているが、その他は街中に集中している。

1月のテロからは10ヶ月ほどもテロ行為がなかった(日本のニュースでは)ようだったが・・・。

フランスには2ヶ所、パリとブロワに「マジック博物館」があると云う情報を得ていたので、マジック・ミュージアムのオープン前に一度は視察しておきたいなぁ〜なんて考えていたのだが・・・。

今回のテロがあった場所の11区に「マジック博物館」がある。どうも地図でみるとすぐ近所のようである。

犯行はISの仕業のようであると云っていたが、空爆に対する報復なのであろう。

今回のテロに対してフランスはまた空爆をするだろう、その空爆に対してはまたテロで・・・、この負の連鎖は止まらない。

これでは恐ろしくてしばらくフランスには行けない。

そう考える観光客も多いであろうから、世界一の観光都市パリは商売があがったりになるであろう。

なんで人は殺し合うのであろうか?

世界中がとってもイヤ〜な雰囲気であるなぁ。


■2015-11-16-Monday 名称

仮称:マジック博物館の正式名称を

何にするかは、以前のこのブログにも書いた気がするのだが、プレ・オープン式を控えて、何人かから尋ねられているので改めて書くことにする。

正式名称は『マジック・ミュージアム』とカタカナ表記である。

英語ではそのまま『Magic Museum』と表記する。いたってシンプルな名称にした。

以前に、名称については、やれ「USJ」だの、やれ「マジカル・ミステリー・ミュージアム」だのと、あれこれとかなり悩んだことも書いたが・・・。

因みに「USJ」とは、展示物寄贈者3人の名前の「植田 UEDA」「坂本 SAKAMOTO」「ジミー JIMMY」の頭文字を取ったもので、お分かりの様に、大阪のUSJ、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンにアヤカッタ名称である。

日本語の「手品」だとか「奇術」などを付けようかとも考えたことがあったが、新聞や雑誌などで「手品のように・・・」とか「奇術のように・・・」とかと云う形容を使って「他人を騙して・・・」と云う様なニュアンスの使われ方をしているので印象がイマイチよろしくなかった。

一方で「マジック」と云う形容は、野球なら「三原マジック」(古いね〜)だとかサッカーなら「オシム マジック」だとか、ダメな組織を甦らせるような意味に使用されているように感じていたので、「マジック」と云う言葉の方が良かろうと思ったのである。

「博物館」と云う言葉も、何だか古いものを集めて展示しているような重たい印象が感じられるとの意見もあった。

イマドキの日本人の若者なら、ミュージアムが博物館であることは辞書なんて使わなくて知っているであろう。

フランスに2ヶ所あるという、いわゆる「マジック博物館」の名称を調べてみたらパリの方は「Musee de la Magie」となっている。フランス語の「Musee」は英語の「Museum」だし、「Magie」は「Magic」である。

ブロワの方は「Maison de la Magie」となっていて「Maison(メゾン)」は英語の「Mansion(マンション)」と同じ意味で「建物」であるから、日本語に訳したら「マジックの館」ってなところかな。

何せ、私は大学生の時に(単位取得が出来なくて)4年間もフランス語の授業を受けていたのだから・・・。

フランス人も単純明快な名称にしている事が分かったのである。

結局、「マジックの本質はシンプルに有り」とのことで、こちらも単純明快に『マジック・ミュージアム』とすることにしたのである。


■2015-11-17-Tuesday 果物

果物が続々と届いている。

ここ3日の間に、山梨、静岡、栃木の知り合いや大学時代の友人らから、柿やミカンやリンゴが箱で送られてきたのだ。

果物は大好きであるが、今は妻と二人暮らしであるから、全部を二人で食べきることは不可能だ。

柿は固いのが好きだし、リンゴは長く保存しておくとボケてしまう。ミカンも置いておくと腐ってしまう。

せっかく美味しいものを頂いたのだから、美味しい内におすそ分けをしようと思い、兄弟や会社の職員などに、早速おすそ分けをして食べてもらった。

新鮮で美味しい果物が、毎日もらえるのだから、皆は大喜びである。

今度はこちらからお返しであるが、十勝の特産品には、すごく沢山の種類があるから、毎年、異なるモノを送ってみたいなぁと思っている。

じゃがいも、長いも、チーズ、ししゃも、イクラetc.

さて、今年は何を返そうかな?


■2015-11-18-Wednesday マイナンバー

マイナンバーの通知書が届いた。

私ら夫婦は普段留守がちだが、世帯主が母親になっているから、母親の所に届いたので、不在者郵便物になることはなくて、郵便局に受け取りに行かなくても済んだのだが、郵便局の本局には、ピンク色の不在者カードを持った人の長〜い列が出来ていた。

何だか変な送り方をするなぁ〜。もう少し時間を掛けて、やり方を検討してから実施すればよいのに・・・。

我が家は、それでも面倒なことはなく受取れたのだが・・・。

問題は先月末日に亡くなった義父の家である。

懸念は持っていたのだが・・・、案の定であった。

郵便局の配達人が義父の家に配達に来た。

お手伝いさんが、義父は先月末に亡くなったことを配達人に告げたら・・・、この配達人は、こう云ったケースの心構えが出来ていなかったのだろう。郵便局に持ち帰るとピンクの不在者カード置いて、通知書は持ち帰ってしまったのだ。

妻が、郵便局にピンクの不在者カードを持って行き、受け取ろうとしたら、本人の委任状欄にサインが必要だと云う。

そこで、父親が先月末に死亡したのだと話をしたら、それなら同居人のサインが必要だと云う。妻は同居人ではないからサインができないし、受け取ることもできないのだ。

再度、配達するので、その時に母親にサインをしてもらってから渡すと云うのである。実に面倒臭いことよ。

先日、再度、配達してもらったら、義母が寝ていてが、事情を知らないお手伝いさんが「今、奥様はお休みになっているので起こせない」とまたまた配達人を帰してしまったのである。

今日現在、まだ手元には届いていないのである。

だが、問題はこれだけではない。通知カードには義父と義母とのものが2通入っているであろうが、これを受け取った後に、義父の通知カード分はどのように処理をしたらよいのだろうか?

この、めちゃくちゃ忙しい時期に、面倒なことよ・・・!


■2015-11-19-Thursday 野球

何なんだ!この野球は!

温泉銭湯に行っている時に、サウナ風呂の中のテレビで、大谷投手の快投振りを見て、韓国相手にノーヒット・ノーランでもやるのじゃぁなかと期待していたのに・・・。

家に戻ったら、大谷は7回で降板していた。8回も零封して残すは9回の守りのみであったが・・・。

もう、すっかり勝った気でいたから、テレビは点けっ放しにして、耳だけで聞きながら、PCに向かってヤフーオークションをやっていたのであった。

9回表の韓国の攻撃であるが、耳で聞いていても、何だか、嫌〜な感じがしてきた。

則本が連続安打を打たれて、1点を取られてなおノーアウト満塁になってしまった。大谷の160キロの速球の後では、則本の球は遅く感じて打ち易いのかもしれない。

替わった松井が押し出しのファーボールを与えてしまった。

ここで、いくら今年活躍したからといって新人の松井投入はないだろう。ここで増井を投入していれば・・・。

だが、更に替わった増井が打たれて逆転されてしまった。

これでは、目の前にあった勝ち試合をポロリと落としたことになる。監督の継投の采配ミスであろう。

後からなら、「れば」「たら」になるが、追加点を取れなかった事が悔やまれるし、9回は則本ではなく別の投手に投げさせるか、もっと早くに替えるべきであったろう。あそこで松井投入はないよな・・・。

何とも、後味の悪い試合結果であることよ。

最近の野球は、あまり好きではないのだが、こう云う結果には気分がよろしくないなぁ〜。


■2015-11-20-Friday 野球の続き

今朝の新聞を見たら・・・。

読売新聞の北海道版は、日本が勝ったかの様な記事になっているので驚いた。

記事中のスコアボードは韓国の8回表の攻撃が零点で、日本の8回裏の攻撃がまだ載っていなかったからだが・・・。

もうこの時点で新聞社も日本がまさか負けるとは思っていなかったのだろうなぁ〜。

見出しは「160キロ連発 大谷7回無失点」「好調平田先制打」「変化球運び打線に勢い」「坂本犠飛で続く」「韓国守りに綻び」「イ・デウン4回KO」の文字が・・・。

もう、完全に日本が勝ったかのような記事である。

きっと、記事の締切り時間に間に合わなかったのだろうが・・・。それほど信じられないヒドイ敗戦であった。

こういう負け方は後々にまで響く。これまで全勝で来たものが、この負け方ですべてをフイにしてしまうかのような負け方だ。

則本も松井も増井も、打たれた救援陣は来シーズンまで、この悪いイメージが残ってしまうかもしれないなぁ〜。

そもそも、このプレミア12って何なんだ。最近の野球事情に疎い私は、てっきりWBCだとばっかり思っていたのだが・・・。

選手は来シーズンに向けて、身体を休めなければならないこの時期に、こう云う試合をさせることが本当に野球の為になっているのだろうか?

今回のこの敗戦は、日本の野球界にとって、良い結果はもたらさないような気がするなぁ〜。


■2015-11-21-Saturday 札幌

妻に付き添って札幌に出張してきた。

今月初めの義父の葬儀に身体の具合が悪くて欠席した妻の父方の叔父と母方の叔母のお見舞いに行ってきて欲しいとの義母からの依頼である。

葬儀の写真などを持って見舞いがてらに話をしてきた。

義父は長男、義母も長女である。共に兄弟姉妹が多いので、私は顔と名前がなかなか覚えられないでいる。

遺伝子と云うのはすごいもので、若い時分はそれほど似ていなくても、年齢を重ねてくると姿形が皆、似た様になってくるのであるから不思議なものである。

妻は幼少からの付き合いだから、当然ながらすぐに話ができるが、「私達の結婚式にも出席してくれたでしょう」と云われても、自分の結婚式の時の緊張状態で紹介されたところで、把握なんて出来る新郎なんて居る訳なんてないではないか。

結婚してからは30年目ではあるのだが、これまでに数度しか逢ったことがないだから、叔父さん叔母さんと云われても、共通の話題が少ないからなかなか話に入っていけない。

なんとか、話題をみつけては話すようにしたが、結構、気を遣うものであるなぁ。

義父は長男として、また長女である義母の夫として、下の兄弟姉妹の面倒を随分とみてきたようである。どの人からも感謝の言葉ばかりが出てくる。こうして名代としてお見舞いをしてみると、義父の誠実で面倒見の良い人柄がよく分かったのであった。


■2015-11-22-Sunday 札幌の夜

札幌の土曜日の夜。

大通公園では「ホワイトイルミネーション」が始まった。

札幌と云う街は、いつ行っても何等かのイベントをやっていると云う印象である。綺麗ではあるが、金も掛かっているなぁ〜。

テレビ塔のすぐ隣は、昔の札幌市民会館、今はわくわくホリデーホールとか云う名称に変わったようだが、ここで「ザ・ニュースペーパー」と云う劇団の公演をしていたので、妻と二人で見てきた。

この劇団は、政治や時事問題をコント仕立てで面白おかしく演じる劇団だ。数年前に帯広での公演を見たことがある。

17:30開演であるから、終了後にホワイトイルミネーションを見学してから夕食を取るにはちょうど好都合な公演時間帯である。

安倍首相など、主に政治家のモノマネをしながらコントや演技をしたりするが、けっこう笑わせてくれた。安倍首相、石原慎太郎、石破茂、ラグビーのリーチ・マイケルの真似はとてもよく似ていて大笑いした。

この日、亡くなった大相撲の北の湖理事長のことまで取り入れていたから、毎日、新鮮なネタ作りをしているのだろう。時事問題は新しさが命である。

政治問題は、大いに笑わせてもらったが「さる高貴なご家族」と云う出し物は、如何なものであろうか。

政治家は、自分がなりたくて立候補して政治家になったのだから、笑いのネタにされても仕方がないだろう。嫌なら辞めれば済むのだから・・・。しかし、生まれながらにしてその家に生まれたが為に果たさなければならない責任というのは、政治家とは別の問題であろうと思う。

たとえ辞めたくても辞められない人を茶化すのは好きになれない笑いだ。

この出し物は少々気分が悪くなった。

公演終了後にホワイトイルミネーションを見ながら、歩いて赤レンガテラスまで行き、妻が旅行会社の若い人から推薦されたと云う店に入った。まぁまぁ雰囲気のよい店であった。

食後は、ススキノに行ってマジックバーにでも行こうかと思ったが、二人とも疲れたのでホテルに戻って寝ることにしたのであった。


■2015-11-23-Monday

札幌は人が多過ぎて街を歩いていても

人に酔ってしまうようで気分が悪くなる。

札幌は、日本で5番目に人口が多い街になったが・・・。

50年前の小学1年生の頃から、ず〜っと、私一人で休み毎に2人の伯父の家に遊びに行っていたから、札幌の変遷も体験している。

やはり境目は、札幌オリンピックであったろう。

オリンピックを境にして、急激に人口が増えたのだ。あまりに急激過ぎたから、インフラ整備が追い付かなかったようだし、何せ、世界的にみてもこんな豪雪地帯に、こんなに人が集まっている都市はちょっと他にはないだろうと思う。寒さは暖房器具で何とかなるが、雪はやっかいな代物である。

札幌市の除雪に掛かる経費は、年間150億円以上も掛かっているのだ。

捨てる為だけに毎年150億円を掛けるのって・・・。

札幌駅から大通りまで地下道で繋いだが、これが出来たことで駅前通りの地上の店が大打撃を受けているようだ。地上を歩く人が極端に減ったからだ。

寒くて、しかも雪が降っているのなら、私でも地上を歩くよりは地下道を歩きたい。しかし、利便性だけで、地下道を造ったら、困る人も出てくる。直接的に困るのは、客が減る地上の通りに面した店であろうが、その為に店が撤退して街が寂れれば、間接的に困るのは札幌市であり、札幌市民なのである。

地上がゴーストタウンで、地下にウヨウヨと大勢の人が居る図は、昔読んだSF小説の、放射能で冒されて地下でしか暮らせない未来の物語のようで何だかとても不気味な風景である。

今回の札幌行きで目立ったのは、泊ったホテルの客に、中国人が大勢いたことだ。東京もホテルがなかなか確保できなくて、値段も高騰しているが、札幌も似たような状況にあるようだ。

東京の渋谷区の表参道で、外人3人組と思われる犯人が、高級宝石店を白昼堂々と襲う事件が起きたが・・・。

こう云った犯罪が、今後は増えるであろうと思う。

かといって、私は、外国人を差別している訳ではない。

生まれ育った環境がまるで異なるのだから、考え方も異なって然りだということを日本人は理解する必要があると思うのだ。

今後は、犯罪をやろうと思って来日する凶悪な奴だって出てくるだろう。

かなり凶悪な犯行に及んでも、ガードマンは銃を所持していないし、銃を所持している警察官も発砲しないと思っているから、犯人に命の危険は無いのである。だから、そうとうに大胆な犯行をする可能性があると思うのだ。

まさに、犯罪者にとっては、命を掛けて犯行に及ぶというリスクがまったく無いに等しいというわけだ。凶悪犯にとってこれほど犯罪をやりやすい国はないのである。そのことに、もう既に幾人かの凶悪犯罪者が気が付いているであろう。

今回の宝石店襲撃は、ほんの序章に過ぎない。

これからは、テロも怖いが、凶悪犯罪に巻き込まれるのも怖いことだ。

どうやら、人が増えるのは、よいことばかりではなさそうである。


■2015-11-24-Tuesday

朝起きて窓の外を眺めたら

雪が5㎝ほども積もっていた。

アッチャ〜、今季の積雪は例年よりもかなり早いなぁ〜。例年の積雪ならばクリスマスがホワイトクリスマスになるか、ならないかという12月後半なのに・・・。

夕方になっても降り続いている。

我が社の前の歩道には、商店街がロードヒーティングを設備しているのに、まだ電源を入れていないのだろう。まるで融けていない。

いったい何の為の設備なんだろう。保守費や電気代をしっかり徴収しているのだから、さっさと稼働させろよ!

除雪でまた腰が痛くなるじゃぁないか!

早い積雪で困ったのは、義父の納骨である。12月13日の日曜日に四十九日法要と納骨式を行なおうと計画していたのだが・・・。

でも、まだ温かくなって融けるかもしれない。それに期待することにしよう。

会社宛てに、九州の鹿児島に居る大学のマジックサークルの後輩のY君から、大量の焼酎が届いた。中に手紙が入っていて「マジック・ミュージアムのオープンおめでとうございます。(中略)お仲間の方々と一杯やって下さい。」と書いてある。

すぐに電話を入れて声を聞いた。元気にやっているようだ。

私のこのブログを毎晩読んでいるとのこと、それならメールくらい寄こせよと言ったが・・・。

Y君は大学を卒業後に、我が社で働いていたこともあるのに、筆不精な奴で年賀状も寄こさないから、しばらく行方不明だったこともあるのだ。

マジック・ミュージアムのオープンを機に、昔懐かしい人達と連絡が取れたり会えたりする。

これもまた楽しいことである。


■2015-11-25-Wednesday 大雪

昨日降った雪は帯広で29㎝、

札幌では44㎝であった。いずれも11月としては異例の降雪量であった。

何も一日でこんなに降るこたぁないのに、2㎝位なら軽い運動程度であるから毎日降ったって構わないけど、一度に15㎝以上も降られると除雪作業が大変なのである。

自宅の玄関先、車庫前、母の家との通路、母の家の玄関前をたった一人で除雪するのだから・・・。

今日は朝から、腰、肩、腕の筋肉がパンパンに張っている。

タイヤ交換は先週末に済ませていたから、ギリギリ間に合ったけど、雪が降った後に気温が下がったから、圧雪状態になった路面がカチンカチンに凍っていて滑る。

昨日のブログにも書いたが、商店街のロードヒーティングがまるで効いていないので歩道が凍っている状態のままである。高い保守料金や電気代を払っているのだから、こう云う時に機能するようにしておけよ。まったく何をやっているんだか・・・。

市役所に戸籍謄本を取りに行く時に、駐車場前で危く衝突しそうになった。前を走っていた車が、何を思ったのか、急停車してバックしようとしたのである。

クラクションを鳴らしてバックは思い止まらせたが、路面がスケートリンク状態になっているので、こちらのブレーキが間に合いそうにない。

反対車線からは車が来ていなかったので、慌てて反対車線にハンドルを切ったが、ハンドルがまるで効かないで滑って行く。

ア〜ッぶつかると思ってもう一度深くブレーキを踏んだら急にハンドルが効いて、車が横にズレたのでギリギリのところで回避できたのであった。

もしも、前の車が少しでもバックしていたら確実に衝突していたところである。

後ろも見ないでバックさせようとした前の車の運転手が恐縮することしきりであったが、ぶつからずに良かった〜。ドキッとしたぜ〜。

戸籍謄本を久し振りに取って驚いた。いつから書式が横書きに変わったのだろう。

窓口の人に「これが戸籍謄本なの?」と尋ねたら平成19年からこの形態になっているとのこと、そんなに長い期間、戸籍謄本を取っていなかったということなのだなぁ〜。

でも何だか、昔の縦書きの方が風情があったなぁ〜。


■2015-11-26-Thursday もう勘弁してくれ〜

季節外れ(?)の大雪は今日も降り続いている。

もう勘弁してくれ〜!

今朝はものすごく寒くて、十勝ではマイナス20℃以下になった所まである。まだ11月だぜ〜、いったいどうなっているんだ!

例年なら、先輩たちから名残惜しそうにゴルフのお誘いが来る時期だぞ!

午前中はかなり冷え込んで、会社に居ても足元が寒かったくらいであったが、午後からは少し気温が上がってきたようだ。

その分、雪の湿り気が増したようで、雪が重たくて参ってしまう。

もう腰も腕も悲鳴をあげている。

マジック・ミュージアムの展示作業も、除雪を先にしなければならないから、やってる時間がない。

また、やろうとしても、重たい雪を投げているから、腕がプルプルと小刻みに震えてしまうので細かい作業はお手上げ状態である。

今月初旬の義父の葬儀で遅れていた1週間分を取り戻すべく、展示作業の追い込みをしなければならない時期なのに・・・。

逆に遅れが増してしまっている。

言い訳はしたくなかったが、このままでは12月3日に完全な形での披露は難しい状況になってきた。

まだ展示できていないものは、バックヤードにそのまま仕舞いこんで、通路だけでも確保するようにしてしまおうかなぁ〜。

何とも恨めしい雪であることよ。もうこれ以上降ってくれるなよ!


■2015-11-27-Friday も〜う嫌だ!

朝起きて窓の外を見てウンザリ。

昨晩、寝る前に路面を表出させておいたのに、もう既に15㎝ほどの積雪になっていた。

9時には妻の実家にお坊さんが四七日のお参りに来るから、それまでに除雪を終わらせなければならないが・・・。

雪が水分を含んでいてメッチャメチャに重たい。

押して除雪するラッセルタイプの除雪具では、まるで役に立たないから、スコップで雪をすくって放り投げるしかないのだが、重たいから遠くに投げるのも一苦労である。

前の日に雪を積み上げてあった小山までは一度では届かないから、その手前に落としてしまう。そうなると放った雪の塊の重みで、雪がギュッと締まってしまう。

今度はその締まって更に重たくなった雪を小山に積まなければならないので、二度手間の重労働になるのである。

何かの罰を受けているかのような気分である。

車庫の前も除雪して、車は出せるようにはしたが・・・。

車は会社の駐車場の除雪作業の邪魔になるから、タクシーで会社に行こうとと考えたが、タクシー会社の電話に人が出ないのだ。きっとタクシー会社も配車でてんてこ舞いの状況なのだろう。

仕方がないから長靴を履いて歩いて行くことにした。

歩道はまるで除雪がされていない。前の人が歩いた圧雪状態の細い道の上を歩いて行くが、バランスを取るのが難しい。前方から人が来ると、すれ違うのも一苦労である。

駅の中を抜けて北側に出ると、雪が雨に変わっていた。

気温が高くなってきているようだ。

路面もシャーベット状態である。平原通りは今日もロードヒーティングが効いていない。いったい何をやっているんだ。もう3日目じゃぁないか。

もっと臨機応変に対応しろよ!

こう云う時に、ロードヒーティングを効かせて、人がすんなり通れる商店街であればお客さんからも感謝されるだろうに・・・。

逆に、こんな状況なら組合員からもロードヒーティング代を返せ!と言われるのがオチであろう。対応が遅過ぎる。

昼になって昼食を取りに外に出たが、路面はシャーベットがグチャグチャに固まって歩きにくい。下水の排水口に雪を捨てるようには、なっていないから、こういう状態の時は、捨てる場所がないのだ。

これで気温が下がって凍ったりしたら大変なことになる。

蕎麦屋で見た昼のニュースでは、帯広の積雪が65㎝で11月としては過去最高記録、しかも北海道は明日に掛けてまた70㎝も降るんだってさ・・・。

も〜う嫌だ!

雪の降らない沖縄にでも移住したいぞ。


■2015-11-28-Saturday 除雪

昨日の午後に雨になったが、

やっぱり夜には雪に戻ってしまった。

雪に変わってからの降った量は、ほんの数㎝という程度で済んだのだが、朝方に氷点下にでもなれば凍ってしまうからかなり厄介なことになる。

シャーベット状態の凸凹のまま凍ってしまったら、歩くことも困難だし、道路も舗装の上に凸凹の雪が乗る状態は、半世紀前の凸凹道以上にヒドイことになって自動車の通行も困難になる。

幹線道路には除雪車が入ったようで、車道の幅は狭まったが、一応路面が表出している、しかし、中通りには除雪車が入っていないから凸凹状態はかなりヒドイままの状態である。

まだ11月だから除雪の体制が整っていないのは、ある程度は仕方がないだろう。例年ならまだゴルフも出来る時期なのだから・・・。

それでも、除雪の対応に関しての役所への苦情は、ものすごい量であるらしい。

立場が違えば、思うことも違うのである。

ここ数日、平原通りのロードヒーティングに関して、このブログで苦言を呈してきたが、どうやら「契約」とかで臨機応変の対応が困難であるらしいということが伝わってきた。

単に「契約」としか聞いていないので、それがロードヒーティングのメンテナンス会社との契約なのか、電気供給の北電との契約なのかまでは分からないが・・・。

どことの契約であっても契約だから仕方がないとは思わない。

もしも、北電との契約で「ロードヒーティングの対応は12月からと契約していますので通電できません」とでも通告されたのだとしたら・・・。

ちょっと問題がありはしないだろうか?

世界中で異常気象が続いている状況で、契約だから・・・と臨機応変の対応が出来ないような企業が原発を稼働せようとしていることに恐怖を感じるのは私だけだろうか。

マニュアルにあることだけをやるならバイトの学生にだって出来る。

想定外の事態が起きた時に、どのように対応するのか、そして、それが適切な対応であることが求められる世の中なのだ。

今回の時期外れの大雪に対しては、あらゆるところで迅速で適切な対応を望みたいものである。


■2015-11-29-Sunday マコママ

マジックの師匠であった故ジミー忍師夫人のマコママが帯広に来た。

12月3日の「奇術の日」に開催する「マジック・ミュージアムのプレオープン式」に出席する為だが・・・。

式より4日も早くに来たのは、私の展示作業の遅れを心配して、手伝いに来てくれたのである。

10月31日に妻の父親が亡くなり、私が葬儀の施主を務めたのだが、通夜が3日、葬儀が4日、初七日が6日だったので、丸1週間展示作業が出来なかった。

更に、先週の3日連続の時ならぬ大雪の除雪作業で、これまた展示作業が遅れたことによる。

展示の追い込みをしなければならない11月の3分の1をロスしたのだから、3日のプレ・オープンまでに展示作業が終わるか心配になったのだろう。

実際、この1週間の遅れはかなり厳しい状況である。

開き直って、中途半端な状態でも、この事情だから許してもらえるだろうと甘い考えを持っていたのだが・・・。

やはりプロの考え方は厳しい。

人様に披露するのは、最大限の努力をした後でなければならないというのがプロであるという信念がある。

いい加減な事では人様に見せてはイケナイのである。

15時過ぎに帯広空港着の飛行機で入ると云う。

本来ならお迎えに行かなければならないのだが、往復2時間の展示作業時間がモッタイナイ。マコママに事情を説明してバスで帯広駅前まで来てもらったのであった。

宿泊先は駅前のホテルである。

ホテルに到着したところで電話が入った。

今から私のビルに来ると云うが・・・。普通なら3分で到着するはずが、なかなか現われないのだ。歩道が凍っていて、恐る恐るユックリと来たから20分も掛かったのだと云う。ここでも「商店街なのに除雪していないのは何を考えているんだ」とプンプンに怒っているが居る。

11丁目の西側の歩道は、公開空地と駐車場であるから、まるで除雪がされていなくて、怖くて歩けなかったと云う。

意識のある商店主の店の前はキレイに除雪してある。意識の低い店主の店の前は除雪も不完全である。店主すらいない空き地や駐車場の前は除雪はまったくしていない。これではマダラ状態で安心して通り抜けることもできないではないか。

まだ、帯広の人間ならヘッチャラで歩けるが、マコママの様に冬の北海道が始めてという人なら恐ろしくて歩けないというのも理解できる。

商店街のホスピタリティとして最低限の除雪はしなければならないだろうと考える。

ロードヒーティング以前の問題ではなかろうか?

東京からの客人に教えられたようで、私も情けなくなってしまったのだった。


■2015-11-30-Monday マジック・ミュージアム1

東京からマジックの師匠であった故ジミー忍夫人の

マコママが、マジック・ミュージアムの展示作業を手伝いに、29日から帯広に来てくれている。

昨日、ミュージアムに到着したは夕方であったので、この日は翌日からの作業工程の確認をしてから夕食を取りに行っただけであったのだが・・・。

9時から義父の初月忌法要でお坊さんが妻の実家にお参りに来る。それが終わってから、10時にホテルに迎えに行ってミュージアムに入った途端に「さぁ〜やるでぇ〜!」と一声出してから前掛けをしめてやる気満々である。この日は朝からマコママのテンションがやたらと高い。

とにかく通路上に置いてある荷物をまずは全部片付けることにした。以前にマジック用品の分類に使用していた黄色いイモカゴに荷物を入れていく。

ところが、箱を開けていくたびに「アッこれもモッタイナイから飾ろうよ!」と私が一旦仕舞った道具を出して来る。

展示道具が増えるとショーケースの中の配置を変えなければならなくなるし、一ヶ所を変えると、バランスが崩れるから全体を変えなければならなくなる。

「せっかくだから飾ろうよ!」と言われるとダメだとも言えない。

ショーケースの中身を変えながら展示作業をする。

画廊に、吉行淳之介の「手品師」と云う希少本の中の横田稔の挿画を額装を依頼してあったものが届いた。

1ヶ月以上も前に頼んであったのだが、なかなかデザインが思うようにいかなくて時間が掛かったと云う。プレ・オープン式には間に合わせると言っていたのが、今日になったのだ。

貴重品を展示してあるショーケースに展示することにしたが、これも以前に飾ってあったものをズラさなければ入らない。

狭いショーケースの中に入っての作業はけっこう大変な作業なのである。

どんどんと新しい仕事が増えていくが、マコママは精力的に作業をしていく。展示が楽しくて仕方がないと言う。嬉しいことだ。

昼食も30分で済ませて、すぐに作業に戻るし、3時の休憩も甘いものは食べないからいらないと言って、ほとんど休まない。

夕方6時まで、ビッチリと作業が続いたのであった。

マコママは肉類をまったく食べない人だ。魚や野菜も量はほとんど食べない少食家である。だから、せっかく食べ物の美味しい十勝に来ているのに夕食に連れて行き甲斐のない人なのである。

食事はほとんど食べないでお酒でお腹を膨らませているかのようだ。

マコママに「いつも何を食べて栄養を摂っているの?」と聞いたら「霞みと人を喰っている」と笑って言うが・・・。

本当にこんな食事で大丈夫なんだろうか。少し心配である。