■2019-03-01-Friday マジックショー
町民ホールを運営する知人から
夏休みにマジシャンを招聘してマジックショーを開催したいので協力をお願いしたいとの申し出があった。
私が、2月4日に東京でプロマジシャンの団体である「日本奇術協会」の新年会で「マジック・ミュージアム」について講演した際に、多くのプロマジシャンから、マジック・ミュージアムを訪問したいとの希望を聞かされた。
ただし、ただミュージアムを訪問するのではなく、ついでと言っては何だが、帯広でマジックショーを企画してもらえたら、ありがたいのだが・・・。と云う。
そのことをズッと考えてはいたのだが、地階の小劇場のことやら、ロサンゼルスの島田晴夫師邸への訪問などで忙しくて、手つかずの状態であったのだ。
それが、予期せずに会場(主催者)側からの打診である。夏休み期間中の、お盆には大道芸フェスティバルもあるので、忙しいのだが、渡りに船と乗り込んだのであった。
数名のマジシャンがこの話に乗ってくれそうである。どんなショーに出来るのかは、まだ分からないが、面白い事が出来そうである。
楽しみがまた増えた。
■2019-03-05-Tuesday ライオンズクラブ
友人のライオンズクラブ会員から
講演の依頼があり、5日夜に例会で話して来た。
私の父親もライオンズの会員であった。その関係で中学1年生〜高校3年生まで、私もレオクラブと云う若いライオンズクラブのような組織に入会していた。その時の同期会員で、高校も同じ学校であったS君からの依頼なのである。
このライオンズクラブの現会長が、JCの後輩でゴルフ仲間のN君と云うこともあったので、このところ、ブログを書く暇もないくらい忙しい日々が続いているのだが、そう云う事情で依頼を受けることにしたのであった。
私は青年会議所(JC)を40歳で卒業した際に、ライオンズクラブやロータリークラブに入会を勧められたのだが、団体行動が苦手な性格なので、組織に入って活動することは極力控えることにしたのである。
どこの団体にも入会することなく気ままに活動をしてきた。
昨年、還暦を迎えたので、その他の役職も降りて身軽になろうと考えているところである。
この日のテーマは「愉快なマジック人生」である。講演の前にひとつ、講演の終わりに2つのマジックを演じて、話すだけのものとは一味違った講演にしている。
マジック・ミュージアムの為だと思って、パンフレットと資料も配らせてもらったので良い宣伝になったであろう。
■2019-03-07-Thursday インタヴューオブSHIMADA
2月17〜20日までロサンゼルスの
島田晴夫師邸に滞在して、インタヴューした内容をようやく最後まで書き上げた。およそ15000字にもなった。
この原稿を島田師に送ったところブログへの掲載のOKが出たのだが・・・。
この原稿を読んだ馴染みの新聞記者が、島田師の破天荒で波乱万丈な人生は面白いから新聞での連載を検討したいと言うのである。とても嬉しい申し出だ。
私も書きながら、これは面白い内容だと思ったほどなのである。
この15000字の原稿を、今度は新聞掲載用に1回分を約1000字にまとめ14回に分けて編集をし直しているところだ。
島田師から文章に合った写真を提供してもらい新聞に掲載したいと考えている。
島田師の物語は、これまでマジック専門誌には掲載されたことはあるが、マジックに無関係の人が読む一般新聞紙上での連載はまだない。
マジック専門誌ではないので、専門用語は使えないから、一般人にも分かりやすいように書き直さなければならないのだが、これが意外と難しいのである。
普段普通に使用しているマジックの専門用語やマジシャンの名前は、マジック愛好家なら、それだけで理解できるのだが・・・。
例えば「サムチップ」を「親指の形をしたサック」と書いたが、それだけでは分からない。現象を書くことにしてみて「握った左手の拳にハンカチを入れたら消えてしまうマジック」と書いたら、文字数が多くなってしまう。5文字で済むところを、27文字も掛ってしまうのだ。これは困ったぞ。
数年後に、島田師が引退したら、師の道具や衣装が帯広のマジック・ミュージアムに展示されることになる。そうなれば世界中からマジックファンが見学に訪れ帯広の観光名所になるかもしれない。
十勝に暮らす人々にも島田晴夫と云う偉大なマジシャンの足跡を知ってもらい、マジック・ミュージアムを誇りに感じてもらいたいのである。
あとは新聞社の上司がOKを出してくれれば実現する段階にまで来た。
実現すれば画期的なことである。実現を期待している。
■2019-03-10-Sunday 小劇場
10日の北海道新聞の日曜版
「時を訪ねて1981」に「民間小劇場の先駆け 駅裏8号倉庫(札幌)」の記事が載っていた。
それによると、札幌は演劇活動が盛んな街で、札幌市内には10箇所以上も民間小劇場があるのだという。
その先駆けが1981年9月に札幌駅の北側に誕生した「駅裏8号倉庫」だと言う。演劇、音楽、自主上映活動をしていた12人が30万円ずつ出資して足掛け6年間共同運営をし、1日2万円程度で貸し出していたとある。天井高が7mで面積が150㎡もあったという。契約期間が1年間限定だったということで、83年6月に創成川の東側の別の倉庫に移動して第二次「駅8」がスタートしたそうだ。86年4月に賃貸契約が切れて終了したという。
札幌では86年10月に「札幌本田小劇場」が中央区に開業した。演劇専門の250席の劇場であったが、2000年に閉館。
88年には東区に「市こどもの劇場やまびこ座」がオープン。同年西区の琴似「日食倉庫」でもスタート、日食倉庫は95年に「コンカリーニョ」として一般利用を始めたが、再開発で倉庫が取り壊されて、06年に「生活支援型文化施設コンカリーニョ」として復活したという。
中央区では01年に「扇谷記念スタジオシアターZOO」と「ルネッサンス・マリア・テアトロ」の流れを継ぐ「演劇専用小劇場BLOCH」が開業。
08年に「cube garden」が加わったという。
札幌!すごいぞ!
こんなにあるとは思わなかった。
帯広も負けてられないなぁ〜。
■2019-03-11-Monday アリー・スター誕生
10日、映画『アリー/ スター誕生』(A Star Is Born)
を見て来た。
例によって、夫婦50歳割引制度を使って2人で2200円。映画は2時間半も楽しめるのだから実にリーズナブルな娯楽である。
今回の作品はブラッドリー・クーパー監督による2018年の映画である。
1937年の同名映画の4度目のリメイクであり、クーパー監督が主演している。クーパーの他にレディー・ガガ、サム・エリオット、アンドリュー・ダイス・クレイ、デイヴ・シャペルらが出演している。
バーブラ・ストライサンドが主演した同名の映画は昔見たが、その以前の2作品は見たことがない。4度もリメイクされているということは、アメリカの芸能界においては普遍的な、もしくは憧れのテーマなのであろう。
それとも、ハリウッドでは映画のネタが尽きてしまったのかも・・・。
レディ・ガガがこんなに歌が上手いとは思わなかった。それにレディ・ガガの素顔を見られたしね・・・。
この映画で歌われた曲は全曲とも耳に残る好きな歌であった。
監督のブラッドリー・クーパーの映画は初めて見たが、彼の歌声も実に良かったし、観客の想像力に任せる演出も良かった。久し振りにサウンド・トラック盤のCDを買いたくなった曲ばかりであった。
■2019-03-12-Tuesday 新聞掲載OK
先日のブログで島田晴夫師のインタヴューを
書き上げ、それを読んだ新聞記者から、新聞紙上で連載したい旨の申し出があった件を書いたが、このほど新聞社の社主からOKが出た。
今日現在のところ、3月中から開始して、緊急のニュースが入ったりして紙面が足りなくなるケースがない限りは、連日の掲載で15回×1000字の毎回写真付で始める計画である。2週間で完了する予定だ。
15回もの回数だと、毎日の掲載でないと、前の文章を忘れてしまうから、毎日の掲載がベストであろう。
さっそく、ロサンゼルスの島田晴夫師に報告したところ、マジック専門誌では過去に何度も「島田晴夫物語」的なものは掲載されているが、マジックに無関係な一般の人が読者である新聞紙上に掲載されるのは初めてであるから、とても喜んでくれて、すぐに文章に合った写真を選んで送ってくれることになった。
新聞社とはこの写真の到着を待ってから、最終的な掲載方法を検討することなっている。
まだ、私が新聞社に送った原稿の中に、新聞では使用できない漢字や用法がないかのチェックと、相応しくない表現がないかのチェックをしなければならないのだ。
掲載が楽しみである。このブログの読者にも、新聞に掲載されたら随時、このブログで掲載するので、帯広以外の方にも楽しんでもらえると思う。
もうしばらくお待ち願いたい。
■2019-03-13-Wednesday 駒大寄席
今年度第1回目の駒大同窓会十勝支部役員会
を12日夜に開催した。
今年は、支部設立20周年。
例年行っている総会時に駒大同窓の落語家を呼んで、落語会を開催し、同窓生以外の一般の方にも開放して喜ばれているが・・・。
今年は周年ということもあるので、落語家2人とお神楽を1人呼んで「駒大寄席」として盛大に行うことが決まった。
日時は7月13日(土)13:00〜16:00まで、場所はとかちプラザのレインボーホール。例によって無料開放である。
落語家は、お馴染みの三遊亭王楽と今年新たに三遊亭ふう丈、江戸太神楽の花仙を呼ぶ。この3人はいずれも駒大卒の同窓生である。
レインボーホールの定員は350名であるが、一般開放席数は250席を予定している。
まずは、同窓生宛にチケットを配布してから、余った分を一般に回す計画である。
告知は早目に開始するが、一般へのチケット配布は、今のところ6月3日(月)からを予定している。
無料チケットを早目に配布してしまうと、毎年「無くした」と云って来場する客が大勢出るからだ。
今年は、一般への配布期間を1ヶ月と少しにして、しっかりと保持してもらうようにしようということである。
3人の芸人さんの演技を無料で見られるのだから、こんなに良い娯楽はないであろう。当日にはなるべくトラブルが起こらないように、今回はあらかじめ、これまでのトラブルに対処して対応することにした。
今年も楽しそうだぞ!乞うご期待である。
■2019-03-18-Monday 少し落ち着いた
14日に義母が急逝した。
享年90歳、死因は急性心筋梗塞であった。
前日まで普通に生活していたから、あまりに突然で、心の準備もできないままであった、16日に通夜、17日に告別式を、喪主として葬儀を執り行ったが、自分でも何をやっているのか、ミスばかり繰り返してしまう。
義母は年齢の割には、若々しくて、とても90歳には見えなかった。若かりし頃には「原節子」と言われていたという美人であるし、明るい性格で、誰とでも気軽に話の出来る人であったから、近所の人気者で、マドンナと言われてもいたという。
いわゆる「ピンピンコロリ」と云う表現に近い感じの亡くなり方であったので、何一つ用意をしていない状態であるから、やれ経歴書だ、遺影だ、親戚への連絡だと、妙にあたふたとしてしまい、変なことばかりやっている。
「ピンピンコロリ」と云う亡くなり方は、痛い思いや長患いをしないから亡くなる本人的には、良い亡くなり方なんだと言う人もいるが、残された方にしてみれば、心の準備やら、最後をしっかりと看取れたという自己満足感も欲しいと思うものである。
難しいもんだなぁ〜。
葬儀か結婚式でもなければ親戚が一堂に集まる機会もないのだが、義母の兄弟姉妹も義父の兄弟姉妹も、皆が高齢になってきているから、段々と集まるのもしんどくなっているようだ。
孫やひ孫が集まって、死に行く者がいれば、新たに誕生する者がいる。
私にも去年11月に孫が誕生したが、誕生した時以来抱いていなかったから、今回、初めて抱くことができたが・・・。
義母にも温かくなったら見せに来るからと言っていたのに、楽しみにしていた義母には、生きてる内に見せることは叶わなかった。
もう後数ヶ月もすれば、ひ孫も抱けたし、新しい年号になって、昭和、平成と3つの年号に渡っての人生をすごせたのにと悔やまれるが、こればっかりはどうしようもない。
3年半前に亡くなった義父が、寂しいからそろそろおいでと誘ったのかもしれないなぁ〜。
あの世で夫婦水入らずの会話を楽しんで欲しい。ご冥福を祈る。合掌
■2019-03-20-Wednesday 取材
先に取材を受けていたモノが掲載される。
いずれも「マジック・ミュージアム」の紹介である。
一つめは、3月23日(土)発行の日本経済新聞の土曜版「プラス1」の中のコーナーに紹介される。
2月に送られてきた依頼文には
『弊社発行の新聞の土曜版「プラス1」のフロントページ企画「何でもランキング」へのご協力をお願いしたく、メールさせていただきました。以下のような企画を現在検討しております。
【プラス1「何でもランキング」企画概要】
「初心者でもわいわい楽しめる マジックグッズ&スポット」(仮)
季節も春めいて新年度が近づく今、歓送迎会にお花見と友人や会社の同僚など人が集まる機会も多い。そんなときにちょっと手品を披露すれば、場が盛り上がること受け合いだろう。初心者でもちょっと練習すればできる手品グッズも多く出回っている。また気軽にマジックを楽しめる常設スポット(バーやミュージアム、レストラン)も増えてきた。そんなグッズや場所を「初心者でも簡単」「盛り上がる」などの観点から専門家に選んでもらい、上位のものを紹介する。(掲載予定=3月23日(土)前後)
玩具店や通販などで入手可能で初心者がやりやすい手品グッズ、気軽に楽しめるスポットを編集部で(専門家の助言を受けながら)あらかじめ十数個ずつ程度選び、リスト化。マジックに詳しい方十数人にそれぞれオススメを選んでいただき、点数化して総合順位を決めて紙面化する(選者の方には薄謝)。原則としてリストをお送りしてそこから選んでいただく方向。』とあった。
どうやら、我がマジック・ミュージアムが選ばれたらしいのである。いったいどんな記事になるのかは私にも分からないが全国紙だから良い宣伝にはなるだろうなぁ〜。
二つめは、札幌の雑誌社「㈱ぶらんとマガジン社」が発行している雑誌「HOほっ」の中の北電と組んでのウェブ記事「HO×ほくでんエネモール」の取材である。
あなたのまちのエナジースポット「巡り旅」「第12回 帯広・音更エリアの旅 後編」という題名で、3月25日頃にアップされる予定であるというが、読む為にはサイトで住所・電話番号などの登録が必要なのだという「https://www.enemall.hepco.co.jp(エネモール)」で検索するというのであるが、何せ書いている私が良く分かっていないのだが・・・。
誰かに聞いて、読んでみたいと思っている。
以上、2点の報告でした。読んでね!
■2019-03-22-Friday バタバタ
まだ少しバタバタしている。
14日に義母が90歳で急性心筋梗塞で急逝した。16日にお通夜、17日に告別式を喪主として終えたが、事後処理が何かとある。
私の母が3月生まれで、今年満88歳になる。米寿の祝いは去年やっているが・・・、本来なら義母の喪中期間ではあるが、母の年齢から考えても誕生会はやれる時にやっておかないと・・・。
義母が亡くなる前に、企画をしていたこともあって、予定通りに21日に家族だけで市内の料理店でこじんまりと開催した。
十勝毎日新聞紙上で開始する予定の「島田晴夫」さんのインタビュー記事も書き上げなければならない。
毎回添付する写真も揃ったが、新聞社が写真を撮影した年代を全て載せたいというので、島田さんに撮影年代の確認を行ったりの作業を行った。
ロサンゼルスと日本では時差があるので、なかなかこの作業が難しいのである。
当初、私は「序章」を800字ほどを使って、島田さんのインタビューを行うに至ったことを1回分として書いたのだが、新聞社から「序章」と「第1回目」とを一緒に掲載したいと言うのである。そこで、急遽、200字程に短縮しなくてはならなくなった。これが結構大変な作業であった。
ようやく、原稿も揃い、写真も揃ったのだが、新聞紙上では、知事選挙が始まってしまったのである。これがどう影響するのかであるが・・・。
題名であるが、私は映画の「インタヴュー オブ バンパイア」から取って「インタヴュー オブ SHIMADA」という題名にしたかったのであるが・・・。新聞社側から分かり難いとの指摘があった。
まぁ、私の作業は終わったので、後は新聞社側である。いつから連載が始まるかの連絡はまだ来ていないが、私は平成の内に始めたいと思っているのだが・・・。
■2019-03-23-Saturday 日経新聞
23日(土)日本経済新聞土曜版
「NIKKEIプラス1」の「何でもランキング」の記事に我が「マジック・ミュージアム」が紹介されると聞いて・・・。
日経新聞は取っていないので、近くのコンビニに行って購入して来た。
「手品でタネまき笑顔咲く」と題して「歓送迎会など、人が集まる春。ブーム再来のマジックで盛り上がってはいかが。初心者におすすめの手品グッズやスポットを、専門家が選んだ。」という。
その「スポット」に同率「4位」として「マジック・ミュージアム」が紹介されていた。
ちなみに「スポット」部門の1位は「魔法ダイニングバーOSMAND(東京都港区)」、2位は「イリュージョンミュージアム(大阪市)」、3位は「手品屋(全国に15店)」、4位に「銀座マジックレストランGIOIA(東京都中央区)」、そして同率4位で我が「マジック・ミュージアム(北海道帯広市)」、6位が「MagicBar銀座十二時/丸の内十時(東京都中央区/千代田区)」となっている。
掲載されていた調査方法は『専門家やインターネット通販で購入できるマジックグッズと、マジックに関する展示やショーが楽しめるスポットについて、マジックに詳しい複数の専門家への取材でそれぞれ12個、14ヶ所をリストアップ。専門家11人に「初心者でも簡単にでき、場が盛り上がる」「誰もが足を運んで楽しめる」といった観点でおすすめ順に5つずつ挙げてもらい、結果を編集部で集計した。』となっている。
東京や大阪などの大都市の施設に伍して、北海道の片田舎である帯広の「マジック・ミュージアム」が選ばれたのは嬉しいことである。専門家の間ではかなり評価が高いようだが、これからは一般にもブレイクするのかな?
■2019-03-24-Sunday 伝記
「世界一のマジシャン島田晴夫物語」
という題名になった。
私が書いた、十勝毎日新聞紙上でこれから始まる14回の連載の題名である。1回が約1000字であるから1万4千字の労作だ。
かなりベタな題名ではあるが、マジック関係者以外の方々に読んでもらうためには分かり易い題名でなければ・・・。と云う新聞社側の意見を取り入れた結果である。
2月17〜20日まで、ロサンゼルスの島田晴夫師邸に寝泊まりして密着取材をした内容を書きあげたのであるが、わずか1ヶ月の期間で完成させた。こういう類のものは、記憶が鮮明に残っている内に書きあげなくてはならないのだ。
島田師にインタビューをしながらメモを取ってはいるのだが、全てを書き取れるわけではない。メモはあくまで補助的な役割でしかないのだ。頭の中に入れながら、自分なりに構成をしていかなくては書けない。
かつては、自分でも驚異的だと思っていた記憶力が、ここ最近は衰えが著しいから、細かいところまで覚えている内に書きあげてしまおうと考えたのである。
こういうものは「勢い」というものが大切なのだ。
話してくれた島田晴夫さん自身も、話した直後の方が、何を話したのか鮮明に憶えておられるであろうから、後の確認作業も楽になる。
時間をおいてしまうと、お互いに記憶も意欲も勢いも失せてしまうものなのだ。
島田晴夫さんの伝記的なものは、これまでにマジック専門誌では複数書かれているが、私の師匠であるジミー忍師の物語はない。ジミー師の伝記もまとめて後世に残したいと考えていたのだが・・・。
去年の3月に東京で暮らす師匠夫人にテープ起こし原稿を送って赤ペンを入れてくれる様に依頼したのだが・・・、1年経っても未だに原稿が戻ってこないのである。
遠いロサンゼルスとの間ではすぐに出来たことなのに、距離が近い東京とでは・・・。
もう、私の記憶がかなり薄れてしまったから・・・。こっちの方は、かなり難しい状況になってきてしまったなぁ〜。
■2019-03-25-Monday 反響!
さすが全国紙だなぁ〜!
日経新聞、読んだよ〜、すごいなぁ〜のメールやら電話やらの反響が多いことに驚いた。
「スポット部門」では、東京や大阪の大都市のマジックバーに伍して、北海道の片田舎の帯広にある施設の「マジック・ミュージアム」が同率の4位にランクインしたのだから、他ならぬ私が一番驚いている。
マジック・バーは、名古屋にも札幌にも、それこそ全国各地の主だった都市にはかなりの数が存在しているのに・・・。
やはり「日本唯一」というのが効いているのであろうか?
今回、2位にランクインした大阪の「イリュージョン・ミュージアム」は紅白歌合戦にも出てイリュージョンを披露したメイガスさんがプロデュースしている施設だ。先の2月4日に東京で私が講演した、日本奇術協会の新年会の席でメイガスさんと同席したが、その際に「同じミュージアム同士ですし、同じ北海道出身だから仲良くしましょう」と言われたが、「マジックのミュージアム」は「日本唯一」ではなくなるのだろうか?一度、大阪まで見に行かねばならないなぁ〜。
24日のBS朝日テレビで「Mr.マリック」のマジック番組が放送されていたが、この中に「スポット部門」で1位になったマジックバーが出てきた。
最近、またマジックのテレビ番組が多くなってきているように感じるのだが、日経新聞によると7年毎にマジックブームが起きているらしい。
ブームっていうのは、波があるから、あまり好きではないが、それでもマジックが注目されるのは嬉しいことである。
昨晩のテレビ番組を見ると、マジックの進化はスゴイことになっているなぁ〜。
私が見ても楽しいのだから、一般の方々も不思議で面白いと思う。マジックがもっともっと広まってくれることを願いたいものである。
■2019-03-27-Wednesday 島田晴夫物語①
「世界一のマジシャン島田晴夫物語」の
連載が27日の十勝毎日新聞でスタートした。
新聞社からは今週から開始する予定とは聞いていたのだが、今日だとは知らなかった。終業後に自宅に戻って新聞を見たら載っていたので驚いた次第である。
新聞であるから、私が渡した原稿に、新聞社側が「大見出し」「小見出し」を付ける。その付け方は知らされていないので、逆にどんな「見出し」になるのか興味深い。週3〜4日の連載で14回と云うことなので、これから掲載される度に、このブログ欄にも掲載していくことにする。
「世界一のマジシャン島田晴夫物語」①
米国ロサンゼルス在住の「世界一」のマジシャン島田晴夫さん(78)が2018年10月29日に帯広の「マジック・ミュージアム」を訪問し、引退後に自身のマジック道具などを寄贈すると公表した。ふさわしい展示をするために、2019年2月17〜20日、NHK札幌放送局の古谷敏郎アナウンサーと2人でロサンゼルスの島田邸に滞在して取材した。苦労の末に世界ナンバーワンとの評価を受けるまでになった、波瀾万丈の人生を紹介する。
♦「街で見た手品 とりこに」
マジシャン島田晴夫、本名は「嶋田晴雄」。旧来の「松旭斎」や「天」の字がつく芸名ではなく、本名にこだわったのは進取の気概の表れであった。
1940(昭和15)年12月19日に東京の両国で誕生した。戦争中の疎開や父の仕事の関係などで、千葉県や新潟県新発田市などに移る。父親は新発田サーカスの新発田興行洋画の支配人であった。15歳の時に、父の浮気と暴力などが原因で、母は子どもを連れて家を飛び出し、転々として後に離婚、東京の世田谷区上北沢に落ち着いた。母は世田谷区中里の神社で焼鳥の屋台を営み、女手一つで一家を支えた。そんな母親をねぎらうために、晴夫少年は毎日欠かさず店じまいをした後の母を迎えに行った。
「毎日道具売り場通う」
渋谷の東急東横百貨店のレコード売り場が晴夫少年の憩いの場だった。55年12月のこと、近くで人だかりがしている。天洋(以後テンヨーと表記)のマジック用品の売り場だった。不思議な事をしているなとずっと見ていたが、タネが分からない。母と妹との3人暮らしで家計は苦しかったので、とてもマジック用品を買うお金などなかった。
高校は夜学であったので、それから毎日、昼間にテンヨーの売り場をのぞきに行く。左手の拳に入れたハンカチが消えるマジックをやっていたが、何度見てもどうしてもタネが分からないので、56年の夏になって母に頼んでその道具を買ってもらった。これが最初に購入したマジック道具である。
すっかりマジックの魅力に取りつかれてしまい。うまく演じられるようになるまで何度も何度も練習を繰り返した。
次は、指の間でボールが増減する「シカゴの四つ玉」を買ってもらいたかったからだ。テンヨーの当時の四つ玉の値段は900円であったという。
「引田天功と出会う」
銀座三越の売り場に、引田功と云う日大の学生がバイトで立っていて、四つ玉がうまいと聞いたので行ってみた。これが後の引田天功(初代)で、島田の6歳年長であった。引田青年からはかわいがられた。ある日喫茶店に誘われて「テンヨーでバイトしないか」と勧誘された。
新富町にあった天洋奇術研究所(テンヨー)を紹介され、荷造りや商品運び、道具の塗装などの仕事をした。
12月からは新宿伊勢丹のテンヨーの売り場に立ったが、実演をするわけではなくテンヨー専務の多田野の助手をして商品の包装をしていた。
(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭)
【添付写真のキャプション】帯広のマジック・ミュージアムにて(左から)島田さんと筆者(2018年)
2019年3月27日十勝毎日新聞掲載
■2019-03-28-Thursday 島田晴夫物語②
「世界一のマジシャン島田晴夫物語」②
「衝撃の八つ玉デビュー」
1957年1月に高校を中退して、テンヨーの社員扱いとなった島田晴夫。売り場に立っていても販売には熱心ではなく、四つ玉の練習ばかりやっていた。当時、四つ玉が1組900円でタネは1個しか付いていない。その時の月給は3500円。何組も買える余裕はなかったが、のちにタネを2個使う技法を練習できたのは、売り場に四つ玉が売るほどあったからだ。この時点で既に、右手で1個からいきなり4個にする高難度技法を完成していた。
「天海氏の助言で」
この頃、日本に帰国して原宿のアパートに住んでいた石田天海(1889-1972、アメリカで活躍したマジシャン)のところへ週に1回通うことになった。天洋奇術研究所所長である松旭斎天洋(1888-1980、日本近代奇術の父、松旭斎天一のおい、初代日本奇術協会会長)から、「スライハンドをやりたいのならば俺が月謝を払ってやるから天海のところに行って習ってこい」と言われたからだ。
初めて天海に会った時に、印象付けるために四つ玉の実演をしたが、右手で1個からいきなり4個にする演技も含まれていた。左利きだった天海から、左手でも同じことができるようにしたらどうだい?と言われたが、当時は左手を使うことは「左ギッチョ」と言われており、最初は抵抗感があった。しかし、両手に一度に8個のボールを出せることが分かったので、猛特訓を開始した。
「猛特訓で完成へ」
実演販売員としては、新しくオープンした池袋三越の売り場に立ったが、ここでも販売よりもむしろ、八つ玉の練習ばかりをしていた。終業後に自宅のアパートに帰宅してからも、アパートの2階の窓から手を外に出し、ボールを落としたら階下までいちいち拾いに行かなければならない緊張感を持たせた練習方法を実施。母と妹と3人で夜に川の字になって寝ている時に、真っ暗な中、寝たまま空の手を伸ばして手順を確認する動作もした。それを見た母は、この子は気がふれたのじゃなかろうかと心配して見て見ぬ振りをしていたという。
天海との出会いから3カ月間猛特訓し、玉を合計35個も使った手順を完成させ、1958年、17歳の時に三越劇場で衝撃的なデビューを飾ったのであった。
その前年に四つ玉でデビューし天才とうたわれた引田天功であったが、翌年に島田が両手にいきなり8個の玉を出す八つ玉(35個)でデビューしたので、マジック界は「大天才現る」と騒然となった。それまで親切にしてくれていた先輩の引田も距離を置くようになった。
(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭。写真は島田氏提供)
【添付写真のキャプション】三越劇場にて、八つ玉でセンショーナルにデビュー(1958年)
2019年3月28日十勝毎日新聞掲載
■2019-03-29-Friday 島田晴夫物語③
「世界一のマジシャン島田晴夫物語」③
「鳩出し10羽で大成功」
松旭斎天洋が地方興行を行う時にはアシスタントとして手伝い、ボールも演じさせてもらっていた島田晴夫だが、演技時間が短過ぎたのと、アングルに弱いという欠点があり、プロ向きのアクトではないと感じていた。
ディーラーの仕事は、売り場が池袋三越から浅草松屋に移ったが続けていた。デビュー翌年の1959年、ヨーロッパのナイトクラブの芸人を紹介する映画「ヨーロッパの夜」でチャニング・ポロック(マジシャン)の「鳩出し」が日本のマジック界の話題をさらった。マジシャン達は何度も映画館に足を運び、ある者は8ミリカメラを映画館に持ち込んで無断で撮影して研究をした。島田も有楽町の映画館に9回も足を運んだ。当時の収入からすると大変な出費であったが、このポロックの鳩出しを見たことが、この後の島田の方向性を変えた。鳩出しに取り組んだことと、パーソナリティの重要性を認識したことであった。
ポロックの鳩出しは、日本のマジック界に衝撃を与え、60年には名古屋のアマチュアマジシャン伊藤勝彦が新たな仕掛けを考案し、それを使って引田天功が鳩出しを演じた。
天洋が再婚して熱海に移った。椿夫人から鳩出しのバッグにホックを付ける役目で呼び出された時に、独自の工夫を加えた仕掛けを見せたら、天洋が感心して「お前、これを使って鳩を10羽出してみろ。出せたら三越でリサイタルをしてやる」と言われた。ポロックが7羽だったので10羽出せと言うのである。
島田のいとこが新宿の十字屋という洋服屋だったので、えんび服を作ってもらい10羽の鳩を仕込む仕掛けを付けて手順を作り、61年の三越劇場でのリサイタルは大成功を収めたのであった。この頃、天洋からは松旭斎天晴の娘でマジシャンだった松旭斎天百合との結婚を勧められたが、縁なく結婚には至らなかった。
その後、浅草の「新世界」という娯楽センターの5階にあったマジックランドの小さなステージに引田天功と一緒に出演するが、ここにいた5歳年上のエレベーターガールと最初の結婚をすることになる。この新世界には、オーストラリア人のマジシャンのケン・リトルウッドが出演していた。彼は日本人のトシを嫁にもらって日本によく来ていたが、このトシと島田の妻は仲が良かったという。
鳩出しを演じるようになってからはテンヨーを辞め、四谷の「スタープロダクション」という芸能社と契約して米軍キャンプや高級クラブに出演するようになっていた。
(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)
【写真のキャプション】スタープロダクション入りしてプロとして最初に撮ったポーズ(1960年)
2019年3月29日 十勝毎日新聞掲載
■2019-03-30-Saturday 島田晴夫物語④
「世界一のマジシャン島田晴夫物語」④
「豪公演を機に海外へ」
1962年の時点で、鳩出しではシルクを使用せずに直接出す技法を完成させた。ステッキの上に出したり、1羽から2羽に分裂させたり、トランプを扇型に広げた上に出したり、または鳩が戻って来るように調教したりなどして演じ、日本には競争相手がいない状態であった。
当時は米軍キャンプや外人専用ナイトクラブの仕事が多かったが、出演料は1万円、月収は大卒の10倍ほども稼いでいた。運転免許証は取得前だったが、仕事に必要だからとトヨタのコロナを購入した。天洋から勧められて、お酒その他も20歳前で覚え、食事もステーキばっかり食べていたら、ろく膜を患って3カ月入院した。
1965年3〜5月の3カ月間にわたって、東宝の「日劇ダンシングチーム」(40人)のスペシャルアーティストとしてオーストラリア公演に参加することになり、アデレード、メルボルン、シドニー、ブリスベーン、パースの5都市を回り大成功を収める。この時に、後に2番目の妻になる、アデレードの劇場の客席案内係の女性だったディアナと知り合う。
3ヶ月の公演を終えて帰国すると、日本に置いてきた妻がオーストラリア人の男性と駆け落ちして行方不明になっていた。この結婚は、天洋からほぼ強引に薦められたものだったが、結婚してからほどなく、6畳一間の新居に妻の母親が同居するようになると、互いに気まずい状態となり、夫婦関係は芳しくなかった。妻本人が見つからないから、妻の母親に離婚証書にサイン、なつ印してもらって離婚の手続きを済ませたのであった。
このオーストラリア公演で、言葉が話せなくてもマジックならなんとかなると思ったし、妻との一件もあったので、踏ん切りを付けて海外に出ることにしたのだ。今度は、日劇の時のような保証は何もないが、エージェントもたぶん覚えていてくれるだろうし、行けばなんとかなるだろうと簡単に考えていた。
航空会社に渡航費を問い合わせたら、片道25万円だという。大卒サラリーマンの月給が2万円、当時は1ドルが360円で、外貨持ち出しが500ドルしか認められていない時代。とてもそんなお金が無いので、別の手段を探したら、神戸港発の貨物船なら片道15万円だったのでそれに乗って1965年9月7日に神戸港を出発した。
出航2日目には大型台風に遭遇して大きくコースを外れ、しかもすごい大揺れでひどい船酔いをした。16日もかかってシドニー港に到着した。
(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭)
【添付写真のキャプション】日劇豪州公演。アデレードの「ハー・マジェスティ劇場」にて(1965年)
2019年3月30日 十勝毎日新聞掲載
■2019-03-31-Sunday 休載日
日曜日は「島田晴夫物語」は休載日。
27日から始まった連載は3月中に4回掲載されたが、反響が物凄くて驚いている。
島田さんの波瀾万丈な人生が展開していくのは、これからなのに・・・。
毎回、感想をメールで送ってくれる方も居る。
連載前のこのブログにも書いたことだが、当初は新聞への掲載など考えてもいなかったから、色々なエピソードを豊富に入れ込んでいたのである。
別件での取材で来た新聞記者に、原稿を読んでもらったところ「面白いから新聞でも連載しませんか?」との誘いを受けたのである。
新聞には。これまでにも書き慣れていたので軽い気持ちでOKをしたのだったが・・・。
当初に書いていたのは、ある程度はマジックの知識を持った人向けに書いたもので、専門用語を使って書いていたし、文字数の制約などもないから、思い付くままに書いていたのだった。
ところがである。
新聞紙上では、1回分を1000字以内にして欲しい、マジックの知識の無い読者の方が圧倒的に数が多いのだから専門用語も使用しないで書いて欲しい、14〜15回程度の連載にしたいなどの要請があったのである。
新聞用に原稿を書き直す作業を始めたのだが、これが意外と手強かったのだ。
専門用語を使えば少ない文字数で表せる文章も、万人に理解出来るように解説しながらの表現に作り直すと、文字数が2〜3倍以上に増えてしまうのである。
それでなくても、エピソードが多過ぎて1000字以内に収めるのが難しいというのに・・・。
毎回、何がしかの「核」になるエピソードを入れないと読者がツマラナイと感じてしまうかもしれないから、何を核に展開させるかを考えなければならない、その上で贅肉を削ぎ落とす作業は困難を極めたのである。
読者の方からは「テンポが良くて面白い」と云う感想をもらう半面で「エピソードに深みが足りない」という指摘もある。
新聞社からは14回で終了させると云うことだったので、深く掘り下げて書いていると全部をカバーしきれないことになってしまうのだ。
しかし、逆に制約のある中で書くから、ギュッと凝縮されて面白いのかもしれない。
十勝毎日新聞は発行部数が82,500部の新聞であるが、十勝のほとんどの世帯が購読している新聞だ。とにかく、連載の第一の目的は島田晴夫さんの波瀾万丈な人生を十勝の36万人の住民にも知ってもらいたいというのであって、全国のマジック関係者用の原稿ではないということである。
これは、まぁダイジェスト版という認識でいてもらいたい。
マジックに興味が無い読者にも、読み物として楽しんでもらいたいと願っている。
なにはともあれ連載が好評の内に進んでいるのは喜ばしいことである。毎回掲載される度に、ロサンゼルスの島田さんにもメールで送っているのだが、島田さんんもとても喜んでくださっているのは何よりのことである。
島田さんも広く読まれることを願っているので、ドンドンと拡散してもらいたい。