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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2021-05-01-Saturday 速いなぁ〜

速いなぁ〜もう5月だよ!

年々月日が経つのが速く感じる。

昨日は大雨と強風であった。例年よりも早目に咲いた桜も、この天候で散ってしまった。桜の命は儚くて・・・

29日に花見ジンギスカンをやっておいて良かった。やっぱりやれる時にやっておかないと・・・。

今日は、久し振りの落語公演を聞きに行く。

去年の8月29日(土)に予定されていた「道東落語まつり」がコロナ禍で延期になっていたのだが、今日は公演を開催すると云う。

場所は帯広の隣町の幕別町百年記念ホールである。ここの施設のイベントはとても頑張っている。人口の多い帯広市の文化ホールよりも面白い企画を立てているし、それを町民のボランティアの人々が支えている。コロナ禍が起こる前の1昨年にマジックの催しを依頼されてから、この百年ホールのスタッフの方々とは懇意にさせてもらっており、以来、かなりの頻度で各種イベントに参加しているのだ。

マスク着用、手指の消毒、換気などのコロナ対策をしっかり施していれば、そんなに怖がることもない。

コロナを恐れるあまり自宅に籠ってばかりいたら、ストレスが溜まってしまって、自己免疫機能も低下してしまうから、むしろコロナに感染し易くなってしまう。

気晴らしや笑いはコロナ対策でもあると思う。

今回の落語会は三遊亭円楽がプロデュースしている。円楽は博多や札幌などでも「落語まつり」のプロデュースをしているから、なかなか良い出演メンバーが揃った。桂文枝、柳家花緑、三遊亭円楽、三遊亭愛楽、江戸屋子猫の5人の出演者である。

文枝は三枝の時代から何度も観ているが彼の新作落語は全集を持っているほど好きである。花緑は観るのは初めてであるが、まくら集は読んでいる。円楽は機会がなくて観たことはなかったがテレビの笑点での回答の早さと機転には一目置いている。

もともと落語が大好きで、学生時代は池袋演芸場や新宿末広亭にはよく通っていた。帯広に帰省してからも、東京出張で時間が空いたら寄席に行くほどである。

近くに寄席がある生活は羨ましいなぁ。

生の落語をもっと十勝の人々に聞かせたいと、駒澤大学同窓会で毎年落語会を開催しているが、去年はコロナ禍で中止にした。

今年はまだ決めていない。

さて、どうしましょう?


■2021-05-02-Sunday 祥月命日

今日は父の29回目の祥月命日である。

このコロナ禍では法要を盛大にする訳にもいかない。母も外出が出来ないので弟家族3人がお参りに自宅に来て、お坊さんに読経してもらい、その後で墓参りに行って、その後で精進落としとして一緒に食事をして来た。

このところ毎日の様に月日が経つのは速いものだなぁと書いているが・・・。

父が亡くなったのは平成4(1992)年、満64歳で死因は肝臓癌であった。生きていたならば今年94歳になっていた。

癌が判明した時には既に手遅れの状態で、医者からは余命3ヶ月と宣告されたが父には告知しなかったし母にも伝えなかった。

何も知らなかった両親は2人で旅行にも行ったし・・・。そのことがはたして良かったのか悪かったのかは今だに分からないが・・・。

現在ならば、肝臓癌にも色々な治療法があるのだろうが、29年前には医者からは手の施しようが無いと宣告されたのである。人間早いか遅いかはあっても、いつかは必ず死ぬのであるから運命と思うしかないのであろう。

私は来年で父の亡くなった年齢の満64歳になる。私も3年前に前立腺癌が見つかり札幌の北大病院で最新の陽子線治療とホルモン療法を受けて完治したのだが、まだこの若さでは死にたくはないと思う。

先日のニュースで、癌治療後の生存率が報道されていたが、前立腺癌の治療十年後生存率は98%台であった。私も治療後には担当医から「今後10年間は前立腺癌で死ぬことは無いでしょう」とのお墨付きをもらっている。前立腺癌は他の箇所の癌よりも格段に生存率が高い。

妻に言わせれば「前立腺癌なんていまや盲腸みたいなものよ」と言うが、正にそんな感じである。

私は長生きしようとはまったく考えていないが、生きてる内は健康でいたいものだと思う。

楽しく残りの人生を楽しみたいと思っているのだが、このコロナ禍が邪魔をしている。

私の人生設計を台無しにしやがって!このコロナ野郎め!

人間いつ死ぬかは分からないが、人生に満足して死にたいものである。


■2021-05-03-Monday 素人が・・・

GWではあるがコロナ禍の自粛でとにかく暇である。

朝の犬の散歩の時に玄関前のインターロッキングの中にあるマンホールのところに蟻が巣を作って細かい砂が表面に出ているのを見つけた。

蟻の巣退治の薬を買って来たので撒こうかと思ったのだが、そのマンホールのところのインターロッキングが盛り上がっているのが気になった。

21年前に敷いたインターロッキングなのであるが、施工業者の腕がイマイチだったのだろうか、マンホールよりもインターロッキングの方が2㎝ほども上に飛び出ていて、冬の除雪の際に雪を押して除雪する用具が引っ掛かってしまうのである。

この20年間、毎年毎年、冬になって除雪作業をする時には気になって気になって仕方がないのだが、春になって雪が融けてしまうとスッカリ忘れてしまうのであった。

そうだ!どうせ今日は暇だから自分で直してやろう!と思い立ったのである。

水道のホースを引っ張って来て、水を勢い良く噴射してインターロッキングとマンホールの間の土を除去してから、その隙間に薄い鉄の板とくぎ抜きの薄い平な方を差し込んでインターロッキングを少しずつ動かしてから上に持ち上げて外した。

我が家のインターロッキングの形状は長方形ではなくて、雷型と云うのか波型と云うのかガタガタの形をしているから互いにしっかりロックされているので、なかなか外すことが出来ない。

かなり苦労してマンホールの周りを10個ほど外した。

最初は下に敷いてある砂の量が多過ぎて浮いているのが原因かと思っていたのだが、マンホールの周りに巻いてある水色の厚さ1㎜ほどの塩ビ製の防水幕の上にインターロッキングが乗っかっていたのであった。1㎜ほどの厚さといえども縦ならばかなり固いのである。

施工業者がこの塩ビを切断した高さが下に敷いていた砂の量よりも高かったのでその塩ビの高さの分だけ浮き上がっていたのであった。砂の量の問題ではなかったのだ。物置からカッターを持って来て塩ビを切断して高さを調整した。

ホームセンターで買って来た細かいセメント用の乾燥砂を補充してヘラで高さをならす。

一旦外したインターロッキングを元に戻し始めたのであったが・・・。

元々そこにあったはずのモノなのに元に戻そうと思ってもキッチリとは収まらないのである。オッカシイナァ〜。

何度やってみても収まらない。

ヨクヨク見てみたならば、施工業者がマンホールの円の形に合わせてキッチリと丸くカットしなければならないはずのインターロッキングの形がキチンとした円型にはなっていないから収まらなかったのである。

インターロッキングを丸くカットしなければならないはずなのに円よりもむしろ直線に近くなっているから、その直線箇所がマンホールの縁に引っ掛かって浮いているようだ。 

原因は砂の量と塩ビだけではなかった。

物置から金槌を持って来て、先が尖がっている方でインターロッキングを叩いて丸型に削ることにした。これにはやたらと時間が掛かった。

少しずつしか削ることが出来ないのである。まるで石工になったみたいである。前屈みになってず〜っと同じ姿勢で座ってひたすら削り続けた。

午前9時の作業開始時は晴れていた。昼食の30分間だけ休憩したが、途中で小雨はパラつくし風は強くなってくるしで合計7時間も掛かって午後の4時半にようやく何とか全部が収まってくれた。

腰も足も腕も激しく痛くなってしまったし、何よりもマジシャンの繊細な手指が荒れてしまったではないか。

やっぱりこう云う作業はプロに任せるべきであった。素人が戯れでやれるような代物ではなかった。

でもなぁ〜、今は連休中だから業者も休みだしなぁ〜、歩く場所の玄関前のインターロッキングを外したままにはしておけないしなぁ〜。

この全身の筋肉痛を解消するには、マッサージに行かなければならないだろうなぁ〜。

こりゃぁ〜却って高くついてしまったかなぁ〜?


■2021-05-04-Tuesday 大道芸?

とにかく暇なGWである。

コロナ禍での自粛期間中と云うこともあるが、天気も悪いから外出する気にもなれないし、強風の日ばかりであるから庭でのジンギスカンもやれやしない。

自宅に籠って、ただひたすらに読書三昧の日々である。

今年8月14〜16日の「平原まつり」はまだ開催するのか、しないのかが決まっていないが、この平原まつりの期間中に一緒に開催している「大道芸フェスティバル」に関して蔵書で調べものをしていたら、面白い文章を見つけたのである。

「芸能の始原に向かって(ミュージック・マガジン社刊)朝倉喬司著1986.4.10発行」と云う本の中の第3章「テキヤって何だろう」の中の「万年筆売り」(啖呵売 たんかばい)の口上に

「日本にはいろいろ万年筆がございますが、日本三大万年筆と称しまして、高価なお金をお出しンになって、子供さんにあてがう、二円も三円もする高価な万年筆、金ペンと申しますが、そのさきについておりますのがエレジウム、これが折れたり、欠けたりしたんでは、絶対使いみちンにならない、不経済なもんである。この点を考えまして、工学博士、北村義雄先生が三年八ヵ月と言うながい間、北海道十勝の国、石狩川の上流に研究所を設けました。蛍石に六万石の粉末合成、千二百度以上の熱をこめましてひきのばしましたのがこの万年筆、ガラスと違います、石でございます。どんなに乱暴にお使いになりましても、あるいは又、皆さん方がいそいでお書きになりましても、ペンが折れたり、欠けたりすることが無いという特許をとっております。さて、それでは・・・(以下略)」と載っていたのである。

同じく見世物の(因果物 いんがもの 「親の因果が子に報い・・・」)「蛇娘 花ちゃんヤーイ」と云う見世物の客引きの口上では蛇娘花ちゃんの生まれが「十勝の国 石狩川上流」になっている。と書いてある。

何故に研究所の所在地や蛇娘の生誕地が「十勝の国」なのだろうか。

何故に十勝なのに「石狩川上流」なのだろうか、「十勝川上流」と云うのならばまだ地理的には正しくなるのだが・・・

好奇心が押さえられなくなって、蔵書の中の大道芸関係書籍を調べてみたのである。そうしたら見つけた!

「坂野比呂志の大道芸(亜洲企画刊)下平富士男著1977.2.11発行」と云う本の中に「万年筆売り」と「蛇娘 花ちゃんヤーイ」の口上が載っていたのである。万年筆売りは前述したのとほぼ同じ内容であるが「蛇女」の口上が丸々載っていたので掲載する。

『皆さん方、可哀そうなのはこの子でござい、この子の生まれは北海道十勝の国、石狩川上流で生まれまして、ある日のこと、父親が鍬にてマムシの胴体真二つ、マムシの執念、子供に報いまして出来た子供がこの子でございます。当年とって十八歳、手足が長く胴体に巻きつくと云う教育は参考資料、大人が十銭、子供は五銭、お代は見てのお帰りだよ、さぁ、只今から花ちゃんが教を唱うよ、花ちゃんヤーイ、ホラ唱うよ、ホラ、只今花ちゃんが唱ってますよ、さぁ、これから皆さん方の眼の前で手足がのびていきますよ、さぁ、いらっしゃい、さぁ、いらっしゃい』

前述「芸能の始原に向かって」の中には、『見世物の歴史を調べると、明治に入って、まず「皇国の首都に見苦しい」と東京での性的見世物が禁止され(明治元年1868年2月)、相撲から蛇つかいまでも「醜体をさらす」からとといって禁圧の対象になった。同6年には不具者見世物が禁止、見世物小屋も次々にとり払われた。以後見世物は、都市風俗の表層から「消され」、もっぱらドサ廻りの、地方流浪の芸能として生きのびることになる。都市生活から「不思議」が追放され、以後百余年・・・(中略)この結果、地方に追われた見世物芸と、各地のタカマチにネットワークをもつテキヤとの結合はさらに強まり、濃密な共同性を形成することになった。とくに新開地北海道は、芸能を主体としたテキヤ稼業の新天地となり、明治から大正にかけて北海道ではテキヤは大いに栄えた。札幌に本拠をおくあのキグレサーカスの母体もテキヤ組織である。(後略)』

北海道とテキヤ稼業との繋がりの深さは分かったのだが、何故に「十勝の国 石狩川上流」なのかは依然として不明のままである。

こんなことを調べていたら妻から呆れられてしまった。

私は、帯広市の繁華街のど真ん中の西2条南9丁目、いわゆる「まち」で昭和33年1月に生まれて育った。我が家の向かいには昭和36年に「藤丸デパート」が新しく建ったばかりで、両親が商売をしていた関係から毎日10円のお小遣いをもらっては近所の子供たちだけで遊んでいたのである。当時の10円は使い道が結構多かった。藤丸デパートでは地下の食品売り場にお菓子のバラ売りがあったし、階段の途中には透明な半球状のプラスチックに噴水の様にオレンジジュースが吹き上がって拡がって落ちて来る自動販売機でジュースが飲めた。店の隣の甘栗屋さんに行ったら店主の岩寺さんは2個甘栗を売ってくれたし、10丁目の「みつわや」と云うお菓子屋さんに行ったら量り売りでかりんとうやらかき餅やらが買えたのである。

その「御幼少のみぎり」にはサーカスや見世物小屋が我が家から30mほどしか離れていない裁判所跡地(西3条南9丁目の旧イトーヨーカドー跡)の空地によく掛かったものであった。

柱は丸太を縄で結び、壁はムシロの掘っ立て小屋である。面白いから建てる作業時から見ていたものだ。

蛇女や蜘蛛女などのオドロオドロシイ看板が、子供心をワクワクさせる。親に見たいから連れて行ってとせがんでもバカバカしいからダメだと言って連れて行ってはくれない。それでも子供の好奇心が勝って、自分で小遣いを貯めては見に行った。大抵はインチキでガッカリさせられるのがオチなのであるが、唯一、今なお強烈な印象があるのは「人間ポンプ」(安田里美)と云う芸である。口から火を噴くのである。口に灯油を含んで火の付いた棒に吹きかけると炎がバァ〜ッと伸びるのだ。ゴジラみたいで格好良いなぁと憧れたものであった。

近年は「街」が健全になり過ぎてどこもかしこも同じ様なツマラナイ街になってしまった。街には綺麗なだけじゃなくて怪しげ(妖しげ)で猥雑なモノも必要なのである。

綺麗なメインストリート、妖しげな裏通りや小路、いろいろなモノがあって「街」なのである。そんな思いを強くしたGWであった。


■2021-05-05-Wednesday 紫竹昭葉さん逝去

紫竹ガーデンの紫竹昭葉(94)さんが4日に亡くなった。

私の父の圭司とは帯広小学校の同級生であった。

夫の勲さんが健在の頃は、仲人さんとして超有名なご夫婦で、私の妹夫婦もお世話になった。

父は私の結婚相手も探してくれと依頼をしていて、私も紫竹さんの帯広競馬場のすぐ東側に在ったご自宅に、見合い相手候補の写真を見に何度か伺ったこともあるが、私は遂に見合いを一度もすることなく、妻と結婚することになったのであった。

妻の方は、紫竹さんからのお誘いで数度のお見合いをしたのであったが、面喰いの妻は結局私と結婚したのであった。

勲さんが亡くなられた後の1992年に、昭葉さんは63歳から庭園造りを始められたのである。父が我が家の畑に生えていたエゾ紫ツツジを百本ほど贈呈し、観光協会の会長としてアドバイスをしたことを、父の死後に何度も紫竹さんから聞かされた。

私は今年63歳になった。ちょうど紫竹さんが庭園造りを始められた年齢である。それなのに私はもう引退することしか考えていないというのに・・・。何ともすごいバイタリティであるなぁ〜

帽子と花柄の洋服がトレードマークで、チャーミングな紫竹さんは「紫竹ガーデン遊華」の「マスコットガール」(おばあちゃんだからグランマかな?)として全国的に有名になった。

私も「観光カリスマ百選」に選ばれたことで、何度か一緒に講演や会議に参加したことがある。そんな講演の時には、いつも昔の童謡などの歌を唄っていらしたことが印象深い。

4日午前10:19分に自宅で庭の手入れをしている時に、大動脈瘤破裂で亡くなられたという。亡くなる直前まで大好きな花の世話をしながら、現役のままでお亡くなりになったのは幸せな最後だったと思う。これからは天国で花畑の世話をしてください。ご冥福をお祈り致します。(合掌)


■2021-05-06-Thursday 久保田利伸

久保田利伸のコンサートが帯広文化大ホールで開催された。

一昨年のまだコロナのコの字も出ていない時に発売になったチケットを購入した。

久保田利伸は駒澤大学の後輩だ。ただし、私が卒業した年に彼が入学しているから入れ替わりなのであるが・・・。

公演日程は2020年03月07日(土)。土曜の夜の開催ということでとても都合の良い日程であるから楽しみにしていたのであったが・・・。

2月になってから、日本でもコロナ禍が世間を騒がせ始めて、公演日程が07月09日(木)に変更、延期になってしまった。今度は平日の木曜日である。既にスケジュールが入っていたが、仕方がない。スケジュール変更してもらってコンサートに備えたのに・・・。

コロナ禍がなかなか治まらない。

オリンピックも1年延期になった。

事務所に問い合わせたら、次の公演予定は決められない状況だとの説明である。ながらく待っていたのだが・・・。

もうすっかり忘れていた今年の2月になって、05月06日(木)に開催するとの情報が入った。

但し、座席は場所が変更になるという。せっかく2階席の最前列のとても観易い良い場所を取ったのになぁ〜・・・。6日の16:00から、会場に古いチケットを持参して、その場で新しいチケットと交換するという。観づらい変な場所に移動にならなければよいのだが・・・。

16:20頃に会場に入って渡された新しいチケットの座席は2列後方に移動になっていた。

17:00の開場、18:00公演開始であるから、隣の長崎屋で夕食を摂ることにしたのだが、どこの店も休業している。連休中に開けていた代休みたいである。向かいの蕎麦屋も休み、仕方がないから駅北側まで歩いて行ったらここの食堂も休み、結局、会社のすぐ近くまで歩いてカレーライスを食べたのであった。

食べ終わってから文化大ホールに戻った。入場するのに並ぶのも前の人との間隔を開けて並び、体温を測って、手指を消毒、座席番号や連絡先を紙に書いて帰りに提出するようになっている。会場に入ったら、座席はグループ毎に分かれて座る「グループ・ディスタンス」になっている。隣のグループとは1席ずつ空ける様に配置し直したようだ。これは大変な手間であったろう。

人気のある久保田利伸のコンサートなのに、間隔を開けて座らせるから20〜30%くらいは空席になるのかなぁ〜。モッタイナイことである。

万全の対策を取っておかないと、もしも万が一感染者が出たら・・・と云うことなのであろう。

観客は声援を送ってはいけないというアナウンスがあった。久保田利伸のコンサートはファンキーな雰囲気で、客との掛け合いでやるのだから、これまたいつもとは違った雰囲気になってしまうのだろうなぁ〜。

彼の歌はとても上手かった。何より愚痴をこぼさない前向きな姿勢に好感が持てる。帯広での公演は28年ぶりだという。途中で松山千春の歌を歌ったりしてサービス精神も旺盛で楽しいコンサートであった。

やっぱり「ライブ」生は最高である。

東京では、コンサートも無観客でやることが検討されているとのことであるが、バッカじゃないの!

もういい加減に国もオリンピックを諦めて、指定感染症の5類に下げて、インフルエンザと同じ扱いにしたらば良いのにと思う。

このまま、こんな状態を続けていたら、エンターテインメント業界は滅茶苦茶になってしまうぞ!


■2021-05-12-Wednesday 本音?!

日本医師会の中川俊男会長が

今日12日に、新型コロナの「まん延防止等重点措置」が東京都内で適用されていた4月に国会議員の政治資金パーティーに参加したことについて記者会見をしたニュースが報道された。

どうやら今週発売された週刊文春に掲載されたらしい。北海道での文春発売は木曜日なので13日にならなければ詳細は不明であるが、またまた文春砲が炸裂したということなのか。

ニュース映像では「全国の皆様が我慢を続ける中、慎重に判断すべきだった」と述べ、パーティーには、日本医師会の常勤役員14人全員が出席していたことも明らかにした。

ニュースによると、自らが発起人となり4月20日朝に都内のホテルで自見英子参院議員(自民)のパーティーを開催。当日は後援会長として挨拶をした。ホテル業界の感染対策ガイドラインに基づいて検温、マスク着用、手指消毒などを行い、食事は提供せず、「感染対策は十分だった」と釈明したが、結局、謝罪はしないで「心配をお掛けした。時期が悪かった」みたいな訳のわからないことを言っていたが・・・

しかも、「参加していた」と云う単なる出席者のひとりではなくて、中川会長自らが後援会長として発起人を務めていると云うのだから完全に「主催者」である。壇上で挨拶までしているのであるから、これはマズイ言行不一致の典型だろう。

去年の11月頃にはわざわざテレビ会見までして国民に向かって「コロナをナメルナ!」とか言っていたし、今年になっても「4人以上の会食は止めろ!」「国会議員が範を示せ!櫂より始めよ!」なんてほざいていたくせになぁ〜・・・。

一般国民は4人以上の会食はダメでも、自分たちは100人以上でもOKだと云う論理なのか?こう云うのをダブルスタンダードと言うのである。これには自粛を半強制されている日本国民は黙っていないだろうなぁ〜。

でもこれは日本医師会の医者の「新型コロナは本当は怖くない」と云う「本音」なのであろうなぁ〜。汗が噴き出して拭き拭きしながら会見していたから本音がバレてしまったなぁ〜。

本音では「感染症対策をきちんとしていればコロナは怖くない」と思っているくせに、国民にはやたらと恐怖心を煽りに煽って「感染対策をとっても集まるな!」と言い続けることは大罪である。

本来ならば「対策をこうやってしっかりとやるならば、何人の集会でも大丈夫ですよ! ほら、私たち医師会の幹部も全員こうやって100名以上の集会を開催し参加したけど感染しなかったでしょ」と発信するべきだと思う。

本音と建前が大きく異なっていると、こういう言行不一致が発覚して叩かれることになるのだ。

「新型コロナは怖い」とさんざん国民を恐怖に陥れておきながら、コロナ患者をほとんど受け入れていない日本医師会は国から補助金などを受けて儲けている。まさに医は仁術ならぬ金術である。

コロナ禍はこう云う本音と建前が異なる医者やテレビに出演して出演料を稼ぎたい専門家と称するインチキな奴等や、国民に恐怖ばかりを煽るメディアの連中によって造り出された人災である。

世界的に見たら、感染者数も死亡者数も圧倒的に少ない日本なのであるが、この人災によって作り出された日本国民への心理的ダメージは世界一かもしれない。

コロナに対する恐怖心や自粛に対する依存症的な心理を刷り込まれてしまったから、そうそう簡単には熔けないのではないだろうか?

世界ではアフターコロナとかポストコロナとか言い始めているのに、日本では益々ひどい状況になっている。

今回の件で最も恐ろしいことは、中川会長を叩いて、叩いて、叩きまくって、コロナ禍で集会を開催することのデメリットが強調され過ぎることである。

メディアは換気、マスク着用、手指の消毒、大声での会話などを控える対策をとればコロナは怖くないと国民に教えることである。責めるべきは中川会長のダブルスタンダードであって、自粛を強化することでは決してない。そこを間違ってほしくはないなぁ〜。


■2021-05-13-Thursday ワクチン接種の順番

新型コロナのワクチン接種に

関するニュースが多いが・・・。

今日は、どこぞの62歳の町長が高齢者に先んじて接種を受けたとする非難報道があったが・・・。何故にこの町長を非難するのであろうか?

詳細は知らないが、日本政府のワクチン接種の順番はちょっとオカシイのではないだろうか?

ワクチンって何の為に接種するのか? 

その根本を理解していないのでは?

ワクチンは抗体を持つ人数を増やして終息を早めて経済を回復させようと云うことではないのか?

それならば、行動半径が少ない高齢者から接種させるよりも、行動範囲の広い人や、多くの人と接する機会の多い人からワクチン接種をするべきであろうに・・・。

まさに公職で役場の職員やら、来訪者などと接する機会が多いであろう首長に接種するのは当然のことではないのだろうか?

医療関係者から接種するのは、(コロナに弱い)既往症を持った患者にも多数接しなければならないのだから、まず第一に優先させるのは当然のことであろうと国民も納得している。

でも、その次は、仕事上どうしても出歩かなければならなかったり、多くの人と接しなければならない人や、行動的な若者たちであろうに・・・。

高齢者よりも、むしろ高齢者施設で働く職員から先に接種するべきであろう。

家や施設からほとんど出ない高齢者から接種するのは、弱者である高齢者が重症化するのを少なくしようという配慮なのであろうがなぁ?

これだけ感染者数が増えている状況下で、普段は家や施設に居る高齢者を、ワクチン接種を施す医療関係者がまだ接種していない接種会場やら、ワクチン接種をしていない人が受付をする申し込み会場やらまで、高齢者を出掛けさせる方が感染リスクは高かまるのではなかろうか?

テレビのワイドショーでは、先を争ってワクチン接種を希望する人達を映し出していたが、それもこれも「コロナ怖い」を過剰に刷り込まれた人達が少しでも早くワクチンを接種したいと思うのであろう。

公平性ってことなのだろうが、悪しき平等主義の典型である。数が少ないのならば、最も効果的な接種方法を考えて欲しいものである。

それもこれも、厚生労働省のワクチン認可作業の遅さと、ワクチン輸入の遅さと、国内ワクチン製造が出来ない薬品会社の体質などが重なったのが原因であろう。

十分な量が諸外国同様に確保されていたら、こんな状況にはなっていないであろう。

厚生労働省は国民の生命を守るよりも、自らのメンツを守ることに腐心しているかのようである。

やっぱりコロナ禍は人災である。


■2021-05-14-Friday 緊急事態宣言

今日になって急遽

北海道にも16日からコロナ禍による緊急事態宣言が発出されることになった。

明日はゴルフの予定であったのに、主催者から中止の連絡が来た。まだ宣言までは1日あるのになぁ〜。楽しみにしていたのになぁ〜。

北海道では、ここ数日過去最高の感染者が出ている。特に札幌市および札幌市近郊が多いのだが、十勝でも増えてきている。

このブログに何度も書いているが、ウィルスに変異種が出るのは当たり前であり、こんなことは最初から素人の私でも分かっていたことだ。

変異種は、宿主に感染し易くなるように変異していくのが自然の摂理である。ウィルスはウィルス単独では生きられない(生物ではないそうだから生きるという表現は違うのかもしれないが・・・)宿主と共存しなければこの世に存在できないのがウィルスである。だから宿主が死んでしまえばウィルスも存在できなくなるから、宿主を殺さぬように弱毒化するのが普通である。

今回流行っている新型コロナウィルスの変異種だって、おそらくその範疇なのであろうと思う。であれば、感染者数が増えるのは当然のことであろう。重傷者や死者数が増えているのも、感染者数が増えれば相対的に増えるのは当たり前である。これはインフルエンザでも同様のことだ。

問題は、重傷者に対する治療の問題であって、変異種は感染し易くなっているのだから感染者数を減らすことは難しいことである。

政府は、これまで、ただ自粛を国民に強いてきたが、変異種には自粛では対応が出来ないであろう。

死者を減らすには重傷者を受け入れる病院のベッド数を増やすしかない。

それには、指定感染症の2類(実質的には1類に相当している)から、インフルエンザと同じ5類に下げて、市内の普通の病院でもコロナ患者を診られるようにすることだ。

このまま2類指定を続けていたら、コロナ患者を受け入れられる病院が少ないのであるから、病床がパンクするのは当たり前であるし、これまで受け入れて来た医療機関、医者、看護師などの疲労は、体力的にも精神的にももはや限界に達している。

実質的に1類相当みたいな防護服を患者毎に着替えながらの対応などはこのコロナには合致していない。1年以上もやってきてまだこんなことをやっているのは政府が悪い。

もういい加減に場当たり的な対応は止めにしてくれ!


■2021-05-16-Sunday 結婚記念日

今日は私達夫婦の36年目の結婚記念日!

日曜日だから夫婦で外食でもしようかと思っていたのに・・・

今日から北海道では新型コロナの緊急事態宣言が発出されてしまったからお酒が飲めるのは20時までだと云う。

ゆっくりとお酒を飲みながら36年間を振り返るおしゃべりでもしようかと思っていたのだが、北海道は飲食店では「黙食」を推奨すると云うから、それならこんなツマラナイ外食もないだろうと思い、外食は止めることにした。

ほんとにアホらしい!

感染し易くどんどん変異していくウィルスを完全に抑え込むことなんか出来っこないのに・・・。

指定感染症の指定を、さっさとインフルエンザと同じ5類にして、オリンピックもパラリンピックも中止!にすることだ。その上で、コロナ恐怖に冒された国民の安心感を高める為にはワクチン接種を急ぐことである。

私はコロナなんて恐れる必要はないと思っているが・・・。

国民は、新型コロナウィルスに感染しているというよりも、「コロナ怖い」という「コロナ恐怖心」に感染させられている。

これは、42万人が死ぬなんて出鱈目を言って恐怖を煽りに煽った西浦某が一番悪い。人命を人質にして自粛を(半ば)強制した専門家の連中も悪い。その専門家の意見に従って5類に下げられない政治家も悪い。訴訟を恐れてワクチンの認可を遅らせる厚労省も悪い。

2類相当のままだから、保健所が手詰まりになり、治療が不必要な人まで患者にしてしまうから医療逼迫が生じる。日本医師会所属の医者がコロナ患者を診たくないというから公的な病院に負担が集中する。

メディアが煽りに煽るから、これはパンデミックではなくインフォデミックである。

日本のコロナ禍は人災だ。

もういい加減為にしてほしい。


■2021-05-17-Monday 澤田隆治さん逝去

澤田隆治(さわだ・たかはる)(88)さんが16日死去した。

澤田さんは「てなもんや三度笠」や「花王名人劇場」などの人気番組を手がけたメディアプロデューサーである。

面識はなかったが、澤田さんの手懸けられた番組が大好きで良く見ていた。それこそ子どもの頃は「てなもんや三度笠」から見ていて、当時はプロデューサーのことなんか分かるはずもなかったが、藤田まことが演じる「あんかけのトキジロウ」が生放送風(撮って出し:編集をする時間が無いような素材を、撮られた状態のまま無編集で放送すること)の番組冒頭でカバに似た役者の原哲男との掛け合いで「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」と言うのが流行って、未だに「あったりまえだのクラッカー」が口をついて出てくるほどである。

澤田さんは大阪府の出身で1955年に朝日放送に入社。「てなもんや三度笠」「スチャラカ社員」などのコメディー番組や、「ただいま恋愛中」「新婚さんいらっしゃい!」といったトーク番組を企画・制作し「視聴率男」の異名を取った。

その後、東京に拠点を移し、75年に制作プロダクション「東阪企画」を設立。79年に始まった「花王名人劇場」(関西テレビ)を制作し、80年代の漫才ブームの仕掛け人と呼ばれたが、花王名人劇場ではマジックも数多く放送されており、このマジック番組もずっと視聴していたしビデオにも収録していた。

私の高校時代のマジックの師匠とも言うべき「布目貫一」さんが浪曲奇術で数度出演しており、布目先生のマジックショップ(水道橋のトリックス)では、名人劇場でおなじみだったコミックマジックで有名なダーク大和さん等にもお会いしてサインしてもらったりもした。

花王名人劇場のマジック番組は「お笑い」系のマジシャンを多数世に出したが、お笑いマジック系だけではなく、島田晴夫さんのドラゴン・イリュージョンの特集番組もあった。

ここ最近はテレビの演芸番組がツマラナクなっていると感じる。澤田さんの様に芸能に深い関心と愛情を持ったプロデューサーが現れて欲しいと切望する。

コロナ禍になってから、マジック・ミュージアムの資料を整理していて、花王名人劇場関係の澤田さんの著作を数冊読んですっかり面白くなり、先日も澤田さんの著書を数冊、古書店から購入したばかりであった。

お亡くなりになる前に、一度会ってお話を聞きたいなぁと思っていた矢先の訃報であった。残念である。(合掌)


■2021-05-20-Thursday ニュース

最近のニュースはコロナばっかり・・・

毎日、毎日、何処そこで何人感染者が出た!

ワクチン接種がどうのこうの・・・

もうすっかり飽き飽きしているが、その他のニュースと云えば著名人の逝去か、芸能人の結婚くらいのものか?

そんな中、星野源と新垣結衣が結婚するとのニュースである。ドラマ「逃げ恥」(逃げるは恥だが役に立つ)は一度も見ていなかったのだが、主題歌やダンスが話題になって流行ったものだから、テレビでは毎日の様に映っていた。人気が出ると続編が作られるのも芸能界ではよくある話である。スペシャルが作られて放送された。こちらは少しだけ見た。

この時に感じたのは、あぁ、この二人は結婚するかもなぁ〜・・・と。

だがこれもコロナ禍の影響なのではないだろうか?

役者の中で役に没頭するタイプの人は、恋愛ドラマを演じると相手役と良い仲になって結婚する人がいるが、これは心理学的に言っても十分にあり得ることである。

撮影で、恋人役や夫婦の役などを演じていると、役に没入するあまり、恋愛感情が演技なのか実際なのかの区別がつかなくなってしまうのであろうなぁ〜。

ましてや、このコロナ禍では、撮影終了後の出演者連中との食事会やら飲み会なども出来なくなるから、パァ〜ッと気分の転換をすることが難しくなっているのではないだろうか?

ドラマそのままの感情を実生活まで引き摺ってしまうのかもしれない。

コロナ禍で自殺した芸能人も何人かいたが、仕事が減ることの恐怖心以外にも、役を実生活まで引き摺ってしまうことの怖さもあるのではないのだろうか。

ドラマで描かれる現実離れした設定と、コロナ禍での現実とのギャップの激しさを、憂さ晴らしなどで解消することも難しくなっている。

こう云うケースで怖いのは、状況が変わって、フッと我に返った時に「アレッ?」「何か違うなぁ〜」と思うことなのである。

さて、この二人は?

もうひとつ驚いたのは、駒澤大学の陸上部選手で、今年の箱根駅伝で10区のアンカーを走り逆転優勝に貢献したI選手が、淫行で逮捕されたとのニュースである。

17歳女性との「みだらな行為」をしたとあるが、「みだらな行為」って????・・・。

詳しくは分からないが、I選手は大学3年生だから20歳くらいであろう。20歳と17歳がSEXして逮捕?

ニュースでは、この女の子とマッチングアプリで知り合ったと言っていたけど・・・、マッチングアプリの登録ってのは20歳以上だとも言っていたけど・・・。

いったいどう云うことなんじゃこれは?

これって、美人局か単なる痴話喧嘩ってやつじゃぁないのか?

50、60歳の金持ち爺が、金にモノを言わせて未成年を買って淫行したっていう訳ではなかろうに・・・、

はたして逮捕までする必要があったのだろうか?

そして実名で報道する必要があったのだろうか?

1人の将来有望な若者の未来を潰す報道である。これには何だか裏がありそうな予感がするなぁ〜!


■2021-05-25-Tuesday 今年も・・・

昼のラジオニュースで

今年の夏まつりの「帯広平原まつり」は中止にすると発表された。去年に続いて2年連続での中止である。

「平原まつり」は前夜の8月13日の勝毎花火大会で幕開けとなり、14〜16日の3日間、帯広のメインストリートである「平原通」を駅前の12丁目〜7丁目までと広小路(8丁目線)を十字型に歩行者天国にして各種の催しが開催される。「盆踊り」・「夢降夜」・「音楽祭」などの行事や「露店」が立ち並ぶ。

「大道芸フェスティバル」も行事のひとつとして2002年から一緒に開催しているのだが・・・

大道芸を単独では開催することは出来ないから、残念ながら、大道芸は今年も中止にせざるを得ない。

これで、今年の夏も寂しい夏になってしまう。

政府はもういい加減にしてほしい!

日本をぶっ壊すつもりなのか!

ウィルスに変異種が現れるのは常識であろう。自然の摂理からすれば、感染し易い様に変異していくのだ。だから、現在の感染者数が増加するのは当たり前のことなのである。

変異株が現れて感染者が増える度に、緊急事態宣言を発令するつもりなのか?こんなバカなことをやっていたら、いつまで経っても同じ事の繰り返しである。

国民もそろそろ腹を立て始めるのではないだろうか?

政府はどうあってもオリンピックを開催したいのだろうか?

国民の半数が反対しているのに、開催を強行したら、次の選挙では自民党は負けるぞ!

早く諦めて、指定感染症の5類に下げろよ!

もはやオリンピックは亡国のイベントである。


■2021-05-26-Wednesday 大道芸

昨日のニュースで

去年に続いて、今年も夏まつりである「平原まつり」の中止が決定した。

2002年から毎年、大道芸人を招いて平原まつりで「大道芸フェスティバル」を主催してきたのだが・・・。

本体が中止では、「大道芸フェス」単体での開催は出来ない。

そもそも、大道芸は「密」でなければ盛り上がらない。大道芸人は観客を巧みに誘導してギュギュッと人を集めて盛り上がりを演出している。それをコロナで「三密」はいけない!なんて言われてしまったら、商売あがったりなのである。

コロナ禍が終息して、日本国民が心底からコロナ感染を恐れなくならない限りは、元には戻らないであろうなぁ〜。

日本の政府は、コロナを恐れて文化や経済を殺した!

そのコロナ禍の緊急事態宣言が5月末で解除になる予定であったのが、どうやら延長するつもりであるらしい。

我が「マジック・ミュージアム」も去年の3月からず〜っと閉館したままである。私のヤル気も失せてしまうぞ!

これから、まだしばらくは暇な日々が続くのであろうから、子供の頃の「まち」の様子を思い出して書いていくことにしようと思う。

私はいわゆる「まちっ子」であった。

昭和33(1958)年1月29日に、現在の会社がある帯広市西2条南9丁目16番地でお産婆さんに取り上げられ、昭和42(1967)年11月27日に自宅が火事で全焼するまでの9年間ここで育った。

「西2条通り」は帯広駅前のメインストリートであり、当時は「銀座通り」と呼ばれていた。駅前の南11丁目が銀座1丁目、南10丁目が銀座2丁目、南9丁目が銀座3丁目、南8丁目が銀座4丁目と称していたから、市民には分かり辛くてとても不評であったことから昭和39年には「平原通り」へと名称が変更されたのであった。

因みに仲通りは銀座通りの東側の通りであることから「東銀座通り」と呼ばれていたが、大元の銀座通りが平原通りに名称変更されたことによって「東」の字が取れて「銀座通り」になったのである。蛇足ではあるが東銀座通りの広小路よりも北側は「親不孝通り」と呼ばれていた。

西2条通りを挟んだ向かい側の街区に、昭和36(1961)年に本格的な百貨店の「藤丸デパート」がオープンした。

昭和35年の国勢調査では帯広市の人口は100,915人、それが現在では166,000人に増えてはいるのだが、当時の賑わいの方が、現在とはまったく逆でまるで比較にならないほどすごかったのである。

農家の人たちも、長靴履きや作業着から着替えて、オシャレをして買い物に来たり、家族で藤丸デパートに買い物に来ては昼食にはお子様ランチを食べる。そんな「ハレ」の場所であった。

中心街のド真ん中にあった我が家の近所には、映画館だけでも8軒ほどがあったし、飲食店が多かったから、「まち」には、飲食、ショッピング、エンターテインメントが集まっていた。十勝の住人は平原通りに来ることを「まち」に行くと言っていたのである。

商売で忙しかった両親は子供の面倒などみている暇がないから、お小遣いに10円玉1枚を渡されて、これで遊んできて、晩御飯までには戻って来なさいと言うのである。当時の10円は結構ツカイデがあったのである。

8丁目や10丁目の「連売(廉売)れんばい」(通りの西から東に抜ける、通路に屋根の掛かった店の集合体)の中に駄菓子屋があって、くじ付きの駄菓子やおもちゃ等が買えた。

当時の男の子の遊びと云えば「戦争ごっこ」や「チャンバラごっこ」である。戦争ごっこには、火薬を使った2B弾や銀玉鉄砲などが必需品であった。火薬や銀玉などの消耗品は10円でも買えるのだが、銃などは何日分かのお小遣いを貯めなければ買えない。更に、安い単発銃にするのか、高価な連発式銃にするのか子どもでも考えて悩んだものであった。

我が家の隣には甘栗屋が開店して店主の岩寺さんは10円で2個の甘栗を売ってくれた。10丁目には「みつわや」と云うお菓子屋さんがあって計り売りで、カリン糖やかき餅などのお菓子が袋に結構な量で買えた。

藤丸デパートの地下の食品売場には、回転するディスプレイのキャンディのバラ売りコーナーがあったし、階段の踊り場には、透明な半球状のガラスにジュースが噴水の様に吹き上がって落ちる自動販売機があって珍しかった。10円あれば一日が楽しめたのである。

当時の西2条通りの商店は、私の年齢に近い子供の兄弟姉妹が大勢住んでいた。1歳上の姉の友達や私の同学年生、そして1年下のその弟や妹などの子どもたちである。

友人の家に遊びに行くと、おやつを食べさせてくれるのが楽しみであった。茹でたジャガイモにバターをつけて、飲み物は牛乳という家もあれば、インスタントラーメンの家もあるし、いも餅の家もあった。時には売り物のジュースやアイスキャンディをご馳走になることもあった。

そんな中で、一番の楽しみは三井金物店の倉庫でかくれんぼをして遊ぶ時のおやつであった。千秋庵(現在の六花亭)のお菓子がいつも出されるのである。当時は子供だったから、なぜなのかその理由が分からなかったが、一番のご馳走であった。

西3条南9丁目の2丁分(100m×100m)は裁判所跡地と呼んでいた広い草地であった。

当時の帯広小学校は柏林台に啓西小学校が開校するまでは超マンモス小学校で、私が1・2・3年生までは1学年に11〜12クラスほどもあったのである。

帯広小学校のグランドは南北の2か所があったが、どちらも高学年生が野球などで使うので、低学年生であった私たちは裁判所跡地の原っぱで遊んだのである。

その原っぱには、見世物小屋やサーカスやお化け屋敷などの小屋掛けの興行がよく掛かったものであった。(つづく)


■2021-05-27-Thursday 見世物小屋

「見世物小屋」

私が子供の頃の西3条南9丁目の一画は「裁判所跡地」と呼ばれる草地であった。『昭和50(1975)年にイトーヨーカドー北海道1号店や北海道銀行・商工会議所・バスターミナルなどが建ったが、平成10(1998)年にイトーヨーカドーは日甜跡地に移転。その後長らく空ビルになっていたが平成30(2018)年3月に解体され、現在はタワーマンションや北海道銀行・商工会議所などの新しいビルが建っている場所である』

この草地は2丁分(約100m×100m)を合わせた広さであったから野球も4面以上が取れたのである。この草地には、見世物小屋やサーカスやお化け屋敷などの小屋掛け興行がよく掛かったのであった。

我が家からは30mほどしか離れていなかったので、見世物小屋が掛かるときには、小屋掛けの様子から見に行った。丸太を荒縄で結んで組み立てていくのであるが、この作業を見るのが面白かった。小屋とは言うがかなり大きな建物なのである。それがわずか2〜3日で出来てしまうのだ。この小屋が出来あがっていく様子を見るだけでもワクワクしたものだった。

(この仮設興行を専門用語では「たかもの」と呼ぶ)

「見世物を見に行きたいから連れてって!」と親に頼んでも「あんなインチキなものバカバカしいからダメだ!」とまったく取り合ってくれない。しかし、子どもの好奇心は見たくて見たくて仕方がないのだ。またそう云う巧な演出なのである。

当時の帯広は娯楽が少なかったからなのだろうか?小屋の前は子供だけではなく老若男女でものすごい人だかりになっている。こんなに帯広市に人が住んでいたのであろうか?

オドロオドロシイ絵看板が怖いもの見たさの好奇心を誘う。呼び込みのおばちゃんがダミ声でテンポの良い啖呵(タンカ)でもって「親の因果が子に報い〜・・・」と因果モノと呼ばれる「蛇女」や「蛸女」などの口上で盛り上げる。「ハイ、坊ちゃん、嬢ちゃん、お代は見てのおかえりだよ!さぁ〜入った、入った・・・」と急き立てて言う、入り口ではお金を払わせる手間を掛けさせないのが手口なのである。大勢のお客さんたちがドンドンと中に入っていくので、それに押されて中に入ってしまった。シメタ!タダで見られるかも・・・と思ったのだが、出口では怖い顔したお兄さんがシッカリと木戸銭を徴収する仕組みだったのである。

金額の記憶は薄いのだが、木戸銭はたしか小人でも30円くらいはしたのではないかと思う。10円では足りなかったような記憶があるからなぁ〜・・・。それとも、「お祭り」の日と重なっていたのかもしれないなぁ〜。それなら人がやたらと多かったのもうなずけるし、お小遣いを多く持っていたのもうなずけるから・・・。

見世物の多くは親の言う通リにインチキなモノであった。「大イタチ」なんてのは最悪で、大きな板に血が付いているだけ。

「蜘蛛女」は黒い幕に蜘蛛の胴や足が刺繍みたいなもので描かれていて人間が顔を出しているだけ。同じインチキモノを見るのは一回こっきりだけではあるが、新しい見世物が来ると懲りずに見に行っていた。

唯一、私が2回見に行ったのは「人間ポンプ」と云う見世物であった。

碁石・コイン・ナイフ・剃刀・金魚など色々なモノを飲み込んでは吐き出す芸なのであるが、碁石の白と黒をお腹の中で色分けて出したり、穴の開いた50円玉2枚と鎖を飲み込み、お金の穴に鎖を通して出したり、腹に飲み込んだ金魚を釣り竿の針の付いた糸を飲み込んで、腹から金魚を釣り出したりする。手品を研究している今考えてみても不思議な芸なのである。最後には油(芸人はガソリンと言っていたが・・・)を口に含んで火の付いた棒に吹きかけて炎を大きくする芸が、ゴジラみたいでカッコイイなぁと思ったのであった。この芸だけはもう一度見たいと思わせてくれた芸であった。

感動した私は、食べたモノを吐き戻す練習をして、遂に習得をしたのであった。

因みに「人間ポンプ」には安田里美と園部志郎の2人が居るが、私が見たのは安田里美の方である。

(つづく)


■2021-05-28-Friday まち

先日のブログで

蛇足で書いた「親不孝通り」に関しての質問があったので答えよう。

「親不孝通り」と云う名称は、全国各地に存在しているから、帯広だけの通リの名称ではない。

昭和33年に「赤線」が廃止されたが、その手の店が多く集まっていた通リだったのではないかなぁと推測される。

因みに「赤線」とは、警察が遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示していたのが語源だと云う。

「赤線」という言葉が一般的になったのは、区域外への進出や人身売買事件などが大きな問題になった1950年代以降なのだそうだ。

売春防止法(1956年制定)の完全施行を控えて、1958年3月までに赤線内のカフェーなどが一斉に廃業し、店舗は、バーやスナックや料亭などの飲食店に転向したり、旅館・ラブホテル・公衆浴場 ・アパート・下宿屋になるもの、密かに風俗営業を続けるものなど様々であったと云う。

さて本題の、西2条南9丁目の我が家であるが、当時は16番地、18番地の2戸分の土地を所有していた。

因みに、帯広の街区の1区画はおよそ1.2ヘクタールで、道路をはさんだ2街区からなり、丁目で数え、その区画を20等分して番地とし、この番地の一つ分を1戸分と言っていた。我が家は9丁目の東側街区であるから偶数の番地になる。

祖父の勝(かつ)が創業した「坂本勝玉堂」は、明治38(1905)年に池田町利別から帯広町西2条南5丁目20番地(宮本商産のレンガ造店舗の筋向い)に移転してきた。

勝は大正13年頃に、西2条南9丁目で元・河西支庁長の諏訪鹿三がやっていた牧場跡地を3戸分(16・18・20番地)購入し16番地に店舗や住宅を建て、18番地は貸し、20番地は来道した際に寄宿し世話になった池田町のカネヨ佐藤金物店の佐藤喜代丸に譲った。

この16番地に建てた坂本勝玉堂の建物は、小樽軟石造りの2階建で鳩の彫刻もあったモダンなものであった。

戦後に18番地にも増築をするが、西2条側の設えは16番地の勝玉堂の意匠を真似て一体化させたデザインであった。

父の圭司は昭和27(1952)年に北海道で2番目のダンスホール「坂本会館」を 開店するが、何度かの改装を終えた後に、店舗のファサード(建物正面の意匠)を、実際には2階建てのままなのに3階建ての様に見せるデザインに変更した。

つまり前面に見せかけの壁がある状態なのである。この壁の内側は巨大な空間の屋根裏であった。ここが我々子供たちの恰好の遊び場であった。

この屋根裏空間で鬼ごっこやら戦争ごっこをやって遊んだのである。

また、ダンスホールはちょっとした運動場であった。当時の小さい子供の身体感覚であるから広い体育館のように感じていたが、実際は現在の坂本ビルの6階大ホールの約75坪(250㎡)よりは狭くて、5階Bホールの約38坪(125㎡)よりは広かったのではないだろうかと思う。

ステージ上には生バンド用の楽器のピアノ・ドラムセット・エレキギターなどが置いてあり、いつも楽器をイタズラして弾いたり叩いたりしていたものだ。もしも、昭和42年の火事で全焼していなければ、私はバンドを組んでグループサウンズの一員になっていたかもしれない・・・。

屋根裏には物干し台へと繋がる通路があって、この物干しから簡単に屋根の上に上がれたのである。この屋根の上も格好の遊び場であった。

また、隣の片山洋服店との壁を手と足を突っ張り棒にしながら登っていくことが出来た。私は小学6年生の卒業時の身長が133㎝でクラスで一番小さかったから、小学低学年の頃ならもっと小さいわけだが、その身体で手足で登っていけたのであるから、壁と壁との間は、かなり狭かったのであろうなぁ〜。

とにかく色々なルートで屋根の上に上がっては鬼ごっこなどをして遊んだのであった。

この屋根遊びの最大の難関は2軒隣のSさんのお母さんであった。S家は我が家とは違って、とても上品な家であった。

屋根の上に上がっている私と目と目が合うと、Sさんは電話の受話器を持って我が家に「お宅のお子さんが屋根に上っていて危ないですよ」と電話をしてくるのである。

そうすると母も子供に注意をしなければならないから、屋根から降ろされてしまうのである。(つづく)


■2021-05-29-Saturday 幼い頃

幼い頃の事を書いているが・・・

なんだか私がワンパクな少年の様に感じるかもしれないが、世間では私は大人しい子どもだと思われているのではないかしらと思っている。

何故なら、私の1学年上の姉の方がお転婆で有名だったからだ。男のワンパクよりも女のお転婆の方が目立ったお陰で、私のワンパク振りはあまり目立たなかったのではないだろうか。

しかし、実際には、私は車に跳ね飛ばされたり、車の下敷きになったり、トラックに巻き込まれて自転車がグチャグチャになったりと交通事故だけでも4回も起こしているし、店のウィンドウガラスをぶち破って血だらけになったりもしている。一方で姉の方はお転婆と云っても命に関わるような事故は起こしていないのにである。こんなところにも「ジェンダーギャップ」って言うのがあったようである。

当時の子供達の遊びには、テレビゲームなんてものは無かったから、皆が創意工夫をしながら遊んだものだったし、年長のガキ大将っていうのが居て遊びを仕切ってもいた。だから同学年だけではなくて、上下の年齢の子供たちと遊んでいたから、そんなところから社会性っていうものを学んだのかもしれないなぁ。

旅行好きも子供の頃からである。

私が小学1年生、姉が2年生の時に子供2人だけで汽車に乗って札幌の伯父の家に遊びに行った。当時は富良野経由の根室本線で帯広ー札幌間は乗り換えは無かったが4時間半掛かった。札幌駅に8歳上の従弟が迎えに来てくれていて、「次からは迎えに来ないから自分たちだけで歩いて来い」と言って札幌駅から南2条西3丁目の店舗兼住宅まで歩いて行ったのである。札幌駅を降りたら南側に真っすぐ一本道で徒歩15分くらいなのである。現在の札幌パルコの隣であった。次からは私一人で札幌や留萌の親戚に小遣い集めに行くようになったのだが・・・。

帯広ー札幌は乗り換え無しだったが、帯広ー留萌間は滝川駅と深川駅で乗り換えが2回あった。

当時の私は、子供一人で旅行するのはごくごく当たり前のことだとず〜っと思っていた。親も私が一人で行くことをまったく心配などしていなかったし・・・。

それが、中学生の時に、クラスメート8人だけで札幌オリンピックを見学に行く計画をしたら、同級生の親が心配して学校に相談してしまい。先生から付き添う大人がいなければ許可しないと言われて「エッどうしてダメなの?」とビックリしたのであった。その時に、初めて子供だけで汽車に乗って遠くに行くことに世間の親が心配するのだと知ったのであった。


■2021-05-30-Sunday 多様性

「ダイバーシティー」は「多様性」。

ダイバーシティ(Diversity)は、直訳すると多様性を意味し、集団において年齢、性別、人種、宗教、趣味嗜好などさまざまな属性の人が集まった状態のことを指す。

「街」を表す「CITY」ではなく「SITY」なのだが、カタカナで書くとおなじ「シティー」となるのが面白い。

「まち」にも「多様性」が必要だと思うからである。

元々が旅行好きであるし、国から「観光カリスマ百選」に認定されたことで、全国各地から講演の依頼を受けて、47都道府県の内の45都道府県から招聘されて全国各地を回ってきた。講演依頼は「北の屋台」であるから、いあわゆる「中心市街地活性化」がテーマの講演である。帯広と云う遠隔地に暮らしているから、ほとんどの場所に行くにも前泊・後泊が必要になるのだ。

一人で「まち」をぶらつくのが大好きであるから、ホテル近辺やら講演会場やらの周辺を歩き回る。また、招聘元の方が案内してくれて中心街やら名所旧跡を観て廻ることも多い。

いつも感じるのは、中心街に特徴や個性が無いことである。どこも一様に綺麗で近代的にはなっているが、面白みや深みがないのだ。

「まち」には、メインストリート、裏道、小道、小路などいろいろな道や場所がある。

メインストリートにはメインストリートの役割があるし、裏道には裏道の存在価値があるのだ。

メインストリートはその地域の「顔」であるから、健全でキレイなのが望まれるのであろうが、全てが健全でキレイなだけではツマラナイ。

メインストリートから一本入った裏道には「屋台」のような「猥雑(わいざつ)」で「アヤシイ(妖しい)(怪しい)」場所が欲しいのである。健全なだけでは肩が凝ってしまう。

どうも、ここ最近のまちづくりは「建前」が優先されてしまって、人間臭さの「本音」の部分が表に出てこない。

先に書いた「見世物小屋」とか「サーカス」とか「露店」などは、街に常駐している訳ではない。お祭りなどの時に、忽然と現れる仮設の娯楽なのである。ワクワクするのは子どもだけではないはずだ。大人だって「ハレ」の日に羽目を外したくなるのが人情ってもんだろう。

明日の十勝毎日新聞の「論壇」は私の担当日に当たっている。1000字と云う制約があるから、なかなか思ったことを十分には書き切れなくてもどかしい。

ここ数日間に亘って書いたブログを1000字にまとめてみた。新聞発売前には掲載出来ないので明日投稿する。


■2021-05-31-Monday 勝毎「論壇」

20121.05.31十勝毎日新聞「論壇」掲載

『「まち」は多様なエンターテインメント』

「平原まつり」は今年も中止となったが「大道芸」関連の面白い文献を見つけた。

テキヤの啖呵売(たんかばい)「万年筆売り」の口上に「(前略)工学博士、北村義雄先生が三年八ヵ月というながい間、北海道十勝の国、石狩川の上流に研究所を・・・(後略)」。

見せ物「親の因果が子に報い」の因果物(いんがもの)「蛇娘 花ちゃんヤーイ」の客引き口上では「(前略)この子の生まれは北海道十勝の国、石狩川上流で生まれまして・・・(後略)」とある。

なぜ、研究所の所在地や蛇娘の生誕地が「十勝の国」で、十勝なのに何故に「石狩川上流」なのであろうか?

結局その謎は解明できなかったのだが「見せ物」の歴史を調べると、明治以後見せ物は都市風俗から「消され」、もっぱらドサ廻りの芸能となり、都市生活から「不思議」が追放された。新開地北海道は、芸能を主体としたテキヤ稼業の新天地となってテキヤは大いに栄えた、とある。

私は、繁華街の西2条南9丁目、いわゆる「まち」で昭和33(1958)年に生まれ育った。両親は商売で忙しく、10円玉1枚を渡されて子どもだけで遊んでいた。当時10円は使い道が豊富であった。昭和36年に向かいに「藤丸デパート」が開店、階段の踊り場にあった半球状のプラスチックにジュースが吹き上がる自動販売機が珍しかった。隣の甘栗屋では栗が2個、10丁目の「みつわや」ではお菓子が量り売りで買えたのだ。

裁判所跡地(西3条南9丁目)の原っぱにはよくサーカスや見せ物小屋が掛かった。丸太を縄で結んだ掘っ立て小屋で、お化け屋敷や蜘蛛(くも)女などのオドロオドロシイ絵看板やテンポの良い客引き口上が怖いもの見たさの好奇心をくすぐる。親に連れて行ってとせがんでもバカバカしいからダメだと言われ、それでも諦めきれずに小遣いをためて見に行った。大抵はインチキなモノであったが、今なお強烈な印象があるのは「人間ポンプ」という芸、口に油を含んで火の付いた棒に吹きかけると炎がバァ〜ッと伸びる。ゴジラみたいだとビックリした。祭りにやって来る露店では香具師(やし)によるフーテンの寅さんみたいなテンポのよいたんかが楽しみであった。

近年「街」が健全になり過ぎて全国どこも似たようなツマラナイ街になってしまった。街には妖しげで猥雑(わいざつ)なモノも必要なのだ。近代的できれいなメインストリート、少し妖しげな裏通りやチープな小路、ときには非日常のエンターテインメント、そこに「物語」があってこその「まち」なのである。