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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2022-03-01-Tuesday 政治体制

独裁国家と民主主義国家

どちらの体制が良いのであろうか?

独裁国家も一応は民主主義をやってますよという体裁はとっているが・・・、ロシアもそのひとつであるが、実態はプーチンの独裁国家である。中国や北朝鮮、そしてベラルーシなんかも同様であろう。

独裁国家は、良い悪いは別にして決定が速い。なにせ独裁者の意向ひとつで物事が決まるのだから・・・。

「絶対的権力は、絶対に腐敗する」と云うのが人間世界の鉄則なのであるが、ご多聞に漏れずにロシアも完全に腐敗しているようだなぁ〜。

かと言って、民主主義国家は、ポピュリズムに陥り易い欠点があるよなぁ。

アメリカのバイデン大統領も、日本の岸田首相も他人の意見を聞き過ぎて、なんだか優柔不断に見えてしまってリーダーシップが感じられないよなぁ。

民主主義には、面倒な手続きが必要だから時間が掛かるし、民意をまとめるというのは現代社会ではかなり難しいことであろう。

しかし、今回のロシアによるウクライナ侵攻という大暴挙は、一気に世界中の民意を纏めてしまったように感じる。

ロシアは一日で世界の悪者になってしまった。

独裁国家も、「英雄」がまだまともな判断をしている時期には上手く機能するのであろうが、歯車が狂い出すとアッというまに滅亡に向かってしまう。歴史が証明している。アレキサンダー大王しかり、ナポレオンしかりである。

プーチンは元々危険な奴であったから、彼を英雄と比較するのも可笑しな話であるが・・・。

今回のウクライナ侵攻はプーチン帝国の崩壊の序章になるであろう。

石油の価格が高騰しそうであるが、アラブ諸国はロシアに味方するのか、それとも西側諸国に味方するのであろうか?

ここでアラブ産油国が石油増産をして、石油価格の暴騰を押さえてくれたならば、アラブ諸国は世界中から感謝されるのだと思うけどなぁ〜。逆に石油価格が上がる事態を歓迎するなんてことになると世界中から恨まれるよなぁ〜。

アラブの独裁者の考えはいったいどちらに向かうのかなぁ〜。


■2022-03-07-Monday ?

?


■2022-03-08-Tuesday 謎解き!

昨日のブログに、今書いていることを載せようとしたのだが・・・

一緒に写真を添付しようとしたのだが、どうしても上手くいかないので「?」とだけにして掲載を止めておいた。

慣れないことをやると上手くいかないものである。気を取り直して改めて・・・。

私が執筆を担当している十勝毎日新聞社の毎週月曜日に掲載される「論壇」欄の次回の私の掲載日が3月21日である。そこに2月27日のブログに載せた「古絵葉書」のことを書こうと決めた。

ただ「論壇」欄は基本的に文章だけのコラム欄である。だが、「古絵葉書」に書いた内容を文章だけで表現するには字数が1000字ではとても足りない。

そこで、新聞社の担当記者に事情を説明して「文章と一緒に絵葉書の写真も掲載したいのだが・・・」とお願いしてみたら「写真を論壇に一緒に掲載するのは初めてのこと(みたい)だけど、やってみましょう」と言ってくれたのである。

ただし、写真の掲載スペース分だけ文章のスペースが300字ほど削られることになると言う。何とかトライしてみたのだが・・・

絵葉書の写真を載せるスペースの約300字分の文章を短くすると、どうしても説明不足になってしまう。再度、記者に「文章を1000字以内に若干は短くするから、何とかならないだろうか?」とお願いしてみたら・・・。

何とかOKしてもらえたのであった。

原稿の締め切り日は16日である。これでなんとか体裁を整えられるかもしれない。

「論壇」欄に新しい手法が生まれることになるかも・・・。


■2022-03-09-Wednesday おびひろ・今と昔 前半

「おびひろ・今と昔」 井浦徹人著 昭和33年3月15日 十勝毎日新聞社刊

『「第十六話」興行界の巻』(312頁)から参考資料として転載する。

〇請負業を兼ねて朝倉座経営

帯広の興行界がめまぐるしい変ぼうをとげたのはここ四、五年のことで、それまで帯劇、キネマ館、ミマス館の三館時代がながくつづいている。これは帯広が戦後急激に人口がふくれあがり、従来の三館ではファンの鑑賞欲をみたし得ないまでにおいこまれたからで、業者の企業意欲がはたらいたことも、逆説的には映画愛好者がそうさせたともいえるのである。いずれにしても夷石興行部が大映キネマ、東劇、テアトル銀映、プリンスの四館、藤下興行部が帯劇、帯広日劇、ミマス映劇三館をそれぞれチェンとするほか、東映オリオン、スバル座合わせて九館が、人口八万内外の帯広にしのぎを削っていることは、全道興行界を通じて異例のはなばなしさである。経営の内幕がどのようになっているか、そんな詮議はべつとして映画を愛し、映画をたのしむ人々のためにはかぎりなくうれしい企業と申上げねばなるまい。

帯広興行史は明治三十七年、東二条七丁目十九番地(いまの鈴木石材店)に建てられた朝倉座にはじまっている。古老の言葉によれば、創業は明治三十五年といいあるいは三十六年とまちまちであるが、三十六年九月現在帯広町職業別戸数の記録には、劇場を業とするものが載っていない。経営者の朝倉繁七氏は大津事件で有名な中山一家で明治二十六年ごろオベリベリ部落に居を構えていたが、そのころ何を渡世としていたかは詳らかではない。その後市街地が開放され、大通に市街ができるようになったあと、東二条七丁目十七番地に転じて土木請負業の看板をかけ、隣接の角地に芝居小屋を建てたものである。

明治三十七年といえば日露戦争のはじまった年、釧路帯広間の鉄道が通ずる前の年、帯広に二級町村制が布かれて二年をすぎたあと、戸数も千三百戸を数えて戦争景気や鉄道の前景気で沸き立っていたころである。後年帯広花柳界に嬌名をうたわれた綾之助の母茂木徳代さんが、西一条六丁目(いまの小川醸造工場)に“帯広亭”という寄席をつくって義太夫を教えたのもそのころであるが、これも正確な年代はわからない。したがって朝倉座の“こけら落し”にどんな一座をあげたかも知るよしがないが、これも古老の言によれば、月に一度あるいは正月、お盆、お祭などの紋日に田舎回りの壮士芝居や見世物、歌舞伎一座がかかるぐらい、役者名を染めたノボリをかつぎ、ふれ太鼓が町の中を通ると、子供たちが物珍しげにゾロゾロとあとにつづき、町の人たちは芝居の“外題”に噂の花を咲かせて見物に出かけるのが何よりのたのしみだったという。

〇今越氏を社長に栄楽座創立

朝倉座が焼けたのが大正の初期、焼けたのを機に大通六丁目(いまの高井旅館となり)に陽気館として再生し、これが後年千代田と改名した。(いずれも年代不詳)大正四年の秋を迎えたころ、前年欧州の一角に起こった動乱が第一次世界大戦に発展し、戦時インフレの波が帯広にも押し寄せてきた。そのころ根室銀行支店長代理で停年退職となっていた今越惣吉、土建業の浅野三次郎、遊郭紀の川樓の加森為蔵、高橋覚次郎の諸氏が発起、千代田館の向こうを張って劇場創立を計画した。これが実を結んで大正五年一月創立総会を開き、資本金一万二千五百円(半額払込)でいまの西一条九丁目にその名も栄楽座として発足した。社長は今越惣吉氏、加森為蔵氏が経営の責任者となった。

そのころは“いろもの”専門で旅から旅を流れる壮士芝居や歌舞伎のほか、ようやく全盛となりつつあった浪花節一座、漫才、舞踊をとりまぜた音曲ものばかり、これら旅芸人は小屋の楽屋に寝泊まりしながら、花札を引いたり女遊びして旅を重ねていた。だから小屋には専属の賄人やお客のための売店を必要とし栄楽座ではこれを二本建として入札制で経営者をきめていた。

〇藤下氏乗り出す

藤下儀右衛門氏夫妻が帯広にきたのは大正八年、その年から売店の権利を獲得し、芝居の幕合を利用して売子に食べもの、飲みものを売らせていたが、その後白内障(ソコヒ)を患い営業も不自由となったので、当時賄部をやっていた寒松園栗塚氏に権利をゆずり、治療のため札幌に引揚げた。ところが栄楽座の経営は不振つづき、しまいには電灯料も不払いがちという状態においこまれ、これが株主間の問題となり、今越、浅野、高橋の役員たちが代表で出札、すでに眼疾の癒えていた藤下氏に栄楽座の経営をたのみこんだ。これが藤下氏乗り出しのはじまりで、売店、賄の一さいを引つくるめ栄楽座をあずかることとなった。

時に大正十一年五月。

〇大通りから姿を消した芝居小屋

朝倉座が焼けたあと、大通六丁目に陽気館として再建され、これが千代田館と改名されたことはさきに述べたが大正のおわりごろさらに電気館と改まり、この前後に朝倉氏は興行界を引き、夷石民夫氏がそのあとをしばらく経営している。しかし昭和元年ごろ類焼の厄に会ったあと、誰も再建に乗り出すものもなく大通から劇場は姿を消した。

朝倉氏についてこんな逸話が残っている。ある年の大ミソカ、掛取りが押しかけたところ、彼は茶の間に素つ裸となって大の字にひつくり返り、ヘソの上に大きなお椀を乗せて天井と睨めつこしている。やがて彼は掛取りの連中に向つて「何しに来たッ」と大喝一声したものだ。「品代の掛けをいただきに来ました」というと「これがわからんか」とヘソの上のお椀を指した。一同が目を白黒させたり、首をかしげたりしているのを見て大音声をはりあげ「ハラワン」と一言、そのまままた天井とにらめつこをはじめたというのである。大津で斬殺された中山一家の盃をもらった男だけに凄味もあつたが、中年以後は人間も円熟し町民から親しまれていた。晩年を帯広に閉じたが、興行界の草分けとして、また土建界の先駆者として郷土発展の礎となつた人である。

〇神田館主佐藤氏とミマス映劇

大正七年西一条四丁目に神田館を建てた佐藤市太郎氏は旭川の人、前身は師団通りの理髪職人であるが、明治の末葉“活劇写真”といわれた映画が全国興行界を風靡したのに着眼、旭川に第一、第二、第三と七館に及ぶ常設館を経営、札幌、小樽、北見、釧路に興行ラインを張つた。帯広の神田館は加森為蔵、所仁尾吉、神島正一、嵯峨某その他が株主となって日活映画を上映していたが、大正十五年ごろ営業不振から佐藤氏が持株を放したのを機にミマス館と改めて再発足、これも永つづきせず昭和二年に入つてついに解散してしまった。

そのあとを敷地所有者の所氏が引受け単独営経に移したが、悪いことは重なるもので翌三年十一月フィルム引火から全焼、そのころ帯広の繁華街が南に移りつつあつた時でもあり、附近住民の要望もあつて新たに株式会社を組織野村文吉氏を社長に、安倍隆義氏が専務となつて再発足した。社長はその後郷清吉氏が就任、一方経営は昭和十年ごろまで中川支配人があたり、後に小笹商会の堀瑞栄一氏が代わつたが、十四年木村直一氏の経営に移つてから新興キネマの直営館となつた。戦時中映画法の改正から“色もの”専門館となつたが、昭和廿六年再度の火災に見舞われたあと一旦会社を解散、三百万円の資本金でミマス映画劇場と改称、洋画封切館となつた。郷社長は昭和二十四年死亡、襲名した二代郷清吉氏が社長として現在に及んでいる。

〇芝居小屋から映画上映館へ

大正十一年栄楽座の座主となった藤下氏は福井県人、若いころ浄土真宗を奉ずる仏教人。この世界に珍しく酒もタバコも口にしない誠実肌が買われて、町民の信用も厚く営業も日に月に順調化していつた。藤下氏が栄楽座経営に乗り出したころは、館につづいて生まれたキネマ館がいずれも日活、松竹 の無声映画あるいは連続活劇の洋画などで客を呼んでいたが、藤下氏はこれに振り向きもせず、浪花節や芝居、あるいは祭典の仮設興業で進んだ。映画俳優の五月信子、高橋義信あるいは諸口十九、筑波雪子の一行が実演のため栄楽座の舞台に立つたのはそのころである。

時は容赦なく流れて大正は昭和に移り、旧劇が時代劇と変わり新派と呼ばれた壮士芝居が新劇と呼ばれるようになつた。時流に逆らつていては興行界からとり残されることを知つた藤下氏は、昭和七年一月に入つて日活と契約、いわゆる“活弁”つきの無声映画を上映することとなつた。当時栄楽座の舞台に立つた弁士は花房春波、松平夢郷、宮城渓涛その他であるが、その年九月に入ってレコードと映画を合わせるサウンドトーキーが製作され、つづいてオールトーキー時代が出現した。

(翌日に後半の掲載します)


■2022-03-10-Thursday おびひろ・今と昔 後半

おびひろ・今と昔 後半 315〜318頁

〇帯広に吹き荒ぶ映画館旋風

東宝が生れたのが昭和十二年八月、そのころ専属制であつた俳優の大つぴらな引抜きをやつて、松竹、日活、大都、新興、全勝、極東の六社が東宝を向うに廻し映画界に話題を投じ、林長二郎(いまの長谷川一夫)がとばつちりを喰つて顔を斬られたりした。栄楽座が、日活から東宝に契約を切り替えたのはその年、それから昭和二十七年まで東宝映画を上映してきた。戦時中企業整備の波は映画館にも及び、白紅の二系統となつたが、戦後松竹が再建され、東宝争議で新東宝が生れたあとこの二社を加えて三社の上映館となり、キネマ館は大映、東映の二社で廿七年まで事なく過ぎてきた。

ところがその年七月に入つて中島武市氏がオリオン劇場を創立、つづいて同年九月には釧路の浅川興行部がスバル座を建てて一躍五館となつた。配給映画の再編成が行われたのは当然で、東映がオリオンに走り、スバル座は東宝上映権を握つた。映画界を吹きまくつた嵐はその後もやまず、廿八年にはキネマ館の夷石氏がニュース劇場プリンスをつくり、廿九年にはテアトル銀映、翌三十年には東劇とわずか三年の間に夷石興行ラインを張りめぐらしてしまつた。

〇帯広劇場と改称

三館から五館へ、さらに八館へと飛躍した映画館は、三十一年に入り中島武市氏が“市長落選記念”と銘打つて新築した日劇を功えて九館となりファンを有頂天にさせた。この結果は三度び配給の編成替えとなり、日劇出現を前にした三十一年六月、東宝が先ず帯劇に戻り、同年九月日劇完成のあとこの小屋を藤下氏が賃貸借して松竹上映館とし、ミマス館は松竹、東宝の再映館に変えて藤下興行の傘下に加わり、スバル座は洋画封切館となつた。

栄楽座は昭和十四年十月廿日、それまでの板張り、畳敷きの下足制から現在の建物改築、名も帯広劇場と改めた。初代社長に今越惣吉氏が就任、今越氏死亡のあと伊谷半三郎氏が代り、昭和丗一年の株主総会で伊谷氏を会長に中島武市氏が三代目社長となつて現在に及んでいる。

〇筧殺し事件の仲裁役となる

昭和のはじめごろ、夜店通り(いまの広小路)に根を張つていた筧清明一家、新谷実一家はナワ張り争いからつねに睨みあつていたが、昭和六年秋、筧の子分たちが近在の祭典に出かけたあと、新谷一家がなぐり込みをかけ、親分の筧は日本刀でメッタ斬りにされ、帯広湯(西一条九丁目中通)前の路上で一命を断たれた。筧の兄弟分や子分がこの仕返しをやるとか、血の雨が降るとか、そのころ町の中は物騒な噂でもちきつたものだ。この事件は侠客伝を地でいつたものとして当時全国的話題を呼んだが、これの仲裁役に立つたのが藤下氏で、双方納得の上栄楽座の舞台で、“盃納め”の手打式が行われた。当日の式には道庁保安課員はじめ、時の警察署長北村八州仙警視、本名消防組頭も参列、全国から集まつたテキ屋の親分数十名に上り、栄楽座の周囲には二百名の消防組と五十名の警官が動員されて、警戒に立つという物々しさであつた。このような興行師らしい過去をもつ藤下儀右衛門氏も昭和三十二年春この世を去り、嗣子の藤下正由氏がいま経営の矢面に立つている。

〇荘田喜六氏の手でキネマ館誕生

帯広に“活動写真”がはじめてお目見得したのは明治四十一年、時の帯広聖公会が岡山孤児院の義金集めに朝倉座で催したもの、それまで幻灯の知識よりなかつた人々は画面の人がうごくというので「あれは生きているのか」と噂しあつたりした。日本に映画の渡来したのが明治丗年というからその十年あと、見世物の町廻りや芝居のふれ太鼓より知らなかつた人々の前に、曲も浮き浮きするジンタが町を流してあるいたので、女子供はゾロゾロとそのあとをついてまわつた。女房がいないのでさがしに出たら、子供をおぶつたまま楽隊に浮かれてあるいていたという笑い話もある。

大正五年栄楽座が生れ、七年に活動常設館として神田館ができた。人々は松之助の忍術におどろき、チャップリンの喜劇に腹をかかえながらいわゆる活動写真になじむようになつた。その春、荘田喜六という男が飄然帯広に流れてきて活動常設館の建設運動をはじめた。高倉安次郎、小泉碧、村上亀五郎、鎌谷與作、加森為蔵など第一線級の有志を説いてまわり、神田館の向こうを張ることとなつた。はじめ神田館と背中合せの西一条四丁目をかんがえた、というのは当時の西二条から大通りにかけ四、五、六丁目一帯は帯広の繁華街であつたからだ。しかし将来の発展方向が駅前通りに指していることを見ぬいて、いまの西二条九丁目にキネマ館を新築した。

〇帯広をバックに連鎖劇をつくる

社長に村上亀五郎氏を推し開館したのが大正八年の春“こけら落し”は沢村四郎五郎の“村上喜劇”であつた。館主の荘田氏は広島の生れ、信正堂書店主荘田清一氏(帯広市議会議員、帯広浪曲学校長)の厳父、事業意欲のさかんな男でつねに一かく千金を夢みていた。「無限軌道」という鉄車を考案、七師団に大量売込みを策したが、試運転のさい音響が高すぎるというので失敗したり、尼港に乗りこんでばかでかいデパートを建て、ひと儲けをたくらんだが、これも日本軍の撤兵でダメ、一生夢から夢を追うて終つたが、親分肌の風格をそなえたところがあつて館内にはいつも食客がゴロゴロしていた。

キネマ館時代、帯広を背景として撮影した活動連鎖劇は、荘田氏の一面を語るものとして今も炉ばなしのタネとなつている。大正九年ごろ、荘田氏は旅廻りの新派劇団山口梅夫一座二十五名を館内に寝泊りさせて、映画と実演の連鎖による探偵活劇を思い立つた。この連鎖劇は今こそ姿を消したが、明治末葉から大正年代にかけ観劇家の人気に投じたもの、画面に活躍している人物と実演の人物が同じで、たとえば山中や海岸などの追跡場面など、舞台で現わせない場面は映写し、格斗の瞬間にスクリーンが上がつてパッと灯がつくと同じ背景に同じ扮装の人物が舞台にいるという仕組みでファンを喜ばせたものだ。

角袖に白のメリヤスシャツ、鳥打帽を真深に尻端打りすれば、一目で探偵とわかるのがそのころの風俗、この探偵が犯人を追跡していく、追いつめらた犯人が河西橋から十勝川にザンブと身を投げるところをカメラがとらえるという場面などあつて、川に飛び(込)んだ役者たちは特別手当として木賊原遊廓に一晩遊ばせてもらつた。なにやかや金もかかつたが、荘田氏は上演を急いでキネマ館を密閉して現像、これを栄楽座で封切りした。ところが撮影技術の稚拙と俄か仕立ての現像でフィルムはまつくら、せつかく当てこんだ興行も、ものの見事に失敗してしまつた。

〇経営夷石氏の手に移る

そのころキネマ館上映の写真は釧路のオペラ館から廻されていた。オペラ館主は夷石雅太郎氏(いまの夷石興行社長夷石勝氏祖父)でその子の夷石民夫氏が月に四、五回写真をもつて帯広に出掛てきてキネマ館の営業をみていた。当時は夜一回の興行、写真の替りは一週間目というのんきな時代であつた。荘田氏が連鎖劇で失敗したあと経営を退いたので、村上社長と話合い夷石氏がいよいよキネマ館主となつて上映も晝夜二回とするほか、昭和元年には館入口にあたる西二条九丁目三番地(いまのホシ薬局)にカフェー・エビス食堂を兼営して八面六ぴの手腕をふるつた。

夷石氏は徳島県の人、十二才の時父の雅太郎氏に伴われて渡道、奈井江の炭鉱夫を振出しに製材土建、庶路や茶路炭鉱の経営あるいは釧路で古道具屋など転々としたがいずれも失敗、さいごにオペラ館を経営してホッと一息つく間もなく、釧路の大火で類焼の厄にあうという波乱の半生を経てきた人、恵比寿様をほうふつさせる福相の持主で、いろいろの逸話もつくつたが昭和十五年四十九才の若さで他界した。

〇華かな活弁時代

無声映画時代、キネマ館の舞台に立つた。“活動弁士”の中には荘田氏の時代下山路友、鈴木芙美、佐藤春桂、花柳中麗洋、中村春城、菊村正夫、太田東山、伊達楓浪、柳楓昭、楽士万城目正など多彩の陣でファンの人気をあつめた。これらの弁士はモーニング姿あるいは袴姿で上映前舞台に立ち、「ここに映写いたしまするは米国ユニバーサル会社特作名画、連続大活劇覆面の呪い全三巻・・・」といつた調子で前口上を述べ、解説まで長々とやつて、上映する写真の方が短いというものもあつた。ミーちゃんハーちゃんが活弁にあこがれ、そのため家庭の物議をかもしたのもそのころである。

〇しのぎ削る九館

キネマ館はいま夷石興行部チェーンとして大映キネマ館を主軸に、日活の東劇、洋邦画映画館としてテアトル銀映、プリンス四館を率い、創業当時十二名の従業員も七十名にふくれ上つている。スバル座は釧路浅川興行ラインの一環として洋画の封切館中村義雄氏が支配人、鎌谷一郎氏が副支配人で経営中、オリオン劇場は中島武市氏を社長に東映封切館として、九館いずれも宣伝戦に大童である。

(「興行界の巻)全編掲載終了)


■2022-03-11-Friday 年代

一枚の絵葉書から・・・

実にいろいろなことが判明した。

帯広の歴史を書いた「おびひろ・今と昔」と云う文献を参考にして、私が執筆を担当する十勝毎日新聞社「論壇」の3月21日(月)の原稿(16日締切日)を書いているのだが・・・。

私が父の生前に聞いていた「坂本家の歴史」では、坂本勝玉堂が池田利別から明治38年に帯広町西2条南4丁目20番地に移転し、そこから現在地の西2条南9丁目16番地に移転した年代は「大正13〜14年頃」とのことであった。

父が生れたのが昭和2年であるから、父が生れる以前のことであるので、父も確かな年代が分からなかったのではないだろうか?

だから、おおよその年代として大正13〜14年頃として、私に伝えたのであろうと思う。

今回、新聞に掲載されるから、確かな年代を調べようと思って「おびひろ・今と昔」を再度熟読してみたのであるが、そうしたら・・・

「金物」の章で、祖父の勝が初めて渡道した際に寄宿した池田利別の「カネヨ佐藤喜代丸商店」のことが詳しく載っていたのである。

この中で、「カネヨ佐藤喜代丸商店」が池田利別から帯広に進出した年代が「大正十年」との記述を発見したのだ。

祖父の勝は、渡道した際に世話になった佐藤喜代丸への恩返しとして、勝が「河西庁長の諏訪鹿三の西2条南9丁目の土地を16・18・20番地と三戸分購入した際に、その内の一戸分(20番地)を佐藤喜代丸に提供したのである。

だから、佐藤喜代丸が帯広町西二南九に進出したのが大正十年ならば、少なくともそれ以前に坂本勝玉堂が西二南九に来ていなければおかしいのである。

またひとつ謎が解明された!


■2022-03-12-Saturday 年代の謎とき!

帯広の歴史を書いた本に書かれている年代がかなりいい加減なのは書いたが・・・。

我が家の今回の件でも調べれば調べるほど訳が分からなくなってきた。

3月21日(月)の十勝毎日新聞の「論壇」欄に掲載される私の文章の年代に誤りを載せたくない。締切日の16日までにもっと詳しく調べてみようと考えた。

父の坂本圭司(1927生〜1992没)から私和昭への口伝では

①坂本勝が十勝で初めて坂本勝玉堂印舗を中川郡凋寒村大字凋寒村字利別太大通六丁目十九番地に開店したのが明治37年。

②帯広町西2条南4丁目20番地に移転したのは明治38年。

③帯広町西2条南9丁目16番地(河西庁長諏訪鹿三の土地三戸分を購入して)に移転したのは大正13〜14年頃。

と聞いており私はメモを残してあった。

祖父の勝は、初来道した明治36年に同郷の山梨県人(北巨摩郡小渕沢村出身)で利別太西六番通一丁目の角の「カネヨ佐藤喜代丸商店」(金物屋)の佐藤喜代丸宅に寄宿した恩返しとして、勝が購入した西2南9の三戸分の土地の内の一戸分を佐藤に提供したことが分かっている。

「おびひろ・今と昔」(昭和33年3月 十勝毎日新聞社発行、井浦徹人著)によると

④坂本勝が来道した明治36年に寄宿した利別の同郷の「カネヨ佐藤喜代丸商店」が池田から帯広に進出したのが大正10年との記述がある。

⑤カネヨ佐藤喜代丸の子孫の佐藤篁(たかし)氏(1935年昭和10年生)の2010年3月24日の十勝毎日新聞の閉店の記事によると「昭和2年ごろ、帯広に移転」と掲載されている。

⑥帯広市史編纂委員会編集の「帯広の生い立ち」(昭和27年9月発行)によると,河西庁長諏訪鹿三の宅地(西二条南8〜10丁目東側街区)が開放されたのは昭和5年の藤丸百貨店の開店に伴ってとある。

⑦大正14年1月発行の「十勝寶盟鑑 十勝三興社編集」の広告にはカネヨ佐藤の広告が掲載されているが住所は「帯広町西二の九」とあるから、大正14年には西2南9に店舗が存在しているので昭和10年生まれの佐藤篁氏の記憶の⑤は誤りで遅くても大正14年以前である。

⑧昭和4年頃に父の圭司が2歳頃と思しき西2南9の勝玉堂前で写した集合写真があるから⑥の年代の昭和5年に開放は誤り。

この中で、明らかに誤りと断定出来ない年代で一番早い年代が「大正10年」で一番遅いのが「大正14年(以前)」となるが、広告の載っている冊子から推測して『大正10年』説を採用したのだが・・・。

今日、古い戸籍謄本などを引っ張り出してきて調べた結果、父の兄の「正男」(四男)が大正11年に西2条南4丁目で誕生したとの記録が、「圭司(貞夫)」(五男)が昭和2年に西2条南9丁目で誕生したとの記録が残っていた。

また、祖母(坂本ハナ)の書いた書類を調べたところ以下の記述を発見した。

『大正13年 西二条九丁目十六番地に店と住宅を新築。(当初)土地は諏訪様より借りた。(その後)昭和3年に諏訪様より土地を購入した。』とある。

いったいどれが正しいのだろうか?

ここはやはり「大正13年」説を採用するべきであろうと考える。


■2022-03-13-Sunday 関連文献抜粋

「おびひろ・今と昔」(昭和33年3月発行)

十勝毎日新聞社発行 井浦徹人著 の中から

坂本家に関連のある箇所と今回の絵葉書に関連する箇所を抜粋しておく。

P26

「金物」金物商の元祖は三井徳宝氏、山梨県北巨摩郡清春村(函館の曲ヨ進藤金物店に丁稚奉公、明治三十年に大津に入る。

P27(下段)

大正四年には小沢保貞(西二の八)同十年に曲ヨ佐藤(西二の九)同十二年藤森魯一(西二の六)昭和九年中山清文(西二の七)の諸氏がそれぞれ店舗を開いたが、おもしろいことにいずれも甲州人、なぜ金物商に山梨県人が多いのかと一寸首をかしげたくなるが、これは郷党の先輩が明治の中葉ごろから北海道に進出、揃いも揃つて盛業を誇つたのに刺げきされこの先輩を頼つてきたのが理由となつている。たとえば三井氏が奉公した函館の進藤英太郎氏のごとき、その後札幌。小樽、旭川から道東にわたつて曲ヨの支店、分店を設けており、佐藤喜代丸氏も三井氏と同じ年代に函館の進藤で商法を見習つている。佐藤氏は三井氏とともに大津に上陸、はじめ利別に開業していたが、鉄道開通のあと池田に転じ、大正十年帯広にでた人で金物商としては三井氏と並ぶ老舗である。いま広小路(西一の九)に先代のあとを享けて佐藤登氏が曲ヨの看板をまもりつづけている。

P46(下段)

「見本市に力入れた有田重太郎氏」(高橋至誠堂)(絵葉書発行か?)

明治三十二年、それまで日本銀行帯広出張所長の椅子にあった高橋又治氏が、日銀を辞めて大通七丁目に紙文房具店を出し、同時に十勝で初めての国定教科書取次販売所の看板をかかげた。これが高橋至誠堂で、爾来昭和の中頃まで四十余年にわたる老舗として親しまれた。

大通七丁目の(いまの明和石炭商会)の高橋至誠堂が、その年から帯広及び十勝一円の教科書販売を指定されたが、至誠堂も当時は和洋紙、文房具、薬種類のほか流行の赤本を少しばかり店頭に並べていたに過ぎない。

P110(下段)「家具」「伊藤英太郎氏と林長次郎氏)

大通り七丁目“北大商会”(後に丸井林商店)の名で店舗を張った林長次郎(林勝毎社長祖父)氏は伊藤英太郎氏のあとを継いで監獄の作業場に出入りしたが、当時十勝の至るところで発見された十勝石を囚人に加工させ、これを坂本勝玉堂(その頃西二条四丁目に印判店を開いていた)に卸したのが、後年十勝石の名を高めるようになったわけで、いわば十勝石を世に出した人でもある。林氏がアイヌ研究家で知られたジョン・バチェラー博士に、十勝石を加工した置物、顎飾りを贈り、これを博士が北海道みやげとして英国に持ち帰った話は有名である。

P119(下段)「看板」

帯広ではじめて看板業を営んだ人は秀佐市氏、明治三十七年西二条四丁目二十番地東仲通(いまの本村商事)に“日の出堂”として店舗を構えたがそのころ背中合わせの西二条通りには坂本氏が勝玉堂印房を開業、朝晩親しい交わりをつづけていた。日の出堂はその後いまの西一条四丁目に移ったが、大正の初めごろ田村三蔵氏が西一条七丁目に提灯と代書の店を開き・・・

P63「鉄道敷設にからむ秘話一つ」

P64(上段)諏訪鹿三と帯広駅舎敷地

(明治三十年頃)当時帯広駅は東一条の突き当りに設置されるという見通しが強く、この方面に店舗を構え、駅前通りの繁盛を夢みるものが多かった。ところが明治三十一年から同三十五年まで、第三代の河西支庁長をつとめて退官した諏訪鹿三氏は、西二条九、十丁目の一角を牧場として貸下を受けた。そのころ西二七、八丁目から西四条に至る一帯は司法省用地で、区裁判所がいまの藤丸附近にあったころ、周囲は一面のかしわ樹林、公民館附近は昼でも追剥ぎが出るといわれていた。

そんな淋しいところだから、当時の人達は誰もこの通りが将来の目抜通りになるとは夢想だにしていなかつた。諏訪牧場が出来た当時も、町の人達は「支庁長も物好きなマネをする」くらいに軽く考えていたらしい。それが当たったのである。駅舎敷地が今の場所に決定するや、裁判所は西三条九丁目に移り、諏訪牧場は市街地に開放されて一躍地価が吊り上げられた。これは諏訪氏が前支庁長の権勢をもって、極秘にされた駅舎敷地を嗅ぎつけ逸早くこの一帯に手を廻したのが図星となったわけで、遠く過ぎ去ってしまえば一片の秘話とか伝説となるが、当時の官界裏面史をうかがうものとして興味の話題たるを失わないであろう。


■2022-03-14-Monday 勝毎「論壇」掲載

2022.03.14十勝毎日新聞「論壇」掲載記事

「謎解き!一枚の古絵葉書から」

先日、一枚の古い写真を入手した。郷土史家井上壽コレクション(帯広百年記念館所蔵)の絵葉書だ。キャプションには「帶廣ノ一角(その五)(至誠堂発行)」とだけ。手前の建物に「坂本勝玉堂印舗」の看板が見えるが初めて見た写真であるし、現在地の西2南9ではない。

角度から西2南5・1の宮本富次郎商店(現さかい珈琲)の上層階から北東方面を撮影した写真のようだ。祖父の坂本勝(かつ)が明治38年に、凋寒(しぼさむ:池田町の旧名)村利別から帯広町西2条南4丁目20番地に移転開業した店であろう。撮影年は宮本商店建築の大正8年から、西2南9に移転する大正13年までの間と推察される。

拡大すると、屋根上の立方体看板には「勝玉堂」、西2条に面した看板には「坂本勝玉堂印舗」、4丁目線(東西)には「十勝石細工」、その軒下の縦長の看板には「引札 柱暦 ゴム印 彫刻 団扇 扇子」などの文字が見える。東側の住居とおぼしき家の軒下に大根が干してあるから、季節は秋であろう。

勝玉堂の後方には、これまでに見たことがない白い3階建ての建物が写っている。書庫から「写真集帯広」(国書刊行会)をひっぱり出して調べてみたら、似た建物を見つけた。「千代田館」とある。しかし、似てはいるが明らかに違う建物だ。こうなると徹底的に調べたくなる性分なのだ。

謎の建物も「興行」系のものであろうと見当をつけ、「おびひろ今・昔」(井浦徹人著、十勝毎日新聞社発行)という書籍の「興行界の巻」を調べると、「千代田館」の前身は、明治37年に東2南7・19に建てられた芝居小屋「朝倉座」が大正初期に消失して、大通6丁目(現高井旅館隣)に「陽気館」として再生、その後「千代田館」に名前が変わったとある。西1南7の小川醸造(現そばの小川)の場所には「帯広亭」(年代不明)という寄席があったとある。大正5年には西1南9・20に芝居小屋「栄楽座」(後の帯広劇場、現NC駐車場)が。しかし、いずれも方角が異なる。

大正7年、西1南4に活動常設館「神田館」。あったこれだ!方角も年代もピタリと一致する。気分は名探偵だ。ちなみに神田館は大正末期に「美満寿館(みます館)」と名称が変わるが、昭和3年に全焼。再建後、昭和26年に再度火災に遭った故に、外観はまるで異なる。

今年、帯広は開拓140年。古い写真の謎解きをしてみるのも面白い趣向かもしれない。


■2022-03-15-Tuesday アレッ!

帰宅して十勝毎日新聞を見たら・・・

21日に掲載予定であるはずの「論壇」の私の文章が一週間早く今日14日(月)に載っているではないか!

16日(水)が原稿締切日のはずであるから、もう一日しっかりと他の文献を検証してみようと思っていたのに・・・。

帯広の歴史に関する、昔に出版された書籍を調べてみても、年代がバラバラであったり、不明であったりする。おそらく出版当時に生存されていた関係者にインタヴューした内容を精査しないで、聞いた事をそのまま掲載してしまったのではないだろうか?と思われる。

だから、各種の出版物を比較検証して整理し直す作業が必要になるのだ。私が所有している文献も相当な量があるのだが、やはり図書館などに行って調べてみないとならないであろう。今日は、その作業をするつもりでいたのだが・・・。

ビックリして勝毎の担当記者にメールを入れたら「掲載日は私の完全なミスで、本来は21日の掲載でした。大変申し訳ありません」とのこと。

今回の掲載が「論壇欄」初めての写真付きのイレギュラーな掲載ということもあったので、私は早めに担当記者と調整しようと、いつもよりも2週間早くに原稿のやりとりを始めてしまったので、きっと担当者が掲載の順番を錯覚してしまったのであろう。

私の文章が1週早くに掲載されてしまったので、本来の執筆担当者さんには申し訳なかったが、私の責任ではないのでご了承を。

私としても、まぁ、掲載されてしまったのであるから、今更これ以上調べても仕方がないかと諦めることにしたが・・・

しかし、こういう謎解きは実に楽しい作業であるなぁ〜。

もともと謎解きも歴史も両方が好きなのである。

1999年に「北の屋台」事業を始めた際に、帯広の「屋台」の歴史をいろいろと調べて本として出版したのであったが、文献だけでまとめるのはかなり困難な仕事なのである。私がまだ生まれてもいない時代のことであるし、話を聞こうとしても当時の関係者がほとんど鬼籍に入られているから確かめようがないのである。

祖父の勝の人となりを想像してみて、祖父ならどう行動したであろうかを考えるのは子孫がやらねばならないであろうし、子孫だからこそ解るとも考えているのだ。

今回調べた事で、その内に小説でも書いてみようかしら。


■2022-03-16-Wednesday 地震

もう寝ていたのに、

ゴ〜と云う地鳴りの音がして、地震に敏感な妻が「地震だ!」と飛び起きる。

ぐっすり寝ていたから夜中の2時くらいに思えたが、時計を見たらまだ11時35分頃。帯広の揺れは震度3くらいのものであろう。もう地震にはすっかり慣れっこになっているから、この程度の揺れなら慌てるほどのことではないが・・・。

しかし、随分と長〜い揺れである。

何だか11年前の3.11の時の揺れの長さに匹敵していると感じたので、また東北地方ではないのかと思って直ぐにテレビを点けたら、娘が住んでいる福島県が震度6強の揺れであると表示された。

妻が娘家族を心配してメールを入れたが既読にもならない。きっと避難しているのであろうと思うが、連絡が付かないと心配が募る。

テレビでは津波警報も出た。益々心配になる。

しばらくして娘から全員無事だとの電話が来たので一安心したが・・・。とにかく無事で良かった。

津波が心配だから、これから避難所に避難するという。

夜が明けてから詳しい様子を聞くことにしてひとまず寝ることにする。


■2022-03-22-Tuesday 検診

札幌の北大病院で半年毎の検診を受けてきた。

4年前に前立腺癌の「陽子線」と「内分泌(ホルモン療法)」の治療を北大病院に2ヵ月間入院して受けてきた。その後の経過を診る為に、現在は6ヵ月毎に北大病院に行って検診を受けている。

昨日21日(月)で北海道も「コロナの蔓延防止条例」が解除されたので、さっそく今朝の朝一番の06:45帯広発-09:35札幌着の特急列車で札幌に向かったのであった。

列車内は始発の帯広から終点の札幌まで乗客は私一人だけで途中の乗り降りも無しであったから、私もマスクも無しで乗れたので呼吸は楽で良かったのだが・・・。これじゃぁJRも大赤字であろうなぁ〜。

検診は10:00から血液や尿の採取などをしてから、その結果が出るのを待って11:30頃から医者の問診を受けることになっている。朝一番の列車でないとこの時間帯に間に合わないのである。

朝2番目の列車は帯広発08:01-10:47札幌着であるからそうなると採血等の結果を待つのに昼食時間の1時間を挟まなければならなくなってしまうからだ。

私は病院が大嫌いであるから、病院に居る時間を少しでも短くしたいので朝一番の列車で行くことを選択しているのである。

コロナ禍で札幌に行く機会もメッキリ減ってしまい、前回の検診で訪れた9月以来の半年振りの札幌である。

今年の札幌は雪が多いから、北大までの道も歩いていくのは大変であろうと思いタクシーで向かったが、車窓から見た道路の除雪は酷い状態であった。特に仲通りは凸凹の轍だらけだし、歩道と車道の間には高い壁がそのまま残っている。2車線道路もギリギリ1車線しか取れていない。こんな状況なのに、札幌市長はよくオリンピック開催云々なんて言い出せるなぁと妙な感心をしてしまった。

西郷輝彦やウィリアム・ハートなどの有名人が前立腺癌で亡くなっているニュースを聞くたびに少々不安になっていたのだが、検診の結果は「異状なし」。前立腺癌の状態を示すPSA値は0.03と低いままであったので一安心したのであったが、男性ホルモンのテストステロン値も依然としてかなり低いままなのである。このテストステロン値が低いのが不満であり不安でもある。

アルコールによる肝臓のダメージを示すγーGDP値も、コロナ禍でこの3年間は外に酒を飲みに全く行っていないから、かつてないほどに低い数字でようやく数値が人並みになった。

札幌の中心街で歯科医をやっている18歳年上の従兄弟に会いに行った。14日に十勝毎日新聞の「論壇」欄に掲載された私の文章「謎解き!一枚の古絵葉書から」とその絵葉書を拡大プリントした写真などを渡してきたのだ。この絵葉書に写っている家が従兄弟の父親(大正元年生まれ)が誕生した家の写真だからである。札幌に行く前にメールをしたら、「俺もその家の写真は見たことないからぜひ欲しい」と言うのである。蕎麦屋で昼食を取りながらお互いの近況報告をし合ってきたのであった。

帰りの列車を1便早くに変更して帯広に戻ってきたが、往復約6時間の旅は結構疲れるようになってきた。

列車内と病院内に居る8時間くらいの間に昨日発売されたばかりの関裕二の「古代史再検証2 白村江の戦い(廣済堂出版社刊)」と高田崇史の小説「QED 神鹿の棺(講談社刊)」を2冊読み切ったのだが、2冊とも歴史の謎解きものなので、いつもよりはかなり遅めのスピードで読んだのに、それでも帰りの新札幌までに読み切ってしまって、その後の帯広までは手持無沙汰で困ってしまった。

いつもは札幌の本屋で本を大量に買い込んで列車内で読むのであるが、今回は読みたい本が無かったので1冊も買わなかったのである。

次回はどうやって時間を潰そうかなぁ?


■2022-03-27-Sunday 大相撲

いや〜、久しぶりに相撲を見て熱が入った!

千秋楽の取り組みは、どれも面白かったなぁ〜。

昨日14日目の終了時点で、優勝候補は若隆景、高安、琴ノ若の3人に絞られた。

まず琴ノ若が豊昇龍に負けて優勝争いから脱落。

次に高安が阿炎に負けた。

高安は、引退した白鵬が「現役力士で一番強い」と言うほどの実力者なのに「蚤の心臓」とも言われていて、先行して優勝争いの単独トップに立っても、優勝を意識した途端に足が動かなくなって優勝を逃してしまうよなぁ〜。大一番には勝てないジンクスが付いてしまっているかのようである。

若隆景はカド番で今場所不調の大関正代との結びの一番に勝てば優勝、負けても高安との決定戦。しかし、今場所の正代にしては珍しく意地を見せた一番で正代が勝った。

優勝候補の3人とも本割りで負けてしまって、若隆景と高安の優勝決定戦になったが・・・。

見ごたえのある決定戦であった。高安は最後の一歩が出なかったなぁ〜。

こりゃぁ若隆景は強くなるぞ!

スポーツはなんといっても「自信」が一番である。

小兵力士であるが足腰が強くて下から下から攻めるのが小気味良い。優勝したことで他の力士達も研究してくるであろうが、その中でも勝って大関になれたら面白い。

若隆景も琴ノ若も父親や祖父が相撲取りだったという。政治家と違ってスポーツの世界は実力の世界だから、二世三世大いに結構!

大鵬の孫の王鵬も、十両筆頭で勝ち越したから来場所は幕内に上がってくる。

十勝出身の矢後が十両8枚目で8勝7敗で勝ち越した。幕内と十両が何人入れ替わるか?であるが・・・

幕内幕尻17枚目で7-8と負け越した輝、16枚目で7-8の荒篤山、15枚目で4-11の天空海、13枚目で5-10の千代の国と千代丸の5人辺りが落ちるかな?

14枚目で7-8の豊山はギリギリ残りそうだしなぁ〜。

矢後よりも上位で勝ち越しているのが4人いるから、8-7だとギリギリ上がれるかどうかの瀬戸際であろうなぁ〜。

幕尻で8-7と勝ち越した一山本も北海道出身力士である。同郷の力士が活躍しないと応援のし甲斐がないからねぇ〜。昔は北海道出身力士ばっかりだったのに・・・。ようやく2人が上がって来た。

来場所が楽しみだ。


■2022-03-29-Tuesday 感覚の不思議

コロナ禍の生活で、

何が困るかって言うと、時間と記憶の感覚が麻痺してしまうことである。

これまでは記憶力の良さを自慢にしていたのに、コロナ禍になってからは、物忘れがとても酷くなっている。

最初は年のせいかなぁと思っていたのだが、どうも原因はそれだけではなさそうな感じがするのである。

緊急事態宣言が発出されていた期間は自宅に引き籠り気味であったから、曜日の感覚が完全に狂ってしまっていた。

毎日、午後の同じ時間帯に「鬼平犯科帳」や「水戸黄門」などの時代劇ばかりを見ていたが、ほとんどが勧善懲悪で一話完結のワンパターンの内容ばかりであるので頭の中に物語の印象がまったく残らないのである。観終わった後には内容をほとんど憶えていないのだ。しかも月〜金曜日まで毎日毎日同じ時間帯に同じ番組を見ているから、あれっ!今日はいったい何曜日だったのかなぁ〜と分からなくなってしまうのである。

私は、記憶をする時には、何か他のモノと関連付けるとしっかりと記憶が残る質なのであるが、ただボヤ〜と何気なく見ていたりすると記憶にはほとんど残らない質でもある。

現在、私の脳みその中では、テレビ番組と曜日を関連付けているのは、火曜日の「開運!なんでも鑑定団」、水曜日の「シャーロック・ホームズの冒険」、日曜日の「そこまで言って委員会NP」ぐらいしかないのである。

だから、毎日毎日同じ時間に同じ番組を見ていると、曜日が分からなくなってしまうのである。

記憶の引き出しに仕舞うには、イベント等と関連付けて憶えるようにしているが、そのイベントもこの2年間はコロナ禍でほとんど中止になってしまっているから、記憶との関連付けがまるで出来ていないのだ。

あの出来事は、去年のことだったかなぁ〜、それとも一昨年のことだったかなぁ〜すらも分からなくなってしまっている。

この2年間はイベントらしいイベントもほとんどなかったし、外に飲食に行く機会もめっきり減ってしまって、日々の暮らしにまったく刺激がないのである。日々に何らかの特筆するような出来事が無いと、記憶そのものが曖昧になってしまっているのだ。

こうなると、時間の感覚も段々と変になってきた。

何だか、毎日毎日がただダラダラと同じことを繰り返しているように感じて、アレッ確かこれさっきもやったよなぁ〜と思ったら、それが昨日のことであったり、あれをやらなきゃならないと思っていたら、もうすでにやり終えていた等ということが増えてきたのである。

頭脳明晰な筈の私でさえこうなのだから・・・。

認知症気味のお年寄り達は、いったいどのようになっているのであろうか?

コロナ禍は人間を「馬鹿」にしてしまうかもしれない。

それに、2年以上もイベントが無い状態だと、人間の「ヤル気」も奪ってしまうことになるだろう。他ならぬ私がその状態に陥っている。

たかが風邪みたいな病気に対して、こんなに過剰な対応を2年以上も続けていて、経済だけではなく人間らしい生き方も奪っている。

もう取り返しは利かないポイント オブ ノーリターンを過ぎてしまった感じがする。