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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2022-11-01-Tuesday ルスツリゾート

帯広のマジック・ミュージアムを

移転させることを何度かこのブログに書いてきたが・・・。

今日、北海道虻田郡留寿都村にあるルスツリゾートを運営する加森観光㈱との間に「一括無償譲渡」の契約書に署名捺印をした。

これまでは、「北海道内のとある観光企業」とだけ書いてきたが、今日からは正式に「ルスツリゾート」と公表することが出来る。

いよいよ今月の7日から、展示品や什器備品の類までのすべてを搬出開始である。すべての物品の搬出にはおおよそ1ヵ月間を要する予定である。半世紀以上の年月を掛けて蒐集し、9年間も掛けてコツコツと一人だけで展示したものを、大勢の人数が携わるといっても、たったの1ヵ月間で、そのすべてを移転させるのである。そう考えると何だか寂しいなぁ。

留寿都村は、羊蹄山や洞爺湖などが近くにある村である。外国人らが注目するリゾートの「ニセコ」町からは車で30分ほどのすぐ隣村である。

留寿都村へ行くには自動車で行くしかないのだが、札幌市からは約90分、新千歳空港からも約90分、苫小牧市からも約90分の距離にある。

帯広市からは車でまっすぐにルスツに行けば約220分ほどであろうか?(まだ車で行ったことがないから正確な時間は分からない)

前回、ルスツリゾートを見学で訪れた時には、帯広駅から列車で札幌駅まで約150分、札幌駅前から車で約90分掛かったから、約4時間は掛かる計算だ。

帯広から遠いことが難点ではあるが、「マジック界」にとっては、日本唯一のマジック・ミュージアムは、ルスツリゾートにあった方が、坂本ビルにあるよりは数段将来性が感じられる。

ルスツリゾートへの移転を決めた決定打になったのは、何と言っても、全国各地から、小学生、中学生、高校生の修学旅行生が大勢集まって来ているという点であった。

ルスツリゾート施設は「オールインクルシーブ」である。事前に一括前払いしておき、その都度ごとには入館料や利用料などを支払う必要が無い。

だから、マジック・ミュージアムにも「無料」で入館出来るわけだ。

ちなみに、我がマジック・ミュージアムでは入館料として一人500円を徴収していたが、そのお金をいちいち財布を開いて支払う必要がなくなるのだ。

これには心理的にも大きな効果がある。入館に対する抵抗感や躊躇が無くなるのだ。

ルスツリゾートを訪れた学生等が、ドンドンと入館してくれることになるであろう。

若い世代が「マジック」に触れてくれる機会が増える。これはマジック界においては、願ってもないことである。年間何万人もの来場者がいる中で、その内の何人かがマジックに興味を持ってくれる可能性が出てきたのだ。

だからこそ、これまでの様なゴチャゴチャとした展示の仕方はよろしくないだろう。スッキリと観易くしなければならないだろうし、またモニターを多数設置して、映像を多用した説明や紹介の方法を模索したいと考えている。

加森オーナーが私に語ってくれたルスツリゾートの将来構想が実現するならば、世界中からマジシャンを集める「マジック・コンベンション」の開催も夢ではない。

当初、私の心の中では、54年間も掛けて蒐集した貴重なマジック関係資料数万点を無料で帯広から離れた場所に移転させるのは、この上もなく淋しいことであったのだが、しかし、今では逆に、ルスツに移転させた方がマジック界に貢献できるのではないかと思うようになってきたのである。

ルスツリゾートに譲ることが、私のコレクションを一番活用できる方法ではないかと思ったのである。

先月の初旬に初めてルスツリゾートを訪問して施設を拝見した時に、その壮大さにすっかり圧倒されてしまった。

留寿都村の隣町であるニセコ町は、外国人によるコンドミ二アムなどの開発や建設などで盛にマスコミにも注目されている場所である。ニセコの将来性を熱弁する経済人も多いのだが・・・。が、私の目には、ニセコ町よりもルスツの方が魅力的に映ったのである。

その理由の一つは、ニセコは各国人、各社がそれぞれバラバラに開発しているが、ルスツは加森観光㈱一社の所有であり、開発であるという点である。

確かに立地の点では、北海道新幹線の札幌延伸によって、ニセコのすぐ近くの倶知安にも新幹線の停車駅が出来ることは優位なのではあるだろうが、しかし、はたして外国人が新幹線で北海道入りするのであろうか?

新千歳空港に降りる外国人は、自動車での移動ならば、むしろルスツの方が近くなる。新千歳空港から列車で札幌まで出て新幹線に乗り換えて倶知安まで行くルートだと80~90分は掛かるのではないだろうか?

将来的に丘珠空港の滑走路延長などの整備をしたとしても、ほとんど所要時間の短縮には繋がらないのではなかろうか?

鶴の一声というのは諸刃の剣という危険性があるにはあるが、加森観光㈱にはオーナーの鶴の一声で決まるというスピード感と迫力がある。

エンターテインメントに関する加森オーナーの熱い思いには魅力を感じた。

これからの計画づくりには私もお手伝いをさせていただきたいと思ったのであった。


■2022-11-02-Wednesday マックス・メイビン氏死去

マジシャンでメンタリストのマックス・メイビン氏が

脳腫瘍のために11月1日に73歳で亡くなった。

メイビン氏は日本語が堪能で「マックス名人」と云うステージネームで「花王名人劇場」などの日本のマジック番組にも多数出演されている。

人間心理を巧みに応用したマジックで有名な方である。

我が、マジック・ミュージアムにも、2019年の7月3・4日にわざわざアメリカから訪問して下さった(このことは2019年07月03・04日の観光カリスマ坂本和昭のブログにに書いているのでこちらを参照してほしい)。

若干重複するが、メイビン氏とは、私が、ロサンゼルスの島田晴夫師邸を訪問した際に、島田師に「マジック・キャッスル」」に連れて行ってもらった時に、キャッスルで島田師から紹介された。

その際に、島田師が「私のマジック関係道具など一式を坂本さんのマジック・ミュージアムに寄贈する」と言われたので、メイビン氏が「日本に行ったらマジック・ミュージアムを訪問したい」と言ってくれたのである。

社交辞令だとばかり思っていたのだが、本当に訪問してくれたのでビックリしたのであった。

その際にも、メンタルマジックを見せてくれたが、驚きの連続であった。まだ73歳とお若いのに、残念である。

メイビン氏が訪れてくれたマジック・ミュージアムを閉館した1日にお亡くなりになったのも何かの因縁であるかもしれない。

また一人、素晴らしいマジシャンがあの世に行ってしまった。

ご冥福を祈る(合掌)


■2022-11-03-Thursday 駒大十勝支部総会

駒澤大学の同窓会十勝支部の総会を

3年振りに北海道ホテルで開催した。

私は2001年から支部会長を務めている。

駒澤大学の同窓会支部は日本全国に58支部、台湾に1支部の合計59支部あるが、十勝支部は会員数が下から3番目に少ない支部である。

2000年の11月頃に発足させたので、今年で23周年ということになる。

近年は十勝管内からの入学者数が少なくなっていて、ますます会員数が減少傾向にある。

何とか、少ない会員数でも親睦を図り、活発な活動をしようと心掛けている。

駒大同窓会本部には、駒大卒業生らの元プロ野球選手(中畑清、白井一幸、石毛宏典氏ら)や落語家(三遊亭王楽、貴楽、遊馬、桂文雀ら)などの有名人を派遣講師として登録し、スケジュールが合えば無料で総会に派遣してくれる制度がある。

十勝支部では、この制度を活用して落語家を招いて、駒大同窓生だけではなく、一般の市民にも開放して「落語会」をずっと開催してきた。2020年には、設立20周年記念事業としてとかちプラザのレインボーホールを会場にして、三遊亭王楽、ふう丈、花仙の3人の同窓芸人を招いて、約300名の一般市民の観客を入れての「駒大寄席」を開催し喜ばれたのであった。

ところが、コロナ禍が2020年から拡がったために、駒大寄席どころか、総会そのものも開催することが出来なかったのである。

今回の総会は、3年振りに開催することを決めたのであるが、駒大寄席の開催は一般市民を集めることのリスクを考慮して、会員の家族限定とし、落語はやめて3年前の駒大寄席に招聘した「江戸大神楽」の花仙さん一人を招くことにしたのであった。

同窓会本部からは、去年、新会長に就任した大石孝会長も東京から駆け付けてくれて、久し振りの顔合わせとなったのであった。

総会は滞りなく終了し、花仙さんの江戸大神楽の妙技を楽しみ、懇親会で食事を楽しんだ。

2次会は市内中心部に移動するが、その前に、坂本ビルの「マジック・ミュージアム」を見学してもらった。7日からは展示品を搬出するので見納めということになる。

大石会長は「いや~、凄い!ビックリした。これを移転するのはモッタイナイ」と何度も口にされ、驚いてくれたのは嬉しかった。

明日は、ゴルフコンペを開催する予定である。


■2022-11-06-Sunday ミュージアム最後の

マジック・ミュージアムの移転作業が

明日7日から開始されるが、帯広での見学が、もう最後となると見学希望者が殺到した。

正式には先月末で閉館したのであるが、移転開始まではまだ見られるだろうとの申し出なのである。

最後であるからすべて引き受けて開けることにしたのであった。

そんな中で、今日の15時に、私の兄弟姉妹の家族が見学をしたいと言う。私が小学6年生の頃からコツコツと54年間に渡って蒐集していた姿をずっと見ていた兄弟姉妹であるから、最後の最後に家族に観てもらうことにしたのであった。

花束なんぞをくれたりしたものだから、思わず感涙しそうになってしまった。

やはり、出て来る言葉は「良くもまぁ、これだけ集めたね」「他所に持って行くのはモッタイナイね」「タダで上げちゃうなんて随分と太っ腹だね・・・」「寂しくないかい?」などであった。

しかし、長年掛けて苦労して一ヵ所に集めたモノを、バラバラにして売ってしまうのでは、マジック界にとっては大損失である。後人に私の夢を託してマジック界に貢献したいのである。お金の問題ではないのだ。

ルスツリゾートならそれが可能であると判断したのである。未練は断ち切った。

それでも蒐集品が手元から離れる私の淋しい気持ちを察してくれたのか、観終わった後で、兄弟たちが食事に誘ってくれたのであった。

日曜日であるから街中の店は休みの店が多いが、馴染みの店が特別に開けてくれた。兄弟姉妹の家族だけで貸し切って、マジック・ミュージアム最後の晩餐と洒落込んだのであった。


■2022-11-07-Monday 搬出作業開始

マジック・ミュージアムの物品の搬出作業が始まった。

ルスツリゾートを運営する加森観光㈱の依頼を受けた「札幌通運」の作業員6名が、午前9:30にマジック・ミュージアムに到着した。

まずは、トラックから梱包用の段ボール、ビニールのプチプチの緩衝材、テープ等などを降ろして、3階に運び込む。これら梱包用の用具だけでも、物凄い量である。ミュージアムの隣の空き室を、とりあえずの梱包を済ませた段ボール箱などの一時置き場にすることにした。マジック・ミュージアム内に置くと狭くなって作業が出来なくなってしまうからだ。

事前に展示物を写真に撮ってある。この写真のままルスツリゾートに運び込み、また同じ様に並べる作業をする。

早速に梱包作業が始まった。

新聞記者が取材に訪れた。移転のことを記事にしたいと言うので、暗い話じゃなくて明るい未来の希望のある話を書いて欲しいと注文をつけた。以前に載った記事は、何だか私が落ちぶれて蒐集品を手放すみたいな書き方をしていたから腹立たしかったのである。無料ですべてを寄付するのにあの書き方はないだろうに・・・

6人が「トランプの壁」、「書籍」、「パネル」、「マネキン人形」などに分かれて作業を開始した。

さすがプロ集団である。テキパキと梱包をしていく。

2007年から9年も掛けてコツコツと一人で展示作業をやった場所が、みるまに段ボールの山へと変わっていく。

近くで見ていると何だか辛くなるので、事務所のモニターで見ることにした。

これから約1週間、朝9:00~17:00までこの作業を続けるという。それでも全部は終わらないかも・・・と作業リーダーが言っていた。

日を追うごとに寂しさがつのりそうである。


■2022-11-08-Tuesday 来場者総数

マジック・ミュージアムに、

これまでに、いったいどれだけの人が来場してくれたのであろうか?

入場券には通し番号を打ってあるので調べてみた。

2017年6月の正式オープンから、これまでの入場者総数をチケットの半券の通し番号で確認したら「10,963」名であった。

プレオープンの時(2016.12.03)から本番までの半年間の入場者数をプレオープン用に作った半券のチケット通し番号で確認すると「1,666」名であった。これを合計すると12,629人である。

この他に無料で入場した人にはチケットを出していないので、正確な人数はカウントしていないが500名は下らないと思う。そうすると約1万3千人の方に観てもらったことになるだろう。

2016年12月3日~2022年10月30日までの約6年間(21ヵ月)で約13,000人である。月で割ると1ヵ月平均約620人になる。

しかし、途中、私が前立腺癌の治療の為に2ヵ月間(2017.9~10月)休館にしたり、2020年2月初旬から今日まで続いているコロナ禍によって、この3年間は、ほぼ休館状態に陥ったりしたことを考慮したら、全盛期には月に2,000人ほどが来場していたのでないだろうか?

あの賑わいが何だか遠い昔の様な気がする。

ルスツリゾートには、全国各地から小中高校の修学旅行生が年間で何万人も訪れるのだから、1年でこの人数を超えられるであろう。新たな展開に希望が湧く。


■2022-11-09-Wednesday 因縁?縁?

2022年11月7日と云う日には因縁を感じる。

父が生まれたのは昭和2(1927)年7月25日で、亡くなったのは平成4(1992)年5月2日である。満65歳の誕生日まで83日を残しての逝去であった。

私は、昭和33(1958)年1月29日生まれで、現在満64歳だから、11月7日は私の満65歳の誕生日まで83日前なのである。

つまり、私は11月8日まで生きていたから父の寿命を越えたことになる。

自分の今の生活を考えると、父は随分若くして亡くなったのだなぁと感慨深くなる。

そんな日にマジック・ミュージアムを閉館して、私が54年間に渡って蒐集したマジック関係の物品を他人に譲る搬出作業が始まったことに、何だか特別な因縁を感じるのである。

日本唯一の「手品博物館」であるマジック・ミュージアムを閉館するにあたって、譲渡先を当初は帯広市内で探したのであったが、帯広市役所から寄贈の申し出を拒絶されてしまい、やむなく北海道内の企業を探したことは以前にも書いた。

今回、ルスツリゾートを運営する加森観光㈱に一括無償譲渡を条件に引き取ってもらうことに決まったのであるが、加森公人オーナーと私との間には、共に「観光カリスマ百選」に選ばれたという共通点がある。「観光カリスマ百選」とは、日本政府の国土交通省等が日本の観光事業に功績のあった人物を日本中から100人選び出し「観光カリスマ」という称号(?)を与えて後身の指導にあたらせる役目を負わせた事業である。北海道からは私や加森公人さんを含めて最多の7人が選ばれている。因みに私は北の屋台を創った功績で選ばれた。

さらに加森氏の先祖は帯広で商売をしていたという縁もあるし、また、加森観光は新得町でベアーマウンテンなどの観光施設を運営しているから十勝にもゆかりのある企業であるといえる。

そう考えると、留寿都村と帯広市とは距離的には遠いけれども、心理的、縁的にはかなり近い存在とも言えるのではないだろうか?

帯広市内に残せなかったことのエクスキューズとしてはいささか強引かもしれないが・・・。

まんざら縁が遠いというわけでもなかろう。

マジック・ミュージアムの閉館日と、父の寿命を越えた日が重なったのも何かの縁であると考えることにしようと思う。


■2022-11-10-Thursday 梱包作業

マジック・ミュージアムの展示物などの

物品を梱包する作業を札幌通運の作業員6人がかりで7日からやっているが、やっぱりプロ集団である。

私が一人で9年間も掛けてコツコツと展示した4万5千点もの物品を6人がかりとはいえ、今日までで90%ほどを梱包し終えたのである。

明日の午前中には作業を終える予定であるという。

凄いスピードである。さすがプロ集団と感服した。

梱包作業をじっと眺めていたら、新聞社から取材の依頼が入った。

これだけの情熱と年月とお金を掛けたマジック・ミュージアムを手元から離すことの寂しさを取材したいという意向のようなのであるが・・・。

私としては、むしろサッパリとした感覚なのである。

心残りがあるとしたならば、せっかく蒐集して帯広に「日本唯一の手品の博物館」を作ったのであるから、地元の帯広の観光資源として活用させたかったという思いが強かったことくらいであろうか。しかし、それも、帯広市からの素っ気ない対応によって、その未練が奇麗サッパリと無くなったからむしろサバサバした感覚になったようである。

ルスツリゾートに移転させた方が、マジック道具などを寄贈してくれた方々の遺志にも報いることになると思うのである。

日本のマジック界の発展にも寄与できるのではないかと思う様になってきた。

マジックに対する夢が、むしろ拡がった様に感じている。


■2022-11-11-Friday 梱包作業完了

予定通りに11日の正午で梱包作業が完了した。

搬出作業というのはまた別な作業員の仕事になるのであろう。

日を改めてトラックで運び出すと言う。

いったい何台のトラックで運搬するのかを聞いてみたら、10tトラック2台と4t半トラック3台くらいにはなりそうだと言う。

確かに、梱包を終えた段ボールの山などを見ると、上手に積んでも優にそれくらいの台数は必要であろうと思う。

ルスツリゾート側が、今回の梱包作業、搬出作業、運送費用、再展示費用、更に博物館の修繕、内装工事費用、空調設備・モニターなどの新たな設備に掛かる費用など等の諸費用を全て負担する契約になっているのだが、いったいいくら位の金額が掛かるのであろうか?

その金額を、私は聞いていないが、ザ~ッと大雑把に推測してみても、半端ない金額であることだけは間違いないであろう。

それだけの費用を掛けて引き取ってくれて、しかも、これまで以上の展示方法や運営方法を検討しましょうと言ってくれるのであるから、ルスツリゾート以上の引き取り主なんて、日本中探しても他に居ないであろうと思った。

むしろ最高の引受主を見つけたのかもしれないと思う。

これをきっかけに日本のマジック界にも新しい展望が開けるように、私も尽力していきたいと思う。


■2022-11-12-Saturday 同じことの繰り返し

日本政府のコロナ禍対策は

相も変わらずに同じことの繰り返しである。

もう言及するのもアホらしい。

これまでに私は何度同じことを書いてきたのであろうか?

指定感染症の2類相当にしたままで、経済対策をやったところで、二律背反で混乱をさせるだけである。国民を心身ともに疲弊させ、ムダ金を使わせることが分かっていない。

以前にもコロナ禍は「人災」であると書いたが、もうこれすら通り越している。

優柔不断を絵に描いた様な岸田首相に5類に下げる決断を望んでも無駄なのであろうなぁ~。

バカバカしくてこれ以上書く気にもならない。


■2022-11-14-Monday ロサンゼルス

ロサンゼルスに戻った島田晴夫師夫人の

キーリーさんからメールが届いた。

私がマジック・ミュージアムの展示品を全て寄贈するルスツリゾートを運営している会社の加森観光㈱のオーナーが、今回の移転プロジェクトの担当者数名を連れてアメリカに出張するのであるが、途中、ロサンゼルスの島田晴夫師邸に寄って島田師のマジック道具の多寡などを確認する予定なのだと言う。

キーリーさんは日本語が堪能ではないから、通訳にロサンゼルス在住の日本人マジシャンで、今年カナダのケベックで開催されたFISMというマジックコンベンションのコンテスト部門で日本人初の優勝を飾った緒川集人(おがわ しゅうと)さんに依頼したというのである。

これは凄いことだ!

緒川集人さんは、10月17日に東京の如水会館で開催された「島田晴夫師を偲ぶ会」にもアメリカから駆け付けてキーリーさんの通訳を買って出てくれた。彼も島田晴夫師を尊敬しているし、何より、現在の世界一の日本人マジシャンであるから最高の人選である。

島田晴夫師邸の後は、一行をマジック・キャッスル(緒川集人さんは理事)にご案内して、そこでクリストファー・ハート(マジシャン:映画「アダムスファミリー」の中で手首だけで動きまわる「手」の役を演じたマジシャン)ら数名のキャッスルに出演しているマジシャンらと同席するが、そこでも緒川集人さんは通訳をしてくれるという。

なんと素晴らしい!

それなら私も同席したい!

今回のロサンゼルスで加森観光のご一行さんが、マジックファン、そして島田晴夫ファンになってくれたら嬉しいことである。


■2022-11-19-Saturday 交通事故

福島市で車が歩道に乗り上げ、

車3台に衝突し、歩行者を撥ねて死亡させる事故があった。逮捕された運転手の年齢が97歳だとというニュースが報道された。

聞いていて、エッ!と耳を疑った。運転手が97歳だって?

まさか!

追突された車の同乗者には100歳の人もいるという。

驚くとともに恐ろしくなった。

日本は高齢化社会ではあるが、97歳の老人が車を運転をしているという事態にである。

この97歳の運転していた老人は、はたして普通に自分だけで歩ける健康体なんだろうか?認知症などは発症していなかったのであろうか?

ひょっとして、杖とか歩行器とか介助無しではまとも歩くことも出来ない様な状態だったのではないのだろうか?

もしも歩けないから、移動の際に車を運転していたのだとしたら・・・。

普通に歩道を歩いていただけの人が、ひき殺されたのだとしたら救われない事故である。

運転していた老人の責任はもちろん最大であるが、運転を許していた家族、そういう状況を知りながら対策を取らない行政や国などの責任も大きいのではないか。

被害者家族の怒りのやり場もないだろう。

歩道を歩くにも周囲に気を配りながら歩かなければならないのだとしたならば、たたでさえコロナ禍で外に出づらくなっているというのに・・・。


■2022-11-20-Sunday 十勝石が国宝?

黒曜石の石器類が国宝に指定されそうだという。

昨日の北海道新聞の一面トップ記事に扱われていた。

北海道の遠軽・白滝地方の遺跡群から出土した後期旧石器時代(約3万年前~1万5千年前)の黒曜石などの石器類を国宝に指定するように、国の文化審議会(会長:佐藤信東大名誉教授)が永岡桂子文部科学大臣に答申したのだという。来春にも正式に指定されるもようである。

旧石器時代の遺物の国宝指定は初めてのことで指定されれば日本最古の国宝となる。

北海道からの国宝指定は2007年の中空土偶(函館市)に続いて2件目だという。

へぇぇ~、石器が国宝にねぇ~。なんだかあまりピンとは来ないがなぁ~・・・、黒曜石は北海道では「十勝石」と呼ばれる方がシックリくる呼び名である。

この「十勝石」と云う名称は、江戸時代に蝦夷地探検をした松浦武四郎が命名したものであるが、その名称の普及には、我が祖父の坂本勝(かつ)が大きく貢献しているのだ。

勝は明治34年に山梨県から単身、下見に来道し、明治36年に自身の名前の一字が入った「十勝」を気に入り、現在の池田町凋寒(しぼさむ)村(利別)に移住してきた。

北海道を下見に来た理由というのが、山梨県の甲府市で印鑑屋の修行をしている時に、北海道から黒曜石が沢山運び込まれたのを見たからだ。

北海道にはこの黒い石がそこら中に転がっていると聞いたからである。タダで手に入る印材が辺り一面に転がっているならば大儲け出来ると考えたのかもしれないなぁ(笑)

山梨県北巨摩郡の狭隘な山間部に住んでいた勝が、十勝平野に下見に入った時に、この広大で真っ平らな土地を一目見てすっかり魅了されたのだという。

黒曜石は「ガラス製火山岩」で貝殻状に欠け易い性質があるので「印材」としては不適格であったが、風鎮(掛け軸の重り)や硯(すずり)や達磨の置物などに加工して販売することにして「坂本勝玉堂」を開業したのであった。

明治38年の釧路−札幌間を結ぶ鉄道が帯広まで延びた時に、これからは池田よりも帯広の時代になると確信して帯広町西2条南4丁目20番地に移転してきたのであった。

この店舗の屋根には大きく「十勝石細工」の看板が掲げられた。

勝は十勝石細工の普及に努め、全国各地の名産品展などに積極的に出品して歩いたのである。

札幌の南2条西3丁目にも支店を構えて全道中に「十勝石」を名産品として認識させたのであった。

以来、北海道では「黒曜石」という名称よりも「十勝石」という名称の方が通り名となったのである。

そんな十勝石(黒曜石)が、国宝指定で再び脚を浴びるチャンスが訪れるかもしれないなぁ~と思うと密かな期待を寄せずにはいられない。

我が家の倉庫には、まだ十勝石が大量に眠っているからだ。


■2022-11-21-Monday ビルディング協会解散

帯広ビルディング協会の最終総会が

はげ天で開催された。

ビル協は1978年1月に17社の加盟で設立されたからほぼ50年、半世紀の歴史がある。最大加盟社数は37社になったこともあったが、現在の加盟社数はわずか9社に減っている。

私は2008年に4代目の会長に就任したが、その時すでに加盟社数が12社ほどに減っていて存在理由が失われていたから、会費の徴収を止めて、溜まっていた資金を使い果たしたら解散することを決議していた。

本来であれば2年前くらいに使い切る予定であったものが、このコロナ禍によって活動が出来ずにいて解散が遅れていたのである。

区切りの良い50年になる今年一杯には解散しようと今年の6月7日に地震予知研究の第一人者である東海大学教授であった長尾年恭氏を招聘して講演会を開催したのであったが、まだ資金が残っていたのであった。

そこで、本当に最後の解散総会にはコロナ禍前の2019年にビル協で招聘して大変好評だったマジシャンのスペンサー・トリックス氏を再度招聘して

最後に楽しいマジックを堪能して解散しようとなったのであった。

加盟各社に案内状を送付したところ9社中8社が参加しての開催となった。

スペンサー氏の不思議なマジックとはげ天の料理を堪能し、明るく楽しい解散総会でビル協50年の歴史に幕を降ろしたのであった。


■2022-11-22-Tuesday 本の整理

私は読書が大好きだ!

ほとんど「活字中毒患者」と言っても良いくらいである。

常に何某かの活字を目にしていないと落ち着かないのである。

しかも、気に入った本は何度も読み返すので、図書館で借りたりはせずに購入して手元に置いておきたくなるのである。

だから、自宅も会社も本で溢れ返っているのだが、会社の書庫に置いてある本を整理することにした。

半年ほど前に、帯広市の図書館に全部寄贈しようとしたのだが「十勝関係の本以外は受け付けない」と拒否されたので、十勝関係の本のみを帯広市図書館と百年記念館に寄贈したのであったが、今回処分するのはその残りの分である。

残りと言っても、その数はざっと1万冊くらいはあるであろう。なにせ、10畳間程の書庫に、所狭しと並べてある本棚が14本もあって、その内の8本くらいがまだ残っているのである。

後輩で本好きな者が居るとの情報があったので、無料で差し上げるから段ボール箱持参で取りに来ないか?と打診したのである。

何人かは数百冊ほどは持って行ったのだが、まだまだ残っているのだ。

もう誰でも構わないから本好きな人に読んでもらいたいと願っているのだが・・・。

その本の整理をしていて、山本夏彦翁の文庫本が数冊目に留まった。パラパラとめくってみたら、これが面白い。

山本翁が50年以上も前に描いた文章なのであるが、今、再読しても面白いのである。

私は今、数年振りに歯医者に通っている。昔の歯医者とは違って予約制になっているから、昔ほど待ち時間は長くはないのであるが、それでも診察を待っている間に読む本としては最適である。4冊ほどを自宅に持って帰ったのであった。

これだから本が減らないのだなぁ。

昨日、とある出版社から電話が入った。私が18年程前に書いて出版した「北の屋台繁盛記(2005年メタブレーン社刊)」という本を国立国会図書館で見かけて拝読したら感動した。電子書籍として再出版しないか?というお誘いの電話である。

体の良い自費出版の類の誘いである。

私は読むのも好きだが書くのも好きである。

しかし、北の屋台を辞めてから15年も経つのであるから、今更、出版したところで、私には何のメリットもない。それどころか電子書籍化するのに数十万円を負担して欲しいと言うのである。即座にお断りしたのであった。


■2022-11-24-Thursday W杯サッカー

昨晩22時からNHKテレビでW杯サッカーの

日本対ドイツ戦を観戦していた。

試合開始からまだ数分後であったろうか、前田がゴールを決めて日本が先制したかに見えて興奮したのだがオフサイドの判定で得点は無効となってしまいガッカリした。

その後の試合はドイツが90%ほどもボールを支配していて、30分後くらいに日本のゴールキーパーのファールでフリーキックがドイツに与えられて1点を取られた。

その後もドイツによるボール支配が続いていてドイツに2点目が入ったかと思われガックリきたのであったが、そのゴールはオフサイドの判定で無効点となった。が、しかしフラストレーションは溜まる一方である。

何とか前半は1点の失点で済んだが、このままではボコボコにされるのではないかと思って、後半は観ずに寝ることにした。

朝早くに起きてすぐにテレビを点けたらば・・・

ナント日本が2対1で勝利したと大騒ぎしているではないか!

エッ~ツ! あの状態で日本が勝ったの?

森保一監督はどんな魔術を使ったのだろう。

こんなことならあのまま試合を観てれば良かったなぁ。睡魔に負けた我が身の不明を恥じるなぁ~。

負けるよりは勝った方が良いに決まっているが、こりゃ~これから日本中がサッカーで興奮するのだろうなぁ~。

しばらくはサッカーで日本が盛り上がりそうだ。W杯から目が離せなくなってしまった。次のコスタリカ戦に勝てばほぼ間違いなく決勝トーナメントには進出が出来るであろうから、このまま頑張って欲しいものである。何だか面白くなってきたぞ!


■2022-11-27-Sunday W杯コスタリカ戦

負けた~!残念!

FIFAランクで日本より下のコスタリカに1対0で負けてしまった。

まさに森保監督がドイツ戦の後で言っていた「一喜一憂するな!」だよね。

試合前になんとな~くこんな風に負ける様な気がしたんだよね~。

サッカーの大激戦地である中南米から勝ち上がって来たチームなんだからそんなに弱い訳がないじゃないの。スペイン戦の7失点によって日本チームはコスタリカをなめてしまったのかもね。

私の主観にしか過ぎないけれども、なんか若い選手らの中にはコスタリカを格下と見下しているような感じがしたんだよなぁ~。

日本の攻撃が単調だったよね。ドイツ戦に勝った(てしまった)高揚感から完全に抜け出ていなかったような感じがしたなぁ~。

単調な攻めと決定力不足でなかなか点が取れずに、段々と焦りが出てきて、守りでちょっとしたミスをして、そこをつかれて負ける・・・、

これは日本チームにありがちな負けるパターンだよね。

シュート数が日本の14本に対してコスタリカはわずか4本、しかもゴールの枠内に入った唯一の1本が決まってしまった!

この後の、ドイツ対スペイン戦の結果が気になるけど、日本がコスタリカに負けたことで、ドイツにも決勝進出の目が出てきたから、ドイツのヤル気が出るかもしれないぞ。こりゃぁ~日本は強豪スペインに絶対に勝たなければ決勝には行けないだろうなぁ~。

かなり厳しくなってきたなぁ~。このコスタリカ戦の敗戦は寝た子を起こしてしまったかもしれないぞ。

きっと、これからにわか日本人サポーター達は、敗戦の犯人捜しをするんだろうなぁ~。

ドイツ戦で絶賛された森保監督の采配だって、批判の的になるかもしれないぞ!

この数日間で、日本人の気持ちはジェットコースターの様に上っては、急激に下ってしまうのであろうなぁ~。

夕方の大相撲も予想通りに高安が負けたしね。高安の蚤の心臓という評価はまたもや覆せなかったなぁ~。

阿炎の現代っ子みたいな気質が、高安に少しでもあったら良いのになぁ~、もう本割の時から、なんだかバタバタしていたものね。あれじゃぁ決定戦でも勝てないよ!

もう、トラウマになっちゃったかなぁ?

巴戦というのも、戦ってすぐの貴景勝には酷だったよね~。貴景勝はもともと普段から呼吸が苦しそうだものね。まだ息が上がっていたしなぁ~。

だいぶ前に戦いが済んでいた高安と阿炎は休息が出来ていただろうしね。

くじ引きで、先に、再度、高安ー阿炎戦になったのは、貴景勝には多少は休む時間が出来たけど、阿炎が立ち合いに変化して高安に勝ったから、貴景勝は逆に突っ込めなかったようで、ここが勝負の綾だったよね。

大相撲は下剋上の様相を体してきたなぁ~。


■2022-11-28-Monday JCOB会

W杯サッカーE組は

ドイツとスペインが1対1で引き分けた!

こりゃぁ~マズイぞ!やっぱりドイツは、日本がコスタリカに負けたことで、決勝進出の目が残ったとヤル気を出してきたんだなぁ~。これで最後の最後まで分からなくなってしまった。

夜に帯広青年会議所のOB会の「さよならパーティー」が北海道ホテルで開催されたので出席してきた。

一昨日の十勝毎日新聞に「坂本ビル手品博物館 閉館」の記事がデカデカと載っていたものだから、皆から「寄贈するなんてモッタイナイねぇ」とか「帯広市は寄贈を断ってきたのかい?」とか「良い引き受け手が見つかって良かったじゃないの」とか言ってくれる。

JCの同僚たちで、ともにまちづくりをやってきたメンバーだから、私が帯広市に文化財として残したかった気持ちを分かってくれていると思う。

以前にもこのブログに帯広市の文化度の低さを嘆いた文章を書いたので、再度書くと気分が悪くなってしまうばかりであるから割愛するが、帯広市は文化を理解していないと嘆きたくなってしまう。

若い頃(35年ほど前)から帯広の将来を憂えいて、真剣にまちづくりを考えてきたからこその意見が、酒の勢いも手伝って盛んに交わすことが出来たのであった。

これから帯広って街はいったいどうなるのであろうか?

平らで広大な十勝平野の中心都市帯広市、遮る山が無く、大きな川は十勝川と札内川くらい。だからなのだろう、街を無計画にむやみに広げ過ぎてしまった。

冬には日本海側に比べて少ないとは言いながらも雪は積もる。除雪の費用は?、上下水道、ガス、電気、などのインフラの設置は?補修は? 中心街の衰退は? これから先どうするのであろうか? 

街の拡張とともにこれらをドンドンと広げてきたが、帯広市の人口が増えている訳ではない。逆に減っているのに・・・。

メンテナンスにも費用が掛かるし、昭和30~40年代に造られたものはもう寿命が来ているであろうから、作り直す必要もあるだろうに・・・

かつて、吉村博市長が昭和40年代に唱えた「帯広の森構想」。これには当初は「成長限界線」としての意味付けがあったはずである。私はそう習った。

しかし、現在の帯広市役所では「帯広の森は成長限界線ではない」と主張している。自らの政策に矛盾が生じたからであろう。

人口が右肩上がりに増えているのならば、街を拡げる意味もないわけではないと思うが、しかし、この20年間は人口がずっと減っているのである。

あぁそれなのに・・・

世界では今SDGsがさかんに言われているが、私はJCで1992年から地球環境問題を言っているし、行動もしてきた。

地球環境を考える「国際環境大学」の創設を提言したし、実行するための組織「十勝環境ラボラトリー」も作って活動してきた。中心街活性化を研究し提言を帯広市と商工会議所にしたし、「北の屋台」も作った。

だが・・・。

1992年当時「エコロジーとエコノミー」は言葉は似ているが相容れない考え方であると言われていた。あの当時の頭のまま成長していない連中の頭の中身は今でもまるで変わっていない。

私は結局この約35年間はいったい何をやってきたのであろうか?

同年代の共にまちづくりをやってきた連中と話していても虚しさだけが拡がっていく。

もう虚無感しか残っていないなぁと感じたのであった。


■2022-11-29-Tuesday 迷惑駐車

先週からここ毎日、

マジック・ミュージアムの展示品や什器類などの搬出作業を行っている。

今日は午前中からトラックやボンゴ車が数台、我が社の駐車場(坂本ビル東側)に停めて車に荷物を掲載する作業をしていた。

私は昼食前に自宅に置いてある物を搬出する作業に付き添うために一旦自宅に車で戻り、搬出作業を済ませて12:05には会社の駐車場に車を入れようと戻って来たら・・・。

会社駐車場の出入口のど真ん中に、トヨタの水色のアクアがデンと停まっていて駐車場の中に入ることが出来ないのである。

私はその車のすぐ後ろに駐車して、銀座通りの道路上に停めてあるボンゴ車の中で昼食を食べている作業員に「この車の持ち主を知らないか?」と尋ねて回ったのであるが、誰も知らないという。かくいう彼等も不法駐車である。我が社の隣のビルの改修工事を請け負っている業者なのであろうが、荷物の搬出入作業の短時間ならばまだしも、駐停車禁止の路上に停めて車中で昼食を食べてるなんて・・・。

辺り一帯を運転手を探して歩いたが見当たらないので、警察署に電話して警官を呼び出したのである。

15分ほどしてからパトカーが2台やって来た。時刻は12:30を過ぎている。

事情を説明している間に13:00になったので、我が社で作業している職人さんたちがトラックで戻ってきたが、駐車場には入れない。テナントの人も入れなくて近所の有料駐車場に停めに行った。

警察官はパトカーで町内を何周も廻り「水色のアクアのナンバー〇〇〇〇の運転手さん、駐車場の出入口に停めていて皆が迷惑しています。至急移動させてください」とスピーカーで何度も流すも一向に運転手らしき人は現れない。

我が社で搬出作業をしているトラックが我が社の駐車場に入れなければ作業が停滞してしまう。まことに迷惑千万な話であるし、テナントさんは駐車料金という金銭的にも直接に損失を掛けていることになる。

かれこれ1時間以上の時間が経って頭に来たから、警察官に「この運転手を駐車違反や迷惑駐車で取り締まって」と文句を言った。

車の中を覗いたら(お薬手帳)らしき物が見えて名前が読める。警官に言ったら、すぐ本署と連絡して名前を照会したようだが、連絡が付かないと言う。警察官が車の周囲を点検したら、車の左側に新しく何かにこすった様な傷が付いているし、後方には縁石にぶつけてバンパーが外れかかっている。どうやら運転があまり上手い運転手ではなさそうだ。

警察官が助手席のドアに触れたら、ドアが開いた。無施錠で停めていた様だ。私が「ドアが開いたのなら、ギアをニュートラルにして押してズラしたら良いのではないか?」と言ったら「それは止めた方が良い。もし勝手に動かして、後から車の調子が悪くなったと相手から訴えられる可能性もあるから」と言う。「それならばレッカー移動は出来ないのか?」と言ったら「帯広ではレッカー移動は出来ない」と言う。

警察官の一人が「ひょっとして、老人が車をぶつけて、気が動転して車をここに置き去ったのかもしれない」と言い出した。更に「ひょっとして、どこかその辺りで倒れて病院に救急搬送されたのかもしれない」などと言い始めた。すぐに本署に確認を取ったが、そういう救急搬送は無いとの返事であった。どうやらこれは警官の思い過ごしの様であるが、最近のニュースを見ていると老人ドライバーの事故が多いからなぁ~。

やがて2時間が過ぎた頃、運転手が3軒隣のビルから出て来た。

警察官やパトカーが自分の車の前に居るのを見て「アッ、ここに車を停めていたのを忘れてた」とフザケタことをサラッと言うので、頭に来て「フザケルナ!駐車場の出入口に2時間以上も停めて、いったいどれだけの人達が迷惑を蒙ったと思っているんだ!」と怒ったのである。

とてもムシャクシャする出来事であった。


■2022-11-30-Wednesday きれいさっぱり

先週から開始していた

マジック・ミュージアムの展示品や什器備品などの搬出作業が、今日の15時で全て終了した。

思い起こせば・・・

1994年に横浜で開催されたFISMマジックコンベンションに出席した際に、マジックの師匠であったジミー忍師の姿を見つけることが出来なかったので、師匠に電話をしたら、身体の具合が悪くて外出できないから見舞いに来いとのことで、東京都世田谷区の師匠夫妻が経営するマジックバー「魔法の小箱」に駆け付けたのがそもそもの始まりであった。

「空気のキレイな場所でゆっくり静養をしたいから北海道の坂もっちゃんの所に招待してくれないか」と言うのである。

学生時代の4年間に渡って世話になった師匠の頼みであるから喜んで引き受けたのであった。

その年の秋に夫妻に2週間ほど十勝の温泉ホテルや自宅に泊まってもらってゆっくりと静養してもらったのである。

我が家に泊まった際に、私のマジック書籍のコレクションを見せたらば「マジック文化を後世に伝える為にマジック博物館を作るのが私の夢なんだ。その為に展示する物も今集めている。それと坂もっちゃんのこの本のコレクションを合体させたら十分な展示品になる」との夢を語って聞かされたのであった。

師が帰京する前日に、お礼として我が家で私の友人や家族らにマジックを披露するというのでマジックパーティーを開いたのだが、演技の途中で師匠が急に「マジックが出来ない」と言う。「パーム(掌に密かにタネを隠し持つ技法)している感覚が無い!」と言い出したのである。

師匠に「東京に戻ったらすぐに大きな病院に行った方が良いですよ」と忠告したのであった。帰京後すぐに師匠夫人のマコママから電話が入り「脳腫瘍と肺癌が見つかった」との報告があった。

1995年になって何度か東京にお見舞いに行ったが、マジック博物館を作って欲しいとの夢を私に訴えながら、5月に51歳の若さで逝去された。

未亡人となったマコママが、師のマジック博物館を作るという夢を叶えて欲しいこれは遺言だからと師匠の集めた物を私の所にドンドンと送ってきたのである。

しかし、当時の私は自身の家業やまちづくりや環境問題などに忙しくてマジック博物館を作る時間的余裕がまったく無かったので、自宅の一室に保管するだけであった。

2007年3月末でまちづくり事業を離れたことで時間的にも余裕が出来たことから、まずはマジック関係書籍の整理を開始して坂本ビル内に「マジックライブラリー(図書館)」を作った。この時点ですでに6千冊以上ほどの本を所持していたのである。

自宅に保管していたマジック道具類や資料一式も全部、坂本ビルの3階の空スペースに運び込んで、ブルーシートやテーブルの上に広げて分類作業を開始したのであるが、あまりにも量が多くて、まずは書籍の分類に特化したのであった。

2012年6月に東京出張の際に、ジミー忍師の亡き後、マコママが一人でやっていた世田谷の「魔法の小箱」を訪れたら「身体がしんどくなってきたから、もう店を閉めるので、店に飾ってあったマジック関係の道具などを全~部、坂もっちゃんのところに送るからマジック博物館よろしく頼むでぇ~」と言って段ボール箱が次々と送られて来たのであった。

ちょうど、同じ時期に、高校の同級生の植田君に同窓会で会ったら、彼の亡くなった父親のマジック道具の処分に困っているから貰ってほしいと依頼されたのである。

隣町音更町のご自宅に引き取りに行ったら、トラック1台分の荷物があったのであった。

これは、天から私にマジック博物館を作りなさいとの天啓であろうと思ったのであった。

それから、毎日毎日、コツコツと分類作業をやり続けた。午前中は会社の仕事をし、午後から毎日3~4時間ほど分類作業をするのである。

これがマジックに無関心な人にはまったく理解不能であろうが、私には至福の時であった。

コツコツと日々分類作業をやっていたら、2016年になって、マコママから「いったいいつまで掛かっているんやぁ~、私の寿命も考えてくれんと、完成する前に死んでまうでぇ~」とせっつきの電話が毎日の様に入るようになった。その内に「手伝いに行こかぁ~?」となってきたのである。

まだ分類作業は半分も終わっていないというのに・・・

こりゃぁ~拍車をかけるしかないと、毎日の作業時間を5時間以上も費やしたのである。

すると10月になってマコママが「12月3日は奇術の日というのは知ってるよね? これはジミーさんが考えて日本奇術協会の松旭斎すみえさんに提言して始まったものなんよ!(このいきさつは以前にブログに詳しく書いたからここでは割愛する)この日に開館する目標で行こうや!」と言うのである。

とても間に合わないと言ったのだが、手伝いに行くから飛行機のチケットを送ってほしいとまで言う。

言い出したらきかない人だから、むりくりに一応の恰好だけはつけて「セミオープン」という形で見切り発車したのであった。

まぁ、マコママにせかされた形にはなったのだが・・・

正式オープンは半年後ということにして施設を充実していった。

日本初、日本唯一の「マジック博物館」のオープンであるから、新聞やテレビなどで何度も報道された。すると全国各地の、マジック道具のやり場に困っている方々から連絡が入り、マジック道具が大量に送られて来たものだから、またたく間に数も種類も増えていって、展示品は3万点以上に、書籍類も1万5千冊以上にもなったのである。

私一人では整理が追い付かずに、段ボール箱に入れたまま倉庫に保管してあったモノも多数あった。

それらの全てが、今日きれいサッパリと目の前から消えて無くなった!

これぞまさしく世紀の消失マジック、瞬間移動マジックである。

今後は、これらマジック道具や書籍や資料が、私の所に展示してあるよりも、もっともっと有効に活用できるルスツリーゾートに移転する。

来年9月1日のオープンを目指して準備していくことになっている。

マジック道具たちに新しい息吹を与えたい!

それをこれからの余生の楽しみにしよう。