これまで初代の引田天功師というのがマジック界の定説であった。
私もそう思っていたのだが、昨日、ヒョンな事から、ひょっとするとその定説が覆るかもしれない事実が出て来たのである。
1991年1月31日(木)深夜(というよりも2月1日といった方が日付的には正しいが)に日本テレビで放送された「バカヤローは愛の言葉!」という泉谷しげると吉田建がMCをしている番組があった。それにゲストとして登場した当時の聖忍(ジミー忍)師の紹介VTRの中に「1967年大阪扇町プールで手錠を掛けられ、麻袋(?)に入れられた状態からの水中脱出」の写真映像が写っていたのである。
テレビのナレーションをそのまま忠実に再現すると「まずは1967年大阪の扇町プールで事件は起きます。なんと手錠を掛けたままの男が水中からの脱出に成功したのです。この男こそ、そう当時の聖忍。このあまりにも危険なマジックは、その後の引田天功に多大な影響を与えたのです。・・・」と言っていた。この1967年という年が問題なんである。
何故なら、初代引田天功が手錠を掛けて海中から脱出するのは1年後の1968年のことだからだ。
1968年7月18日に三浦海岸デートビーチにおいて引田天功が行った海中大脱出の模様を、日本テレビの「紅白なんでも合戦」という番組で「引田天功、決死の海中大脱出」という特番が放送されたのである。
(放送日はハッキリしないが、日本テレビの木曜日の19:30〜20:00の番組で、この前の19:00〜19:30まで放送された青島幸男の意地悪ばあさんのタイトルは「ノイローゼの巻」というところまでは判っている)(これは1996年に日本テレビで放送された「驚きもものき20世紀 引田天功・魔術師の虚と実」という番組の中に写し出された新聞のテレビ欄をストップモーションにして調べたもの)
早速、ジミー忍師の未亡人(マコママ)に電話して確認したところ、1967年の大阪の扇町プールの脱出の前に、中の島公園でやった水中脱出があるのだと言う。その演技を見て、扇町プールでやらないか?ということになったのだそうだ。その時の新聞の切り抜きが何処かにしまってある筈だから探してみる。とのこと。
今まで、日本に於ける「脱出マジックのパイオニア」は初代引田天功師で、それを弟弟子のジミー忍師が後を追い掛けて行ったのだと思っていたのだが、どうやら事実は逆のようなのである。
若いジミー師(1943年生)が先行していたのを、兄弟子の天功師(1934年生)が実を取ったというのが本当らしい。
そういえば、確かにジミー師は研究熱心で書籍やビデオも沢山持っていたが、天功師がマジックの研究をしていたという話はあまり聞かない。
ジミー師は、ファィアー・シンブルなどのオリジナルなマジックを沢山世に送り出しているし、宝石出しや動物出しなどのオリジナルマジックでも他のマジシャン達に多大な影響を与えていたからなぁ。
そうなると日本の脱出マジックのパイオニアはジミー忍師ということになる。
マコママから資料が送られて来たらもっと詳しく調べてみることにしよう。
調べものというのは実に面白いものだ!