«前の日記(■2010-12-19-Sunday) 最新 次の日記(■2010-12-21-Tuesday)»
 | トップ |  | ビル概要 |  | テナント構成 |  | 沿革 |  | アクセス |

観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-12-20-Monday マイヒストリー37

北の屋台を開業(2001年7月29日)してから

やたらと忙しくなり、家族サービスもできなくなった。

長女がフィギュアスケートを勉強する為に仙台の東北高校に入学していたが、正月には帰郷できないというので、2002年12月30日から家族が仙台の秋保温泉に行って正月を迎えることにした。正月を帯広以外の地で迎えるのは初めての経験である。

2003年1月2日に一旦、帯広に戻って新年の挨拶回りをしてから、今度は7〜9日まで次女と長男と妻を連れてディズニーランドに行ってきた。ディズニーシーに行くのはこれが初めてである。北海道の学校の冬休みが長いので、北海道人向けのツアーがあったからこれに参加したのだ。

北海点字図書館の後藤健市君が仲間たちと冬の畑の有効活用を目指して、雪で埋もれた畑の真ん中にビニールハウスのレストラン「スノー・フィールド・カフェ(SFC)」をオープンさせた。雪が積もらなければ畑の中に入れないし、雪が溶けたらまた入れなくなるから、12月末〜2月末頃までしか営業できない。保健所の許可を得るのに、北の屋台の経験を生かして欲しいとの要請でアイデアを出し、一緒に保健所にも通った。

後藤君からは、最初、雪の畑で遊ぶ為のスノーモービルを買ってくれないかとの要請があった。中古なら30万円程度で売っているから、それを買って貸して欲しいと言うのだ。一緒に見に行ったらもっと値段が高い上位機種のモノが良いとのことになったが、結局、何だかんだでこの話はご破算になり、現金で100万円出資して欲しいという方向に変わって行った。これが「地遊舎」という会社を設立することに繋がっていく(後で詳細を書くのでここでは書かない)。

北の屋台は街中であるから、上下水道・ガス・電気が設備されているので、飲食店の営業許可をもらって営業している。しかし、SFCは畑の真ん中だから、上下水道・ガスもないのだ。こちらの方がはるかに難しいのである。なかなか保健所もOKをくれないのだ。何度か後藤君と一緒に保健所に通う内に、スキー場のロッジのことを例にして、あそこは上下水道やガスの設備が無くてもカレーライスやラーメンを提供しているではないかと気が付いたのだ。保健所も検査をした場所の水をタンクで運び、排水はまた別なタンクで運ぶ等などの処置でようやくOKが出た。ここでも、なかなか面白い経験をさせてもらった。

2003年も視察や講演で忙しい。ほとんど毎週のようにどこかに出掛けていた。

K理事長が責任を持つからと、北の屋台の空いていた場所で2001年10月末から熊本県出身のS青年にやらせていた屋台は失敗してまた空き店舗になっていた。その後を、イベントなどに臨時に貸していたが、5月8日に「串のやっさん」が正式に開業し、ようやく20ブース全店舗が埋まったのであった。

しかし、この直後にK理事長(当時)の横領事件が発覚した2003年5月から北の屋台の倫理観がオカシクなってしまったと感じた。

2003年5月初旬に通常総会を開催し、K理事長を再任したばかりだったのに、その直後にこの横領事件が発覚したから、5月中旬に、再度総会を開催して、K理事長を専務理事に降格し、新理事長にS氏を選任した。このS氏は「理事長は引き受けるが、俺の名前は一切出すな!」と難しいことを言う。「新聞などに載る時には、どうしても北の起業広場協同組合S理事長という肩書で載ってしまう」と言ったら「それぐらいは仕方がないが、あまり自分の名前が表にでないように」と言うのだ。更に「Kがお金を盗んだのは給料が安いからだ。だから給料を増額してやれ」と言うのである。

仲間内の妙な倫理観で動けば、他の人たちに示しがつかなくなってしまう。しかし、理事会の決議は多数決で決められるから、私一人が反対しても通ってしまう。

一緒に働いている2名の女性事務員も書記としてこの理事会に出席していたが、この結論には呆れていた。専属の理事長としての仕事らしい仕事もしないで、昼間はどこかに出歩き、夜は夜で北の屋台で飲んだくれてタダ酒をせびっているだけである。それでも女子事務員の2倍以上の給料を取っていたのに、更に増額しろと言うのだ。ムチャクチャである。

こんな事をしたら、他の職員は真面目に働く意欲も失せてしまうだろうと思う。

だって、そりゃ〜そうだろう、どこの世界に悪事を働いたのに昇給するシステムがあるというのか。(つづく)