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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2010-12-21-Tuesday マイヒストリー38

この2003年5月のK理事長(当時)の組合の金の着服事件以来、理事の関係がぎくしゃくしてきた。

「十勝環境ラボラトリー(TKL)」は、大学教授らが運営していた「文化科学高等研究院」の支援を受けて活動を開始したが、設立当時(1996年3月)に、教授らのリーダーである山本哲士信州大学教授(当時)が「この活動は6年間で一応の総括をして、継続か否かの決定をしよう」ということで始まった経緯があったので、この2003年がその6年目にあたっていた。

存続か解散かを決定する総括の会議で、S会長が「解散するのはモッタイナイ。せっかく北の屋台という事業が注目をされているのだから継続しよう」と発言し、その方向で一応4年間の継続をすることになったが、そんな時にTKLの主要メンバーであるT氏とS氏の会社が倒産してしまった。2人ともTKLには金銭的にも活動的にも随分と協力をしてくれていたメンバーである。

当時のTKLの活動は「北の屋台」を生み出したことで、忙しくなり過ぎていた。

同時に9つのプロジェクトを実施していたが、2人が抜けたことで、その実態は私と2人の女性事務局員とでほとんどを運営するに等しかったのである。会長以下副会長は医者と歯科医師だし、他のプロデューサーという立場にある人間も名ばかりで、ほとんど仕事らしい仕事をしていない状態なのだ。

結局、私の身体は一人分しかないので、TKLの活動は大幅に縮小せざるをえなくなったのだ。

ずっと継続してきた「国際環境大学公開講座」は2003年6月:相原正明(カメラマン)・9月:森沢典子(ジャーナリスト)の2回だけしか開催できず、その後は2005年6月に再び相原正明さんを迎えて通算80回で終了となってしまった。

「新聞紙上セミナー」は掲載をし続け、3月末には2冊目となる「まちづくり・ひとづくり提言集VOL2」を発刊したが、TKLとしての活動はこれでほぼ終わったなぁと感じた。

そんな時期に、先に書いた「スノー・フィールド・カフェ(SFC)」を仲間と運営していた後藤健市くんから、TKLで中心的に活動していたメンバーに、会社を作って運営して欲しいという協力要請があった。それで作った会社が「地遊舎」なのである。

私は父の遺言で「仲間内で一緒に会社をやってはいけない」ときつく言われていたこともあって、当初は100万円だけ出資する株主として参加すると言っていたのだが、アイデアを出して欲しいとの要請で会議に参加している内に、結局役員として参加する羽目になってしまった。後から考えるとやはりこれが大間違いの基であった。

父からは「仲間内でやる会社に(役員として)参加すると、責任の所在がハッキリしないから、経営的に最初は成功しても、やがてダメになってしまうし、失敗したらしたで責任のなすり合いになるから、そういうものに参加してはいけない。どうしてもやらなければならないなら自分が社長としてしっかり責任が取れる体制でやれ」と言われていたのである。まさにその通りになってしまったのだ。

当初、「地遊舎」は「冬の期間(12月〜3月)だけSFCの運営」をする会社であったのだ。

SFCのシェフを担当していたW氏は「オーベルジュ・コムニ」のシェフとして十勝に来ていたが、夏期間だけの季節契約であった。だから仕事の無い冬季間にSFCで働くことは彼に取っても良い仕事であった。

2003年にオーベルジュ・コムニのオーナーが代わった。その新オーナーから「オーベルジュ・コムニの運営を全部やってくれないか?」との要請が地遊舎にあったのである。

地遊舎のメンバー全員が「ホテル業」の経験がない。かなり難しい仕事であることが予想されたが、自ら進んで社長に就任したT医師が「このオーベルジュ・コムニで会社を潰してしまったTとSに働いてもらって救済しようではないか」と言い出したのだ。TもSもホテル業とは無縁の職業であったのに・・・。(つづく)