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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2011-04-09-Saturday マイヒストリー58

2006年10月に

北海道日本ハムファイターズがパ・リーグの優勝を決めた。

普段、野球には全く関心が無い妻が、日本シリーズを観たいと言い出した。日本ハムのダルビッシュ有投手は、私の長女の東北高校の同級生で、高校生時代から応援していたのだという。札幌ドームでの日本シリーズなら是非にも観たいと言うのだ。

それから、ネットですぐに日本シリーズのチケットを購入しようとしたが、売り切れ状態で全然手に入らない。「無理だ、諦めよう!」と言ったのだが、ネットオークションで購入しても行きたいというのだ。さぁ、それからコンピュータとにらめっこである。

ネットオークションでもなかなか手に入らなかったのだが、何故だか、25日(水)の第4戦の4席並びの席が安く手に入った。しかもネット裏の良い席である。何とか手に入れたのだが、この25日には私は東札幌の札幌コンベンションセンターでIBMの講演(16:00〜18:00)の予定が入っていたのだった。

妻を先に札幌ドームに行かせておいて、私が講演終了後に駆け付け合流したのだが、早くゲームが観たくて小走りで向かったのに到着したのは19時頃であった。妻はプロ野球のゲームを生で観るのはこれが初めてである。私も札幌ドームで観るのは初めてであった。お目当てのダルビッシュは登板しなかったが、岡島の変則投法も見られたし、SHINJOや森本などの活躍もあって日本ハムが3−0で勝利し、日本シリーズに王手を掛けたゲームであった。

試合時間が4時間13分も掛ったし、終了後に座席から出口に到着するまでが、これまたものすごい混雑で時間が掛る。結局、球場を出られたのは23時に近かったが、今度は外でタクシー待ちの大行列である。ようやくタクシーを捕まえて宿泊先の新札幌のシェラトンホテルに到着したのは0時を過ぎていた。札幌市内の主なホテルは満室でどこも予約を入れることが出来なかったのである。

観戦中はビールばかり飲んでいて食事をしていない。途中、トイレに立った時に何か食べ物を買おうかと思ったが、かなりな長さの行列が出来ている。北海道人は並んでまで買おうとは思わないから買わずに我慢した。

お腹が空いているが、妻は疲れたからホテル近くのコンビニでおにぎりを買って来て欲しいと言う。私一人だけでマクドナルドでハンバーガーを食べて、帰りにおにぎりを買って部屋に戻ったのだった。

翌26日は、午前中に契約が一件入っていた。これが、後に私が北の屋台を辞める(辞めさせられる)直接の原因になるのである。

その契約とは、北の屋台で営業していた「センナリ」さんとの契約である。

私の父とK原さん(不動産関係)という方の二人で所有していた物件で、父の死去後に私が相続した物件である。この建物は帯広市の中心街のド真ん中、六花亭本店の道路を挟んだ東側という最高の立地にある。 

この物件で、長らく衣料品店を営んでいた方が、7月までは契約更新をすることで話がまとまっていたのだが、8月になって急に融資が受けられることになったので、土地を購入して自分の店を持ちたいと言ってきた。独立されることは目出度いことなのでK原さんの息子さんと私は快く了承して送り出すことにした。

しかし、急な話だったので、すぐに次の入居者を12月までに募集して決めなければならなくなった。K原さんは不動産関係の仕事をしているので、情報を発信してもらうことにした。するとさすが、六花亭本店の東側という好立地もあってか入居希望者が殺到した。その中の一軒に、北の屋台の「センナリ」さんもいたのである。

「センナリ」の東(あずま)さんは、父親が帯広で「せんなり」という居酒屋を経営していたが若くして病没し、その後、東さんは東京のイタリアンレストランで修業していた。

北の屋台の第1期オープンの時には本人はまだ東京に居て、母親が応募してきたのである。その為「センナリ」は数日遅れでオープンした経緯があった。東さんは北の屋台入居当初から、帯広市内での出店を目指していて、良い物件がないかを探しながら、北の屋台で軍資金を貯めていたのである。

だから東さんにとっては、私とK原さんが所有する物件はちょうど、最高の場所が見つかったという訳である。東さんはすぐに私の会社を訪ねてきて、入居したいとの希望を伝えてきたのであった。

正直言って、私も迷った。北の屋台の第2期の残余期間は2007年の11月末日まである。北の屋台を運営するものとして、「センナリ」のような、お客さんが大勢付いている屋台が抜けるのはきつい。第3期が始まるまでの約1年間のツナギの方法も考え出さなければならないからだ。

東さんから入居の申し出があってすぐに、北の屋台の事務所で、K専務理事と女性職員2人に「センナリが六花亭の東側の私の物件に入りたいと申し込んで来たのだが・・・」という報告をした。Kは「そう、それは良いんじゃない。北の屋台は独立してもらうことが前提なんだから」と言う。残された問題は空いた後の屋台をどう運営するかだが、ちょうど1年間、期間があるから、空いた一軒を第3期の募集に先行させて、起業塾方式で運営し、残った19軒の屋台は普通に募集して、第3期は全20軒の屋台が3年間の一斉スタートをさせたら良いのじゃないかという意見にまとまり、その内容を理事者に説明する資料づくりが始まったのだった。

北の屋台の理事者5人で作っている地遊舎の会議でも数度もこのことを報告しているし、他の理事者にはKが報告することになっていた(が、これは後に分かったことだがKは報告をしていなかったのだ)。(つづく)