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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2011-04-27-Wednesday マイヒストリー63

北の屋台を辞めることに

なって2007年の1・2・3月は気が抜けた様になっていた。10年以上も仲間だと思って一緒に活動してきた連中とこの様な形で別れることになるとは予想もしていなかったことなので、精神的にも大きなショックを受けたのだ。

辞任した直後は、北の屋台にはもう金輪際関わることは止めようと思っていた。だから講演の依頼もテレビや雑誌の取材も全て断っていたのだ。

国土交通省から選任された「観光カリスマ」も北の屋台を発案・実現させたことで選任されたものだから、これも辞めようと国土交通省に連絡を入れたら、「観光カリスマは団体ではなく個人の功績に対して与えたものだから、例えその役職から離れても辞める必要はない」との返事であったので、そのまま続けることにした。そうしたら「観光カリスマ」としての講演依頼が多数舞い込んで来たので、吹っ切れて、以後はまた講演を受けることにした。

私は講演では北の屋台の良いところしか言わない。北の屋台は自分が生み出したと思っているから誇りにしているのである。私を講演に呼んでくれる場所も元気が欲しいから呼ぶわけだから、私の話で元気を出してもらえるようにポジティヴな発言しかしないのである。

一方、北の屋台のホームページからはスグに「坂本」という文字が全て消去された。きっと北の屋台から「坂本」という存在を消し去りたかったのだろうが、そのくせ、私が書いた文章、私が作ったコンセプト、私が写した写真などはそのまま使っているのだから何とも手前勝手なオカシナ行為をするものだ。

さすがに現役から退くと、講演依頼は極端に少なくなったので、4月からは、かねてからの課題であったマジック関係書籍の整理をすることにした。

小学6年生(1969年・昭和44年)の11歳の時から始めたマジックは、私の人生の重要な場面で大きな影響を与えてくれた趣味というよりも生き甲斐とでもいうべきものなっている。それが「十勝環境ラボラトリー」や「北の屋台」などの活動が忙しくなってしまってからは、おろそかになっていたのだった。忸怩(じくじ)たる思いを持っていたこともあって再度、熱を入れてやり直そうと思ったのである。

1996年5月11日に年に私のマジックの師匠であるジミー忍(後に引田忍→聖忍と改名)師が52歳という若さで肺癌の為亡くなった。奥さんであるマコママから、師の遺言で「坂本もっチャンとの約束だから」と、遺品のマジック本のコレクション約1000冊が私の所に送られて来たのだった。しかし、当時は忙しくて整理が出来ずに、自宅の一室に平積みしてあったのが、地震で崩れて足の踏み場もないような状況になっていたまま手つかずにいたのであった。

小学6年生になる直前の春休みに札幌の伯父の家に遊びに行き、8歳年上のイトコからマジックの道具を貰ったのがキッカケでマジックが好きになった。

以来、独学でマジックを覚えていった。当時は帯広にマジックを趣味にしている人は何人か居たが、指導をしてくれる人は居なかった。現在は、マジック教則のビデオやDVDが一般にも販売されているが、当時はもちろんそれもなかったから本で覚えるしか方法がなかったのだ。

本屋に売っている子供向けのマジック入門書の類に載っているマジックは簡単過ぎてすぐに飽きてしまった。ちょうどこの頃(1973年)に「金沢文庫」という名称の出版社がマジック関係の専門書的な本を出版し始めたのだ。私が最初に買った金沢文庫の本は1974年1月15日に出版された「クロースアップマジック(松田道弘著)」という本であった。初めてこの本を見た時、衝撃を受けた。こんな素晴らしいマジックの本があるのか!と、ところが値段がまた高いのだ。中学3年生当時の私の一カ月のこずかいは1000円だったのだが、この本は2200円もするのだ。

丁度1月だったので、お年玉でこの本を買い。高校受験を間近に控えているのに夢中になって読んだのだった。以来、金沢文庫からマジック関係の本が出版される度に買い求めたものだった。だからマジック本蒐集の原点は「金沢文庫」にあると言えるのである。(つづく)