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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2012-10-23-Tuesday 秋間美江子さん

アメリカ・コロラド州ボルダー市在住の

秋間美江子さんから今朝8時に自宅に電話が入り妻が出た。

「今、成田空港なの、これから札幌に行くのよ。札幌で今晩、私を囲む会が開催されるからそこで坂本さんに会えることを楽しみにしているわ!」と言うのである。

秋間さんが今回、来日することは筆不精の秋間さんから珍しく事前にハガキを頂いていたものだから、たぶん来日は10月の中旬ころだろうなぁと予想はしていたのだ。

そんな中、NHKの記者の方から、23日に札幌で秋間美江子さんを囲む会をするので坂本さんにも是非出席して欲しいとのご案内を10日ほど前に頂いたのだが、秋間さんは札幌に来る時にはいつも帯広まで足を伸ばしてくれるのが常だし、私も妻も23日は商店街の会合に出席する予定が入っていたので、帯広で会えるだろうからと欠席の返事を出していたのであった。

秋間美江子さんとは、1995年に私が帯広青年会議所の「国際環境大学構想プロジェクト」のリーダーをやった時からだから、かれこれ17年のお付き合いになる。コロラド州立大学を視察する際に、秋間浩(10年前に逝去)・美江子夫妻には大変にお世話になったことから、その後お互いに何度も何度も帯広とボルダーを家族ぐるみで行き来するような関係になったのであった。

しかし、秋間さんが来られる時はいつも突然なのである。なにせ、秋間さんは筆不精でほとんど手紙を書かないし、コンピュータは持っていない、ましてや携帯電話も持っていない。一旦、彼女が移動し始めたら、こちらから連絡を入れる手段はまったくないのである。

2年程前に秋間さんが来日した時などは、帯広の銭湯温泉「水光園」に妻と二人で入浴に行ったら、妻が何と入浴中にバッタリと秋間さんに会って「あら、明日坂本さんに会いに行こうと思っていたのよ!」なんて云うこともあったくらいに、いつも突然なのである。

しかし、秋間さんは「今回は帯広には行けない」と言うのである。

3年前に長女がやっているフィギュア・スケートの16名の団体で滑る「シンクロナイズド・スケーティング」の世界大会がコロラド州のコロラドスプリングス市で開催された際に、秋間さんはわざわざ観に来てくれて、私と妻を観光にも連れて行ってくれたのだった。ボルダーとコロラドスプリングス間は札幌ー帯広間よりもはるかに遠距離なのに、当時82歳の老夫人が自分で車を運転して・・・。その時の恩義もあるし、秋間さんは85歳で癌の手術も数度も受けている身である。本人も「来日するのはこれが最後かもしれない」なんて弱気なことを言うものだから、急遽、妻と二人で札幌に行くことにしたのである。

今回の秋間さんの来日目的は、第二次世界大戦時に北大で起きたスパイ冤罪事件に関するものである。

その事件とは『日本が真珠湾攻撃を開始した太平洋戦争開戦日の1941年12月8日早朝。この時、外国人を中心に170名(内日本人61名)の人々がスパイ容疑で検挙されたのであった。当時、北海道大学2年の宮沢弘幸さんと北大予科の英語教師ハロルド・レーンさん、妻のポーリンさんの3人が軍機保護法違反などの嫌疑をかけられて逮捕され、それぞれが懲役12〜15年の刑を受けたのであった。宮沢さんは網走刑務所の獄中で激しい拷問を受けている。旅行や登山が好きな日本の学生と、米国人教師との人間的な交友がスパイであると決めつけられて、彼等や彼等の家族の人生すべてが打ち砕かれたのだった。宮沢さんは1945年10月釈放されたが、獄中での栄養失調と肺結核で衰弱し1年4ヶ月後の1947年2月22日に27歳で死亡した。』これは「レーン・宮沢事件」と呼ばれる冤罪事件であるが、この時、北海道の特高警察が一番酷かったらしい。点数稼ぎの為に、何でもない人達をスパイにでっち上げて検挙したのでないかと思われる。この時の北大生、宮沢弘幸さんが秋間美江子さんの実のお兄さんなのであった。

私が、この事件のことを秋間さんから聞いたのは2年前の来日の際であった。秋間さんにとっても、つらい事件であったのであろう。

この事件に関しては、真相を究明する動きはあるが、裁判資料などがアメリカ人が関わっているとのことで終戦時に進駐軍が来る前に処分されており、なかなか進んでいないのが現状である。

今回はこのお兄さんが北大の学生時代に作った写真アルバムを、資料として北大に寄贈する為の来日である。

秋間さんを囲む会には、真相究明のための支援者である弁護士や学者や元新聞記者、現役の新聞記者など私達夫婦も含めて15名が札幌市内のレストランに集まったのであった。

秋間さんは、レーンさんにも北大にも好い感情は抱いていなかったと云う。終戦後も「スパイだった人の家族」と世間から冷たい目でみられ、肩身の狭い思いをしていた秋間さんが日本に居ずらくなってアメリカのボルダーに移住した理由は、このお兄さんの事件による影響が大きかったようだ。しかし、数年前にレーンさんの墓前に参ってレーンさんに対するその悪感情を改めたと云う。

今回は北大に資料としてアルバムを寄贈する際に、支援者の方から「お兄さんの退学処分の撤回を申請してはどうか」と勧められているという。果たして大学がそれを認めるかどうかはまだ判らないと云う。

恐らく、明日の新聞やニュースになるだろう。結果を注視したいが、秋間さんの北大に対する感情も良い方向になることを祈りたい。