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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2014-04-28-Monday 追悼

23日に亡くなった従兄弟が

夢枕に立ったことはブログに書いた。

仲の良かった従兄弟であったから通夜や葬式にも行きたかったのだが、父の23回忌法要などとぶつかってしまって行くことが出来なかった。

とても残念であった。

この従兄弟坂本晴則が亡くなったのも父と同じ64歳で、病名も同じ肝臓癌であった。父同様に亡くなるのが早過ぎる。

晴則(以下敬称略)は、私の父(昭和2年生)の兄である恒久(大正元年生)の4人兄弟の末っ子。

恒久伯父は次男であるが長男が早世しているので実質的には長男のようなものであった。父は末っ子の五男で16歳の年齢差があった。恒久伯父と父の間の兄弟は皆早世している。

恒久伯父は札幌にあった坂本勝玉堂の支店を任されていたが、第二次大戦中は家族で帯広の実家に疎開していた。終戦後も従兄弟らは子ども達だけで我が家に遊びに来ていたのである。

中でも晴則は4人兄弟の末っ子で長兄とは10歳も年が離れているし、私は4人兄弟の長男で姉は居るが兄はいないから、晴則にとって私は弟のような存在だっただろうし、私にとっては兄のような存在で、いつも「晴則にいちゃん」と呼んで慕っていた。

晴則のことを皆は「はっくん」と呼んでいたが、私が「はっくん」と呼んだら伯母から「あなたは晴則より年下なんだから晴則にいちゃんと呼びなさい」と注意されてからはズッと晴則にいちゃんであった。

私は小学2年生の時から今度は逆に札幌の伯父の家に一人で遊びに行っていたが、8歳年上の晴則は趣味が多くて影響を一番受けた従兄弟である。

始めに影響を受けたのはモデルガンのコレクションであった。狸小路に中川ライター店というモデルガンやプラモデルやマジック用品を売っている一風変わった店が現在もあるが・・・。

そこでモデルガンを買って楽しんだものだったが、晴則は手品の道具もそこで買っていたのだった。

私が小学6年生になったすぐの春休みに札幌に遊びに行った時に、晴則から「俺ももう大学生だから手品は止めた、だからお前に手品の道具をやる」と7〜8個ほどの手品道具をもらったのだった。その中に「シカゴの四ツ玉」と云う指の間でボールが増えたり減ったりする道具をもらったことが、私がこんなに手品にのめり込むキッカケになったのである。

それ以後も札幌に遊びに行く度にデパートでマジック道具を買ってはドンドンマジックにハマっていったのである。

私が大学を卒業してからも札幌に行ったらホテルには泊らずに従兄弟の家に泊めてもらっていたから、一緒によく酒も飲みに行ったものだった。

私に趣味の楽しさを教えてくれたのは晴則であったと言っていい。

その晴則が64歳の若さで亡くなってしまった。去年の11月にお見舞いに行っておけば良かったと悔やまれる。

でも晴則なら天国でも趣味を生かして楽しく暮らせることだろう。

冥福を祈る。合掌。