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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2015-02-02-Monday 人質事件に思う

イスラム国に拉致されていた

後藤健二さんが殺害される映像が1日午前5時半頃(日本時間)にインターネット上に流された。

1月20日に、後藤健二さんと湯川遥菜さんの2人が砂漠のような背景の場所で2人並んで座らされてナイフを突き付けられ、日本政府に身代金2億ドル(日本円で約240億円)を要求する映像が流され、4日後には湯川さんが殺されたような写真を持つ後藤さんの映像が流され、そして今回の後藤さん殺害の映像である。

この間、日本のマスコミは連日、この話題ばかりを報道していた。

私は、この事件の報道がなされている間は、この話題についてはブログでは、ほとんど触れてこなかった。何故ならば、どうにも違和感が拭えなかったからなのである。

私の死生観は「この世に生きとし生けるものは、いずれ死ぬ」ということである。

平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」。言葉を変えては繰り返し出てくるこの無常感に魅かれるのだ。

生まれてから死ぬまで、人によって早いか遅いかの違いはあれども、人は必ず死ぬのだ。天寿を全うして老衰で死ぬ人もいれば、病気で死ぬ人、事故で死ぬ人、事件に巻き込まれて死ぬ人など等、いろいろな死に方というか死に様というか、そういうものがあるだろう。

湯川さんと後藤さんが人質にとられてから、日本の政府も、人間の命の尊厳とかいって助けようと努力をしていたようだが、そうしている間にも世界中では何人も、いや何百人もいろいろな事情で死んでいるのだ。

この2人の命と、その他の人の命とは同じ命の重みのはずだが・・・。

マスコミは事件を追うものだし、報道するのは当たり前でもあるだろうが、何故だか、私の頭の中では、どうにもスッキリとしないのであった。

自己責任論で、勝手に危険な場所に行ったのだから云々ということを言う人もいるようだが、それもまた微妙に私の考え方とは異なる。

立ち場が異なれば、考え方も、見方も変わる。一方向からだけの解釈には違和感を覚えてしまうが、しかし、いくら価値観が異なるとは言えども、殺害シーンをインターネットで流す神経は私にはまったく理解が出来ない。

宗教が違えば、人種も違う。イスラム国側の言い分とはいったいどんなものなのだろうか?

私は、イラクのフセイン大統領に対して「大量破壊兵器を所持している」という偽りの言いがかりをつけて、イラクのフセイン政権を強引に転覆させたアメリカのブッシュ政権のやり方は滅茶苦茶であったと思っている。

それに積極的に賛同した小泉首相の論理も滅茶苦茶であった。

欧米人は、民主主義が至上最高のものであると思い込んでいて、アフリカやアラブの国々を遅れた独裁国家であるとして、欧米型民主主義を強引に押し付けようとしているのではないか?

それぞれの国の事情は異なるのに、短兵急に欧米型民主主義を強引に押しつけても、上手くはいかないだろう。

国が徐々に成熟していくのを待たなければならないのではないだろうか。

独裁政権をいきなり破壊だけして、後は知らんというのは、無責任この上ない。

イスラム国の台頭は、アメリカのフセイン政権の転覆が遠因であろうことは明らかだろう。

人は、この世に生まれて死ぬまでに、何らかの使命を帯びているという考え方もある。早くに亡くなった方や、事件に巻き込まれて亡くなった方にも、何らかの使命があったのであろうと考えたい。

後藤さん、湯川さんの死が無駄死にならぬように後に残された人間が、何かをしなければならないだろう。

それが何なのかは私にも分からないが・・・。