「キャバレーとマジシャン」
先頃、北海道を去るプロマジシャンの送別会に出席した。挨拶(あいさつ)の中で「マジシャンが活躍できる場所が少なくなった。とりわけキャバレーが全国的に激減したのが大きい。キャバレー全盛時代でもマジシャンは因果な職業だと感じたものだが・・・」と愚痴とも取れる話があったが、まったく同様のことを私のマジックの師匠、ジミー忍も言っていた。
日本でキャバレーと言うと、外国の都市名を冠したホステスが給仕する日本式キャバレーチェーンを連想しがちであるが、本来の「キャバレー(仏:Cabaret)」とは、ダンスホールや舞台を備えた大規模な酒場で、生バンドの演奏や芸人のショーを見物しながら、酒や食事やダンスなどを楽しむ店のことである。
帯広にも「キャバレー銀馬車」があった。まだ若くて飲みには行けなかったがマジシャンが出演する時には立ち見で入れてもらったこともある。
フレンチカンカンが名物のパリのムーラン・ルージュは1889年にできたキャバレー第1号だが、かのロートレックがポスターを描いた店としても有名だ。一流芸人が演じる舞台は上品で洒落(しゃれ)た雰囲気の大人の社交場だ。現在も、歌、舞踊、マジック、コメディなどのパフォーマンスが楽しめる店として繁盛している。
日本でのキャバレーは、戦後に進駐軍向けに発達した。東京・赤坂には、ホテルニュージャパンの地下にあった「ニューラテンクォーター」やデヴィ夫人がホステスをしていた「コパカバーナ」などの高級キャバレー(ナイトクラブ)があり、その華やかなステージに立つことは芸人の栄誉でもあった。
初代引田天功が病気で倒れた際に、師匠のジミー忍がニューラテンクォーターで代演したことがあった。人体交換などの大掛かりなマジックの大道具はトラック1台分もあり、その運搬、セッティングは大仕事なのである。
出演者の荷物は、歌手は衣装と譜面程度、ストリッパーの衣装はさらに少なくて済む。マジシャンは衣装以外に特注品で高価な道具が必要だし、準備や後片付けも大変で、割に合わない仕事なのだ。
オイルショック(1973年)はネオンサインの自主規制をして夜を暗くしたが、この頃からキャバレーが減り始め、やがてディスコやキャバクラなどの新業態に取って代わられた。
本格的キャバレーは芸人を育てる場所でもあったから、激減によって芸人の質が落ちることにもなった。キャバレーやダンスホールは余裕を感じさせる社交場でもある。高齢化社会に向けて復活させるのも一考であろう。