のことをいろいろと考えている内に「コレクション」について考えてみた。「コレクション」とはいったい何ぞやと?!
コレクターの始まりは「ノアの箱舟」のノアであると云う説を聞いたことがある。ノアが実在の人物かどうかは別問題として、確かに地球上のあらゆる生物を集めて箱舟に乗せたのであるから、その行為はコレクターと云うに充分であろう。
コレクションとは何の為にするものなのだろうか?ノアの場合は、その目的は「種の保存」であったろう。そこから考えるとモノを保存したいと云う欲求からコレクションは始まるのであろう。
コレクターの中には、ただ単にひたすら集めるだけの人も居れば、集めたモノを展示して他人に見せる人も居る。
展示するには、場所が必要になる。その場所が博物館や美術館や資料館や図書館などになる。
展示するには、集める以上にお金が掛かる。場所に掛かる経費やらショーケースに掛かる経費やら果ては人件費などの運営費まで・・・。
コレクター心理をトコトン追求したら、展示して他人に見せることにお金を使うよりも、ひとつでも多くコレクションを増やしたいと思うはずだ。ではなぜ、他人に見せたいのだろうか?集めるモノはどう云った基準で集めるのだろうか?
これはコレクターの感性の問題で、好き嫌いの問題でもある。例えば、私の1万5千冊に及ぶマジック書籍のコレクションは、私や一部のマジック書籍愛好家に取っては価値がある。だが、マジックに無関心の私の妻にとっては場所を取る邪魔なゴミでしかないし、マジックの愛好家であっても、演じるだけの人、道具にしか関心がない人など書籍に愛着がない人に取っては価値は少ない。だが、マジック愛好家でなくても、古書(書籍)に関心がある人に取っては価値が出て来る場合だってある。価値と云うのはコレクター本人の好き嫌いなのである。
では、モノの価値と云うのは、どうやって決まるのか?
人間としての生活を考えるなら有用性のあるモノに価値があるはずであるが、コレクションだと、希少性のあるモノを集めたいと思うであろう。この世に1品しかないと云う希少なモノは価値が高くなるのだ。
不思議なことにコレクションの世界では有用性が無いモノの方が価値が高い。
そのモノが実生活では、無くたって生活には支障がない、何の役にも立たないモノほど価値が高いのである。
絵画と自動車を比べてみよう、絵画の材料代はキャンバスと絵具代ならどんなに高くても数万円位でしかないものが、有名作家の描いた絵だとそれが何百億円にもなる。絵は額縁に入れて飾ることが出来るが、用途はただそれだけでしかない。そんな絵が1枚数百億円にもなるのだ。
一般的な自動車は新車の売値が300万円位の車なら材料費は半分程度かな。その自動車は移動に使える有用性があるが価値は毎年下がっていく。希少性が高いクラッシックカーや超高級車でも値段が上がっていく車は極々少ない。絵画よりも自動車のほうが実生活では遥かに有用性が高いのに・・・。
コレクションを投機と考えるなら、広い場所(駐車場)を必要とする自動車を集めるよりも、絵画の方が断然効率的であるが・・・。絵画が好きではなく、自動車が好きな人に取っては・・・。
「なんでも鑑定団」では陶器に高い値段が付くが、私はまったく関心がない。
戦国時代が終わった時に、天下を統一した豊臣秀吉は恩賞として武将に与える土地が無くなってしまったから、土地に替えて千利休が新しく価値を創造した茶器を与えて誤魔化したのだ。これは織田信長が始めたことであるが・・・。この利休の価値観は私には理解出来ない。
しかし、世の多くの人達は、この千利休の定めた価値に従っている。これは千利休が権威として世に認められたと云うことであろう。
世の多くのコレクターも自身の価値観を広めたい。そしてそれを権威化して自分の集めたコレクションの価値を高めたい。
その為にコレクションを展示して権威付けをしようと企むのではないだろうか?そんな結論に達したのであった。
マジック・ミュージアムの設立を願った師匠の故ジミー忍師も、そして私も自分が一生懸けてやってきた「マジック」の価値を世に認めてもらいたいと云う願望が根底にあるのである。