亡くなっていたと云う報道、78歳であった。入院中だったが、退院も間近の予定で、当日の朝も元気で朝食もしっかり食べたと云う。スポーツ紙によると突然死みたいな死に方だったそうだ。
妻の朝丘雪路(82歳)さんが4月27日に亡くなったばかりであった。
津川さんは、十勝とも繋がりが多い。
十勝の帯広と十勝南端の町の広尾間を走る広尾線が昭和62(1982)年2月に廃線になった。
この路線には「愛国」と「幸福」と云う名称の駅があり、昭和48(1973)年には、この「愛国ー幸福」間の切符が「愛の国から幸福行き」の切符として大ブームを巻き起こした。
丁度、この頃は私の父が十勝観光協会、帯広観光協会の会長を兼務していた時期で、「愛国」も「幸福」も帯広市の一部なのである。
愛国駅には駅員が居たが、幸福駅は駅舎だけの無人駅、何せブームになる前年の1972年の切符の売り上げは枚数はたったの7枚でしかなかった。
北海道を自転車で回る「カニ族」などのバックパッカー達の口伝えで徐々に広がっていき1973年に突如「幸福行き切符」として大ブームになり、この年はいきなり300万枚が売れたのである。以降の4年間でも1000万枚の切符が売れ、テレビドラマにもなったし、レコードも出されたのであった。
この路線が1982年に廃止になると云うことになり、当時、「グランパパ」と云うおもちゃ屋をやっていた津川さんがサンタクロースに関心があって、日本のサンタランドとして認定を受けていた十勝の広尾町を訪れていた。
広尾ー帯広間を走り、「愛国」「幸福」などの魅力的な名称の駅名を持つ路線を「サンタクロス鉄道」として復活させたいと思う様になったのである。
当時、父がやっていた「サニーデパート」を子供向けビルにしたいと云う構想を持っていた私は、津川さんとの接触を持ったのであった。
津川さんは、東京の自由が丘で子供の専門店の集合体「チルドレン・ミュージアム」を「BATSU」の松本瑠樹さん、「キャプレンサンタ」の下山好誼さんの3人で起こしていた。
津川さんは、サンタクロースの人形を蒐集していると云う情報を得た私は、我が社の民芸品部門の「さかもと民芸店」に熊やアイヌの木彫人形等を製作して納品していた木彫り職人3人にサンタクロースの人形を彫ってもらって、帯広空港に到着した津川さんに手渡したのである。
その木彫り人形を気に入ってくれた津川さんとの交流が生れ、サニーデパートを第3のチルドレンミュージアムに改造する計画へと進んでいったのだった。
木彫り職人も、サンタクロース人形の製作に没頭して、大小30点ほども納品をしたが・・・。
津川さんは募金を集め、イギリスからロックハート城と云うお城を購入してシベリア鉄道を通って広尾に運び込んだ。
私は、このサンタクロス鉄道の十勝の事務局長をやっていたのだが・・・、その後、「サンタクロス鉄道」の計画はとん挫してしまい、この城も群馬県に運ばれた。
必然的に我が社の子供のビル計画もとん挫し、飲食店ビルへと計画を変更していくことになる。
人生に於いて無駄なことなど何も無い。津川さんとの活動も今では良い思い出である。ご冥福を祈る(合掌)