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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2019-03-27-Wednesday 島田晴夫物語①

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」の

連載が27日の十勝毎日新聞でスタートした。

新聞社からは今週から開始する予定とは聞いていたのだが、今日だとは知らなかった。終業後に自宅に戻って新聞を見たら載っていたので驚いた次第である。

新聞であるから、私が渡した原稿に、新聞社側が「大見出し」「小見出し」を付ける。その付け方は知らされていないので、逆にどんな「見出し」になるのか興味深い。週3〜4日の連載で14回と云うことなので、これから掲載される度に、このブログ欄にも掲載していくことにする。

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」①

米国ロサンゼルス在住の「世界一」のマジシャン島田晴夫さん(78)が2018年10月29日に帯広の「マジック・ミュージアム」を訪問し、引退後に自身のマジック道具などを寄贈すると公表した。ふさわしい展示をするために、2019年2月17〜20日、NHK札幌放送局の古谷敏郎アナウンサーと2人でロサンゼルスの島田邸に滞在して取材した。苦労の末に世界ナンバーワンとの評価を受けるまでになった、波瀾万丈の人生を紹介する。

♦「街で見た手品 とりこに」

マジシャン島田晴夫、本名は「嶋田晴雄」。旧来の「松旭斎」や「天」の字がつく芸名ではなく、本名にこだわったのは進取の気概の表れであった。

1940(昭和15)年12月19日に東京の両国で誕生した。戦争中の疎開や父の仕事の関係などで、千葉県や新潟県新発田市などに移る。父親は新発田サーカスの新発田興行洋画の支配人であった。15歳の時に、父の浮気と暴力などが原因で、母は子どもを連れて家を飛び出し、転々として後に離婚、東京の世田谷区上北沢に落ち着いた。母は世田谷区中里の神社で焼鳥の屋台を営み、女手一つで一家を支えた。そんな母親をねぎらうために、晴夫少年は毎日欠かさず店じまいをした後の母を迎えに行った。

「毎日道具売り場通う」

渋谷の東急東横百貨店のレコード売り場が晴夫少年の憩いの場だった。55年12月のこと、近くで人だかりがしている。天洋(以後テンヨーと表記)のマジック用品の売り場だった。不思議な事をしているなとずっと見ていたが、タネが分からない。母と妹との3人暮らしで家計は苦しかったので、とてもマジック用品を買うお金などなかった。

高校は夜学であったので、それから毎日、昼間にテンヨーの売り場をのぞきに行く。左手の拳に入れたハンカチが消えるマジックをやっていたが、何度見てもどうしてもタネが分からないので、56年の夏になって母に頼んでその道具を買ってもらった。これが最初に購入したマジック道具である。

すっかりマジックの魅力に取りつかれてしまい。うまく演じられるようになるまで何度も何度も練習を繰り返した。

次は、指の間でボールが増減する「シカゴの四つ玉」を買ってもらいたかったからだ。テンヨーの当時の四つ玉の値段は900円であったという。

「引田天功と出会う」

銀座三越の売り場に、引田功と云う日大の学生がバイトで立っていて、四つ玉がうまいと聞いたので行ってみた。これが後の引田天功(初代)で、島田の6歳年長であった。引田青年からはかわいがられた。ある日喫茶店に誘われて「テンヨーでバイトしないか」と勧誘された。

新富町にあった天洋奇術研究所(テンヨー)を紹介され、荷造りや商品運び、道具の塗装などの仕事をした。

12月からは新宿伊勢丹のテンヨーの売り場に立ったが、実演をするわけではなくテンヨー専務の多田野の助手をして商品の包装をしていた。

(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭)

【添付写真のキャプション】帯広のマジック・ミュージアムにて(左から)島田さんと筆者(2018年)

2019年3月27日十勝毎日新聞掲載