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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2019-03-28-Thursday 島田晴夫物語②

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」②

「衝撃の八つ玉デビュー」

1957年1月に高校を中退して、テンヨーの社員扱いとなった島田晴夫。売り場に立っていても販売には熱心ではなく、四つ玉の練習ばかりやっていた。当時、四つ玉が1組900円でタネは1個しか付いていない。その時の月給は3500円。何組も買える余裕はなかったが、のちにタネを2個使う技法を練習できたのは、売り場に四つ玉が売るほどあったからだ。この時点で既に、右手で1個からいきなり4個にする高難度技法を完成していた。

「天海氏の助言で」

この頃、日本に帰国して原宿のアパートに住んでいた石田天海(1889-1972、アメリカで活躍したマジシャン)のところへ週に1回通うことになった。天洋奇術研究所所長である松旭斎天洋(1888-1980、日本近代奇術の父、松旭斎天一のおい、初代日本奇術協会会長)から、「スライハンドをやりたいのならば俺が月謝を払ってやるから天海のところに行って習ってこい」と言われたからだ。

初めて天海に会った時に、印象付けるために四つ玉の実演をしたが、右手で1個からいきなり4個にする演技も含まれていた。左利きだった天海から、左手でも同じことができるようにしたらどうだい?と言われたが、当時は左手を使うことは「左ギッチョ」と言われており、最初は抵抗感があった。しかし、両手に一度に8個のボールを出せることが分かったので、猛特訓を開始した。

「猛特訓で完成へ」

実演販売員としては、新しくオープンした池袋三越の売り場に立ったが、ここでも販売よりもむしろ、八つ玉の練習ばかりをしていた。終業後に自宅のアパートに帰宅してからも、アパートの2階の窓から手を外に出し、ボールを落としたら階下までいちいち拾いに行かなければならない緊張感を持たせた練習方法を実施。母と妹と3人で夜に川の字になって寝ている時に、真っ暗な中、寝たまま空の手を伸ばして手順を確認する動作もした。それを見た母は、この子は気がふれたのじゃなかろうかと心配して見て見ぬ振りをしていたという。

天海との出会いから3カ月間猛特訓し、玉を合計35個も使った手順を完成させ、1958年、17歳の時に三越劇場で衝撃的なデビューを飾ったのであった。

その前年に四つ玉でデビューし天才とうたわれた引田天功であったが、翌年に島田が両手にいきなり8個の玉を出す八つ玉(35個)でデビューしたので、マジック界は「大天才現る」と騒然となった。それまで親切にしてくれていた先輩の引田も距離を置くようになった。

(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭。写真は島田氏提供)

【添付写真のキャプション】三越劇場にて、八つ玉でセンショーナルにデビュー(1958年)

2019年3月28日十勝毎日新聞掲載