「鳩出し10羽で大成功」
松旭斎天洋が地方興行を行う時にはアシスタントとして手伝い、ボールも演じさせてもらっていた島田晴夫だが、演技時間が短過ぎたのと、アングルに弱いという欠点があり、プロ向きのアクトではないと感じていた。
ディーラーの仕事は、売り場が池袋三越から浅草松屋に移ったが続けていた。デビュー翌年の1959年、ヨーロッパのナイトクラブの芸人を紹介する映画「ヨーロッパの夜」でチャニング・ポロック(マジシャン)の「鳩出し」が日本のマジック界の話題をさらった。マジシャン達は何度も映画館に足を運び、ある者は8ミリカメラを映画館に持ち込んで無断で撮影して研究をした。島田も有楽町の映画館に9回も足を運んだ。当時の収入からすると大変な出費であったが、このポロックの鳩出しを見たことが、この後の島田の方向性を変えた。鳩出しに取り組んだことと、パーソナリティの重要性を認識したことであった。
ポロックの鳩出しは、日本のマジック界に衝撃を与え、60年には名古屋のアマチュアマジシャン伊藤勝彦が新たな仕掛けを考案し、それを使って引田天功が鳩出しを演じた。
天洋が再婚して熱海に移った。椿夫人から鳩出しのバッグにホックを付ける役目で呼び出された時に、独自の工夫を加えた仕掛けを見せたら、天洋が感心して「お前、これを使って鳩を10羽出してみろ。出せたら三越でリサイタルをしてやる」と言われた。ポロックが7羽だったので10羽出せと言うのである。
島田のいとこが新宿の十字屋という洋服屋だったので、えんび服を作ってもらい10羽の鳩を仕込む仕掛けを付けて手順を作り、61年の三越劇場でのリサイタルは大成功を収めたのであった。この頃、天洋からは松旭斎天晴の娘でマジシャンだった松旭斎天百合との結婚を勧められたが、縁なく結婚には至らなかった。
その後、浅草の「新世界」という娯楽センターの5階にあったマジックランドの小さなステージに引田天功と一緒に出演するが、ここにいた5歳年上のエレベーターガールと最初の結婚をすることになる。この新世界には、オーストラリア人のマジシャンのケン・リトルウッドが出演していた。彼は日本人のトシを嫁にもらって日本によく来ていたが、このトシと島田の妻は仲が良かったという。
鳩出しを演じるようになってからはテンヨーを辞め、四谷の「スタープロダクション」という芸能社と契約して米軍キャンプや高級クラブに出演するようになっていた。
(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)
【写真のキャプション】スタープロダクション入りしてプロとして最初に撮ったポーズ(1960年)
2019年3月29日 十勝毎日新聞掲載