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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2019-03-30-Saturday 島田晴夫物語④

「世界一のマジシャン島田晴夫物語」④

「豪公演を機に海外へ」

1962年の時点で、鳩出しではシルクを使用せずに直接出す技法を完成させた。ステッキの上に出したり、1羽から2羽に分裂させたり、トランプを扇型に広げた上に出したり、または鳩が戻って来るように調教したりなどして演じ、日本には競争相手がいない状態であった。

当時は米軍キャンプや外人専用ナイトクラブの仕事が多かったが、出演料は1万円、月収は大卒の10倍ほども稼いでいた。運転免許証は取得前だったが、仕事に必要だからとトヨタのコロナを購入した。天洋から勧められて、お酒その他も20歳前で覚え、食事もステーキばっかり食べていたら、ろく膜を患って3カ月入院した。

1965年3〜5月の3カ月間にわたって、東宝の「日劇ダンシングチーム」(40人)のスペシャルアーティストとしてオーストラリア公演に参加することになり、アデレード、メルボルン、シドニー、ブリスベーン、パースの5都市を回り大成功を収める。この時に、後に2番目の妻になる、アデレードの劇場の客席案内係の女性だったディアナと知り合う。

3ヶ月の公演を終えて帰国すると、日本に置いてきた妻がオーストラリア人の男性と駆け落ちして行方不明になっていた。この結婚は、天洋からほぼ強引に薦められたものだったが、結婚してからほどなく、6畳一間の新居に妻の母親が同居するようになると、互いに気まずい状態となり、夫婦関係は芳しくなかった。妻本人が見つからないから、妻の母親に離婚証書にサイン、なつ印してもらって離婚の手続きを済ませたのであった。

このオーストラリア公演で、言葉が話せなくてもマジックならなんとかなると思ったし、妻との一件もあったので、踏ん切りを付けて海外に出ることにしたのだ。今度は、日劇の時のような保証は何もないが、エージェントもたぶん覚えていてくれるだろうし、行けばなんとかなるだろうと簡単に考えていた。

航空会社に渡航費を問い合わせたら、片道25万円だという。大卒サラリーマンの月給が2万円、当時は1ドルが360円で、外貨持ち出しが500ドルしか認められていない時代。とてもそんなお金が無いので、別の手段を探したら、神戸港発の貨物船なら片道15万円だったのでそれに乗って1965年9月7日に神戸港を出発した。

出航2日目には大型台風に遭遇して大きくコースを外れ、しかもすごい大揺れでひどい船酔いをした。16日もかかってシドニー港に到着した。

(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭)

【添付写真のキャプション】日劇豪州公演。アデレードの「ハー・マジェスティ劇場」にて(1965年)

2019年3月30日 十勝毎日新聞掲載