「渡米志しメキシコへ」
シドニー港では、前回公演で知り合ったディアナが出迎えた。「日劇の公演の時に、妻を1人日本に置いて、自分はオーストラリアに来てディアナとよろしくやっていたのだから、(前妻の駆け落ちは)お互いさまだったけどね」と笑う。
ディアナを新しいパートナーにして初仕事をしようとしたら、観光ビザしかない。豪州国内ではワーキングビザへの変更手続きはできないのだ。当時の豪州は白豪主義で白人以外の移民はかなり制限されていたので、日本に強制送還されかねない情勢だった。
相談した弁護士からは「いったん、豪州から出国して大使館に行ってビザを依頼するか、さもなければ豪州人女性と結婚する方法も」と聞いたので、ディアナに結婚してくれるかと聞いたら、あっさりとOKの返事。じゃぁ結婚しようとなったが証人が必要だという。シドニーには知り合いもいないので、中華レストランのウェイターに証人になってもらい教会で結婚式を挙げ、仕事することが認められるようになった。1965年10月のことで、66年9月には長女のリサも誕生した。
豪州に3年いる間に、だんだんと言葉も話せるようになり、仕事も順調に進むようになった。しかし、エンターテインメントならやっぱりアメリカだと思い、米国のエージェントの住所を調べては手紙を出しまくったが返事は皆無であった。
67年12月、シドニーでメキシコ人歌手が公演した際のゲストに呼ばれ、客にはメキシコ領事が来ていた。島田の演技に魅了された領事と親しくなり、米国のコネクションが欲しいと話すと、メキシコの観光ビザなら発給してあげるという。
メキシコなら米国の隣の国だし、遠い豪州にいるよりも、ずっとチャンスが多いだろうと思ってメキシコに行くことにした。68年3月のことである。
直行便が無いので、フィジー、タヒチ、ホノルル、ロサンゼルスと乗り継いで3日かかってメキシコシティに到着した。着いてからはたと気が付いた。メキシコはスペイン語圏であったということに。
島田も少しは英語が話せるようになってはいたが、ディアナもスペイン語はまるで分からない。日本大使館に行きマジシャンだと言って、メキシコのエージェントを紹介してほしいと頼んだのだが、そういうつてはない、英語ができる歌手なら知っていると紹介された。
その歌手が紹介してくれたのが、テアトロ・ブランキータというメキシコナンバーワンの劇場のオーナーだった。
(マジック・ミュージアム館長、坂本和昭、写真は島田氏提供)
【写真のキャプション】豪州で、ディアナ夫人と最初に撮った宣材写真(1965年)
2019年4月2日 十勝毎日新聞掲載