毎日することがないから本ばかり読んでいて、首の筋肉が痛くなった。
それでも読書しかすることがないし、読書は大好きだから、続けているのだが・・・。
2日に一度は本屋に顔を出して、読む本を物色している。
昨日の帰宅途中に、本屋に寄ったら、面白そうな本を見つけた。文藝春秋やWILLなどの月刊誌が平積みされている隣に、数冊だけ立て掛けて並んでいた本の背表紙に『「コロナ」から日常を取り戻す』とある。雑誌名は「別冊クライテリオン」「ビジネス社」発刊である。
これまでに聞いたことがない雑誌名だ。手に取って表表紙をみたら『二メートルのソーシャルディスタンスが社会崩壊を導く』とか『医療現場からの直言 新型コロナ「指定感染症」解除を検討せよ』など等、私の主張と同じようなことが書いてある。パラパラとページをめくってみたら、なかなか面白そうだから購入して早速読んだのであった。
まさに、我が意を得たりと云う感じであった。
テレビなどのマスメディアが、毎日、毎日、報道しているコロナ禍関係の話は、ミスリードであると素人なりに感じていたが、その意を強くした。
感染症の専門家と称する学者や医者は、とりあえず「命が大切だと発言しておけば保身を図れる」と考えているのであろう。
感染症の専門家ならば、感染拡大を防ぐことに最大の努力をするのであろうが、専門家だけに、そのことだけにしか思いが至らずに視野狭窄に陥ってしまい、人間社会や人間心理の面にまで考えが及ばないのかもしれないなぁ〜。
しかし、国民に対して、過剰な「恐怖心」を抱かせる必要まではないのではないだろうか?
「正しく恐れて、正しく対処する」ことが必要なのだ。恐れ過ぎても、甘く見過ぎてもダメなのだ。
コロナウィルスに対して、過剰な恐れを抱いてしまった国民は、正しい対処をしている人々に対しても、攻撃をする。いわゆる「自粛警察」とか言われる人達である。私は、この行動には違和感をおぼえた。
歴史を習い、知っている者ならば、かつての第二次世界大戦に日本が突入していった時の、日本国民の同調圧力と同じ様な空気を感じるのではなかろうか?
戦争に反対する人間に対して「非国民」と罵り、「隣組」を組織して摘発させ、大政翼賛会的に国民をミスリードしていった、あの頃のメディアと同じ手法ではないのかと危惧しているのである。
私のブログに対しても「コロナを舐めるな!」と云う批判が何度も来た。
私はコロナを舐めているわけではない。これまでのデータを冷静に判断した結果「コロナ以上に人間の心理を舐めてはイケナイ!」と感じたのである。
日本では、インフルエンザでも、年間3000人が亡くなっている。病気以外でも交通事故などで亡くなる人も大勢いる。
私だって病気になりたいとは思わない。風邪にだって罹りたくはない。これは誰だって同じであろう。
インフルエンザ等の死亡者数と新型コロナウィルスで亡くなった死亡者数を比較してみたら、こんなに大仰な対策が本当に必要なのか?と感じているのだ。過剰過ぎるのではないだろうか?
日本国民も「非常事態宣言」みたいな、非日常の事態が起きると、高揚感が生まれるのであろう。未経験事態に対するある種のワクワク感があるのも肯けるが、これ以上の過剰な対策を続けたら、人間社会を破壊してしまうであろう。
そうなってからでは遅いのだ(もうかなりヤバイところまで来ているが・・・)。
今日も、メディアは「東京で〇〇人、全国に拡がっている・・・」と恐怖心を煽っている。
メディアの中には「ワクチンが完成したら・・・」とか「治療薬が完成したら・・・」と、さも薬が出来たらコロナウィルスを抑えることが出来るかの様に言う人が居るが・・・。これもミスリードである。
年間3000人が亡くなるインフルエンザには、ワクチンも治療薬もあるのだ。それでも3000人が死ぬのである。冷静に考えたら、今のメディアの意見は矛盾だらけである。
本屋に置いてあった冊数から考えると、この「クライテリオン」の発行部数はかなり少ないのであろう。私が知らなかったくらいなのだから・・・。
日本国民は、この本を読むべきだ!
これまでの私の主張とほぼ同様の見解である。
「唾」が凶器同様になるのだから、その唾を防げば良いのだ。マスク着用、手洗い、うがい、換気の奨励をすれば、ソーシャル・ディスタンスは不要である。
ここ数日、感染者が増えているが、感染者を零になどは出来はしない。「指定感染症」から外して、インフルエンザや風邪と同じに考えて、コロナウィルスと共存するしかないのである。