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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2020-10-29-Thursday 秋間美江子さん逝去

アメリカのコロラド州ボルダー市の秋間美江子さんが逝去された

らしいと云う連絡が入った。

詳しい状況はまだ分からないのだが、秋間さんと親しい千葉の山野井孝有さんから25日(日)の昼頃に亡くなられたとのメールをいただいたのである。享年93歳であった。

秋間さんのことは、私のブログに何度も書いているが、哀悼の意を込めて再度書くことにするが、まさに「ボランティア精神が服を着て歩いている」という方であった。

秋間美江子さんとの出会いは、1995年2月のことであった。

当時、帯広青年会議所(JC)で、地球環境問題に貢献する大学を十勝に造りたいと「国際環境大学構想」を提案したのであった。

この大学構想を推進するプロジェクトチームの担当副理事長として、コロラド州立大学のあるアメリカ・コロラド州のボルダー市にJCメンバー8名+新聞記者で視察団を組んで訪問したのであるが、言い出しっぺの私が団長として赴いたのであった。

この時に、受け入れて下さったのが、ボランティア活動に熱心であったボルダー在住の秋間美江子さんであった。

ご主人の浩さんと美江子さんは、いわゆる日本からの「頭脳流出」である。

東京オリンピックの映像を世界中に発信したテレビの「秋間システム」の開発者であった浩さん、フルブライトの第一期の留学生であった美江子さん夫婦はともに優秀なご夫妻であった。

その優秀な頭脳をアメリカに流出をさせてしまったのは、日本人の差別であった。

美江子さんの兄の宮沢弘幸さんは、第二次世界大戦時に北海道大学の学生であったが、かの悪名高き特高警察にスパイ容疑で北大の外国人教師のレーン夫妻とともに真珠湾攻撃の日の1941年12月8日に逮捕されたのである。

逮捕容疑は根室の飛行場の存在を漏らしたというスパイ容疑であったのだが、これは既に新聞でも公表されていた衆人周知の事実であったのだ。

スパイ摘発の手柄を立てたい特高がでっち上げた冤罪事件であった。

お兄さんは極寒の網走監獄に収監された。戦時中、美江子さんはお母さんと何度も東京から網走まで足を運んだという。

終戦と同時に釈放されたが、外人教師も絡んだ冤罪事件であったから、占領軍に冤罪の発覚を恐れた官吏が証拠書類を燃やしてしまったがために、いまだに事件の真相は完全には明らかに出来ていないのである。

酷い環境の監獄生活を送った弘幸さんは昭和22年2月22日に亡くなられたのであった。

しかし、その後もスパイの家族という白い眼でみられ続けた秋間浩・美江子夫妻は、いたたまれずに日本を離れてアメリカに渡ったのであった。

この「宮澤・レーン事件」のことを美江子さんから聞いたのは、親しく家族同士のお付き合いをさせてもらってから数年後のことであった。

1995年2月の最初のボルダー訪問後には、秋間さんも何度も帯広を訪れてくれたし、私も家族を連れてボルダーを何度も訪問したりしたのである。妻は私以上に美江子さんと親しくお付き合いをさせてもらっていた。

そんな中で、この事件の真相を明らかにして、二度と不幸な冤罪事件を起こしたくないという気持ちに共鳴した方々が大勢集まってきたのである。

私も微力ながらお手伝いをさせてもらっている。

詳しいことは過去にこのブログに何度も書いているのでここでは割愛するが、美江子さんに心残りがあるとすればこの「宮澤・レーン事件」の真相を明らかにしてお兄さんの名誉を回復させることであったろう。

来年は事件から80年の節目にあたり、北大で展示会を開催する予定になっていた。近年、美江子さんは癌で何度も手術を受けて体力が落ち、来日がままならなくなっていたが、この機会に北海道に来て展示会を見ることを望んでいた。

またお会いしたかったとても残念である。衷心からご冥福を祈る(合掌)。