日米開戦の日である。
1941年12月8日の朝、ラジオの臨時ニュースで「大本営陸海軍部午前六時発表、帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と告げた。
この日内務省は、全国の特高警察を総動員して「開戦時に於ける外諜容疑一斉検挙」の名の下に、内偵していた対象者たち101人を検挙した(その後15人を加えて計126人)。その中の一人に、軍機保護法違反容疑で検挙された北大生宮澤弘幸さんがいた。
私が団長を務めた帯広青年会議所のアメリカコロラド州ボルダー市の視察団(1995年)が大変お世話になったボルダー市在住の秋間美江子さんの実兄である。
この時に一緒に検挙されたのが、当時北大の英語教師であったハロルド・レーン、ポーリン・レーン夫妻である。これが世に言う「宮澤・レーン事件」という冤罪事件だ。
ここ数日間は、北海道新聞などでも、この「宮澤・レーン事件」のことが何度も記事になっている。
開戦当時既に公知の事実であった根室の飛行場の存在をレーン夫妻に伝えたという冤罪を、手柄をたてたい特高警察がでっち上げて宮澤弘幸さんとレーン夫妻を逮捕したのである。
スパイの汚名をきせられて環境劣悪な刑務所に入れられた宮澤さんは、結核を患ってしまった。終戦後に釈放されたが1947(昭和22)年2月22日に27歳でお亡くなりになった。
憶えの無い罪でスパイ容疑をかけられ、その冤罪を晴らすことなく27歳と云う若さで亡くなられたのはさぞかし無念であったことだろう。
今年は真珠湾攻撃80周年であるという。ハワイでの追悼式の模様がニュースで報道されていた。
1995年のボルダー市視察以来、家族同士のお付き合いになり、何度も帯広とボルダーで行き来した秋間美江子さんも兄の冤罪を晴らしたいと願っておられた。
その秋間美江子さんは去年の10月25日に93歳でお亡くなりになられた。
北海道大学は今年になってようやく宮澤弘幸さんへの対応の誤りを考慮するようになったらしい。
せめて秋間美江子さんがご存命の内に聞かせてあげたかったなぁ。
そんなことを感じながら秋間美江子さんを偲んでワインを飲んだ12月8日の夜であった。