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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2022-01-19-Wednesday 祖父の勝

今日1月19日は祖父

勝(かつ)の祥月命日『1953(昭和28)年1月19日没』なので、お寺さんに月参りに来てもらった。

母が父と結婚したのが昭和30年であるから、母は祖父の顔も見たことがなく、まったく知らない。祖父のことは生前に父から聞かされていただけである。

父の話によると、勝は1986(明治19)年9月1日に山梨県北巨摩郡高根町の生まれで、実家の農業を継ぐのが嫌で、甲府に出ては印鑑彫の技術を身につけた。その修行中に、ある時北海道から黒い石(黒曜石)が沢山送られて来て「十勝と云う場所にはこの黒い石がそこら中にゴロゴロ転がっているらしいぞ・・・」と聞かされて、自分の名前と同じ漢字の「勝」が付いている十勝に興味を持ったのだと云う。行動的な勝は、早速1901(明治34)年14歳の時に単身北海道十勝の視察に訪れた。

この時代の北海道にはまだ道路も満足に出来ていないから、海路、函館から海岸沿いにえりも岬を通って、豊頃からは十勝川を遡って十勝入りした。

山梨県は、印鑑作りでも有名な地域であるが、山梨出身の金物屋が全国に散らばっていった地域としても有名な場所である。その全国各地に散らばっていった山梨出身の金物屋の名称の頭には「曲尺(かねじゃく)(直角に曲がった鉄の物差しの形を模した(『 )の図柄が付いていて「カネ〇〇金物店」と名乗る店が多い。

当時の池田町(当時は帯広よりも池田の方が人口が多かった)にも、山梨出身の金物屋の「カネヨ佐藤」と云う店があった。勝はそこの経営者の佐藤喜代丸さんを頼り、同郷のよしみで寄宿させてもらって十勝を下見して歩いたのだという。

池田利別に物件の当たりをつけて、両親を説得する為に一旦山梨に帰郷するが・・・。

勝は坂本家本家の一人息子であったが・・・

両親からは「蝦夷地なんぞに行けるか!」と北海道行きを拒否されたという。勝は勝手に土地を半分売り払って移住資金にしたらしい。この話は、大学卒業時に私と父の二人で、祖父のルーツを辿ろうと山梨県北巨摩郡の祖父の実家を探し当てて訪ねた際に聞かされた話である。

祖父の両親は分家から養子をもらって坂本本家を継がせたが、とても苦労をしたのだと・・・

勝は1903(明治36)年16歳の時に、単身十勝の池田利別に移住をし、坂本勝玉堂という印鑑屋を開業した。

1905(明治38)年に、帯広と釧路間に鉄道が開通するのをキッカケにこれからは鉄道の時代だと帯広の西2条南4丁目20番地(宮本商産の筋向かい)に居を移した。

1938(大正13)年に諏訪鹿三河西支庁長の土地(西2条南9丁目16・18・20番地)を三戸分購入して現在地の西2条南9丁目16番地に移転した。

祖父勝が北海道十勝に根を下ろしてからは119年。現在地に移ってからでも98年になる。

月参りに来ていただいた織田住職さんにそんな勝の話を披露した祥月命日であった。