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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2022-03-09-Wednesday おびひろ・今と昔 前半

「おびひろ・今と昔」 井浦徹人著 昭和33年3月15日 十勝毎日新聞社刊

『「第十六話」興行界の巻』(312頁)から参考資料として転載する。

〇請負業を兼ねて朝倉座経営

帯広の興行界がめまぐるしい変ぼうをとげたのはここ四、五年のことで、それまで帯劇、キネマ館、ミマス館の三館時代がながくつづいている。これは帯広が戦後急激に人口がふくれあがり、従来の三館ではファンの鑑賞欲をみたし得ないまでにおいこまれたからで、業者の企業意欲がはたらいたことも、逆説的には映画愛好者がそうさせたともいえるのである。いずれにしても夷石興行部が大映キネマ、東劇、テアトル銀映、プリンスの四館、藤下興行部が帯劇、帯広日劇、ミマス映劇三館をそれぞれチェンとするほか、東映オリオン、スバル座合わせて九館が、人口八万内外の帯広にしのぎを削っていることは、全道興行界を通じて異例のはなばなしさである。経営の内幕がどのようになっているか、そんな詮議はべつとして映画を愛し、映画をたのしむ人々のためにはかぎりなくうれしい企業と申上げねばなるまい。

帯広興行史は明治三十七年、東二条七丁目十九番地(いまの鈴木石材店)に建てられた朝倉座にはじまっている。古老の言葉によれば、創業は明治三十五年といいあるいは三十六年とまちまちであるが、三十六年九月現在帯広町職業別戸数の記録には、劇場を業とするものが載っていない。経営者の朝倉繁七氏は大津事件で有名な中山一家で明治二十六年ごろオベリベリ部落に居を構えていたが、そのころ何を渡世としていたかは詳らかではない。その後市街地が開放され、大通に市街ができるようになったあと、東二条七丁目十七番地に転じて土木請負業の看板をかけ、隣接の角地に芝居小屋を建てたものである。

明治三十七年といえば日露戦争のはじまった年、釧路帯広間の鉄道が通ずる前の年、帯広に二級町村制が布かれて二年をすぎたあと、戸数も千三百戸を数えて戦争景気や鉄道の前景気で沸き立っていたころである。後年帯広花柳界に嬌名をうたわれた綾之助の母茂木徳代さんが、西一条六丁目(いまの小川醸造工場)に“帯広亭”という寄席をつくって義太夫を教えたのもそのころであるが、これも正確な年代はわからない。したがって朝倉座の“こけら落し”にどんな一座をあげたかも知るよしがないが、これも古老の言によれば、月に一度あるいは正月、お盆、お祭などの紋日に田舎回りの壮士芝居や見世物、歌舞伎一座がかかるぐらい、役者名を染めたノボリをかつぎ、ふれ太鼓が町の中を通ると、子供たちが物珍しげにゾロゾロとあとにつづき、町の人たちは芝居の“外題”に噂の花を咲かせて見物に出かけるのが何よりのたのしみだったという。

〇今越氏を社長に栄楽座創立

朝倉座が焼けたのが大正の初期、焼けたのを機に大通六丁目(いまの高井旅館となり)に陽気館として再生し、これが後年千代田と改名した。(いずれも年代不詳)大正四年の秋を迎えたころ、前年欧州の一角に起こった動乱が第一次世界大戦に発展し、戦時インフレの波が帯広にも押し寄せてきた。そのころ根室銀行支店長代理で停年退職となっていた今越惣吉、土建業の浅野三次郎、遊郭紀の川樓の加森為蔵、高橋覚次郎の諸氏が発起、千代田館の向こうを張って劇場創立を計画した。これが実を結んで大正五年一月創立総会を開き、資本金一万二千五百円(半額払込)でいまの西一条九丁目にその名も栄楽座として発足した。社長は今越惣吉氏、加森為蔵氏が経営の責任者となった。

そのころは“いろもの”専門で旅から旅を流れる壮士芝居や歌舞伎のほか、ようやく全盛となりつつあった浪花節一座、漫才、舞踊をとりまぜた音曲ものばかり、これら旅芸人は小屋の楽屋に寝泊まりしながら、花札を引いたり女遊びして旅を重ねていた。だから小屋には専属の賄人やお客のための売店を必要とし栄楽座ではこれを二本建として入札制で経営者をきめていた。

〇藤下氏乗り出す

藤下儀右衛門氏夫妻が帯広にきたのは大正八年、その年から売店の権利を獲得し、芝居の幕合を利用して売子に食べもの、飲みものを売らせていたが、その後白内障(ソコヒ)を患い営業も不自由となったので、当時賄部をやっていた寒松園栗塚氏に権利をゆずり、治療のため札幌に引揚げた。ところが栄楽座の経営は不振つづき、しまいには電灯料も不払いがちという状態においこまれ、これが株主間の問題となり、今越、浅野、高橋の役員たちが代表で出札、すでに眼疾の癒えていた藤下氏に栄楽座の経営をたのみこんだ。これが藤下氏乗り出しのはじまりで、売店、賄の一さいを引つくるめ栄楽座をあずかることとなった。

時に大正十一年五月。

〇大通りから姿を消した芝居小屋

朝倉座が焼けたあと、大通六丁目に陽気館として再建され、これが千代田館と改名されたことはさきに述べたが大正のおわりごろさらに電気館と改まり、この前後に朝倉氏は興行界を引き、夷石民夫氏がそのあとをしばらく経営している。しかし昭和元年ごろ類焼の厄に会ったあと、誰も再建に乗り出すものもなく大通から劇場は姿を消した。

朝倉氏についてこんな逸話が残っている。ある年の大ミソカ、掛取りが押しかけたところ、彼は茶の間に素つ裸となって大の字にひつくり返り、ヘソの上に大きなお椀を乗せて天井と睨めつこしている。やがて彼は掛取りの連中に向つて「何しに来たッ」と大喝一声したものだ。「品代の掛けをいただきに来ました」というと「これがわからんか」とヘソの上のお椀を指した。一同が目を白黒させたり、首をかしげたりしているのを見て大音声をはりあげ「ハラワン」と一言、そのまままた天井とにらめつこをはじめたというのである。大津で斬殺された中山一家の盃をもらった男だけに凄味もあつたが、中年以後は人間も円熟し町民から親しまれていた。晩年を帯広に閉じたが、興行界の草分けとして、また土建界の先駆者として郷土発展の礎となつた人である。

〇神田館主佐藤氏とミマス映劇

大正七年西一条四丁目に神田館を建てた佐藤市太郎氏は旭川の人、前身は師団通りの理髪職人であるが、明治の末葉“活劇写真”といわれた映画が全国興行界を風靡したのに着眼、旭川に第一、第二、第三と七館に及ぶ常設館を経営、札幌、小樽、北見、釧路に興行ラインを張つた。帯広の神田館は加森為蔵、所仁尾吉、神島正一、嵯峨某その他が株主となって日活映画を上映していたが、大正十五年ごろ営業不振から佐藤氏が持株を放したのを機にミマス館と改めて再発足、これも永つづきせず昭和二年に入つてついに解散してしまった。

そのあとを敷地所有者の所氏が引受け単独営経に移したが、悪いことは重なるもので翌三年十一月フィルム引火から全焼、そのころ帯広の繁華街が南に移りつつあつた時でもあり、附近住民の要望もあつて新たに株式会社を組織野村文吉氏を社長に、安倍隆義氏が専務となつて再発足した。社長はその後郷清吉氏が就任、一方経営は昭和十年ごろまで中川支配人があたり、後に小笹商会の堀瑞栄一氏が代わつたが、十四年木村直一氏の経営に移つてから新興キネマの直営館となつた。戦時中映画法の改正から“色もの”専門館となつたが、昭和廿六年再度の火災に見舞われたあと一旦会社を解散、三百万円の資本金でミマス映画劇場と改称、洋画封切館となつた。郷社長は昭和二十四年死亡、襲名した二代郷清吉氏が社長として現在に及んでいる。

〇芝居小屋から映画上映館へ

大正十一年栄楽座の座主となった藤下氏は福井県人、若いころ浄土真宗を奉ずる仏教人。この世界に珍しく酒もタバコも口にしない誠実肌が買われて、町民の信用も厚く営業も日に月に順調化していつた。藤下氏が栄楽座経営に乗り出したころは、館につづいて生まれたキネマ館がいずれも日活、松竹 の無声映画あるいは連続活劇の洋画などで客を呼んでいたが、藤下氏はこれに振り向きもせず、浪花節や芝居、あるいは祭典の仮設興業で進んだ。映画俳優の五月信子、高橋義信あるいは諸口十九、筑波雪子の一行が実演のため栄楽座の舞台に立つたのはそのころである。

時は容赦なく流れて大正は昭和に移り、旧劇が時代劇と変わり新派と呼ばれた壮士芝居が新劇と呼ばれるようになつた。時流に逆らつていては興行界からとり残されることを知つた藤下氏は、昭和七年一月に入つて日活と契約、いわゆる“活弁”つきの無声映画を上映することとなつた。当時栄楽座の舞台に立つた弁士は花房春波、松平夢郷、宮城渓涛その他であるが、その年九月に入ってレコードと映画を合わせるサウンドトーキーが製作され、つづいてオールトーキー時代が出現した。

(翌日に後半の掲載します)