«前の日記(■2022-03-09-Wednesday) 最新 次の日記(■2022-03-11-Friday)»
 | トップ |  | ビル概要 |  | テナント構成 |  | 沿革 |  | アクセス |

観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2022-03-10-Thursday おびひろ・今と昔 後半

おびひろ・今と昔 後半 315〜318頁

〇帯広に吹き荒ぶ映画館旋風

東宝が生れたのが昭和十二年八月、そのころ専属制であつた俳優の大つぴらな引抜きをやつて、松竹、日活、大都、新興、全勝、極東の六社が東宝を向うに廻し映画界に話題を投じ、林長二郎(いまの長谷川一夫)がとばつちりを喰つて顔を斬られたりした。栄楽座が、日活から東宝に契約を切り替えたのはその年、それから昭和二十七年まで東宝映画を上映してきた。戦時中企業整備の波は映画館にも及び、白紅の二系統となつたが、戦後松竹が再建され、東宝争議で新東宝が生れたあとこの二社を加えて三社の上映館となり、キネマ館は大映、東映の二社で廿七年まで事なく過ぎてきた。

ところがその年七月に入つて中島武市氏がオリオン劇場を創立、つづいて同年九月には釧路の浅川興行部がスバル座を建てて一躍五館となつた。配給映画の再編成が行われたのは当然で、東映がオリオンに走り、スバル座は東宝上映権を握つた。映画界を吹きまくつた嵐はその後もやまず、廿八年にはキネマ館の夷石氏がニュース劇場プリンスをつくり、廿九年にはテアトル銀映、翌三十年には東劇とわずか三年の間に夷石興行ラインを張りめぐらしてしまつた。

〇帯広劇場と改称

三館から五館へ、さらに八館へと飛躍した映画館は、三十一年に入り中島武市氏が“市長落選記念”と銘打つて新築した日劇を功えて九館となりファンを有頂天にさせた。この結果は三度び配給の編成替えとなり、日劇出現を前にした三十一年六月、東宝が先ず帯劇に戻り、同年九月日劇完成のあとこの小屋を藤下氏が賃貸借して松竹上映館とし、ミマス館は松竹、東宝の再映館に変えて藤下興行の傘下に加わり、スバル座は洋画封切館となつた。

栄楽座は昭和十四年十月廿日、それまでの板張り、畳敷きの下足制から現在の建物改築、名も帯広劇場と改めた。初代社長に今越惣吉氏が就任、今越氏死亡のあと伊谷半三郎氏が代り、昭和丗一年の株主総会で伊谷氏を会長に中島武市氏が三代目社長となつて現在に及んでいる。

〇筧殺し事件の仲裁役となる

昭和のはじめごろ、夜店通り(いまの広小路)に根を張つていた筧清明一家、新谷実一家はナワ張り争いからつねに睨みあつていたが、昭和六年秋、筧の子分たちが近在の祭典に出かけたあと、新谷一家がなぐり込みをかけ、親分の筧は日本刀でメッタ斬りにされ、帯広湯(西一条九丁目中通)前の路上で一命を断たれた。筧の兄弟分や子分がこの仕返しをやるとか、血の雨が降るとか、そのころ町の中は物騒な噂でもちきつたものだ。この事件は侠客伝を地でいつたものとして当時全国的話題を呼んだが、これの仲裁役に立つたのが藤下氏で、双方納得の上栄楽座の舞台で、“盃納め”の手打式が行われた。当日の式には道庁保安課員はじめ、時の警察署長北村八州仙警視、本名消防組頭も参列、全国から集まつたテキ屋の親分数十名に上り、栄楽座の周囲には二百名の消防組と五十名の警官が動員されて、警戒に立つという物々しさであつた。このような興行師らしい過去をもつ藤下儀右衛門氏も昭和三十二年春この世を去り、嗣子の藤下正由氏がいま経営の矢面に立つている。

〇荘田喜六氏の手でキネマ館誕生

帯広に“活動写真”がはじめてお目見得したのは明治四十一年、時の帯広聖公会が岡山孤児院の義金集めに朝倉座で催したもの、それまで幻灯の知識よりなかつた人々は画面の人がうごくというので「あれは生きているのか」と噂しあつたりした。日本に映画の渡来したのが明治丗年というからその十年あと、見世物の町廻りや芝居のふれ太鼓より知らなかつた人々の前に、曲も浮き浮きするジンタが町を流してあるいたので、女子供はゾロゾロとそのあとをついてまわつた。女房がいないのでさがしに出たら、子供をおぶつたまま楽隊に浮かれてあるいていたという笑い話もある。

大正五年栄楽座が生れ、七年に活動常設館として神田館ができた。人々は松之助の忍術におどろき、チャップリンの喜劇に腹をかかえながらいわゆる活動写真になじむようになつた。その春、荘田喜六という男が飄然帯広に流れてきて活動常設館の建設運動をはじめた。高倉安次郎、小泉碧、村上亀五郎、鎌谷與作、加森為蔵など第一線級の有志を説いてまわり、神田館の向こうを張ることとなつた。はじめ神田館と背中合せの西一条四丁目をかんがえた、というのは当時の西二条から大通りにかけ四、五、六丁目一帯は帯広の繁華街であつたからだ。しかし将来の発展方向が駅前通りに指していることを見ぬいて、いまの西二条九丁目にキネマ館を新築した。

〇帯広をバックに連鎖劇をつくる

社長に村上亀五郎氏を推し開館したのが大正八年の春“こけら落し”は沢村四郎五郎の“村上喜劇”であつた。館主の荘田氏は広島の生れ、信正堂書店主荘田清一氏(帯広市議会議員、帯広浪曲学校長)の厳父、事業意欲のさかんな男でつねに一かく千金を夢みていた。「無限軌道」という鉄車を考案、七師団に大量売込みを策したが、試運転のさい音響が高すぎるというので失敗したり、尼港に乗りこんでばかでかいデパートを建て、ひと儲けをたくらんだが、これも日本軍の撤兵でダメ、一生夢から夢を追うて終つたが、親分肌の風格をそなえたところがあつて館内にはいつも食客がゴロゴロしていた。

キネマ館時代、帯広を背景として撮影した活動連鎖劇は、荘田氏の一面を語るものとして今も炉ばなしのタネとなつている。大正九年ごろ、荘田氏は旅廻りの新派劇団山口梅夫一座二十五名を館内に寝泊りさせて、映画と実演の連鎖による探偵活劇を思い立つた。この連鎖劇は今こそ姿を消したが、明治末葉から大正年代にかけ観劇家の人気に投じたもの、画面に活躍している人物と実演の人物が同じで、たとえば山中や海岸などの追跡場面など、舞台で現わせない場面は映写し、格斗の瞬間にスクリーンが上がつてパッと灯がつくと同じ背景に同じ扮装の人物が舞台にいるという仕組みでファンを喜ばせたものだ。

角袖に白のメリヤスシャツ、鳥打帽を真深に尻端打りすれば、一目で探偵とわかるのがそのころの風俗、この探偵が犯人を追跡していく、追いつめらた犯人が河西橋から十勝川にザンブと身を投げるところをカメラがとらえるという場面などあつて、川に飛び(込)んだ役者たちは特別手当として木賊原遊廓に一晩遊ばせてもらつた。なにやかや金もかかつたが、荘田氏は上演を急いでキネマ館を密閉して現像、これを栄楽座で封切りした。ところが撮影技術の稚拙と俄か仕立ての現像でフィルムはまつくら、せつかく当てこんだ興行も、ものの見事に失敗してしまつた。

〇経営夷石氏の手に移る

そのころキネマ館上映の写真は釧路のオペラ館から廻されていた。オペラ館主は夷石雅太郎氏(いまの夷石興行社長夷石勝氏祖父)でその子の夷石民夫氏が月に四、五回写真をもつて帯広に出掛てきてキネマ館の営業をみていた。当時は夜一回の興行、写真の替りは一週間目というのんきな時代であつた。荘田氏が連鎖劇で失敗したあと経営を退いたので、村上社長と話合い夷石氏がいよいよキネマ館主となつて上映も晝夜二回とするほか、昭和元年には館入口にあたる西二条九丁目三番地(いまのホシ薬局)にカフェー・エビス食堂を兼営して八面六ぴの手腕をふるつた。

夷石氏は徳島県の人、十二才の時父の雅太郎氏に伴われて渡道、奈井江の炭鉱夫を振出しに製材土建、庶路や茶路炭鉱の経営あるいは釧路で古道具屋など転々としたがいずれも失敗、さいごにオペラ館を経営してホッと一息つく間もなく、釧路の大火で類焼の厄にあうという波乱の半生を経てきた人、恵比寿様をほうふつさせる福相の持主で、いろいろの逸話もつくつたが昭和十五年四十九才の若さで他界した。

〇華かな活弁時代

無声映画時代、キネマ館の舞台に立つた。“活動弁士”の中には荘田氏の時代下山路友、鈴木芙美、佐藤春桂、花柳中麗洋、中村春城、菊村正夫、太田東山、伊達楓浪、柳楓昭、楽士万城目正など多彩の陣でファンの人気をあつめた。これらの弁士はモーニング姿あるいは袴姿で上映前舞台に立ち、「ここに映写いたしまするは米国ユニバーサル会社特作名画、連続大活劇覆面の呪い全三巻・・・」といつた調子で前口上を述べ、解説まで長々とやつて、上映する写真の方が短いというものもあつた。ミーちゃんハーちゃんが活弁にあこがれ、そのため家庭の物議をかもしたのもそのころである。

〇しのぎ削る九館

キネマ館はいま夷石興行部チェーンとして大映キネマ館を主軸に、日活の東劇、洋邦画映画館としてテアトル銀映、プリンス四館を率い、創業当時十二名の従業員も七十名にふくれ上つている。スバル座は釧路浅川興行ラインの一環として洋画の封切館中村義雄氏が支配人、鎌谷一郎氏が副支配人で経営中、オリオン劇場は中島武市氏を社長に東映封切館として、九館いずれも宣伝戦に大童である。

(「興行界の巻)全編掲載終了)