「戦」と云う漢字に決まった。
私の今年の漢字を表すとしたならば「諦」(あきらめ)とでもなろうか。
3年にも及ぶ「コロナ禍」で世界の未来、日本の未来、十勝の未来、帯広の未来、そして我が家の未来のこと等をあれこれと考える時間がタップリとあった。
来年1月の誕生日で私は満65歳になり高齢者のひとりとなる。
更に、父親が亡くなった年齢の64歳を超えることから、この一年間は考えさせられることが多くて、自分では哲学者にでもなったかのような気分であった。
「コロナ禍」がキッカケのひとつになって、社会も私の身の周りのことも大きく変化したし、これから、その変化の程度に拍車が掛かるであろうことが予想される。
これまで帯広市の中心街活性化については提言も実行もしてきたつもりであるが、帯広市中心街のまさに中心であった「藤丸デパート」さんが来年1月末で閉店することが発表された。
我が社の「坂本ビル」もコロナ禍でテナントが撤退し、ガラガラの状況が続いている。
何とかしなくてはならないと、あれこれと今後の「商いの有り様」を考察する日々を送っていた。
「物販」は地方都市に店舗を構えて売る時代ではとうの昔の20数年前からなっていなかった。父が亡くなって社長を引き継いだ1992年にもあれやこれやと考えた結果、人間は食べなければ生きていけないから、これからは「飲食」しかないと考えて、坂本ビルを物販店から飲食店に大転換した。
コロナ禍が起こる前に、これからは「LIVE(生)」の時代だろうと考えた。その場所に行かなければ臨場経験や感動が出来ないことを自社ビルでやろうと考えて坂本ビル地階に「小(SHOW)劇場」を造る計画を立てていたのである。まさに実行に移そうとしたその時にコロナ禍が発生して急遽中止にした。
「飲食業」も人が集まる「劇場」もコロナ禍では大打撃を受けてしまった業態であった。
コロナ禍は今後の世界の変化を加速させるであろう。
今、世の中は「仮想現実(バーチャル)」の方に向かっていると言う。
アバターとか云う自身の「仮想分身」をつかって、コンピュータ内に造られた「仮想世界」の中で体験をさせて満足させる方向であるのだという。
現実世界で実際にその場所に出向かなくても良いのだと言う。
だが、しかし、私にはその予想される未来図には、もはや「絶望」しか感じられない。
もう新しいテクノロジーにはついていけない。そんな世界になぞ住みたいとはこれっぱかしも思わない。そんな世界に魅力はまったく感じない。
昔読んだ「未来SF小説」にも似た様な世界観があったが、究極のところは「飲食」もゴーグルの様なものを装着して自身の脳みそを騙して、味覚や聴覚や視覚や触覚などの五感コントロールして、飲食も本当の自分はカプセルのようなものを口にするだけなんていう世界が楽しいはずがないではないか。
エンターティンメントの世界も、生の演奏や演劇の会場に実際に行かなくても自宅のテレビみたいな装置で臨場感を味わうようになるらしい。
旅行も現地に赴く旅費も掛からないし、一流のシェフの料理も脳みそを騙してカプセルで済ませることが出来る。
そんな社会が本当に天国なのだろうか?
仕事もリモートワークが中心になったら、自宅から一歩も出る必要がなくなる。
そうなったら、街は不要だ。事務所が入る不動産ビルも不要になる。人が旅行に行かなくなったらホテルも不要になる。物販店も不要になって、スマホ一つで買い物が出来て、宅配便が届けてくれる。その宅配便も運転手兼配達人が必要なトラックではなく、ロボットやドローンが届けてくれるようになる。
劇場や競技場に人が集まる必要がなくなる。レストランにも行く必要がなくなる。便利な世の中になると言うが・・・。
それが人間の生き方なのか?それで楽しいのか?
他人は、私の頭が古いと言うが・・・。
不便さが生み出すコミュニケーション、便利さが殺すコミュニケーションなのである。
殺伐とした世の中になってしまうであろう。
もはや「諦」しかない。