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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2023-01-11-Wednesday 取材依頼

地元の新聞社の記者から

今月末の藤丸百貨店の閉店に伴っての特集記事を書くので、帯広の中心街の昔の話を聞きたいとインタヴューの申し出があった。

写真や資料を帯広市の百年記念館や図書館に寄贈してしまったので、一部年代などは記憶があいまいな箇所があっても、それを正確に調べることは出来ないがそれでも良いのかと尋ねたら、良いと言うので、暇だし受けることにした。

私の祖父の坂本勝(かつ)は明治36(1903)年に16歳の時に一人で十勝に移住してきた。最初は十勝の池田町利別(凋寒おろさむ)に坂本勝玉堂という印鑑屋を開いたが、明治38(1905)年の鉄道開通にあたって、これから鉄道の時代だと帯広の西2条南4丁目20番地に移転したのである。

そして、大正12年頃に、現在地である帯広駅前の西2条南9丁目16・18・20番地に移転してきた。

だから我が家は帯広に居るだけでも既に118年になるし、十勝移住からだとちょうど120年目になるわけだ。

中心街の現在地に自宅兼会社があったので、昭和42年11月の火事によって自宅を移転した小学4年生までは中心街に暮らしていたから、いわば「街」は自分の家の庭も同然の生活であった。

昭和36年の私が3歳の時に、我が家の向かいに「藤丸百貨店」がオープンしたので、物心ついた時から藤丸が遊び場であった。ほとんど毎日のように遊びに行っていたのである。

当時の平原通りには、自宅兼会社という家ばかりであったから、同年代の子どもたちとは、近所で良く一緒に遊んでいたものだ。

当時の我が家は「ダンスホール」をやっていたから、子供にとっては柱の無い空間は体育館みたいなもので、格好の遊び場だったわけである。

1学年上の姉の同級生、私の同級生、そしてその兄弟姉妹たちなど、平原通りだけで十数名も居たから遊び仲間にはまったく不自由しなかった。

街そのものが遊び場であったから、町内のちょっとした空地で、かくれんぼや戦争ごっこなどをして遊んだものである。だから路地裏や他人の家の庭など、どこにでも隙間があったら入っていって遊んでいたのである。

遊びを通じての記憶であるから、細部まで良く覚えている。我ながら昔の記憶はたいしたものであると自負しているが・・・、

さて、果たしてどんなことを聞かれるのであろうか?