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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2023-08-21-Monday 松旭斎すみえ

女性マジシャンの松旭斎すみえさんが逝去された。

8月12日の午前2:26に老衰のためにお亡くなりになった。享年85歳であった。

またひとり旧知のマジシャンが鬼籍に入ってしまった。

すみえさんとは、私が大学1年生に入ってすぐの1976(昭和51)年の4~6月に、作曲家いずみたくさんの所有する六本木のビルの地下にあったアトリエ・フォンテーヌという小劇場で開催された(初代)「引田天功のマジック道場」という催しで共演している。

この時の共演者は、引田天功(初代)、ジミー忍、伊藤一葉、はかま満男、松旭斎すみえ一門、堤芳郎、その他に学生マジシャン3名、指人形使い一座、などであった。

北海道の片田舎で、独学でマジックをやっていた高校生が、大学に入学した直後に、当時一番人気のあったマジシャンである引田天功のショーにいきなり出演したのである。これはまさに縁であった。この時の出演が縁でジミー忍師に師事することになったのである。

すみえさんにはとても可愛がってもらった。この時に松旭斎すみえ一門の中の弟子の一人として共演した花島世津子さんとは、ジミー師の自宅で麻雀もやったりした。

その後も、すみえさんとは何度か舞台もご一緒したが、一番の思い出は、大学4年生(1979年)の冬に、「奇術研究」というマジック雑誌を出版していた力書房という出版社が東京会館で主宰したマジックコンベンションに参加した時のことである。

このコンベンションのメインゲストは、フレッド・カップスという技巧派のマジシャンの招聘であったのだが、スペシャルゲストとしてイタリア映画「ヨーロッパの夜」(1960年公開)というヨーロッパのキャバレーに出演するパフォーマーの演技を映した映画で華麗な鳩出しのマジックを演じたハンサムで上品なマジシャンのチャニング・ポロックも奥様同伴で来日していた。

当時、ポロックはすでに引退していて島田晴夫師のマネージャーを務めていたのであるから、とうぜん島田さんも来場していたがこの二人は演技をしていない。

映画の公開が私が生れた直後の昭和35年であるから、当時の若い人の中でチャニング・ポロックのことを知っている人はとても少なかったのだが、私はジミー師の自宅でこの映画を何度も見せてもらっていたので憧れていたマジシャンが目の前に居ることにとても興奮していた。

すみえさんにとってもポロックは超美形なマジシャンとして憧れの人であったのだろう。私に通訳して欲しいと言って彼の横に私を連れて行き、一緒に写真を写してもらってサインをしてもらったのであった。

松旭斎すみえといえば、ポール・モーリアの「オリーブの首飾り」というBGMであろう。すみえさんのことは知らなくても「オリーブの首飾り」の音楽が聞こえてきたら「マジック」が始まると思っている人も多いのではなかろうか。このBGMを使用し始めたのは昭和50年頃ということだから、ちょうど私と初めて共演した頃であったのだろうなぁ。

「奇術の日」というのを設定したのもすみえさんである。これは、ジミー忍師の奥様の「こまだまこ」さんの誕生日が1月23日であることから、ワン・ツー・スリーというマジックの掛け声と同じ数字の並びの日をマジックの日に制定してはというジミー師の提案を、当時の日本奇術協会の第8代の会長に就いていたすみえさんが採用したものである。

ただし、1月ではイベントが少ないとのことで、同じ数字の並びでクリスマスや忘年会などが多い12月3日になったのであった。

昔、一緒に活動したマジシャンたちが亡くなっていくのは寂しいことだなぁ~。