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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2023-11-04-Saturday イノベーションの作法②

揺籃期~陳情型から自律型へ転換

話は90年代半ばから始まる。地域活性化のため、十勝の自然を活かした環境系の大学を新設することはできないか。最初は、地元の青年会議所で大学新設についての検討が進められた。企業や自治体の環境対策をマネジメントできる人材を養成する大学だ。父親の急逝を受けて三十代で貸しビル業の三代目を継いで間もない坂本がリーダーを務め、これと思う学者や専門家などを招いて熱心に勉強会を重ねた。しかし、当時は今ほど環境問題についての関心が高なく、地元の賛同を得られないまま、この計画は頓挫してしまった。

ならば、キャンパスが必要な大学ではなく、いろいろなプロジェクトを起こしながら地域に知恵とノウハウを蓄積していこう。坂本たちは支援してくれた学者らの産学のネットワークの協力を得て、「十勝環境ラボラトリー」と名づけた活動を始めた。エネルギー、自然、民俗、食などをテーマに21世紀型の新しいライフスタイルを見つけ出す九つのプロジェクトが発足した。

大手自動車メーカーや東北大学の協賛によるガソリン以外のエネルギーで走る自動車の研究、世界的な建築家石山修武・早稲田大学教授の設計による、目が見えても見えなくても同じ体験が出来る「十勝ヘレン・ケラー塔」の建設、アイヌの物語をアレンジした絵本の出版・著名料理家を招いた十勝オリジナル料理の創作・・・等々、ユニークで意欲的な取り組みが並んだが、坂本はその中で、地方都市における中心街のあり方を探る取り組みを担当した。

帯広もローカル線が廃止になって以降、車社会化が急速に進んで住宅街が郊外に広がり、そこに大手資本による大型店が進出、中心街は空洞化の問題を抱えていた。この中心街をもう一度活性化するにはどうすればいいのか。大手資本と同じ土俵で戦っても、自分たちにはとうてい勝ち目はない。坂本たちは発想を切り替えた。

街の中心部は車ではなく、人中心でありたい。車を一定地域から締めし、そこに店舗を集約して人々が安心安全に買い物などができる空間をつくり出す。まわりの駐車場との間は公共交通機関で結び、郊外の住宅街とも結ぶ。

いわゆるパーク&ライドとコンパクトシティ(都市インフラを街の中心に高密度化することで効率化と環境負荷減を図る)を組み合わせた構想を三年がかりでまとめ、市と商工会議所に提案した。しかし、100ページを超える大作のレポートは、「車中心の帯広でこんなことができるわけがない」と目の前でゴミ箱に捨てられた。坂本が話す。

「構想は受け入れられませんでした。しかし、われわれはこの活動を通じて、まちづくりで一番大切なのは、人と人とのコミュニケーションを取り戻すことであると学びました。同時に誰かに頼む陳情型では何も変わらないことも学習しました。自分たちの資金と行動力でまちづくりをやろう。苦い経験が逆に気づかせてくれたのです」

そのころ、帯広がTMO(タウンマネジメントオーガニゼーション=中心街活性化に取り組む機関。国から補助金が出る)に認定され、坂本は作業部会の委員に選ばれた。しかし、会合が開かれたのは年二回。一般市民の委員が発言できるのは一人せいぜい一分くらいで、意見が採り入れられることなく、コンサルタントの意見がそのまま通ってしまう。運営への不満と無

力感が、他力本願から脱した自律志向へと拍車をかけた。

坂本は他の市民団体などにも呼びかけ、「まちづくり・ひとづくり交流会」を発足させた。

99年2月のことだ。問題は自分たちでどれだけ資金を用意できるかだった。メンバーは40名。医者も経営者もいたが、学生が出せる上限の一万円ずつ、同じ額を出し合った。合計40万円で何ができるか。ここで、屋台の案が浮かび上がった。

かつては生活の場だった駅前通りは、今は通行だけの場所になってしまった。そこに屋台を置き、流れによどみをつくれば、触れ合いが生まれるのではないか。屋台なら自分たちでもつくれそうだし、店主は交替で務めればいい・・・初めは獏とした思いを抱いていたメンバーたちが確信を持つに至ったのは、外国の屋台を見たことだった。

その年はたまたま海外旅行に出かけるメンバーが多くいたため、ついでに自費で視察をしてくることにした。アメリカ、台湾、韓国、シンガポール、ベトナム・・・行く先々で屋台の盛況ぶりに目を見張った。そして、そのほとんどが共通して三坪前後の広さであり、それが店主一人でも接客を可能にし、屋台独特の雰囲気を醸し出し、客の心をつかんでいることに気づいた。

それぞれ撮ってきた写真は合計800枚にも上がった。屋台関係の資料がほとんどない中で、手づくりした「世界の屋台写真資料集」はメンバーたちの努力と意欲の結晶だった。これが北海道経済産業局で市街地活性化に関わっていた担当者の目に留まり、活動が評価され、その斡旋で中小企業団体中央会から600万円の補助金が支給されることになった。

99年10月、軍資金を得たメンバーたちはいよいよ、日本国内の屋台の七割以上が集中する博多へと視察に出発した。ところが、そこで厳しい現実を知ることになる。

(つづく)