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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-01-14-Monday 人間万事塞翁が馬 1

私の本業はビルの賃貸管理業である。そして、私の人生訓は「人間万事塞翁が馬」である。幾度も塞翁のような経験をしてきたからだ。

現在の「坂本ビル」が建っている帯広市西2条南9丁目16・18番地に1925年に祖父が移ってきて「坂本勝玉堂」を開業したのが現在地での商売の始まりである(詳細はHPの年表参照)。祖父は山梨県の出身で、最初の商売は判子屋であった。その後にその技術を使って十勝石細工工芸品の販売から電材屋や洋装店などをやっていたりした。1927年生まれの父は戦争に行くのが嫌で、当時少なかった教員になれば戦争に行かずに済むかもしれないと北大臨時教員養成所に入ったのだが、学生時代に社交ダンスに凝って、後年ダンス教師の資格をとった。卒業後何年かは帯広の中学校や高校で教員をやったが、どうしてもダンスをやりたくて退職し、1950年に祖父に頼み込んで店の二階をダンスホールに改造して「ダンスホール坂本会館」を開業したのである。(堅物の祖父がよくダンスホールの開業を許可したなと当時の話題になったそうだが、父は末っ子だし祖父が41歳の時の子だったから可愛くてしょうがなかったのだろう)当時は娯楽が少なかったから大流行したようで連日超満員であったようだ。渡辺淳一の小説「冬の花火」にも「坂本会館」が出てくるが、帯広の社交場だったようで、いまだに「お宅の会館で出会って結婚した」という人に出くわすほどである。

(父と母は1955年に結婚するが、母は留萌市で「ダイマル洋装店」を経営する上野家から嫁に来た。当初は洋装店の部門を伸ばすつもりで母と結婚したようであるが、強力なライバルの店が隣に出来ると、サッサと洋装店を廃業してしまうのである。時代に合わせて商売を変えていくのが103年も我が家が続いてきた大きな要因かもしれない。)

このダンスホールから火が出たのである。タバコの火が客席のソファーに落ちてそこから燃え出したようである。ホールだから空間が広く、防音の為に壁に「おがくず」を詰めていたから焚き付けと同じである、だから火はアッという間に燃え広がった。全焼である。1967年11月26日、私が小学校4年生の時であった。

この時の西2条南9丁目は立て続けに4件の火事があった年で、町内会でお祓いをしたくらい火事が続いたのである。不幸中の幸いか、我が家の火事では死傷者はゼロで類焼もしなかった。我が家の後に火事になった隣の店の火事の時には、我が家の跡地が緩衝地になったお陰で類焼を免れたと周りの店から感謝されるくらいであった。(でも、先に我が家が焼けていなかったら、西2条南9丁目全部が丸焼けになって再開発されていたかもしれない)何が幸いするかは分からないものだ。

1969年、この跡地に父が地下一階、地上7階建てのビルを建設した。寄り合い百貨店方式で運営する「サニーデパート」である。父は最初、相当に苦労をした。テナントがなかなか入らなかったのである。悪いことは重なるもので経理部長に建設資金を全額横領されてしまった。まさに踏んだり蹴ったりである。

弱気になった父はビルを売り払って別な仕事をすることを考えるが、こんな時に女は強いものである。母が開き直って、「いざとなったら家族7人くらい、洋装で喰わせることが出来るから、最後まで諦めないで!」と父にはっぱをかけたのである。それで奮起した父はテナントを何とか埋めて経営は徐々に安定してきた。(つづく)