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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-01-15-Tuesday 人間万事塞翁が馬 2

私は高校生の時に、将来プロマジシャンになりたいという目標を持った。

とにかくマジックに夢中になって、授業中も教師の話は上の空、一生懸命にマジックのネタを考案しては、東京のマジック用品販売会社「トリックス」に投稿を繰り返していた。この会社で私に親切に対応してくれたのが「布目貫一」先生で、布目先生は「浪曲奇術」という分野を創設した方として有名であった(競馬解説で有名な井崎脩五郎氏は子息)、残念ながら私が投稿したマジックのネタは一つも採用にならなかったが、あまりに熱心に投稿してくるから、「上京する機会があったら一度顔を出しなさい」と誘ってくれたので、高校2年生の時の修学旅行の時(5人のグループ行動であったが嫌がる4人を強引に連れて行った)に訪ねて行ったのであった。

トリックスは神田神保町2丁目にあったので、大学受験で上京した時も毎日の様に通っては道具を購入していた。帯広の自宅に戻る時にマジックの道具を一杯買い込んで帰ったので、父に「お前は一体何をしに行っていたんだ」と怒られたものだ。こんなことをしていたから最初に受験した大学は全部落ちてしまった。

父に「勉強し直して良い大学に入学するから一浪させてくれ」と頼んだら、「お前が、勉強などする訳がない。一年後は確実に今より頭が悪くなっているから、今からでも入学試験のある大学を探してとにかく入学しろ」と言われたのである。さすがは父親である。息子の性分を良く判っていた。きっと一浪していたら大学には入らなかった(入れなかった)かもしれない。(駒澤大学の二次募集があることが判って受験したが、受験日と重なり、高校の卒業式には出られなかった。)

入学が決まって上京すると、大学の入学式が始まる以前から、神保町の布目先生の所に通い出した。この店はプロマジシャンたちが道具を買いに来るプロショップといわれる場所なのだ。そこに居るだけで楽しくてしょうがなかった。

そんな客の中に当時はまだアマチュアであった「堤芳郎」さんがいた。4・5月と六本木に作曲家「いずみたく」の所有するビルの地下の「アトリエ・フォンテーヌ」という小劇場で「引田天功のマジック道場」という催しがある。プロとアマチュアが競演するから「君も参加しないか?」と誘われたのである。「まだ舞台経験も無いし、いきなりそんな舞台には上がれない」と固辞したのだが、「それなら私の助手(後見)をやってくれ」ということになり、「助手ならば」と引き受けたのだ・・・。

堤さんから、引田天功の弟弟子でジミー忍というマジシャンが舞台監督をやるので一緒に下北沢の自宅に挨拶に行こうということになった。当時私は下馬という三軒茶屋の近くに下宿していた。まだ地下鉄の二子玉川線が開通する前だったので、三軒茶屋からバスに乗って渋谷に出て、井の頭線に乗り換えて下北沢駅で降りた。駅で待ち合わせて(堤さんは池袋)二人でジミー師の自宅に向かったのである。初めてプロマジシャンの自宅に行くので、かなり緊張したことを憶えている。

北海道の片田舎から上京したばかりのマジシャン志望の青年としては、「引田天功」というのはすごいビッグネームである。上京したばかりで一緒の舞台に立てるかもしれないというのはものすごい幸運だと感じたのである。

ジミー師の第一印象はとても恐そうな人であった。挨拶すると「駒大か。私もコマダだ」と冗談を言った。師の本名は「駒田忍」というのである。「何処に住んでいるか」と聞くので「三茶の近くの下馬です」と答えると、「どうやってここに来たのか」と問う、前述したルートを説明したら、ゲラゲラと笑い出したのである。

下北沢と三軒茶屋は歩いても15分程度の距離で、しかも一本道であるというのだ。わざわざバスと電車を使ってお金を掛けて遠回りして来たのかと言うのである。上京してすぐだから土地勘もなく、公共交通機関の路線でしか移動ができなかったのである。

でもなぜだかそれがキッカケで気に入られて「これからは家も近いからどんどん遊びに来なさい」ということになったのだ。

何度か通う内に、「お前も演技者として舞台に立て」と言われたのである。それから猛特訓を繰り返して1976年4月26日の「引田天功マジック道場」が私の初舞台となったのであった。(つづく)