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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-01-16-Wednesday マジック 学生時代編 1

このアトリエフォンテーヌの舞台で引田天功の助手を務めたのが板倉満里子、後の、「朝風まり」であり二代目「引田天功」である。

彼女は私よりも一歳年下であるが、芸能界に入りたくて高校を中退して、親戚(天功師のマネージャーの森氏)が居る引田天功事務所に入ってきたのだ。だから彼女とは1976年の同期ということになるのであるが、この時点では彼女はまったくマジックは出来なかったのである。

彼女が後に「朝風まり」という芸名で1978年にデビューする前にジミー忍先生の自宅にマジックを習いに来ていた時には私も同席していたのである。

何故に初代天功さんが彼女に直接教えなかったのかといえば、天功さんはこの時期はマジックには不熱心で日本テレビ系での脱出マジックや催眠術にばかり関心がいっていたのである。だから、この時には私にとって引田天功という人はマジシャンではなく、有名な芸能人という感覚になっていた。

大学4年生の秋に、帯広に戻って(就職活動と称すると公然と授業をサボれる)「プロマジシャンになりたい」と父に言ったら、「バカヤロー」の一言だけで終わってしまった。このまま東京に戻したら本当にマジシャンになるのではないかと心配した父は、卒業試験の時だけ東京に戻し、それ以外は帯広の父の会社で働かされた(就活など当然やっていないから卒業しても雇ってくれる会社は既になかった)のである。

高校依頼の夢はこの時一瞬にして潰えたのであった。

しかし、旧知のマジシャン達からは「君はプロにならずに、今の職業に就いて正解だったね」と皆から言われる。一体どういう意味なのであろうか?・・・

私が大学4年生の1979年12月31日の大晦日に初代の天功師は45歳という若さで亡くなったがこの時に二代目襲名をジミー忍師と彼女が競うのである。

初代が亡くなる前に天功事務所を抜けていた彼女と森マネージャー(当時天功師には2億円と噂される借金があったようである)であったがテレビ朝日をバックに付けて1980年12月から二代目引田天功を名乗るようになった。

ジミー忍師は「引田忍」と改名し、「いずみたく」さん等と組んで「マジックミュージカル」という新分野を創り、全国各地を講演してまわったのである。後に「聖忍」と改名する。

(1995年に横浜で開催されたFISMというマジックの世界大会を見に行った時に、師の姿が見えなかったので連絡を入れたら、「顔を見せに来い」と言う。すぐにタクシーを飛ばして世田谷の千歳船橋にある「魔法の小箱」という師夫妻が経営する店に行ったら、「身体の具合があまり良くない」と言うのである。それでその年の秋に療養の為に十勝に夫妻をご招待することにしたのだ。トマムや然別湖などで一週間ほどのんびりと過ごしてもらった。

そのお礼に「マジックを演じる」と言ってくれたので、自宅に仲間を呼んでパーティを開催した。そのマジックを演じている時に「指先の感覚が無い」と嘆かれたのでビックリして、東京に戻ったらすぐに医者に掛かった方が良いとアドバイスしたのである。師は脳腫瘍と肺がんであった。結局これが最後の旅行になった。師は1996年5月11日に53歳という若さで亡くなってしまったのである。)

初代天功師には「利志美(としみ)」さんという助手(運転手)の人が居たが、彼も「引田」の名を貰ったのだが、「チャイナ・リング」という昔からある金属性の輪を何本か繋げる見栄えのしないマジックぐらいしか出来なくて芸能界から去っていったのであった。

私が学生時代に渋谷の東急デパートの東横店で「テンヨー」というマジック販売会社のディラーをやっていたのが「松尾昭(後のミスター・マリック)」である。テンヨーがマジックの百科事典の「ターベルコース」の翻訳本全8巻の内の第一巻を1976年に出版するというので渋谷のデパートに予約に行ったのが彼との出会いであった。後に彼はディラー仲間4人で五反田にマジックショップ「マリック」を開店する。ミスター・マリックの芸名の由来はこの店の名称から来ている。この店にも良く出入りをして、大学の後輩達を紹介したりしたものである。

マジシャンはゲームやパズルが好きである。私も大好きで、学生時代に札幌のいとこから教えられた「バックギャモン」というゲームにはまってしまった。このバックギャモンの販売普及をしていたのが「テンヨー」なのである。

大学を卒業してから、父に頼み込んで父の会社「サニーデパート」の一角に「マジック・コーナー」を造らせて貰った。さすがにそれくらいは許可しないと何をしでかすか判らないとでも思ったのであろうか、それとも自分が「ダンスホール」を祖父に開業させて貰った時のことを思い出したのであろうか。

このマジックコーナーの開店でテンヨーの人達との繋がりが出来た。でも、彼等と会ってもこの時期は全員マジックよりもバックギャモンに夢中で会えばこのゲームばかりをプレイしていたものだ。

温泉地に全国各地からプレイヤーが集合して徹夜で地区対抗の大会をやったりしたものである。(つづく)