«前の日記(■2008-01-16-Wednesday) 最新 次の日記(■2008-01-18-Friday)»
 | トップ |  | ビル概要 |  | テナント構成 |  | 沿革 |  | アクセス |

観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-01-17-Thursday マジック 学生時代編 2

駒澤大学に入学して最初に行なったことは「手品奇術研究会」に入会したことだ。

大学案内には「マジッククラブ」があるとは載っていなかったので、自分で創設するつもりでいたのだが、入学式の会場に向かう途中に「手品」の看板のある出店を見つけて、入学式に出席する前に入会申し込みをしたのである。

申し込み時に「小学校の時からマジックをやっている」と言ったら、ものすごく期待されてしまい戸惑ってしまった。先輩達は皆、大学に入ってからマジックを始めた人ばかりだったからだ。入学式の間中「しまった。マジックを教えてもらえることは少ないかな、早まったかな」とも考えたのだが、クラブ活動をするのも面白いかと思い直してそのまま入会することにしたのである。

4・5月は「引田天功のマジック道場」への出演があるので、大学のクラブの練習はそこそこにして、ジミー忍師の自宅に通って稽古をしていた。その内に事情を知らないクラブのヘッドである3年生の幹事長の河合一博さんと副幹事長の西村道治さん(わが部では部長とは呼ばないのである)の2人が、他のメンバーに示しがつかないからと、付き合いの悪い生意気な後輩である私に意見をしに来たのである。事情を説明すると、逆に是非ともジミー忍師に会いたいから紹介しろと師の自宅までくっ付いて来たのだった。

当時の駒澤大学のマジッククラブは、「(関東)大学奇術連盟」(早稲田、慶應、明治2、中央、法政2、立教、日大芸、日大歯、神奈川など10校12クラブが参加していた)と言う団体に入りたかったのであるが、技術が不足しているという理由で入会を認められていなかったのである。先輩達は相当悔しい気持ちを持ってクラブのレベルアップをしたいと考えていたのである。

ジミー師も「(学生が)助手として手伝ってもらえるなら」と駒澤大学手品奇術研究会(KMC)とジミー忍師との長い付き合いが始まったのであった。

私は「お坊ちゃま」だから辛い下積みの仕事は、3年生の先輩2人にちゃっかり任せて、もっぱら師の自宅でビデオを見ながらマジックの研究をしていたのである。先輩が卒業してしまった後にはすぐに一年後輩の伊藤好喜くんを引き込んで下働きをさせていた。一番楽をして、一番良い思いをしていたのが私なのであった。

ジミー師の影響を受けた3年生の2人の幹部は1976年11月19日(金)に渋谷東京都児童会館ホールで開催した発表会「第5回マジックショー」では司会を「駒澤大学放送研究会」に依頼し、BGMを「駒澤大学軽音楽部ジャズ研究会」に依頼して全員の演目をジャズの生演奏をバックにして演ずるという画期的な試みを行なった。私も一年生ながらオープニングの演目と第一部のトリを「ステッキのプロダクション」で演じた。集団で何かをやり遂げる事の楽しさや達成感を感じたものだ。

翌1977年12月1日(木)渋谷東京都児童開館ホールで開催した2年生時の発表会「第6回マジックショー」の第2部で、私が考案・演出をした「ストーリー性のあるマジック」の実験を行った。「洒落たレストラン」という場所設定で、店員と客の数人が交互に物語に添ったマジックを展開していくのだ。私はレストランのボーイの役で、ビールやワインを沢山取り出すマジックを演じた。当時としては斬新な企画と演出で評判も上々であった。

これに気を良くした私は、来年(3年生時)の発表会ではもっと面白い実験をやろうと、1年前から「ストーリー性のあるマジック」「キャラクターに演じさせるマジック」「従来型のマジック」の三部構成にしよう等と色々と考え出し始めたのである。

もう一方で長年の懸案だった「大学奇術連盟」への加入問題を解決しなければならなかった。そんな折に、専修大学マジッククラブの薩洋一さん、岡嶋良明さんという同年代の仲間と知り合ったのである。意気投合した三人は「SOSトリオ」と称して、「大学奇術連盟」に対抗する新しい団体を立ち上げようという話になっていった。関東には大学奇術連盟に入れてもらえない大学が10校ほどもあったのだ。これらのマジッククラブの人達に呼び掛けを始めたところ、最初に千葉大学の長尾年恭さんが賛同してくれて、彼の人脈から東京大学、東京女子、工学院、学習院など7校が参加してくれることになった。半年間ほどの準備期間を終え、最初の結成式を1979年5月12日に駒澤大学の教室で開催し「Magic Communityマークル」と名付けた団体を旗揚げして、初代の会長には駒大の一年後輩の伊藤好喜くんを就けた。12月13日には新宿四谷公会堂で「第一回マークル合同発表会」を開催するまでになったのである。

伊藤くんにはジミー師の助手をやらせ、私の後継者にするべくマジックの指導もしたのだが・・・

1年間の準備を行なって万全の体制で臨んだ3年生時の発表会が、彼の思わぬ行動でメチャメチャになってしまったのである。(つづく)