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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-01-20-Sunday 人間万事塞翁が馬3

大学では授業にはほとんど出ることなくマジックばかりに明け暮れていた。

正午頃に起きてブランチを食べ、3時に銭湯に行って一番風呂に入る。5時頃に大学に行って7時頃までマジッククラブの練習、夕食後にジミー師の自宅に行ってマジックの研究、もしくは師の助手としてのバイトをやって、夜中の2時頃に帰宅というような生活パターンであったのだ。いまだに「単位が足りない!卒業できない!」という夢でうなされることがあるほどである。何とか無事に大学を卒業した(4年で卒業出来たのはマジックだと言われている)私は、(プロマジシャンになろうと思って就職活動などしていなかったから)父の会社に入るしかなかった。父の会社「坂本ビル株式会社」は1969年10月にオープンした寄合百貨店サニーデパートを運営していたが、オープン以来1977年まではテナントが埋まらずに苦労の連続であった。

私がまだ大学2年生時の1977年にサニーデパート4階のほぼワンフロアー全部(約200坪)を帯広市内の老舗書店が借りてくれて帯広で一番大きな本屋が誕生した。巨大本屋の集客力は抜群でいわゆるシャワー効果というやつで下の階のファッション関係のテナントも大賑わい、ビルも入居率100%で大盛況であった。この頃から1983年までの6年間が我が社の全盛時代であったように思う。

当時の西2条南9丁目は我が社の向かい側に、藤丸デパート・金市館・長崎屋の大型店があり、横には帯広千秋庵(現:六花亭)や篠河洋装店、とくら洋装店など個性的な店が集まっていた十勝一番の繁華街であった。1975年に西3条南9丁目にイトーヨーカドーがオープンし相乗効果で更に中心街は盛況になっていったのである。

帯広では買い物に行くことを「まちに行く」という表現をしていたが、この「まち」とはすなわち西2条南9丁目のことを指していたのである。

ヨーカドーや郊外に進出したニチイ(1979年オープン)に対抗する為、向かいにあった藤丸デパートが1982年3月、一丁北側の8丁目に大きな再開発ビルを建てて移動した。その旧藤丸ビルには北海道拓殖銀行が入ったのであった。

それまで帯広にライバルの少なかった貸しビル業界であったが、人が中心街に集まってくれば、古い建物を取り壊して新しくビルを建てたくなるのが人情だ。1983年になると次々と新しいビルが中心街に建ったのである。だが、貸しビルを建ててもテナントがそうそうあるわけではない。そこで新しいビルはサニーデパートのテナントに目をつけて引き抜きに掛かってきたのである。そして遂にサニーデパートの3階でファンシーグッズを販売していた会社を引き抜いていったのであった。

このファンシー会社は1976年に某自動車会社のディーラーをやっていた当時28歳の男性が嫁さんと心機一転、「会社を起こしたい」と父のところに飛び込みでやってきて一番初めはわずか一坪の店からスタートしたのである。本屋に来る中高生の客層とマッチして、相乗効果で本屋もこのファンシーグッズ販売の店も共に大盛況を続けていったのである。店をドンドンと大きくしていき、しまいには3階フロアーの半分を埋めるほどにまでなっていたのだ。

そのファンシー店を新しいビルのデベロッパーが、問屋などに手を回して1983年のオープンの時に引き抜いたのである。

引き抜かれたサニーデパートの方も相乗効果が薄れて本屋は客が減り始めてきたし、空いた場所(3階)は容易に埋まらない状態が続いたのである。

引き抜かれて新しいビルに移ったこのファンシー店も、単独での集客力は弱かったから客はほとんど入らなかった。やがては、この新しいビルの家賃も払えない状態に陥って結局は退店、夫婦は離婚、本人は札幌に行ったが、後年、自らを殺してしまった。

結局、この引き抜きは誰も得をしなかったのである。ただ、前途有望な人間の未来を潰しただけの無責任な引き抜き劇であったのだ。