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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-01-22-Tuesday 人間万事塞翁が馬5

サニーデパートはどん底の状態になった。

地階は(1985年から)空いたままだし、5階の美容室も1987年1月に退店した。3階のファンシー店の退店(1983年)以降少しずつ店舗の縮小を続けてきた4階の本屋も、ついに1988年3月には結局全部門が退店して向かいのビルの1階に移転してしまった。

それと機を合わせるようにしてほぼ同時に2階ワンフロアー全部を使っていたファッション店が退店、1階の半分の面積を占めるファッション関連店舗、数店も退店してしまい、1988年はまさしく櫛の歯が抜けるがごとくにビル全体の入居率は10%程度にまで落ち込んでしまったのである。

何とか早急にテナントを誘致しなくては、このままでは倒産しかねない。あらゆるチャンネル、人脈を使って東奔西走し、数十社との入居交渉をおこなっていった。

デパートなどとはとても恥ずかしくて名乗っていられる様な状態ではないし、もはや物販だけではテナントを見つけることは不可能だと感じて「サニービル」と名称を変更し、5階ワンフロアーを3月から「塾」に貸すことに、6月からは地階のワンフロアーを「居酒屋」に貸すことにした。

夏には1階の半分と2階全フロアーを借りてくれる大型スポーツ店を見つける事が出来たが、このスポーツ店と契約を結ぶには1階にバラバラに残ったテナント数店を北側半分に集約する交渉をまとめなければならない。何とかテナントの協力を取り付け大型スポーツ店との契約にこぎつけ9月1日にオープンすることが出来たのである。

この時点では何とか地・1・2・5階を埋めることが出来たものの、3・4階は依然として閉鎖したまま、一息ついて何とか食べていけることは出来るが将来展望も開けない情けない状態が続いたのであった。

市内のビルの供給過剰状態は依然として改善されないどころか、1990年11月には帯広駅南側に長崎屋が巨大な店舗を建てて移転し、サニーの向かいにあった長崎屋が入居していたビルが空きビルになって、ますます貸しビルの供給過剰状態が増えたのである。中心街のビルはどのビルもテナントが少ないガラガラの状態であった。

1991年11月に社長である父が突然倒れた。肝臓癌の末期で余命3ヶ月との医者の診断であった(実際には半年持ちこたえた)が、1992年5月2日に亡くなってしまった。

そんなバタバタしている状況の中で(1992年5月)今度はスポーツ店が丸ごと引き抜かれてしまったのである。

父である社長が亡くなって、再び倒産の危機が訪れた。サニービルのテナントは5階の塾も退店(1993年4月)して、サニービル内はガラガラで再びどん底の状態に戻ったのである。

『こちらは旅費を掛けて、交渉し、帯広の優位性を説いて、出店してもらうのである。だが折角入居してもらっても、オープンの翌日には「サニービルよりも家賃を安くするから移転しないか?」という他ビルからの攻勢が始まるのだ。』そんなことで移動させられるなら他のビルにとって、こんな経費の安いことはない。新規テナントも、もともと義理があって帯広に出店している訳ではないから、家賃等が安い方が良いと簡単にソロバンをはじいて移転して行く。物販店は、什器備品を取り外すのが容易で簡単に移動することが出来てしまうのである。

入居したテナントを横取りされてしまうのはもう御免である。なんとか簡単に引き抜かれない方法はないものかと、あれこれと思案する日々が続いたのであった。

そんなある時、地下の居酒屋の社長が、飲食店ビルに変えてはどうかと言ってきたのである。