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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-01-23-Wednesday 人間万事塞翁が馬6

飲食店は物販店などに較べると賃貸料が安目である。

しかし、飲食店は厨房(上下水道・ガス等の配管、床の防水工事など)に経費を掛けるので、物販店の様に什器備品を運んだら簡単に移動できるという訳にはいかない。「そうか、飲食店ビルにしてしまえば引き抜きは難しくなるな!」と思ったのだが、サニーデパートというくらいだから、元々飲食店ビル用の設備はしていないのである。給排水、冷暖房、電気や給排気などの消防設備も大掛かりな大改造をしなければならないのである。また法律上では用途変更やら何やら書面上もとても面倒な作業をしなければならないのだ。

改築に掛かる費用は気軽に工面出来るような金額ではないから、金融機関と交渉して莫大な金額を借りなければならない。

「前社長が亡くなり、後を継いだ新社長が先代を超えようと焦って、すぐに新事業に手を出し、会社をダメにした例を数多く見てきた」から一年間(1992.5〜1993.5)は「死んだ振り」して大人しく周りの人達の言動を眺める事にして、自分の頭の中だけで計画を組み立てていた。

このままでは明日にも倒産かという切羽詰った状況だったのだが、何故だか不思議と冷静であった。「人生成るようにしか成らん!」と開き直っていたのである。

サニービルの東側隣接地126坪の土地に祖父が1929年頃に建てた二軒長屋の2棟4軒分の貸し家があった。1967年11月の火災の時にも延焼を免れた建物である。このテナント3軒(1店舗は1棟を使用)が相次いで(1994年1月・11月、1997年9月)退去すると言ってきたのである。この木造貸し店舗がサニービルの東側を塞いでいたので、暗い2m幅の通路(二軒長屋の真ん中の通路)しか取れずに、これまでビル東側に展開している飲食店街とのつながりが悪かったのであるが、これを取り壊したことで見通しが良くなってビルの通り抜け客が増えたのである。父の生前に長年の懸案事項であった貸家建物の問題が、父が死んだ直後に解決したのであるから皮肉なものである。

1994年4月末の父の三周忌を終えた後から、飲食店ビルへの本格的な変更に着手した。サニービル全体を飲食店ビルにするには、1階に数店残っている物販店には退店してもらわなければならない。最後まで残ってくれた方々に、こちらから「退店して欲しい」と言うことはとても心苦しいことであったが、交渉を開始し、了承を取り付け、契約を終了させていった。

改築工事は大工事であった。2台のエレベーターを付け替え、地階〜5階まであったエスカレーターを撤去して、その床穴を埋めて貸し出し面積を拡げ、使い勝手を良くした。

設備等も入替えを済ませて飲食店ビルへの衣替えを大々的に開始したのである。

事前の広報も抜かりなくおこなった。友人の新聞記者に「ビルの名称をサニービルから坂本ビルに変更する。その理由は物販ビルから飲食ビルへの大変身である。」と言って記事にして大きく取り上げてもらったのである。効果は抜群であった。すぐに大手の居酒屋チェーン店の社長数人がじきじきに訪ねて来て、ワンフロアー全部を借りたいと申し出てくれたのであった。そうなると地階・1階・2階・3階の4層にワンフローアー約200坪ずつの巨大な居酒屋が4軒入ったビルが誕生することになる。こんな集積をしたビルは当時の日本にはまだなかったのである。

ところがここでまた問題が発生したのだ。