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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-01-25-Friday 社史を書く

ここまで、過去の内容を書いてきて、ふと思った。

帯広の開拓の始まりを、依田勉三の率いた「晩成社」からだとすると、入植の始まりは1883(明治16)年のことであるから、今年で125年と云うことになる。そんな帯広で創業100年以上の会社が、はたして何社ある(残っている)のであろうか?

恐らく片手で数える程しかないのであろうと思う。

我が社は祖父が十勝(池田利別)で創業して今年で104年目(1904年明治37年創業)、帯広に移ってからは103年目になる。

そこで、来年の創業105年を記念して社史(のようなもの)を刊行できないかと急に思いついたのである。

一遍に書く事は難しい。何から手を付けたら良いのかも判らなくなる。しかし、このブログ上で毎日1000〜1200字程度の文章を書く事なら可能に思えてきた。

一年365日×1000字なら一冊の本にするには充分過ぎる分量だ。歴史的なことばかりを書いてもブログがつまらなくなるから、無関係の雑感的なことも書いていきたい。最終的に不要な分を省いて編集すれば一年後には丁度良い分量になるだろうと思う。

思い立ったら吉日。早速今日から、始めることにする。

まずは祖父「勝」(1886.9.1—1953.1.19)のことについて書き始めたいと思う。

父は末っ子で祖父が41歳の時に生まれた子であり、祖父は67歳で亡くなったから、父も祖父の過去についてはあまり詳しくは知らなかった様である。母は祖父が亡くなってから嫁いで(1955.4.13)来たので祖父との面識はまるで無い。

私が子供の頃に父と一緒にお風呂に入ると、必ず我が家の昔の話を何度も聞かされて育った(たぶん私に跡取り息子としての教育をしていたつもりなのであろう)ので、私が憶えている範囲(ところどころは想像力で補って)で書いていくことを最初にお断わりしておく。

祖父「勝」の生家は「山梨県北巨摩郡安都玉村」で農業をしていた坂本繁八・かめの、の長男として1886年9月1日に生まれた。一人っ子であった。祖父は農家になるのが嫌で、水晶加工や印鑑を彫る技術を身に付ける為に甲府に通っていた。1900年13歳頃のある日のこと、その店に北海道から藁筵(わらむしろ)一杯に入った「黒い石」が届いた。黒曜石という縄文時代の矢じり等の石器に使われている石である。「北海道の十勝という場所には、この黒曜石がゴロゴロとそこ等辺りに落ちているらしい」という話に目を輝かせて「北海道に行けば、この石がいたるところに転がっている。それなら、この石を活用すれば材料費が掛からないから儲かるのではないか?」と考えた祖父は、まずは北海道の十勝へ下見に行く事を決め、翌1901年14歳の時に初めて十勝に入ったのであった。今考えてもものすごく行動的な人だったなぁと思う。

祖父の生まれ育った山梨の北巨摩郡は平たい場所が無い山間の村である。十勝平野の広大さにすっかり心を奪われ、自分の名前が入った地名に縁を感じた祖父は移住を決断する。下見に訪れた十勝池田利別で同郷の山梨の出身者を探したところ金物屋をやっている「カネヨ佐藤喜与丸商店」という店があったので、この店に世話になる約束を取り付けた祖父は、一旦山梨に戻って準備をしてから再び北海道の十勝を目指したのであった。ちなみに同じ頃、この佐藤喜与丸商店に草鞋を脱いだ同郷のものが多くいて、池田町駅前の「米倉屋」もその一人である。

わが家にある北海道庁殖民部発行の明治36年版「北海道渡航案内図」(額装して会社に飾ってある)によると、甲府—青森間は汽車が走っていたが、青森−函館—広尾—大津間(料金表によると函館—大津間の料金は三円)は船で渡るしかなかった。大津から十勝川を遡り(陸路がまだ整備されていなかった)、池田利別に入るのである。十勝川と利別川の合流地点であった利別の方が地の利がよく、当時は帯広よりも栄えていたのである。

今から27年前の1981年に父が、私と一緒に我が家のルーツを辿っておきたいと言い出した。甲府の取引先に依頼して、我が家に残っていた祖父の戸籍謄本の住所(当時の地名の安都玉村が高根町に変更されていたので判らなかった)から祖父の生家を割り出してもらい、訪ねる約束を取り付けたと言うのである。11月に親子2人で山梨に向かったのであった。