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観光カリスマ
坂本和昭のブログ


■2008-01-26-Saturday 坂本勝玉堂1

祖父は山梨の生家とはまったくの没交渉であったという。

なぜ、やりとりが無くなったのか?11月に訪ねた祖父の生家の後を継いでいる坂本家の人に話を聞いた。

祖父は北海道への渡航費用を捻出する為に、勝手に田畑の一部(さすがに全部は売らなかった)を売り払って資金を作ったのだと言う。更に、祖父は本家の一人っ子であったにも関わらず、家の跡を継がずに北海道に行ってしまったので、仕方なく分家から養子をもらい、坂本家を今日まで繋げてきたのだと。

祖父の側から言わせると、帯広で成功したので両親を北海道に呼び寄せようとしたのだが「蝦夷地なんぞに行けるか」と拒否されたということになっている。立場が変わると解釈も変わるものである。

祖父は1904(明治37)年18歳で北海道中川郡凋寒村大字凋寒村字利別太大通六丁目十九番地に印判店「坂本勝玉堂」を開業した。父は生前、祖父が最初に店を開いたこの場所を探したいと言っていたのだが住所が判らなかったのである。この住所は、父の死後に私が古い資料を整理していて、油紙に包まれた祖父の古い(1933(大正8)年発行)戸籍謄本を発見したのであるが、その中に書かれていたことで判明したのだ。

この戸籍謄本の発見によってこれまで不明であったことがいくつか判ったのであるが、たった三代100年のことでもこれだけの謎があったのだから、記録はしっかりと残しておく必要があると感じた。

帯広の発展には鉄道の開通が大きな要因となっているが、この鉄道の建設はまず旭川—帯広間の「十勝線」が1897(明治30)年6月に旭川側から着工した。次に釧路—帯広間の「釧路線」が1900(明治33)年4月に釧路側から着工して、共に帯広に向けて線路の敷設が始まったのである。「十勝線」は狩勝峠のトンネルの難工事に手間取り工事が予定より大幅に遅れていた。

「釧路線」は1904年12月には利別まで開通し、翌1905年10月には帯広まで開通した。

帯広—釧路間の交通は便利になったが、大都市札幌や北海道の入り口函館へ続く「十勝線」は「狩勝トンネル」が未完成でまだ帯広には通じていなかった。1907(明治40)年9月にようやく十勝線と釧路線が繋がり、これによって帯広の立地条件は格段に上がっていくのである。明治39年末の人口を比較すると、利別(凋寒村)は7165人、帯広は4249人、十勝の中で一番栄えていたのが利別であった。後の「網走線」の分岐点予定地も明治40年の着工の際には隣の池田に移されてしまい利別はしだいに寂れていったのである。

祖父は、これからは帯広だと考え、1905年の釧路線の帯広開通に合わせて、帯広町西2条南4丁目20番地に店舗を移転し、印鑑以外に十勝石細工品、カレンダーや団扇等の商売も始めたのである。

ここで「十勝石」という名称が出てくる。父からは祖父が黒曜石を十勝石と名付けたらしいと聞かされていたのだが、2007年12月26日の北海道新聞の日曜版に「幕末の探検家、松浦武四郎の十勝日誌の中に「トカチ石」の記述が見える。これが最初の記録らしい」と載っていたので、早速「十勝日誌(1858安政5年)」を調べてみると確かに「此処トカチ石(黒石)の名品有て、中州に舟を繋げて是を探すに、暫時に十余を拾ひたり。中に虎斑(とらふ)白筋の二種有。尤も愛すべき物也。」という記述を見つけた。つまり、祖父は名付け親ではなく名を広めた人間であったということだ。祖父はこの「黒い石の輝きに心を奪われ」全国各地に(北海道物産展のはしりか)出向いては十勝石の普及に努めたのだと父に語っていた。

因みに十勝石細工品は明治31年頃に十勝監獄の分監御用商人林長太郎が囚徒に加工させ、売り出したのが始まりと言われている。

皇太子(後の大正天皇)が1911(明治44)年9月2日に帯広に行啓された折に、お買い上げになった二種類は馬一頭と十勝石細工品(硯2面、兎文鎮2個)であったが、この十勝石細工を謹製したのが祖父であった。尚、この時には他にも十勝石2個を十勝国各町村連名で贈っている。この年(明治44年10月5日)の帯広興信所発行の商工業家所得税負担額表に「坂本勝、六円」の記述が見られる。